私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

宇豆毘古<ウズビコ>

2019-05-14 15:24:15 | 日記
 亀の甲<セ>に乗った釣り人は

     “僕者国神名宇豆毘古<アハ クニガミ ナハ ウヅヒコ>”

 と名乗ります。そこでジンムは、更に尋ねます。

     “汝者知海道<イマシハ ウミツヂヲ シリヤ”

 と。すると、その国神は
 「はいよく知っております。」
 と答えます。
 
 それについて、日本書紀では、ジンムが高千穂宮を出発してすぐ、「速波門」で、出会った「珍彦<ウヅヒコ>」に案内させていますが、古事記では、吉備を出てから後に「宇豆毘古<ウヅヒコ>」に出合っております。名前は両方ともに<ウヅ>ですが、字が「珍」と「宇豆」と異なっており、その出会いの様子も、「船に乗ってきた」と「亀の甲に乗って、羽を広げるようにしてやってきた」と、間違いが生じているのです。要するに、吉備に至るまでは比較的集団の大きさも小さく航路は安全であったのですが、吉備を出発する時は、その船団が拡張されて軍隊として統一のとれた行動が必要になってくるので、航路を熟知している海人が必要になって来た事を意味しております。その軍隊としての一大勢力に組織した地が吉備です。また、それだけの軍事的訓練も必要になったのです。その最も適したのが、吉備の穴海だったのです。

 そんなことを、此の事は意味しているのだろうと私は考えますが???

速吸門

2019-05-12 12:28:24 | 日記
 「速吸門」を“ハヤスヒナド”(宣長は“波夜須比那度)と読むのだそうです。
 此処が何処か、いろいろと云われています。中には驚くなかれ“九州の「豊後水道」”だなどと説明している学者もいるようですが、此の時、ジンムは吉備を出発して、更に、東に向かったという事は確かです。すると。亀の甲に乗った人に遭ったのは播磨の国の何処かだということが分かります。
 要するにジンムの一行は東に向かって航行していたのです。なにしろ、東に向かって行こうとしたのは

    “坐何地者平聞看天下之政猶思東行”

 <イズレノトコロニマサバカ アメノシタノマツリゴトヲバ 
                       タヒラケク キコシメサム> 

 とジンムの兄と高千穂宮で協議された結果の東征です。吉備の国から、再び、西にある
豊後水道辺りまで舞い戻るということはなかったのだと思うのですが ???

 なお、この“速吸門”ですが、日本書紀には、ジンム達の一行が高千穂から東征しますが、まず着いたのが

          “速吸の門に至りましし時”

 と書いてあります。この紀記の違いをどうにかして統合した解釈をと思って、「豊後水道」をわざわざ取り上げたのでしょうが、その人の苦悩がよく分かるのですが、その解釈にはどうしても受け入れられませんよね。
 更に、書きくわえれば、その日本書紀では

         “皇師遂東、舳艫相接、方到難波之碕”

 <ミイクサ ツイニ ヒンガシシテ トモヘ アイツギキ マサニ ナニワノ
  ミサキニ イタリシニ>  
   「神武たちの一行は舟を連ねて難波の碕に到った」と書かれあり、「古事記」にあるような「速吸門」と云う字は見えません。これも沢山ある記紀の記述の違いの一つなのですが・・・・・ 

“於吉備之高島宮八年坐”

2019-05-11 11:47:08 | 日記
 吉備国の高島宮に八年間坐<マシマシ>て、

        “従其国上幸之時<ソノクニヨリ ノボリ イデマストキニ>

 です。

        “乗亀甲為釣<カメノセニノリテ ツリシツツ>”

        “乍打羽挙来人<ウチハブリツツ クルヒト>”

 が現れます。釣りをするために、舟で無く、亀の背に乗って、さらに、奇妙な格好をしながらです。「打羽挙<ウチハブリ>」です。これは鳥が羽ばたくように左右の袖を振りながらやって来たのです。

 何故、彼は舟で無く、亀の背になんか乗っていたのでしょうかね??此の事に付いては宣長先生も何も説明がありません。古事記になかでも、あの因幡の白ウサギの時にも、火遠理命の時にも出てくるのは
           
        “和邇<ワニ>”
 
 だったのですが、今回は「亀」のご登場です。何か古代社会に於いては神に近い存在としてそれらの動物が充てられていたのではないでしょうか。強くて長生のする物を神として奉っていたのではないかと考えられますが????

しりゃあせんとおもうけえな・・・

2019-05-10 09:17:39 | 日記
 何処か知らない国の言葉だと思うかもしれませんが、これは岡山弁です。
 「しりゃあせんじゃろうが」「こげえなことをしっとるんけえ」など「知る」と云う言葉を、岡山弁で、いまでも、日常の会話の中で使っているのですが、そんな言葉でメールを頂きました。
 「おめえは しりゃあせんじゃろうが こげえなはなしも まだ あるんじゃけえな」
 (貴方は知らないでしょうが、こんなお話も、まだ、吉備津にはあるのですが)
 というお便りです。それをご紹介します。
 
 『ジンムが、この吉備に到着されてから、その兵力を増強されるために、頻りに、この地方の各地を視察されたのだそうです。勿論、ジンムは馬車か何かの乗り物で視察さてたのです。ある時、ジンムは、車の外に、今までに聞いたことが無い不思議な音を耳にします。
  「ガラガラ」
という音です。
 不思議に思って車の外を見ると川に懸けてある橋を渡っています。しかし、その橋は、今まで目にしたことのない橋です。今まで体験した橋は総て土橋でしたが、この吉備では橋は何と石で出来ているではありませんか。その石橋を通るので車輪が石の上を通り「ガラガラ」と音を出していたのです。
 「橋が石でか。これはこの土地の人達が豊かな生活している証拠だ。」
 と思われて、大層よろこばれその橋を
          「ガラガラ橋」
 と命名したのだそうです。
 その橋は今では残ってはいませんが、この地方に「橋向<ハシムカイ>」と云う地名が残っており、「ガラガラバシ」の向い側の有った所と云う事から、こんな地名になったのだと言い伝えられております。』
 と。

 これもジンムが着いた吉備が此の吉備津神社の辺りだという事を示す証拠となると、
 「しりゃあせんじゃろうけえおしえてやらあ」
 と、ご丁寧に知らせてくれたのです。

 どうですか??こんな話も残されており、日本歴史の彩る吉備津の昔話です。
 何故なら、吉備の国が無かったならジンムが橿原の宮で日本国を立てることは不可能だったと思われるからです。将に、吉備こそ日本国誕生にまつわる「日本のまほろば」です。

  

もう一つおまけを・・・

2019-05-09 16:13:12 | 日記
 これからするお話はこの地方に伝わった昔話の中でも余り口にする人はいないようですがお聞きください。何時でも口を付いて出そうで出ない、有りそうでないお話ですが・・・
 
 ジンムが一刀の元にその首をはねた例の大猪を、ジンムの仮宮の裏山に、家臣に命じて埋めさせますが、あまりにもその悪臭がひどく、ジンムも大変往生したのでしょうか、その場から他の場所に埋め直させます。その場所が、現在、「有木」と呼ばれている吉備津神社の東北に当たる場所でした。その「有木」は、元々は「有鬼」だったのですが、何時の時代かは分からないのですが、「鬼」が「木」に代わって「有木」になります。鬼が有る場所と云うのでな余りにも人聞きがわるい所と云うイメージが大きかったからでしょうか???それと一緒にこの話もこの里から消えてしまいます。

 なお、この大猪を埋めた人に、ジンムから
          「堀家<ホリケ>」
       (猪の死体を土地を掘って2度も埋めた人の家と云う意味)
 と云う苗字を授けられ、その後、代々吉備津神社の宮司に任命されたと云う話も残されております。
 吉備津が、まだ、「真金町」と呼ばれていた時代の町長に「堀家」氏がおられましたから、神武の東征の頃から現代までその家が続いているのです。桃太郎さんのお話よりも昔から此の地が栄えた証拠にもなりますが???

 こんなおまけの話もあることはあるのですが・・・・・
 それだけ古い時代から続いている証拠にもなるのですが、現在は、吉備津でもほとんどの人が忘れ去っているようです。「家意識」が薄れた現代社会の特色かもしれませんが、日本全国に有る昔話って、どんどん消えてしまっているようですね。もったいないことですがいたしかたないことでしょうかね????