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コジキジゲン

「210=弐百壱拾・弐百壹拾・弐百壱足」、「220=弐百弐拾・弐百弐足・弐百念」

2016-09-02 21:03:27 | 古事記字源

 ・・・恐るべき経験知か、科学的認識か・・・「二百十日(にひゃくとおか)・9月1日頃(2016年は8月31日)・立春から数えて210日目・台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまう・厄日とか荒れ日」、「二百二十日(にひゃくはつか)・9月11日、閏年なら9月10日」・・・「二百二十日、二百十日は、江戸時代、徳川幕府の暦編纂係であった渋川春海が暦に記載したことが始まり」・・・「渋川春海」・・・過去的な歴史記録の統計学的な計算結果だったろうなッ・・・
 本日は曇天で時折陽射し、カエルが鳴く蒸し暑い日・・・ミニトマトの収穫五六個ほど、胡瓜(きゅうり)は茎枝に小さな黄色い花を咲かせているが本体の実は見当たらず・・・毎年、庭に生えている紫蘇(シソ)の葉を食べたコトはなかったが、今回は試食のつもりで採種してみた。小さい頃は青菜類、三つ葉、芹、韮などの匂いが嫌いだったが、何時の頃からなのか「漢方薬臭い香り」が好きになっていた・・・ブログ記事で調べたら「ボケ」にも効くらしいとあったが・・・それに「紫蘇を食べたら十年生きる」とあったけれど、寿命よりも十年延長なのか、十年間の命なのか・・・台風、地震、噴火、落雷、洪水、土砂崩壊、猛暑、厳寒、疫病、自然災害はヒトのイノチの体力的強弱、老若男女の寿命にはお構いなしである・・・この日常生活で生きているコト自体が奇蹟である・・・
 だが、「ヤフー知恵袋」には「世界人口生死数は、出生数=1日に20万人、死亡数=1日に15万人」で、「日本での推計は、2007年度で出生数は109万人、死亡数は110万6千人。これを元に計算すると1秒あたりの出生数、死亡数はそれぞれ0.0479人、0.0486人。20.9秒に一人誕生、20.6秒に一人死亡」らしい・・・死に方は様々ではあろうが・・・日常性は「秒単位」である・・・
  ↓↑
ーーーーー
 シソ(紫蘇・Perilla frutescens var. crispa)
 シソ科シソ属の植物
 エゴマ(荏胡麻・frutescens)は
 シソ科の一年草で
 シソ(青紫蘇)とは同種の変種
 地方名にジュウネン(十年)、
 食べると十年長生きできる・・・
 古名、漢名は、荏(え)
 をこれと
 同属異種の植物(ocymoides)と分離したが、
 現在の遺伝子学研究で
 同種「ペリラ・フルテスケンス(Perilla frutescens)」
 の変種とそれらの総称
  ↓↑
 「後漢の末期
  洛陽の若者が
  蟹(かに・カイ・蠏)・・・蟹・・・可児・甲斐
  の食べすぎで
  食中毒を起こし
  華佗(人名)が・・・「佗」=ほか・になう・わび
  ↓↑            わびる・わびしい
                わび・タ・タイ
                ほか・になう・背負う
                佗負
                ひっそりと暮らす
                みだす
  ↓↑            佗髪
  紫の葉を用いて
  薬草を煎じ、服飲させ
  若者は回復
 「紫」の「蘇る」薬とし
 「紫蘇」と呼ぶようになった」・・・蘇我蝦夷?
  ↓↑
 チリメンジソ(縮緬紫蘇)
 マダラジソ(斑紫蘇)
 アカジソ(Makino・赤紫蘇)・・・Makino=マキノ
                     眞記之
                     巻記之
 アオジソ(Makino・青紫蘇)
 カタメンジソ(片面紫蘇)
 チリメンアオジソ(縮緬青紫蘇)
 西日本の一部では「青蘇(セイソ)」とも
  ↓↑
 カロテン、ビタミンB、カルシウム
 食物繊維、カリウム
 などの栄養素を含む
 紫蘇特有の
 ペリルアルデヒド・・・ペリル-アル-デ-ヒド?
 は、
 臭覚神経を刺激して胃液の分泌を促し
 健胃作用や食中毒の予防に効果
 防腐効果は、5~10%の食塩との併用で得られる
 漢方医学
 赤紫蘇の葉を
 「蘇葉(そよう)」
 「紫蘇葉(しそよう)」・・・・始祖の葉(用・要・楊)
 といい、
 理気薬(気の停滞改善、精神安定)として
 神秘湯、半夏厚朴湯、香蘇散などに配合
 また熟した果実を
 「蘇子(そし)」といい、
 咳、喘息、便秘などの治療に用いる
 葉と実には
 ルテオリン(フラボノイド・酵素)
 という成分を含み
 アレルギー疾患に有用
 別名
 「野良荏(のらえ)」・・・荏=え・やわらか・ジン・ニン
 は紫蘇の古名
ーーーーー
 ・・・「荏弱(ジンジャク)=やわらかで弱い」・・・
 ・・・「荏苒(ジンゼン)=何もしないで、月日がいたずらに過ぎていく・物事がはかどらずのびのびになっていくようす」・・・
 ・・・「苒苒・荏苒」は擬態語・・・ゼンゼン=しっとりと草のおい しげるさま・柔らかく、しなやかなさま・ジンゼン=時間がじわじわと経過するさま」
 ・・・「艸(くさ・ソウ)→くさか夢、無理」+「冉(危うし・あやうい・ゼン・ネン)」・・・「日下の務(ム・武)、無理、危うし」・・・
 元治元年七月十九日(1864年8月20日)
 蛤御門の変・・・
 禁門の変
 元治の変(ゲンジのヘン)・・・「ゲンジ」の「ヘン」である
 元治-甲子の変
 とも・・・
 会(會)津藩排除の長州藩の「久坂玄瑞」と、「新撰組、西郷隆盛」の激戦地・・・
ーーーーー
 ・・・「紫蘇(シソ)」ばかりを食べていては生きては行けないのは当然で、アタリマエだが・・・喰っていく、喰わせて行くって・・・親は大変である・・・
 以下は付録・・・ウイッキペデアからの参照添付・・・
  ↓↑
 渋川 春海(しぶかわ はるみ・しぶかわ しゅんかい)
 寛永十六年閏十一月三日(1639年12月27日)
  ~
 正徳五年十月六日(1715年11月1日)
 天文暦学者・囲碁棋士・神道家
 幼名は
 六蔵
 諱は
 都翁(つつち)
 字は
 春海、順正
 通称は
 助左衛門
 号は
 新蘆・・・・・新しい蘆(あし・芦・葦・葭・足・尼子)?
 霊社号は
 土守霊社
 貞享暦の作成者
 姓は
 安井・・・・安易
 から
 保井・・・・補遺・本意・宝飯
       ほいと(こじき(物ごい)
       ほいど(ほいと)= 祝人(ほぎ人)が転訛?
       ほいと=陪堂=乞食=乞児
 渋川・・・「渋=澀=澁」=しぶ・しぶい・しぶる
              ジュウ・ジフ
              なめらかに進まない
              渋滞・晦渋・難渋
              にがにがしい
              渋面・苦渋
              渋柿・渋茶
              渋紙
 と改姓
 ↓↑
 江戸幕府碁方の安井家
 一世-安井算哲の長子として
 京都四条室町に生まれた
 慶安五年(1652年)
 13歳
 父の死によって
 二世-安井算哲となる
 安井家は一世算哲の養子
 算知が継ぎ
 算哲は
 保井姓を名乗った
 万治二年(1659年)・・・万の治の二ネン
 21歳
 幕府の御城碁に初出仕
 本因坊
 道悦に黒番4目勝ちした
 延宝六年(1678年)
 本因坊道策が碁所に任じられ、
 先の手合、上手並み(七段)とされた
 ↓↑
 数学・暦法を
 池田昌意(まさおき)に、
 天文暦学を
 岡野井玄貞・松田順承に、
 和漢の書、垂加神道を
 山崎闇斎に、
 土御門神道を
 土御門泰福
 に学んだ
 当時は
 貞観四年(862年)に
 唐よりもたらされた
 宣明暦を用いていたため、
 誤差が生じており
 21歳(1659年)
 中国の
 授時暦に基づいて
 中国や四国の
 各地の緯度・経度を計測
 方法として、
 昼間は一本の木の柱を立てて太陽の陰影を、
 夜間には北極星に対する仰角を測定
 その結果を元にして
 授時暦改暦を願い出た
 延宝三年(1675年)
 春海が授時暦に基づいて算出した
 日食予報が失敗
 申請は却下
 宣明暦は、月食・日食の予報が
 天の運行に
 二日も遅れていた
 1670年(寛文十年)
 32歳
 天体を日夜観測し、
 新暦の作成に励む
 失敗の原因が
 中国と日本では
 里差(経度差)があり、
 「地方時(時差)」
 や
 「近日点異動」
 に気づき
 授時暦に通じていた
 朱子学者の
 中村惕斎の協力を得、
 自己の観測データを元にして
 授時暦を日本向けに改良し
 大和暦を作成
 春海は朝廷に大和暦の採用を求めたが、
 京都所司代
 稲葉正往の家臣であった
 谷宜貞(一齋・三介とも。谷時中の子)が、
 春海の暦法を非難して
 授時暦を一部修正しただけの
 大統暦採用の詔勅を取り付けてしまう
 春海は「地方時」の存在を主張し
 中国の暦をそのまま採用しても
 日本には適合しないと主張
 春海は暦道の最高責任者でもあった
 泰福を説得して
 大和暦の採用に同意させ、
 3度目の上表によって
 大和暦は朝廷により採用されて
 貞享暦となった
 惕斎のような協力者を得られたこと
 碁や神道を通じた
 徳川光圀
 泰福
 ら有力者とのつながり、
 観測の積み重ねに裏打ちされた
 暦学理論によって、
 改暦の実現を可能にした・・・
 貞享元年十二月一日(1685年1月5日)
 初代幕府
 天文方に250石をもって任ぜられ、
 碁方は辞した
 以降、天文方は世襲・・・
 ↓↑
 囲碁の打ち方へも天文の法則をあてはめ
 太極(北極星)の発想から
 初手は天元(碁盤中央)であるべきと判断
 寛文十年十月十七日(1670年11月29日)
 御城碁で
 本因坊-道策との対局において
 初手天元を打ち
 「これでもし負けたら一生天元には打たない」
 といったが
 対局は9目の負けに終わった・・・
 ↓↑
 貞享三年(1686年)
 京都より家族とともに
 江戸麻布に移住み
 元禄二年(1689年)
 本所に
 天文台の建設が認められ
 1690年
 52歳
 地球儀(直径25センチメートル)を造った
 1697年
 直径33センチメートルの地球儀を造った
 元禄五年(1692年)
 武士身分が認められ
 蓄髪して
 助左衛門と名乗り
 元禄十五年(1702年)
 渋川に改姓
 先祖が
 河内国
 渋川郡を領していたが、
 播磨国
 安井郷に変わり、
 再び
 渋川の旧領に還ったため
 ↓↑
 元禄十六年(1703年)
 天文台は駿河台に移転
 著書に天文暦学において
 『日本長暦』『三暦考』
 『貞享暦書』『天文瓊統』
 神道においては
 『瓊矛拾遺』がある
 地球儀、
 天球儀・渾天儀・百刻環(赤道型日時計)
 などの天文機器を作成
 ↓↑
 嫡男である
 昔尹・・・・・・・昔(むかし)の尹(監督・長官)
 に天文方の地位を譲ったが、
 正徳五年(1715年)
 昔尹が子供のないまま急死し
 春海も死去
 渋川家と天文方は
 春海の弟
 知哲の
 次男
 敬尹が継承
 法号は
 本虚院透雲紹徹居士・・・本の虚の院、透雲、紹徹、居士
 明治四十年(1907年)
 改暦の功績によって
 従四位が贈位
ーーーーー
 ・・・なぜ、「渋い川」の「春の海」なんだろう・・・

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扶桑國+女國・・・康煕字典の編纂

2016-09-02 03:23:44 | 古事記字源

 ・・・9月1日木曜日・・・平穏無事な日は、そう、長くは続かない・・・「子供の貧困」、そして「戸籍の無い子供」達・・・漢字に於ける部首としての「偏・旁」の「魚」や「鳥」は「一般名詞」で、この「魚+α」や「鳥+α」の「α(アルファー)」が、「魚」と「鳥」の「特殊性、個別性」としての分類、区別の形象意味である。スベテとは云わないが原則的には、ソウである。他の「動植物」である「イ(人)」、「犭(獣)」や、「草(艸)」、「木」、その他の「火(灬)・土・金・水(氵)」、「山・川・雨」などの「偏旁」も「α(アルファー)」によって、漢字の意味は、特殊、個別的に「変貌」する。

 更に云えば、漢字中国の「姓名」の「姓」が「女+生」であるコトは漢字の合理性を示すモノである。男女間に生まれてくる「子供」は女性が確実に陣痛を伴って生み出す「分身」である。そして、生まれてきた子供の「姓」は、母方の一族の「姓」である。

 ダレが子供としての己自身を産んでくれたのか・・・母親である・・・
 「偏旁」で「変貌」する「女偏旁」の漢字をブログ辞典で調べれば随分とある・・・以下の漢字の音訓でドレだけ読めるか、その意味はと訊かれたら・・・「女+α」の「α」の部分からナントなくイメージが出来そうである・・・
 奴奸好妁如妃妓妍妊妣妨妙妖
 姑姉始姐姓妲妬姆妹娃姨姻姶
 姪姙姥姚娥姫娟娯娘娠娜娚娉
 娩婀婬婉婚娵娼婢婦媛婿媒媚
 媼嫁嫌媾嫉嫋嫂媽嫗嫣嫦嫡嫩
 嫖嫺嫻嬉嬌嬋嬢嬶嬬嬪嬾孃孅
 孀
 で、
 「扶桑國」に出てくる「女國」だが、ギリシャ神話では「アマゾネス」である・・・「アマゾネスの国」と云っても「男」が居ないワケではなかった。「男」は異国、他国から誘拐、拉致されてきたのである・・・「種付け」だけではなく、「労働力」としても使用されたであろう・・・
 「扶桑國」では「北獄の犯罪者同士から生まれた子供」の宿命は「」とはなったが、「獄外奴隷」として生活は出来たらしいが「」の「生命保障」があったとは思われない・・・
 「女真(女眞)=女直」と記録されているが・・・ナゼ、漢字の部首構成で「女+真=女+眞=女+直」は無いんだろう?・・・これらの漢字を作るコトを拒否したのか・・・「康煕帝」・・・?
 康熙帝は世祖(順治帝)の第三子
 第四(肆)代皇帝=聖帝(1654~1722)で在位「61」年
 彼が「張王書」等に作らせた
 「康熙字典(42巻・康熙五十五年・1716)」
 「康熙帝」の康熙四十八年(1709)
 耶蘇会士が命令を受けて
 黒竜江沿岸を実測、
 樺太に渡航、その北部を測量し、
 北緯50度近くまで踏査し、中国地図上に描いた
 「樺太(からふと)」は
 日本人が
 「唐人(からひと)」を訛ったモノらしい(?)・・・
ーーーーー
           古語辞典の説明
            ↓
 1・真人(まひと・まっと・まうと)
        ・・・皇族に与えられた
        ・・・中国北方には「女・真人」が存在した
 2・朝臣(あそん・あそみ)
 3・宿禰(すくね)・・・「大兄(おほえ)」の対語、
             小兄(すくなえ)」の転?
 4・忌寸(いみき)・・・「秦・漢・韓」の帰化人に与えられた
 5・導師(みちのし)・・「天文官(ボクの説?)」
 6・臣(おみ)・・・・・・・・「目付け」で役人監視の役人
             (ここもボクの説)
 7・連(むらじ)・・・・・地方官吏の長官
 8・稲置(いなき・いなぎ)・地方官吏の次官で、徴税官
 と訓読みされているモノである。
 「真人」の漢字を歴史的に見れば示唆する漢字は「女真人」である。「女真人」は「女直人」とも記録され、「金」、「満州」、「後金」、「清朝」を打ち立てた種族である。
 また「韃靼」、「渤海」とも記録されている種族だ。彼等は「ヌルハチ」が「大汗」の時に現在の中国「瀋陽」に都を得、その子孫たちの「汗(世祖)」が中国「明王朝」に万里の長城を超えて浸入し、「明王朝」を滅ぼした「李自成」の僅か数日の「順王朝」を滅ぼして「清王朝」を打ち立てた(甲申年・1664)のだ。
 滅亡した明王朝の「隠元」が「江戸幕府の日本」に亡命してきたのは「甲午年・1654」であった。その4年後の「1657年」に「大日本史」編集の史局が開設されたのだ。「日本書紀」には「渤海国」の使者が何度も「大和王朝」に来ているが、この「渤海国」とは将に「女真人」の国であった。
 この「韃靼=女真人」が何故「女・真人」の「女・直人」の漢字を与えられて、ソウ、中国王朝(明)から呼ばれたのか?・・・私の疑いはこれらの「漢字」にコソあるのだが。
 そしてナゼ、「天武天皇」が「真人」なのか・・・
 ヨコシマな妄想だが、「八姓」制定前の「5・直」が「5・(女)直=女真」であるならば、「壬申の乱」以前の「天武の位」は「直」であった・・・?
 ここに「韃靼疾風録(下巻・1987年発行・中央公論社)」という「司馬遼太郎」氏の小説がある。その「96ページ」から抜粋してみたい。
 ・・・ここでついでながら、満州時代の清史の王室関係の記録についてふれておく。その幾分かは湮滅されてほとんど存在しない。
 湮滅は、清朝第六代の乾隆帝(1711~99)そのひとによるものであった。・・・
 ・・・かれほど、じぶんこそ、うまれついての大地のぬしだとからりと信じていた明るい男ですら、自分の王統が、
 「夷」
 であることについては憂鬱な感情をもちつづけた。
 ・・・儒教主義者であり、儒教の価値観の至高の座にいるつもりの乾隆として耐えられることではなかった。
 一方に於いて、乾隆は中国の精神文明史の保存者として稀代の事業をした。
 かれは即位するや、国家事業として、古代以来の中国の書物という書物を集め、これを編集させ、分類し、建物をたてて、保存したのである。「四庫全書(シコゼンショ)」がそれであり、それを保存する建物を「四庫全書館」と呼ばせた。・・・
 ・・・そのときに、焚書=(木+木+火+書)もおこなったのである。
  ↓↑
 「キキ(記紀)はヒ(カ)」である、「キキのヒのショ」であるカナ、「モクモクのカのカキ」でアルかな。
  ↓↑
 ・・・明末の書物には、当然、乾隆の同族の女真族の陋穢(ロウワイ)な暮らしを書き、その武装のまずしさなども書かれている。その野蛮人くさい無原則な外交、戦術も書き、女真人の乱暴についても書いている。乾隆は、そういう部分を削らせ、ときには書物そのものも焼かせ、版木まで砕かせた。
 その数は、二千数百種にものぼった。
 ホンタイジ(清王朝の太祖)の『実録』もまた、そういう目に遭った。
 ・・・乾隆は、このホンタイジ記録の中の多くを削除し、入念に湮滅した。
 ・・・ところが、ふしぎなことがおこった。
 これを盗写した者がいたのである。・・・・右の盗写された太祖の『実録』の一部が『太祖実録』、『世祖実録』とともに、江戸期、長崎に入港した清船ではこばれ、清商の手で長崎奉行の唐通事に売られていたのである。
 これによって、この秘本は幕府の手に移った。江戸城内の書庫(紅葉山文庫)に入り、蔵された。
  ↓↑
 と、「司馬遼太郎」氏は記している。色が変化する「もみじ=揉み字=模実字」の「山(やま)」とは、
 サン=纂・簒・竄
 であるな。そして、
  ↓↑
 ・・・さらに数奇がかさなる。それをひそかに筆写した日本のマニアがいたことである。書痴というべきだろうか。その筆写本が、南部藩の永根鉉の手に入った。鉉もまた奇特な人物だった。この人物の手で『実録』の採要が公刊された。このため、この本は日本にのみ残ったことになる。
  ↓↑
 とも「司馬遼太郎」氏は書いているのだ。また
 「漢人」を
 「女真人」は
 「ニカン」・・・→二巻・二間・二冠・二館→似巻・尼姦?
 と呼んだらしいコトも書いている。
 この「韃靼疾風録」には、
 「髪の毛」
 が、いかにその形態によって「人種」の「文明基準(?)」が区別されうるのかを執拗に展開している。中国の基準は「中華思想=儒教=孝行=長髪」である。「親から貰った身体(髪の毛)は傷をつけないことが孝行」であるからだ・・・「身体髪膚、受之父母(孝経)」。ココは「髪の毛」が如何に貴重なものであったか漢和辞典でも調べて知るべきである。ついでに「カミ」の同音異字漢字も・・・
 「漢人=長髪」、
 「女真人=辮髪」、
 「蒙古人=辮髪」、
 「朝鮮人=長髪」、
 「倭人(武士)=さかやき(月代)・ちょんまげ(丁髷)」
 ・・・これは将に分別すべき「古事記・神代」の「カミ」の問題ではないのか・・・定かではないが、古代に於いては「女」が「男」に身を許す時に「カミをオロシタ(切った)」らしい。死に逝く人の形見は「髪」であった。しかも倭人の髪型は「階層・職業身分」によってさらに「分別・区別」されている。倭人に於いて「皇族・公家」、「医者」が「長髪」を守ったのは何故か?・・・元々「ニカン」か、あるいは「ニカン」かぶれか・・・カブレル原因は「漆(うるし・七)」だが・・・
 「女真人」の「漢人」への「辮髪の強制」は支配者への服従のシンボルであり、見かけの「同化」であった。「辮髪」はまさに現実に「命」と引き換えに「長髪」を駆逐、駆除していったのだ。だが「中華思想=儒教」は、「明王朝」を倒し、その「漢人」を含めた「多人種」を支配せねばならない「清王朝」の「辮髪皇帝」にとって、「最高の思想」でなければならなかった。「辮髪(現実)」と「儒教(思想)」は矛盾したのだ。
 辮髪=辛+糸+辛+髪(長+彡+友)
    =カミのヨリワケ
 儒教=人+雨+而+孝+攵
    =シタガウおしえ・ヨワイおしえ・ウルオス訓え
 「実録」の「焚書・廃棄・改竄」・・・今現在、かって中国で記録された書物であるのにもかかわらず、中国に存在せず、この日本に存在するモノは結構ある。例えば弘法大師、空海が将来した「宿曜経二巻」などもそうである。
 それよりも、問題にしたいのが「焚書」という事であり、原本の「改作・改竄」と言うことである。この「乾隆帝の焚書」は「秦の始皇帝」がやった「焚書坑儒」の「焚書」とは質的に違うのだ。「始皇帝」はまさに「儒教本=思想」の「焚書」であり、「儒教者=思想家」の「坑儒」であり、穴埋め、生き埋めであった。
 日本における・・・「古事記」、「日本書紀」の類はどうか・・・たとえ、それが「乾隆帝」のように自らの出自にコンプレックスを有するような「意図的なモノ」ではなくても、同音異字の「漢字使用」と「漢字解釈」の異なった日本的言語状況では「漢文・和文」はあらゆる「解釈」を期待していると言ってイイ。理解がアイマイになる、と言うことだ。ましてや「大和」は「和歌の国」で、「倭人文官の記録」は「和歌の遊び技法を縦横無尽に駆使した教養階級」が書き残したモノである。「焚書」や「改竄」以前に、記録されたモノは「高度な(暗号)記録技術(?)の書物」なのである。
 だが、「古代史」の日本の「支配階級」は、いずれも「乾隆帝」の「心情」と同じモノであったのに違いない。「家系図」である。「出自」である。「ご先祖様」である。
 「系図一巻」を欠落させた「日本書紀・参拾巻」の「再構成」は「桓武天皇」の時代らしく、血筋、家系、門閥等・・・どっちにしても「日本」に渡来して「始原的な国家権力を握った奴」、あるいは「戦国下克上で権力を握った奴」は「火事場泥棒の大親分」でしかない「系図・血筋」が怪しいヤツばかりなのだ。・・・いずれの時代に於いても「武装」した「集団」はその発生した次元から必然的に「盗賊」となり、「海賊」となるのである。「バイキング」は「海賊」だった。イギリス海軍は「海賊」を「貴族(サー)」にしての「海軍」であった。「フランス革命」での「革命軍」はその「理想」と裏腹に「軍需物資」を現地調達する「略奪・強奪軍」であった。「ロシア革命」の立場を忘却した「ソ連軍」は東欧諸国の人々を血で染めたのだ。もちろん「近代国家の税金で傭兵・徴兵」されたあらゆる「諸国の軍隊」は戦争時において「国内外」で、さらに「盗賊」である。「盗賊の頭」とは一体全体、最終的にナニになりうるモノなのか・・・「国家の最高権力者」である。中国の「王朝」はすべからく、ソウであった。多分、世界の東西を問わず「国家」は似たり寄ったりの「盗賊集団」なのデアル・・・
 ↓↑
ーーーーー
 女真(女眞)=女直
 満洲の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南
 の外満州にかけて居住していた満州民族
 聖地は長白山
 10世紀ごろから記録に現れ
 唐時代に入朝した
 靺鞨人の名乗りが、女真の初見・・・
 
 17世紀に「満洲(マンジュ)と改称
 「女真」の漢字
  女真語の民族名「ジュシェン・ジュルチン」の当て字・・・
 「女直」は
  遼興宗の諱の
 「耶律宗真」に含まれる「真」の字を避けた(避諱)
  金朝を滅ぼしたモンゴル帝国、元朝時代の
  漢文資料では「女直」の表記
  モンゴル帝国時代に編纂された
  ペルシア語の歴史書
  『集史』などでも
 「女直」の音写である「jūrcha」と記録・・・
 「女真」は満洲に居住していた
 「黒水靺鞨」と呼ばれた集団
 「遼(契丹)に従い
 「熟女真」=熟女真は黒水靺鞨に服属した
       渤海人で
       渤海は遼(契丹)に滅ぼされた
  と
 「生女真」=粛慎から勿吉以降
       ツングース本来の
       漁労、農耕、養豚、狩猟を生業としていた
       黒水靺鞨
  の二族に分かれていた
ーーーーー
 1115年
 完顔部の
 阿骨打が出て女真の統一
 遼から自立して
 金を建国
 1125年
 靖康の変
 金は、
 遼、北宋を滅ぼし
 中国の北半分を支配
 漢字や契丹文字の影響で
 女真文字をつくった
 中国北半分を支配
 1234年
 モンゴル帝国によって
 金は滅ぼされ
 女真は東北方面(満州)に後退
 女真は
 モンゴル人と漢人に攻撃を受け
 中原から女真の集団は消滅
 故地の女真は
 モンゴル、元に服属
 元代の女真
 満洲から朝鮮半島北部にかけて居住
 元の日本への
 元寇にも女真兵が加わた
 元の滅亡後、
 モンゴルから離れ、
 小集団ごとに
 明に服属
 朝鮮半島では高麗に変わって
 李氏朝鮮が世宗の時代に
 朝鮮半島北部の女真居住地域を征伐
 平安道、咸鏡道に組み込まれ、
 半島北部からは
 女真人は居なくなった
 15世紀から16世紀
 満洲最南部の朝鮮に接する
 鴨緑江
 豆満江流域
 の女真人たちは、
 李氏朝鮮に反撃
 豆満江南岸地域の争奪を繰り返した
 明国
 女真を部族ごとに
 衛所制によって編成
 部族長に官職と朝貢の権利を与え
 間接統治
 明代後半
 女真は
 建州女直(マンジュ・満洲)5部
 海西女直(フルン)4部
 野人女直部
 からなっていた
 16世紀末
 建州女直の
 ヌルハチはこれら
 13部族を統一
 1616年
 後金を建國
 1635年
 ホンタイジが
 モンゴルのチャハル部を下して元の玉璽を入手
 モンゴル高原の
 契丹に従属していた当時の女真の民族名を嫌い、
 1635年11月22日(天聡九年十月庚寅)
 満洲族に改めさせ
 女真族王朝である
 金の後裔として「後金」と名乗っていたが、
 1636年
 「清」に国号を改めた
 白頭山周辺
 濊・貊・粛慎が居住
 濊貊の勢いが衰え、
 粛慎の流れを汲む
 女真がこの山を聖地とした
 1172年
 金王朝は山に住む神に
 「興国靈応王」の称号
 1193年
 「開天宏聖帝」と改めた・・・
 年表
  994年 高麗が女真を侵略し江東6州を占領
 1107年 高麗の
     尹瓘が女真を侵略し東北9城を築く
 1115年 女真が金王朝)を建国
 1125年 金が遼を滅ぼす
 1126年 金が北宋を滅ぼす
     高麗が金に服属
 1234年 モンゴルが金を滅ぼす。
 1437年 李氏朝鮮が女真を侵略し六鎮を置く
 1443年 李氏朝鮮が女真を侵略し四郡を置く
 1616年 後金建国
 1636年 後金
     清に改名
 ↓↑
ーーーーー
 581年
 隋帝国
 北周(北朝)の外戚
 楊堅(文帝)が建国
 589年
 南朝の
 陳を滅ぼして中国統一
 618年
 隋滅亡
 長安=西安市
 長安(前漢・北周・隋・唐)の首都
 西都=大興=中京=鎬京とも呼ばれた
 洛陽=洛邑=雒陽=神都
 宋代以降は
 開封
 645年
 大化の改新
 663年(天智二年)八月
 白村江(錦江河口付近)の戦い
 ↓↑
 渤海
 7世紀末
 中国東北部を中心に建国
 ツングース系族の国
 シベリア南部に
 ツングース系
 靺鞨族の
 大祚栄が建国
 契丹(モンゴル系)、
 靺鞨(ツングース系)で高句麗と同系
 契丹は唐の太宗に服属
 高句麗遠征に協力
 靺鞨は
 668年
 高句麗が
 唐に滅亡させられ後
 大祚栄が
 高句麗を復興・・・672年7月24日~8月21日
          壬申の乱
          天武天皇元年6月24日~7月23日
              
 696年に遼東地方に
 震国を建国
 713年
 唐から
 渤海国王に冊封
 渤海の支配領域
 北は黒竜江に接し、
 シベリア、沿海州南部、
 中国の東北地方(満州)の東半分
 鴨緑江の南の平壌を中心とした朝鮮北部
 ↓↑
 大祚栄は、唐から冊封され、
 その文化と律令制度を取り入れ、
 新羅と対抗
 727年
 日本に渤海使を派遣来航
 日本からも遣渤海使が派遣し、
 絹などを輸出
 渤海の都
 上京竜泉府(東京城)、
 その故地からは
 和同開珎などが出土
 仏教文化が栄えてた
 渤海の
 第3代王、
 文王-大欽茂(在位737~794)
 755年頃
 都、上京竜泉府を造営
 唐へ29回、
 日本へ10回の使いを送る
 和同開珎は
 758年の
 小野朝臣田守の贈り物の一部・・・
 唐の大暦年間(766~779年)
 「日本舞女」十一名が
 渤海から唐朝に献じられた(新唐書・渤海伝)
 渤海
 武王、文王と三代にわたって安定
 926年
 耶律阿保機の率いる
 契丹に滅ぼされた
 契丹はこの地に東丹国を置き、直接統治
 唐の滅亡(907年)
 五代十国の争乱
 新羅が滅亡
 936年
 高麗が成立
 973年
 雲南で大理が成立
 ベトナムでは
 939年
 呉権が中国から自立
 937年
 契丹が遼と改称
 日本では
 935~941年
 承平・天慶の乱
 平将門・・・・下総国豊田を本拠
        平王
        周朝の第13代王
        平王の時代より周は
        東周
        子は洩父、狐、烈
        宜臼は
        幽王の太子であったが
        褒姒が寵愛を受け、
        伯服を儲けると、
        廃太子され、
        「申」へ逃れた
        廃后された
        「申后」の父である
        申侯はこれに怒り、
        幽王が悪戯で烽火を用い諸侯を集め、
        諸侯の信頼を失っていた機に乗じ、
        西方の
        犬戎と協力して幽王を攻撃
        前771年
        幽王と伯服は
        驪山において殺害
        褒姒も犬戎により連れ去られ
        西周は滅亡
        宜臼は外祖父の申侯、虵侯、
        許の文公、
        従父の鄭の
        武公などの諸侯によって、
        申にて即位
        都城である鎬京は荒廃し
        紀元前770年
        洛邑(洛陽)に遷都
        東周が始まった
        鎬京には兄弟である
        携王一派が存在
        前759年
        これを倒し、
        東西分裂していた周を統一
        平王
        51年の在位の後に崩御
        太子
        洩父は夭折
        太子の子である
        林が
        王太孫となり、
        祖父の後を継いで王位を継承(桓王)
    ・・・「平将門」には関係ないか・・・?、では、
        平 清盛
        永久六年一月十八日(1118年2月10日)
          ~
        治承五年閏二月四日(1181年3月20日)
        別名は
        平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
        戒名は
        浄海
        保元の乱
        後白河天皇の信頼を得
        平治の乱
        武士による太政大臣
        日宋貿易によって財政基盤を固め
        宋銭を日本国内で流通させ
        武家政権を打ち立てた(平氏政権)
        平氏の権勢に反発した
        後白河法皇と対立
        治承三年の政変で
        法皇を幽閉して
        徳子の産んだ
        安徳天皇を擁し政治の実権を握る
        源氏による平氏打倒の兵が挙がる中
        熱病で没した・・・
     ・・・桓武平には関係であるカナ・・・
        家紋は揚羽蝶、鱗(うろこ・リン)
        平=たいら=平良=タイラ=碓(臼)だが
        「替等」である・・・?
        桓武平氏の中でも
        伊勢平氏が属する武家の
        高望王流・・・葛原親王(桓武天皇の第三皇子
         ↓↑      官位は一品・大宰帥
         ↓↑      桓武平氏の祖
         ↓↑      妻は
         ↓↑      金寧橋橋姫=新羅景文王の娘
         ↓↑              (次女)
         ↓↑    の
         ↓↑    第三王子高見王の子
         ↓↑    ↓↑
         ↓↑    高望王
               寛平元年(889年)5月13日
               宇多天皇により
               平朝臣を賜与され臣籍降下
               昌泰元年(898年)
               上総介に任じられ
               長男、国香、次男、良兼、
               三男、良将
               を伴って任地に赴任
         ↓↑    親子は任期が過ぎても帰京せず
               国香は前常陸大掾の源護の娘
               良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘
               を妻とし
               在地勢力との関係を深め
               常陸国・下総国・上総国を開発
               勢力を拡大、その権利を守るべく
               武士団を形成し
               高望王流桓武平氏の基盤を固めた
               延喜二年(902年)
               西海道の国司となり大宰府に居住
               延喜十一年(911年)
               同地で死没
               延喜三年(903年)
               昌泰の変
         ↓↑    により失脚した
         ↓↑    菅原道真も同地で薨去
        ではなく
        京の都で
        文官として活躍していた
        高棟王流の人々を指していた・・・文官です
        高望王流坂東平氏、
        常陸平氏や伊勢平氏がこれに相当・・・新羅系和人?
 ↓↑
 藤原純友・・・瀬戸内海、伊予国日振島を根拠
 ↓↑     天慶三年(940年)1月16日
        小野好古を山陽道追捕使
        源経基を次官
        2月5日
        純友は淡路国の兵器庫を襲撃
        2月25日
        将門討滅の報告
        純友は日振島に船を返した
        6月
        大宰府から解状
        高麗から牒が届けられ、
        7月
        左大臣藤原仲平が
        呉越に対して使者を派遣・・・?
        5月
        将門討伐に向かった東征軍が帰京
        6月
        藤原文元を
        藤原子高襲撃犯と断定、追討令
        文元を引き渡して朝廷に従うか、
        朝敵として討伐されるか・・・
        8月
        純友は400艘で出撃
        伊予国、讃岐国を襲って放火
        備前国、備後国の兵船100余艘を焼く
        長門国を襲撃
        10月
        大宰府と追捕使の兵が、
        純友軍に敗北
        11月
        周防国の
        鋳銭司を襲う
        12月
        土佐国幡多郡を襲撃
        天慶四年(941年)2月
        純友軍の
        藤原恒利が朝廷軍に降り
        朝廷軍は純友の本拠
        日振島を攻め、破った
        純友軍は西に逃れ、
        大宰府を攻撃して占領
        純友の弟の
        藤原純乗は、柳川に侵攻するも
        大宰権帥
        橘公頼の軍に蒲池で敗退
        5月
        小野好古率いる官軍が九州に到着
        好古は陸路から、
        大蔵春実は海路から攻撃
        純友は大宰府を焼いて
        博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った
        純友軍は大敗し、800余艘が官軍に奪われる
        純友は小舟に乗って伊予に逃れた
        6月
        純友は伊予に潜伏
        警固使
        橘遠保に捕らえられ、獄中で死亡
        ↓↑
        呉越(907年~978年)
        中国・五代十国時代に
        杭州を中心に
 ↓↑     浙江省
 ↓↑     江蘇省の一部を支配した国
 の乱
 925年
 渤海滅亡
 渤海の残党が
 930年
 日本に使者を派遣、
 援軍要請を
 日本は拒否・・・
 ↓↑
ーーーーー
 齊-永元元年(499年)・・・・臍(𦜝・へそ)=毘
   其國 有沙門 慧深
   來 至 荊州,說云
   扶桑の東1000余里(430km)に
   「女国」あり
   (「梁書・巻五十四・列伝第四十八
     諸夷 海南 東夷 西北諸戎
     扶桑國
   ↓↑
 「駆=驅=駈」=「かける・かる・ク」
  は、男が女にイイよって女の門前に
  小屋を建ても気に喰わなかったら
  拒否する、追い払う「意味」であった・・・
   ↓↑
  駆=馬+匚+乂
    驅=馬+匚+品(口口口)
      駈=馬+丘
       馬などを走らせる
       駆使・駆動・疾駆
       先駆・前駆・馳駆 (チク)
       長駆
       追い払う
       駆除・駆逐
       (馬を)速く走らせる
       急がせる
       疾駆
       速く走る
       長駆
       追い払う
       駆逐
       迫る
       強いる(強制する)
       焦る
       昂ぶる
       攻め込む
       騎馬で駆ける
       軍隊の列
       物事を行う
       先駆・前駆
       (力を加えて)動かす
       駆動、駆使
       おう=追う
         ↓↑
       はせる=馳せる・・・雄略天皇
                (允恭天皇七年十二月
                  ~
                 雄略天皇二十三年八月七日)
                 第21代天皇
                (在位、
                 安康天皇三年十一月十三日
                  ~
                 雄略天皇二十三年八月七日)
           大泊瀬幼武尊
          (おおはつせわかたけるのみこと)
           大長谷若建命
           大長谷王(古事記)
           大悪天皇、有徳天皇・・・とも?
           彼を拒否したのは
          「若日下王」であった・・・
          しかもハナシは
          「草香幡梭姫皇女
          (くさかのはたびひめのひめみこ
           仁徳天皇の皇女)」である・・・
          志貴県主の館が鰹木を上げて
          皇居に似ていると何癖をつけ、
          布を掛けた白犬を手に入れ
          婚礼のミヤゲ物にした・・・
           『日本霊異記』によれば、
           「磐余宮(いわれのみや)」にもいた・・・
          「少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)
           小子部栖軽」とも記し
           少子部連むらじの祖先
           雄略天皇が養蚕振興のため
           蚕こを集めるよう命じたところ
           誤解し
           嬰児(エイジ)を集め
           その養育を命ぜられ
           少子部連の姓を賜った」との
          「こがいこ」の誤解のハナシも・・・
          呉国(宋)から
          漢織(あやはとり)
          呉織(くれはとり)らを招き、
          秦民(秦氏の民)の統率を強化
          養蚕業を奨励
          雄略天皇が后と婚合している寝所へ、
          小子部栖軽が入ってき
          天皇は照れ隠しに、雷がなったので
          栖軽に
          「雷神を捕らえることができるか」
          と命じ
          栖軽は豊浦寺と飯岡の間にある丘に
          いた「雷神=大蛇」を輿に乗せ
          天皇に献上したが
          天皇は光り輝く雷神に恐れをなして
          「もとのいた所へもどせ」とお命じた
          小子部栖軽が亡くなると
          天皇は彼の忠義を讃え、
          七日七夜祭られた後この丘に
          お墓と
          墓標(取雷栖軽之墓)を建てた
          これに腹を立てた
          雷神が栖軽の墓標を踏み潰すが、
          その割れ目に足か挟まり、
          再び捕らわれたが
          雷神を解き放たれ
          「生之死之捕雷栖軽之墓」
          と記した墓標を建て直した
          この雷神が落ちていた所を
          雷岡(雷丘)と呼ぶようになった・・・
          これって、ギリシャ神話・・・?
          万葉集に
          「大君(おほきみ)は
           神にしませば 天雲の
           雷(いかづち)の上に
           廬(いほ)りせるかも」
           柿本人麻呂の歌がある・・・?
           ↓↑
          479年4月
          百済の
          三斤王が亡くなると、
          入質の
          昆支王の次子
          未多王に
          筑紫の兵500をつけて帰国させ、
          東城王として即位させた
          兵を率いた
          安致臣・馬飼臣らは
          水軍を率いて高句麗を討った・・・
  ↓↑
 「梁書」の「不制 縗絰(サイテツ)」は
       喪服の制度はないであるが・・・
「リョウショ」・・・「寮所・良書・両書・両所」の制度はない?
  ↓↑ 
 「縗絰」=印绶・麻衣の喪服=サイテツ
      雨衣(みの=蓑)
      縗=糸+亠+𧘇+一+𧘇
        弁絰服
        衰は胸の前に着ける麻
      絰=糸+至(一ム十一)
        大帶・革帶・弁絰服
        絰は首と腰につける麻
        齊衰之絰、斬衰之帶也
ーーーーー
 ・・・629年・・・???・・・
 「梁書」自体が「?」である・・・「梁(502年から557年)の歴史を記した

歴史書。56巻。629年(貞観三年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の

姚思廉が成立させた」・・・「陳(ならべる)の姚(女の兆し)の察」、「姚

の思いは廉」・・・
 「廉=かど・レン=广+兼=特に取り上げるべき事項・箇所・ある事柄の原

因・理由となる点・一つ一つの境め・物事のけじめ・折りめ・善悪のけじめが

たっているさま・欲につられてけじめを失わないさま・けじめをたてて暴利を

おさえたさま・欲ばらないさま」、「行政を監察してけじめをつける役目。元

代の粛政廉訪司の長官」・・・「廉頗(レンパ)、藺相如(リンショウジョ)

」の「刎頸の交わり」・・・
 「廉=广+兼」=かど・いさぎよい・やすい・レン」、
 「私欲がなく、けじめが、ついている
  廉潔・廉直・孝廉・清廉・破廉恥」
 「不審の廉(かど)がある」
 「反則の廉(かど)で罰せられる」
 「廉価・廉売・低廉」 、
 「名のり=おさ・きよ・きよし・すが・すなお・ただし・やす・ゆき」
 ・・・「すだれ=簾」に類字・・・「簾垂の政治=垂簾聴政(スイレンチョ

ウセイ)は、皇帝が幼い場合、皇后・皇太后のような女性が代わって摂政政治

を行うこと。中国で、女性である皇太后は、朝臣と直接対面するのを避けるた

め、皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座っていた」・・・「水練調

整」・・・?
  ↓↑
 推古天皇
 在位36年3月7日(628年4月15日)崩御
  ↓↑
 629年2月2日(舒明天皇元年1月4日)
 田村皇子が即位し、
 舒明天皇即位・・・
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 舒=舎+予(預かる)
  (のべる・ショ・ジョ
   緩やかである・ゆったりしている・のんびりしている
   一息つく・ホットする
   伸ばす・伸びる・広げる・広がる・伸びやかにする)
       「舒伯特 Shūbótè=シューベルト=歌曲の王
               「潜水者・糸を紡ぐグレートヒェン
                鱒(ます)・双子の兄弟
                死と乙女・未完成交響曲
                秋・侏儒(小人)
                岩に岩が重なるところ」
        舒 曼 Shūmàn=シューマン
               「漁師・憧れ・蝶々
                女の愛と生涯」
                クララと結婚ですか・・・
 の
 明=あきらかにする・・・楽曲は?
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 玄奘の天竺(インド)へ旅行(~645年、「大唐西域記」)
 ・・・時代は「蘇我蝦夷」である・・・「我、ヨミガエル(読みかえる?)、蝦夷(えぞ・カイ)」である・・・

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