・・・スゴイねッ・・・「人間の博打」・・・NHKスペシャル「世界“牛肉”争奪戦」・・・「いま世界で食料の争奪戦が起きている。牛肉や大豆の調達に奔走する商社、価格高騰につながる投資マネーの最前線を追い、米国・ブラジル・オーストラリアなどで取材した」・・・「自由な市場」・・・「カミの先物取引の証券化」・・・大干ばつ(旱魃)・・・
「あるがままのカミ(自然と人間社会)」・・・
「パウロの犯罪と、その苦しみと葛藤と倫理的反省」・・・
「無責任なキリスト」・・・
「責任転嫁の対象者はダレ」に・・・
「財政、カネ管理の責任者のユダ(イスカリオテ)」・・・
「ゴルゴダ磔刑以前」と「その後」のシナリヲを制作担当、演出した人々・・・
「キリスト=発案者」-「ユダ(イスカリオテ)=制作費・財政担当者」-「パウロ(サウル)=組織者」の「3人組」・・・
「NPO法人抱樸理事長=奥田知志」氏はエライ、なァ~・・・
「神の御心」を引き受けたのではなく、「理不尽な社会矛盾の枠内」で生きている「人間の生き方」を「人間の組織」として引き受けたのだろう・・・
「ヒトは人の生命、生活を救えない存在」・・・
今現在、生きている人間の何を「救えれる」のか?・・・
「こころ(アイ)=気持ち」だけではなく・・・どうしたら救えるのか・・・
「生きている人間相互愛での扶助行為」・・・
「抱樸」・・・ここは、財政担当者の「ユダ(イスカリオテ)」に訊(質)ねるより方法がない・・・「カネの世の中」だから・・・
「天国は
貧しい人々(?)が
死後に救済される世界」だが、
もはや「カネの世界」ではない・・・天国である・・・
「生きている人間相互のカネの多寡、有無を必要とする階級社会」ではない・・・
だが、問題は「今現在、生きている人々をどうするコトも出来ない(しかたがない)」と考えている「社会的人間」の「救済の方法」である・・・
「神=自然」がなくちゃァ・・・「肉身も精神(霊魂)も生きられない」のは事実・・・「事実(現前の出来事の認識)」と「真実(媒介的な情報認識)」は違うらしい・・・が、「確信」に於いてはどちらも同じらしい・・・だが「証拠・証人」の客観性、主観性で異なる・・・
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↓
「抱樸」の「樸(木+菐)」とは「原木」らしい・・・
「樸」
「あらき(樸)=切り出したままの木材・荒木
ありのまま・飾り気のない
「素樸(ソボク)=素朴=粗樸ソボク」
粗末で飾り気のない
「樸実(ボクジツ)」
(飾り気がなく誠実)
「璞(ハク・あらたま)」
荒削りな玉・掘り出したままの玉・原石
磨いてないたま
「璞玉(ハクギョク)」
↓
「撲(ボク・なぐる・うつ)=「扌(手)+菐」
手を荒々しく動かすこと
うつ・たたく=「打撲・撲滅・撲殺・相撲」
相撲=相い打つ
土俵の中で
二人が打ち合い、
組み合って闘う競技・レスリング
類字は「丵・菐・業・叢」・・・
叢書
叢(ソウ・・ゾウ・くさ・むらがる)
叢の剣=草薙の剣=群雲の剣
天叢雲剣=草薙剣=草那芸之大刀
鵠生の叢・・・鵠(くぐい・まと)
白鳥の古名
社叢=神社
神経叢=神経集網
叢軽折軸
「菐」・・・「丵+廾」の会意
丵(草むら)を両手で持つ
「菐」=「业䒑夫」
異体字
𦭱
樸・𤀾・𤃊・𣞧・𣾴
「菐」は「业」+「美」・・・・・・並ぶ美・・・・・?
「业」+「羊」+「大」・・・並ぶ羊の一の人・・・?
「丵(サク)」・・・美を削りだす彫刻家・・・?
サク・のみ・うがつ
上部にノコギリ歯のついた道具の象形
この道具で物を彫ったり、地面を打ち固めたりする
この字は単独で使われることなく音符となる
菐(ボク)=ノコギリ歯のついた道具を手にもつ
荒削り・荒っぽい動作→相撲
辛=辛痛しては即ち泣出づ・身をつきさすくらいに厳しい
つらく苦しい・辛苦・辛酸・辛抱・辛辣・苦辛・辛労
䇂=「辠(つみ)=罪なり・辛は庚を承け、人の股に象る?」
辠(つみ・そちる・そしる・サイ・セ・ザイ)
罪・罪科・罪過・犯罪→睾
䇂=入墨に使う針の象形
刺青のハリ
「鑿(のみ・うがつ・サク」=木材、
石材に穴をあけたり
溝を掘ったりする工具
↓
「菐」
わずらわしい・うつ・ホク・ボク
「丵(サク)」を両手で持つという字
「丵」・・・諸説あり
「菐」の字形解釈にも諸説あり・・・
「丵」は草むらという意味で、(説文解字)
草を抜くのは煩瑣であるとする説(部首訂)・・・
「一の本の注に云はく、
丵は衆多なり。
兩手に之れを奉る。
是れ煩瀆なり
(説文解字の徐鉉の注)」
「瀆菐(トクボク)なり」
「瀆」は煩瀆、
「菐」は煩猥で、
「瀆菐」は煩雑の意味
「丵字の譌(正字通)」
↓
老子(第19章)
聖を絶ち知を棄つれば、民の利百倍す
仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る
巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし
此の三者は以て文にして未だ足らずとなす
故に属する所あらしめ、
素を見し
樸を抱き、
私を少うし
欲を寡(つの)らす
↓
「樸(ぼく)=荒木・原木」
「抱樸=原木・荒木を抱きとめること」
↓
「丈夫な人には医者はいらない。
いるのは病人である。
わたしがきたのは、
義人を招くためではなく、・・「義人=約束を守る人」
罪人を招くためである・・・・「罪人=原罪者=人類」
(マルコ福音書二章一七節)」
・・・「原木(樸)とは罪人」・・・「原罪者」
パウロは言った・・・
「善人のためには、
進んで死ぬ者も
あるいは
いるであろう。・・・義人?
しかし、
まだ
罪人であった時、・・・・「ダレが?」
わたしたちのために
キリストが
死んで下さったことによって、
神はわたしたちに対する
愛を示されたのである
(ローマ書五章7~8節)」
キリストは、
「善人=義人?」のためではなく、
「罪人=原罪者」のために死んだ
「抱樸」は、キリストが示された「樸人」への「愛の抱擁」・・・?
・・・「樸」は罪の自覚が無い「初心(うぶ・無垢?)なキリスト信者」のコト・・・?
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ETV・3月14日
こころの時代~宗教・人生~「この軒の下で」[再]
昨年夏、北九州市の教会に
「軒の教会」と名付けられた新会堂が完成した。
25年以上にわたってホームレスの自立支援を行ってきた人々が、
会堂に込めた思いと願いとは。
東八幡キリスト教会の
牧師・奥田知志さんは、
牧師となった当初から、
路上で暮らさざるを得ない人々が地域で自立した生活を
取り戻す手助けをしてきた。
長年の活動で学んだのは、
家や仕事など物理的条件以上に、
当事者の人生に最後まで
伴走する「人との関係」が、
支援には肝心だということだった。
関係を結び共に生きる時、
人は互いに傷つけ合うことがある。
その傷を引き受け、
なお
共に生きようとする世界は
いかに開かれるのか伺う。
(出演)
東八幡キリスト教会牧師
NPO法人抱樸理事長…奥田知志
(きき手)山田誠浩
・・・「パウロ」を思わせるような人の「洗礼儀式」・・・
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・・・多分、「人間社会」の「衣食住」の原則的なモノは「自然法則性(弱肉強食)の生物体の生態系の枠内での生き方」なのである・・・「人間社会の個人、個々人の共同生活の掟」も、この「自然法則性の枠内での生存生活の協同で、協働、教導・・・暴力排除も含む」だったし、今現在もソウである。
この「自然法則性」からの「解放」されたい願望が「人間」だった・・・「キリスト」は「人間社会生活の根本」が、この「自然法則性(貧富の差・階級、階層、権利の格差)」にあり、その「脱却」を目指したのだ・・・だが、解放されるべき人々は「言葉・識字・知識の教育」に於ける「貧困者」でもあった。
「キリスト」は多くの「比喩」で多くの人々にカタッた。「比喩」の名人であった・・・「貧困者」には「日常生活」で「合理的知識」を持たなかったが「生きる方法」としての「経験的な知恵」があった・・・「比喩」は彼等の「生活の仕方としての知恵」で納得されたのだ・・・
元々は
「ユダヤ律法主義者」で、
「ユダヤ系ギリシャ人」
「ローマ市民権保持者」
「ギリシャ文化の教養者」
「キリスト教徒弾圧者」
の
「パウロ(サウル)」は
「人の子であるイエス・キリストの方法」に学んだのである。
「人間の組織化の方法」をである・・・
「異邦人」の「組織化」は
「異邦人の
意識、知識(多神教)文化」
を利用するコトである・・・
「結果」、
「ユダヤ民族主義」は
「異邦人教会組織」を梃子にして
「キリスト教の国際化」
で救われるコトになる・・・
そして、
「ローマ帝国主義」からも解放される・・・ハズだった・・・
だが、
キリストが目指した
「貧困者の階層」
「階級としての公平化」
「神の下の平等」
は
「現実階級社会の支配秩序」と対立するモノだった・・・
ローマ帝国の
「国家的宗教」となっても
「貧困者」の解放ではなく、
「権力者」
と
「財産家」
に
「利用される
観念、心の宗教」となってしまった・・・
「土地に僻(ひがみ)つく国家権力」としての
「ユダヤ主義国家」は滅亡した・・・
「権力」を動かすモノ・・・カネ・・・である・・・
そして、「ドリーム」である・・・
神の「力」は、紙の「力」となったが・・・
いずれも「特赦な幻想」である・・・
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