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コジキジゲン

理訳字・吏役字・裏薬事

2013-08-04 00:00:53 | 古事記字源
 「略字(りゃくじ)とは漢字などの文字について本来の字体から点や画を省略したもの、あるいはある文字に代わって用いられる字画を省略した文字のことである」・・・簡略、概略、戦略、策略、攻略、略式、略称、略画、略字・・・困ったなぁ~ッ・・・お袋の友人から来る手紙の「字」がアマリにも達筆で巧くてヨメない・・・ブログなどで江戸時代の「絵入り双紙(草子)」なども視るのだが、ナカナカ、読めない・・・「くずし字」・・・
ーー↓

 「草子(双紙・草紙・冊子)」

 室町時代から江戸時代初期にかけて流布した

 絵入りの短編読み物

 絵入りのそうし

 御伽(おとぎ)草子

 草(くさ)双紙・・・艸・++・廾・サ

 仮名草子

 紙を綴(と)じ合わせた形式の書物

 綴じ本

 物語・日記・歌書など、

 和文で記された書物の総称

 「さくし(冊子)」の音変化か・・・錯視?

 漢籍・和本などで、

 紙を綴(と)じ合わせた形式の書物

 綴じ本

 物語・日記・歌書

 など、和文で記された書物の総称

 絵入りの通俗的な読み物の総称

 草双紙(くさぞうし)とは、

 江戸時代中頃から

 江戸で出版された絵入り娯楽本

 赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻の総称

 「草」は、草競馬・草相撲・草野球などの

 「草」とおなじ「一般の〜」という意味合いを含むもの

 とじ本・帳面

 紙をとじて作った本の総称

 出典は

 枕草子

 御前にて人々とも

 「この紙を

  さうし・・・創始・相思・壮士・宗氏・躁詞・装視

  に

  作りなどもて騒ぐに」

 書物・・・古文・・・

 室町時代以降の

 絵入りの通俗的な読み物の略称

ーー↓以下は「ウイッキペデア」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%A5%E5%AD%97

略字 - Wikipedia

ーー↓略=田+各→多角・多核・他掛句

 「略字」と似たような使われ方をする言葉に

 「俗字」がある。

 「俗字」は世間で通用するが

  正格ではない字体の文字

  正式に通用しない文字を指す

  漢和字典では

  正統とされている

  文字に対する

  異体字を指す

ーー↓

 「拡張新字体」

  表外漢字に

  新字体に倣った

  簡略化

  祇(示+氏)→ネ氏

  摑(扌+國)→ 掴

  啞(口+亞)→ 唖

  などの字体が合字として

 「祇(くにつかみ・ギ)」=「示(ネ)が氏」

 「摑(つかむ・カク)」=「扌・手(テ・弖・氐)の國」

 「唖(おし・ア)」=「口(コウ・ク)の亜」

  なのは部首の意味から解る 

ーー↓

 「奌」は古字として元々(本々)、存在しており、

 「魚」にも同様の字形「灬=大」が見られる

 「魚」の訓が「まな・さかな」で、

 「真名(仮名)」、

 「肴(コウ・ギョウ)=メ(×・乄)+ナ+月(つき・ゲツ・ガツ)」で、その意味することが理解できる・・・

 「点」に関しては、

  旧字

 「點」の略字として、

 「占」の下に

 「灬(れんが)」とするものと

 「大」にするものとが併存していた

 「點(テン)」は明らかに「黒の占」で「灬」=「大・太」ならば「太陽の黒点を観察した占い(九年周期の観察→九星学)」の示唆だが、更に分解して「田(口十)の土(十一)の烈火のトの口」である。「灬」を「れんが」と読ませるのは「煉瓦(レンガ)」に音が重ねたモノで「赤煉瓦」は明治時代以降のモノであるだろう。単純に「點」の分解文字を読めば「田の土を烈火で焼いた結果の占い」である・・・「点=點=黒+占」・・・「テン」とは烈火で焼く占いである。「黒子(ほくろ)→黒い染み・黒い出来物→點子(テンシ)」であろうかな。直接に太陽を観察したら結果は「メクラ」である。煤ガラスか、太陽の影を他のものに映し出して観測するしかない。しかも反射鏡が無ければ、チャンスは「日食」の時期である。最近の皆既日食の景(ひかり)は幅広い木の葉の上にも映し出され、観察されていた・・・「卑弥呼」が「銅鏡」を欲しがった理由は太陽観察?・・・「灬」は本々「烈火」の「炎」である。それ以前に「赤煉瓦」に似たものは「屋根の焼瓦(甍・いらか)」であるが日本の木造建築の「壁の建築材」としてはほとんど使用されなかったであろう。だが古代中国の発掘された「磚=甎」に「倭」の漢字が刻まれたモノが発見されているらしい。ブログ記事を調べれば、「安徽省(アンキショウ)にある魏の閱祖である曹操の先祖の墓(紀元一七〇年ころ)、曹一族の墓から出た字磚に『有倭人以時盟不』という文字が刻まれていたという」・・・焼く前の「磚(セン)」に「文字」を刻み、その焼かれた「磚(セン)の文字の変化」を「易占」としたのではないのか?・・・漢字の造りの横線が異常に長いらしい・・・

 兎に角、「磚(セン)=石+専」=「甎(セン)=専瓦」は、中国における「焼成煉瓦」を意味する語である・・・

ーー↓

 「朝臣(あそみ・あそん)は、684年(天武天皇十三年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する」。「朝臣」と「真人」の「位階」が入れ替わった理由は「天武天皇」の「諡(おくりな)」に「真人」が挿入されている」・・・「阿倍仲麻呂」が「玄宗皇帝」から賜った姓は「朝臣」で、「官位・位階」ではない・・・

ーー↓

 「臣」の部分を「リ」と書くもの

 「監」、「緊」、「堅」、「賢」、「竪」、「藍」、「籃」、 「臨」などは

 「臣」を

  片仮名の

 「リ」のように書く(监・紧・坚など)

 「臣」の部分の

 「草書」が片仮名の「リ」のようになるため、

 それを用いた「略字」である

 「与」の旧字体

 「與」の上の部分を

 片仮名の

 「リ」と

 「ホ」に書く「略字」は

 草書を「楷書化」したもの

 ・・・ではないだろう・・・片仮名の「リ」は本々「刀」である。「ホ」は「保」か「木」である。

ーー↓

 「応」の旧字体「應」の略字は「応神天皇」

 「弥」の旧字体「彌」の略字は「弥生三月」

 「齢(年齢)」・「令(律令)」

 「歳(歳星・歳月)」・「才(才能・才女・才媛)」はそれぞれ独立した「別個の漢字」である。

 ・・・いずれも「漢字の字形」も、その音訓の「コトバ」も問題になるのは「明治以降」の問題で、その時代的な背景を踏まえなければ「古文?」なんだか、ドウなんだか・・・ダイタイカラして「漢文」を「東北弁」で読み下したらどんな「発声音」になるのか?・・・「八重さん」に訊いてみたい・・・ウンダ、ベッ・・・「鹿児島弁」での読み下しは・・・ドゥナ、ッペかな・・・「捨松さん」にも・・・旦那、「大山巌」との日常会話は共通語の「英語・米語」だったんだべッ・・・東北遠征軍には奈良時代のムカシから「通訳が必要」だった・・・他の地域以外も「京都弁」では無理だった・・・記録されたモノの「文字研究」に、この「方言」が殆んど考慮されていない・・・?・・・もっとも、「記録文」が遺されているのは「中央官吏」の「官製記録」が殆んどだけれど・・・

ーーー

 明治四年(1871)十一月

 岩倉遣外使節団四十八名

 大使

 岩倉具視

 副使、四名

 大久保利通、木戸孝允、伊東博文、山口尚芳

 が横浜港を出発

 使節団の

 五十八名は留学生

 その中の

 五名が

 少女

 ↓

 静岡県士族

 永井久太郎養女

 繁子(十歳)

 ↓

 東京府貫属士族

 津田仙娘

 梅子(六歳)

 ↓

 青森県士族

 山川弥七郎(大蔵・浩)妹

 捨松(十一歳)

 ↓

 東京府貫属士族(外務中録)

 上田女

 悌子(十六歳)

 ↓

 東京府貫属士族同府出仕

 吉益正雄女

 亮子(十四歳)

 ・・・なぜか、「捨松」が「十一歳」・・・「津田梅子」が「六歳」・・・初名は「うめ(むめ)」で、1902年(明治三十五年)に「漢字表記」に改めて「梅子」とした・・・

 いずれにしても五人娘の歳は「6(陸)・10(壱拾・足)・11(壱拾壱・足壱)・14(壱拾肆・足肆)・16(壱拾陸・足陸)」である・・・

ーー↓

 津田梅子

 明治四年(1871年)、父親の「津田仙」は明治政府の事業である北海道開拓使「次官の黒田清隆」の嘱託となり、津田家は麻布へ移住し、「梅子」はアメリカ留学。

 明治十一年(1878年)

 コレジエト校を卒業

 私立女学校の

 アーチャー・インスティチュートへ進学

 明治十四年(1881年)に帰国命令

 在学中の

 山川捨松と

 梅子は延長を申請し、

 明治十五年(1882年)

 七月に卒業

 同年

 十一月に日本へ帰国

ーー

 ・・・「黒田清隆」は北海道開拓使次官・開拓長官・・・枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任・・・

 明治二年(1869年)

 十一月二十二日

 中山清(せい)と結婚

 明治十一年(1878年)

 三月二十八日

 肺を患っていた妻の清が死亡・・・黒田が酒に酔って妻を惨殺したという噂が流れた・・・?

 明治三年(1870年)

 五月

 樺太専任の開拓次官・・・

ーーーーー

 枕草子

 (九七段)・・・九十七段・九拾七段・玖足漆段

         9+7=16=十六=壱拾六=足陸

         9×7=63=六十三=六拾参=陸足参

 無名と

 いふ

 琵琶の

 御琴を、

 うへの

 持て

 わた

 ら

 せ

 給へる

 を、

 見

 などして、

 掻き

 鳴し

 など

 す

 と

 言へば、

 ひく

 には

 あらず、

 緒

 などを

 手

 まさぐり

 に

 して、

 「これ

  が

  名よ、

  いか

  に

  とか

  や」

 など

 聞え

 さ

 するに、

 「ただ

  いと

  はかなく

  名

  も

  なし」

 との

 給

 はせ

 たる

 は、

 なほ

 いと

 めでたく

 こそ

 覺え

 しか。

 淑景舎

 など

 わたり

 給ひて、

 御物語の

 ついでに、

 「まろ

  が

  もと

  に

  いと

  をかし

  げ

  なる

  笙の

  笛

  こそ

  あれ。

  故殿の

  得させ

  給へり」

 と

 の給ふ

 を、

 僧都の

 君の

 「それは

  隆圓

  に

  たうべ。

  おのれが

  許に

  めで

  たき

  琴

  侍り、

  それに

  かへさせ

  給へ」

 と

 申し

 給ふ

 を、

 きき

 も

 入れ

 給はで、

 猶

 他事を

 の

 たまふ

 に、

 答

 させ

 奉

 らんと

 數多

 たび

 聞え

 給ふ

 に、

 なほ

 物の

 たまはねば、

 宮の

 御前の

 「否

  かへ

  じ

  と

  おぼい

  たる

  もの

  を」

 と

 の給はせ

 ける

 が、

 いみじう

 をかしき

 事

 ぞ

 限

 なき。

 この

 御笛の

 名を

 僧都の

 君も

 え

 知り

 給は

 ざり

 ければ、

 ただ

 うらめし

 と

 ぞ

 おぼし

 ためる。

 これは

 職の

 御曹司に

 おはしまし

 し

 時の

 事

 なり。

 うへの

 御前

 に、

 いな

 かへじ

 と

 いふ

 御笛の

 さふらふ

 なり。

 御前に

 侍ふ

 者どもは、

 琴も

 笛も

 皆

 めづらしき

 名つきて

 こそ

 あれ。

 琵琶は

 玄象、

 牧馬、

 井上、

 渭橋、

 無名など、

 また

 和琴

 など

 も、

 朽目、

 鹽竈、

 二貫

 など

 ぞ

 聞ゆる。

 水龍、

 小水龍、

 宇多

 法師、

 釘打、

 葉二、

 なに

 くれと

 多く

 聞え

 しかど

 忘れに

 けり。

 宜陽殿の

 一の

 棚にと

 いふ

 ことぐさは、

 頭

 中

 將

 こそ

 した

 ま

 ひ

 しか。

ーーーーー

 ・・・

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