昨日、筆敬さんのご注告を載せたのですが、彼の事を物知りだと褒めすぎたのかもしれませんが、再び、彼から、
「・・・・・・おめえは これも しりゃあへんじゃろうと おもうて、けえてえたら・・・・」
と、「なあがなあが」はなく、簡潔に書いてきてくれました。これも又横道ですが、書いてみます。
曰:「殊号事略」と云う新井白石の本に
『異朝の書に、「倭国王上表して、天子詔書を之に賜ふ」などとありますが、この「表」とは、臣下が天子に奉る書を云い、また、「詔」というのは、天子から臣下に賜る書を云う』
と。
この昨日今日2つのお教えから考えると、それまで、倭の五王からの書は、すべて、「表」の字があり、臣から奉ったもので、礼儀を尽したものであったのですが、聖徳太子が遣わした国書には、宋国、倭国いずれも同等に「天子」と書かれてあり、上表文ではなく、随王煬帝は倭国王を、当然、自分の臣下と思っていたから、これは、はなはだ、けしからぬ許すべきことではない「このような礼を失した書は、以後、決して私の眼には触れさすべからず」と、怒ったのだ、と分かりました。「日出處」「日沒處」の言葉に対してではなかったのだと。