「スサノヲはオホクニを殺そうと思っていなかった」と書いたのですが、どうでしょうか??少々あやしくなってきました。というのはスセリヒメが泣きながら来た時です。
“其父大神者。思巳死訖<スデニ ミウセリト オモホシテ>”
とあります。「訖」ですが、「おわる」「終了する」「ついに」「とうとう」等の意味があります。と、いうことは、「ネズミはスサノヲが・・・」と書いた私の仮説はどうも誤りだったのではないかと思われますが??? どうでしょうかね。それはそうとして、この後に書かれている文章が、大変な臨場感のあふれたものであり、いつも感心して私は読んでいるのですが????
この場面(ヒメが大声を上げて泣き叫びながら、父スサノヲとの対峙している)を、もし、映画などで俳優さんが演じるとしたら、難しい演技が監督さんから要求されるのでは??愛すべき父親です、でも、夫を殺した殺人者でもあるのです。喪具を手にして、ただ、哭するのみです。何処を向いていればいいのでしょうか。体に力もなく、立つでもなく座るでもなく、うつろな目をして、思うのは愛しい夫オホクニの面影だけです。また、その娘の姿を見ているスサノヲの思いは・・・・・・・時間にすると、どれほどの時が流れたことでしょうか???ほんの数分もあったでしょうか・・・その時です。何処から現れたのか、突然に、オホクニがそんな二人の前にすっと音もなく姿を表します。それを
“出立其野<ソノヌニ イデタタセバ>”
とだけ。
その時の父と娘の顔は・・・。そんな余談なことは一切何も書いてはいません。総て読者の頭の中で画かしておるのです。このあたりの構想が名監督の映画と似ている手法で読む人を、奈落の底ではないのですが、その場にいるような思いに曝すのです。たった4字の中にです。どのような名監督でも、決して演出することができないような描き方です。
本当に、「文字」とは、神秘なる途方もない魔力を持っているものげすね。それがよく分かるのが万葉仮名で綴ったこの「古事記」よね。日本の名著なる所以です。