「武」から宋王に遣わされたとされる上表文だろうと思われますが、宋書に書かれております。
“臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極”
(臣、下愚<カグ>なりといえども、忝<カタジケ>なくも先緒<センショ>を胤<ツ>ぎ、統<ス>ぶる所を驅率<クソツ>し、天極<テンキョク>に帰崇<キスウ>す)
「私は はなはだ愚か者ですが、先の王の後を継承して自分が統治する所を懸命に守り、天子に仕えようとしております」と云う意味です。あの雄略の上表文です。「臣雖下愚(愚か者ですが)」と書かれ、あまりにもへりくだったものになっておりますが、当時の国際関係から見ると、それくらいの力しか倭の国にはなかったのでしょうか???
それから100年後の聖徳太子が小野妹子を隋に派遣した時の上表文と比べてみてください。
“日出處天子致書日沒處天子無恙”
両国とも、同じ「天子」です。愚か者どころではありません。その書きぶりに大きな違いがあるのが分かります。