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コジキジゲン

ドラマの登場人物のナマエの?

2016-02-17 00:06:43 | 古事記字源

 ・・・「22:00・お義父さんと呼ばせて(北海道文化放送)」のキャラクター、面白かった・・・「秘密」はダレにでもあるさッ!・・・「葉理男」と「保」と「美蘭」・・・未明から一気に寒気、明るくなって寒冷のドカ雪・・・「宮崎氏の議員辞職」で、「甘利氏は辞職のつもりはなく、睡眠障害で療養」ですか、「議員辞職の重さ」を考えるなら、彼らの秘密を「裁判員裁判官」はドウ裁く・・・「もんじゅ廃炉に約3000億円」ですか、「文殊の智慧(智恵・知恵)」って「ヒミツを暴くチエ」で、
 「文殊師利菩薩及諸仙所説吉凶時日善悪宿曜経(上下二巻)」
   ↓↑
  文殊師利・・・モンジュシリ
  菩薩・・・・・ボサツ
  及・・・・・・キュウ
  諸仙・・・・・ショセン
  所説・・・・・ショセツ
  吉凶・・・・・キッキョウ
  時日・・・・・ジジツ
  善悪・・・・・ゼンアク
  宿曜経・・・・スクヨウキョウ
  金剛不空・・・コンゴウフクウ
        (Amoghavajra・アモーガヴァジュラ)
         705年・神龍元年
          ~
         774年・大暦九年
         110部143巻の印度経典を漢訳
         四大訳経家の一人)
  759年著
   ↓↑
 ・・・「入所者老人、3人を殺したらしい川崎市の老人ホームの元職員」は「秘密を自己暴露」したらしいが、「動機は?」であるらしい。無抵抗な八〇~九〇の三人の老人コロシの「確信犯」?・・・「趣味でのコロシ」じゃぁないだろうが、「安楽死」でもなく、「ベランダからの突き落とし」・・・ソレなら、ソレなりのカクゴがあったのか?・・・「老人の口減らし=楢山節考(ならやまぶしこう)」・・・
 「葉理男」の「女装」ぐらいのヒミツは「秘密」じゃあないだろう・・・素朴、生真面目で几帳面な「大道寺保」。綽名が「ヒラメ、ハゲタカ」と呼ばれている「花澤紀一郎」、彼の妻の「静香」、長女の「美蘭」、長男で女装癖の「葉理男」、次女の「真理乃」・・・
 ・・・兎に角、登場人物の「名前」の「姓名判断の漢字」は、「宿曜経二十八宿」とも重なる「ウラナイ」かも・・・「巫山戯(ふざけ)」ているワケではない。「人間社会」は深刻である・・・
 ・・・興味のあるヒトは、以下へ・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/ura2/mirai.htm
 ・・・???

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歌謡曲、演歌、艶歌、民謡・・・

2016-02-15 23:51:08 | 古事記字源

 ・・・うまいなぁ~ッ、「島津亜矢」さん・・・何を唄ってもウマイ・・・彼女、「オペラの蝶々夫人」を歌ったらドンな歌い方をするんだろう、と思うが・・・彼女が唄う「オリジナル演歌」、「カバー曲」の詩も曲も含め、聴いているボクは「ニホンジン?」なんだと、つくずく「心情的?」には、ソウ思う。が、それらの「歌謡曲の詩(詞)」をよくよく「理屈的」に考えてみれば「?なモノ」が多い・・・その情景、状況を唱っている感性、感情、情感の「喜怒哀楽」のコトバが「否定」されているのか、「肯定」されているのか・・・「五W一Hの文章」ではないから、曖昧である・・・
 「感」=「咸(みな・カン・ハム・ゲン」
    =「口を封じる・口を閉ざす」
 「咸」=「厂(がけ・カン・ガン)+一+口+戈(ほこ・カ)」
    =「口+戌(ト+戈)=武器で脅して口を封(閉)じさせる」
    =「緘(とじる・カン・ケン)の原字で、封じ込めた全て」
  +
 「心」・・・
 「抒情(叙情)詩」、「叙事詩」、「詩文」・・・「それが、歌謡曲の詩、エン歌の詩」と云うモンだ、と云われればソレまである・・・その作者の「心情・情念・期待・憧憬・憐憫・未練・愛憎・情景・悔悟・後悔・悔恨」の「感情・感動」、そして、その時の「イマジネーション(imagination・心象)」の創作表現であり、その作品に対する享受者自身は、彼ら自身の「その時点でのフィーリング(feelings・心情)、イマジネーション(imagination・心象)」であり、時間的な経験領域の個々人のモノで、時々のモノであり、作者と同じ共感を共有出来るとは限らない・・・時間に於いても、環境、状況に於いても、「同じ歌」を聴いても、その感情的な判断は個々人、千差万別である・・・
 ボクは、小さい頃は歌謡曲、演歌、艶歌、民謡が嫌いだった、と云うよりも、その「ヨサ」が判らなかった。情景、環境的な経験は無く、コトバの知識も無かったから当然である・・・音曲の「律動(リズム・rhythm)」や「旋律(メロデー・melody・節まわし)」だけは耳について、その「好き嫌い」は選択判断はできたが・・・
 歌謡曲、演歌、艶歌、民謡が好きになっていったのは「歌詞」を理解出来る経験を経た20代も半ばになってからである・・・
 最近、TV番組で「外国人」が「日本語」で「日本の歌」をミゴトにウタうのを観るコトが多いが、「異和感」が全くない。すごく上手い。「心情的な日本語の理解?」と同時に。当然「彼らの心情言語」でも理解しているらしい・・・
 地球人の「生活心情?」は何処で生まれても同じモノであるらしいが、その「意識を一般化」するコトは出来ない。人間の同じ階級、階層、その経験枠の環境に即しての個々人の異なった喜怒哀楽の「共感(empathy)・感銘(impression)・同情(sympathy)・憐憫(pity・mercy)・憧憬(admiration・longing)」の「心情理解」であろう・・・「恋愛感情」は「階級・階層・身分秩序」には関係ないカモだが、「政治権力」を握った男と女の関係には涙を流しても打算が重なっているカモ・・・相互の損得カンジョウ・・・
 最近はヤタラ十把一絡げで「日本人(?)の信条」や、「日本人(?)とはナニか」を「強調?」する日本人の政治屋、評論屋や、TV番組が多い・・・徒党を組む政治屋の「一派(?)一絡げのヤツラ」は「地球人、人間」としての「立場」を「情」で吹き飛ばそうとしている・・・個々人に事件や問題が起これば、他人事のように「彼らも人間だから」と、云うヤカラも多いが、イザ、その本人に事件や問題が起これば「私も人間だから」と云う・・・一体全体、オレもオマエも「同じ人間だからナンなん」だ・・・エゴか、セルフシュか・・・「人間」の熟語は「日本語漢字熟語」である。「ヒトとヒトの間」の「関係性」のコトバである。これは「絆」なのか、「身分秩序」なのか・・・
ーーーーー
 辛 亥(戊・甲・壬)建禄
   三合乙
 辛 卯(甲・ ・乙)印綬・傷官
 壬 子(壬・ ・癸)帝旺
ーーーーー
 ・・・それでも、その才能には「なるほど、歌姫」とは、感じる・・・「島津亜矢」さんの歌唱力と・・・「心情・情念・期待・憧憬・未練・愛憎・悲哀・情景・悔悟・後悔・悔恨」の「感情・感動」の一体化の表現力・・・

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「ワクワク」の「同音異字漢字」のスベテ・・・

2016-02-15 09:40:39 | 古事記字源

 ・・・前日のツヅキ・・・
ーーーーー
 私   「とにかく、『バァル(Bar=Baal)』さんは、エ
      ジプトのラムセス王の時に最高に崇拝された神様で、兄
      である『オシリス』を殺した『セト』と混交された神様
      だ。しかも、『バァル(Bar=Baal)』さんは、
      『アナト』や『アスタルテ』を陪神させていたんだ」
 ユカリ 「!?・・・『婆娃=バァ(Bar=Baal)』さんは
      、『穴門=アナト』や、『亜州多留・(弖)=阿蘇多留
      手=明日足手=アスタルテを陪臣=陪神=陪審させてい
      た存在なのね!」
 私   「ああ、しかもエジプトでは『カ(か)』も『精霊』で
      『魂(たましい)』だ。タマシイは漢字を重ねれば『魂
      魄(コンパク)=鬼{云(いう)+白(いわく)}で、
      鬼の言葉だ。蚊は虫の文で、ブーンだな」
 ユカリ 「鬼(キ)のイウ(位得)=ユウ(謂・邑・酉・熊・又・
      結)、鬼(キ)のイワク(曰=意話句=異話句=磐句=
      バンク=盤区=晩玖)」
 私   「艮泊=丑寅=牛虎=胡の使途羅=胡の使徒螺(拉・等)
      で、坤泊=未申=羊猿=日辻の叉に留だ。そして、『カ
      (か)』は『精霊』で『魂(たましい)』だ」
 ユカリ 「精霊が『カ(か)』なのね!書き出すと・・・
      華(はな=頗名)の変化、
      日(ひ=比・一)の変化、
      歌(うた=詩・唄)の変化、
      夏(なつ=奈津)の変化、
      蚊(か=家・珂)=虻(あぶ・阿武)の変化、
      蝦(えび=海老・かえる=蛙)の変化、
      樺(かば=椛・蒲・河馬)の変化、
      靴(くつ=屈・窟・掘・堀・沓)の変化、
      鹿(しか=鹿・詩歌・史家・志賀・市価・紙価)の変化、
     禾(のぎ=能義・穎・野木・野義・退・軒)の変化、
      伽(とぎ=富来・砥・研・時・朱鷺・鴇・穐・土岐・辰
           疾・説)の変化、
      嫁(よめ=読・詠・讀・余女)の変化、
      渦(うず=卯頭・烏頭・鵜頭)の変化、
      珈(たま=玉・霊・珠・多摩・弾・球)
          =球磨(くま・熊)の変化、
      珂(たま=田間・他真・多真・太萬)の変化、
      河(かわ=皮・側・革・川)の変化、
      家(いえ=云・謂・言・癒・意重)の変化、
      同音異字=同音維持の漢字の『カ』の変化、
      ・・・『古事記序文』の『日下』を『玖沙訶(くさか)』
      と云い、『帯』を『多羅斯(たらし)』だわ。『天体の
      星』がコトバの原点であるならば『星』の意味する物語
      も『破壊』されてしまってわからなくなった。その修復
      の要が『日本語の文字霊振り』なのね」
 私   「ああ、文字霊不離で、文字珠の降り・・・アヤ、アザ
      ナ、タマのフリだ。現時点から過去の時代へ、そして過
      去から現時点へ揺れるコトバの原点が『古代・古事記の
      日本語』なんだ。しかもインターナショナル・ランゲー
      ジとしてだ」
 ユカリ 「すごいわぁー、ワクワクしちゃうわ」
ーーーーー
 本文は「古代エジプトの神々(1)・絵字符都・『埃及』」
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/fanin/pura2/kojiki42.htm
ーーーーー
 ・・・???・・・「ワクワク」の同音異字漢字です・・・

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逃げるのも人間の「ブッショウ」・・・

2016-02-14 00:00:27 | 古事記字源

 ・・・「逃げる女」・・・「佐久間(遠藤憲一)・梨江子(水野美紀)・美緒(仲里依紗)」・・・「仲里依紗(財・印)」さん、暗くて、重く、奈落に突き落とすほどの演技が凄かった・・・モチロン、「水野美紀(比・官)」さんも、「遠藤憲一(食・財)」さんも、演出家も・・・これが、「事実」だったら、「フィクション(fiction)」でなかったら・・・「サビシぃ」・・・「仏性」は万物に宿る「物象・物証」だが、個々人の人間諸関係の「ココロ」を観せてはくれない。「物象」だけでは「観えないココロの仏性」は理解できない・・・だが「物語の映像展開の登場人物の個々人のココロ」をTVのモニターを観ている者には、俯瞰的に、鳥瞰的に、ホトケのように、カミのように・・・見せてくれる・・・しかし、それもドラマを観ている個々人の「主観的な経験的認識の枠内」でのコトである・・・「そうじゃないんだッ」とモニターに呟いても、「津波がヒトビトを襲っているニュース映像」を観て叫んでる自分と同じ・・・どうするコトもできない・・・こんな「モノガタリ」なら脚本も制作も廃棄か、封印か、ダレにも知れず所に湮滅(インメツ)である・・・こんな「事実」とは向き合いたくないし、「フィクション」でも厭である・・・だが、「逃げてはイケナイ」のが「ヒト」ではなく、「人間」なんだろう・・・
 今年は「丙(ひのえ)の申(さる)年」だが、「ム=私・よこしま」の漢字を「・・・ござる」とも訓読みしている・・・英語なら「セルフィッシュ(selfish)・エゴ(Ego)」・・・「比の重のム」であるカナ・・・
 1657年は明暦三年は「丁酉年」で、明暦の大火(一月十八日)後の二月十日に生まれたのが「新井白石」だった。清国の年号は「順治十四年」、その前年の1656年は「丙申年」である・・・
 新井白石は「1724年(享保九年)」に『史疑』を書いたらしいのだが、この古代研究の書物は「湮滅(インメツ=隠滅)」されてしまった(らしい)・・・何故か?・・・
 『アリストテーレス』の「詩学の第二部」も「湮滅」してしまった(?)らしい・・・漢和字典には、「湮(イン・エン)」とは「しずむ(沈む)・うもれる(埋もれる)・ほろびる(滅びる)・ふさぐ(塞ぐ)・とどこおる(滞る)・むすばれる(結ばれる)」とあり、熟語には「埋湮」、「湮没」、「湮淪」がある。
 「湮(イン・エン)」=「水+西+土(十一)」
 の合字である。
 「淪(リン)」
 も沈む意味である。類字に
 「渝(ユ・かはる・かわる・かえる・あふれる
    変更させる・改める)」
 がある。
 「淪」=「水(氵・サンズイ)+侖」
 の合字で、
 「水(氵・さんずい・さんすい)」
      サンズ=纂髄・纂推・纂誰・纂垂・纂出
          産巣日(次の高御産巣日・次の神産巣日)」
 であり、
 「水(みつ・みづ=御津・密・蜜・三・瑞)」
 である。
 「瑞」は『瑞皐』の「瑞(ズイ)」でもあった。
 「侖」は「集+冊(簡符)」
 の合字で、いわゆる、書物の項目の札であり、順序立てる、筋道を立てるである。
 「現存・古事記」は「712年のモノ」ではあるまい。
 「現存・古事記」は「ドウシ(同志)の混乱(今覧)」に対する「メッセーッジ」として「改作」され、「記録(?)されたモノ」に違いない・・・?
 『新井白石』のような合理的精神(?)に富んだ人物でさえも、自分の娘、『ます』の婚期、縁談を心配して
 「占い師」を訪ねた(1717年・享保二年)、と云う。だが、「占い師」の言葉を鵜呑みに信じたとは思えない。「合理的懐疑論者」で、読書家であった『新井白石』は中国の「運命学」にも興味を抱いたハズに違いなく、どのようなモノなのか、その関係の著書も読んでいたハズであるのだが、意外と「易=占い」にのめり込んでいたようだ・・・シドッチの訊問に関して、「西洋思想=形而下学」として評価しても、その宗教、イエス誕生から~死亡までの「聖書=信仰→形而上学」を信じられない愚論としていたのにもかかわらず・・・「処女懐胎」は今現在なら可能ではあるだろうが・・・
 兎に角、今現在、生きているミンナは「頑張ってきたし、頑張っている」・・・確かに「御先祖」が居なければ、今の自分は存在しない・・・だが、自分自身に「命」を繋いでくれた「御先祖さま」と云っても「千差万別」である・・・
 「逃げる女の美緒さん」にはドノような「御先祖様へのコトバ」があるのか・・・
 ・・・今日のETV「やまびこ学校」の「無着成恭」氏の「こころの時代・アンコールシリーズ・私の戦後70年・仏性を見いだし人を育てる(再)シリーズ・私の戦後70年アンコール。日本人が戦後積み重ねてきたものとは何か・第5回戦後教育から現代まで人を育てることの本質に迫る(初回放送去年12月13日)」をみたが、なぜ「(個々の)ヒトではなく、人間」として「仏が悟った考え方?=無常」を「仏性」と云わねばならないのか・・・「仏性→無常」が「無情・無上」に聴こえてしまう・・・
 「人間社会の戦争(否定)を捉える考え方」は「池上章」氏と同じではあろうが・・・
 「コトバ」として、昨夜のTVで「池上章」氏の説明していた「軍事(産業)兵器輸出→防衛(産業)兵器移転」と説明する政治屋、政府官僚の「云い換えコトバ」とは同じカモ・・・そして、「社会科学」として「客観的(?)なコトバの説明」としては「イケガミさん」だろうが・・・「客観主義的(?)」にも感じる・・・「立場」は「生活の枠の中のジャーナリスト?」であるカモ・・・
 「今上天皇」の戦争への反省のコトバには戦争の惨禍を「客観視し、且つ主体的な痛みと実践」があるようにも思えるが・・・「檻の中の傀儡?」であるカモ・・・
 いずれも、「カネの切れ目が、イノチの切れ目」、「イノチの切れ目が、カネの切れ目」の「プチブル意識の人間社会の海」でモガイテいるのカモ・・・
ーーーーー
 幕末の蘭学者と関わった(?)朱子学者で、伊達藩、仙台に生まれた
 『桜田虎門(名は景質・字は仲文・別号は欽斎)』
 (1774年生~1839年十月三日没)
 と言う人物が
 「推命書」なる「占いの本」を出版した。
 日本では
 「四柱推命学」と呼ばれるモノで、
 中国の
 「運命学(淵海子平)」を最初(?)に翻訳したと言われるモノである。いわば、
 個人の「生年・月・日・時」の「干支」を調べて、
 その人物の「宿命」と「運命」を「推理」する「学問体系」である。
 彼は江戸の『服部栗斎』の門下となり、そこの「麹渓書院」の助教となり、後に「順造館」を創立、督学となり、更に仙台の「養賢堂」の指南となったが、学頭の『大槻平泉』と対立、引退して著述に専念した。著作には「経世談初編」、「四書摘疏」、「近思録摘説」、「詩職名」があるらしい・・・
 新井白石・・・不思議なのが地震や火災に対処して、あれだけ慎重になって、自分の書籍類を守った『新井白石』なのに彼の著書、
『史疑』だけが何処かへ消えてしまったのである。
 ・・・だが、誰かがこの『史疑』を読んでいるハズだし、「写本」も何処かに埋もれているに違いない・・・のだが、この『史疑』は「現存・古事記」の『鍵(キイ)』かも・・・
 とにかく、新井白石は当時の「鎖国日本での世界知識の最高峰?」の知識の源泉だった・・・
 白石の『史疑』をブログ検索で調べたが「松本清張の推理小説」以外には以下の「北海道教育大学リポジトり」の記述を発見するのみ・・・
 「新井白石・江戸中期の儒学者,政治家。名は君美(きんみ),通称は勘解由(かげゆ)。白石は号。・・・上記のほか、最晩年に心血を注いで 完成した作品に『史疑(しぎ)』があるが、これはいまは伝わらず、わずかに「白石遺文」にみられる」・・・?
 新井白石のアウトライン(outline)は以下の「コトバンク」の紹介が手っとり早いかも・・・
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3-14405
ーーーーー
 弁証法
 弁=ム(私・ござる・かいな・シ・ボウ・ム=よこしま=邪)
   +
   廾(手手・キョウ・ク=両手を高くささげる・手をこまぬく)
   廾=一+ノ+|
ーーーーー
 「足袋(たび・ソクタイ)」は「和泉式部」が最初にハイタそうだが・・・「まだ、ふみも、みず、あまの、はしだて」・・・
ーーーーー
 ユカリ 「おじさんは職業柄、宗教、哲学、占術、世界の神話の
     書物には眼をとおしているのよね」
 私   「深くは無いが、浅く広くさ」
 ユカリ 「だって、インド神話も、『チベットの死者の書』も読
      んでいるし」
 私   「たいした働きもせず余った時間を、乱雑に乱読したと
      云うわけだ」
 ユカリ 「ねぇ、おじさん、ギリシャ神話の先にはエジプト古代
      文明があるでしょう。おじさんは若い頃、ギリシャに
      も、インドにも、エジプトまでにも行ってきたのよね。
      どおして?」
 私   「取り立てて理由はないんだ。俺達は団塊の世代なんて
      云われて、敗戦前後に生まれた日本人でな、小学校で
      は一クラスが五、六十人前後の生徒がぎっしり詰まっ
      た教室で男女平等、民主化教育、そして科学的教育。
      中学時代は六十年安保、高校時代はキューバ危機、ケ
      ネディ大統領の暗殺、大学時代はヴェトナム戦争、沖
      縄返還、七十年安保ってね」
 ユカリ 「それが、どうなの?」
 私   「それがどうなんだ、というからじゃあなくてさ。そう
      だな、戦争と敗戦を経験していた親達の世代は自分と
      家族を食わせるのが精いっぱいで、必死で働いていた
      んだ。俺達は金持ちの子供も貧乏人の子供も状況的に
      は同じモノを喰っていて大した変わりがなかったんだ。
      そして、みんなの生活がそれなりに段々とよくなって
      いったハズなんだがさ、親達の意識的な苦労と言う基
      準は敗戦が出発点で、親達は二度と戦争はしちゃイケ
      ナイとか、戦争で人を殺すのはイケナイって当然にも
      わかっているんだが、生活がよくなってきたのは隣の
      国とか、何処かの国が戦争して結果的には日本は儲っ
      たからだ、ってこともよく知っていてね。自分達が戦
      争しないで生活がよくなるならこれほどイイコトはな
      いからな」
 ユカリ 「だから、どうなの?」
 私   「うん、だからさ、敗戦直後の日本の指導者がエライっ
      てのは、日本ダケは戦争しないで、アメリカみたいに
      生活をよくしましょう、と云う立場で国際政治の駆引
      きをやってきたんだ。他人の国はどうぞ、お好きなよ
      うに戦争してください、ってさ。国際的な『国家』と
      しての名誉も権利も主張しません、そして役に立つな
      ら出来る限りの物はナントカしますからってさ。日本
      の幕末と明治維新の国際的な実力をよく知っていた明
      治生まれの外交官さ」
 ユカリ 「それって、吉田首相なのね・・・それで」
 私   「そのへんの親達の立場の価値観が理解出来ないって、
      混乱していた世代なんだ」
 ユカリ 「その親達の価値観って?」
 私   「そうだな、簡単に云えば、俺達の敗戦直後の親の世代
      は生きる為の本音と建前を使い分けることそのものに
      価値観を置いたんだと思うんだが。昔で云えば、源平
      の武士団が台頭してくる律令制度の崩壊期、戦国時代
      前期の武士団が台頭してくる封建制度の混乱期。既成
      の支配権力が機能しなくなった時期に似ている。従来
      の法や掟が農民や商人、一般人の最低限の生活や命を
      護ってはくれなくなった時代だ。いわば、一般人は『
      自由』に自分自身を護らなければならなかった時代だ。
      自分自身と家族を護る為の現実的な『エゴ』で生きて
      行かねばならない時代だな。もう少し云えば、誰でも
      が『闇屋』として生きて行かねばならなかっんだ。敗
      戦直後、ある石部金吉の裁判官が法律をかたくなに守
      って家族共々栄養失調で死んでしまった話がある。生
      活と命を護ってはくれない法律なんかは一般庶民には
      どうでもいいコトさ。『理念としての日本国憲法』も
      いまだにアルンダカ、ナインダカ、『軍隊がアル』と
      云うところで機能していないんだから、どうでもイイ
      んだろうな。この闇屋根性の『親のエゴ』を『国家』
      の指導者も国際社会でしていたんだ。現実的に生きて
      行くためには見える部分は笑顔で諸手をさすって、当
      面は『長いモノには巻かれろ』さ。だが、『巻かれた
      くない』が本音だし、俺達には『巻かれるんじゃない
      ゾ』の立場をとっていたんだ。『国家再興』の為の『
      臥薪嘗胆』だと考えていたのさ」
 ユカリ 「そうなのね、そうなんだわ、『臥薪嘗胆』、『巻かれ
      ちゃダメ』なのよね」
 私   「ところが俺達の世代の半分以上は『臥薪嘗胆』なんか
      じゃなかったのさ。明治生まれの指導者の思惑からは
      遥かに反れた方向に歩き始めていたのさ」
 ユカリ 「ソレたって、何処へ?」
 私   「書かれた『憲法』を文字どおり信じようとしたのさ。
      そして、『憲法=現実の規範』としてアルベキだ、と
      教えられもしたし、当然だとも考えたんだ」
 ユカリ 「おじさん、それって、当り前じゃないの。『国家再興
      』の為の『臥薪嘗胆』は『日本国憲法』の実現じゃな
      いの。それがソレたって?」
 私   「ああ、アタリマエなんだがさ。国家の指導者は、戦争
      に負けた国が最後にはどんな目に会うか、充分に知っ
      ていた。かっては自分達が近隣諸国にやったメチャメ
      チャでたら目なコトだからな。しのび難きをしのび、
      『明治国家再興の為の臥薪嘗胆』の建前なのさ『日本
      国憲法』は。敗戦直後の国家的指導者の立場はさ、決
      して本音は譲ってはいないんだ」
 ユカリ 「『明治国家再興』の建前なの・・・」
 私   「アア。そして、親達の半分くらいは『国家再興』なん
      てどうでもよかッたんだ。そんな心の余裕なんかなか
      ったハズだ。マッカーサー元帥であろうが、誰であろ
      うが、生活と命を現実に保証してくれるならばさ。今
      まで充分に『長いモノ』に巻かれて来て、親兄弟親族
      の命も財産も失って来たんだ。だから『長いモノに巻
      かれてもヨシ』だったんだ。だが『命にかかわるコト
      はゴメンだ』と言うところが敗戦直後の国家指導者と
      、俺達の親との共通項だったのさ。ユカちゃんは聴い
      たことがないだろうな『岸壁の母』って唄を。とにも
      かくにも『勝ってくるぞと、勇ましく出征』した息子
      の生きて帰って来る姿を見たかった母親の気持ち、そ
      の立場を充分理解して捕虜生活から帰還してきた俺達
      の親。帰ってこなかった息子に対しては『くだんの母
      』と云う歌もあった。もう、今時、誰も歌わないだろ
      うな・・・そして、その親の立場を理解できなかった
      俺達の世代」
 ユカリ 「・・・親の立場も知らないで、なんだ!」
 私   「ああ、まったくな。そして『建前を親の立場』だと考
      え違いしてしまった連中は、『無責任時代』の親達の
      裏にある批判的立場を見る事なく、カッコイイなんて
      本気で考え、それを原点にして出世し、『私利私欲』、
      自己保身することを自己目的にしてしまったのさ。そ
      して現在的に日本をパンクさせる寸前まで膨張させて
      いるんだ」
 ユカリ 「ジャァ、そうじゃないんだ、と『本音の部分を親の立
      場』だと思った人はエジプトまでにも旅に出たの?」
 私   「イヤ、違うナ。『フーテンの寅さん』みたいに単なる
      フーテンの旅をして、その旅も結局は行きずまって、
      『建前と本音でナントカ我慢して生活している親元、
      家族』の所に帰ってきては、またイヤになり、その循
      環を繰り返したダケさッ。エジプトを出て故郷を捨て
      たジプシーにはなれなかったのさ」
 ユカリ 「中途半端なんだ」
 私   「まぁーナッ、そう言うことだな。釈迦にも坊主にもな
      れない、コジキ坊主になることもイヤ。現俗もイヤ。
      真似をしたいが困るとすぐ親の巣に帰ってきては寝込
      んじゃう。チョット元気になると又、フラフラと出か
      けていく」
 ユカリ 「そして、理屈だけは一人前なのね・・・でも、イイ、
      私、おじさんがスキよ。おじさんは私ダケのおじさん
      だもの」
 私   「・・・幕末にフランスに派遣された幕府の後家人は途
      中、エジプトに立ち寄ってピラミッドとスフィンクス
      の前で写真を撮っている。彼らにはフランスでの目的
      使命があったが、古代エジプト文明を仰ぎ視て何を考
      えていたんだろう、ナッ」
 ユカリ 「ああ、あの写真は私も視たわ。チョンマゲ、着物姿で、
      帯刀のオサムライ。おじさんも彼らと同じ場所に立っ
      たのね」
 私   「あの時、二十三、四の俺が見上げたスフィンクスとピ
      ラミッド・・・それ自体には余り感動はなかったな。
      ・・・時期が時期だったからあの時のエジプトの人々
      は日本人である俺に凄く親切だった」
 ユカリ 「とにかく、私よりも長い時間を生きて、私よりもモノ
      シリだわよね、おじさんは・・・『エジプトの死者の
      書』も読んでいるんでしょうし、ね。古代のエジプト
      神話を教えてよ。私、あまり詳しくは知らないから」
 私   「そうだな、それじゃぁ、一発、ブツか。古代エジプト
      文明を」
 ユカリ 「例のごとく、『古事記』の漢字に『古代エジプトの言
      葉』を重ねていくとエジプトは一体、何なのか見えて
      来るハズよね。アレでまたヤッテみましょうよ。『文
      字霊振り』で」
 私   「よし、それじゃぁ、やるか。ユカちゃんが考えている
      以上に、『文字霊振り』の原点だゾ。ユカちゃんには
      凄く驚くような発見があるはずだ。俺も最初は半信半
      疑だったが、かって、エジプトに関する本を読みなお
      し、『文字霊振り』で考えてみると、エジプトは地中
      海文明の外枠、外輪の東西南北の南に位置することを
      考えればナルホドと云うことなんだ。まったく、『古
      事記』が何を意図し、どんな思想的文化を有する誰が
      意図したモノであるか見えて来るんだ」
 ユカリ 「既にエジプトも検討していたのね。さすがにズルイ、
      おじさん。私をおいてきぼりにしないでョね」
 私   「もちろんだ。さて、それで、エジプト関係の本だが、
      石上玄一郎氏の『エジプトの死者の書(人文書院・1
      980年)』や、同氏の新書本の『エジプトの死者の
      書(第三文明社・1989年)』、ウオリス・バッジ
      編纂で、今村光一編訳の『エジプト死者の書(たま出
      版・昭和五十七年)』があるが、ここで使用されてい
      る『古代エジプトの言葉』の『音』と、黒川哲朗氏の
      『図説・古代エジプトの動物(六興出版1987年)
      』や、最近、出版されたステファヌ・ロッシーニ氏、
      リュト・シュマン=アンテルム氏供著で、矢島文夫氏
      、吉田春美氏の訳の『図説・エジプトの神々(河出書
      房新社)』を参考にしていく。日本語に翻訳されたエ
      ジプトの神々の名前はその『発音』がいまだハッキリ
      していないし、さらに日本語に訳される時もその『カ
      タカナの発音表記』も類似音で学者、訳者によっても
      違う。俺も混同して話していくが、発音が若干違って
      も『文字霊振り』をしていくモノとするゾ、ユカちゃ
      ん」
 ユカリ 「ええ、了解、了解」
 私   「エジプトの神々の話だが、古代のギリシャ人達は自分
      達の神々とエジプトの神々を重ね併せて理解しょうと
      してたんだ。これは言語に於ける翻訳と同じだと思う
      のだ。異国の言葉を理解するには先ずは音声だ。そし
      てその音声が何を意味しているか・・・意味の同一性
      、音声の違い。意味の同一性は文字の違い・・・だが
      、絵文字なら意味の同一性は、絵が示す実体の意味の
      同一性でもあるナ。これは具体的なモノに限られると
      は思うが、抽象的な言葉も根本は肉体的な実体の快楽
      や痛みからの派生だから感性的に感じる部分が絵文字
      によって示され、なおかつ、その絵文字に変化を与え
      ればイイ。例えば心はハートマーク、そのハートに矢
      が刺さっていたら心が痛む。二つのハートに矢が串刺
      しになっていたら二人の気持ちの痛みは同じモノとか
      ・・・そして、異国の神の理解は自国の神との共通項
      を捜して重ねて理解するのがてっとりばやいからな」
 ユカリ 「そうよね。絵文字なら見るコトによって具体的なモノ
      がどこの国の人々にも理解できるわね。写実的な絵が
      万人にある意味で共感を得るのもソレよね」
 私   「そうだな、言葉の説明を要する抽象的な絵は一般化さ
      れて理解するのは難しいな。普遍的な共通項をポイン
      トにして訴えてはいない・・・まぁ、観賞者個々人の
      枠内で勝手にイイもワルイも、スキもキライも任せた
      、と云うコトだ」
 ユカリ 「そうよね、私は写実的な絵が好き。そして、その絵の
      色彩の施し方だわ」
 私   「そうだな、色づかいだな。そして、タッチだな・・・
      躍動感があるか、静止的なのか、立体的なのか、一面
      的なのか」
 ユカリ 「技術よね」
 私   「そう言うコトだな。・・・エジプトの絵文字も絵も石
      像も建築も顔の表情は凄く写実的なんだが他の部分は
      動きが余り無いな。だが、具体的なモノが何かを致密
      に表現させている。その点、漢字は写実的では無いの
      だが、漢字自体が動いているよな。例えば、笑うと言
      う漢字は竹と夭との組み合せだが、まさに顔が笑って
      いる・・・これは、俺だけのモノじゃあないらしい。
      誰かも云っていたようだが・・・マァ、漢字文化の中
      に育った民族的な独特なモノだろうが」
 ユカリ 「でも、アルファベット文化で育った外人も・がミズ、
      川がミズの流れ、雨が天から落ちて来るミズの点の水
      滴であると漢字の造りを書きながら教えたらすぐ理解
      できたって、ロンドン留学を経験した友達がいってい
      たわ」
 私   「だろうな、特に日本人の漢字自体の理解の仕方は具体
      的な視覚的イメージと表裏一体だ。アルファベットの
      組み合せをみて説明は無理だろうナ」
 ユカリ 「まさに表音文字だものね」
 私   「ああ、まさにだ。さっきの話に戻るが、異国の言語が
      理解できないのは音声が違うからだが、音が同一で、
      意味が違う言葉が複数あり、その意味を区別して理解
      出来るのは漢字を視てからって云うのが日本語じゃあ
      ないのかな。若干発音の違いで区別はしているとは思
      うのだが、しかも表音文字は漢字と漢字から派生した
      カタカナやヒラガナ・・・『古事記』、『万葉集』の
      時代は『万葉仮名』だが、この『万葉仮名』を学者先
      生は『表音文字』と考えているようだが、これは『表
      意文字』であると同時にその『表音』も兼ね、『古事
      記』を記録した『太安萬侶』独特の『漢字』の使用法
      なんだ、と言うことに気が付いてはいない」
 ユカリ 「まったく、そのとうりだわ、『文字霊振り』なのよ」
 私   「『文字霊振り』・・・エライ言葉を俺とユカちゃんは
      発明した、と云うわけだな・・・しかも、英語、ギリ
      シャ語、エジプト語まで、ドシャブリのごとく『振り
      』に『振』ってきた」
 ユカリ 「そうよね、おじさん・・・スゴイ発見と概念規定だわ
      。私たちは『聖書』が語っている『バベルの塔』、ま
      だ世界が音と意味が統一されていた言語の原点に行っ
      たり来たりしているのよね。まさに『バベルの塔の破
      壊』は、諸民族の言語がバラバラになったことだもの」
 私   「『バ・ベ・ル』、あるいは『バ・ベル』だな。そして、
      『バベルの塔』が天文観測の塔であるならば、『古代
      天文学』が破壊されてしまったことの示唆だ。・・・
      人間の願望が生きて神への存在の場所に近づくこと、
      神自体になりたいこと、なることが『天体の星』を意
      味しているならば『神の怒り』が『バベルの塔』の破
      壊となったこともナルホドだよな。古代エジプトでは
      『バ』、『バァ』の音声が意味するモノは『霊魂』な
      んだ。それに『カァ』も」
 ユカリ 「『バ』、『バァ』は『霊魂』を意味するのぉーッ!・
      ・・バカ、カバ・・・」
 私   「ああ、まさに『ババァ』で、『バァ』だ。そして『バ
      ァル(Bar=Baal)』は『太陽円盤が描かれて
      いる白い冠の先端の丸い部分から長い紐』をたらした
      『ミトラ(頭巾)』を被った神だ。彼はデルタ地帯に
      居住していた外国人の神であるらしいが、『火の神』
      であり、『嵐の神』だ。象徴される色は『赤=朱』で
      、特に古代エジプトでは船乗り達が信仰した神であっ
      たのだ。『嵐の神』なら当然だよな。『砂漠の神』と
      か『雷神・嵐神』とか言われているが、一般的には戦
      いの神として信仰されたのだ。『旧約聖書』の『モー
      ゼの出エジプト記』が『紅海』を目の前にして立ち往
      生したとき、現実的には『何』を必要としたかは云う
      までもないだろう」
 ユカリ 「船と船乗りだわよね」
 私   「そう、そして東の国へ渡ろうとして『黄海』を目の前
      にした人々もさ。単に『砂漠の神』とか『雷神・嵐神
      』とか云ってしまうとな、見えなくなる」
 ユカリ 「コウカイって」
 私   「遼東半島の大連と、山東半島の煙台、威海に挟まれた
      勃海海峡を出た黄色い海、Yellow seaのコ
      トだ。現在は黄海(ホワン・ハイ)と呼ばれている」
 ユカリ 「!・・・コウカイ、なの・・・紅じゃなくて黄色・・
      ・呉音ならば、『黄(ウ)』の海(ハイ)・・・コウ
      カイ」
 私   「ああ、コウカイ、ウカイだ。このコウカイ、ウカイを
      漢字転換すれば『旧約聖書』の『出エジプト記』の『
      モーゼの奇跡』の真実と事実が見える仕掛になってい
      るんだ」
 ユカリ 「コウカイは、更の改、公の開、後の悔、航の海、公の
      海、降る灰。ウカイは、迂回、鵜飼なんだわ!・・・
      紅海は真っ二つには割れなかったんだわ」
ーーーーー
 ・・・つづく・・・

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草刈・・・あおひと草をカル・・・

2016-02-12 23:42:38 | 古事記字源

 ・・・前回、書き込んだ「HK1(ヘキソキナーゼ-ワン)」、「細胞切断遺伝子酵素」・・・云いたいコトは「政治家権力の抑制、新陳代謝、自滅、自死、切腹のバランス(均衡→金工・金好・金武巧?)」であるが・・・「切る=七+刀」と言えば(ト-いえば→訳意重葉)、カタナである。なぜ、「七(匕=匙・ヒ=牝=めす)=漆(うるし)=ななつ」の「刀」なのか?・・・「七」は「カイン」が弟「アベル」を殺した「カミの復讐の回数宣言」で、「カインを殺す者」には「七倍の復讐(復讐という連鎖を断ち切る回数?)」で、「メトサエル」の子で、「アダ」と「チラ」という二人の妻の夫「レメク」は「カインの七代目」で、「レメク」を殺傷する者の復讐には、「カミ」ではなく、「レメク自身」が「七十七倍の復讐回数(復讐という連鎖を断ち切る?、あるいは、復讐する回数?)を歌」で宣言するのである(創世記4の23~24)。「アダム」から「七十七代目(の間に復讐という回数連鎖が続いた?)」は「イエス」だが?・・・「七×七=四拾九」・・・
 問題は「切(きる)」の「七の刀」の構成の意味であったが・・・同音異字漢字で「きる=伐・斬・着・鬋→記留」である・・・
 「刀=妖刀、村正(民間の村正の刀は隠され、銘を磨り潰して隠滅・村正の刀剣は徳川将軍家に仇なす」と云う伝説・・・
 草刈正雄氏(現在、「真田丸」の真田幸村の父「真田昌幸」役・朝鮮戦争従軍戦死の父親はアメリカ人・1974年に「卑弥呼」で映画デビュー・1985年(昭和60年)~1986年(昭和61年)の大河ドラマ「真田太平記」では幸村を演じた」)・・・
 彼は、先週のETV、「鑑賞マニュアル・美の壺で進行役」で鎌倉時代の名刀、正宗を紹介、「刀匠・河内國平さんの刀作りに密着、光の秘密。信州真田家にゆかりのある幕末の名工、源清麿とその兄・真雄の物語や、刀の装飾に関わる杢目金(もくめがね)という江戸期の幻のスゴワザを紹介、何を語るのか?」・・・「刀」は「平和」をマモッてきたのか?・・・「刀」は「ヒトを殺傷する為の武器」である。そして状況によっての使い方は様々あろうが、使用目的としては「武器、兵器としての道具」である。「切る」と云うことでは、その使用方法は「銃器=鉄砲・拳銃」よりも幅が広い・・・今や「美術品」としての鑑賞用でもある・・・確かに「使用機能」は当然ながら「機能美」を兼ねる・・・そして、手にしたらナニかを切りたくなる・・・
 文字の音も形象の意味も調べてみたくなる、考えてみたくなるのも、ボク的には当然であるが・・・「くさかりまさお」=「句(ク=玖・矩・口・昏・功・苦・繅)+佐+掛+理+万+作+訖(嗚・乎・緒・尾)」・・・
 ここでは、「マサムネ(正宗)」ではなく、「ムラマサ(村正)」を調べてみたい・・・
 「ウイッキペデア」では・・・
  ↓↑
ーーーーー
 「妖刀、村正」は
  ↓↑
 「長崎奉行で
  キリシタンの弾圧の
  竹中重義(外様大名)は
  徳川幕府が禁じていた
  二十四本の
  村正の所蔵が発覚し、
  徳川幕府(家光)に
  寛永十年(1633年)二月に
  奉行職を
  罷免、
  切腹を命じられ、
  寛永十一年(1634年)
  二月二十二日、
  嫡子、
  竹中源三郎と共に
  浅草の
  海禅寺で切腹、
  一族は隠岐流罪
  検死役は
  大目付の
  水野守信
  (寛明日記)」
 「竹中重義は
  府内藩(豊後国)の初代藩主、
  竹中重利の長男、
  竹中重利は
  慶長五年(1600年)の
  関ヶ原の戦いで、
  豊後高田領主
  はじめ
  西軍に与して
  田辺城の戦いに参加
  後、
  東軍に寝返り
  戦後に
  徳川家康から賞され
  高田一万石から
  府内二万石に加増移封され、
  府内藩(豊後国)の藩祖となった
   ↓
  竹中重義は
  羽柴秀吉の参謀で
  竹中重治(重虎=半兵衛)の
  従弟で、義弟。
  元キリシタン大名の
  黒田官兵衛(如水→祐隆=孝隆=孝高)
  とともに
  双璧とされ、
  両兵衛、二兵衛と称された人物」
 ・・・であった・・・
ーーーーー
 「くさかり(草刈)」・・・草=艸+日+十
              刈=乂+リ(刀)
                乂(かる・おさめ・かしこし
                  カイ・ゲ)
                  治める=䢃
                  懲らしめる=㣻
                   声符「乂(カイ・ゲ)」
                  「凶・䖊・㣻・䢃・艾」
                乄(しめ)→〆
                メ(め)
 「戦国時代、因幡・美作地方の勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷流小山氏の後裔・・・初代の基近は足利家氏に従って陸奥に下向し、斯波郡草刈郷の地頭職を得て、その地名をとって「草刈」氏を名乗ったのが始まり・・・」・・・
 ここでも、「斯波(しば)」、「草刈(くさかり)」・・・「地頭(じとう)」は、「字当」、「字問・字答」デス・・・
ーーーーー
草刈家
家紋
丸の内二つ引
「十曜」紋
 ↓
フランスでは、
七曜制・・・地球に近く、
 ↓    月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星
 ↓    の順に並んでいると考えた
      1曜が1日ではなく
      1時間ごとに地上を守護すると考えられ
      プラネタリーアワー
      順序は、地球から最も遠い土星に始まり、
      内側へと進む
      24時間後、翌日の第一時間目の守護星は、
      3つ前(あるいは4つ後)の太陽
      以下、順に
      土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星
      そしてまた土星が
      各日の第一時間目の守護星になる
      第一時間目の守護星は、
      同時にその日一日の守護星ともされ、
      その日は守護星の名をもって
      呼ばれるようになった
      日本に入唐留学僧らが持ち帰った
      「宿曜経」等の密教教典によって、
      平安時代初頭に伝えられた
      宿曜経が伝えられて間もなく、
      朝廷が発行する具註暦にも
      曜日が記載されるようになり、
      現在の六曜のような、
      吉凶判断の道具として使われてきた
      藤原道長の日記
      『御堂関白記』には
      毎日の曜日が記載されている
      具註暦では、
      日曜日は「日曜」と書かれるほかに
      「密」とも書かれた
      中央アジアの
      ソグド語で日曜日を意味する言葉
      ミール(Myr)を漢字で音写したもの
      当時、ゾロアスター教やマニ教において
      太陽神とされていた
      ミスラ神の名に由来する
      江戸時代
      借金の返済や質草の質流れ等の
      日付の計算は
      その月の日にちが何日あるか
      (大抵は29日か30日)
      がわかればいいという理由で、
      七曜は煩わしくて不必要とされ、
      日常生活で使われることはなかった
      曜日を基準として日常生活
      明治時代初頭のグレゴリオ暦導入以降
      グレゴリオ暦では、
      400年周期で曜日が循環する
      400年間の閏年の配置が決まっており、
 ↓    その総日数が
 ↓    7で割り切れるため
を廃止し
独自の
「十曜制」が設けられた時期が存在
1793年11月24日~1805年12月31日(グレゴリオ暦)
七曜制を廃止し独自の
「十曜制」が設けられた
「-di」は英語の「day」に相当する。
フランス語の現在の曜日にもついている。
(月曜日…Lundi、等)
primidi - 一曜日(いちようび)毎月1,11,21日
duodi - 二曜日(にようび)毎月2,12,22日
tridi - 三曜日(さんようび)毎月3,13,23日
quartidi - 四曜日(よんようび)毎月4,14,24日
quintidi - 五曜日(ごようび)毎月5,15,25日
sextidi - 六曜日(ろくようび)毎月6,16,26日
septidi - 七曜日(しちようび)毎月7,17,27日
octidi - 八曜日(はちようび)毎月8,18,28日
nonidi - 九曜日(きゅうようび)毎月9,19,29日
décadi - 十曜日(じゅうようび)毎月10,20,30日

1871年の
パリ・コミューンの際に
「フランス革命暦」が用いられ、
この暦では、
合理性を追求するため、
従来の七曜を廃止して
10日ずつ
3つのデカード
(décade・週・旬
フランス革命暦では
1か月は
すべて30日であった)
に分けられた。
革命暦廃止を前に
1802年3月31日から
元の七曜制に戻された
↓↑
藤原氏秀郷流・・・家紋は「十曜紋」

草刈氏
戦国時代、因幡・美作地方の勢力
藤原秀郷流
小山氏の後裔
小山政光の孫
氏家基秀の子
基近(公継)
初代の基近
足利家氏に従って
陸奥に下向
斯波郡
草刈郷
地頭職
地名をとって
草刈氏を名乗った

毛利家の記録(萩藩閥閲録)
草刈氏の祖
上野国の豪族
天慶三年(940)
平貞盛とともに
平将門を征伐した
藤原秀郷
草刈の姓
寛正年中(1243~46)鎌倉将軍
頼経親王から
陸奥国
斯波郡
草刈郷の
地頭職を賜った
基近以後・・・
藤原秀郷の後裔・・・

草刈氏
基近の曾孫
貞継は、
延元元年(1336)
足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、
その軍勢に加わったが、
備前国
和気郡の
三石城に踏みとどまり
新田義貞の
追討軍を防いだ・・・

陸奥国の地頭
貞継が、
備前国
三石に現れるのは奇異・・・
草刈氏は
武蔵守として
鎌倉にあった時、
またはそれ以前より
尊氏の配下となっていた・・・
元弘~建武の動乱
尊氏に従って鎌倉から京都に入った
建武三年(1336)
北畠顕家らの軍勢に敗れた
尊氏に従って
備前まで逃れ、
尊氏が九州に去ったのち
三石城に拠って
殿軍の役目を果たした・・・

貞継の戦功により、
暦応元年(1338)
因幡国
智頭郡を賜わり、
同地に移り
淀山城を築いて、拠った・・・
南北朝の内乱
貞和年中(1345~49)
美作国
苫東郡
青柳庄
三輪庄
加茂郷
などの地頭職を賜った・・・
貞継の子
氏継は将軍
義詮から
苫東・苫西郡の地頭職に補された・・・
氏継は
山名氏清の討伐の戦に参加
氏継は本領のほかに、
南接する
美作にも兵を出すなど所領の拡大

応仁の乱
盛継が
山名宗全方として戦った
その子
景継の代に
智頭郡の大半を押領
永正年中(1504~)
播磨の
赤松氏、
出雲の
尼子氏とも戦った
永正五年(1508)
流浪の将軍
足利義稙を奉じて
大内義興が上洛の陣を起こすと
景継も従軍、
同八年、
京都
船岡山の合戦には先陣
草刈氏は
因幡の一方の雄に成長・・・

尼子氏との抗争
景継の子
衝継は、
天文元年(1532)
美作国の
加茂郷に
高山城(矢筈城)を築き
本拠を
因幡の
淀山城から移した・・・
衝継は
美作に移り住むと
高山城に拠って、
美作を侵し、
近隣諸豪、
尼子氏とも対抗

享禄二年(1529)
因幡国
気多郡、
高草郡、
岩井郡で
尼子氏と戦い、
天文元年
美作に進出してきた
備前の宗浦上村・宗景父子を撃退
美作のうち
苫北・苫西を支配下
その後も
尼子氏との間で抗争
天文九年
尼子晴久は
毛利元就を除こうとして
安芸郡
山城に攻め寄せた
翌十年
元就の反撃にあった
尼子勢は敗走
衝継は元就に誼を通じ、
天文十一年、
大内義隆の
尼子攻めには
毛利元就に呼応して
唐櫃に出陣
義隆の尼子攻めは
国人の離反などによって失敗
尼子氏が勢力を吹き返す

以後、
尼子氏の美作侵攻が繰り返され、
天文二十二年、
尼子氏に
高山城を包囲攻撃されたが
衝継は奮戦してついに
尼子勢を退けた
天文二十二年、
晴久は元就の謀略にのせられて
一族の新宮党を討滅、
勢力を失墜
弘治元年(1555)、
元就は
厳島合戦で
陶晴賢を討ち取り
永禄九年(1566)
尼子氏を降した
元就は中国地方から九州北部までを支配

草刈氏では
衝継が隠居
嫡男
景継が
毛利氏に従って
尼子攻めに活躍

因幡では
武田高信がに勢力を拡大
高信は毛利元就に通じ
永禄六年(1563)
守護
山名氏を毒殺
因幡を牛耳る
毛利氏に従って
但馬・美作に進攻
因幡への進出を目論む
景継は
高信と対立
衝突

乱世の変転

永禄九年
毛利氏に降った
尼子氏の残党は
山中鹿介幸盛、
立原源太兵衛尉久綱
らが中心となって
尼子氏再興を図り、
京都
東福寺にいた
新宮党の遺子を還俗させ
尼子孫四郎勝久と名乗らせて主君とした
永禄十二年(1569)
出雲に入ると
因幡の
山名豊国と結んで
毛利方の
武田高信を攻め、
豊国を
鳥取城主とし、
尼子党は
若桜鬼ケ城に
入って
毛利氏と対峙
毛利氏は、
草刈景継

武田高信
の仲裁に乗り出し、
元亀三年(1572)
内海兵庫助らを使者に遣わし
和議
和議の条件が父の代から
毛利氏に尽くしてきた
草刈氏より新参者というべき
武田氏に厚かった
尼子党を支援する
織田氏からの調略の手が
景継に伸び、
天正二年(1574)
織田方の密使として
山中鹿之助が
矢筈城を訪ね
鹿之助を迎えた
草刈氏家中は
景継をはじめ
毛利氏の処置に
反感を持つ者が多かったことから、
動揺
景継は
織田氏に転じることに決し、
信長からの
お墨付きを待った
尼子党が暗躍する
因幡・美作方面を注視していた
小早川隆景は、
さきの和議に対する
景継の不満を察し、
その動きに目を光らせていた・・・

鹿之助から
景継内応の報告を聞いた
信長は、
朱印を捺した誓文書を作成し
蜂須賀正勝に命じて
景継のもとへ送らせたが、
この使者が
智頭郡の北方にある
毛利方の関所で捕えられ、
懐中にあった
景継宛の信長朱印状も押さえられ
報告を聞いた
隆景は、
景継の家来を呼び寄せると
朱印状を見せ、
事態を収拾するように厳命
景継は、切腹、
矢筈城の山麓に葬られた

景継と
武田高信の和議に際して
毛利氏が
景継の納得する条件で臨んでいれば、
景継の事件は起こらなかった・・・

景継が自害後
弟の重継が家督を継ぎ
小早川隆景に属した
草刈氏の支城である
因幡の
淀山城に攻め寄せた
尼子勢を撃退、
若桜鬼ケ城に攻め寄せ
以後、
重継は兄
景継の汚名を雪がんとして
毛利氏に誠忠を尽くし
西の防衛線を死守

『萩藩閥閲録』の由緒書

天正五年
「輝元公御代信長公と御取相」
同十年
信長が
本能寺の変で
明智光秀に殺され、
備中高松城を攻めていた
羽柴秀吉が
毛利輝元と和睦
その間、
草刈氏は
毛利氏のために
因州の
忠櫃城を固守していた

当時、
備前では
天神山城主
浦上宗景の被官であった
宇喜多直家が、
沼城を拠点に勢力を蓄え、
天正年間には
岡山城を築き、
備前・美作に勢力を拡大
直家の台頭を危惧する
備中の
三村元親

主君の
浦上宗景によって、
直家は挟撃され
三村氏の後楯であった
毛利氏と結ぶことに成功し、
滅亡を回避
以後、
直家は
三村元親を
備中松山城に滅ぼし、
美作西部の
高田城主
三浦貞弘を滅ぼした
直家は播磨に進出していた
羽柴秀吉の軍勢と
播磨で戦って敗れ、
羽柴勢の強大さを認識

その後、
尼子勝久を支援する
羽柴勢

毛利勢

播磨国
上月城で戦った
毛利方の敗戦を予想した
直家は病と称して動かず
結果は
毛利方の勝利に帰し、
毛利・宇喜多氏の同盟は崩れた
直家は
天正六年(1578)
織田信長・羽柴秀吉と結ぶに至った・・・

そのころ
直家は備前、美作地方にも勢力を伸ばし、
国衆たちを着々と服属させ
天正五年八月
主君
浦上宗景を
天神山城に攻め
播磨に走らせ
美作の国衆たちの間に動揺
「宗景の家臣どもを己が家僕の如く取扱」
ったことに不満で
かれらは
美作東部の雄、
三星城主
後藤勝基を盟主に結束した
後藤氏は
毛利氏に使者を送ってこれと同盟し、
天正六年から
宇喜多勢

後藤勢は
随所で合戦を展開

勝田郡
英田郡
を舞台に
宇喜多勢

毛利氏を後楯とする
後藤勢が戦っていた時、
吉野郡では
宇喜多氏と結んだ
新免宗貫と、
毛利氏の旗下である
草刈重継が合戦を繰り返していた
新免と草刈の両氏は、
宇喜多・毛利の代理戦争を
吉野郡で展開していた・・・

新免氏との抗争

草刈・新免両氏の攻防戦
『美作太平記』
『美作古城記』などに記述
『東作誌』所収の史料などからみて
事実に反しているような記述も多い
天正十五年
あるいは
同十六年
佐淵の合戦があった・・・
天正十一年
草刈重継は
毛利氏の勧告を受けて
備後に退去しており、
天正十五・六年のころに
草刈・新免の両氏が
吉野郡で合戦したとは考えにくい・・・

『東作誌』

粟倉庄が戦国動乱に巻き込まれる端緒
草刈与次郎重久
が同庄の
長尾村に
佐淵城を築いたことにあった・・・
重久は重継の弟で、
因幡の淀山城にあったが、
天正六年(1578)
淀山城を発し、
長尾村に入り佐淵城を築いた
宇喜多氏に属する
新免伊賀守
粟井右京進らの所領である
吉野郡の村々に放火・狼藉
これに対し、
新免・粟井側は
宗貫はみずから手勢を率いて出陣し
草刈勢の鎮圧に向かった
草刈勢に
新免・粟井勢は敗れつづけた・・・

翌年七月
新免勢

草刈勢

筏津村の
姥ヶ原において戦闘
草刈与次郎は孤軍奮闘したが
新免勢の追手に迫られて
佐淵城に楯籠ろうとして引き返したが、
新免備後守家貞に討たれた
享年、十七歳の若武者であった

草刈勢の主力
高山城の
草刈重継の軍勢

竹山城の
新免宗貫の軍勢が戦闘したのは
琴戸崎合戦

塀高合戦
琴戸崎合戦が起こったのは
天正七年六月
先の
佐淵城落城の寸前であった
高山城の
重継は異母兄の
景継に軍勢を授け、
新免勢の追討に発向
この
草刈勢を迎え撃つ
新免宗貫は、
嫡子
三郎長春
一族・家臣たち、
横野・春名・船曳

吉野郡の国衆たちを率いて立ち上がった
寄手の
草刈勢は新免勢に猛攻を加え、
新免勢は浮き足立って
一時は総崩れ
そこに、
宮本・平尾・小野
らの別働隊が
横槍を入れ
草刈勢は混乱し、敗北を喫した
草刈側の大将
草刈景継、
重臣の
白岩阿波守
らは、
乱戦のなかで
琴戸崎から逃走し、
筏津で討ち取られた
佐淵城の
草刈与次郎も、
城から出て
筏津の
姥ヶ原で
新免勢と戦った・・・
与次郎は討死し、
佐淵城も落城した

天正八年四月
大野庄で
塀高合戦
新免家の内部で対立が起こり、
新免伊賀守に遺恨を抱いた
井口長兵衛
新免総兵衛
らが
草刈重継に内通
その軍勢を
塀高城に引入れ、
一緒になって
新免宗貫の軍勢と戦闘
宗貫は
宇喜多直家に援軍を要請
直家みずからが軍勢を引き連れて
塀高合戦に参加
宗貫は直家とともに
草刈重継の軍勢を撃退

高山城主
草刈重継は、
天正六年~同八年まで、
勝田郡北部の国衆をともなって
吉野郡に侵入し、
竹山城主の
新免宗貫の軍勢と戦ったが、
新免側の守りは堅く、
ついにこれを抜くことはできなかった
毛利氏を後楯とする
草刈氏と、
宇喜多氏を後楯とする
新免氏との攻防戦も
天正十年に至って終焉

景継は
天正三年に自害
しており出陣は不可能
『美作太平記』
には
草刈景綱が大将として出陣、
宮本武蔵に討たれた・・・

その後の草刈氏

天正九年
宇喜多直家の死去
毛利勢の東上を懸念した
織田信長は、
羽柴秀吉を中国経営に向かわせ
羽柴と同盟関係にあった
宇喜多家の諸将はこれに従軍
翌年の
本能寺の変
による
信長の死と
備中高松城の落城によって、
毛利・羽柴の間に和睦が成立
両氏は
高梁川をもって境となし、
以西は毛利氏、
以東は宇喜多氏の所領となった
毛利・宇喜多両氏の間でも講和が成立
美作国は宇喜多秀家の所領
その結果、
草刈重継の居城である
高山城

先祖伝来の所領も
宇喜多領となった。

草刈重継はこれを不満とし、
天正十一年八月
高山城下において、
佐良山城

石米山城

宇喜多氏に加担する
美作の国衆たちと激戦
同年十二月
毛利輝元から
退城勧告の書状が届いたため、
重継は諸城を開くに至った

草刈重継
中村宗継
らは、恨みを呑んで
備後に退去し
毛利氏に仕えた
南北朝以来
因幡・美作の両国に勢力を
扶植した
草刈氏も、
時流の変化のなかで
父祖の地を去っていった・・・

以後、
毛利氏に仕えて、
天正十三年
小早川隆景に従って
伊予
白実城を預かり、
同十四年
筑前国
宝満城を預かった
後、
豊臣秀吉の命により、
宗像氏貞の娘を娶って
宗像氏を継ぎ
宗像を称した
筑前国
中野郡
福岡荘を領して
福岡氏を称した
のちに
草刈に復した

文禄・慶長の役
朝鮮に渡海
関ヶ原の合戦後は
小早川家に属した
のちに
小早川家を去って
毛利輝元の麾下に復した
草刈氏の系譜は
『萩藩諸家系譜』
『近世防長諸家系図総覧』
などにあり、
その一族には
白石
黒岩
中村
川端
の諸氏が出ている・・・
ーーーーー
 ・・・?・・・くさかり・・・「青人草(あおひとくさ・古事記上・葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆるうつしき青人草の」・・・カルのか、カラレられのか・・・

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