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コジキジゲン

木花之佐久夜毘売=神阿多都比売(カみアったヒメ)

2014-01-19 19:06:11 | 古事記字源

 ・・・昌三、笑三、曲田(1894)、咲三・・・「このはなさくやひめ」←「木花之佐久夜比売」→木花咲耶姫→「現存・古事記」は「木花之佐久夜毘売=神阿多都比売(カムアタツヒメ)」、「現存・日本書紀」の「木花開耶姫=鹿葦津姫=葦津姫(カヤツヒメ)」は・・・天照大神の「孫のニニギノミコト(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)」の妻。「大山積神=大山津見神=大山祇神」の娘である。・・・「このハナシ、作句、究、夜の秘め」である・・・姉に「イワナガヒメ=石長比売=磐長姫)がいる。「ニニギ=瓊瓊杵尊=邇邇芸命)の妻として、「ホデリ=海幸彦」と「ホスセリ=ホオリ=山幸彦」を生んだオンナ(女性)であった・・・稿チャウ、藁チャウ、和良ちゃう、「話が等しく知って椰、有」・・・笑ちゃう・・・哂ちゃう・・・咲(わら)ちゃうカナ「木花之佐久夜毘売」、「咲(捨松)」の夫になった「大山(大山巖)の罪」だろう。ではブスだったらしい長生きを保障する「石長比売=磐長姫」ってダレ?・・・姉の「常磐」さんなの・・・「山川 浩」は「エジプトでピラミッドを見学した際、東洋人をさげすむ態度をとった現地ガイドを殴りつけた(ウイキペデア)」らしい?・・・が、「山川浩」の名前が一行にあるのか?・・・第一次の竹内保徳、徳川遣欧使節団・・・「文久元年十二月二十二日、(1861年1月21日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS Odin)で欧州に向かって品川港を出発した。長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った(4月3日・2月20日(一行がカイロに到着した翌日)に「文久→元治元年」と改元・西暦1884年4月4日)」のエジプトでのコトなのか?・・・第二次の池田長発、徳川遣欧使節団・・・文久三年十二月二十九日(1864年2月6日)にフランス軍艦ル・モンジュ号で日本を出た。上海やインド等を経由し、スエズからは陸路でカイロへ向かい、途中ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学し写真を撮って、後地中海を通って、マルセイユに入港。
パリに着いた一行は皇帝ナポレオン三世に謁見。横浜「鎖港(サコウ)交渉」を途中で打ち切り、五月十七日(6月20日)、フランス政府とパリ約定を結んで、同年七月二十二日(8月23日)に帰国した・・・その時のエジプト寄港でのコトなのか?
 活版印刷を創めた日本のオッサンの名前と号・・・「本木 昌造」のオッちゃん・・・
 「モックン」の「おくりびと」はよかったけれど・・・縁戚?・・・「本木 雅弘(もとき まさひろ)・1965年12月21日~・本名・内田 雅弘(うちだ まさひろ)・旧姓・本木)・・・?・・・同姓でも関係ないか・・・
ーー
 以下はスベテ「ウイッキペデア」からの抜粋で、少々改作したモノです・・・・
ーーー原文↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%A8%E6%98%8C%E9%80%A0
ーーー↓
 本木 昌造
 (もとぎ しょうぞう・もとき しょうぞう)
 文政七年六月九日
 (1824年7月5日~1875年9月3日)
 江戸幕府の通詞、教育者
 諱は永久
 幼名は作之助、元吉
 異表記に
 昌三、
 笑三(或は号とも・曲田(1894))、
 咲三
ーー 
 通詞の家系へ養子に入り、幕府の通詞をする傍ら、西洋の興味から操船、造船、製鉄、活字製造などに関わった。また、明治維新後の廃藩置県により職を失くした武士への授産施設として私塾を開き、そこの一事業であった活字製造は、のちに独立して築地活版へと繋がった。私塾の関係者に築地活版の創設者であり石川島造船所の創設者でもある平野富二、横浜毎日新聞の創設者である陽其二がいる。
ーー
 文政七年(1824年)
 長崎に生まれる。生家は本木家の親戚である
 北島家、もしくは
 馬田家とされる。
 十一歳(天保五年・1834年)
 本木昌左衛門のもとへ養子に出される。
 本木家は
 平戸の
 ポルトガル通詞に始まる
 オランダ通詞の家系で、
 本木の二代前の正栄は、
 英和辞典や
 仏和辞典を作っている。
 本木家へ行った後は
 オランダ語を学び、
 オランダ舶来の書物によく接して
 西洋の技術に強い関心を寄せた。
 父の職を襲ったのち、
 嘉永六年(1853年)
 ロシアの使節
 エフィム・プチャーチンが長崎へ来航し、翌年の
 安政元年(1854年)に下田に向かった件で、
 下田での条約交渉の通詞を担当した。
 十一月に彼らの乗艦が嵐により破損すると、ロシア側との交渉を取り持ち、無事に建造せしめるなど、通訳以外の仕事へも強い関心を保っていた。
 同元年投獄
 嫌疑は
 蘭通弁書の印行の咎、
 英和辞書を印行しようとした咎、
 他人の罪の身代わりなど定まらない。
 出獄して謹慎となった本木は、
 パンチ父型の製造などに取り組むが、技術の未熟や材料の不足もあって成功しなかった。
 万延元年(1860年)十一月
 飽浦の長崎製鉄所の御用係に任命され、
 イギリスより
 蒸気船を買い入れ、自ら船長となり
 文久元年(1861年)や
 元治元年(1864年)などに江戸などへ航海をした。
 後年の弟子の
 平野富二は、機関士として同船することもあった。
 寸暇を見ては
 活版印刷を考え、また、
 長崎版の印行に関係した(関与のほどは不明)。
ーー
 本木は
 長崎町版と呼ばれる、
 安政六年(1859年)の
 『和英商賈対話集』、
 万延元年(1860年)の
 『蕃語小引』を、名義を藉りて印行
 前者は
 欧文が鋳造活字、さらに和文を整版で併せたもので、
 後者は
 和文欧文ともに鋳造されたものであった。
 それ以前、
 嘉永四年(1851年)に
 流し込み活字を作り、
 「蘭和通辯の事を記せし一書」を印刷したと伝えられるが、
 これは、
 『蘭和通辯(弁)』を印刷したものともされ、
 あるいは
 訛伝で
 長崎町版の一書を指すとも云われる。
ーー
 1869年
 長崎製鉄所付属の活版伝習所を設立し、
 グイド・フルベッキの斡旋で
 美華書館の
 ウィリアム・ギャンブル(ガンブル・Gamble, William) から
 活版印刷のために
 活字鋳造及び
 組版の講習を受けた。このとき、
 美華書館から5種程度の活字も持ち込まれた。
 川田久長
 『活版印刷史―日本活版印刷史の研究』(1949年)ではこの伝習は1869年6月のこととするが、
 小宮山博史
 「明朝体、日本への伝播と改刻(『本と活字の歴史事典』、2000年)」では
 十一月より翌三月までとする。
ーー
 1870年、同所を辞し、
 吉村家宅地(ただし吉村家屋敷を長州藩の者がたびたび使用したため萩屋敷ともいったという)、若しくは
 長州藩屋敷に武士への授産施設や普通教育の施設として新街新塾を設立する(ただし、陽其二が設立したものを引き受けたとの異説がある)。この塾の経営で負債が溜まり、解消の一助に
 新街活版製造所を設立した。
 ギャンブルの活字には
 「ひらがな」はなく新たに開発する必要があった。
 その版下は
 池田香稚に依頼されたものであった(この字を「和様」と呼ぶことがある)。
 同年、小幡正蔵、酒井三蔵、谷口黙次を送って大阪に支所を作り(後の大阪活版所)、
 1872年、小幡と平野を東京に派遣し
 長崎新塾出張活版製造所を設立させた(後の築地活版)。
 本木は新塾の経営が苦しくなると、
 製鉄所での業績回復の実績のあった平野に活版製造所の経営を任せ、平野はみるみるうちに業績を回復した。
 また、
 陽を神奈川に送り、
 横浜毎日新聞を創刊させたり、
 池田らとともに
 長崎新聞を創刊したりした。

 1872年、学制が施行されるが、それに従わず、県からの圧力で1874年ごろに新街新塾を閉鎖させられる。
 1875年から病床につく回数が増え、夏に京都へ旅に出た後病状は悪化し、
 9月3日、死去。
 彼には一子
 小太郎があったが、彼の没後平野の後見するところとなった。
 本木のほかにも、
 大鳥圭介や島霞谷、
 日本初の
 電胎母型による活字を製造した
 三代目木村嘉平など、さまざまな人が自身での
 日本語の活字開発に取り組み、ある者は一定の成果を得、ある者は中途に挫折するが、結局は、
 本木らにより
 ウィリアム・ギャンブルから伝来された
 西洋式活版術が市場を覇していくことになる。
ーー
 「もとぎ」か「もとき」か
 本木の
 発音については、
 「もとぎ」または「もとき」の二説はあるが、
 日英和新条約(安政元年)の条文に、
 オランダ語翻訳に携わった
 本木昌造が
 「Motoki Shiozo」という自筆サインを書き込んでいることから、
 発音は
 「もとき」であった可能性が高い。
ーー
 号数活字の大きさは
 鯨尺によるものか
 号数活字の大小の関係は、
 初-二-五-八、
   一-四-七、
   三-六
 の三系統に分かれるが、これらの系統には相互の倍数関係がなく、理由もはっきりしていなかった。そこで、その制定を巡ってさまざまな解釈がなされてきた。たとえば、
 築地活版による
 スモールパイカをもとに基準にしたという説、
 三谷幸吉による
 鯨尺基準説、
 小宮山博史らによる
 輸入説である。
ーー
 築地活版は、この号数活字の大きさの由来を明らかにしてこなかったが、明治末期に
 ポイント活字を普及させようとするころにいたって、
 「欧米ではパイカ (pica = 12ポイント) サイズが主流だが、日本字には大きすぎるため、一回り小さい
 スモール・パイカ (small pica=11ポイント) サイズを
 五号として、それを基準に、本木は整然とした倍数関係を作りあげたが、複製したり、各社で混乱したりしていくうちに崩れた」との旨発表し、その説明がひろく受け入れられていた。しかし、三谷幸吉が『本木昌造平野富二詳伝』(本木昌造平野富二詳伝頒布刊行会、1933年)にて
 「本木の自筆記事によれば、
  鯨尺の一分を基準に、
  2厘5毛乃至5厘の間隔で大きさを定めたのである」
 との旨著し、「外国の基準に由ったのではない」とすると、日本独自の測り方によっているということやその検証から、疑問を持つものはあっても多くの印刷史の研究書や規格に援用された(JIS Z 8305など)。しかし、
 小宮山博史は
 「導入期明朝体活字稿・『タイポグラフィックス・ティ』138号、日本タイポグラフィ協会、1991)などの論考で、
 美華書館の活字との比較検討から美華書館の活字をそのままいれ、その後整備されて今の形になったと結論付け、三谷の説に賛同するものは減っていった。ただし、
 小宮山の号数活字は
 フルニエ・ポイントに従うものだ、という説には、
 美華書館がポイント・システムを導入していた証拠はないとする異論も見られる。
ーー
 本木家系図
 1.本木 庄太夫(栄久)
 2.本木 仁太夫(良固)
 3.本木 仁太夫(良永、養子)
 4.本木 庄左衛門(正栄)
 5.本木 昌左衛門(久美)
 6.本木 昌造(永久、養子)
 7.本木 小太郎
ーーーーー
 ・・・

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ピラミッド・芦・本・誉・品・科・・・宇佐・大分・・・

2014-01-18 20:29:16 | 古事記字源

 ・・・「品」・・・「口が三つ重なった文字」・・・「差別用語」ではなく、「歴史用語」としての「口+口+口(くち)=口唇口蓋裂・兎唇=宇佐神宮・和気清麻呂(汚麻呂)」で、猫科、それに類する動物の「兎・猫・獅子・虎」の唇か、「囗+囗+囗=三国史=三國史=(光)圀=六合」で、「三+口」とは「品」=「ヒン・ホン」、「ビン・ピン・ポン・ポン」は音読みである。そして武家階級社会での御政道下の「三猿→纂申」の「みない・きかない・いわない」である・・・三日月、月の神は「ウサギ」であり、ゼウスと「レートーの娘」でアポロンと双子の妹、あるいは「デーメーテールの娘」の「アルテミス・ダイアナ・ディアナ」である。そして「月読命」は「伊弉諾尊=伊邪那岐」の右目から生まれた。「月さま」とは行友李風作の戯曲「月形半平太(1919年興行)」は、「土佐藩士・武市半平太=武市瑞山」であり、あるいは、「桂小五郎=木戸孝允」である。「桂(かつら)」とは「月桂樹=月の神木」である・・・「口が三」とは「正方形・長方形・四角形」の立方体(はこ・匣・櫃・棺・函・箱)が安定性のある高さをを維持する積み方の端緒、初元である。高さの安定性を維持し積み上げていくには「三つの口」を横に並べ、其の上に「品」を加える、次も同様に「四つの口」を横に並べ、其の上に前のモノを積み重ねていく・・・後は底辺に並べる「口」は一個ずつ増やし、其の上に前のモノを積み重ねていく・・・ピラミッドの形成である・・・クフ王のピラミッドの石積の段数は当初「210段」、現在は「203段」であるらしい・・・
 以下はスベテ、ウイッキペデアを含むブログ記事より参考、参照抜粋したモノで、少々改作したモノ・・・
ーーー
 N段に積み重ねたときの口の数Qは、バベジの計算
 「Q=N(N+1) /2」
 ・・・ピラミッドが210段なら、その立方体の全個数は
 「N(N+1)(2N+1)/6≦210」・・・

      1囗
     22囗囗
    333囗囗囗
   4444囗囗囗囗
  55555囗囗囗囗囗
  ↓   ↓    ↓
 NNNNNNN・・・・N個
ーーー
 「品」=「しな・かず・かつ・ただ・のり・ひで」は訓読み・・・「倫」も「しな」と訓読みし、音読みは「リン」で、「おさむ・つぐ・つね・とし・とも・のり・ひと・ひとし・みち・もと」と訓読みするらしい・・・「科(カ)」=「しな」も、「支那(中国地域)」=「シナ」も「しな」である・・・「しな」を調べれば・・・
ーーー
姿=音読=シ
  訓読=しな・がた・かた・たか
差=音読=サ
  訓読=しな・さす・さし・すけ
枝=音読=シ
  訓読=しな・え・えだ・き・しげ
標=音読=ヒョウ
  訓読=しな・しるし・しるべ・しめ
     えだ・かた・こずえ・すえ・たか・ひで
科=音読=カ
  訓読=しな・とが
程=音読=テイ
  訓読=しな・ほど・たけ・のり・みな
等=音読=トウ
  訓読=しな・ひとしい・など・ら
     たか・とし・とも・ひとし
級=音読=キュウ
  訓読=しな
色=音読=ショク・シキ
  訓読=しな・いろ・くさ・しこ
階=音読=カイ
  訓読=さな・きざはし・とも・はし・より
ーーー
 ・・・「しな・シナ」・・・これらの漢字訓読みの語原は「支那(しな・シナ)」からの「伝来モノ」に関係、属するモノだからであろう・・・すなわち、「しな」の「訓読の音」は「抽象化」されたニホン語の「一般名詞」である・・・もちろん、「漢字文字」そのものは、その意味に於いて分類された「個別」で「特殊性」を意味している・・・
ーーー
 品(しな)
 人が使用したり消費する対象
 もの・品物
 品(ヒン・ホン)
 人としての資質・品格
 ‎品�噐・‎品位・‎品行・‎品物九品
 九品(くほん)
 物質や人の性質を3×3で分類したもの
 三三品(さんさんぼん)
 上品・下品(じょうひん・げひん)の語源
 九品 浄土(9の等級に分けられた浄土)
 九品蓮台(同様の蓮台)
 九品官人法(きゅうひんかんじんほう)
 中国魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法
 三国時代の魏の
 文帝の
 二百二十年に始められ、
 隋の文帝の
 五百三十八年に廃止
 代わって科挙が採用された
 骨董品(こっとうひん)・・・董=ただす・トウ・ツウ
 希少価値のある古美術や古道具のこと
 フランス語でアンティーク(Antique)
 語源はラテン語アンティクウス(Antiquus、古い)
 古いだけで実際の役には立たない時代遅れのもの
   董=ただす・おさめる・なおす
     トウ・ツウ
     見張る・監督、管理する
     「威をもってこれを董す」
    「董狐の筆(トウコのフデ)
     権勢を恐れず、ありのままに歴史に書き記すこと」
     春秋時代、晋の歴史官
     董狐(トウコ)が、
     趙穿(チョウセン)が主君の
     霊公を殺したのに、
     とり締まるはずの
     趙盾(チョウトン)が何もしなかったので、
     趙盾に罪があるとして、
     趙盾が殺したと歴史書に書いたことから・・・?
     董=「サ(艸)+重」で
       「袋の中の物を叩いて整えること」とブログ字典
        にあり、
       「重」=「東+土」で
       「東」は「袋」の象形と説明があったが・・・?
       「土」は「おもり」でヨイとして、
       「東」が袋とは思えない・・・
       「東」は「春・春の草木・春季」であり、
       「旭日(朝日・朝陽)が昇る方角」である。
        すなわち、
       「東」は「木(十+八)+日」で、
        一日の始りの方角と時刻である
       「重」の部首分解は「千+申+土」か
       「挿す(攩)」の右の字に「二」である
        類字の
       「攩(扌+黨・挡=扌+当)」は
       「阻む・さえぎる・覆う
        挡路・道をふさぐ・挡阳光
        日射しをさえぎる
        覆い・カバー・囲い・挡子・ブラインド」
        攩
       「懂(トウ)」は
       「道理など物事の本質や全体像がわかる・
        物事の程度を詳細に理解する、悟るである」
        類字は「燻る・薫」で「燻製・薫製」である
       「薫陶」は徳の力で人を感化し、教育すること
       「薫らす」は煙を緩やかに立ちのぼらせる
            「くゆらせる」である。
ー↓
 品
 ヒンが「漢音(カンオン)」で
 ホンが「呉音(ゴオン)」である・・・「御本」・・・
 「呉音(ゴオン)」の「ご」の音は「御」の漢字であるが
 なんでも、かんでも
 「御恩・御苦労・御武運・御不精」で、
 「御米・御飯・御魚・御野菜・御林檎・御菓子」、
 「御前・御手前・御点前」の
 「御(ゴ・お)」である。
 接頭語の「おん(御)」の音変化で、中世以降の成立
 名詞に付く
 尊敬の意を表す
 相手または第三者に属するものに付いて、
 その所属、所有者を敬う場合と、
 敬うべき人に対する自己の物や行為に付ける
 「御(ゴ)」
 「御前(ごぜん)」の略か?
 貴婦人に付ける敬称
 格助詞「の」を介して、呼び名に付ける
 「御達(ごたち)」の形で
 婦人や上級の女房の敬称
 「御(み)」
 主として和語の名詞に付いて、
 神仏・天皇・ 貴人など、尊敬すべき人に属するものを示し、
 尊敬の意を添える
 「御子・御心・御手」
 「御(み)」は「美・深」とも書く
 「御(お)」
 接頭語名詞の上に付いて、尊敬の意を表す
 「お前(まへ)」
 中古には、「お前(まへ)・お座(まし)・お許(もと)
 お物(もの)」などの限られた語に付いた
 中世以降は用言にも付くようになった
 「供御(クギョ)」
 「ぐご」とも
 天皇の飲食物、時には、上皇・皇后・皇子の飲食物をいう語
 武家時代には将軍の飲食物をもいった
 飯(めし)をいう女房詞
 「出御」
 天皇・皇后、また、将軍などを敬って、その外出、
 また、目下の者の前に出ることをいう語。おでまし
 「御御御付け(おみおつけ)」
 おみおつけの「おつけ」は、動詞「付ける」の
 連用形「つけ」を名詞化したものに、
 接頭語の「御」をつけた語で、
 本膳の飯に並べてつける
 汁といった意味の女房詞
ーー
 品
 しな
 品質・品種・品目・遺品・佳品・金品・景品・作品
 出品・小品・商品・食品・新品・製品・絶品・珍品
 廃品・備品
 贓品(ゾウヒン)
 犯罪など不正な手段で手に入れた品物
 stolen goods=盗品
 欠品(ケッピン)
 客の注文した品がその場にないこと
 品物がその店になく注文に応じられないこと
 品切れ
 人品
 人としての品格
 身なり・顔だち・態度などの人のありさま
 「人品骨柄(こつがら)卑しからぬ紳士」
 消耗品
 コピー用紙、文具類、 封筒や便せん、洗剤、潤滑油など
 1回限りで使い切ったり使うにつれ量が減るようなもの
 品
 形があり、見たり触ったりできる物体
 人間が使うための物体
 a thing
 品物の性質、状態
 quality・品質
 品柄(しながら)
 品定め
 物の優劣や品質について論じ、批評し判定すること
 estimation
 品物
 an article・商品・goods・a shortage of goods
 品薄
 a shortage of stock
 品書き
 目録・a catalogue・a catalog
 献立表・a menu
 the number of articles
 items of merchandise
 品評・品定
 品詞(ひんし)
 parts of speech
 品種(ひんしゅ)
 生物の種以下の生物集団の単位
 品鶴線(ひんかくせん)
 品川駅と鶴見駅を結ぶ、東海道本線の支線の通称
 品切重版未定(しなぎれじゅうはんみてい)
 出版元や取次店に在庫がなく、
 出版元による重版の予定もない、ほぼ絶版のモノ
 品行方正
ーーー
 ・・・「生産品」と「商品」は異なる概念だが・・・書籍を何時から「本(ホン)」と呼ぶようになったのか?・・・
 日本語の「ほん」
 「本物・本家本元」などの「本」
 「写し」に対する
 「原著作物、原稿本」が「ほん」のもともとの意味
 「写し」の末尾には
 「...とぞホンに(以上のように元の書物にありました)」
 というような一行が付け加えられた
 「ほん」ということばには
 「原典」→「写本」→「書物一般」
 という意味の拡大がおこった
 元来、「本」という漢字は、「物事の基本にあたる」という意味から転じて書物を指すようになった。古くは文(ふみ)、別に書籍、典籍、図書などの語もある。
 英語の「book」・・・「ブック」とは「新旧聖書」である
 ドイツ語の「buch」は
 古代ゲルマン民族の
 ブナ(山毛欅・橅・椈・桕
    学名はFagus crenata Blume)の木を指す言葉
   ・・・「ぶな=橅・椈」は近世の国字である・・・
 フランス語の「livre」
 スペイン語の「libro」
 はもともとラテン語の
 木の内皮(liber)という言葉
 古代インカ帝国の「キープ(結縄)」
 インディアンが使用した
 彩色した貝や棒の刻み目や組合せ
 古代中国の
 「亀甲文字・獣骨文字・金石文字」
 インドなどの木の葉に記した文字
 メソポタミアの粘土上に記した文字
 「楔形文字
 (くさびがたもじ・セッケイもじ・キッケイもじ)」
 文明化した世界各地で様々な
 「書写材料」が試みられた。
 これらのうち、もっとも多くの民族が手軽に利用した、
 木の皮をはぎ、そこに書き写す行為が
 「本(ホン)」の祖形になったと考えられる。
 「本」の誕生
 羊皮紙を使用し、
 現在の本の概念となったものを
 最初に完成させ、伝えたのは、
 6世紀初めに
 ベネディクトゥスがイタリアに設けた
 修道院の修道士たち
 25cm×45cmの
 「羊皮紙」を半分に折り、
 「鵞ペン」で各種インクを用いて聖句を写した。
 羊皮紙4枚ごとに咽に皮ひもを通し、
 それらを重ねて1冊にすると
 紐で山になった
 背ぐるみに皮を被せて表紙とした。
 またその表面から小口をかけて金具を打ったり、
 表紙に宝石を嵌めたりして装幀の美を競った。
ーー
 紙本の登場
 羊皮紙よりも軽くて扱いやすい紙の発明は本の歴史にとって画期的であったが、実際に西洋で紙が羊皮紙に替わるようになるのは印刷術の発明以降であり、東西での紙の使用は十世紀以上の開きがある。
 15世紀半ばにドイツの
 ヨハネス・グーテンベルクが金属による可動性の活字を使い、
 ブドウ絞り機を利用した印刷機を操作して印刷術を興した
 1455年以降グーテンベルクによって印刷された
 「グーテンベルク聖書」などによって
 印刷術は全欧州に広がり飛躍的な発展を遂げた。
ーー
 和書の歴史
 日本で作られた本
 日本にいつ紙が入り、
 製紙術が伝えられたのか定かではない。
 「日本書紀」には、
 610年に
 「曇徴」が来朝し、絵具・紙・墨を巧みに作ったと記されている。おそらくは日本における
 「碾磑(みずうす)」の創製者であるとは書かれているものの
 絵具・紙墨については言及がない。したがって、彼が来朝する以前には製紙術は伝わっていただろうと考えられる。
 現在残っている最古の本は
 7世紀初めの
 聖徳太子の自筆といわれる
 法華義疏であるとされている。
 また、奈良時代の本の遺品は数千点にのぼり、1000年以上昔の紙の本がこれほど多数残されているのは世界に例が無い。
 また、日本では製紙法の改良により、
 楮(こうぞ・チョ)、
 三椏(みつまた・サンア)などで
 すいた優れた紙の本が生まれている
 ・・・「三椏紙(みつまたがみ)」とは、
 三椏を原料とする紙
 慶長三年(1598年)に
 徳川家康から
 伊豆国
 修善寺村の
 紙漉工に和紙原料として
 三椏を伐採することを認めたとする文書が存在する
 ・・・らしい
 印刷術に関しては、
 8世紀に現存するものでは世界最古の印刷物である
 百万塔陀羅尼が発行されたが、
 平安時代には経文や文学作品を上質の和紙の上に美しい筆遣いで
 書き写す手法がとられ、
 印刷に関しては長く後を絶つようになる。
 平安時代末から鎌倉時代には
 中国の影響で
 木版印刷が広く行われるようになり、主に仏教関連の書籍が寺院から刊行された。
 また
 慶長年間には勅命により
 日本最初の
 木製活字本が現れ、
 「古文考経」
 「日本書紀神代巻」などのいわゆる慶長勅版本が刊行された。
 1590年には
 アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって
 グーテンベルクの活版印刷術がもたらされ、
 キリシタン版数種が誕生したが、
 キリスト教禁止などの影響により技術が途絶えた。
 また
 活字という
 印刷形態自体が当時の書物には馴染まなかったようで徐々に廃れた。
 現在の日本の活字印刷の基礎を築いたのは
 本木昌造で、
 幕末の
 1852年に
 鉛活字を用いて
 「蘭和通弁」を刷り、
 明治になって今日の
 号数活字の制定など活字印刷の緒をつけた・・・
ーーー
 で、言いたいことは
 応神天皇
 (仲哀天皇九年十二月十四日~応神天皇四十一年二月十五日)
 第十五代天皇
 (在位は応神天皇元年一月一日~同四十一年二月十五日)
 諱は
 誉田別尊(ほむたわけのみこと)
 大鞆和気命(おおともわけのみこと)
 誉田天皇(ほむたのすめらみこと・ほんだのすめらみこと)
 胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)
 とも称される。
 「日本書紀」は、
 「譽田天皇(ほむたのすめらみこと)」
 の
 「ホンダ」であり、
 「垂仁天皇」
 活目入彦五十狭茅尊
 (いくめいりびこいさちのみこと)
 活目尊等と称
 「古事記」は
 「伊久米伊理毘古伊佐知命
 (いくめいりびこいさちのみこと)
 「常陸国風土記」
 「伊久米天皇」
 「令集解・所引の古記」に
 「生目天皇」
 「上宮記・逸文」に
 「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」
 と
 「狭穂媛(日本書記)」
 「沙本毘売命
  佐波遅比売命(古事記)」
 の
 ムスコ(息子)
 「誉津別命(ほむつわけのみこと)」
 「日本書紀」では
 「誉津別命」
 「古事記」
 「本牟都和気命
  本牟智和気命」
 「本牟智和気御子」
 「尾張国風土記・逸文」に
 「品津別皇子」・・・の「ほん=本・品・誉」である・・・「誉田別尊(ほむたわけのみこと)」とは「本拿捌の視異」・・・「古事記」も「日本書記」も幕末、明治の改竄の産物・・・だろう・・・


 

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参拾年間の「中野学校生の魂」・・・

2014-01-17 17:32:10 | 古事記字源

 ・・・オフクロとは一歳年下の大正11年生まれ・・・ウイッキペデアによれば、「小野田 寛郎(おのだ ひろお)、1922年(大正十一年)3月19日~2014年(平成二十六年)1月16日16時29分)・・・日本陸軍軍人、実業家。最終階級は予備陸軍少尉。旧制海南中学校・久留米第一陸軍予備士官学校・陸軍中野学校二俣分校卒・・・情報将校として太平洋戦争(大東亜戦争)に従軍し遊撃戦(ゲリラ戦)を展開、戦争終結から29年目にフィリピン・ルバング島から帰還」・・・「干支」は異なるけれど、「変通」が類似する・・・
ーーー
 小野田寛郎さん死去、
 終戦知らずルバング島
 30年間任務続行
 自然塾で育成に尽力
 産経新聞1月17日(金)9時48分

 戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、ボランティアなどを養成する「小野田自然塾」理事長の小野田寛郎(おのだ・ひろお)さんが
 16日午後4時29分、
 肺炎のため都内の病院で死去したことが17日、分かった。
 91歳だった。葬儀・告別式は親族のみで行う。後日、お別れの会を開く予定。
 遺族らによると、体調を崩して6日から入院していたという。
 大正11年、和歌山県亀川村(現海南市)で生まれ、昭和19年に諜報員などを養成する陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣。20年の終戦後も任務解除の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって戦闘を続け、49年3月に任務解除命令を受けて帰国した。
 50年にはブラジルへ移住し、牧場を開業。平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。近年は都内で生活し、国内各地で講演を行っていた。
ーーー↓ウイッキペデアより抜粋↓
 1944年12月、フィリピン防衛戦を担当する第14方面軍情報部付となり、遊撃戦指導の任務を与えられフィリピンに派遣。当地では14HA隷下の第8師団参謀部付(配属)。
 8D長横山静雄陸軍中将から
 「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
 の訓示を受けた。派遣にあたり、高級司令部が持っている情報は全て教えられ、日本が占領された後も連合国軍と戦い続けるとの計画であった・・・らしい・・・
ーーー
 小塚金七
 (1921年~1972年10月19日)
 ルバング島守備隊生き残りの少数分散潜伏時に小野田グループにいた日本兵。
 1972年10月19日に起きたフィリピン警察軍との銃撃戦で肩を撃たれて三八式歩兵銃を落とし、さらに胸を撃たれて倒れる。小野田は小塚の銃で5発、自身が持つ九九式短小銃で4発撃ち警察軍の攻撃を抑え、倒れた小塚を揺さぶるもその時には白目を向いて口から血を流しており既に死亡していた。享年51。
 小塚の死に対し小野田は
 「復讐心が高まった。目の前で30年もの戦友を殺された時の口惜しさなんてものはない」
 と後年、述べている。
 小塚は母親に手紙を渡していたと言われ、息子の死に際して、母親は
 「人生わずか50年、その半数を異国の島ルバングの山谷に人も入らぬジャングルに27年、祖国の為と御奉公の甲斐むなしく昭和四十七年十月十九日、命と共に消へ失せる悲しき最後、あまりにも哀われです」
 と手記を残した・・・
ーーー
年干支・・・壬 戌(辛・丁・戊)
年天干変通 偏官・・↓地支蔵干変通   12運
年蔵干・・・・・戌(正財・劫財・食神)・・墓
年月支関係・・支合・丙丁(劫財)
月干支・・・癸 卯(甲・ ・乙)
月天干変通 正官・・↓地支蔵干変通    12運
月蔵干・・・・・卯(偏印・  ・印綬)・・沐浴
格式変通・・・・・・偏印or印綬格
月日支関係・・支合・丙丁(劫財)
日干支・・・丙 戌(辛・丁・戊)午未←空亡
日天干変通 比肩・・↓地支蔵干変通   12運
日蔵干・・・・・戌(正財・劫財・食神)・・絶
ーー↓↑
大運    壬 子(壬・ ・癸)
      偏官
ーー↓↑
年運支関係 癸 巳(戊・庚・丙)年
      正官年
ーー↓↑   
月運支関係 乙 丑(癸・辛・己)月
      印綬月  
ーー↓↑
日運支関係 生月・流日三合乙(印綬)
      丁 亥(戊・甲・壬)日
      劫財日   
ーー↓↑
時運支関係 大運・流運三合壬(偏官)
      戊 申(己・壬・庚)時
      食神時
ーーーーー
 ・・・

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バウンダリー・・・変身のベラの境界

2014-01-16 21:31:46 | 古事記字源

 ・・・「宇宙から国境は見えない」・・・地球上でも河とか島で無い限り「国境線」は見えないだろう・・・元々「国境線」は人間が恣意的に地図の上に引いた「線」に過ぎない・・・「万里の長城」が国境の役目を果たしたか、どうであったか・・・古代、中世、近世の「都市国家」には城壁があったが、城壁は国境ではない。逃げ込む場所で敵の攻撃から最終的に防御する石垣の囲いである。「海の領域の線」も、であろう・・・国境があっても名称が「国境の無い医師団」と言う組織があるらしい・・・
ーーー
 国境
 くにざかい・くにさかい
 近代以前の日本における地方行政区分であった国同士の境目
 滋賀県高島市の地名・読みは「くにざかい」
 国境
 こっきょう
 国の領域を分ける境目
 1648年
 ウエストファリア条約以降、
 主権国家は明確な領域を持つこととされ、
 地球の連続的な広がりを有界化して、
 バウンダリー(競技場に設けられた境界線)としての
 国境線が地表上にひかれた
 「心のバウンダリー(境界線)」とか
 「バウンダリー (Boundary)」 は
 アメリカ生まれの競走馬、および種牡馬であるらしい
 また
 「バウンダリー」は
 バウンダリー・フィールド(Boundary Field)で、
 アメリカのワシントンD.C.に
 19世紀終盤にあった野球場の名称であるらしい・・・
 人為的国境
 条約、経線、緯線、道路、民族などの人為によって定めた
 アメリカ合衆国とカナダ(北緯49度の緯線が国境)
 いずれもこれを境として、
 国の領土または領海を分けるモノ
 海上においては、
 両国の狭義の領土から互いに等距離である
 中間線などを国境とすることが多い
 国際河川上においては、
 川床の最深部をつないだ線
 (航路の中央線ともなる)が国境
ーーー
 ・・・ムカシは「水」で隣村同士が争った・・・
 アイヌ語で「河川」は「別(ベツ)」、「内(ナイ)」で、「内(nay)」は沢の意味がある。「別(pet)」は氾濫する川、「ナイ」」は山間の「沢」でもあるから渓谷の川だろう・・・「水」が「ワッカ」と「ベ」で、「ワッカ」は飲める水、「ベ」は飲めない水らしい・・・「べ」は濁った、淀んだ水であるならば「湿地帯の沼地の水」だろう・・・
 「野辺(のべ)」は古語では「のへ」で「野のあたり・野原」、「火葬場・埋葬地」であるらしい・・・
 「ベラ(倍良、遍羅、英名:Wrasse、ラス)」は、スズキ目ベラ亜目ベラ科 Labridae に属する魚の総称らしい・・・瀬戸内海で「ベラ」は「キュウセン」で、夏磯の小魚。小さな「赤ベラのメス」が成長すると「オスの青ベラ」に「性転換」し、夜や冬は砂に潜り眠る習性があるらしい・・・「ゴルキ?」・・・メスは体長20cm ほどで体色は「黄褐色」で、背面中央と体側に黒色の太い縦帯が入り、黒帯の内外に点線状の赤い「9本」の縦線があるらしい・・・オスは体長30cmほどで、体色は鮮やかな「黄緑色」で、体側の縦帯がメスより広く不明瞭。胸びれの後方に大きな「藍色の斑点が1つ」。この体色の違いからメスは「アカベラ」、オスは「アオベラ」とも。極端な性的二形のために別種と思われることもあるらしい・・・
 ・・・人間どもはミンナ、変身に憬れる傾向がある動物らしい・・・

 

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弐千壱拾四年・壱月・壱拾五日

2014-01-15 17:42:39 | 古事記字源

 ・・・振り子の止まった柱時計・・・オフクロが亡くなってから1週間目の15日・・・晴天だが寒い朝・・・除雪車と除雪ダンプ車がアッチコッチで忙しそうな雪道を歩きながら町役場に行って来た・・・「死亡した日本人」であったと云うコトには色々な手続きがいる・・・そして色々な形でオフクロは人生を「保障」されて来たのだな、と、思う・・・モモがオフクロの遺骨の祭壇の前の布団に座って彼女の遺影の写真を見上げている。ブブはストーブの横の椅子の上で蹲っている・・・この家でオフクロと一緒に寝たのはたったの三日間・・・TVを見て笑ったり、食事をしたり、喧嘩したり・・・したかった・・・
 ・・・祭壇の蝋燭の灯が揺れている・・・

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