・・・壮絶・・・ワールドカップ・ブラジル(伯剌西爾)大会、1日(日本時間2日)、アルゼンチン(亜爾然丁)VSスイス(瑞西)を延長戦の末にアルゼンチンが「1—0」で準々決勝へ。「ベルギー(白耳義)VSアメリカ(亜米利加)」も延長戦でベルギー「2—1」が勝った・・・「信じている」だけでは勝てない「世の中」・・・
「世界史」も、それに繋がってきた「近、現代史」も知らないことが多いが、即、調べることが出来るコンピュータ、情報機器の時代である・・・
「債務不履行=借金返済の約束などを実行しないこと」・・・「実行しない」と、「実行できない」とは異なるが・・・「生活しない」と、「生活できない」も異なる・・・「戦争しない」と、「戦争できない」も異なる・・・「15億ドルの借金返済金」と「3,500万ドルの優勝獲得金」の差額・・・不足14億六千五百万ドル・・・
1,500,000,000
- 35,000,000
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
1,465,000,000
億とは、 数字の100,000,000
1萬×1萬=1億
千萬とは、数字の10,000,000
萬とは、 数字の10,000
・・・「徳政令」はナゼ、実行されたのか・・・
ーーーーー
伯剌西爾・・・イ白朿刀西爾
爾=丅XX冂爻爻
亜爾然丁・・・亜爾丁ク=犬丁
爾=丅XX冂爻爻
然=夕ヽ一人ヽ
瑞西・・・・・王山而西
白耳義・・・・白耳羊我
亜米利加・・・亜米禾刀カ口
ーー↓↑ーー
アルゼンチン(亜爾然丁)
アルゼンチン共和国
República Argentina
Argentine Republic
漢字表記
亜尓然丁、亜爾然丁、阿根廷
独立当時
リオ・デ・ラ・プラタ連合州(南アメリカ連合州)
リオ・デ・ラ・プラタ
(Río de la Plata)
ラ・プラタ川=スペイン語で「銀の川」
1516年
フアン・ディアス・デ・ソリスの率いる
スペイン人の一行が
銀の飾りを身につけた
インディヘナ(チャルーア人)に出会い、
上流に
「銀の山脈(Sierra del Plata)」
があると信じられ、名づけた・・・
アルゼンチン=Argentina=「銀の川」
ラテン語の「銀」を意味する Argentum に
女性縮小辞(ina)を添えたもの・・・
スペイン語の
「ラ・プラタ」から
ラテン語由来の名へと置き換えたのは、
フランスのスペインへの侵略を契機として、
フランス風の呼称である
アルジャンティーヌ(Argentine)
に倣ったものでもある・・・
1602年
マルティン・デ・バルコ・センテネラ
の叙事詩
「アルゼンチンとラ・プラタ河の征服」
に
「Argentina」が記録
1825年
公式国名を
アルヘンティーナ(アルゼンチン)
↓
アルゼンチンの最初の住民
紀元前11,000年ころに
ベーリング海峡を渡って
アジアからやって来た人々だった
彼らは
パタゴニアに残る
「手の洞窟」を描いた人々・・・
↓
15世紀後半
ペルーの
クスコを中心に発展した
ケチュア人の国家
クスコ王国(1197年~1438年)は
インカ帝国(1438年~1533年)の
タワンティンスーユの
皇帝
トゥパック・インカ・ユパンキ
と
ワイナ・カパックによって征服
北西部アンデス山脈地域は
タワンティンスーユに編入
征服された地域はタ
ワンティンスーユ内の四州の内の一州、
コジャ・スウユ
(ケチュア語=Colla Suyo=南州)の
辺境の地となり、
30万人ほどの
ケチュア人や
アイマラ人が住むようになった
16世紀
1516年
スペインの探検家、
フアン・ディアス・デ・ソリスが
最初のヨーロッパ人としてこの地を訪れ、
先住民に殺害
1536年
「銀の山」を攻めるために、
バスク人貴族の
ペドロ・デ・メンドーサが
率いる植民団によって、
ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレ市が建設されたが
インディヘナの攻撃に遭って放棄
以後200年ほど
ラ・プラタ地域の中心は、
1559年に
アウディエンシアの設置された
パラグアイの
アスンシオンとなった・・・
ペルー副王領の一部に組み込まれたこの地は、
ペルー方面から
アンデス地域を軸に開拓が進み、
1553年
アルゼンチン最古の都市
サンティアゴ・デル・エステロが建設
1580年には放棄された
ブエノスアイレスが再建
1541年
12頭の放牧馬が
パンパの牧草を食べて大繁殖
ガウチョが現れる・・・?
1613年
コルドバにコルドバ大学が建設
1776年
ペルー副王領から
リオ・デ・ラ・プラタ副王領が分離
ブエノスアイレスは副王領の首府となる
1806~1807年
二度にわたる
イギリス軍のラプラタ侵略を打ち破った
後、
スペインからの解放と自由貿易を求めた
ポルテーニョは
1810年5月25日
五月革命を起こし、
ブエノスアイレスの自治を宣言
1816年7月9日
トゥクマンの議会で正式に独立宣言
ベルグラーノ将軍は
インカ皇帝を復活させて
立憲君主制を導入しようとしていた
ホセ・アルティーガスは
アメリカ合衆国のような
連邦共和制を求めた
独立諸派の意見は全く一致しなかった
アンデス軍司令官の
ホセ・デ・サン・マルティン将軍が
王党派の牙城リマを攻略するために遠征
王党派軍を破って
チリ、ペルーを解放
本国では内戦が続いた
1821年
プエイレドンが失脚
中央政府は崩壊
1825年
ブエノスアイレス州が
連合州の外交権を持つことを認められた
1825年
ブラジル帝国との間で
ブラジル戦争
イギリスの介入によって
バンダ・オリエンタルを独立国とする
モンテビデオ条約が結ばれ、
1825年
ウルグアイ東方共和国が独立
1861年
ブエノスアイレス国が
ウルキーサを破り、
アルゼンチン連合を併合して
国家統一が達成
1880年
正式に
ブエノスアイレスが国家の首都
1916年
急進党の
イポリト・イリゴージェン大統領が選出
第一次世界大戦を中立国として過ごした
1928年
イリゴージェンが再選
1929年
世界第五位の富裕国となったが
1929年
世界恐慌で政治は急速に不安定化
イリゴージェンは
1930年の軍事クーデターで追放
1933年
フスト政権
イギリスとの
ロカ=ランシマン協定で、
アルゼンチンを
イギリスのスターリング・ブロック
(Sterling bloc)に組み込まれ
アルゼンチンは
イギリスの属国のようになった
第二次世界大戦の最中
イギリスと戦う枢軸国への
好意的な中立を標榜した
統一将校団の
フアン・ペロン大佐
ペロンは
1946年
大統領に就任
第二次世界大戦で得た
外貨を梃子に
工業化、鉄道などの国有化、
労働者保護などの
経済的積極国家政策を推し進めた
政策は当初成功したが、
外資を使い果たし
デスカミサードス
から聖母のようにあがめられていた妻
エバ・ペロン(エビータ)が死ぬ
1954年
離婚法を制定で
カトリック教会との関係破綻
支持基盤の労働者からも失望され
1955年
軍部保守派クーデター
(リベルタドーラ革命)で
ペロンは亡命
ペロニスタ(ペロン主義者)
と
軍部の対立
1962年
急進党の
フロンディシ大統領が
軍部のクーデターで失脚
1966年
フアン・カルロス・オンガニーア将軍は
ブラジル型の
官僚主義的権威主義体制を導入
軍事政権は
ペロニスタの
モントネーロス
や
ペロニスタ武装軍団の都市ゲリラと抗争
1969年
コルドバ暴動で
軍事政権は穏健政策に転じ、
テロの応酬を収めるために
ペロニスタを議会に戻すことを決断
自由選挙を行った
1973年
正義党(ペロン党)が勝利
亡命先から
フアン・ペロンが帰国して
三度目の大統領に就任
1974年に病死
1974年
副大統領から
世界初の
女性大統領に
妻の
イサベル・ペロンが昇格
1976年
ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍が
クーデター
コンドル作戦で
ペロニスタや左翼を大弾圧
外資を導入で経済政策には失敗
天文学的なインフレーション
軍事政権で
1982年
就任した
ガルティエリ大統領が
イギリスが1833年以来
実効支配を続けている
マルビーナス諸島(フォークランド諸島)を
奪還しようと軍を派遣、占領
イギリスのサッチャー首相より
マルビーナス戦争に発展
イギリスの反撃に遭い敗戦
軍事政権は崩壊した
1983年
大統領選挙と議員選挙
大統領に
ラウル・アルフォンシン就任
チリやブラジルとの関係を改善
軍部を文民の統制下に置くことに成功
1989年に辞任後
就任した正義党(ペロン党)の
カルロス・メネムは、
1990年の湾岸戦争に
南アメリカで唯一軍を派遣
1991年
非同盟諸国首脳会議から脱退
核軍縮や徴兵制の廃止
軍部の権力の制限を進めた
当初公約で掲げていた
ペロニスモ路線(社会民主主義)
とは異なる
新自由主義政策を取った
社会インフラや年金
民営化した新自由主義政策
対ドルペッグ固定相場政策で
インフレを抑制
1997年頃にはこの政策は破綻し始め
1999年
大統領選挙
急進党の
フェルナンド・デ・ラ・ルアが勝利
だが、経済不安は
IMFからの援助や
公務員給与の削減などしたが
ドルペッグ制の破綻
2001年
デ・ラ・ルアは
デフォールトを決行
デフォルト(default)=金融での債務不履行
2003年
正義党左派の
ネストル・キルチネルが大統領就任
新自由主義、市場原理主義と決別
富裕層優遇をやめ、
貧困層を減らし中間層へと移行
2007年10月
正義党から
キルチネルの妻の
クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル
が
「選挙による女性大統領」として就任
・・・
↓↑
2014年7月1日
アルゼンチン
債務利払い期限
30日間猶予・・・
2001年に債務不履行(デフォルト)
15億ドル
アルゼンチンは
2014年6月30日
国債の債権整理に応じた
債権者への利払いの期限を迎えた
米最高裁が利払いの条件とした
国債を購入した
米投資ファンドへの
債務返済を巡る交渉はこの日は行われず、
30日間の猶予期間に入る・・・
米投資ファンドの
エリオット・マネジメントは
アルゼンチン政府が交渉を拒否し、
「国家をデフォルトの危機にさらしている」
と強く非難した。
30日間の
返済猶予期間で、
交渉がまとまらなければ、
アルゼンチンは、
支払いのための
資金が手元にありながら、
債務不履行となる
「テクニカル・デフォルト」となる
可能性が出てきた
2014年07月01日
14時23分
Copyright © The Yomiuri Shimbun
・・・サッカーの優勝金額で返済する心算かも・・・?
優勝国には「3500万ドル(約35億6000万円)」・・・それでも、「15億ドル」には不足・・・
↓↑
朝日新聞
6月25日付け朝刊
↓↑
「アルゼンチン共和国 大統領府」による
全面広告が掲載
「アルゼンチンは債務返済を継続したいが、継続させてもらえない」
2001年
アルゼンチンの「デフォルト」
債権者の92.4%が
元本のカットに同意し、
利息を支払い続けてきた。
だが
減額に応じなかった
一部の債権者から
格安で債権を買い取った
投資ファンドが
全額の支払いを求め、
米ニューヨーク連邦地裁に提訴。
同地裁は6月16日、
同国に対し
15億ドルを
6月末までに支払うよう命じた。
同地裁は投資ファンドに全額を返済しない限り、
ほかの債権者に対する
利息の支払いを禁止した。
このため同国は6月末までに
15億ドルを投資ファンドに支払わないと
再びデフォルトに陥る可能性がある。
だが全額を支払えば、
ほかの債権者は同じ扱い(全額返済)を
求めることができるため、
推定1200億ドルの支払い義務が生じてしまう。
現在は
投資ファンドとの
和解に向けた交渉など、
瀬戸際で解決策を模索している。
↓↑
広告
「債務返済を継続したいが、継続させてもらえない」
「我が国は、少数のどん欲な
投機家グループのせいで
過去、現在、そして将来も
アルゼンチン国民を苦しめ続ける
この長く困難な紛争の解決に向け、
公正で
バランスのとれた交渉条件を推進する
司法判断を期待します」
ーー↓↑ーー
ベルギー(白耳義)
ベルギー王国
連邦立憲君主制国家
オランダ、ルクセンブルクと合わせて
ベネルクスと呼ばれる
ブリュッセルはEUの首都とも言われているが
首都は、19の自治体から成る
ブリュッセル首都圏の自治体の一
ブリュッセル=ヴィル
19世紀に
ネーデルラント連合王国から独立
言語紛争が続き
1993年
フランデレン地域
ワロン地域
ブリュッセル首都圏の
連邦制に移行
ガリア戦争を経て
紀元前51年
ガリア・ベルギカとして
ローマ帝国の属州になる
16世紀
スペインの支配に反乱 (八十年戦争)
ネーデルラント17州のうち
ユトレヒト同盟を結んだ
北部7州は
1648年
ヴェストファーレン条約で
ネーデルラント連邦共和国として独立
南部諸州は
スペインの支配下
この
南ネーデルラントが
ベルギー王国の起源
ナポレオン戦争終結後
1815年
ウィーン議定書によって
現在のオランダと共に
ネーデルラント連合王国として再編
1830年
ネーデルラント国王
ウィレム1世の支配に対して
独立革命、独立を宣言
1831年
ドイツの領邦君主の
ザクセン=コーブルク=ゴータ家から
レオポルドを初代国王として迎えた
1839年
ロンドン条約
オランダはベルギーの独立を承認
ベルギーは領有していた
ルクセンブルク大公国と
リンブルフを、
オランダと分割
1873年
岩倉使節団がベルギーを訪問
↓
1885年
第2代国王
レオポルド2世が
個人の所有地として
アフリカに
コンゴ自由国を領有
コンゴ自由国は
レオポルド王の統治で徹底的に搾取
コンゴの人口は
2500万人~1500万人に激減・・・
1908年
ベルギー国家の所有に移され
ベルギー領コンゴとして
1960年まで支配
1914年
第一次世界大戦で
ドイツ帝国により中立を犯されて占領
1919年
ヴェルサイユ条約
ドイツ帝国の植民地の
ルワンダと
ブルンジを獲得
1940年
第二次世界大戦で
ナチス・ドイツにより占領
1960年
コンゴ民主共和国がベルギーから独立
ベルギー永世中立国
カトリック国家ベルギー
フランス革命以前には
カトリックの
ハプスブルク=ロートリンゲン家の
飛び地領土
南ネーデルランドであった
フランス革命勃発後、
ジャコバン派が
フランス革命国民義勇軍を主導
国民義勇軍の将軍
ジュールダン
と
公安委員
カルノーは
ベルギー戦線で、
ロベスピエールの政治中の
1793年10月
オーストリア軍を殲滅
1794年6月
ジュールダン将軍と
ベルナドット将軍は
再度ベルギー戦線で
オーストリア軍を殲滅
後、
南ネーデルランドを、
フランス革命総裁政府のフランス軍が占領
総裁政府の軍司令官
ナポレオン将軍(28歳、第一統領就任以前)
と
オーストリアは、
1797年10月
カンポ・フォルミオ条約
オーストリア・ハプスブルク家は、
南ネーデルラントを
フランスへ割譲
1815年
ウィーン議定書
ルクセンブルク大公国は
ドイツ連邦に加盟
住民が
オランダ系とフランス系からなる
カトリックのベルギーは、
プロテスタントの
ウィレム1世を国王とする
ネーデルラント連合王国に併合
1830年
ベルギーは独立宣言
1831年
憲法を制定
ブルジョワジー(財産家・資本家)男子による
二院制と、
国王の行政や軍事など
最高の国家行為には
首相の承認(副署)を要することを規定
ベルギー憲法
首相副署主義は新しい立憲的制度
レオポルドは、
ナポレオン戦争中は
ロシア帝国軍の
傭兵士官として戦い、
戦争後の
1816年
イギリスに帰化して
摂政王太子(国王ジョージ4世)の
王女
シャーロットの婿になった
1837年
女王ヴィクトリアの母は
レオポルドの姉
1831年
レオポルド1世は
立憲君主として
初代ベルギー国王に即位
1839年
オランダとベルギーとの
平和条約(ロンドン条約)が締結
ベルギーは永世中立国の宣言
プロテスタント国家
オランダにとって、
カトリック国家
フランスとベルギーとの同盟による
軍事的脅威をなくすものであった
ベルギーの永世中立国化は
オランダの安全保障が関わっていた・・・
↓
レオポルド1世の
後妻には
フランス国王ルイ・フイリップの
王女ルイーズ・マリーが迎えられ、
その間の
息子
レオポルド2世が王位を継いだ
(1865年~1909年)
アルベール1世(1909年~1934年)
ベルギー王家は
イギリスやフランスと関係が深い
ーーーーー
イズレにしても・・・一族郎党の主筋同氏の利害関係で「戦争」・・・
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