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コジキジゲン

「蘇我馬子=嶋(山+鳥)大臣」の勝利・・・纂調?

2024-12-22 17:17:15 | 古事記字源
 前回からのツヅキ・・・
ーーーーー

 蘇我馬子の
 邸宅の池に
 「嶋」
 を浮かべた池があったことから
 「嶋大臣」とも呼ばれた・・・?
  ・・・「嶋(善信尼)」
  を敬愛していたからだろう?
 敏達天皇元年(572年)
 ・・・敏(さと)さに達する天皇?
 敏=毎+攵=敏=勄
   每+攵
   𠂉+毋+攵
   𠂉+母+攵
   ビン・さとい・とし
   はやい・動きが素早い
   さとい・かしこい
   頭のは働きがよい
   敏捷・敏感・鋭敏・過敏・機敏
   恭敏・恭敏・才敏
   聡い・敏い(さとい)
   俊敏(シュンビン)
   敏速(ビンソク)
   不敏(フビン)
   心間手敏(シンカンシュビン)
   訥言敏行(トツゲンビンコウ)
   機を見るに敏(きをみるにびん)
 ↓↑
 大臣就任
 敏達天皇十三年(584年)・・・13歳
 百済から渡来の
 「鹿深(ロクシン・かふか)」臣
      ・・・「カフカの変身」だろう?
  『日本書紀』
  敏達天皇十三年(584年)九月条
  鹿深臣が
  百済から
  弥勒の石像一躯を持ち帰った
 「鹿深(ロクシン・かふか)
   =甲賀(コウガ
    きのえのよろこび
    きのえの言祝ぎ=ことほぎ)」
    賀=加+貝
    力+口+目+ハ
    カ・ガ
    よろこぶ・祝う
    労(ねぎら)う・誉(ほめ)る
    になう・負う・かつぐ
 ↓↑
 「百済より来ける=鹿深臣を渡来人」・・・説
          録審?
 「百済へ赴任した後に倭へ帰還した倭人」・・・説
 ↓↑
 蘇我氏が進めた
 仏教興隆政策や
 外交交渉で重要な役割を担った
 鹿深臣が持ち帰った
 弥勒石像は・・・弥勒菩薩=未来救済の仏(佛)
 蘇我馬子の仏殿に安置された後
 排仏派の
 物部氏によって
 難波の堀江に捨てられた・・・
 ↓↑
 天平勝宝三年(751年)七月二十七日
 『甲可郡司解(近江国蔵部庄券)』に
 甲賀郡の
 擬大領(長官)として
 外正七位上
 甲可臣
 乙麻呂が・・・音万呂?
 同「少領」として
 甲可臣男
 ・・・甲賀臣 男(ダン・おとこ=音故)
 甲賀郡の郡司を
 世襲してきた郡領氏族
 『続日本紀』
 天平二十年(748年)二月二十二日条
 外従六位下
 甲可臣
 真束
 が銭一千貫を寄進
 甲賀氏が
 甲賀寺で始まった
 大仏造立に・・・聖武天皇⇔声鵡転向?
 積極的に協力
 ↓↑
 10世紀半ば
 太政官から
 近江国司に宛てた太政官符に
 武芸に優れた人物として
 甲賀郡の
 「甲可 公 是茂」
  ・・・効果記診是模?
 が挙げられ
 近江国の
 追捕使
 佐々貴山 公 興恒・・・篠記纂 乞う 後項
 大友 兼平    ・・・大友皇子 建平(憲兵・兼併)?
 らの後任として
 「甲可 是茂」
 を推薦
  ↓↑
  平安時代末
  誓蓮寺(甲南町上馬杉)
  に寄進された
 『大般若経』に
 「城貞延甲賀氏」
 の願主名が記録
  ↓↑

  鹿深(かふか・ロクシン)臣の石像一体
     カフカ=賂句詞ム
  ↓↑   ↓↑
  フランツ・カフカ(Franz Kafka
           チェコ語
           František Kafka)
   1883年7月3日
   ~
   1924年6月3日
          大運1922年6月(38歳)甲寅・偏官
 年柱 ┏癸┏未(丁乙己)正財・劫財 衰⇔甲子・偏官
    干支合・丙
 月柱 ┗戊┗午(丙 丁)比肩・印綬帝旺⇔己巳・劫財
 日柱 ┏戊 申(戊壬庚)  ・食神 病⇔癸丑・正財
 時柱 ┗癸┗丑(癸辛己) 正財・劫財 養⇔癸丑・正財
        寅卯空亡
  ↓↑   ↓↑
  オーストリア=ハンガリー帝国領(チェコ)
  プラハ
  で高級小間物商を営む
  ユダヤ人の両親 
  ヘルマン・カフカ(1852年~1931年)
  とその妻
  ユーリエ(1856年~1934年)
  との間に生まれた
  小説家
  法律を学んだ後
  保険局に勤めながら作品を執筆
  生前は
 『変身』などの著書
  死後中絶された
  長編『審判』『城』『失踪者』
  などの
  遺稿が友人
  マックス・ブロートによって発表された
  ↓↑   ↓↑
  20歳の時
  オーストリア軍に徴兵
  2年間の兵役後
  都市プラハに移り
  1882年
  醸造業者の娘
  ユーリエ・レーヴィ
  と結婚
  彼女の財産を元手に小間物商を始めた
  晩年に病にかかってからは
  妹三女の
  オティリー(愛称オットラ)
       ・・・乙 虎(寅・彪・禽・図羅・🐅)
  と親しくした
  カフカ家
  料理女や乳母が出入りし
  カフカは主に
 「乳母」を通じて
  ・・・乳=孚+乚
       爫+子+乚
       フ・かえす(孵化)
       はぐくむ(育む)
       まこと(真実)
       卵をかえす
       大切に育てる
       真心・真実・誠意
     母=㇗+𠃌+一+⸌+⸜
       女+ー+丶+丶
       乚+𠃌+一+⸌+⸜
       ボ・ボウ・モ
       はは・女親
       ばば・親族の女性年長者
       うば・めのと
       もと・物を生み出す元
       物事の始原・元
       異体字
      「毋 毌 姆 ⺟ 娒」
    母乳=母親の乳
  ↓↑   ↓↑
  カフカは
  乳母によって
  チェコ(捷克)語を覚えた
      ↓↑       ↓↑
   ・・・捷=扌+疌=㨗
       =掶=扌+庚
            庚=广+彐+人
            コウ・かのえ
            とし(歳・年齢)
            十干の七番目
            かのえ=金兄
            五行は金
            方位は西
            よわい
            とし=年齢   
      捷=ショウ・かつ・はやい
        戦いに勝つ・争いに勝つ
        疌=ショウ・はやい・すばやい
         =捷
        快捷(カイショウ)
        簡捷(カンショウ)
        軽捷(ケイショウ)
        才捷(サイショウ)
        祝勝・祝捷(シュクショウ)
        捷径(ショウケイ)
        勝報・捷報(ショウホウ)
        戎捷(ジュウショウ)
        戦勝・戦捷(センショウ)
        資弁捷疾(シベンショウシツ)
        終南捷径(シュウナンショウケイ)
      ↓↑
      克=古+儿
        十+兄
        十+口+儿
        コク
        かつ
        困難にうちかつ・争いに勝つ
        よく・十分に。
        物事の上手に行う能力
  ↓↑  ↓↑
    カフカの死亡
    1924年6月3日
    ↓↑        ↓↑
    日本(月日は一致)
    大正       13年
    皇紀2584年
    ↓↑
    中国(月日は一致)
    中華民国     13年
    ↓↑
    朝鮮(月日は一致)
    檀紀4257年
    主体       13年
    ↓↑
    モンゴル国
    共戴       13年11月25日
    ~
    共戴       14年06月08日
  ↓↑
  詞化は「ふか=付加・不可・負荷」意?
  ↓↑ ↓↑
  鹿=广+コ+‖+比(上+匕)=𢈘
  覇王
  帝位、王位など権力のある位のたとえ
  四角い米倉・穀物倉
  ふもと。山のふもと=山麓
  海驢=葦鹿(あしか)
  薄馬鹿・薄ばか(うすばか)
  鹿毛(かげ)
  鹿島立ち(かしまだち)
  河鹿(かじか)
  河鹿蛙(かじかがえる)
  鹿の子(かのこ)
  鹿の子絞り(かのこしぼり)
  京鹿の子(きょうがのこ)
  蕉鹿之夢(ショウロクのゆめ)
  指鹿為馬(シロクイバ)
  中原逐鹿(チュウゲンチクロク)
  中原之鹿(チュウゲンのしか)
  馬鹿慇懃(バカインギン)
  馬鹿果報(バカカホウ)
  馬鹿丁寧(バカテイネイ)
  麋鹿之姿(ビロクのすがた)
  鹿苹之歓(ロクヘイのよろこび)
  秋の鹿は笛に寄る
  一番風呂は馬鹿が入る
  馬を鹿
  親馬鹿子馬鹿
  火事場の馬鹿力
  金があれば馬鹿も旦那
  空世辞は馬鹿を嬉しがらせる
  下種の一寸、のろまの三寸、
   馬鹿の開けっ放し
  桜折る馬鹿、柿折らぬ馬鹿か)
  桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿か)
  ↓↑
  佐伯(さえき・サハク )連の仏像一体
  たすける人は白=斯蘆=新羅?
  佐伯=弘法大師=空海=眞魚
  を
  蘇我 馬子(そが の うまこ)が
   姐我 宇摩胡?
  もらい受けたが
  廃仏波の
  物部 守屋(もののべ の もりや)
   物述べ 杜 耶?・・・杜撰哉
  が難波の堀江に捨てた・・・
  ↓↑
 「司馬達等」
 (しば だっと・しば たちと
  しば の たちと・しめ たちと)
 「鞍部 堅貴」・・・鞍作=「カント」の親父?
  の一族
  522年(継体天皇十六年)二月
  渡来
  大和国
  高市郡坂田原に草堂を結び
  本尊を安置し帰依礼拝
  584年(敏達天皇十三年)
  播磨国で
  高麗からの
  渡来僧で還俗していた
 「恵便」に
  娘の
 「嶋(善信尼)」
  とその弟子2人を出家させた
  崇仏派の
  蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立
  請来した弥勒仏を安置
 「仏舎利」を献上し
  法会を開催した
  585年
  排仏派の
  物部守屋は
  達等を面罵し
 「嶋=善信尼」
  ら3人の法衣を剥奪して監禁された
  仏師
 「鞍作止利(くらつくりのとり=鞍作 鳥)
  は
 「司馬達等」の孫
  氏姓
 「鞍部村主
 (くらつくりのすぐり)
  鞍師首」
  ↓↑
 「鞍作止利(鳥)」
  と
 「池邊氷田」
 (帰化系の雄族
  東漢(やまとのあや)氏の一族
  溝辺とも
  姓(かばね)は直(あたい))
  を派遣して修行者を探させ
  播磨国(一説に赤穂郡矢野庄)で
  高句麗の
 「恵便」
  という還俗者を見つけ出し
  馬子はこれを師として
 「司馬達等」
  の娘の
 「嶋」
  を得度させて尼とし
 「善信尼」
  となし
  導師として
 「禅蔵尼」
 「恵善尼」
  を得度させた
 「蘇我馬子」
  は仏法に帰依し
  三人の尼を敬った
 「馬子」
  は
  石川宅に仏殿を造り++++
  仏法を広めた
  ↓↑
  用明天皇二年(587年)
  四月二日
  用明天皇は病
  三宝(仏法)を信奉したいと欲し
  群臣に議するよう詔した
  物部守屋
  中臣勝海
  は反対
 「蘇我馬子」は
 「穴穂部皇子」に
  僧の
  豊国を連れて来させたが
  守屋は睨みつけ怒った
  史(書記)の
 「毛屎」が
  守屋に群臣たちが
  帰路を断とうとしていると告げ
  守屋は朝廷を去り
  別宮の
 「阿都(河内国)」・・・阿の都・・・阿毎の都?
  へ退き、味方を募った
  排仏派の
  中臣勝海は
  馬子派の
 「彦人皇子」
 「竹田皇子」・・・「竹田・武田・他家だ?」
  の像を作り呪詛
  彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った
  その帰路
  舎人
 「迹見 赤檮(とみ    の いちい)」
        登美・冨美  位置射?
  ・・・登美彦=蛇行(ダコウ)剣・盾形銅鏡
     富雄丸山古墳の「六曲蛇行剣」
    「鼉⿓(ダリュウ)鏡」
  が
 「中臣 勝海」・・・勝海舟?
  を斬った
  ↓↑
 「守屋」は
 「穴穂部皇子」を
 皇位に就けようと画策したが
 「馬子」が先手を打って
 「穴穂部皇子」を殺した

 用明天皇二年(587年)七月
 馬子は群臣と諮って
 物部討伐を決定
 守屋の本拠河内国渋川郡・・・阿都?
 へ向かった
 物部氏の兵は精強で
 稲城を築き頑強に抵抗し
 守屋は
 朴の枝に登って雨のように矢を射かけ
 馬子の討伐軍は3度撃退された
 従軍の
 「厩戸皇子=聖徳太子」は
 四天王像を刻んで戦勝を祈り
 討伐軍は奮い立って攻め立て
 赤檮は守屋のいる大木の下に忍び寄り
 守屋を射落とした・・・
 『伝暦』では
 厩戸皇子が四天王の祈願を込めた矢を
 「赤檮(いちい)」に与えた・・・
 物部氏の軍勢は敗退
 殊勲者の
 赤檮(いちい)は
 物部氏の遺領から一万田を賜与

 守屋は一族の
 「物部八坂」
 「大市造小坂」
 「漆部造兄」
 を馬子のもとへ遣わし
 「群臣が我を殺そうと謀っているので
  阿都へ退いた」
 と伝えた
 六月七日
 馬子は
 炊屋姫の詔を得て
 穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺し
 翌日
 「宅部皇子」を誅殺
ーーー
 伝物部守屋墓
 大阪府八尾市
 大聖勝軍寺付近
 七月
 馬子は群臣にはかり
 守屋を滅ぼすことを決め
 馬子は
 泊瀬部皇子
 竹田皇子
 厩戸皇子=聖徳太子
 などと
 諸豪族の軍兵を率いて
 河内国
 渋川郡(大阪府東大阪市衣摺)
 の守屋の館へ侵攻
 守屋は一族を集めて
 稲城を築き守りを固め
 守屋は朴の木の枝間によじ登り
 矢を射かけ
 皇子らの軍兵は恐怖し、退却
 厩戸皇子は
 仏法の加護を得ようと
 白膠の木を切り
 四天王の像をつくり
 戦勝を祈願して
 勝利すれば
 仏塔を作り
 仏法の弘通に努める
 「今若使我勝敵
  必当奉為護世四王
  起立寺塔」
 と誓った
 馬子は再攻撃させた

 「迹見赤檮」・・・登美比古
       ・・・十三の壹與の古代?
 が大木に登っている
 守屋を射殺し
 守屋の一族は尽く殺害された

 厩戸皇子
 摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に
 四天王寺建立
 物部氏の領地
 『本願縁起』
 河内国の
 弓削・鞍作・祖父間・衣摺・虵屮
 足代・御立・葦原
 と
 摂津国の
 於勢・模江・鶏田・熊凝
 と奴隷(『本願縁起』曰く273人)は両分され
 半分は馬子のものになった
 馬子の妻が
 守屋の妹であるので
 物部氏の
 相続権があると主張したためで
 半分は四天王寺へ寄進された

 敏達天皇十四年二月(585年)
 馬子は病になり
 卜者に占わせたところ
 「父の稲目のときに
  仏像が破棄された祟りである」
 と言われ
 馬子は敏達天皇に奏上して
 仏法を祀る許可を得た
 だが
 疫病がはやり多くの死者を出し
 三月
 排仏派の
 物部守屋
 中臣勝海
 が
 「蕃神を信奉したために
 疫病が起きた」
 と奏上し
 敏達天皇は
 仏法を止めるよう詔した
 守屋は寺に向かい、
 仏殿を破壊し
 仏像を
 難波の堀江に投げ込ませ
 馬子ら仏教信者を罵倒し
 三人の尼僧を差し出すよう命じた
 馬子は尼僧を差し出し
 守屋は全裸にして縛り上げ
 尻を鞭打った・・・
 だが疫病は治まらず
 敏達天皇
 も
 守屋
 罹患
 人々は
 「仏像を焼いた罪である」
 と言った

 六月
 馬子は病気が治らず
 奏上して仏法を祀る許可を求め
 敏達天皇は
 馬子に対してのみ許可し
 三人の尼僧を返した
 馬子は三人の尼僧を拝み
 新たに寺を造り
 仏像を迎えて供養した

 八月
 敏達天皇
 崩御
 葬儀を行う殯宮で
 馬子と守屋は互いに罵倒し合った

 守屋
  長い刀を差して
  弔辞を読む小柄な馬子へ
  「まるで矢に射られた
 雀のようだ」
 馬子
  緊張で体を震わせながら
  弔辞を読む守屋へ)
 「鈴を付けたらさぞ面白かろう」

 橘豊日皇子(欽明天皇の皇子
  母は
  馬子の姉の
  堅塩媛)
 が
 用明天皇としてが即位
 用明天皇の異母弟の
 穴穂部皇子は不満を抱き
 守屋と結び
 敏達天皇の寵臣
 「三輪 逆」・・・ナゼ名前が「逆(さからう)」?
 を殺害させた

 用明天皇二年四月(587年)
 用明天皇は病
 三宝(仏法)を信仰することを
 群臣に諮った
 守屋
 と
 中臣勝海
 は反対
 馬子は詔を奉ずべきとして
 穴穂部皇子
 に僧の豊国をつれて来させたので
 守屋は怒ったが
 群臣の多くが
 馬子の味方であることを知り
 河内国へ退いた。

 程なく
 用明天皇が崩御し
 守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが
 六月
 馬子は
 炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じ
 穴穂部皇子を殺害
 七月
 馬子は群臣に諮り
 守屋を滅ぼすことを決め
 諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵
 馬子軍は
 河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが
 軍事氏族の物部氏の兵は精強で
 稲城を築いて頑強に抵抗し
 馬子軍を三度撃退
 厩戸皇子(聖徳太子)が
 四天王像を彫り戦勝祈願し
 馬子も寺塔を建立仏法を広めることを誓った
 馬子軍は攻勢をかけ
 迹見赤檮
 が
 守屋を射殺し
 馬子は勝利

 八月
 馬子は
 泊瀬部皇子・・・泊の瀬の部
 を即位させ
 崇峻天皇とし
 炊屋姫は
 皇太后となった

 崇峻天皇元年(588年)
 馬子は
 善信尼らを
 百済へ留学させた

 588年
 飛鳥寺が建立
 福岡に
 既に
 千如寺
 があった

 589年
 崇峻天皇
 東山道・東海道・北陸道
 に使者を派遣し
 蝦夷国境、海浜国境、越国境
 を監視
 中国で
 隋が中国を統一

 崇峻天皇四年(591年)
 崇峻天皇は群臣と諮り
 任那の失地回復のため
 2万の軍を筑紫へ派遣し
 使者を新羅へ送った

 崇峻天皇は
 「大伴糠手」の娘
 「大伴小手子」との間に
 「蜂子皇子」
 をもうけた・・・

 588年
 飛鳥寺建立

 589年
 崇峻が
 東山道・東海道・北陸道に使者を派遣し
 蝦夷国境、海浜国境、越国境を監視

 591年
 任那復興軍の派遣
 崇峻自らが発議し
 マヘツキミ層がそれに同意し
 「二万余」の兵が筑紫に出陣させ
 新羅を問責する使者が発遣
 
 崇峻天皇五年十月(592年)
 天皇へ猪が献上され
 崇峻は
 「いつか猪の首を切るように
  朕が憎いと思う者を
  斬りたいものだ」
 と発言し、多数の兵を召集
 馬子は
 天皇が自分を嫌っていると考え
 十一月
 馬子は東国から調があると偽って
 「東漢駒」
 に崇峻天皇を殺害させた
 その後
 「東漢駒」は
 馬子の娘の
 「河上娘」を奪って妻とした
 怒った馬子は東漢駒を殺害
ー↓↑ーーー
干支歴
 命式作成
http://meisiki.bake-neko.net/meisikisakusei.html?dt=1964
 ↓↑
 メリキリの - YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=7xgS0oJhhe8

 ↓↑
 モモちゃんhttps://www.youtube.com/embed/W00rHNN2zMQ?
ー↓↑ー
 ↓↑
 「プラトン古事記をカタル(古事記字源)
 (表紙・画像・音楽)」の移転先・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
 ↓↑
 ボクの「古事記字源」の発端・・・
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2023/3
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