くちをしきもの・・・「朽ちる」のが「モッタイナイ」であるかな・・・「くちなし(梔子・巵子・支子)の花」も「朽ちる」・・・「巵(シ)」は古代中国で使われた酒杯、酒盃の一。鉢形で、両側に環状の取っ手がある大杯であるらしいが、「卮」が源字で「四升が入る盃で一杯で傾き、空になると上向き、容量によってその傾きが変わる杯」である。「卮言(シゲン)」とは「バラバラ、辻褄が合わない、支離滅裂でトリトメが無い」であった。「酉(トリ)」は十番目の十二支である。トリで終わるのは「紅白歌合戦」・・・「口惜しきモノ」は「思うようにいかなかったり、辱められたりして、失望したり、腹立たしく思ったりするさま・(regrettable)」とあるが、「惜(を)しい」があるのに「口+惜しい」である・・・口で話せなくなったのか、口で食べられなくなったのか、呑めれなくなったのか、ザンネンである・・・古代史の文献で「生口」は「奴隷」とされているようだが・・・「生意気な口をキく奴」って・・・音声コトバは口から吐き出すモノだが、「息=呼吸」は吐いたり、吸ったりである・・・「鼾(いびき)」は煩い(うるさい・五月蝿い)である・・・ナガイキを留めて潜るのは「海女」さんである・・・
ーー↓
「生」は訓で「なま・き・う・ふ・うぶ・いのち・い-きる)」で、更に調べれば、訓読みは、
「ある(生→生存)・あい(生)・いかす(生かす)・いきる(生きる)・いける(生ける)・う(生→桃生)・うまれる(生まれる)・うむ(生む)・うぶ(生=産→産湯)・おう(生う)・き(生→生地)・なま(生)・なる(生る)・なす(生す)・はう(生う)・はえる(生える→発生)・はやす(生やす)・ふ(生)・さが(生→性)」、名のりには、「おき・すすむ・たか・ふゆ・よ」などがある・・・「生+口」・・・
音は「セイ・ショウ」である・・・マルで「清少納言」・・・
生口(セイコウ・いきくち)・・・なまこ=海鼠
生口(なまくち)
生口(うむくち)
生口(うくち)
生口(しょうくち)
生口(きくち)
「なま(生)」で食べるよりも、「焼い」て、「煮」て食べた方が衛生上、安全だが・・・放射能汚染のモノは、焼いても、煮ても、叩いてもキケンであろう・・・貯蔵食品には「乾物・薫製・漬物」がある・・・
ーー↓生口
倭における
「捕虜」または「奴隷」・・・?
107年(後漢・永初元年)
倭国王
帥升らが
後漢の
安帝へ
生口
160人を献じる(後漢書)
倭王
卑弥呼が
239年(魏・景初二年)
魏の
明帝へ
男の生口4人、
女の生生口6人を、
243年(魏・正始四年)
魏の
少帝へ
生口を献じ、
その後継者の
台与(臺與?・壹與?・壱與)も
248年
魏へ
生口30人を魏へ献じ(魏志倭人伝)
ーー↓248年
干支=戊辰(ボシン・つちノえノたつ)
倭
神功皇后摂政48(四十八)年
皇紀908(九百八)年
中国
魏=正始九年
蜀=延熙十一年
呉=赤烏十一年
朝鮮
高句麗=東川王=二十二年、
中川王=元年
新羅=沾解王=二年
百済=古尓王=十五年
ーー↓
生口
捕虜を意味する語・・・奴隷になった捕虜
異論は、
単なる捕虜・奴隷ではなく、
技術、技能者、あるいは
中国への留学生とする説もある
弥生時代後期には
という奴隷階層がいた
生口がと全く
別の存在なのか、
重複するのかの論がある・・・らしい・・・
生口は倭国だけのものではなく、
-↓-
高句麗の
第十九代の王
広開土王・・・・諡号は「国岡上広開土境平安好太王」
年号を採って「永楽大王」
姓は「高」
名は「安」
始祖鄒牟王(朱蒙)の
十七世の孫
父は故国壌王
碑文・・・・・「好太王碑文→交代王比文」
ーー↓
息子の長寿王が
414年旧暦九月二十九日
(碑文=甲寅年九月廿九日乙酉)に建てたモノ
ー↓ー
の刻文に
396年
百済が高句麗に大敗し
「生口」を高句麗へ献じた
高麗史・十六 世家・巻第二十八
-↓-
忠烈王元年(1274年)
文永の役(1274年)
高麗に帰還した
金方慶らは、
倭人の子女を捕虜とし、
高麗王と妃に
「生口」として献上
(侍中
金方慶等還師、
忽敦以所
俘童・・・これは「生口」の文字ではない・・・
男女
二百人
献王及公主)
ー↓ー
・・・「惜字炉」と言うモノがあるらしい・・・
ーー
惜しい・・・をしい・をしく
大切なものを失いたくない
むだにすることが忍びない
もったいない
心残り
惜しい・くやしい
「もう少しで・あと少しで・あとちょっとで 」おしい
「(今一歩)及ばない・足りない・健闘する
今ひとつ満足いかない」
「惜=セキ・シャク
おしい おしむ」
思いきれず・心が残る・失いたくないと思う
「惜」=忄(心)+昔
昔=(廿・廾一・艸一)+日
?=共+日
「忄」=「リッシンベン→立心偏→立身弁」
「惜字炉(せきじろ)」は、「文字を敬って文字の書かれた不要となった紙を焼くための炉。
「惜字亭、焚字炉(沖縄の方言でフンジルーとも言うらしい)」。別名は
惜字塔
惜字楼
焚字庫
字庫
焚紙楼
文風塔
文峰塔
敬敬亭
台湾では多く
聖蹟亭といい、
客家地区では
敬字亭と称する
ーー↓
中国明代の科挙制度のもと、聖人、知識人が尊ばれ、字を敬う「敬惜字紙(中国語版)」という風習が生まれ、文字の書かれた不要な紙を集め梵焼する炉が作られた。
「惜字炉は史料によれば
宋代に建造が始まり、
元明清代にはすでに相当普及していた。
惜字炉は通常
街角や、書院や寺院の中、道路や橋の傍らに建造した。
また裕福な者は自分の家の庭に惜字塔を建てた。
「『二刻拍案』一巻の開編詩に曰く“世間字紙蔵経同,見者須当付火中。或置長流清浄処,自然福禄永無窮”(仮訳:世間の字のある紙はお経と同じく、見たものは火で燃やすべきである。あるいは清らかな流れに置けば、自然と福は長く窮まることはない)とある」
現在は、中国、台湾、韓国に残っており、
日本では沖縄県、長崎県、大阪府の寺院などにみられる
・・・「文字の書かれた不要な紙を集め梵焼する炉」とは、支配者の「焚書坑儒」の「焚書」であろう・・・禁断の書を燃やしたのさッ・・・持っていれば殺されるから・・・
ーー
「朽(くちる・キュウ・キウ)」
くちる腐ってぼろぼろになる
衰えてだめになる
「朽木・不朽・腐朽・老朽」
腐る・朽ちる・こわれる・すたれる・衰える
ーー↓くちおしい
残念だ・がっかりする
口惜しい・・・もったいない
くちを・し・シク
思うようにいかない
残念に思う
いまいましく思う・・・忌々(いまいま)しい
今々しい→近代、現代
取るに足らない
ーーーーー
枕草子
(一〇三段)・・・百三段・壱百参段・壱佰参段
1+0+3=4=四=肆
1×0×3=零
くちをしきもの
節會、・・・説句改・接句解・設句回
佛名に・・・分通名爾
雪ふらで、
雨の
かき暮し
降りたる。
節會、さるべきをりの、
御
物
忌に
當りたる。
いと
なみ
いつ
しかと
思ひ
たる
事の、
さはる
事
出で
來て
俄に・・・にわかに
とまり
たる。
いみじうする人の、
子
うまで
年ごろ
具したる。
あそびをもし、
見すべき事もあるに、
かならず
來なんと思ひて
呼びに
遣りつる人の、
さはる
事
ありて
など
いひて
來ぬ、
くちをし。
男も女も宮仕所などに、同じやうなる人、諸共に寺へまうで、物へも行くに、このもしうこぼれ出でて、用意はげしからず、あまり見苦しとも見つべくはあらぬに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ見ずなりぬる、いとくちをし。
わびては、
すきずき
し
か
らん
下衆など
にても、
人に
語り
つ
べ
か
らん
にて
もがなと
思ふも、
けしからぬ
なめり
かし。
ーーーーー
・・・ケシカラン・・・ナ・メ・リ・・・カ・シ・・・
ーー↓
「生」は訓で「なま・き・う・ふ・うぶ・いのち・い-きる)」で、更に調べれば、訓読みは、
「ある(生→生存)・あい(生)・いかす(生かす)・いきる(生きる)・いける(生ける)・う(生→桃生)・うまれる(生まれる)・うむ(生む)・うぶ(生=産→産湯)・おう(生う)・き(生→生地)・なま(生)・なる(生る)・なす(生す)・はう(生う)・はえる(生える→発生)・はやす(生やす)・ふ(生)・さが(生→性)」、名のりには、「おき・すすむ・たか・ふゆ・よ」などがある・・・「生+口」・・・
音は「セイ・ショウ」である・・・マルで「清少納言」・・・
生口(セイコウ・いきくち)・・・なまこ=海鼠
生口(なまくち)
生口(うむくち)
生口(うくち)
生口(しょうくち)
生口(きくち)
「なま(生)」で食べるよりも、「焼い」て、「煮」て食べた方が衛生上、安全だが・・・放射能汚染のモノは、焼いても、煮ても、叩いてもキケンであろう・・・貯蔵食品には「乾物・薫製・漬物」がある・・・
ーー↓生口
倭における
「捕虜」または「奴隷」・・・?
107年(後漢・永初元年)
倭国王
帥升らが
後漢の
安帝へ
生口
160人を献じる(後漢書)
倭王
卑弥呼が
239年(魏・景初二年)
魏の
明帝へ
男の生口4人、
女の生生口6人を、
243年(魏・正始四年)
魏の
少帝へ
生口を献じ、
その後継者の
台与(臺與?・壹與?・壱與)も
248年
魏へ
生口30人を魏へ献じ(魏志倭人伝)
ーー↓248年
干支=戊辰(ボシン・つちノえノたつ)
倭
神功皇后摂政48(四十八)年
皇紀908(九百八)年
中国
魏=正始九年
蜀=延熙十一年
呉=赤烏十一年
朝鮮
高句麗=東川王=二十二年、
中川王=元年
新羅=沾解王=二年
百済=古尓王=十五年
ーー↓
生口
捕虜を意味する語・・・奴隷になった捕虜
異論は、
単なる捕虜・奴隷ではなく、
技術、技能者、あるいは
中国への留学生とする説もある
弥生時代後期には
という奴隷階層がいた
生口がと全く
別の存在なのか、
重複するのかの論がある・・・らしい・・・
生口は倭国だけのものではなく、
-↓-
高句麗の
第十九代の王
広開土王・・・・諡号は「国岡上広開土境平安好太王」
年号を採って「永楽大王」
姓は「高」
名は「安」
始祖鄒牟王(朱蒙)の
十七世の孫
父は故国壌王
碑文・・・・・「好太王碑文→交代王比文」
ーー↓
息子の長寿王が
414年旧暦九月二十九日
(碑文=甲寅年九月廿九日乙酉)に建てたモノ
ー↓ー
の刻文に
396年
百済が高句麗に大敗し
「生口」を高句麗へ献じた
高麗史・十六 世家・巻第二十八
-↓-
忠烈王元年(1274年)
文永の役(1274年)
高麗に帰還した
金方慶らは、
倭人の子女を捕虜とし、
高麗王と妃に
「生口」として献上
(侍中
金方慶等還師、
忽敦以所
俘童・・・これは「生口」の文字ではない・・・
男女
二百人
献王及公主)
ー↓ー
・・・「惜字炉」と言うモノがあるらしい・・・
ーー
惜しい・・・をしい・をしく
大切なものを失いたくない
むだにすることが忍びない
もったいない
心残り
惜しい・くやしい
「もう少しで・あと少しで・あとちょっとで 」おしい
「(今一歩)及ばない・足りない・健闘する
今ひとつ満足いかない」
「惜=セキ・シャク
おしい おしむ」
思いきれず・心が残る・失いたくないと思う
「惜」=忄(心)+昔
昔=(廿・廾一・艸一)+日
?=共+日
「忄」=「リッシンベン→立心偏→立身弁」
「惜字炉(せきじろ)」は、「文字を敬って文字の書かれた不要となった紙を焼くための炉。
「惜字亭、焚字炉(沖縄の方言でフンジルーとも言うらしい)」。別名は
惜字塔
惜字楼
焚字庫
字庫
焚紙楼
文風塔
文峰塔
敬敬亭
台湾では多く
聖蹟亭といい、
客家地区では
敬字亭と称する
ーー↓
中国明代の科挙制度のもと、聖人、知識人が尊ばれ、字を敬う「敬惜字紙(中国語版)」という風習が生まれ、文字の書かれた不要な紙を集め梵焼する炉が作られた。
「惜字炉は史料によれば
宋代に建造が始まり、
元明清代にはすでに相当普及していた。
惜字炉は通常
街角や、書院や寺院の中、道路や橋の傍らに建造した。
また裕福な者は自分の家の庭に惜字塔を建てた。
「『二刻拍案』一巻の開編詩に曰く“世間字紙蔵経同,見者須当付火中。或置長流清浄処,自然福禄永無窮”(仮訳:世間の字のある紙はお経と同じく、見たものは火で燃やすべきである。あるいは清らかな流れに置けば、自然と福は長く窮まることはない)とある」
現在は、中国、台湾、韓国に残っており、
日本では沖縄県、長崎県、大阪府の寺院などにみられる
・・・「文字の書かれた不要な紙を集め梵焼する炉」とは、支配者の「焚書坑儒」の「焚書」であろう・・・禁断の書を燃やしたのさッ・・・持っていれば殺されるから・・・
ーー
「朽(くちる・キュウ・キウ)」
くちる腐ってぼろぼろになる
衰えてだめになる
「朽木・不朽・腐朽・老朽」
腐る・朽ちる・こわれる・すたれる・衰える
ーー↓くちおしい
残念だ・がっかりする
口惜しい・・・もったいない
くちを・し・シク
思うようにいかない
残念に思う
いまいましく思う・・・忌々(いまいま)しい
今々しい→近代、現代
取るに足らない
ーーーーー
枕草子
(一〇三段)・・・百三段・壱百参段・壱佰参段
1+0+3=4=四=肆
1×0×3=零
くちをしきもの
節會、・・・説句改・接句解・設句回
佛名に・・・分通名爾
雪ふらで、
雨の
かき暮し
降りたる。
節會、さるべきをりの、
御
物
忌に
當りたる。
いと
なみ
いつ
しかと
思ひ
たる
事の、
さはる
事
出で
來て
俄に・・・にわかに
とまり
たる。
いみじうする人の、
子
うまで
年ごろ
具したる。
あそびをもし、
見すべき事もあるに、
かならず
來なんと思ひて
呼びに
遣りつる人の、
さはる
事
ありて
など
いひて
來ぬ、
くちをし。
男も女も宮仕所などに、同じやうなる人、諸共に寺へまうで、物へも行くに、このもしうこぼれ出でて、用意はげしからず、あまり見苦しとも見つべくはあらぬに、さるべき人の、馬にても車にても行きあひ見ずなりぬる、いとくちをし。
わびては、
すきずき
し
か
らん
下衆など
にても、
人に
語り
つ
べ
か
らん
にて
もがなと
思ふも、
けしからぬ
なめり
かし。
ーーーーー
・・・ケシカラン・・・ナ・メ・リ・・・カ・シ・・・