「臣雖下愚」と宋王に宛てた「武」からの上表文ですが、その続きを次のように書いております。
“道逕百濟、裝治船舫”
「我が国から宋の国までは、遥か百済を通りますので、船を整え航海の準備をしております。」と。
なお、この時期、日本から中国に行くのには朝鮮半島の百済経由で航海するのが普通の航路だったのです。それについて、また、例の筆敬さんのご厄介になるのではないかと思い、私で調べました。
中国の「文献通考」と云う本に、
“倭人初通中国也、実自遼東而来、至六朝及宋”
「倭人は最初は、中国に渡るには、まず、遼東経由で、それから六朝及び宋に来る」
と、書いてあり、当時の日本から中国までの航路は、まず、百済に渡り、それから渤海を通り、遼東半島を経由して中国に至ったと言うことが分かります。九州から、直接、東シナ海を渡り明州など揚子江岸に至る航路の開発は遣隋使を派遣した600年頃以降だとされます。
それによって、宋書に書いてある“道逕百済”の意味がはっきりと説明できるのです。