私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

吉備国から更に東へ

2019-05-20 08:26:42 | 日記
 宣長が〇印を付けて書いた「宇豆毘古」に付いて、もう少し、付け加えておきます。
 
 この名前は前に書いたように「日本書紀」に高千穂を出発してすぐに「速吸門」(現在の豊後水道)で「珍彦<ウヅヒコ>」に出会っていますが、古事記にはありません。それを補足するような形で、古事記には、吉備を出発してから後のことにして書かれています。その場所は「書紀」と同じで

            “速吸門<ハヤスイナド>”

 です。だからこれを解説する人によって、本当っ東に向ったはずなのですが、又、九州に引き返すような形で解説している人もいるようです。その時の様子も記紀では少し書き方が違っていますがそれを見てください。
      「古事記」には

      “故爾指渡槁機引入其御船”
    <カレ スナハチ サヲヲ サシワタシテ ソノフネニ ヒキイレテ>

 とあり、日本書紀には

      “天皇勅、授漁人椎◌(木偏に篙)末令執、而牽納於皇舟”
 <テンオウミコトノリシテ アマニシイサヲノスエヲサズケテ ミフネニヒキイレ>

 
 「椎◌(木偏に篙)」と「槁機」(舟の櫂)を見ても、記紀の表記の違いが漢文式か和文式かと云うことがよく分かるのです。

 このようなことはどうでもよいのですが時間がいくらでもありますから、敢て。取り上げてみました。よかったら読んで見てください????





古事記の中の「宇豆毘古」について

2019-05-18 12:54:25 | 日記
 ちょっと勘違いして読んでいました。と云うのは、書紀にあるジンムが「速吸の門」で出会った

       “珍彦<ウズヒコ>”

 ですが、古事記には、何処にも、この名前は出ていません。しかし、宣長の「古事記伝」には
 次の様な文が書かれてあります。



丸で囲った字がそうです。

      「名、宇、豆、毘、古」

 これを見た時、どうして〇で此の5字を囲んで入るのだろうかと不思議に思ったのですが、てっきり此の字も古事記の原文にあるものだと思いこみ、読んでいきました。でも、原文をよく見ると、この5字はありません。と云う事は、宣長が原文にはない5字を、後に編集した人が誤って書き落したのだろうとして、わざわざ付けたして「古事記伝」を作ったのです。

 それを知らずに無知なる私めが、この文字も、当然、古事記にはあるものだと早合点して書いたものです。知らないという事は、何と恥知らずのことでも、平気でしゃあしゃあと書ける物だとあきれるやらはじいるやらしております。
 なお、「古事記伝」の説明の中には、よく読むと

      “名宇豆毘古の五字を補ひつ”

 とありました。

五木さんは、更に、・・・・・

2019-05-17 07:55:42 | 日記
 「慈悲」について、五木さんは、更に、強く語られます。

 厳しい競争にさらされ、「頑張れ」と云う言葉を毎日のように聞く世の中だが、頑張ってもどうしようもないことが人生には沢山あり、その痛みや苦しみの身代わりになることは困難だ。
 そんな苦しみ、悲しむ人のそばにいて、目を見つめ、手を重ね、話を聞いてあげる。それこそが仏教で言う「悲」だ。人はその悲哀をしっかりと受け止め、心の中に抱えているからこそ、人は苦しみの中にあっても、又歩き出すことができるのだ。

 と。

 此のお話をお聞きしたのは、もう十年も昔のことですが、今こそ、我々はこの言葉を重く受け止め、生活の中に十分生かしていくべきだと思います。政治の社会においてもです。
 仏教で言う「慈」の心は、誰でも何となく字面からでも、分かったような気分になることができますが、「悲」の持つ本来の心を理解している人はほとんどいないのではないでしょうか????「悲しみ人のそばいて」なんてことが、本来の持つ「悲」であるなんて・・・
 
 「慈悲」、特に、仏教でいう「悲」に付いて、もう一度、日本人全員で考えてほしいものだと思います。
 
 その木堂の持つ「悲」の心が揮毫に見え隠れしておるようではありませんか。
『話せば分かる』の中に隠れているその言葉の意味が・・・・

           
         もう一回、 どうぞ!!!!!!!!!

               

木堂の色紙です

2019-05-16 08:50:15 | 日記
    

「木堂七十八叟」とありますから、死の直前に起きた五・十五事件の昭和七年に揮毫されたものです。
 此処に書かれている「慈」に付いてですが、庭瀬にある木堂記念館に展示されている沢山の資料の中に、孫娘に宛てた物の中に、この字があります。木堂はこの字を大変好んでよく使っていたということが分かる資料ですが・・・

 私の持っている色紙にある「慈悲」と云う言葉も又木堂の好きな字であったのではないかと思われます。

 今日はこの「慈悲」に付いて少々考えてみたいと思います。
 まず、かってあの五木寛之さんはあの親鸞のお話の中で、次の様に、この慈悲を説明されておられますので、それから紹介しておきます。(大変長いお話なので2,3回に分けて)
 

 “仏教には「慈悲」と云う言葉があります。「慈」とは励ましであり、ヒューウマニズムであり、希望であり、明るく、近代的でなじみやすい。しかし、「悲」は慰めであり、思わず知らず発するため息、うめきのような感情であり、本能的で、古めかしく、前近代的だとして、戦後の日本は目をそむけ、排除してきたのではないか。
 慈と悲は一対のものであり、自分を励ますことも大事だが、悲しみに向き合い、ちゃんと泣いた経験がなければ、腹の底から笑えない。「悲」の感情をきちんと受け止めことが大切です。”

 と。

           

今日は5・15事件記念日です

2019-05-15 13:57:11 | 日記
 昭和7年5月15日に起きた日本陸軍将校によるクーデターによって、ご存じ犬養木堂の暗殺された日です。

 毎年、木堂の墓前にお参りして香をたむけております。また、その生家では、土地の御婦人による琴の演奏が行われており、お茶をいただきながらその名演奏を聞かせていただきました。
 お参りした後、我が家に帰り、毎年、その遺徳をしのんでほんの僅かばかりの記念行事をしております。
 先ず、木堂先生の掛け軸と額を床に掲げます。
 先ずはその見事な木堂独特の右上がりの書をご覧ください。

          
  
          



 今年は、その外に満洲事変の起きたその日『昭和69月16日』「南嶺」で使われた日本陸軍が使用した爆弾頭やその場所の写真を飾りました。 わたしが持っている大変珍しいお宝です。



          

 なお、爆弾頭に木堂が大変愛したと伝えられている5月の花「ばら」を生けてみました。此のバラは私が育てているものですが、毎年5月15日になると、必ず、赤い小さな花が開きます。