私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

枕草子の「おれ」について

2017-09-21 20:03:15 | 日記

 もう一度書きます。

          “郭公、おれ、かやつよ

                       おれ鳴きてこそ、我は田植うれ” 

 とです。

 「ほととぎすよ!!!おのれが、そうだおめえが、そんなに激しく鳴くから、私たちが田植えをしなくてはならないのだ。此の憎たらしい鳥めが」

 という、ホトトギスにかこつけて当時の早乙女たちが唄ったじゃれ歌「労働歌」なのです。これを清少納言が賀茂神社に参る時に聞いて書いているのです。

 でも、その歌は、「郭公」が大好きだった清少納言にはとても聞くに堪えないような歌に思えたのです。それが「憎けれ」です。では、どうして、郭公は田植えをする女性にこのように毛嫌いされたのでしょうか。それは藤原敏行の詠んだ歌に由来されます。

                        ”いくばくの 田を作ればか 郭公 しでの田長(たおさ)を朝な朝な呼ぶ”

 です。
 田植えの時と郭公が鳴く時が一緒で、その鳴き声が、「はよういねうえねえ」と鳴いているように聞こえて、乙女たちの田植えを指揮する村長さが頻りに田植えを催促するようになるので、そのために、あの烈しい労働の田植えをしなくてはならなくなるのだ。その原因がひとえに郭公にあるのだと、憎々しく思って詠った歌です。

 その「うれ」が古事記にある「意禮」なのです。寄り道をしておりますが、よければお読みください。


「いとつろう、情けれ」。早速、「これって、おかしいよ。」との御忠告あり・・・

2017-09-21 07:56:00 | 日記

 昨日、書いた枕草子「209段」ですが、その最後に

                     “いとつろう 情けれ”

 と書いてしまいました。早速、例のお人から「情とは、なんでえな。まだ、このほかにもちごうとるところがあるんじゃが」 とご親切なるご注告をいただきました。そうです。「情」ではありません。

                    “憎けれ”

 です。要するに「郭公を悪く言う人達が憎くくて仕方無い」というのですから、情では意味が通りませんよね。

 なお、この他にも、「いかなるにかあらむ。」を「あ<る>らむ」と、また、「おれ鳴きてこそ」が「お<の>れ・・」ともご指摘いただきました。「おれ」について説明している場合なのに、こんな過ちをするなんてと、少々自己嫌悪に陥っております。この郭公を「おれ」と言わしめた原因については、今日はこの訂正文をこれだけ書くにも大変苦労しておりますので、また明日にでも。