私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

「讃<サン>」とは、宋の国に貢物をしてきた倭国の王の名前です。

2016-10-13 18:41:48 | 日記

 この倭の大王「讃」とは誰でしょうか???これ、又、幾通りかの解釈があるようですが、現在、大方の見方は「履中天皇」であるとされております。彼は磐媛の嫉妬を恐れて吉備の国に帰った黒姫伝説の仁徳天皇の第一子です。年代は420年ごろです。

 この「讃」と同じ時期に、吉備の大王が居たのは確かです。彼の名前は不明です。その当時、倭の国内で何が起きていたのか、そこら辺りの日本歴史については謎につつかれた時代と云われ、霧の中に隠れて、よく分かってはいません、が、相当な権力を握っていた王がこの吉備にいたのは確かです。その時の吉備の大王の墓が、今、岡山市新庄にある「造山古墳」です。履中天量陵と同じ大きさを誇る古墳です。420年頃の古墳です。

 420年頃が共通ですから、この宋書に書かれている「讃」は、「もし」と云う言葉を使うならば、吉備出身の大王が、その後、大和に進出して倭国の王になったのかもしれませんが?????
 その根拠はと問われそうなので、答えておきます。それは仁徳天皇が、吉備に、その思い人「黒媛」を訪ねた時に出来た皇子だと言うのです。
 
        おっとっと、こんな説を吉備人の中には、ささやいている人もあるようですが、どうでしょうかね????????????????

 


「又」が4度目の横道です。倭国の様子

2016-10-13 09:26:15 | 日記

 「<又>が4つありゃあ、そりゃあ<叕>という字になるんじゃ。ツヅルと読むんじゃ。何でもお前の思うようにツヅリャアえんじゃ」と云う訳ではないのですが、宋書にかかれている「倭の五王」について少々書いてみます。「宋」と云うのはあの栄西が禅宗を日本に持ち帰ったあの「宋」ではありません、南北朝時代のの「宋」です。(420年ごろ)

 その頃の日本は「倭」国と呼ばれていました。宋書の「倭国伝」に出ています。その200年ほど前の[魏志倭人伝」にある女王「卑弥呼」の記述とは違って、実録性の高い記述が見られます。

 ちなみに[魏志倭人伝」の書き出しには、

   “倭人在帯方東南大海之中依山鳥為国邑旧百国漢時有朝見者今使訳所通三十国”

 それが宋書には

  ”倭國在高驪東南大海中世修貢職高祖永初二年倭讚萬里修貢遠誠宜甄可賜除授”

 ここにある「宋の永初二年」というのは421年です。国王高祖武帝は云います。

 『倭国の王「讃」が万里はるばると貢物を持ってきた。そのような遠いところから貢物を持ってくると言うことは顕彰に値すろことだ。よって、称号を与えなさい』

 と。これが宋書「倭国伝」の書き出しです。