私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

直島に行きました。私は美術館に行く資格がないのでしょうか

2016-10-15 14:49:48 | 日記

 あまり美術には縁がないのですが、美術館には時々ですが足をのばします。林原、県立、博物館、時には、大原、井原、笠岡、成羽、新見等県下の美術館と名のつく所には、たまにですが、訪ねています。「何がそんなに面白いの」と山の神さまにはけなされつつですが、・・・時間の暇と老人料金が安い特権を利用して。つい先日は浦上玉堂の絵を見て来ました。

  それはそうと、この前、一度「直島」に行ったのですが、ここは何やら、けったげな???おっと失礼な云いかだですが、いいのか悪いのか、果たして、これが美術なのかと疑わしいような数々の美術品に接し、なんとも不思議な、急に高い所に放り投げらたようでもあり、また、反対に、地獄の底に突き落とされたかのようでもあり、それらが絡み合って、誠に心の中を、軽く、そして、重たい気分にさせてくれました。到底、二度と行ってみたい気分にはさせてくれませんでした。と、云うことは、大勢の人が真剣に島全体の中にある数々の作品を見ていらっしゃるのですが、それが美術だとは思えない、ひねくれ男の私には、現代美術への鑑賞眼がなく、そんな美術展覧会なんかに行く資格がないのでしょうか。お教えくださいますと幸せです。


「反正陵」と「造山古墳」

2016-10-15 07:41:31 | 日記

 昨日、「履中」、即ち、「讃」は吉備の大王の娘「黒媛」のお子だと書いたのですが、それに対して、反対の意見もあるようです。それは、「讃」(履中)は日本書紀にも、「ちゃんと、磐之媛のお子である」と書いてある。だから、黒媛のお子ではないと。
 
 宋書によると、「讃」の次の王を「珍」だとしています。この「珍」は、日本書紀の「反正天皇」です。この「反正」こそが黒媛のお子で、吉備で生まれて、直ぐに淡路に移され、そこで成人したのです。日本書紀には

                           “初生于淡路宮、生而齒如一骨、容姿美麗”

 と書かれております。
 「淡路島でお生まれになり、その容姿は大変麗しかった」と。履中と同母弟とも書いては有りますが、磐之媛が淡路島に住んだと言う事実は有りません。また、その母である磐之媛が大変美しかったとも云い伝わってはいません。だから、わざわざ、その子が

                           “容姿美麗”

 であると書かれたのには、他に何か理由がそこには有る筈です。これは、暗に、当時、大変な美女であったとされる「黒媛」がその母親だったと言う事を指し示しているのだと思われます。そう考えてみれば、この「反正」こそ「黒媛」のお子様であると云う事を指し示しているのではと考えられます。なるほど、そう聞けばその方がより真実に近いような気もしますが、どうでしょうか????

 それから、また、こんな事も云われるのです。

   吉備にある「造山古墳」は「履中天皇陵」と、大体、同じ時期に造られた大きさも同じくらいな大古墳です。しかし、反正天皇陵は他の天皇陵と比べるてみても、どうしてかはその理由はわからないのですが、大変小さな古墳です。ちなみに、その母であるとされている磐之媛命陵と比較しても小さいのです(全長219mと148mの前方後円墳)。そこには、磐之媛の何らかの意識があったと思われます。それを知った反正天皇の真の母親である黒媛とその一族(吉備海人部直)は大いに憤慨して、その父「仁徳陵」には及ばないまでも、せめて、兄の履中陵と同じくらいの墓、そうです、古墳の建造を思い立ち、吉備の総力を掛けて作り上げたのです。それが「造山古墳」なのです。また、それだけの力が、当時の吉備には有ったと言うことが伺えるのです。

     どうです。壮大なる吉備を語るお話ではありませんか????今まで誰もが思いもしなかったロマンいっぱいのお話ですが、どうお思いでしょうか。ご感想を!!!!!