「センユウ」・・・専有・占有・仙遊・先憂・泉友・戦勇・戦憂・・・
撰 結有〈遊〉・・・「木綿(you・もめん)のハンケチ」・・・?
handkerchief(反歌・犯科・半跏・頒価)+(知畏怖・知意符)?
↓↑
・・・絹のロング・スリーヴ それとも、木綿のハンケチ・・・選べって?
・・・麻のオビと櫛(くし・𠂉)・・・「𠂉」=髪挿し・かみさし
・・・簪(かんざし・鈿・笄・篸)よりも、柘植(つげ)の櫛・・・?
篸=竹+參
竹+厽(三よこしま)+㐱
竹+厶+厸+人+彡(刷毛跡・爪痕)
竹(たけ・丈・茸・武・他家・筑紫)
+三つの「厶(よこしま・私)」
+人(ひと)
+彡(引っ掻き傷の痕)
比通書記紀誦の後?
サン
シン
かんざし
縫い針
針を刺して縫いつづる
長短の揃わないさま
↓↑
「せんゆう」
真下 飛泉(ましも ひせん?) 作詞・・・新解 比撰
三善 和気(みよし わけ?) 作曲・・・纂撰 理由(訳・譯)
明治三十八年・・・・・・・・・・・・・・纂重葉値撚
↓↑
ここは おクニを何百里(なんびゃくり)
離れて遠き 満洲(まんしゅう・萬集)の
赤い夕日に照らされて
友は 野末(のずえ)の 石の下
↓↑
思えば かなし昨日(きのう)まで
真先(まっさき)かけて突進し
敵を散々(さんざん) 懲(こ)らしたる
勇士は ここに眠れるか
↓↑
ああ 戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に
隣りに 居(お)った この友の
俄(にわ)かに はたと 倒れしを
我は おもわず カケ寄って
↓↑
軍律 きびしい中 なれど
これが 見捨てて 置かりょうか
「しっかりせよ」と 抱き起し
仮繃帯(かりほうたい)も 弾丸(たま)の中
↓↑
折から起る 突貫(とっかん)に
友は ようよう 顔あげて
「お国の為だ かまわずに
後(おく)れて くれな」
と目に涙
↓↑
あとに 心は 残れども
残しちゃならぬ この体(からだ)
「それじゃ行くよ」
と別れたが
永(なが)の 別れとなったのか
↓↑
戦(たたかい)すんで 日が暮れて
さがしに もどる心では
どうぞ 生きて居てくれよ
ものなと 言えと 願(ねご)うたに
↓↑
空(むな)しく 冷えて 魂(たましい)は
故郷(くに)へ 帰った ポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いて居るのも 情(なさけ)なや
↓↑
思えば 去年 船出して
お国が 見えず なった時
玄海灘(げんかいなだ)で 手を握り
名を 名乗ったが 始めにて
↓↑
それより後(のち)は 一本の
煙草(たばこ)も 二人 わけてのみ
ついた手紙も 見せ合(お)うて
身の上ばなし くりかえし
↓↑
肩を 抱いては 口ぐせに
どうせ 命(いのち)は ないものよ
死んだら 骨(こつ)を 頼むぞと
言いかわしたる 二人仲(ふたりなか)
↓↑
思いもよらず 我 一人
不思議に 命ながらえて
赤い夕日の 満洲に
友の塚穴(つかあな) 掘ろうとは
↓↑
くまなく 晴れた 月今宵
心しみじみ筆とって
友の最期(さいご)を こまごまと
親御(おやご)へ 送る この手紙
ーーーーー
ジョン万次郎(ジョン まんじろう)・・・「字読む萬字賂得」?
John Manjirō
中浜 万次郎(なかはま まんじろう)
中濱 萬次郎(チュウ ヒン マンジロウ)
注 品 萬字賂得
品=ほん=本
↓↑
(文政十年一月一日)
1827年1月27日
~
1898年11月12日
(明治31年)
1889年10月(62歳)~
戊申傷官
1899年10月(72歳)
己酉食神
┏丙戌(辛丁戊)劫財・傷官 養⇔┏戊戌傷官
┗辛丑(癸辛己)偏財・食神 墓⇔┗癸亥偏官
丁丑(癸辛己) ・食神 墓⇔ 己卯食神
丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄⇔ 庚午正財
申酉空亡
↓↑
土佐高知藩知行中ノ浜村
(高知県土佐清水市中浜)
出身
日米和親条約の締結に尽力
後、通訳・教師
↓↑
宇佐浦(土佐市宇佐町)
14歳
足摺岬沖で
鯵鯖漁に出航する漁船に炊係
船頭の
筆之丞(38歳・伝蔵と改名)
筆之丞の弟で漁撈係の
重助(25歳)
筆之丞の弟で櫓係の
五右衛門(16歳)
寅右衛門(26歳)
足摺岬の南東15キロメートルで
操業中
強風に船ごと吹き流され
遭難
5日半(10日間)漂流後
伊豆諸島の
鳥島に漂着
143日間を生き延び
1841年6月27日
辛丑・偏財
甲午・印綬
壬戌・正官
丙午・劫財
↓↑
船長
ウィリアム・ホイットフィールド
率いるアメリカ合衆国の
捕鯨船
ジョン・ハウランド号の
乗組員によって発見、救助
1841年11月20日
辛丑・偏財
己亥・食神
戊子・傷官
戊午・傷官
↓↑
ハワイのホノルルに寄港
救助された5名のうち
万次郎を除く4名は
宣教師
ハワイ王国の顧問
Gerrit P. Judd
の計らいでこの地で降船上陸
寅右衛門はそのまま移住
重助は5年後に病死
筆之丞(伝蔵)
と
五右衛門
はのちに帰国
万次郎は捕鯨船員となって
アメリカ本土へ
アメリカ人の乗組員から
船名にちなんで
「ジョン・マン (John Mung)」
と呼ばれた
↓↑
1843年5月7日
癸卯・偏官
丁巳・比肩
辛巳・偏財
甲午・印綬
↓↑
ジョン・ハウランド号は
マサチューセッツ州
ニューベッドフォードに帰港
↓↑
スコンチカットネック・スクール
に通い
1844年(弘化元年)
甲辰・印綬
↓↑
フェアヘーブンの
バートレット・アカデミーで
英語・数学・測量・航海術・造船技術
などを学び首席となる
ホイットフィールド家の教会が
人種差別で
万次郎の立ち入りを拒否したため
ホイットフィールド家は
ユニテリアン教会に移った・・・
↓↑
1850年12月17日
庚戌・正財
戊子・傷官
壬寅・正官
丙午・劫財
↓↑
宣教師
Samuel C. Damon
の協力で上海行きの商船
サラ・ボイド号に
伝蔵と五右衛門と共に乗り込み
購入した小舟
「アドベンチャー号」も載せて日本へ出航
↓↑
嘉永四年
1851年2月2日
庚戌・正財
己丑・食神
己丑・食神
庚午・正財
↓↑
薩摩藩服属の
琉球にアドベンチャー号で上陸
翁長で
牧志朝忠から英語で取り調べを受け
地元住民と交流した後に
7月30日
辛亥・偏財
乙未・偏印
丁亥・比肩
丙午・劫財
↓↑
薩摩本土に送られ到着
た(7月30日着)
薩摩藩の取調べ
藩主
島津斉彬
は
万次郎に海外の情勢や文化等について質問
斉彬の命により
藩士や船大工らに
洋式の造船術や航海術について教示
後
薩摩藩はその情報を元に
和洋折衷船の
「越通船」を建造
斉彬は
万次郎の
英語・造船知識に注目し
薩摩藩の洋学校(開成所)の
英語講師として招いた
↓↑
薩摩藩での取調べの後
万次郎らは長崎に送られ
江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問
長崎奉行所で踏み絵により
キリスト教徒でないことを証明させられ
外国から持ち帰った文物を没収された後
土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ
土佐に向った
高知城下において
吉田東洋
らにより藩の取り調べを受け
その際に
中浜を同居させて聞き取りに当たった
河田小龍
は
万次郎の話を記録し
『漂巽紀略』を記した
約2か月後、帰郷が許され
帰国から約1年半後の
嘉永五年
(1852年)
壬子・正官
↓↑
漂流から
「11年目」
・・・「十一・拾壱・足壹・Ⅺ」子武女?
にして故郷に帰った
ーーーーー
・・・???・・・
撰 結有〈遊〉・・・「木綿(you・もめん)のハンケチ」・・・?
handkerchief(反歌・犯科・半跏・頒価)+(知畏怖・知意符)?
↓↑
・・・絹のロング・スリーヴ それとも、木綿のハンケチ・・・選べって?
・・・麻のオビと櫛(くし・𠂉)・・・「𠂉」=髪挿し・かみさし
・・・簪(かんざし・鈿・笄・篸)よりも、柘植(つげ)の櫛・・・?
篸=竹+參
竹+厽(三よこしま)+㐱
竹+厶+厸+人+彡(刷毛跡・爪痕)
竹(たけ・丈・茸・武・他家・筑紫)
+三つの「厶(よこしま・私)」
+人(ひと)
+彡(引っ掻き傷の痕)
比通書記紀誦の後?
サン
シン
かんざし
縫い針
針を刺して縫いつづる
長短の揃わないさま
↓↑
「せんゆう」
真下 飛泉(ましも ひせん?) 作詞・・・新解 比撰
三善 和気(みよし わけ?) 作曲・・・纂撰 理由(訳・譯)
明治三十八年・・・・・・・・・・・・・・纂重葉値撚
↓↑
ここは おクニを何百里(なんびゃくり)
離れて遠き 満洲(まんしゅう・萬集)の
赤い夕日に照らされて
友は 野末(のずえ)の 石の下
↓↑
思えば かなし昨日(きのう)まで
真先(まっさき)かけて突進し
敵を散々(さんざん) 懲(こ)らしたる
勇士は ここに眠れるか
↓↑
ああ 戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に
隣りに 居(お)った この友の
俄(にわ)かに はたと 倒れしを
我は おもわず カケ寄って
↓↑
軍律 きびしい中 なれど
これが 見捨てて 置かりょうか
「しっかりせよ」と 抱き起し
仮繃帯(かりほうたい)も 弾丸(たま)の中
↓↑
折から起る 突貫(とっかん)に
友は ようよう 顔あげて
「お国の為だ かまわずに
後(おく)れて くれな」
と目に涙
↓↑
あとに 心は 残れども
残しちゃならぬ この体(からだ)
「それじゃ行くよ」
と別れたが
永(なが)の 別れとなったのか
↓↑
戦(たたかい)すんで 日が暮れて
さがしに もどる心では
どうぞ 生きて居てくれよ
ものなと 言えと 願(ねご)うたに
↓↑
空(むな)しく 冷えて 魂(たましい)は
故郷(くに)へ 帰った ポケットに
時計ばかりがコチコチと
動いて居るのも 情(なさけ)なや
↓↑
思えば 去年 船出して
お国が 見えず なった時
玄海灘(げんかいなだ)で 手を握り
名を 名乗ったが 始めにて
↓↑
それより後(のち)は 一本の
煙草(たばこ)も 二人 わけてのみ
ついた手紙も 見せ合(お)うて
身の上ばなし くりかえし
↓↑
肩を 抱いては 口ぐせに
どうせ 命(いのち)は ないものよ
死んだら 骨(こつ)を 頼むぞと
言いかわしたる 二人仲(ふたりなか)
↓↑
思いもよらず 我 一人
不思議に 命ながらえて
赤い夕日の 満洲に
友の塚穴(つかあな) 掘ろうとは
↓↑
くまなく 晴れた 月今宵
心しみじみ筆とって
友の最期(さいご)を こまごまと
親御(おやご)へ 送る この手紙
ーーーーー
ジョン万次郎(ジョン まんじろう)・・・「字読む萬字賂得」?
John Manjirō
中浜 万次郎(なかはま まんじろう)
中濱 萬次郎(チュウ ヒン マンジロウ)
注 品 萬字賂得
品=ほん=本
↓↑
(文政十年一月一日)
1827年1月27日
~
1898年11月12日
(明治31年)
1889年10月(62歳)~
戊申傷官
1899年10月(72歳)
己酉食神
┏丙戌(辛丁戊)劫財・傷官 養⇔┏戊戌傷官
┗辛丑(癸辛己)偏財・食神 墓⇔┗癸亥偏官
丁丑(癸辛己) ・食神 墓⇔ 己卯食神
丙午(丙 丁)劫財・比肩建禄⇔ 庚午正財
申酉空亡
↓↑
土佐高知藩知行中ノ浜村
(高知県土佐清水市中浜)
出身
日米和親条約の締結に尽力
後、通訳・教師
↓↑
宇佐浦(土佐市宇佐町)
14歳
足摺岬沖で
鯵鯖漁に出航する漁船に炊係
船頭の
筆之丞(38歳・伝蔵と改名)
筆之丞の弟で漁撈係の
重助(25歳)
筆之丞の弟で櫓係の
五右衛門(16歳)
寅右衛門(26歳)
足摺岬の南東15キロメートルで
操業中
強風に船ごと吹き流され
遭難
5日半(10日間)漂流後
伊豆諸島の
鳥島に漂着
143日間を生き延び
1841年6月27日
辛丑・偏財
甲午・印綬
壬戌・正官
丙午・劫財
↓↑
船長
ウィリアム・ホイットフィールド
率いるアメリカ合衆国の
捕鯨船
ジョン・ハウランド号の
乗組員によって発見、救助
1841年11月20日
辛丑・偏財
己亥・食神
戊子・傷官
戊午・傷官
↓↑
ハワイのホノルルに寄港
救助された5名のうち
万次郎を除く4名は
宣教師
ハワイ王国の顧問
Gerrit P. Judd
の計らいでこの地で降船上陸
寅右衛門はそのまま移住
重助は5年後に病死
筆之丞(伝蔵)
と
五右衛門
はのちに帰国
万次郎は捕鯨船員となって
アメリカ本土へ
アメリカ人の乗組員から
船名にちなんで
「ジョン・マン (John Mung)」
と呼ばれた
↓↑
1843年5月7日
癸卯・偏官
丁巳・比肩
辛巳・偏財
甲午・印綬
↓↑
ジョン・ハウランド号は
マサチューセッツ州
ニューベッドフォードに帰港
↓↑
スコンチカットネック・スクール
に通い
1844年(弘化元年)
甲辰・印綬
↓↑
フェアヘーブンの
バートレット・アカデミーで
英語・数学・測量・航海術・造船技術
などを学び首席となる
ホイットフィールド家の教会が
人種差別で
万次郎の立ち入りを拒否したため
ホイットフィールド家は
ユニテリアン教会に移った・・・
↓↑
1850年12月17日
庚戌・正財
戊子・傷官
壬寅・正官
丙午・劫財
↓↑
宣教師
Samuel C. Damon
の協力で上海行きの商船
サラ・ボイド号に
伝蔵と五右衛門と共に乗り込み
購入した小舟
「アドベンチャー号」も載せて日本へ出航
↓↑
嘉永四年
1851年2月2日
庚戌・正財
己丑・食神
己丑・食神
庚午・正財
↓↑
薩摩藩服属の
琉球にアドベンチャー号で上陸
翁長で
牧志朝忠から英語で取り調べを受け
地元住民と交流した後に
7月30日
辛亥・偏財
乙未・偏印
丁亥・比肩
丙午・劫財
↓↑
薩摩本土に送られ到着
た(7月30日着)
薩摩藩の取調べ
藩主
島津斉彬
は
万次郎に海外の情勢や文化等について質問
斉彬の命により
藩士や船大工らに
洋式の造船術や航海術について教示
後
薩摩藩はその情報を元に
和洋折衷船の
「越通船」を建造
斉彬は
万次郎の
英語・造船知識に注目し
薩摩藩の洋学校(開成所)の
英語講師として招いた
↓↑
薩摩藩での取調べの後
万次郎らは長崎に送られ
江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問
長崎奉行所で踏み絵により
キリスト教徒でないことを証明させられ
外国から持ち帰った文物を没収された後
土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ
土佐に向った
高知城下において
吉田東洋
らにより藩の取り調べを受け
その際に
中浜を同居させて聞き取りに当たった
河田小龍
は
万次郎の話を記録し
『漂巽紀略』を記した
約2か月後、帰郷が許され
帰国から約1年半後の
嘉永五年
(1852年)
壬子・正官
↓↑
漂流から
「11年目」
・・・「十一・拾壱・足壹・Ⅺ」子武女?
にして故郷に帰った
ーーーーー
・・・???・・・