私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

そこで、ジンム達一行は・・・

2019-05-26 10:22:28 | 日記
 那賀須泥毘古<ナガスネヒコ>が戦いを挑んで来たのでジンム達は、船にあった楯を取り出して、船から降りて、ナガスネの攻撃に応戦します。それを

       “爾取所入御船之楯而下立”
       <ミフネニイレタルタテトリテ オリタチタマヒキ> 

 と書いております。“下立”です。船の上では相手の軍を追い払うことができません。そのために船から兵を上陸させて対処します。矢が武器として使われます。此の時使われた矢の先に取り付けられていたのが「鏃<ヤジリ>」です。ジンムは武器を整えるのに吉備に八年のいたのですから、当時の吉備は、別名、

          「真金吹く」

 と呼ばれており鉄製の矢じりを用意していたのです。一方「ナガスネ」は難波一帯を支配していたのですから、まだ、鉄の鏃は入手してなかったことになります。そう考えるとこの戦いの結果は、自ずと知れます。
 なお、既に御存じとは思いますが。ジンムの使った鉄製の鏃とナガスネの使った石器の鏃の違いを見てください。これも私の自慢のお宝です。鉄鏃と石鏃です。
         
              

              




 この写真を見ていただけると、その軍備力の差が一目瞭然で、ジンムの勝利間違いないです。先進技術の差が勝敗を決します。

“登美能那賀須泥毘古”の登場です。

2019-05-24 09:36:19 | 日記
また古事記へ・・・・・
 書紀の記述とは違い、古事記には、いとも簡単にジンムたちの行動を記しております。
  
 ジンム達が吉備から白肩の津に到着されてすぐにです。その土地にいたのが

          “登美能那賀須泥毘古”

 という人です。
 「登美」は地名です。その場所は色々言われていますが「此処が登美だ。」という所は、今のところ、限定されていません。この登美を本拠地として勢力を持っていた人です。これからジンム達は大和を目指していたのですから、当然、この登美は生駒山の西側辺りに勢力を持っていた一族だったのではないかと私には思われますが。どうでしょうか?????
 そう考えると、ジンムが到着した「白肩ノ津」は「浪速之渡」から大和川のやや内陸側にあった所ではないでしょうか。
 この「登美能那賀須泥毘古」は

      “興軍。待向以戦”
      <イクサヲオコシテ マチムカヒテ タタカヒシカバ>

 吉備の国のようにジンムに大変協力的ではなく、国が乗っ取られるのではと考え、兵隊を率いて白肩ノ津で待ち受け、追い払い作戦を展開したのです。 

           

日本書紀には詳しい日付が書いてあります

2019-05-23 09:56:18 | 日記
 古事記には詳しく出ていないのですが、書紀にはその日まで副えて、一行がどのように大和ヘ入って行ったか、はっきりと書かれています。それを書いてみます。
 そこに書かれている字を読んでも、それが何時であるか私には、皆目、見当の付かないのですが、次の様に記されております。
  
 吉備の国を出発されたのが

          “戊午年春二月。丁酉朔丁未”

  「神武天皇即位前三年の二月十一日」です。そして、瀬戸内海を航行して、

          “三月、丁卯朔丙子”

 三月十日に「白肩の津」に着いていますき、今度は、そこから徒歩で

          “夏四月、丙申朔申辰”

 四月九日に、“瀧田<タキタ>”に向かったのですが、そん道は狭く険しいために人が通れるところではなかったので、引き返して“膽駒山<イコマヤマ>“を越えて

          “中洲<ナカツクニ>”

 に入ろうとされます。その間、 約60日です。

 古事記には書かれていないジンム達の旅です。

吉備から白肩津に・・・・・・

2019-05-22 10:37:24 | 日記
 ジンム達が吉備から軍団を整えて浪速の「白肩津<シラカタノツ>」に到着されます。それを古事記には、いとも簡単に

   “故従其国上行之時。経浪速之渡而。泊青雲之白肩津”
    <カレ ソノクニヨリ ノボリイデマストキニ ナミハヤノワタリヲヘテ アオク     モノシラカタノツハテタマヒキ>

 これだけの簡単な説明で終わっています。しかし、その間の詳し経緯は分かりませんが日本書紀には、詳しくその経緯を書いております。それを、ちょこっと、覗いてみますと、

  “皇師遂に東して、舳艫(友へ)相接ぎき、方に難波の碕に到りしに、奔潮(はやしほ)のはなはだ急(はや)きに合ひき。因りて浪速(なみはや)の国と為しき。亦浪花とも曰ふ。今難波と謂へるは諺(よこなま)れるなり。・・・・溯流(さかのぼ)りて、徑(ただち)に河内の国の草香(くさか)の邑(むら)なる青雲の白肩の津に至りたまひき”

 です。これを読むとその時のジンウたちの航海の様子がよく分かります。「白肩津」と謂うのが海岸線ではなく、川を溯った場所であることもです。

 「記紀」の二書を見てそこに書かれている内容から、お互いに其の時の歴史が深く味わえるのです。そんなことも深く読んでいくと分かるのです。歴史って面白いですね。

 話は変わりますが、あの百田さんのように、過去の歴史に付いて、ありもしないことをさもあったように書くのはいくら書き手の自由だと言われても少々行き過ぎではないかと思いますが。後から「訂正したからいいだろう。」と言われてもです・・・・???????
 

        

浪速之渡<ナミハヤノワタリ>

2019-05-21 14:55:34 | 日記
 宇豆毘古はジンムから

         “槁根津日子<サヲネツヒコ>”

 しっこいようですが、この名前は日本書紀には“椎根津彦<シイネツヒコ>”とあります。
 
 槁根津日子の案内で吉備を出て、まず、浪速之渡<ナミハヤノワタリ>を過ぎて

          “青雲之白肩津<アオクモノ シラカタノツニ>”

 に着きます。
 これについては、又また、宣長の御厄介になりますが、彼によると、「青雲」なんて雲は実際には存在しませんが、青空に薄くたなびいている雲を云い、これは、次に在る「白」の枕詞なのだそうです。