・・・「漢字=カンジ=貫地・完治・幹事・監事・寛治=かんじ・感じ」だけが根拠の「コジキ」・・・しかじか(云々・然々・如かじか・呵じか・敷かじか)、うんぬん(云々)・・・かれこれ(彼此)、トウゼン(当然・當然・当前・陶然・洞禅・堂前・東漸・東禅・等膳)・・・「とおせんぼう=通せん坊=両手を広げて道をふさぎ、人が通れないようにする遊び・とおせんぼ・通路をふさいで、行く先や交通をさえぎること」、「通るのを邪魔する子供の遊び・通路をふさぎ、通れなくすること」・・・
「一本足の高下駄を履き、松明を持ったトウセン坊の大男・・・おっかぁ~、ッ・・・オレはどうして?マグマの崖ッ淵ちなんかで海に落とされるんダょうッ!」・・・東仙坊・・・?・・・東尋坊(とうじんぼう)・・・?
・・・唐を尋ねる十一の方・・・亥の北々西・・・S&NのKの政治屋と、それらの海寇賊組織・・・醜く足搔(あが)いているな・・・
「あがく」って=「悪い状態から抜け出そうとして、もがく」?
「良い状態から抜け出そうとして、もがく」?
「とおせんぼう」しているのは「己(ム・自)の根性」だろう・・・?
あのSKのオンナ報道官、「C 賢の洙、57~」、NKの「R 春の姬、1943年7月8日~」や、CKの「H 春の瑩、1970年4月?日~」、NAの「Sarah Elizabeth Huckabee Sanders、1982年8月13日~)」・・・共通項は「おんな」ダケレド・・・+αのノイズが被る・・・
↓↑ ↓↑
とおせんぼう
とうせん棒=「当選・当籤・投扇・陶仙・刀銭・冬川」防・・・
「陶潜」・・・トウセン・・・
「唐船」・・・ジャンク・・・
長崎に来航した中国船
沙船(シャセン)、鳥船(チョウセン)
沙船=船体の内部を水密隔壁で仕切った
平底の船・長さ30メートル
通常、大小3本の帆柱
船尾が船首より高く
積量50トンほど
ポルトガル人が「ジャンク(junco)」といった船
鳥船=船首から船尾にかけて竜骨を通し
竜骨に組み合わせて
多数の肋(ろく)材を配列し船底を尖せた船
長さ30~50メートルほど
3本の帆柱、船尾と船首の高さが平均し
積量100~450トンほど
ポルトガル人が「ソマ(soma)」といった船
1723年(享保八年)
清国政府は船首の両わきを
地域別に塗り分け
来航唐船のうち
南京(ナンキン)船(上海出航)は藍(あい)色
浙江(セッコウ)船(乍浦(サクホ)出航)は白色
福建船(厦門(アモイ)出航)は緑色
広東(カントン)船(広州出航)は赤色
に塗った
中国語の「船(チュアン)」が転訛し
マライ語の「jōng」
更に
スペイン語・ポルトガル語の「junco」に転訛
↓↑ ↓↑
「陶潜」・・・
「帰去来の辞」・・・歸去來兮・・・記虚来経?
(キキョライケイ)
(かえんなんいざ)
田園・・・・・伝縁・傅圓
將蕪・・・・・尚武・踵部・塩生・菖蒲
蕪=日+下+無
かぶ・株・下部
胡・・・・・・えびす・ウ・コ
胡=古+肉
不歸・・・・・付記・不起
歸=自+止+ヨ+ワ+巾
自+ト+人+ヨ+ワ+巾
田園は
将(まさ)に
蕪(あ)れんとするに
胡(な)んぞ
不帰らざる
陶淵明・・・陶=阜(阝)+勹+缶(午凵)
・・・缶=𠂉+一+山・・・缶詰め
異体字「𡍒・𨹋・𨺃」
すえ・トウ(タウ)
焼き物・陶器・陶工・陶土・彩陶・製陶
人格を練りあげる・教え導く
陶冶 (トウヤ)・薫陶
うちとけて楽しい
陶酔・陶然
もやもやして晴れない
鬱陶 (ウットウ)
・・・陶器、日月の圓の淵
・・・陶磁器=トウジキ=問う時期・問う字記・冬至気
・・・陶の邑=オオタタネコの所在地
意富多多泥古(古事記)
大田 田根子(日本書紀)
河内 之美努 村(古事記)
(かふちのみののむら)
茅渟県の 陶邑(日本書紀)
「茅渟県
(ちぬのあがた)陶邑(トウのムラ)に
於(おい)て大田田根子(たねこ)を
得て之(これ)を貢(たてまつ)る」
・・・「西陶器、東陶器の地名の堺市泉北丘陵」
・・・陶晴賢(すえはるかた)=陶隆房(たかふさ)
天文二十年(1551年)
主君・大内義隆を討ち
大友晴英(後の大内義長)を当主に据え
弘治元年九月二十一日(1555年10月6日)
厳島の戦い前に出家し・・・毛利元就に敗北
辞世の句
「何を惜しみ 何を恨みん
元よりも この有様に 定まれる身に」?
・・・ナルようにしかナラン、ってか・・・
↓↑ ↓↑
↓↑ 淵=氵+𣶒
ふち・エン
水を深くたたえている所
海淵・深淵
物事の出てくる根源
淵源
物の多く集まる所
淵藪 (エンソウ)
「渊・渕」は俗字
異体字「渊・𢏮・𠀯・𣶒・𠝃・囦・𡆼・𡇋
𣴺・𣴸・渁・渆・㴊・𣷬・𣾬・𤀵
灁・㶜・渕」
簡体字「渊」
↓↑
(365年(興寧三年)~427年(元嘉四年)11月)
魏晋南北朝時代(六朝期)
東晋末~南朝宋の文学者
字は元亮
陶潜
淵明
死後友人からの
諡にちなみ
「靖節先生」
「五柳先生」
尋陽柴桑(江西省九江市柴桑区)の人
「隠逸詩人」「田園詩人」
祖先
三国呉の
揚武将軍・陶丹
陶丹の子で東晋の
大司馬・長沙郡公の
陶侃は曾祖父
祖父の陶茂は
武昌郡太守・・・武⇔「神武・天武・文武・聖武・桓武」天皇
は昌(あきらか)に
郡(こほり)の
太(おほ・おお)の
守(まもり・かみ・シュ)
「寒門(単家)」と
呼ばれる下級士族の出身
427年、死去。享年63
その誄(追悼文)は
顔延之・・・顔(彦+頁)を延(のばす)之(これ・シ)
が書いた・・・
↓↑
顔延之(ガン エンシ・384年~456年)
宋の文学者
字は延年・・・延(のば)す年
本貫は
琅邪郡臨沂県
宋の
文帝や
孝武帝の
宮廷文人として活躍
謝霊運・鮑照
らと「元嘉三大家」に総称
謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる・・・
↓↑
トウセン
「桃仙(桃の神)=意富加牟豆美命
(おおかむづみのみこと・古事記)」・・・
「伊邪那美」の「黄泉(よみ)の国」から
「伊邪那岐」の帰還を助けた「意富加牟豆美命」・・・
↓↑
白村江の海戦・・・海鮮・・・会戦・・・廻船・・・改選・・・
ーーーーー
・・・「郭(くるわ・カク)」とその関連の名の探索・・・?
↓↑
列伝第三十一・・・郭祚
↓↑
祚=示+乍(ながら・サ・ジャ)
さいわい・しあわせ・天祚
くらい・天子の位・皇祚
とし(年)・年祚
皇祚(コウソ)・践祚(センソ)
天祚(テンソ)・福祚(フクソ)
列伝第三十七・・・朱瑞
叱列延慶・・・叱る延慶(慶喜・慶応)の列?
斛斯椿
賈顕度・樊子鵠・侯深
賀抜允・・・賀(くに)を抜いて允(あて)る?
侯莫陳悦
念賢・・・・・賢瑜?
梁覧・・・・・梁史(リョウシ)をミ(覧)る
雷紹
毛遐・・・・・毛人=蝦夷?
乙弗朗
列伝第四十 ・・・斉宗室諸王下
河南王孝瑜・広寧王孝珩・河間王孝琬
蘭陵王長恭・安徳王延宗
漁陽王紹信・・・漁の陽(楊)王の紹信?
煬帝の紹信?
太原王紹徳・范陽王紹義・西河王紹仁
隴西王紹廉・楽陵王百年・汝南王彦理
南陽王綽
琅邪王儼・・・琅邪の王の儼(イの厳)
斉安王廓・・・斉安王の「廓=くるわ=郭」
東平王恪
列伝第四十一・・・万俟普・・・・万俟普・・・太安万侶の俟普
可朱渾元・劉豊
破六韓常・・・六(陸)韓は常に破れる
金祚・・・・・金の祚(示+乍)
劉貴・蔡儁
韓賢・・・・・韓の賢
尉長命・・・・尉の長の命
王懐・任祥
莫多婁貸文・・・莫多の婁の貸す文
厙狄迴洛
厙狄盛・張保洛・侯莫陳相・薛孤延
斛律羌挙
張瓊・・・張の瓊
宋顕・・・宋書に顕(あら)われる
日並の頁=草壁皇子
王則・・・王の規則
慕容紹宗
叱列平・・・叱る列平
歩大汗薩・・・歩く大汗の薩(薩摩)
薛修義・慕容儼・潘楽・彭楽
暴顕
皮景和・・・皮の景の和
綦連猛・・・綦が連なる猛(建)
元景安・・・元は景の安
独孤永業・鮮于世栄
傅伏・・・・傅伏=センプク・潜伏・船腹
イは専ら伏す
列伝第四十二・・・孫騰・・・孫の騰
高隆之・・・高の隆しの之
司馬子如・・・司馬の子の如く
竇泰
尉景・・・尉の景(景行天皇・高橋景保)
婁昭・厙狄干
韓軌・・・韓の軌跡・軌道
段栄・・・段の栄(さかえ)
斛律金
列伝第五十八・・・韓褒・・・韓の褒(褒美・褒章)
李彦・・・李の彦(木ノ子の彦=比古)・諺
郭彦・・・郭の彦(クルワの彦=比古)・諺
列伝第五十九・・・隋宗室諸王・秦王俊・・・秦の王の俊
列伝第六十四・・・段文振・・・段の文を振る
列伝第六十九・・・儒林上・郭遵・・・郭の遵(遵法)
列伝第七十三・・・節義
于什門
段進・・・・段を進める
石文徳・・・石の文の徳
列伝第八十・・・・郭秀・・・・郭の秀
ーー↓↑ーー
義慈王・・・・・・擬似負う・疑似王・擬餌押
(599年~660年)
百済の
第三十一代・・・・三十一巻=日本書紀
最後の王
(在位641年~660年)
↓↑
唐からは
「柱国・帯方郡王・百済王」
に封ぜられた
諱は
義慈
第三十代
武王
の嫡男
母は不詳
(新羅の真平王の娘
善花公主という説
百済貴族出身の
沙宅-王后という説)・・・沙宅=砂宅・・・砂上の楼閣
『旧唐書』に
扶余-義慈・・・扶余(アマリのタスケ)-義慈(擬似・記事・生地)
阿毎王朝の援護
と記録
高句麗と共同し
新羅を攻めていたが
唐・新羅同盟軍に
660年・・・・・・・六百六拾=陸百陸例(令)
唐に滅ぼされた・・・
ーー↓↑ーー
孝、泰、隆、演
豊璋・・・・・・・・・豊国(ぶんご・大分)の王の章
勇(百済王善光)・・・長野県の善光寺
の6人の王子
王子の
豊璋王
禅広王(善光王・勇)
を倭の人質した
庶子41人
ーー↓↑ーー
642年
7月
新羅に親征
獼猴・・・おおざる・ビコウ=備考・尾行・・・
など40城余りを下した
8月
将軍の
允忠
に兵1万を率いさせて派遣
大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃し大勝
降伏した城主を妻子ともども斬首
男女1千人を捕虜とし
百済の西部に移住
斬首にされた城主の妻は
金春秋(武烈王)の娘
古陀炤公主・・・
↓↑
643年
高句麗と同盟(麗済同盟)し
新羅の
党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが
新羅が唐に救援を求め
新羅攻撃は中止
↓↑
この間も唐に朝貢を続けたが
新羅と唐との接触を招く
唐からは
百済・新羅の
両国に対して和平を進めた
↓↑
644年~649年
新羅との間で戦争
金庾信・・・金の庾の信
↓↑ 庾=广+臾
異体字「㔱・𢈔・㢏・斔・斞・𣂂」
くら・ユ・・・
屋根なしのモノ置き場
臾=𦥑+人
ひきとめる・しばらく・ユ・ヨウ
わずかの意の「須臾(シュユ)」
すすめる・そそのかす・「縦臾(ショウユ)」
↓↑ 異体字「㬰・𠒍・蕢・䕚・蒉・𤆂・𧂟・𧸋」
の新羅軍に
649年8月
道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗
↓↑
651年
高宗から
新羅との和睦を進める璽書を送られたが
655年
高句麗・靺鞨
と組んで
新羅の30城を奪った
驕慢になった
義慈王
は酒色に走り
諫めた
佐平の
成忠(浄忠)
を投獄
↓↑
660年
唐の高宗は
蘇定方に
大軍13万を率いて
海路より進ませ
新羅の
武烈王(金春秋)
金庾信・・・532年に新羅に併合された
金官-伽倻の王族
妹は
武烈王(金春秋)に嫁いだ
文明夫人
その長子は
第三十代
文武王
後に
武烈王の三女を
智炤夫人
として娶った
↓↑ 647年
↓↑ 善徳女王
の死後
金春秋
と共に
真徳女王
を立て補佐し
女王の死後
金春秋(武烈王)を即位させた
新羅は
648年
高句麗-百済同盟
に対抗
唐に救援
660年
唐-新羅の同盟で
黄山伐の戦い
百済の将軍
階伯を破り、百済を滅ぼした
663年
白村江の戦い
で
倭と百済の残党勢力を排除
668年
高句麗に出兵し
滅ぼした
↓↑
の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)し
百済を攻めることとなった
↓↑
百済は
白江(錦江の支流)に引き込んで
迎撃することとなり
大敗
唐・新羅軍が首都の
泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると
義慈王は
いったん
太子
とともに北方へ逃れた
↓↑
王の第2子の
泰
が自ら王を名乗って
泗沘城を固守
太子の子の
文思・・・文の思?
が
隆
に相談し
唐軍が去ったとしても
自立した
泰に害せられることを恐れて投降
泰も開城して投降
義慈王も諸城をあげて降伏
百済は滅んだ
↓↑
義慈王は妻子とともに
長安に送られ
その年のうちに
唐で病死
「金紫-光禄大夫・衛尉卿」
の爵号を贈られた・・・ナゼ?
↓↑
641年3月
死去した30代
武王(余璋)にも
唐の太宗は「哭泣の儀礼」を以て悼み
「光禄大夫」の爵号が追贈されていた
↓↑
武王(580年?~641年)
百済の第30代の王(在位600年~641年)
第29代
法王の子(『北史』に第27代威徳王の子と記録)
諱は璋
『三国遺事』の王暦に
武康
献丙
の別名が記録
『隋書』に
余璋
の名
ーー↓↑ーー
大佐平
673年
天武天皇は
百済人の
沙宅昭明に
大佐平の位を賜わった「日本書紀」
「大佐平」=百済王が臣下に授ける最高位
↓↑
沙宅-紹明(サタク-ショウメイ)
「才思頴拔、文章冠世」
藤原鎌足の碑文を作った
天武2年閏6月
大錦下の位で没
外少紫・大佐平を贈
塔本春初(とうほんしゅんしょ)
百済滅亡により渡来した百済の軍人
↓↑
618年(推古二十六年)
隋、滅亡
『日本書紀』では裴世清
『隋書』では編纂された時期が
唐太宗の時期であったので
太宗の
諱・世民を避諱して
裴清となっている・・・世民=裴世清?
↓↑
655年
斉明元年
唐の高宗は倭国に国書を送り
新羅に味方して出兵するよう求めている
(『新唐書』)
↓↑
655年
新羅は唐に援軍
新羅本紀
武烈王
二年春正月
伊飡の
金剛
を拜(め)し
上大等と爲し
波珍飡(はちんさん)の
文忠(ぶんちゅう)
を
中侍と爲す
↓↑
高句麗と
百濟・靺鞨は連兵し
我が北境を侵軼し
三十三城を取る
王は使を遣はし
入唐し援を求む
↓↑
三月
唐は
營州都督(ととく)
程名振(ていめいしん)
を遣はし
右衛中觔將
蘇定方(そていほう)を
左(たす)け、
兵を發し高句麗を撃つ
元子(長男)の
法敏(ほうびん)
を立て太子と爲す
庶子の
文王を
伊飡と爲し
老且(ろうしょ)を
海飡(かいさん;波珍飡)と爲し
仁泰(じんたい)を角飡と爲し
智鏡(ちきょう)
緂元(がいげん)
の各(それぞれ)を
伊飡とす
↓↑
冬十月
牛首州が白鹿を獻ず
屈弗郡が白猪を進(たてまつ)る
一首にして二身、八足
↓↑
王女の
智照は
大角飡の
庾信に下嫁す
↓↑
鼓樓を
月城内に立つ
蘇定方は
左衛勲一府中郎将の時
程名振
と高句麗を攻め、これを破り、
右屯衛将軍に任ぜられ
臨清県公に封ぜられた
↓↑
660年
熊津道大総管
軍を率いて
熊津口より
百済に上陸し
百済主力軍を破る
↓↑
660年
斉明天皇六年七月
↓↑
高句麗僧
道顕の記事
天智天皇二年八月二十七日~八月二十八日
(ユリウス暦)663年10月4日~10月5日
ーー↓↑ーー
・・・
宇文化及・・・宇の文化に及(およぶ)?
宇は文化を普及させる?
は
反煬帝勢力を糾合し
618年
謀反
煬帝を縊り殺し
煬帝の
甥、
煬帝の弟の
秦孝王・・・秦の孝王の
楊俊の子
秦王
楊浩
を皇帝に擁立
江都の隋軍を率いて
北へと帰還しようとしたが
王世充・李淵・李密
らの勢力に阻まれて
大興城を恢復することはできなかった
↓↑
宇文化及は
皇帝
楊浩を毒殺し
国号を
許
として自ら皇帝に即位するが
宇文化及は
天寿二年(619年)
竇建徳との決戦に大敗して殺害
許は崩壊
↓↑
朝鮮王朝国家
『申句發』の
遠征軍
高場雨が
隋に侵攻
その後、
『申句發』
の滅亡により
新たにできた
『高句麗•新羅国家連合』
による新外交政策により
隋
と
高句麗
新羅
国家連合は
同盟関係
↓↑
恭帝 侗(きょうてい とう)
隋の第4代皇帝
唐の高祖
李淵に擁立された
異母弟の
楊侑とは異なり
唐を正統とする立場から
後世からは
正統な皇帝とみなされていない
元号を皇泰としたため
皇泰主とも史称
↓↑
元徳太子
楊昭の次男
大業3年(607年)
祖父の煬帝から
越王に立てられた
煬帝が巡幸に出る度
東都洛陽の留守を任され
大業9年(613年)
楊玄感の乱が起こると
戸部尚書の
樊子蓋とともに洛陽を守備
乱後
東都留守のまま
高陽郡太守
大業13年(617年)
煬帝が江都に下ると
段達・元文都・韋津・皇甫無逸
らとともに洛陽を守った
洛口倉に拠った
李密が攻勢をかけ
王世充らを派遣して
一進一退を繰り返した
大業14年(618年)
煬帝が
宇文化及らに殺され
段達らに擁立されて即位
↓↑
段達が
礼部尚書・右翊衛大将軍
王世充が
吏部尚書・左翊衛大将軍
元文都が
内史令・左驍衛大将軍
盧楚が
内史令
皇甫無逸が
兵部尚書
右武衛大将軍・・・・・武衛
郭文懿が・・・・・・・郭の文の懿
内史侍郎・・・・・・・内史
趙長文が・・・・・・・長文
黄門侍郎・・・・・・・黄門
になった
朝廷を牛耳る
段達らを
「七貴」と称した
↓↑
元文都
盧楚
郭文懿
趙長文
↓↑
は
王世充・・・・・・・・王の世に充(あてる)
に殺害
↓↑
皇甫無逸・・・・・・・皇の甫(補)は逸脱、無
は
長安に逃れて
唐に帰順
↓↑
王世充が
李密
を破って実権を掌握すると
皇泰二年(619年)五月
恭帝は
王世充
に禅譲し
潞国公
に封ぜられ
翌月
王世充
によって
服毒自殺を命じられ
楊侗
は
「生まれ変わっても
皇帝の家には生まれ変わらぬように」
と遺言し服毒
死ななかったために
縊り殺された・・・
ーーーーー
↓↑
霅=雨+言
音読み=トウ
霅霅=いなずまのきらめくさま
霣=イン・おちる・雷・落雷
古代中国で
赤い蛇のような体を持ち
体長が千里におよぶとされる
燭陰という神が信じられていた
何新
は
大地の最北極に住む
燭陰=オーロラ
徐明龍
は
燭陰=祝融・・・炎帝の子孫・火の司
火災にあう事を「祝融に遇う」と喩える
『山海経(海外南経)』
南の神で、姿は獣面人身
『史記(三皇本紀)』
共工と戦って共工を
不周山に頭を激突させた
『墨子(非攻・下)』
天帝の命令を受け
商の成湯が
夏を滅ぼす際に
夏の都城に火を降らせた・・・旧約「ソドム」
『山海経(海内経)』
天帝に許可を得ずに
洪水を防いだ
「鯀(コン)=魚+系」を
天帝の命令で祝融が殺した
と同一神とする
ーーーーー
・・・???・・・
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