・・・昨日のNHKの「歴史秘話ヒストリア」の「群馬県の保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん・八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳の3つの前方後円墳が集積する古墳群)」、古墳は九州と畿内など、「江田-船山古墳(熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)・清原(せいばる)古墳群の中で最古・最大の古墳・日本最古の記録文、75文字の銀象嵌銘をもつ大刀が出土」を調べてはいたが、関東や群馬の古墳には疎かった・・・スゴイね、古墳の現代的復元保存。火山灰にウヅまっていたのを復元ですか・・・いつの時代の火山灰なんだろう・・・「約1,500年前の豪族が葬られた墓」・・・「埴輪(はにわ)の顔」は柔和で、優しい・・・「縄文土器」には「自然の激しさの動き」を感じるモノもあるが・・・「彌生時代」の「はにわ」や「え」は概(オオムネ)が静止的である・・・
兎に角、「字通部通(じつぶつ)」よりも、「実物(ジツブツ)」を目で確認した方がイイだろうが、それらの情景の「理解説明」は個々人のイメージと、個々人の「認識知識の経験範囲」で様々であろう・・・「事実」を知る為には「タイムマシン」が必要であるが、ムリだろう・・・やっぱ「文字での情報説明」が欲しいが、「文字」以前は「遺された遺物の形(形象)での情報伝達」であろう・・・
それでも、現在は「視覚と聴覚」の「ビデオ(YOU-TUBE)」での情報であるが・・・「有得註部」であるカナ・・・
ボクにとって「草書」では「漢文」でも「和文」でも、「和漢混交文」でも解読が難しい・・・
「草稿の原本(原稿)」は「草書」で、「校正本」は「楷書」で印刷・・・「楷書写本」では「草書の書き手の意味」が「異字体漢字(形態は相似)」だったモノが「楷書の漢字転換」で異なったの意味の「楷書文字」になる・・・
「楷書」でも「細かい漢字」は老眼になってしまっては「読み辛い」から「ヨメない」・・・でアルなッ・・・「滝沢馬琴」さん・・・
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「南総里見八犬伝」の
「曲亭馬琴=滝沢馬琴=瀧澤興邦
幼名、春蔵、倉蔵
通称、左七郎、瑣吉(さきち)
号に著作堂主人
笠翁(リツオウ)
篁民(コウミン)
蓑笠漁隠(サリツギョイン)
飯台陳人(ハンダイチンジン)
玄同(ゲンドウ)など
明和四年六月九日(1767年7月4日)
~
嘉永元年十一月六日(1848年12月1日)
長女
「幸(さき)」の
婿養子は、
吉田新六(清右衛門)
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67歳の馬琴
右眼を失明
左眼もかすむ
73歳で失明
↓
息子の
「宗伯」の妻の
「お路」が口述筆記
馬琴の妻の
「お百(会田氏の娘)」が嫉妬
「お百」は
天保十二年(1841年)に死没
子供
幸、祐、興継(宗伯)
渥美氏に嫁した
鍬
嫁は
興継の妻
「みち(土岐村路)」
その子供に
太郎、つぎ、ちさ
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馬琴のペンネームは
『十訓抄(野相公=小野篁)』
「索婦詞」
の一節
「才非馬卿弾琴未能
(才、馬卿(司馬相如)に非ざれば、
琴を弾くこと未だ能わず)」
から」採用した・・・とか・・・
・・・「侖(liuan-luan、リン-ロン)」が「短冊を揃えた」から「そろえたモノ」の象形文字ですか・・・なるほど「倫理・倫敦」は人間関係、「論理・言論」はコトバの関係、「告諭(喩)・揶揄・愉快」は気持ち、「経綸」はお経の教え・「車輪・競輪」はクルマの両輪の関係・・・「音符」に相当する漢字と、意味の類別を表す「意符」が組み合わさった「形声文字」が形成され、一文字漢字の「音素・単音」の漢字が少ない・・・秦の始皇帝が「字体統一」・・・
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亀甲獣骨文字(甲骨文字)→金文文字(青銅器などへ刻文)
小篆
↓
→篆書体文字
→隷書文字
→草隷(隷書の走り書き、崩し書き文字)
→楷書(隷書を直線的に書いた文字)
→行書(楷書の崩し書き文字)
→則天文字(則天武后の創作文字)
→宋朝体(木版技術の楷書の印刷書体)
→明朝体文字
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歴代王朝の科挙試験、国家組織では
「正字=楷書」漢字だったが、
一般庶民では「通字」や「俗字」と呼ばれる漢字が使われた・・・
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「説文解字」
最古の
部首別漢字字典
後漢の
許慎(キョシン)の著作
和帝
永元十二年(西暦100年)成立
建光元年(121年)
に許慎の子の
許沖(キョチュウ)が
安帝に奉った
本文十四篇
叙(序)一篇
の十五篇
小篆の見出し字
9353字
重文(古文・籀文および他の異体字)
1163字
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漢字書体
篆書・隷書・草書・行書・楷書
楷書の印刷書体=明朝体
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→片仮名(日本)文字
→平仮名(日本)文字
→国字の漢字(日本)文字・・・
→常用「新漢字」文字
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・・・「日本の文字」は「江戸時代~明治」の知識人の脳ミソを踏まえる必要があるのでは・・・?
「ロウガン」から・・・また、とんでしまった、「バキン」さん・・・楷書漢字の「かくりつ=確立=化句理通(椄)?」・・・そして「日本の国字は約1,500」・・・
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「卑彌呼」と「壹與」・・・
「倭人」は「俀人」、「和人」、「日本人」になったのか?・・・
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「麻氐(弖)良布(須)・・・草書では「布と須」は類似
(まて らふ(す)
アサテラフ=あまてらす
アサテラス)」神社
「朝倉・浅倉・麻倉=あさくら」神社・・・
チョウソウ・センソウ・マソウ・・・字句等・・・?
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「卑弥(彌)呼」=「俾彌呼(三国志・魏書帝紀)」
「卑・鬼」→「甶(フツ)
囟(ひよめ・シン)」
は
写本版本には「田」
「囟」は頭蓋骨
細思偲鰓などが類字漢字
卑=甶+ノ+十
鬼卑胄冑甹
由+ノ+十
曳
卑=ノ+田+ノ+十
畀界異里畠雷
苗葍奮番
冨富(とみ・フ)
當(あてる・トウ・当てる)
罍(もたい・ライ・酒樽・酒壜)
纍(つづる・ライ・ルイ・累)
翼
胃甼男毘累勇
思(恩)=因+心→囟=心?
(原)因+心
「おど」=「入江」=「へそ(毘・𦜝)」・・・
「日向(ひゅうが・ひむか)」・・・
「夜須=やす=安=靖=野洲=康」・・・靖国神社?
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本を読むよりも個々人の脳ミソにとっては「youtubeの映像と音声」が手っ取り早いカモ・・・
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草書体で解く邪馬台国の謎(井上悦文 久留米地名研究会)
https://www.youtube.com/watch?v=U1D0EURZBpY
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歴史探訪・邪馬台国を追って (ハイビジョン編集)
https://www.youtube.com/watch?v=yetoX6MC63U
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保渡田古墳群(群馬県高崎市)
https://www.youtube.com/watch?v=RkxLxVRI358
群馬県
榛名山の南麓の
保渡田・井出の地
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八幡塚古墳
前方部前面の
中堤上に
円筒埴輪列で方形に区画された部分から
人物類、
ウマ(馬)
ニワトリ(鶏・雞)などの家畜
イノシシ(猪)
水鳥(鵜・鸕・鴨)
狩猟鳥獣の
形象埴輪が出土
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保渡田・・・・・・・・・保(たもつ・ホ)
渡(わたる・ト)
↓↑ 田(た ・デン)
八幡塚古墳
鵜(鸕)形埴輪が出土
首を高く上げ
口に
魚を・・・・・・・・作掛名・・・うお・まな→真名=漢字
銜(くわ)え、・・・句和得
首に
鈴のついた
首紐(くびひも・シュチュウ)
が付けられた
鵜(う・鸕)の姿
鵜(鸕)を用いて
川漁を行う鵜飼は
文献史料では
古代中国の
「隋書」
「古事記」
「日本書紀」
などに記録・・・「銅鐸(袈裟襷文銅鐸・伝香川県出土)」
にも描かれている足長の鳥
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二子山古墳・・・・・・二語・二古・弐語・双子
ふたご=双生児=創生異字
墳丘部が三段築成
周濠は
馬蹄形で
二重
内濠部に
後円部を囲むように
くびれ部
斜面側後方部分に中島を4基配置
墳丘・中島・中低部とも
川原石で
葺石としている
埴輪円筒列を巡らしている
丘北側の中堤部分の一角から
外濠西北隅の外側部分に
人物埴輪
飾馬(馬具を装着した馬)
猪(いのしし)
犬(イヌ・狗・戌)
盾(たて)
蓋(きぬがさ)
家(いえ)
などの
形象埴輪を・・・・情報物体を
配置した・・・・・葉位置(意知)
区画・・・・・・・くかく・クガ
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薬師塚古墳・・・・ヤクシジ→訳詞字
天和三年(1683年)
発掘されたとされる
凝灰岩製の
舟形石棺・・・・・ふながた・ふねがた→附音臥他
(長さ2.9メートル)
が
後円部頂部に保存
その時に出土した
仿製(ボウセイ)内行花文鏡
鋳銅製馬具類
玉類が
西光寺に伝来・保管
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・・・「邪馬台国」、「邪靡台国」、「邪馬臺国」、「邪馬壹(壱)台国」・・・記録的には「銅鏡」だが、「銅鐸」の記録は無い・・・「銅鐸」は「さなぎ(蛹・佐名木・真木・佐薙・佐柳)=かいこ(蚕)=さらぎ(蛇穴・沙羅祁・沙良祇・佐良ぎ・咲良ぎ」と呼ばれていたのカモ・・・
「大仏=大佛(だいぶつ、おさらぎ)」とは、「若木」=「大仏」で、「おさなぎ」→「おさらぎ」になった・・・
「オホ(大)サラギ(新参者)」であった・・・
寺院に関係しない「山の斜面」などに散見される地名のひとつ。
大和言葉の「オホ(大)ソレ(焼畑)キ(場所)」の変化で、山地の焼畑のあった場所を指す言葉が転じた・・・
「大仏(だいぶつ、おさらぎ)」は、日本各地にある地名・・・
「ほのか(かすか)」、 「物事の正しい道筋」・・・
「煩悩の 結び目を「解く=ほどく」という意味から・・・
あるいは仏教が伝来した欽明天皇のときに
「ほとほりけ(ホトボリ気)」、すなわち「熱病」が流行したためにこの名がある・・・「ホトボリが冷める」、「ほとぼり」は「余熱(熱)」で、「ほ( 火)」+「とほり(通り)」から、「火(ほ)点り(とぼり)」で「余熱」・・・?
「ホトほり」が醒めるとは、「交具合(まぐあい・性交・情交)」のヨイン・・・
「ほと」は古い日本語で女性器の外陰部・御陰、陰所、女陰の字を宛てる」、転じて「女性器の外陰部のような形状、 形質(湿地帯など)、陰になる場所の地形」をさす地名・・・
「伊邪那美(イザナミ)は、女陰(ホト・蕃登)を産んだ息子に焼かれて死んだ」、
「三輪山の大物主の大蛇の姿をみた娘は箸で突いて死んだ」、
「機織り女の巫女はホトを杼(ひ)で突いて死んだ」、
「照大神の服織姫は女陰(ホト)を杼で突いて死んだ」、
「倭迹迹日百襲姫が箸で女陰をついて死んだ」、
「素戔烏に皮を剥いだ馬(駒・こま=狛・高麗)を投げ込まれ、杼でホトを突いて死んだ」、
「天の機織り女、おカイコの機織部で、呼は蚕の意味」・・・
「ホトケ=仏像」は金銅の鋳物で、「銅鐸」も「銅鏡」も鋳物である。鋳物には火で熔解した胴を流し込む「カナガタ(金型)」が必要である・・・「さなぎ」とは「蚕(かいこ・サン)」のカナガタだが、糸をツムグ前に「蛹(さなぎ)」の中の生きている「蚕」を「熱湯で殺す」のである・・・ホトリが冷めた段階で、紡ぎの作業が始まる・・・
「つむぐ(紡ぐ)」
名詞「つむ(錘)」の動詞化
「綿 や繭 (まゆ) を
錘 (つむ) にかけて繊維を引き出し、
縒 (よ) りをかけて糸にする」・・・
「眉輪(目弱)の皇子」は「つぶら(圓・円)の大臣(おみ)」の屋敷に逃げ込んで「雄略天皇」に殺された・・・
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「虫祭り」は「旧6月24日」である・・・
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「秦河勝」
「山城国葛野の出身。聖徳太子の側近として活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある[要出典]。
「秦河勝」
用明天皇二年(587年)
「丁未の乱」で
物部守屋の追討戦に従軍
厩戸皇子を守護し
守屋の首を斬った
推古天皇十一年(603年)
聖徳太子より
弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、
蜂岡寺を建てそれを安置
推古天皇十八年(610年)
新羅の使節を迎える導者として
土部菟とともに当る
皇極天皇三年(644年)
駿河国
富士川周辺で、
「大生部多」の
常世神
(害虫・投機的なニセ蚕の養蚕)・・・明治の群馬の養蚕
事業が投機的に
なった事件があった
群馬県「富岡製糸場」
小田村伊之助(楫取素彦)は
久坂玄瑞の妻となった吉田の妹
杉文(楫取美和子)と再婚
を崇める集団を追討
赤穂の坂越で死没
生島には秦河勝の墓
坂越湾に面して
秦河勝を祭神とする
大避神社が存在・・・ダビデ?が鎮座」
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「大仏次郎(おさらぎじろう)」とは
「大佛次觔」
1897年(明治30年)10月9日
~
1973年(昭和48年)4月30日)
小説家
野尻 清彦(のじり きよひこ)
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「鞍馬天狗とは倉田典膳(繕)君、君のコトだな」
「いかにも、君は新撰組の局長、近藤勇か」
・・・