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コジキジゲン

景保

2013-08-15 21:48:29 | 古事記字源
 淑景舎、春宮・・・淑=シュク・しとやか・よい・よし・・・「淑女・貞淑」・「慕う」・「私淑」・・・景=ケイ・ひかり・エイ・けしき・かげ・あきら・ひろ・日の光・ひかげ・「返景」・眺め・景色・景観・景勝・景物・遠景・佳景・光景・叙景・絶景・点景・背景・風景・夜景・ありさま・ようす・「景況・情景」・仰ぎ慕う・・・「景の行文・景の文字」を調べるには随分と拘って来た・・・笑っちゃうけれど、調べてもスグ忘れる・・・「乾坤一擲、鴻溝を過ぐ(韓愈・字は退之、号は昌黎)」、人生であるカナ、「真成に一擲、乾坤を賭す」・・・それでもボクの人生の懐具合は「不景気」で、「景気のイイ」時はなかった・・・アソビニンだから未だにオフクロにしがみ付いている・・・「景教」、「グロビウス」は天文学者か、建築家、「空海」は「密教」の治水土木家、「天海」は相乗効果の東照宮、宝塚の「天海ユウキ」は「女王の教室」で、「手塚治虫」は「火の鳥」・・・スクワレルのはダレなんだか・・・生きるためには「だからこそ、だろうッ」って、そのコトバの原則を当て嵌めず、軽く他人に唆して云う奴の「コトバのレトリック」に乗ってしまう、引っ掛けられてしまう・・・ナニが「だからこそ、だろうッ」なんだか・・・詐欺師がウヨウヨ・・・モチロン、ソレ、イジョウに食い物にされるイイヒトはワンサカ・・・
ーー
 景行天皇
 (ケイコウテンノウ)
 垂仁天皇十七年~
   景行天皇六十年十一月七日
 第十二代天皇
 在位=景行天皇元年七月十一日
     ~
   景行天皇六十年十一月七日
 和風諡号
 大足彦忍代別天皇
(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)
 大帯日子淤斯
ーー
 景初
 237年・干支=丁巳年・一月辛丑
 西暦の一月↑↓       ↑↓
 236年・干支=丙辰年・一月己丑
 景初
ーー
 三国時代、
 魏の
 明帝
 曹叡の
 治世三番目の元号
 237年~239年
ーー
 景初元年三月 干支=丁巳年・三月癸卯
 237年
 改元改暦して
 景初暦が施行
ーー
 景初二年八月 干支=戊午年・八月庚申
 238年
 遼東の
 公孫淵の滅亡
ーー
 西暦239年の
 寅月節分前までは
 景初二年
 以後
 景初三年寅月 干支=己未年・丙寅月から
 景初三年
ーー
 景初三年正月=一月=乙丑月ならば
 西暦240年1月
 明帝崩御
ーー↓
 景初三年正月
  ∥
 正始元年一月 干支=己未年・一月乙丑
 ならば
 西暦240年1月
ーー↓
 正始二年一月 寅月節分前までは
 正始元年
 以後
 干支=庚申年
 西暦241年
ーー↓
 斉王
 曹芳
 即位
ー↓
丑月 景初三年正月→西暦一月は前年の枠内
     二月節分前まで239年は238年
     年始正月と「一月=丑月」は違う
   元旦に明帝死去→元旦は丑月一日?
            or
           元旦は年始寅月節分?
   齊王芳即位。
午月 景初三年六月
   卑彌呼の使者、
   難升米たちが
   帯方郡を訪れる
未月 景初三年七月
申月 景初三年八月
   遼東の
   公孫淵の滅亡
子月 景初三年
   239年
   十二月
   卑彌呼の冊封詔書
   寅月を正始元年正月
   丑月を
   「後十二月」とする・・・?
   詔書
丑月 景初三年
   「後十二月」?・・・閏月、重複の月?
   一日が明帝の一周忌の命日
ーー
丑月 景初四年
   干支=庚申年・一月丁丑
   西暦239年二月節分前までは
   景初三年
ーー
   戊寅月年始節分から
   干支=庚申年
   西暦240年
   正始元年
ーー
   干支=庚申年・一月丁丑
   241年
   節分前まで
   正始元年
ーー
   正始二年
   干支=辛酉年・庚寅月節分から
   241年
ーーーー↓
   正月
 ・・・一年の年始「正月」が「寅月=二月の節分」から始まるならば、干支年「一月」の「丑月」は「前年の干支の枠内」である・・・「干支の一月=丑月」は「西暦年号の年始一月末12月の枠」からは「一ヶ月+5、6日」ほどズレル、ハズレル・・・
ーー
 淑景舎、春宮・・・[取句景者、瞬遇」・・・
 三角縁神獣鏡
 景初三年鏡の銘文
 「景初三年」鏡(島根県神原神社古墳出土)
 景初三年(239年)は魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に任命した年・・・
 景初四年
 京都府福知山市の前方後円墳
 広峰15号墳で1986年に発見
 盤竜鏡(三角縁神獣鏡の同系)
 兵庫県西宮市の辰馬考古資料館でも、
 同じ鋳型による鏡の所蔵が判明
ーーー天文官(方)・高橋至時ーーー
 明和元年十一月三十日(1764年12月22日)
  ~
 享和四年一月五日(1804年2月15日)
 字は子春
 号は東岡・梅軒
 通称作左衛門
ーーー天文官(方)・高橋景保ーーー
 天明五年(1785年)
   ~
 文政十二年二月十六日(1829年3月20日)
 文化元年(1804年)に父、高橋至時の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事
 文化七年(1810年)
 「新訂万国全図」制作
 銅版画制作は亜欧堂田善)
 「大日本沿海輿地全図」を完成
 文化八年(1811年)
 蛮書和解御用の主管
 「厚生新編」を訳出
 文化十一年(1814年)
 書物奉行兼天文方筆頭に就任
 文政十一年(1828年)
 シーボルト事件に関与して投獄
 文政十二年(1829年)
 二月十六日に獄死
 享年四十五
 獄死後、遺体は
 塩漬けにされて保存され、後日改めて引き出されて罪状申し渡しの上
 斬首刑
 公式記録では斬罪
 墓は上野の源空寺
 高橋至時・伊能忠敬・高橋景保の
 大日本沿海輿地全図
 組三人頭の墓地が並んでいる
 通称は作左衛門
 号は観巣・蛮蕪
 ・・・「現存古事記」冒頭は「日本地図」を作った人間への「敬意」であろう・・・シーボルト君・・・
ーーーーー
 枕草子
 (一〇八段)・・・壱百八段・百八段・佰捌段
          1+0+8=9=九=玖
          1×0×8=0=零
 淑景舎・・・しげいしゃ・しげいさ
ーーーーーーー↓
       淑景舎=シュクケイシャ
       平安御所の後宮の
       七殿
       五舎のうちの一
       庭に
       桐が植えてあることから
       桐壺(きりつぼ)の別名
       内裏の北東に位置し、
       南北二棟がある。
       北は淑景北舎
       宣耀殿の東、
       昭陽舎の北
       天皇の住む
       清涼殿から最も遠い
       女御(にようご)
       更衣(こうい)
       などが住んだ
       桐壺(きりつぼ・しげいしゃ)
       平安宮
       内裏五舎
         ↓
      飛香舎=ひぎょうしゃ
          ひぎょうさ
          庭に藤を植えたので
          藤壺(ふじつぼ)
          トウコ・トウグ
          ↓
         「壺(つぼ)」の類字は
          ↓
         「壼(コン)」=士+冖+亞
             おく
             しきみ
ーーーーーーーーーーーーー↓ウイッキペデア
        「閾(しきみ)」
   障子やふすまなどの建具を受ける
   溝を彫ったり、レールを付けて
   引き戸を滑らせるモノ
   敷居(シキイ)の
   磨耗防止と
   建具を滑りやすくするために
   溝にはめ込む部材を
  「埋め樫」、
   溝を彫らないものを
  「無目(むめ)敷居」という
ーーーーーーーーーーーーー↓ウイッキペデア
       シキミ(樒、櫁、梻
       Illicium anisatum
       イリシム・アニサツム)は
   シキミ科の常緑高木
   かつてはモクレン科に分類
   有毒。仏事に用いるため寺院に植栽
   シキビ
   ハナノキ(カエデ科にも別にハナノキ)
   ハナシバ
  「樒の実はもと天竺より来れり。
   本邦へは鑑真和上の請来なり。
   その形天竺無熱池の青蓮華に似たり、
   故に之を取りて仏に供す」とあり、
   一説に鑑真がもたらしたとも言われる。
   「シキミ(樒)」は俗に
   ハナノキ・ハナシバ・コウシバ・仏前草
   弘法大師が青蓮華の代用として
   密教の修法に使った
   密教では葉を
   青蓮華の形にして
   六器に盛り、
   護摩の時は房花に用い、
   柄香呂としても用いる
   葬儀には
   枕花として一本だけ供え、
   末期の水を供ずる時は一葉だけ使う。
   納棺に葉などを
   敷き臭気を消すために用いる。
   茎、葉、果実は共に一種の香気があり、
   葉を乾燥させ粉末にして
   末香・線香・丸香としても使用
   樒の香気は
   豹、狼等はこれを
   忌むので墓前に挿して
   獣が墓を暴くのを防ぐ
   毒気があるが
   その香気で悪しきを浄める力がある
   唐樒(トウシキミ)があり
   実は薬とし請来されている
   日本では自生していない
   樒は唐樒の代用
   樒は密の字を用いるのは
   密教の修法・供養に
   用いられることに由来。
ーーーーしきみ
   頻道はチャンネル?
   頻脈(しきみ・ヒンミャク)
   心拍数が増加している状態
   洞性頻脈とも呼ばれる
 ・・・「しきみ」は「死期視」だろう・・・そして「しきみ」の音訓のスベテのコトバである・・・
 「式・識・史記・詞記・子規・始期・指揮・士気・志紀・四季・磯城・私記」などの「診・視」である・・・
ーーーーーーーーーーーー↓壼(コン)
             へやのつろ
             宮中の道
             部屋を連絡する通路
             奥の間
            壼訓(コンクン)
婦女のしつけ
婦女教育・女訓
            壼奥(コンオウ)
 宮中の奥深いところ
 物事の奥底
         ↓
ーーーーーー壷↓つぼ・ゴ・グ
      壺中(コチュウ)之天
      壺中の天地
      後漢の
      費長房が、
      市中に
      薬売りの老人が
      売り終わると
      壺の中に入るのを見て
      一緒に入れてもらったところ
      豪邸があり、
      美酒・佳肴(かこう)が
      並んでいたので、
      ともに飲んで出てきた
     「後漢書・方術伝の故事」
      俗世間を離れた別世界
      酒を飲んで俗世間を忘れる楽しみ
      仙境の心地
ーーーーーー壷↓つぼ・ゴ・グ         
      凝花舎=ぎょうかしゃ
          ぎょうかさ
          庭に紅白の梅が植えたので
          梅壺(うめつぼ)
      襲芳舎=しゅうほうしゃ
          しほうしゃ
          しほうさ
          庭に霹靂の木、
          落雷を受けた木があった
          雷鳴の時に天皇が避難し
          滝口武者に鳴弦させたので
          雷鳴壺(かんなりのつぼ)
      昭陽舎=しょうようしゃ
          しょうようさ
          庭に梨が植えられていたので
          梨壺(なしつぼ)
          梨、紅梅、藤、桜、菊等も
          植えた
      淑景舎=しげいさ
          しげいしゃ
          女御・更衣の住居
          女御・更衣の通称
          桐壷(きりつぼ)
  ・・・きり(記理・紀理)、ふじ(附字)、うめ(埋・生・膿)、かんなり(漢名理)、なし(名詞・納史)・・・
  ・・・「壺=壷(つぼ・コ・グ)」と「壼=(しきみ・コン)の漢字の意味が「混乱・混用」したのは「江戸時代」である。「つぼ」は江戸城大奥の「お局(つぼね)」のヨミからの混用である・・・ならば「桐壺(きりつぼ)」のタイトルは江戸時代以降のコトバである。
 本来は「桐壼(トウカン・ドウカン)」で、「桐の壼(しきみ)=閾(しきみ)」か、「桐の壼(つろ→脈・筋・絡・溝・通路)」の「軋(きし)み」で、宮廷の女たちの「確執→各室」の「軋轢(仲が悪くなること)」の「場」の懸けであろう・・・
ー↓ーーーー
 春宮に・・・東宮・皇太子の住む宮殿
       みこのみや・皇太子の称
       ひつぎのみこ
       とうぐう→問う寓→唐具有
                  唐虞有
              虞=おそれ・憂え
ーー
 まゐり・・・真意理
 給ふ・・・
 ほどの・・・
 事・・・字
 など、・・・
 いかが・・・異化臥
 はめ・・・填め・嵌め・羽目・破目
 でた・・・出多
 からぬ・・・
 事・・・
 なし。・・・
 正月・・・
 十日に・・・
 まゐり・・・
 給ひて、・・・
 宮の・・・
 御方に・・・音加太
 御文・・・音附見
 などは・・・
 繁う・・・しげる・ハン・ボン
 通へど、・・・
 御・・・音
 對面・・・他意免→免=まぬがれる・メン・ベン
 などは・・・
 なきを、・・・
 二月・・・
 十日、・・・
 宮の・・・
 御方に・・・
 渡り・・・
 給ふべき・・・
 御・・・
 消息・・・
 あれば、・・・
 常よりも・・・
 御・・・
 しつらひ・・・
 心・・・
 ことに・・・
 みがき・・・
 つくろひ、・・・
 女房・・・
 なども・・・
 皆・・・
 用意・・・
 したり。・・・
 夜半・・・
 ばかりに・・・
 渡らせ・・・
 給ひ・・・
 しかば、・・・
 いくばくも・・・
 なくて・・・
 明けぬ。・・・
 登華殿の・・・トウ カデン
        唐  家伝
        トウ 化伝
        中華(中国)に上った伝
        登華殿の中宮には、藤原定子
 東の・・・・・ひがし
        比臥詞(史)
 二間に・・・・ふたま
        附他真・爾兼
 御・・・・・・音
 しつらひ・・・詞通等比→視辛い
 は
 したり。・・・詞他理
        したり=強引
 翌朝・・・・・与句調・与口調
 いと・・・・・意図
 疾く・・・・・解く
 御・・・・・・音
 格子・・・・・行使・請うし・効し
        行詞・講師・嚆矢
        耕氏?→山田耕作
         ↓
        明治十九年 (1886)
        昭和四十年(1965)
        赤とんぼ
        待ちぼうけ
        この道
        からたちの花
        ペチカ
ーー
 まゐり
 わたして、
 あかつきに、
 殿、
 うへ、
 ひとつ
 御
 車にて
 參り
 給ひに
 けり。
 宮は御曹司の南に、四尺の屏風西東に隔てて、北向に立てて、御疊褥うち置きて、御火桶ばかりまゐりたり。御屏風の南御帳の前に、女房いと多くさぶらふ。
 こなたにて御髮などまゐるほど、「淑景舎は見奉りしや」と問はせ給へば、「まだいかでか。積善寺供養の日、御うしろをわづかに」と聞ゆれば、「その柱と屏風とのもとによりて、わがうしろより見よ。いとうつくしき君ぞ」との給はすれば、うれしくゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。
 紅梅の
 固紋、
 浮紋の
 御衣どもに、
 紅の
 うちたる
 御衣、
 三重が
 うへに
 唯
 引き
 重ねて
 奉りたるに、
 「紅梅には
  濃き
  衣
  こそ
  をかしけれ。
  今は
  紅梅は
  著でもありぬべし。
  されど
  萌黄などの
  にくければ。
  紅には
  あはぬ
  なり」
 との給はすれど、
 唯
 いと
 めでたく
 見えさせ
 給ふ。
 奉りたる
 御衣に、
 やがて
 御容の
 にほひ
 合せ
 給ふぞ、
 なほ
 こと
 よき
 人も、
 かくや
 おはし
 ます
 らんと
 ぞ
 ゆか
 しき。
 さてゐざり出でさせ給ひぬれば、やがて御屏風に添ひつきてのぞくを、
 「あし
  かめ
  り、
  う
  しろ
  め
  たき
  わざ」
 と聞え
 ごつ
 人々も
 いとをかし。
 御
 障子の
 廣う
 あきたれば、
 いと
 よく
 見ゆ。
 うへは
 白き
 御衣ども、
 紅の
 はりたる
 二つばかり、
 女房の
 裳
 なめり。
 引きかけて
 おくに
 よりて、
 東面に
 おはすれば、
 ただ
 御衣など
 ぞ
 見ゆる
 淑景舎は
 北に
 すこし
 よりて
 南向に
 おはす。
 紅梅ども
 あまた
 濃く
 薄くて、
 濃き
 あやの
 御衣、
 少し
 あかき
 蘇枋の
 織物の
 袿、
 萌黄の
 固紋の
 わかやかなる
 御衣
 奉りて、
 扇を
 つと
 さし
 隱し
 給へり。
 いと
 いみじく、
 げに
 めでたく
 美しく
 見え
 給ふ。
 殿は薄色の直衣、萌黄の織物の御指貫、紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱に後をあてて、こなたざまに向きておはします。めでたき御有樣どもを、うちゑみて、例の戲言をせさせ給ふ。淑景舎の、繪に書きたるやうに、美しげにてゐさせ給へるに、宮いとやすらかに、今すこしおとなびさせ給へる御けしきの、紅の御衣ににほひ合せ給ひて、なほ類はいかでかと見えさせ給ふ。
 御手水まゐる。かの御かたは宣耀殿、貞觀殿を通りて、童二人、下仕四人して持てまゐるめり。唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狹しとて、かたへは御おくりして皆歸りにけり。櫻の汗衫、萌黄紅梅などいみじく、汗衫長く裾引きて、取り次ぎまゐらす、いとなまめかし。織物の唐衣どもこぼれ出でて、すけまさの馬頭のむすめ、小將の君、北野の三位の女、宰相の君などぞ近くはある。あなをかしと見るほどに、この御かたの御手水番の釆女、青末濃の唐衣、裙帶、領巾などして、おもてなどいと白くて、下仕など取り次ぎてまゐるほど、これはたおほやけしう唐めきてをかし。
 御膳のをりになりて、御髮あげまゐりて、藏人どもまかなひの髮あげてまゐらする程に、隔てたりつる屏風も押しあけつれば、垣間見の人、かくれ蓑とられたる心地して、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱のもとよりぞ見奉る。衣の裾裳など、唐衣は皆御簾のそとに押し出されたれば、殿の、端のかたより御覽じ出して「誰そや、霞の間よりみゆるは」と咎めさせ給ふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならん」と申させ給へば、「あなはづかし。かれはふるき得意を、いとにくげなる女ども持ちたりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顏なり。あなたにも御膳まゐる。「羨しく、かたがたのは皆まゐりぬめり。疾くきこしめして、翁女におろしをだに給へ」など、ただ日ひと日、猿樂ことをし給ふ程に、大納言殿、三位中將、松君も將てまゐり給へり。殿いつしかと抱き取り給ひて、膝にすゑ給へる、いとうつくし。狹き縁に、所せき日の御裝束の下襲など引きちらされたり。大納言殿はものものしう清げに、中將殿はらうらうじう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、うへの御宿世こそめでたけれ。御圓座など聞え給へど、「陣につき侍らん」とて急ぎ立ち給ひぬ。
 しばしありて、式部の丞なにがしとかや、御使にまゐりたれば、御膳やどりの北によりたる間に、褥さし出でて居ゑたり。御かへりは今日は疾く出させ給ひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、東宮の御使に、ちかよりの少將まゐりたり。御文とり入れて、渡殿は細き縁なれば、こなたの縁に褥さし出でたり。御文とり入れて、殿、うへ、宮など御覽じわたす。「御返はや」などあれど、頓にも聞え給はぬを、「某が見侍れば出で給はぬなめり。さらぬをりは間もなくこれよりぞ聞え給ふなる」など申し給へば、御面はすこし赤みながら、少しうち微笑み給へる、いとめでたし。「疾く」などうへも聞え給へば、奧ざまに向きて書かせ給ふ。うへ近く寄り給ひて、もろともに書かせ奉り給へば、いとどつつましげなり。宮の御かたより、萌黄の織物の小袿袴おし出されたれば、三位中將かづけ給ふ。くるしげに思ひて立ちぬ。
 松君のをかしう物のたまふを、誰も誰もうつくしがり聞え給ふ。「宮の御子たちとて引出でたらんに、わろくは侍らじかし」などの給はする。げになどか、今までさる事のとぞ心もとなき。
 未の時ばかりに、筵道まゐるといふ程もなく、うちそよめき入らせ給へば、宮もこなたに寄らせ給ひぬ。やがて御帳に入らせ給ひぬれば、女房南おもてにそよめき出でぬめり。廊に殿上人いと多かり。殿の御前に宮司召して菓子肴めさす。「人々醉はせ」などおほせらる。誠に皆ゑひて、女房と物いひかはすほど、かたみにをかしと思ひたり。
 日の入るほどに起きさせ給ひて、山井の大納言召し入れて、御うちぎまゐらせ給ひて、かへらせ給ふ。櫻の御直衣に、紅の御衣のゆふばえなども、かしこければとどめつ。山井の大納言は、いりたたぬ御兄にても、いとよくおはすかし。にほひやかなる方は、この大納言にもまさり給へるものを、世の人は、せちにいひおとし聞ゆるこそいとほしけれ。殿、大納言、山井の大納言、三位中將、藏人頭など皆さぶらひ給ふ。
 宮のぼらせ給ふべき御使にて、馬の内侍のすけ參り給へり。「今宵はえ」などしぶらせ給ふを、殿聞かせ給ひて、「いとあるまじき事、はやのぼらせ給へ」と申させ給ふに、また春宮の御使しきりにある程いとさわがし。御むかへに、女房、春宮のなども參りて、「疾く」とそそのかし聞ゆ。「まづさば、かの君わたし聞え給ひて」との給はすれば、「さりともいかでか」とあるを、「なほ見おくり聞えん」などの給はするほど、いとをかしうめでたし。「さらば遠きをさきに」とて、まづ淑景舎わたり給ひて、殿などかへらせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道のほども、殿の御猿樂ことにいみじく笑ひて、ほとほとうちはしよりも落ちぬべし。

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