・・・前回、「足=あし」にコダワッタが、今回も「あし・アシ」にコダワル・・・
ーーーーー
足尾地名
↓↑
ねずみ(鼠)の話
「勝道上人」という僧侶が
日光の寺にいたとき
ある日一ぴきの「ネズミ」が
粟や稗の穂を
咥(くわ)えて
どこからともなくあらわれたり
姿を消したりしたので
上人はこの山奥に
粟や稗の穂があるはずがないと
不思議に思って
ネズミの足に
ひも(緒・紐)を結び
目じるしにして
あとをつけてみると
山の麓(ふもと)の方に
人家があった
そこで上人はここを
「足緒」と名付けた
後に
「足尾」となった
山の
麓(ふもと)・・・足尾=山裾(やますそ)?
「足」は「山」ではないが、
「あしび-き=足曳き・足引き」は
山(やま・やま-い)に掛かる枕詞
「足尾」=「あしビ(き)・たりビ(き)」
「尾=尸+毛」・・・屍の毛人(蝦夷)?
の延びたところを
「尾」ということや
山の峰つづきを
「尾根(おね)」・・・
足尾の近くには
「細尾」や
「粕尾」→粕尾峠(かすおとうげ)
栃木県鹿沼市(上都賀郡粟野町)
から
日光市(上都賀郡足尾町)を結ぶ峠
という地名がある
ーー↓↑ーー
粕尾七不思議(かすおナナふしぎ)
栃木県鹿沼市(旧粟野町)
粕尾地方に居た名医
中野智玄(録事法眼・録事尊)
の雷神の治療伝説と関連づけて語られ
鹿沼市(中・上)粕尾の
思川沿いの
不思議のうちの七つを集めて言う・・・
「粕尾の民俗」
不思議の原因説明されている
↓↑
雷による怪我(ケガ)の被害がない。
「思川」の川筋が変らない。
「思川」の川越えをする地点が変らない。
川沿草地の雑草の背丈が
1尺程度と低く
「チチコグサ=父子草」が生えない。
「蚤(ノミ)」のたかった「猫」が居ない。
「鶉(ウズラ)がここでは鳴かない。
「轡虫(クツワムシ)」や
「鈴虫(スズムシ)」の鳴き声が小さい。
平安時代末、or 鎌倉時代に
ここに居たと言う名医、
中野智玄の治療した
雷神からの
恩返し伝説で理由付け
地元の寺院
常楽寺に残る記録、
「録事尊縁起」によれば、
「後鳥羽上皇の病」を治して
「録事法眼」の号を受けた名医、
中野智玄の所へ、
病に難渋する雷神がやってき
治療をして貰い完治し
御礼に、この地域へ雷害が無い事を約束
雷神の神力による
降雨により、
思川の治水工事を完成させ、
思川の川の
流れや形が
末代まで変らないようにさせた
その為、
「下・中・上粕尾」では、
治水工事をしなくても
水害が無い
中粕尾の中で
布施谷地区~森地区
までの間だけは、
雷神の事業から除外され、
治水の効力は概ね
粕尾城跡より上流の地域か、
常楽寺のある下粕尾かに
分断されているとの
「但し書き伝説」がある・・・らしい・・・
雷神より
「龍起雷論」と言う医学書を賜った・・・
ーー↓↑ーー
勝道上人とゆかりのある
鼠(ねずみ)が
入ったという
祠(ほこら・洞)・・・「猫ヶ洞」って名古屋にもあった
が
大黒橋のたもとにあり
波之利大黒天・・・「ハシリ」or 「なみのり」か?
として祀られている
大黒天まつり
川は
渡良瀬川
支流に袋川
北に続く
足尾山
山川遺跡
長林寺遺跡
宮先古墳群
前方後円の
山川鞍部古墳群
↓↑
足利
↓↑
「フランシスコ・ザビエル」が
「日本国中最も大にして有名なる坂東の大学…」
と紹介した・・・
「足利学校」
「足利」=「和名抄」に
「阿志加々」・・・「阿(毎)の志し」を
「加えに加える」?
足利氏発祥の地
「アシカガ」=「葦+カガ(草地)」
「葦か処(ガ)」
「アシ」=崩れそうな断崖地形?
古語「アス・アズ」+「カガ(草地)」
足を踏み入れては
いけない神聖な土地(禁足地)
↓↑ ↓↑ ↓↑
標=神や人の領有区域で
立ち入りを禁ずる標識
道しるべの標識
縄を張ったり、木を立てたり
草を結んだりする
標縄(しめなは)」の略
・・・アシを入ることを忌む領域・・・バリア(barrier)
標野(しめの)=皇室、貴人が領有し
一般の立ち入りを禁止した野
狩り場 などに用いた
「禁野(きんや)」とも
万葉集 二〇
「あかねさす
紫野(むらさきの)行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖(そで)振る
↓↑
あかねさす紫野行き
標野行き
野守は見ずや
君が袖振る
↓↑
天皇の、蒲生野(かまふの)に
遊猟(みかり)したまひし時に、
額田王の作れる歌
↓↑
あかねさす
紫野(むらさきの)行き
標野(しめの)行き
野守(のもり)は見ずや
君が袖振る
巻一(二十)
↓↑
万葉仮名
茜草指
武良前野逝・・・逝=死ぬことを婉曲にいう語
逝去・永逝・急逝・長逝
夭逝 (ヨウセイ)
標野行・・・・・行=往く
野守者不見哉
君之袖布流
↓↑
紫草(むらさき)の
にほへる妹(いも)を
憎くあらば
人妻ゆゑに
われ恋ひめやも
↓↑
万葉仮名
紫草能
尓保敝類妹乎
尓苦久有者
人嬬故尓・・・嬬=女+需=女嬬・女孺・女豎=ニョジュ
吾戀目八方 律令制で、宮中に仕えた下級の女官
堂上の掃除、灯油のことなどを掌どった
女の童(わらわ)・にょうじゅ
中国では「后・妃・夫人・嬪(ひん)」
などに仕えた女官
嬬恋=嬬恋村の名前由来
第十二代景行天皇の皇子
「日本武尊」の東征中
愛妻「弟橘姫」が海に身を投じ
その東征の帰路、
碓日坂(鳥居峠)で
「吾嬬者耶(あづまはや)=ああ、わが妻は
もはやいない
という故事にちなんで
「嬬恋(つまこい)の村」と名付けた
妻=嬬
嬬=女官=かんにょ・カンジョ=官女・勘如
↓↑
吾戀目八方=われ恋ひ-め-やも(八方=者耶)?
↓↑ 「目-八方」は
↓↑ 同音異字が多数掛けられている?
大海人皇子(おおあまのみこ)
↓↑
紫の、匂(にほ)へる妹(いも)を
憎くあらば、
人妻ゆゑに、
我れ恋ひめやも
↓↑
紫のように美しい君
君を憎く思うのなら
人妻になったゆえに
わたしの想いはつのるのだ
↓↑
額田王=最初は「天武天皇の妃(采女や巫女・愛人)」で
↓↑ 娘の「十市皇女」を産み・・・十一・拾壱・足壹
↓↑ 後に「天智天皇の側室」となった・・・?
↓↑ 「十市皇女」は「大友皇子(弘仁天皇)」の妃
「日本書紀に曰く
(天智)天皇、七年の夏五月五日
蒲生野(がもうの)で狩が行われ
皇太弟(大海人皇子)、
諸王
内臣(うちのまえつきみ)
及び
群臣(まえつきみたち)
皆ことごとく従った
ーー↓↑ーー
・・・「足」の地名・・・
↓↑
足洗
足尾
足門
足川
足久保
足込
足摺岬
足高
足立
足谷
足次
足成
足野
足原
足深
足水
足守
足山田
足代
足近
足助
足羽
足高
歌津名足
大足
夏足
鎌足
金足
上足洗
上足寄
上種足
旭志尾足
屈足
日足
神足
坂足
下足守
下種足
地不足道
千足
洗足
立足
足袋
足崎
足田
足山
足沢
足見
知足
左足
都喜足
十足
中足寄
足保
水足
上井足
下井足
意足
発足
日足
平足
帆足
足坂
溝足
足袋針
足見
百足屋
茂足寄
足駄木
勇足
過足
鷲足
ーー↓↑ーー
足尾銅山
1550年(天文19年)に発見
1610年(慶長15年)
百姓二人が鉱床を発見
足尾に幕府は
鋳銭座(寛永通宝の発行)設置
↓↑
足尾鉱毒事件
1891年(明治二十四年)
田中正造
明治天皇に直訴
衆議院議員当選6回
幼名は兼三郎
下野国
安蘇郡・・・ナゼか「安蘇=あそ」?
小中村
↓↑
田中正造は
1901年(明治三十四年)十二月十日
「亡国に至るを知らざれば
之れ即ち亡国の儀につき質問書」
を
明治天皇に
足尾鉱毒事件について直訴
直訴状は、
幸徳秋水が書き田中が加筆修正
↓↑
1902年(明治三十五年)
渡良瀬川下流に貯水池計画浮上
建設予定地の
埼玉県
川辺村・利島村
の
反対運動に参加し、
貯水池計画は白紙撤回
1903年(明治三十六年)
栃木県下都賀郡谷中村に
貯水池計画
1904年(明治三十七年)七月
谷中村に居住
栃木県会は秘密会で
谷中村買収を決議
貯水池工事開始
1906年(明治三十九年)
谷中村議会は
藤岡町への合併案を否決
だが、
栃木県は
「谷中村は藤岡町へ合併した」
と発表
谷中村は強制廃村
田中はその後も谷中村に住み続け
1907年(明治四十年)
政府は土地収用法の適用を発表
「村に残れば犯罪者となり逮捕される」
と威し
村民が村外に出たが
田中は強制破壊当日まで
谷中村に住み続けた
1908年(明治四十一年)
政府は谷中村全域を河川地域に指定
↓↑
1911年(明治四十四年)
旧谷中村村民の
北海道
常呂郡
サロマベツ原野
への
移住が開始・・・
北海道常呂郡
訓子府(クンネップ)町?
常呂町(ところちょう)は、
↓↑
北海道網走支庁管内の
常呂郡に存在した町で
↓↑
2006年(平成18年)3月5日
に
北見市、留辺蘂町、端野町
と新設合併し、
北見市の一部となった
(住所表記は北見市常呂町)
↓↑
「桃原墓」・・・ハライソ
奈良県
明日香村
島之庄
の
石舞台古墳=蘇我馬子・・・馬韓=百済・・・邪馬台国
(馬子=うまこ
=バシ=馬史(司馬遷)→馬太
=まご=孫→天孫降臨)
日本古代の乳製品
醍醐・蘇・配・乳耕 (乳月南)
の4種
ー↓↑ーー↓↑ーー↓↑ーー
蘇我・・・耶蘇教・・・基督教・・・景教
↓↑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E5%AE%9A%E6%96%B9
↓↑
蘇定方(ソテイホウ)
↓↑
592年~667年
名を烈
字は定方
本貫は
冀州
武邑県
蘇邕の子
隋末に
蘇邕は
郷里の数千人を率いて
叛乱の討伐にあたった
定方は15歳で
父の下で従軍し
蘇邕が死去すると
代わってその部衆を引き継ぎ
劇県・・・・劇に懸る?
の
叛乱軍の
張金称
楊公卿
らを撃破
叛乱軍は郡境を犯さなくなり
郷党はかれを頼りにした
後、
竇建徳・・・竇(あな)の=中国語読み「ドゥオー・dou」
鼻窦炎副鼻腔炎
疑窦疑わしい点
狗窦(塀などに設けた)
犬の出入りする穴
情窦未开初(ウブ)
男女間の性的関係について
ウブ・・・
建(たける)の
徳(とく)
の麾下に入り
竇建徳
の部将の
高雅賢・・・高の雅(カラス)は賢(かしこい)?
に気に入られ
高雅賢の養子となった
高雅賢
と
劉黒闥
が死ぬと、
定方は郷里に帰った
↓↑
唐の
貞観初年
匡道府折衝となり
李靖の下で
二百騎を率いて
突厥を攻撃の先鋒をつとめ
霧の中で
牙帳・・・牙帳=將帥所居的營帳
前建牙旗、故名
(周書・異域傳下・突厥)
可汗恒 處於都斤山
牙帳東開、蓋敬日之所出也。
陣地・帳幕・ゲル
↓↑
を襲撃
突厥の
頡利可汗
は狼狽して逃亡
李靖が到着すると
取り残された
突厥の一党はことごとく降伏
凱旋すると
定方は
左武候中郎将に任ぜられた
永徽年間に
左衛勲一府中郎将に転じた
程名振・・・程(ほどよく)名(なまえ)を振(ふる)
とともに
高句麗を攻撃
(唐の高句麗出兵)
して、これを破った
右屯衛将軍に任ぜられ
臨清県公に封ぜられた
↓↑
656年
程知節に従って
前軍総管をつとめ
阿史那・・・・阿史那(アシナ)?・・・足名・葦名・蘆名
Athena=Athens=アテネ=雅典=当て音
賀魯・・・・・賀魯(ガロ)
を攻撃
鷹娑川にいたり
阿史那賀魯
が2万騎を率いて対陣すると
蘇定方は総管の
蘇海政・・・蘇(よみかえる)海(あま)の政(まつり)
とともに連戦
決着はつかず
突厥の
別部の
鼠尼施・・・鼠(ねずみ)の尼(あま)の施(ほどこし)
らが
2万騎を率いて敵方に来援
定方は騎兵の精鋭500を率い
山嶺を越えて敵陣に討ち入り
大いに破り
1500人あまりを殺害
多くの武具や牛馬を鹵獲
唐の軍中では
副大総管の
王文度・・・王(おう・ワン)の文(あや・ふみ)の度(たび)
が味方の
疲労と士気の低下を見て
深入りを諫め
定方は追撃を主張して争った
程知節・・・程(ほどよく)知(しる)節(ふし)
が
怛篤城にいたり、
胡人を降伏させると、
王文度は
降胡を殺して
財貨を奪うことを主張し
定方はこれに反対
王文度は聞き入れず
財貨を分配したが
定方はひとつも取ることがなかった
高宗がこのことを知ると
程知節らが帰還した後
王文度を庶民に落とした
↓↑
657年
定方は
伊麗道行軍大総管に抜擢
再び
阿史那賀魯を攻撃
任雅相・・・任(まかす)雅(からす)相(あい・ソウ)
と
回紇の
婆閏が副大総管をつとめた
定方
は
アルタイ(金)山
の北に出て
処木昆部を撃破
俟斤の
嬾独禄
を降した
定方は
麾下の1000騎と
回紇の1万人を率いて
曳咥河に進軍
阿史那賀魯
は大軍を率いて会戦し
定方の兵が少ないのをみ
左右両翼を伸ばして
包囲
定方は歩兵に
高所に拠らせ
自らは精鋭の
騎兵を率いて
北原に陣した
阿史那賀魯の軍は
三たび
唐の歩兵の陣を突き崩そうとしたが
崩すことができず
定方は乱戦に乗じて
騎兵で三十里をめぐって戦うと
阿史那賀魯の軍は崩れて
潰走にうつり
唐軍が追撃すると
数万の人馬を殺した
翌日、定方が兵を進軍させると
五弩失畢
が部族こぞって唐に降伏
阿史那賀魯
と
処木昆の
屈律啜の数百騎は西方に逃走
定方は副将の
蕭嗣業
と
回紇の
婆閏に
邪羅斯川
に向かわせて追撃させ
定方と任雅相は
新たに帰順した兵をまとめて
後詰めに続いた
大雪にあって
軍吏に進軍の中止を求められたが
定方は強引に兵を
雙河まで進め
阿史那弥射
や
阿史那歩真
の軍と合流して
阿史那賀魯の陣に迫った
阿史那賀魯は
油断して狩猟の最中であり
定方はこれを襲撃して破った
阿史那賀魯はさらに
石国・・・・・・石国?
に逃れたが
阿史那弥射の子の
阿史那元爽
が
蕭嗣業
と合流し
阿史那賀魯
を捕縛
これにより
唐の勢力圏は
中央アジアに広がった
定方は功績により
左驍衛大将軍に任ぜられ
邢国公に封ぜられた
子の
蘇慶節
も
武邑県公に封ぜられた
↓↑
659年
思結闕俟斤都曼
が諸部を扇動し
疏勒・朱倶波・渇槃陀
の三カ国が
唐に叛くと
定方
は安撫大使となって討伐にあたった
兵を率いて
葉葉水にいたり
都曼
が
馬頭川を守ると
定方は
歩兵の精鋭1万と
騎兵3000を選抜し
昼夜分かたず
三百里を駆け抜け
都曼の陣の前に現れ
都曼は驚いキ
戦うこともなく城に逃げ込んだ
唐軍がこれを攻めたて
都曼は窮迫し
自らを縛って降伏
パミール高原より
西の地方も
唐の勢力圏に入った
定方が捕虜を
乾陽殿に献上すると
邢州鉅鹿の
三百戸の食邑を加えられ
左武衛大将軍に転じた
↓↑
朝鮮半島
↓↑
660年
熊津道大総管
軍を率いて
百済の征討にあたった
城山から海をわたって
熊津口に上陸
沿岸の
百済軍を撃破し
真都城に進軍
百済の主力と決戦して勝利
百済王
義慈
太子
隆
は北方に逃走
定方が
泗沘城を包囲すると
義慈の子の
泰が自立して王を称した
泰は抗戦を続けようとしたが
義慈は開門し
降伏することを決意
泰はこれを止めることができなかった
百済の将軍の
禰植
と
義慈
は唐軍に降り
泰も捕らえられ
百済は平定され
百済王
義慈
隆
泰
らは
東都洛陽に送られた
↓↑
定方は
三カ国を滅ぼし
いずれもその王を捕らえ
賞与の珍宝は数えきれず
子の
蘇慶節
は
尚輦奉御の位を加えられた
定方
は
遼東道行軍大総管となり
平壌道行軍大総管に転じた
高句麗の軍を
浿江
で破り
馬邑山
の敵営を落とし
平壌を包囲
大雪に遭って
包囲を解いて帰還
涼州安集大使に任ぜられ
吐蕃
や
吐谷渾
とも戦った
667年
76歳で死去
高宗
はかれの死をいたんで
左驍衛大将軍
幽州都督
の位を追贈し
諡を
荘
とシタ
↓↑ ↓↑
伝記資料
『旧唐書』巻八十三
列伝第三十三
「蘇定方伝」
↓↑ ↓↑
『新唐書』巻一百一十一
列伝第三十六
「蘇定方伝」
ーーーーー
回鶻(カイコツ)
鉄勒(漢音:テツロク
拼音:Tiĕlè)
6世紀~7世紀
中央ユーラシア北部に分布した
突厥以外の
テュルク系遊牧民の総称
この中から
回鶻(ウイグル)が台頭
「鉄勒」という表記は
「勅勒・丁零」などと同じ
「Türk」を音写
烏介可汗
烏介可汗
(ウゲ・カガン・Ügä Qaγan)
(呉音:ウケカガン
漢音:オカイカカン
拼音:Wūjièkĕhàn、?~846年)
回鶻可汗国崩壊後の可汗
昭礼可汗の弟
彰信可汗の叔父
初めは
特勤(テギン、Tägin・皇子)
回鶻可汗国が崩壊すると
錯子山
に割拠して可汗となった
↓↑
開成5年(840年)頃
渠長(キョチョウ・将軍)
の
句録莫賀
(句録末賀・キュリュグ・バガ)
は、
北の
黠戛斯(キルギス・Qïrqïz)軍
10万騎を招き寄せ
回鶻城(オルド・バリクか?)
を破り
㕎馺可汗
と
掘羅勿
を殺してその
牙帳(陣地・陣営)
を焼き払った
回鶻可汗国
は崩壊
国人たちは
各特勤(皇子)を奉じ
各地に散らばった
可汗庭(カガンテイ=可汗の牙帳)
近くの13部は
烏介特勤(ウゲ・テギン、Ügä Tägin)
を
可汗に推戴し
南の
錯子山に割拠
途中
烏介可汗らは
太和公主
を
唐まで護送する
黠戛斯
の
達干(タルカン、Tarqan)
らと遭遇し
烏介可汗
は
達干らを殺し
太和公主
を奉じて
代わりに
唐の天徳界まで護送
↓↑
宰相の
赤心
僕固(ボルク、Borqu)
特勤の
那頡啜
(ナイル・チュル、Nair čur)→ナイル?
がおり
烏介可汗
に臣従せず
犯塞
を欲していたため
烏介可汗
は先に王子の
嗢没斯(オルムズ、Ormz)
を
天徳軍戍将の
田牟の所へ赴かせ
唐と接触をはかるとともに
赤心
を殺害
那頡啜
は赤心の7千帳をあわせて
東へ逃れたが
烏介可汗
によって殺された
↓↑
会昌3年(843年)春
特勤の
厖倶遮
阿敦寧
の二部
回鶻公主密羯可敦
の一部
外相の
諸洛固阿跌
の一部
牙帳大将の
曹磨你
らの七部
共に3万衆が相次いで
幽州に降った
文宗
は詔で諸道に配してやった
特勤の
嗢没斯
阿歴支・・・アレックス・Alexander?
習勿啜
の三部
回鶻相の
愛耶勿弘順
回鶻尚書の
呂衡
らの諸部が
振武軍に降った
三部首領には
唐の国姓である
李姓を賜い
名をそれぞれ
思忠
思貞
思恵
思恩
と改めさせ
帰義軍使に充てた
その他
唐に帰順しなった者もおり
特勤
葉被沽兄李
の二部は
南の吐蕃に奔走
特勤可質力
の二部は
東北の
大室韋
に奔走
特勤荷勿啜
は東の
契丹との戦いで戦死
回鶻
尚書の
僕固繹
は幽州に至り
太和公主
を幽州に帰すことを約束
ある夜
河東の
劉沔が兵を率いて
烏介可汗の営に迫ったので
烏介可汗は驚いて
東北の約400里外にまで逃げ
室韋の営に依った
太和公主
も同時に逃げ去ったが
烏介可汗
に追いつけずにいたところを
豊州刺史の
石雄の
兵と遭遇し
唐に帰国できた
↓↑
会昌6年(846年)7月
烏介可汗の部衆が
幽州に降った
烏介可汗
は妹を
室韋に降嫁させた
回鶻相の
美権者
逸隠啜
は
諸回鶻に迫って
烏介可汗
を
金山
(アルタイ山脈)・・・金山=アルタイ
で殺し
その弟である
遏捻特勤
を可汗に推戴
↓↑ ↓↑ ↓↑
『唐会要』巻98廻紇
特勤(テギン、Tägin)は
突厥や回紇における皇太子、王子
可汗の兄弟に与えられる
『新唐書』では特勒と誤記
「㕎」=「厂+盍」
帳幕(ゲル)=陣幕
達干(タルカン、Tarqan)は
テュルク系遊牧国家における官名
『資治通鑑』卷第二百四十八
『新唐書』では
「黒車子(室韋)に殺された」
とある。
↓↑
『旧唐書』
(列伝第一百四十五 迴紇)
『新唐書』
(列伝第一百四十二下 回鶻下)
『資治通鑑』
(卷第二百四十八)
ーーーーー
・・・???・・・