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コジキジゲン

はえいろね・・・

2017-11-22 23:53:55 | 古事記字源

 ・・・2017年11月22日・水曜日・・・「都々逸・都都逸」=「都々逸(どどいつ)=江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年~1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う」
 「元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる」
 「七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある」
 「逢うて別れて 別れて逢うて(泣くも笑うもあとやさき) 末は野の風 秋の風 一期一会の 別れかな(井伊直弼 茶湯一会集)」
ーーーーー
 「ド・ト =ものさし・長さの基準・度量衡
       のり・きまり・さだめ・制度・法度
       ほどあい・限度・程度
       めもり・数・量
       大きさなどを表す単位・濃度・角度
       たび・回数・度数・頻度
       人がら・ようす・器量・度量・態度
       わたる・越える・類渡」
       仏教で、さとりの世界や仏の世界へ導き入れる
       すくう・済度・得度
       タク・はかる・おしはかる・みつもる
      「忖度(ソンタク)」
 緯度(イ ド)・温度(オン ド)・角度(カクド)・過度(カド)
 感度(カンド)・強度(キョウド)・極度(キョクド)
 経度(ケイド)・限度(ゲン ド)・高度(コウド)・済度(サイド)
 湿度(シツド)・尺度(シャクド)・純度(ジュンド)
 深度(シンド)・進度(シン ド)・震度(シンド)・制度(セイド)
 精度(セイド)・節度(セツ ド)・鮮度(センド)・速度(ソクド)
 態度(タイド)・丁度(チョウド)・調度(チョウド)
 程度(テイド)・適度(テキ ド)・得度(トクド)
 年度(ネンド)・濃度(ノウ ド)・頻度(ヒンド)
 法度(ホウド・ハット)
 密度(ミツド)
 用度(ヨウド)
 支度(したく)
 度徳量力(タクトクリョウリキ)
 度(たび)
 度重なる(たびかさ-なる)
 度外視(ドガイシ)
 度肝=度胆(ドぎも)
 度胸(ドキョウ)
 度数(ドスウ)
 度僧(ドソウ)
 度外れ(ドはずれ)・度忘れ(ドわすれ)
 度量(ドリョウ)
 度量衡(ドリョウコウ)
 度る(はかる)
 度度(よりより)
 「ド=鴑・蕽・胴・硇・瑙・潼・巎・峱・榒・蕺」
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
   ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
ーー↓↑ーー
 アレレレレッ、「白鵬(白い朋=たから・貨幣に用いた5個1組、or 2個1組の貝)の鳥」・・・朋友=同朋・・・山が載ると「崩(くず)れる」・・・「白鳳文化=645年(大化元年)~710年(和銅三年)」・・・「和銅元号は慶雲元号の後、霊亀元号の前・708年~715年までの期間・天皇は女帝元明天皇」・・・
 712年=壬子年=和銅五年は太安万侶が編纂した「古事記」を元明天皇に献上した年・・・「唐の年号は景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年」・・・養老四年(720年・庚申年)は「日本書紀」完成・・・
 執拗(しつこ)く、昨日の続きの重複・・・「弐千壱拾七年壱拾壱月弐拾弐日」だから・・・
ーー↓↑ーー
 興行相撲
江戸、京都、大坂に
 相撲の集団
 当初は朝廷の権威、大商人の財力によって
 看板力士を多く抱えた
 京都、大坂相撲が
 江戸相撲をしのぐ
 興行における
 力士の一覧と序列を定めた番付の
 木版刷りが始まった
 最古の木版刷りの江戸の番付は
 1757年のもの
 京都や大坂では
 それよりも古いものが残されている
 江戸相撲
 1789年11月
 司家の吉田追風から
 二代目
 谷風梶之助
 小野川喜三郎
 への横綱免許を実現
 征夷大将軍徳川家斉観戦の
 1791年
 上覧相撲を成功させる
 雷電爲右衞門
 江戸相撲が京都や大阪へ出向いて
 合併興行(大場所)も恒例化、毎年開催
 1827年
 江戸幕府が
 「江戸相撲方取締」役を
 江戸相撲の吉田司家に認めた
 ↓↑
 幕末に
 「相撲VSレスリング」
 「相撲VSボクシング」
 の異種試合が行われた
 アメリカ合衆国海軍
 マシュー・ペリー提督
 が黒船で来航した
 1853年6月11日に
 雷權太夫
 玉垣額之助
 ら年寄総代は文書により
 攘夷協力を番所に申し出
 翌年
 ペリーが再来日して条約を締結した際
 米国へ返礼として贈られた
 米200俵を
 江戸相撲の力士たちが軽々と運び
 米軍人を驚嘆させた。
 1863年6月3日
 大阪北新地で
 壬生浪士組(新選組)と
 死傷事件を起こした
 大坂相撲の力士で死亡したのは
 中頭の
 熊川熊次郎(肥後出身)
 事件の手打ちとして
 京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力
 力士の中には
 後に勤皇の志士となった者もいた
 ↓↑
 大坂相撲・小野川部屋に所属した元力士
 熊本県、肥後国出身
 地位は中頭(関取)、前頭七枚目
 ↓↑
 京都から淀川を下り
 大坂に遊ぼうとした
 往来において
 酔った力士に遭遇し
 道を譲る譲らないで悶着
 この時、
 芹沢が鉄扇で力士を打擲したとも、
 刀で浅傷を負わせた(または斬殺)ところ
 引き金になり乱闘に発展
 その後
 壬生浪士組の8人は
 北新地の住吉楼(吉田屋とも)に
 上がり楽しんでいたところ
 角材を持った
 熊川はじめ
 小野川部屋の力士たちが押しかけ乱闘
 この時、
 熊川は沖田に角材を受け止められ
 芹沢に脇腹を突き刺され
 それが元で翌日に出血多量で死亡
 熊川は
 沖田と永倉の両名に斬られた・・・
 乱闘での死者は熊川1人とも、5人とも・・・
 「新選組顛末記」、「島田魁日記」
 「京都守護職への届出」、「大坂東町奉行所への届出」
 「浪士文久報国記事」
 によって、
 経緯、新選組側、力士側、死傷者数
 熊川の死亡日が異なる
 その後、
 大坂西町奉行所の与力
 内山彦次郎と現場に居合わせなかった
 新選組の
 近藤勇の間で遺恨が生じた・・・
 熊川の経歴は全く不明
 事件後の場所の番付に名がある・・・
 ↓↑
 「壬生浪士=精忠浪士」は
 「新選組」の前身集団
 ↓↑
 近藤勇
 1834年 甲午(丙・ ・丁)
 0011月 乙亥(戊・甲・壬)
 0009日 庚子(壬・ ・癸)辰巳=空亡
  ↓↑
 1868年 戊辰(乙・癸・戊)
 0006月 丁巳(戊・庚・丙)
 0017日 癸卯(甲・ ・乙)
ーー↓↑ーー
 土方歳三
 1835年 乙未(丁・乙・己)
 0005月 辛巳(戊・庚・丙)
 0031日 癸亥(戊・甲・壬)子丑=空亡
  ↓↑
 1869年 己巳(戊・庚・丙)
 0006月 庚午(丙・ ・丁)
 0020日 壬午(丙・ ・丁)
 ↓↑
 鳥羽・伏見の戦いで敗れ
 幕府軍が大坂から江戸へ撤退後
 近藤勇は大久保大和・・・・大窪の大倭(やまと)
 土方歳三は内藤隼人・・・・名井等の隼人⇔熊襲
 と変名、
 甲斐国に向かう
     ・・・甲斐國=松平容保
        1836年2月15日~
        丙申(己・壬・庚)癸巳(戊・庚・丙)
        庚寅(己・丙・甲)癸亥(戊・甲・壬)
        癸未(丁・乙・己)丙子(壬・ ・癸)
        申酉=空亡
        ↓↑
        保科正之・・・第二代将軍
               徳川秀忠の落胤
               第三代将軍、家光の異母弟
        父は徳川秀忠
        母は浄光院
        養父は保科正光
        養母は見性院
        兄弟
        長丸、徳川家光、徳川忠長、保科正之
        義兄弟
        保科正貞、保科正重
        正室は菊姫(内藤政長の女)・・・?
        継室は於万(藤木弘之女・聖光院)
        側室は牛田氏、沖氏、沢井氏
        子
        幸松、正頼、将監、正経、正純、正容
        媛姫(上杉綱勝室)
        摩須(前田綱紀室)
        石姫(稲葉正往室)
        ↓↑
        信濃高遠藩主
        出羽山形藩主
        を経て
        1643年
        徳川秀忠の子
        保科正之が入封
        会津松平家の祖
        ↓↑   
        1876年(明治9年)8月21日
        若松県
        福島県(1876年以前)
        磐前県
        の3県が合併されて
        福島県
 三月六日
 甲州勝沼の戦いで敗戦
 歳三は戦争前に
 援軍要請へ向かったが成功しなかった
 その後
 流山で再起を図り
 四月三日
 新政府軍に包囲され
 近藤勇が投降
 このとき
 土方歳三が
 近藤の切腹を止めて
 投降を勧めたとも、
 投降に反対したとも・・・
 歳三は江戸へ向かい
 勝海舟らに直談判し
 近藤の助命を嘆願したが実現せず
 慶応四年(1868年)四月二十五日
 近藤は板橋刑場で処刑(斬首)
 ↓↑
 芹沢鴨
 らは
 新選組を結成
 新選組となる以前の
 壬生浪士たちは身なりの貧しさから
 「みぼろ(壬生浪=みぶろ・みぶろう)」
 と一部の京の人たちに揶揄
 女性隊士もいた・・・?
 ↓↑
 「天狗党の乱」・・・・天狗=猿田彦?
 元治元年(1864年)
 筑波山で挙兵した
 水戸藩内外の
 尊王攘夷派(天狗党)によって起こされた一連の争乱
 「元治甲子の変」とも・・・
 ↓↑
 清河 八郎
 文政十三年十月十日
 (1830年11月24日)
   ~
 文久三年四月十三日
 (1863年5月30日)
 庄内藩(山形県)出身の志士
 田中河内介とともに
 九州遊説をし
 尊王攘夷派の志士を京都に呼び寄せ
 一方で浪士組を結成し
 新選組・新徴組への流れを作り
 「虎尾の会」を率いて
 明治維新の火付け役となった・・・
 ↓↑
 1830年 庚寅(己・丙・甲)
 0011月 丁亥(戊・甲・壬)
 0024日 甲午(丙・ ・丁)辰巳=空亡
 ↓↑
 幼名は元司
 諱は正明
 号は旦起・木鶏
 本名は齋藤正明
 清川八郎と改名したのち
 清河八郎を名乗った
 山形県庄内町の
 清河神社に祭神として祀られている
 位階は贈正四位

ーーーーー
 ・・・

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古事記=こじき=乞食・・・すねる=拗=こじれる=抉れる=古事例留・・・猿田彦

2017-11-21 21:40:10 | 古事記字源

 ・・・「カイの研究」・・・1976、7年頃にアメリカに滞在していた頃に暇つぶしに書き始めたボクの「小説・エメラルドブルーの謎(碧き眼の人形伝説)」だったけれど・・・「カイの研究」・・・随分と時間がたってしまった・・・人生、アソビとネテいる時間がオホイかも・・・相撲界は大きな問題なんだか?、「拗(こじ)れてしまっている」・・・
 アレッ、レレレッ・・・「徳」の漢字が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図・夷土)の犬=狗=戌=いぬ」・・・幕府のイヌめッ・・・「壬生侍=新撰組」・・・「新選組の前身集団・文久三年(1863年)清河八郎が京へ率いた浪士組を壬生にある新徳寺に代表を集め、尊皇攘夷を目的とする反幕勢力に変化させようとの策略を演説し、賛同した同志を新徴組として江戸に帰った」・・・「壬生(みぶ)寺(新徳寺)=相撲力士の稽古場」でもあった・・・
  ↓↑
 「1863年6月3日
  大阪北新地で
  壬生浪士組(新選組)と
  死傷事件を起こした
  大坂相撲の力士で
  死亡したのは
  中頭の
  熊川熊次郎(肥後出身)・・・「熊の川の熊の次郎」?
  大坂相撲
  小野川部屋に所属
  地位は
  中頭(関取)
  前頭七枚目
  事件後の場所の番付には名がある・・?
  事件の手打ちとして
  京都での興行では
  京都、大阪の両相撲が協力
  力士の中には
  後に勤皇の志士となった者もいた・・・」
  ↓↑
 「拗れる」・・・関取、力士の手が小さいのか、どうなのか?・・・
 ビンタ・・・「頬を平手打ちすること・鬢(ビン・ひげ)の辺りのこと・鬢(ビン)=頭髪の左右側面、もみあげの根元の部分のこと・ビンタが平手打ちで用いられるようになったのは旧日本軍の部下への制裁、懲罰行為」・・・
ーーーーー
 拗=扌(手)+幼(幺+力)・・・
   「テ(シュ)はオサナイ(ヨウ)」・・・
      主要・腫瘍・主用・取葉
      主の小さい力
      幺=嬰児・糸玉・糸頭(いとがしら=伊都頭)
        幼=幺麼(ヨウマ)
          同じ部首「幾・幻・麼・幽」
      麼=こまかい・小さい・・・類字は「靡(なびく)」
       =麼虫
       =ちいさい・幺麼(ヨウマ)
       =麼虫(マチュウ)=微細な虫
        麼陋(マロウ)=姿が矮小で醜い(字通)
        姿のいやしいこと
        麼眇(ビビョウ)=極めて小さい
          (大漢和・字通ともに「ビ」音)
        麼事(モジ)=甚麼(ジンモ)
        恁麼(インモ)=什麼(ジュウモ、ソモ)
        作麼生・怎麼生・什麼生(ソモサン)
        =何事、いかに、なに、か、や
        ・・・等の疑問の助詞
        麼麼(モモ)=乳母
       =なに・どんな・か・や・疑問を表す語
        細かい・かすか・そうか・そう
        バ・ビ・マ・ミ・モ
ーーーーー
 「コロマ村」にある入植者名簿には
 「イトウ オケイ」
 「ニシカワ モトジ」
 「マスミズ クニノスケ」
 「サクライ マツノスケ」
 等の名が記載されてあった・・・
ーーーーー
 ドイツ=独逸・独乙・徳意志・都逸・岱枝
     独乙都蘭度・度逸都蘭土
     独徳(→独逸&徳川幕府?)
     紱國・紱意志(→徳川の意志?)
  ・・・「徳」が「紱(糸+犮)=紱(ひも・フツ)」
     に文字化け?・・・「伊都(怡土・意図)の犬=狗」
    「犮(ハツ)=ナ+乂+ヽ」=走る犬・・・
    犮(ハツ・バツ)=犬+ノ=犬部・犬を犠牲とした象形
    「犬+ノ」=犬に「ノ」をつけて犠牲(殺す)
    犬を犠牲にして神に供え、災いを取り除く意
    「祓=はらう・フツ=示+犮」の原字・部首は犬部
    「お祓い・お払い・御祓い」
 独逸(German・Preussen・Prussia
    プロシア=普魯西)
      ・・・普(奈良部)魯の西(にし)
    普=並+日=あまねく・あまねし・フ
          広く行き渡る・普及・普遍
          なみ・ふつう・普通・普段
          普及
  ↓↑
 逸=免+辶=はしる・にげる・にがす・イツ・イチ
   逸機・後逸・奔逸
   かくれる・しなう
   世に知られない
   逸事・逸書・隠逸
   それる・はずれる
   ある場所からさっと抜け去る
   逸出・逸走・後逸
   わがまま・みだら
   逸脱・淫逸・放逸
   足がはやい・抜きんでている・すぐれる
   逸材・逸出・逸足
   逸=イツ・イチ
     それる・横にそれて逃れる
     抜けて見えなくなる
     逸脱・散逸
     世間に知られていない
     逸事・逸聞・逸話
        ↓↑
 ・・・甲斐の「独逸人=独り免れる人」、シュネル(すねる)=猿田彦(サルタビコ=猿多比拠=沙流他尾拠=申多比処・エンデンゲン)・・・塩田の源・・・死海(The Dead Sea)・・・塩湖・・・
 「さる、旅の処(處)」・・・「作留多諺」、「エンデンゲン=塩伝諺」・・・「彦根=ひこね=比古音」・・・「井伊直弼」・・・
 「井伊直弼
  彦根藩
  第十三代藩主の
  井伊直中の十四男
  1815年10月10日
  彦根城の
  二の丸で生まれた
  母は側室・お富の方
  幼名は鉄之助、後に鉄三郎
  天保二年(1831年)
  井伊直中の逝去で
  槻御殿から
  尾末町御用屋敷に移り
  300俵の宛行扶持(あてがいぶち)を与えられ
  部屋住み生活
  天保五年(1834年)
  弟の
  直恭と共に他家への
  養子候補として江戸に赴いたが
  養子縁組が成立したのは直恭だけ
  自身は採用されず
  彦根に戻った
  住居の屋敷を
 「埋木舎」
  と名付けた・・・
  自分の渾名は
 「チャカポン(茶・歌・鼓)」
  弘化三年正月
  兄で世子の
  井伊直元の急死で
  藩主・井伊直亮(なおあき)の世子となる
  ↓↑
  会津藩主
  松平容敬とは同じ溜詰の大名として
  信頼関係を築いた
  嘉永3年(1850年)9月
  藩主、直亮が逝去
  嘉永四年(1851年)十一月二十一日
  井伊直弼、
  彦根藩主に就任」
  安政七年(1860年)三月三日午前九時頃
  桜田門外の変
  暗殺、絶命・・・
  居合い抜き、抜刀の達人が籠の中、
  ピストルで撃たれては・・・ドウしようもナイ・・・
ーーーーー
 「拗(す)ねる」、「拗(こじ)れる・抉(こじ)れる」・・・「執拗(シツヨウ)」・・・「平松武兵衛」・・・
 会津藩はプロシア(ドイツ)人の「ジョン・ヘンリー・スネル」を軍事顧問に招聘し、藩主、松平容保は彼に「日本名、平松武兵衛」を与えた・・・そして・・・「平松武兵衛」は・・・
ーー↓↑ーー
 ・・・以下はスベテ、コンピュータでの関係記事を検索し、少々改作して添付したモノで、「原文」そのものではない。重複添付したモノは「諸説・若干異なる説」があるので、これも混乱なき様・・・「ヘンリー・スネル」を検索すれば原文そのものが閲覧できる・・・アシからず・・・

ーー↓↑ーー
 「平松武兵衛=ジョン・ヘンリー・スネル」
            ・・・拗(す)ねる・・・
 会津藩士と
 家族三十七名
 十七歳
 「おけい」・・・於恵(お恵み=於目具務)
  ↓↑     於計(涌意・尾ケ井→美景・美形)
         於圭・・・圭=十一十一=たま・ケイ・ケ
               =玉器・先端の尖った玉の板
         月桂樹=オリーブ
          佳字(かじ・ケイジ)=嘉字・好字
         =諸国郡郷名著好字令・好字二字令・好字令
          元明天皇
          和銅六年(713年)五月甲子の勅令
          桂小五郎=木戸孝允
 ↓↑  ↓↑    
 「おけい」は大工 (桶屋とも)の
       「伊藤文吉」と・・・文記知
       「お菊」の長女・・・嗚(ウ・オ・ああ)訊く
               素戔嗚・阿起句・・・
 ↓↑     文詰の於記句(規矩)の納(おさ)める音名
 藩士
 「桜井松之助」
 米国船
 「チャイナ号」で・・・「Chinese=中国語=漢字の號、合」?
 明治二(1869)年五月一日
 横浜港から米国へと向かった
 明治二(1869)年五月二十日
 米国、カルフォルニアに到着
 ゴールド・ヒルで農地を買い取り
 「若松 コロニー(Wakamatsu Tea and Silk Colony)」
 日本人村を作った
 ↓↑
 兄・ヘンリー
 1869年(明治二年)
 カリフォルニア州に
 日本人妻の
 ジョウ
 を含む
 会津若松の人々
 約40人と共に移住
 カリフォルニア州エルドラド郡
 サンフランシスコの北東
 ゴールド・ヒルに
 に購入した
 600エーカーの土地に
 「若松コロニー」
 という名の開拓地を建設
 ↓↑
 「若松コロニー」の経営は行き詰り
 1871年4月
 ヘンリーは金策に日本へと向かった・・・が
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 明治三(1870)年
 「若松コロニー」は
 「ビーア・カンプ」
 の土地として「購入」された?・・・ダレが売却したんだか
 シャネル契約の借金の担保で没収された・・・?
 「シュネル亡き後、
  残されたコロニーのメンバーを救済した隣家
  ビア・カンプ家はプロシア系カトリック」
 ↓↑
 明治四(1871)年
 「おけい」
 十九歳で死亡
 桜井松之助が
 10数年後、あるいは15年後とも・・・
 桜井松之助など
 移民の生き残りの人たちによって
 「おけい」の墓碑が建てられた
 「桜井松之助」は
 帰国することなく
 大正四(1915)年
 現地で67歳で死没
 ↓↑
 「弟・シュネル」は
 新潟から東京へ移り
 商会を開き
 1882年(明治十九年)頃まで
 日本国内で活動
 後、消息不明・・・
 ↓↑
 ↓↑
 スネル兄弟・・・オランダの植民地、インドネシアで育った
 幕末期の商人
 兄はジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell)
 日本名、平松武兵衛
 (1843年?~1871年?)
ーー↓↑ーー
 『甘粕継成日記』
     ・・・「甘糟備後継成 遺文」
         甘(あま)い・・・廿+一
         糟(かす)を・・・米+曹
         粕(かす)を・・・米+白
         継(つぐ)・・・・糸+L+米
         成(なり)・・・・万+戈
  「シュネル兄弟にとって重要な男
   会津藩主「松平容保」以上に、
   米沢藩の
   色部久長
    ・・・家老
       新潟港の守備隊長
       慶応四年七月二十九日(1868/9/15)
       享年44歳、戊辰で戦死
       米沢藩、戦争首謀者扱いとされた
   甘粕継成
    ・・・米沢藩参謀・砲術者
       ご先祖は切支丹(キリシタン)
       甘粕右衛門信綱(=右衛門)
       洗礼名ルイス
       切支丹として死んだ親族
       甘粕右衛門信綱(甘糟景継)
       1550~1611年
       の次男
       米沢切支丹大弾圧と、殉教史実
       1629年1月12日(寛永五/十二/十八)
       処刑決行
       甘粕信綱(右衛門)処刑
       領内で藩士を含む多数の
       キリシタンを逮捕、死罪決行
       1639年(寛永十六年)
       吉利支丹横目を郷村に配置
       ↓↑
       甘粕継成は
      「新保勘左衛門」の変名で
       明治二年十一月二十九日、病死
   シュネル(兄)は
       会津の軍事顧問
       米沢藩軍事顧問兼務
 同年(明治二(1869)年)5月24日
 兄ヘンリー・スネルは
 鶴ケ城で藩主
 松平容保(かたもり)と会い
 髪を剃(そ)り、
 日本製の羽織を着て、
 袴(はかま)をはき、
 名を
 「平松武兵衛」と称し
 城下西(西若松駅南西隣・材木町一丁目)
 に屋敷を与えられた
 ↓↑
 弟はエドワルド・スネル(Edward Schnell)
 (1844年?~没年不詳)
 ↓↑
 オランダ出身ではなく
 オランダ国籍の
 プロイセン人
ーー↓↑ーー
 『会津藩武器購入に関する一問題』
 慶応四(1868)年三月二十三日
 会津藩は
 弟エドワルド・スネルから
 オランダ製ライフル銃(ヤーゲル銃)
 七百八拾挺を
 七千二拾ドルで
 会津藩商人の
 鈴木多門が
 新潟港経由で買っている
ーーーーー
 「貍(たぬき)」は「徳川家康」・江戸幕府第一代将軍
 ↓↑       「江戸幕府第一代征夷大将軍」
 「貍(たぬき)」から漢字構成部分の
 「田を抜く」と
 「豸(むじな・チ・ジ・タイ)+土(十一)」
 「ネコやトラのような背が長い獣
  足のない虫
  伝説上の羊のような神獣」
 「獬」・・・
 「豸+α」は「爪(つめ・ソウ・ショウ)」の鋭い動物・・・
 ↓↑
 薶=艹(艸)+貍(狸・たぬき・リ・バイ)
   たぬき・リ・バイ
   薶=艹+豸+里=薶(うず)める
    =犠牲を埋めること
   イヌ科の哺乳類で山地に棲む
   人を化かす・・・うづめ=宇受女
   狸(たぬき)・貍(バイ)は
   薶に通ず
 ↓↑↓↑
 薶(うず)める=犠牲を埋めること
 ↓↑
 うづ=渦・疼・踞・堆・熅・煨・
    薶・瘞・鷃・鶉・
 ↓↑
 「リ」音の漢字=里・裏・裡・理・厘・俚・
         哩・狸・貍・鯉・薶(埋)
         埋(マイ)
 ↓↑
 「甲(きのえ・コウ)」を構成に含む漢字
 爅 㕅 䮵 疃 㢆 厴 粴 㾖 墥 䆹
 捚 䘃 榸 䡴 炠 鲤 䭚 玾 㙻 勭
 笚 㳌 噇 缠 䃥 徸 䖖 柙 鄽 䛅
 濹 闸 䧉 犝 㕓 䱳 癦 㦟 喱 緾
 䁼 娌 膧 䋥 曈 薶 䘥 氃 钾 䣑
 燑 鸭 䭪 瓼 㠉 厣 㼿 嚜 䆘 悝
 荲 䖬
 ↓↑
 常用漢字表内音訓
 リ=利 吏 履 理 璃 痢 裏 里 離
 常用漢字表外音訓
 リ=厘 梨 麗
 ↓↑
 表外漢字
 俐 俚 秔 剺 劙 哩 唎 喱 嚟 娌 嫠
 孋 孷 峛 峲 廲 悝 悧 悷 摛 攦 李
 柂 栗 梩 欐 氂 浬 浰 芮 漓 灕 犁
 犂 犛 狸 猍 瓈 盠 砅 离 籬 縭 纚
 罹 艃 茘 荔 莅 莉 莱 萊 蒞 薶 蘺
 蜊 蟸
 ↓↑
 藻貝=アマモ(甘藻)の生えている場所に多いので
    モガイ(藻貝)と呼ぶ
 甘藻(あまも・eelgrass)
 海草(うみくさ)
 生育場所は内湾の波静かな水深1~2mから10mまでの砂泥
 葉の長さは50cm~1mくらい
 葉状部(葉身、葉鞘)、地下茎、根の3つに区分でき
 葉条部は水中に、
 地下茎と根は海底に埋在
 多年生
 群落が形成されているところをアマモ場という
 陸から海へ入った海草
 種子植物で、種類が少なく、岩礁には生えない
 胞子植物の海藻とは区別
 和名「あまも・アマモ」は
 地下茎を噛むと甘みを感じることに由来
 植物名としては日本一長い別名
 「リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ」
 (龍  寓 の乙 姫 の元 結 の切り外し )
 を持つ
 アマモ(Zostera marina Linnaeus)
 オモダカ目アマモ科 (Helobiales Zosteraceae)
 ↓↑
 属名の「Zostera」は女性名詞で
 細長い葉形の特徴を表す
 ギリシャ語の
 「zoster(帯,ベルト)」に由来
 種小名「marina」は女性形で
 「海中生の・海の」の意味
ーーーーー
 有毒渦鞭毛藻
 (ゆうどくうずべんもうそう
  toxic dinoflagellate)
 毒素の産生能力を持った渦鞭毛藻
 毒を産生する藻類は
 珪藻・ラフィド藻・ハプト藻
 など
 渦鞭毛藻は特に種類が豊富で
 微量でも著しい生理活性を示すので
 他の有毒藻類とは別枠で扱われる
 渦鞭毛藻=海域・淡水域共に広く分布する
      植物プランクトン
      渦鞭毛藻の約半分は
      光合成を行う独立栄養生物で
      生態ピラミッドの最底辺に位置する
      残りの半分は
      バクテリアや他の藻類を捕食する
      従属栄養生物で
      より大型の生物に捕食される点は同じ
      有毒渦鞭毛藻にも
      独立栄養性のものと
      従属栄養性のものの
      双方が含まれる
 有毒渦鞭毛藻を
 魚類や貝類が捕食すると
 産生された毒素が分解されずに
 捕食者に蓄積され
 毒素を蓄積した魚介類は
 貝毒
 や
 シガテラ(ciguatera)
 ↓↑   ・・・熱帯の海洋に生息する
      プランクトンが産生する
      毒素に汚染された魚介類を
 ↓↑   摂取することで発生する食中毒
 といった食中毒の原因となる
 有毒渦鞭毛藻には
 水環境の富栄養化などにより
 赤潮を形成する種もあり
 大発生し問題視される
 船舶の航行増加と高速化に伴い
 バラスト水によって他水域から
 持ち込まれる(持ち出される)
 有毒渦鞭毛藻が増加し
 その為
 従来
 貝毒が発生していなかった水域で
 食中毒が発生・・・
 ↓↑
 有毒渦鞭毛藻
 産生する毒の種類や
 その作用対象によって
 4つのグループに分けられる
 1 魚介類に直接作用するもの
 2 麻痺性貝毒
 3 下痢性貝毒
 4 神経性貝毒・シガテラ毒
 1・・・・・・フィエステリアなど一部の渦鞭毛藻
 2~4・・・渦鞭毛藻を直接摂取した生物には無害
     だが
     食物連鎖による
     生物濃縮を介して
     ヒトなどの高次の捕食者に毒性を与える・・・
ーーーーー
 ・・・つまり、「あまも=アマを模す」が連鎖作用をすると
 所為物の濃縮を媒介してヒト(比徒・比訳)などの
 高次の捕初句者に毒性を与える・・・?

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貝毒=カイドク=解読・会読・回読・改説・・・?・・・甲斐獨(説句)・・・甲斐の独逸人、シュネル・・・

2017-11-20 20:52:46 | 古事記字源

 ・・・「猿田彦命」を齧(かじ・噛)って海の底に沈めた、と云われている「比良夫貝」って、「証拠不十分」だと思うけれど・・・「比良夫=ひらふ=比羅夫」って、そもそも、ナニモノ?・・・貝毒=カイドク=解読・会読・回読・改説・・・?・・・甲斐獨(説句)・・・甲斐の独逸人、シュネル・・・・・・独逸人、シュネル・・・猿田彦(サルタビコ)・・・

 故其
 猨田毘古藭、
 坐
 阿邪訶(此三字以音)、
 地名時、爲漁而、
 於
 比良夫貝(自比至夫以音)
 其手・・・・・「その手」
 見咋合而、・・「み-くらわれて」・「御喰われて」?
 ↓↑     「鵜(う・テイ・鸕)咋=羽(は・ウ)咋」?
         鵜咋(うくい)    羽咋(はくい)
        「咋(サク)=おほごえ・こえが多い
              くらう・かむ
        「咋=口+乍=かむ=噛む・咬む
             咋咋呼呼=大声
           くう・くらう・たちまち・サク・サ」
 ↓↑  あからさま・・・痾殻(韓・漢・唐・化等・殼)様
             痾(ア)=やまい・こじれた病気
                  拗(こじ)れる=執拗
             拗=ヨウ(エウ)・ねじる・ねじれる
               ねじける・すねる・ねじれる
               まっすぐでない
               「拗音・拗体」
               すなおでない・拗(すね)る
 ↓↑     「咋=シャ・シャク・サ・サク
           かむ・くう・くらう・くい」
        「昨=日+乍」・・・昨日(サクジツ)
                  昨夜(サクヤ)
        「乍=ながら・ たちまち・サ
           …しつつ・…したり・…したり
           たちまち・にわかに
           「乍(たちま)ち・乍(なが)ら」
        「合而为(為・爲)一」
         合せ、而(しこう)して、一(イチ)と為す
         併せ、思考、施行、志向、試行して位置と生す
         合一する・一緒になる
  ↓↑     二つ以上のモノが一緒、一体になる
 沈溺海鹽。
ーーーーー
 「比良夫貝」はその実体が明らかにはなっていない・・・「熱帯から亜熱帯海域の珊瑚礁の浅海に生息し、二枚貝の中で最も大型となる種であるオオジャコガイを含む。外套膜の組織に渦鞭毛藻類の褐虫藻が共生し、生活に必要な栄養素の多くを褐虫藻の光合成に依存・貝殻は扇形、太い五本の放射肋が波状に湾曲し、光沢のある純白色で厚い・最も大型のオオシャコガイは、殻長2m近く、重量200kgを超える」・・・
 「サンゴ礁の海域に生息し、生時には海底で上を向いて殻を半ば開き、その間にふくらんだ外套膜を見せている。この部分に褐虫藻を持ち、光合成を行わせている。移動することはなく、海底にごろりと転がっているか、サンゴの隙間に入りこんでいる」
 「沖縄地方で刺身にして食用・瓶詰めの塩辛・資源の減少が心配され、古くは仏教の七宝の一つとして珍重」
 「太平洋の中西部とインド洋の珊瑚礁・オオシャコガイはその分布地の北の限界が日本であり、八重山諸島で小柄な個体が僅かながら生息・海水温が高かった約7000-4300年前までは沖縄各地に分布し、現在でも当時の貝殻が沢山発見・ギネス級の貝殻も見つかっている」
 「人食い貝」
 「1960年代頃まで、特にオオシャコガイについて
  海中に潜(もぐ)った人間が
  開いた貝殻の間に手足を入れると、
  急に殻を閉じて水面に上がれなくして殺してしまう
  人間を食べてしまう
  実際には閉じないか、閉じ方が緩慢で
  そのようなことはない」・・・?・・・あるカモ・・・
  異名、地方名
 「エボウシガイ(烏帽子貝)、タイラガイ(平貝)
  テエラゲエ、ババトリ(関西地方)、
  バチガイ(北海道)、ハシラ、タチガイ、タテガイなど
 「ババトリ」は、糞便をすくい取るのに
  タイラギの大きな貝殻を使っていた・・・
 中華料理で
 「江珧(ジアンヤオ、jiāngyáo)」という標準名よりも、
 「帯子(ダイズ、dàizi)」と呼ばれる事が多い
 中国の地方名に
 「割猪刀・殺猪刀・割紙刀・(広東)」があり
 貝殻の形が
 豚(ぶた)の用、
 紙(かみ)を切る刃物に似るから
 他に
 「大海紅・海鍁(遼寧)・海蚌(浙江)」
 などの地方名」がある・・・
  giant clam (any clam of subfamily Tridacnidae)
  しゃこがい類
  ヒメジャコ
  ヒレジャコ
  ヒレナシジャコ
  シャゴウ
  シラナミ」
 「シャコガイ(硨磲貝)=ザルガイ科シャコガイ亜科 (Tridacnidae)に属する
  二枚貝の総称
  別名はオウギガイ(扇貝)
  シャコ(硨磲貝・蝦蛄?貝)」・・・
 「?」・・・
 「比良夫貝=タイラギ貝=タイラギ(玉珧・Atrina pectinata)は、イガイ目・ハボウキガイ科に属する二枚貝の一種・内湾の砂泥底に生息する大型の二枚貝・標準和名の「タイラギ」は「平貝(たいらがい)」が転訛したもの」・・・

ーー↓↑ーー
 於是送
 猨田毘古藭
 而還到、
 乃悉追聚
 鰭廣物・鰭狹物
 以問言
 「汝者天藭御子仕奉耶。」
 之時、
 諸魚皆「仕奉。」
 白之中、
 海鼠(なまこ・カイソ→開祖・海祖・甲斐祖)
 不白。
 爾
 天宇受賣命、
 謂
 海鼠云
 「此口乎、不答之口。」
 而、
 以
 紐小刀拆其口、・・・小刀=メス=匕首=合口
          メス=オランダ語の「mes」手術用メス
          紐  小  刀 拆 其口
          チュウショウトウセッキコウ
          註  章  頭 節 記項
 故、於今
 海鼠口拆也。・・・改組の交接なり
          開祖の高説也(巧拙哉・後節埜)
 是以、御世
 嶋之速贄獻之時、
 給
 猨女君等也。
ーー↓↑ーーー
 猿田彦
 伊勢の
 阿邪訶(あざか・旧一志郡阿坂村・現松阪市)
 の海で漁をしていた時
  比良夫貝・・・比羅夫は
        「阿倍比羅夫」と「安曇比羅夫」だが?
 (ひらふがい・ヒラブガイ)・・・沖縄の蝦蛄(シャコ)貝?
 に手を挟まれ、溺れ死ぬ
 この際、海に沈んでいる時に
 「底度久-御魂」
 猿田彦が吐いた息の泡が昇る時に
 「都夫多都-御魂」
 泡が水面で弾ける時に
 「阿和佐久御魂」
 という三柱の神が生まれた
 この時に海中で溺れた際に生じた
 「泡の三柱の神」は
 阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在)
 に現在は鎮座
 ↓↑
 猿田彦命
 天孫-瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の際
 天八衢(あめのやちまた)にいて
 天上天下を照らしていた神
 この神は
 猿女君(さるめのきみ)の祖である
 天鈿女命(あめのうずめのみこと)=鈿=金+田
 と対決
 ↓↑
 故其
 天忍日命此者
 大伴連等之祖・天津久米命此者久米直等之祖也、
 於是詔之
 「此地者、
  向韓國眞來通、笠紗之御前而、
  朝日之直刺國、
  夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」
 詔而、
 於
 底津石根宮柱
 布斗斯理、
 於
 高天原
 氷椽多迦斯理
 而坐也。
 ↓↑
 故爾詔
 天宇受賣命
 「此立御前所仕奉、
  猨田毘古大藭者、
  專所顯申之汝、送奉。
  亦其藭御名者、汝負仕奉。」
 是以、
 猨女君等、
 負其
 猨田毘古之男藭名而、
 女呼
 猨女君
 之事是也。
 ↓↑
 故其
 猨田毘古藭、
 坐
 阿邪訶(此三字以音)、
 地名時、爲漁而、
 於
 比良夫貝(自比至夫以音)
 其手見咋合而、
 沈溺海鹽。
 故其沈居底之時名、
 謂
 底度久御魂(度久二字以音)、
 其海水之
 都夫多都時名、
 謂
 都夫多都御魂(自都下四字以音)、
 其
 阿和佐久時名、
 謂
 阿和佐久御魂。(自阿至久以音。)
 ↓↑
 於是送
 猨田毘古藭
 而還到、
 乃悉追聚
 鰭廣物・鰭狹物
 以問言
 「汝者天藭御子仕奉耶。」
 之時、
 諸魚皆「仕奉。」
 白之中、
 海鼠(なまこ・カイソ→開祖・海祖・甲斐祖)
 不白。
 爾
 天宇受賣命、
 謂
 海鼠云
 「此口乎、不答之口。」
 而、
 以紐
 小刀拆其口、
 故、於今
 海鼠口拆也。
 是以、御世
 嶋之速贄獻之時、
 給
 猨女君等也。
 ↓↑
 於是、
 天津日高日子番能邇邇藝能命、
 於
 笠紗御前、
 遇
 麗美人。
 爾問
 「誰女。」
 答白之
 「大山津見藭之女、
  名
  藭阿多都比賣(此藭名以音)
  亦名謂
  木花之佐久夜毘賣。(此五字以音。)」
 又問
 「有汝之兄弟乎。」
 答白
 「我姉石長比賣在也。」
 爾詔
 「吾欲目合汝奈何。」
 答白
 「僕不得白、僕父大山津見藭將白。」
 故乞
 遣其父
 大山津見藭之時、大歡喜而、
 副其姉
 石長比賣、
 令持百取机代之物、奉出。
 故爾、其姉者、因甚凶醜、
 見畏
 而返送、
 唯留其弟
 木花之佐久夜毘賣、
 以一宿爲婚。
 ↓↑
 爾
 大山津見藭、
 因返
 石長比賣而、大恥、
 白送言
 「我之女二並立奉由者、
  使
  石長比賣者、
  天藭御子之命、
  雖雨零風吹、恒如石而、常堅不動坐。
  亦使
  木花之佐久夜毘賣者、
  如
  木花之榮榮坐、
  宇氣比弖(自宇下四字以音)
  貢進。
  此令返
  石長比賣而、
  獨留
  木花之佐久夜毘賣。
  故、
  天藭御子之御壽者、
  木花之
  阿摩比能微(此五字以音)坐。」
 故是以至于今、
 天皇命等之御命不長也。
 ↓↑
 故後、
 木花之佐久夜毘賣、
 參出白
 「妾妊身、今臨產時。
  是
  天藭之御子、私不可產。故、請。」
 爾詔
 「佐久夜毘賣、一宿哉妊、
  是
  非我子、必國藭之子。」
 爾答白
 「吾妊之子、
  若國藭之子者、產不幸。
  若天藭之御子者、幸。」
 卽作
 無戸八尋殿、
 入其殿內、
 以土塗塞而、
 方產時、
 以火著
 其殿而產也。
 故、其火盛燒時、所生之子名、
 火照命
 此者
 隼人
 阿多君之祖、
 次生子名、
 火須勢理命(須勢理三字以音)、
 次生子御名、
 火遠理命、
 亦名、
 天津日高日子穗穗手見命。
 三柱。
ーーーーー
 名前からして不自然である・・・「さるたびこ」・・・
 猿田比古(彦)・・・諺(ことわざ・ゲン)
 猿女(君)・・・・・訓(よむ・クン)
 宇受女(渦目)・・・填目(埋める・薶)
ーーーーー
 藻貝(さるぼう貝)
 猿頬貝 (サルボウガイ)=フネガイ科の二枚貝
 サルボウ貝は赤貝と同じフネガイ科の二枚貝
 中の身も赤貝と似てい
 ↓↑
 猿頬貝
 「猿頬」=猿が食べ物を口に含み頬を膨らませる様
      脹れた頬のような貝
      肉の色合いが猿(サル)の頬のように赤い
      地方名・市場名
      古くは築地などで
      裂いて売られていたのでサキアカ(裂き赤)
 島根県、鳥取県の宍道湖、中海周辺、有明海
 ではアカガイ(赤貝)
 岡山県笠岡市でモガイ(藻貝)
 熊本県熊本市ではシシガイ(四四貝)
 福岡県柳川市中島でミロクガイ(弥勒貝)
 チメ、モガイ、コアカ(小赤)、バカガイ
 「エテボウ」、「チガイ(血貝)」、「チメガイ」
 「チンメガイ」「サルガイ」、「ツメキリガイ」
 「マスガイ」、「ムマノツメ」、「モゲエ」
 「ヤエンボ」、「ヤマブシガイ」、「アマブシサン」
ーーーーー
 サルタのヒコ・・・じゃあなッ(謝亜耶?)!・・・あばよッ(按配様?)!・・・おさらばッ(御左様奈覶葉?)!・・・

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アマギゴエ・・・・?

2017-11-19 15:52:55 | 古事記字源

 ・・・コダワッて、同じことを再三、再試繰り返えす・・・「中毒」・・・フユなのに、昨日から一ぴき、「ハエさん」が家の中を飛び廻り、ボクに纏わりついてくる・・・今のボクにとっては、とっても「いとしい友人」・・・タシカ、去年の冬にも家の中で「越冬する蝿(蠅)」がボクと遊んでくれた・・・
ーーーーー

 切羽詰られ=物事が差迫って、どうにも切抜けられなくなる
 ↓↑    追いつめられて全く窮する
       切羽は鐔(つば・鍔)を
       刀身に固定させるために
       柄とハバキの間に挟み込む卵形の薄い銅板
       切羽により挟み込まれた鐔が
       固定されている状態に譬え
       身動きのとれない様を
       切羽詰まると云う
 ↓↑    ハバキ=鎺・鈨・はばき
          =日本刀の部材の一つ
           刀身の手元の部分に嵌める金具
           鎺金 (はばきがね)
          「鎺」は国字
           はばきがね
           人が脛巾(はばき)をはいた形に似て
           刀剣などの刀身が鍔(つば) に
           接する部分に
           嵌(は)める鞘口(さやぐち)形の金具
           刀身が鞘から
           抜け落ちないようにするためツメル
           鞘(さや)の中で刀身は
           鞘(さや)に触れることなく
           浮かせるモノ
           はばき=刀の根元をしっかり締めくくり
           刀身がぐらぐらして
           鞘(さや)に当たらないように
           支える役目をしている
 ↓↑    はばき=脛巾・行纏=旅行や作業などの際
           脛(すね・臑)に巻きつけ
           紐(ひも)で結び、
           動きやすくしたもの
           古くは藁(わら)や布で作った
           後世の脚絆(きゃはん)
 ↓↑        脛巾裳(はばきも)
 つめる(詰める)・なじる(詰る)
 詰問
 反詰・喬詰・查詰・盤詰・研詰・究詰・維摩詰
 詰責・詰難・責詰
 詰屈・詰屈・詰屈聱牙・詰旦・詰曲・詰禁・駁詰
 ↓↑
 「刀=かたな=片名」の・・・偏旁の部首の意味
              「片(仮)名=カタ(カ)ナ」
 「鞘(さや・ショウ)=革+肖」
          ・・・「肖古王=照古王」?
 ↓↑
 自然乾燥で10年以上寝かした
 朴(ほお・パク)の木を使用
   ・・・朴市=朴市 秦    田来津
        (えち はた の たくつ)
      ?~天智天皇二年八月二十八日
       (663年10月5日)
      氏は秦、朴市とも・・・朴市=愛智?
      姓は造
      大花上・秦河勝の子
          ・・・「秦川勝」とも
        皇極三(644)年
          不尽(富士)川辺で
          大生部多が
          常世神と称して虫を祭り
          都鄙の人がこぞって
          これを信仰すると
          民の惑わされるを憎んで
          大生部多を打ち懲らした・・・人物?
      645(大化元)年
      古人大兄皇子
      蘇我田口川堀
      物部朴井椎子
      吉備笠垂
      倭漢文麻呂
      らと共に、改新政権に対する
      謀反計画の謀反に加わったが
      吉備笠垂
      の裏切りによって失敗
      皇子は殺害された?・・・
      兵は向けたが皇子を殺害したかどうかは?
      ・・・で、
     「朴市-秦-田来津」は許された・・・ナゼ?
      ↓↑
      662(天智元)年
      小山下の位・・・小さい山(やま)の下(した)
      秦田来津
      は
      狭井梹榔=さいのあじまさ=狭井檳榔・・・?
      ↓↑      ↓↑  
          梹(木兵)=檳(木賓)→兵=賓
      ↓↑  青森県東津軽郡
          外ヶ浜町三厩
          梹榔(字)
          ↓↑
          賓客=敬って
             もてなすべき客人
             訪れて来た人
          嬪=女+賓=天皇の寝所に侍する女官
          ↓↑皇后・妃・夫人の下位で
            四位・五位の者
            後世の
            女御(にょうご)・更衣(こうい)
          ↓↑
          賓県(ヒン-ケン)
          中華人民共和国
          黒竜江省ハルビン(哈爾濱)市に位置する県
          県人民政府の所在地は
          賓州鎮
          漢晋代は「挹婁」
          南北朝時代は「勿吉」
          隋代は「靺鞨」の居住地
          唐代は「渤海」の版図
          968年
         「渤海」滅亡
         「遼」により
          東京道・・・その後
         「金」により上京会寧府
         「元」は遼陽省開元路
         「明」は奴儿干都司
          を設置
         「清」初はニングタ将軍の管轄区
          1744年(乾隆九年)
          ラリン・アルチュカ副都統の管轄
         (拉林  阿勒楚喀)
          1880年(光緒六年)
          賓州庁が設置
          1909年(宣統元年)
          賓州府に昇格
          中華民国成立で
          1913年(民国二年)
          賓県と改称・・・
          当初は吉林省の管轄
          1945年(民国三十四年)
          松江省に
          1954年
          黒竜江省に移管
      ↓↑  ↓↑
          檳榔・蒲葵・梹榔
          ヤシ科の常緑高木
          暖地の海岸付近に生え
          シュロ(棕櫚)に似る
          高さ10メートル近く
          葉は大きな扇状で柄が長く
          幹の頂に多数集まってつく
          花は黄色で小さく
          果実は楕円形で青色
      ↓↑  ↓↑
          檳榔子・梹榔子
          檳榔樹の種子
          健胃
          収斂(シュウレン)
          ↓↑・・・縮むこと・引き締まること
          ↓↑   一つにまとまること・集約
               租税などを取り立てること
               生物学で
               系統の異なる生物どうし
               近似した形質をもつ
               方向へと進化する現象
          ↓↑   相近・収斂
          条虫駆除
          などの薬用
          暗黒色の染め物の染料に使用
      ↓↑  古名は、
      ↓↑  あじまさ・・・阿字正・阿字眞差
                 庵治倭・蛙詞眞作?
      ↓↑  ↓  ↑
      ↓↑  阿島 さッ?・・・阿毎王朝の島(横島)
          味鋺 さッ?
          名古屋市北区
          味鋺(あじま)は元は悪地で
          湿地帯の悪しき地・・・?
         「鋺(かなまり)」=「金の椀」
                  =「金物の椀」
                  =「仮名モノの話夢」
      ↓↑  ↓↑
      ↓↑  檳榔毛の車・梹榔毛の車
      ↓↑  檳榔の
          葉を
          細かに裂き
      ↓↑  白く
          晒(さら)したもので
      ↓↑  車の箱を
          覆(おほ)った牛車
      ↓↑  大臣以下、四位以上の
      ↓↑  公卿 ・女房・高僧が乗った牛車
      と
      兵五千を率いて
      百済王子
      豊璋
      の帰国に従って
      百済へ渡航
      王位についた
      豊璋
      と
      鬼室福信は
      都を山害の地である
      州柔から
      平地で農業生産力の高い
      避城へ遷そうと議したが
      田来津は避城は敵に近く
      平地での防衛に不向きして反対
      二カ月後
      避城で
      新羅の攻撃を受け
      州柔に撤退
      ↓↑
      663(天智二)年
      白村江で
      唐水軍に大敗
 ↓↑   戦死
 朴(ほお・パク・ボク)の木は油気がなく
 「磁気を遮断」する特性があり
 固すぎず
 あく(灰汁)がないので
 刀が錆びない
 ↓↑
 「え の き=榎=朴」
 「榎(十八夏・十八一ノ目夂)・榎木」
 「榎=えのき=朴市(えのち・えいち)」?
 「ニレ(楡)科の落葉高木
  高さは20メートル
  葉は左右不同の広卵形・雌雄同株
  春に葉とともに淡黄色の小花を数個ずつつける
  小核果は熟すと橙色になり食用
  材は器具・薪炭などに使用
  昔は街道の一里塚に植えられた
  古名は「え」
ーー↓↑ーーー


 錦江(キンコウ・クムガン・にしきえ)
 大韓民国
 南西部の主要河川
 全羅北道長水郡の小白山脈に端を発し
 全羅北道・忠清北道・忠清北道
 と
 大田の道市境・忠清南道を通った後
 忠清南道と全羅北道の道境を流れ
 群山
 と
 舒川
 の市郡境で黄海に注ぐ
ーー↓↑ーー
 熊津(ユウシン・ウンジン)
 古代朝鮮の百済の古都
 万葉仮名では
 久麻那利(くまなり・こむなり)
 百済語では
 固麻那羅(コマナル)
 と表記・呼称
 熊川(錦江)のほとりの都市
 現在の忠清南道公州
 ↓↑
 熊川港
 朝鮮半島の南東海岸
 慶尚南道
 熊川郡
 に
 室町時代、朝鮮を代表する貿易港
 桃山以降
 活況は釜山港へ移った
 熊川茶碗は積出港で
 熊川茶碗の産地は何処か明白ではない・・・
 慶尚南道
 晋州辺・・・
 同質の土・釉、その形が特徴的
 口辺がやや端反り
 胴は丸く膨らみ椀形
 高台は広く竹節
 この形が
 熊川形として朝鮮茶碗の一基本形
 土は白土と赤土があり
 白土の方はややザラメいている
 赤土の方は細かくねっとりとしている
 釉色は白鼠色を基調として
 浅黄、褐色、枇杷色などの濃淡が重なり
 これに加え
 暗褐色や暗紫色の
 雨漏染みが景をなす
 ときに、
 釉が白く溜まり、幕状に景色を添えている
 見込みに「鏡」があるのが
 熊川の約束になっており
 それも小さい程よいとされている
 これは小さいからよいのではなく
 小さいものに上作が多い・・・
 ↓↑
 熊川(こもがい)
 場所は
 熊川邑城という
 邑(集落・町)を城壁で囲んだ
 朝鮮側の城があった所
 ↓↑
 百済泗沘(サビ)城
 扶蘇山城
 聖王(聖明王)
 538年
 当時のサピ(泗沘・しび・サビ)
 今の扶余に遷都・・・「扶余官北里(百済遺蹟=泗沘城址)」
 国号も
 「南扶余」
 公州の公山城と同様に、
 白馬江(錦江の別名)を
 見下ろす
 扶蘇山城は
 泗沘(サビ)城下の防衛の中核だった・・・
 ↓↑
 錦江(キンコウ・クムガン・にしきえ)
 ↓↑「金 港 ・苦夢願 ・似史記重」?
         熊 河
         熊 川=応永14年(1407)熊川県斎浦の港
         熊 川=こもがい=蒲生貝・古毛甲斐
 ↓↑          籠 貝・古毛蝦夷(我意)
 大韓民国
 南西部の主要河川
 全羅北道
 長水郡の
 小白山脈に端を発し
 全羅北道・忠清北道・忠清北道
 と
 大田の
 道市境・忠清南道を通った後
 忠清南道
 と
 全羅北道の道境を流れ
 群山
 と
 舒川
 の市郡境で黄海に注ぐ
 ↓↑
 錦江(キンコウ・クムガン)
   「金 港 ・苦夢願」・・・?
 沿岸の
 江景(カンギョン)
 や
 河口の
 群山(グンザン)
 は物資の集散地として栄えた
 忠清南道
 公州からは
 熊津江(クムガン)・・・熊(くま)津(つ)江(え)
             熊津江=ユウシンコウ
                 勇 臣 功
           錦江=キンコウ・クムガン・にしきえ
             「金 港 ・苦夢願 ・似史記重」?
 忠清南道
 扶余からは
 白馬江(ペンマガン)・・・白(しろ)い馬(うま・め)の江
 と呼ぶ。
 ↓↑
 錦江
 三国時代
 百済にとって重要な水上交通路
 公州に
 百済の旧都
 熊津(ユウシン・クムシン・くまづ)
    熊 津 =熊 川(くむがい)→熊(球磨)川
         熊 川(ウンチョン)
 扶余に
 新都
 泗沘・・・泗沘(しび・ハングルでサビ)
         泗=氵+四・沘=氵+比(上+匕)
           泗=泪? 沘=水の上の匕(牝)?
           七・ヒ・・・匕首(あいくち)=合口
                 牝頸(頚)
 があり、川にまつわる多くの伝説がある
 古代に
 日本・百済と新羅・唐との間で戦われた
 「白村江の戦い」が行われた
 白江・白村江
 は
 錦江と「推定」されている・・・
 「推定」である・・・
 ↓↑
 歌謡曲の
 「夢見る白馬江(クムクヌン・ペンマガン)」
 はこの川を歌ったもの・・・?
 明治時代初期
 日本で
 長浦江(Basil bay)と呼ばれ
 明治十一年(1878年)
 日本海軍の
 天城が目測により
 河口付近の略地図を制作・・・
 ↓↑
ーーーーー
 ・・・大日本帝国海軍・・・「天城=あまぎ=甘木・雨着・天木・尼木・雨木・安眞木」・・・「天城越え」・・・
 「天城越え(あまぎごえ)」は、
 静岡県伊豆市
 と
 賀茂郡河津町
  の境にある天城峠を越える旅路」
 「伊豆半島を南北に縦断する天城峠越えの道」・・・
 天城越え 石川さゆり [Amagi Goe] Ishikawa sayuri
https://www.youtube.com/watch?v=v51Ny-AqIzw
 ・・・アマギコエ・・・「雨木=あまぎ=天気=テンキ=天機・転記・転義」の「こえ=声・聲・肥」・・・「伝記=デンキ=伝奇=電気」・・・
ーーーーー
 釜山・蔚山周辺に
 安骨浦-倭城
 熊川 -倭城(邑城)
 機張 -倭城
 大王岩公園
 ↓↑
 小西行長が
 「熊川-倭城」に
 文禄三年(1593年)
 グレゴリオ・デ・セスデペス
 神父
 を招き
 韓国でのキリスト教の発祥の地となった・・・?
 上杉景勝が築城に関わった
 「熊川-倭城」は
 「西生浦-倭城」とならび
 洲本城や伊予松山城の元になった登り石垣
 ↓↑
 「熊(くま・ユウ)」の
 朝鮮(ハングル)語音
 「熊=コム」
 中国語音
 「熊=シォン(xiong)」
 「百済方言」で
 「熊(コム)」を
 「熊(クム)」
 「熊」の祖語音「くむ」は「クム」
 ↓↑ 
 「コム・クム・くま=熊」
 と
 「神(かみ・kami)」は同系
 「熊=くま・クム・コマ」は
 「高麗(こま・koma)・高句麗」の「神」
 朝鮮の「檀君神話」で
 「コム=熊」=「神・聖なるもの」・・・御の接頭語がつくモノ
 「熊野神社・熊野古道・熊野大社」
 「狛犬(こまいぬ)=狛(こま)=高麗(こま)」
 「コム=熊」
 「熊本・熊谷・熊野・里熊・大熊・熊町・熊村
  熊川・熊内」
 「熊=くま=隈・隅・阿」
 「赤隈・松隈・丸隈・道隈
  大隈・小隈・乙隈・横隈・篠隈・七隈」
 熊本県の「熊」は「加藤清正」以後、
 「隈→くま→熊」になった・・・
 じゃぁ「熊襲」の「熊」が「襲=かさなる=重なる・套なる」だが、「熊本・熊襲」も昔からの表記ではない・・・球磨・求馬・・・坂本竜馬、坂本於龍(おりょう)・・・「合理記あやめ」の「おりょう」さんは恰好イカッタ・・・「剛力彩芽」?・・・
 「套=かさねる・おおい・つつみ・ありきたり・トウ
   =重ねる・被せる・覆う・蔽い・外套・古くさい
    套語・常套・套言(トウゲン)
    外套・手套・書套
    同じことを重ねる
    套語・旧套・常套・陳套」
 ・・・染物、染料を「襲(かさね)る」・・・
 襲=おそう・おそいかかる・つぐ・シュウ
  =襲撃・奇襲・強襲
   つぐ・受けつぐ・引きつぐ・あとをつぐ
  =襲名・世襲・踏襲
   かさねる・重ね着する・重ねた着物
   襲衣
   因襲(インシュウ)・奇襲(キシュウ)
   逆襲(ギャクシュウ)・急襲(キュウシュウ)
   強襲(キョウシュウ)
ーー↓↑ーーー

コメント
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ユキなげ・・・

2017-11-18 21:12:47 | 古事記字源

 ・・・「2017/11/17/金」・・・目を覚まして窓から外を眺めたら50~60?くらいの積雪・・・空は真っ蒼で眩しいお天道さま・・・兎に角、外に出て家の周りの雪投げ、雪掻きをしなくちゃぁと・・・玄関からの通り道はスベテが塞がれ、モチロン庭の通り道も・・・それに積雪の朝にはイツモは街の除雪車で公道は除雪されているハズだが、役場の手が回らなかったらしい・・・乗用車のタイヤの轍(わだち)で狭い道筋がつけられているだけ・・・外で出逢ったお隣の御主人も朝の早くから雪投げで、今現在は二回目の除雪仕事をやっと終えた、とのコト・・・

ーーーーー
 劉仁軌 伝
 ↓↑
 劉仁軌
 660年~663年の
 「唐・新羅」vs「百済・倭の戦争」
 に関わった人物
 「旧唐書・巻八十四巻・列伝三十四」
 の
 「劉仁軌伝」
 ↓↑
 俄(にわ)かにして、
 余豊=扶余豊(フ-ヨホウ)、
 (鬼室)福信
 を襲って殺し、
 また遣使して
 高麗および倭国に往かせ、
 兵を請わしめて
 以って官軍(唐軍)を拒めり。
 右威衛将軍
 孫仁師・・・孫(まご)の仁(ひとし)の師(出師・水師)?
 に詔して、
 兵を率い、海に浮かび、
 以って之の援けとなさしむ。
 孫仁師、
 既にして
 劉仁軌・・・劉(リュウ)の仁(ジン)の軌(軌道)
 等と相合い、
 兵士大いに振るえり。
 ↓↑
 余豊=扶-余豊(フ-ヨホウ)
 は
 百済三十一代
 義慈王の子で
 扶-余隆(フ-ヨリュウ)
     ・・・扶(たすけ)余(あまり)隆(隆盛)
 の弟
 倭国に人質(虜)となって滞在
 故国(百済)の危機のため
 帰国していた
 「日本書紀・舒明天皇紀」
 三年(631)三月条
 「百済義慈王、
  王子・豊章を入質せしむ」
 「天智天皇紀・元年(663)」
 「正月、
  百済の
  佐平
  鬼室福信
  に
  矢を十万隻、
  糸五百斤、
  綿一千斤・・・(略)、を賜う
  ↓↑
  この月、唐人・新羅人ら高麗を撃つ
  高麗、救いを国家(倭國)に乞う」
 とあり、・・・「唐+新羅」vs「高麗+倭國+百済」
 「五月、
  大将軍
  大錦中・・・・大錦(おおにしき)の中(なか)?
          錦江=白村江=熊江・・・???
  阿曇(あづみ)-比羅夫-連・・・曇=づみ=連視・積・罪・詰
  ↓↑  曇(くもり)=雲で空が覆われている状態で
             降水や雷のない天気状態
             透明なものや
             光をよく反射するものなどが
             曇ってぼんやりすること
      曇(くもり)雲=層積雲の俗称
        白、灰色の雲が塊をなしている状態
      曇=ドン・タン
        くもり・くもる・どんより重苦しくくもる
        つやがなくなる・心配
        悲しみなどのため、暗いようす
  ↓↑    カガミ(鏡・鑑)のクモリ(雲・翳・蜘蛛蜊)
  ら、
  船師・・・水師・提督=底努句
  百七十艘・・・170艘(嫂)・・・壱百七足=壱百漆拾
              嫂=兄嫁に対する直接の呼びかけ
              嫂=女+叟=ねえ-さん・あね-さん
        「壇の浦・義経八嫂飛び」の歌舞伎のビラの
         題字は「義経八嫂飛び」?
        「さん」=「接尾」の「さま=様」の音変化?
         様=十+八+羊+水=樣=十+八+羊+永
         様(樣)子をミル
         人名・役職名・団体名などに付いて
         尊敬の意を表す
         動物名などに付いて、親愛の意を表す
        「お嬢さん・佐藤さん・部長さん・お猿さん」
         体言または体言に準ずる語に
        「お・ご(御)」を冠したものに付いて丁寧語
        「品・色・物品の質や種類」の多種多様
        「~のごとくに・~のように」
         日本のみで使用
        「さま」
        「姓名、職名などの下につける敬語」
        「語の下 につけて丁寧に言う言葉」
        「将来そのようにアレと希望する語」
        嘆きや悲しみの哀悼の「ご愁傷様」
        「きまった 形式・かた・手本・様式・仕様」
        「様=樣」
        「さま・ありさま・かたち・様子・状態・同様」
        「のり(法律)・手本」
        「鋳型・雛(ひな)形」
        「あや=綵」、「模様」
        「語の下につけて丁寧に言う言葉・ご苦労様」
        「ゆえ・わけ」
        「こと・物事」
        「ざま・ありさま」
         様の類語
  ↓↑    「君(くん)・氏(し)・殿(どの)」
  を率いて
  豊章らを
  百済国に送る」
 とある
 ↓↑
 扶余隆
 水軍および糧船を率い
 熊津江
 より
 白江
 に往き、陸軍と会し、
 同じく
 周留城に趣く趣けり。
 仁軌、
 白江の口において
 倭兵に遇い、
 四戦にかち、
 その舟400艘を焚けり。
 煙焔は天に漲り、海水みな赤く、
 賊衆大潰せり。
 余豊、
 身を脱して走れば、
 その宝剣を獲たり。
 偽りて
 王子
 扶余忠勝・忠志
 ら士女および倭衆ならびに
 耽羅国を率いて使いし、
 一時に並びて降りれり。
 百済の諸城はみな帰順すれど、
 賊師
 遅受信、・・・・「遅(遅れる)受信」って?、名前か?
 任存城に拠りて降りざりき。
  ↓↑
 麟紱元年(664)正月16日
 雲中都護府を
 単于大都護府と改称
 殷王
 李旭輪を単于大都護とする
 かつて李靖が突厥を破った時、
 三百帳を雲中城へ移し、
 阿史徳氏をその長とした
 それ以来は次第に人が増えて行った
 阿史徳氏が闕を詣でた時、
 胡法に則って親王を可汗に立て
 これを統率するよう請願した。
 高宗皇帝は、召見して、言った。
 「今の可汗は、昔の単于だ。」
  こうして単于都護府と改称され、
 殷王へ遙頒させたのである。
 ↓↑
 5月
 劉仁軌は
 郭務悰を首班として
 対馬、
 筑紫から
 倭国に上陸させて事後処理
 10月6日
 検校熊津都督
 劉仁軌が上言
 高宗皇帝は、これに従った
 扶余隆を
 熊津都尉とし
 その余衆を招かせた・・・
ーー↓↑ーー
 438年
 倭王珍が宋に朝献
 自ら
 「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓
  六国諸軍事安東大将軍倭国王」
 と称し、正式の 任命を求める。(『宋書』倭国伝)
 4月
 宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。(『宋書』文帝紀)
 珍はまた、
 倭隋ら
 十三人を
 平西・征虜・冠軍・輔国将軍
 にされんことを求め、許される。(『宋書』倭国伝)
 451年
 倭王済が
 宋朝
 文帝から
 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事」
 を加号される。
 安東将軍はもとのまま。(『宋書』倭国伝)
 七月
 安東大将軍に進号する。(『宋書』文帝紀)
 477年
 倭王武は自ら
 「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  七国諸軍事安東大将軍倭国王」
 と称する。(『宋書』倭 国伝)
 478年
 順帝、武を
 「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
  六国諸軍事安東大将軍倭王」
 とする。(『宋書』順帝紀、倭国伝)
ーー↓↑ーー
 百済
 近肖古王・・・百済の第十三代の王
       (在位346年~375年)
        第十一代の
        比流王の第二子
 の建国
 346年
 ~
 高句麗
 に滅ぼされる
 475年まで
 熊津
 再興の
 475年
 ~
 泗沘に
 遷都する
 538年まで
 泗沘への遷都~滅亡する
 660年まで
ーー↓↑ーー
 「百済が
  高句麗に敗れたと聞き、
  雄略天皇は
  久麻那利(くまなり・熊津)を
  文周王に与えて
  百済を復興させた」
 倭国の
 雄略天皇が
 百済を復興させた・・・
 「熊津の土地」
 「久麻那利・・・くまなり=熊也=熊名理=球磨名里
         「高麗(狛)那の里」?
  は
  任那国・・・・みまな國
  の
  下-哆呼利-県・・・久麻那利(こむなり)
           下-哆呼唎-県(シモ タコリ コオリ)
  の
  別邑なり」・・・別の邑(むら・さと・くに)
 倭国(任那)が支配していた
 任那国(倭国)の土地の一部
 ・・・半島の南東部(慶尚南道)
     慶尚南道の
     北は慶尚北道
     西は全羅南道
     北西部は全羅北道
     慶尚南道の南側は対馬海峡
     北部に大邱広域市
     北東部に蔚山広域市
     東南部に釜山広域市
     道庁所在地は昌原(チャンウォン)
     他
     馬山(マサン)、晋州(チンジュ)
     鎮海(チンヘ)、統営(トンヨン)
     泗川(サチョン)・・・1995年5月10日
                三千浦市+泗川郡
                泗川市が発足
     金海(キムヘ)・・・金海加羅
               朝鮮古代の加羅諸国中の有力国
               別名
               金官加羅
               大伽耶
               狗邪(くや)国
               狗邪韓国
               駕洛(から)国
               任那(みまな)加羅
               任那
     密陽(ミリャン)
     巨済(コジェ)
     梁山(ヤンサン)
 雄略天皇が
 百済・・・全羅南道・全羅北道
 の
 文周王に
 熊津・・・・・・・・・・半島の南東部→熊津=熊川?
 を与え
 復興させた・・・
 雄略天皇=倭王武
 は
 477年
 自らを百済を含めた
 安東大将軍と主張
 しかし
 順帝は
 百済を含めなかった・・・
ーーーーー
 ↓↑
 罷(まか)る=罒+能
        朝廷などの意向を受けて
        地方または他所へ行く
 罷=罒(網)+ム+月(肉・舟)+匕+匕
   罒=横目
   ↓↑
   能(よく)・熊(くま)・羆(ひぐま)・態(タイ)
   くま=球磨・久萬・隈・隅・阿・嵎・粂
   ↓↑
   匕
   左右反転した人の字(右向きの人の形の象形)
   並ぶというような意味・・・
   「匕、亦た比を用(もつ)て
    飯を取る所以なり。一名、柶」
   「さじ(匙)・しゃもじ(杓文字)の象形
   「妣」の初文であり
   「死亡した母親・亡き母なり」の意味
   「牝の匕は女性器」
   匕(さじ・ヒ)=右向きの人・さじ・小刀
     ヒ、七、七とは別字
   さじ(匙=匕)を投げる
   ・・・調薬で病人を救う方法がもはや無い
    異体字
    枇・鈚・比・牝
    声符「匕」
    化・牝・㠲・齔・疕・此・尼・魚+匕
    匕七匙頃傾真(眞)老
   ヒ(カ・クワ)=説文に
       「變ずるなり・到人に從ふ」
        とあり人を逆さまにした字で
        化の初文
        人の死を表す
        意符
        匕を意符に持つ漢字は
        比、北、㫐、頃、旨など
        匕を声符とする漢字は
        牝、旨、尼(会意説)
        疕、㠲、𩵏など・・・
        匕と七は混同し易い
        匕は匕首(短剣)の匕として用いる
   ↓↑   七の場合は化する意
   匕鬯(ヒチョウ)を喪(うしな)わず
   震は百里を驚かせども
   匕鬯を喪(うしな)わず
   震為雷=震は雷 、突発して起こる変動
   ↓↑  匕鬯の
      「匕(ヒ)」は
       神霊に供物を奉ずる匙
      「鬯(チョウ)」は
   ↓↑  儀式に使う香酒
   語彙
   匕首
   ↓↑
   匕首(あいくち・ひしゅ・ビーショゥ)
   合口(あいくち)=鍔(つば)の無い短刀
   日本語は「合口」
   中国語の「匕首(ひしゅ、ビーショゥ)」
   と混同された
   本来の「匕首」は、その形状・定義も
   合口とは厳密には異なる
   日本での用例
   合口(あいくち)=鍔が無いために
   柄と鞘がぴったり納まる様子から来て
   懐に隠せる合口はヤクザや博徒の
   喧嘩道具に重宝された
   ドスが俗称
   ↓↑
   鏃(矢尻)
   銃刀法において
  「あいくち」は
  「刀」や「剣」等とは異って
   刃渡りに関わらず「刀剣類」に分類
   所持の規制及び処罰の対象
   中国での用例
   匕首は、古代から使用されている
   暗器(身につけられる小さな武器)で
   横から見たときに
   匙(さじ)のような形の刃先を持つ短刀
   用途は暗殺用・・・
  「匕首」は暗殺の道具
   ↓↑  
 罷=やめる
   中止する・廃止する
   罷買同盟
   しりぞける(引き下がらせる・追い返す)
   解雇する(罷免)
   許す・釈放する
   帰る
   つかれる(疲)
   疲れてやるきがなくなる(罷弊)
   病気になる
   にぶい・おろか(罷士)
   弱い
   きわまる(罷極)
   まかる
   退出する・去り帰る
   来る
   行く
   死ぬ
ーー↓↑ーー
 ・・・???・・・
 切羽詰られ=物事が差迫って、どうにも切抜けられなくなる
 ↓↑    追いつめられて全く窮する
       切羽は鐔(つば・鍔)を
       刀身に固定させるために
       柄とハバキの間に挟み込む卵形の薄い銅板
       切羽により挟み込まれた鐔が
       固定されている状態に譬え
       身動きのとれない様を
       切羽詰まると云う
 ↓↑    ハバキ=鎺・鈨・はばき
          =日本刀の部材の一つ
           刀身の手元の部分に嵌める金具
           鎺金 (はばきがね)
          「鎺」は国字
           はばきがね
           人が脛巾(はばき)をはいた形に似て
           刀剣などの刀身が鍔(つば) に
           接する部分に
           嵌(は)める鞘口(さやぐち)形の金具
           刀身が鞘から
           抜け落ちないようにするためツメル
           鞘(さや)の中で刀身は
           鞘(さや)に触れることなく
           浮かせるモノ
           はばき=刀の根元をしっかり締めくくり
           刀身がぐらぐらして
           鞘(さや)に当たらないように
           支える役目をしている
 ↓↑    はばき=脛巾・行纏=旅行や作業などの際
           脛(すね・臑)に巻きつけ
           紐(ひも)で結び、
           動きやすくしたもの
           古くは藁(わら)や布で作った
           後世の脚絆(きゃはん)
 ↓↑        脛巾裳(はばきも)
 つめる(詰める)・なじる(詰る)
 詰問
 反詰・喬詰・查詰・盤詰・研詰・究詰・維摩詰
 詰責・詰難・責詰
 詰屈・詰屈・詰屈聱牙・詰旦・詰曲・詰禁・駁詰
 ↓↑
 「刀=かたな=片名」の
 「鞘(さや・ショウ)=革+肖」
          ・・・「肖古王=照古王」?
 ↓↑
 自然乾燥で10年以上寝かした
 朴(ほお・パク)の木を使用
   ・・・朴市=朴市 秦    田来津
        (えち はた の たくつ)
      ?~天智天皇二年八月二十八日
(663年10月5日)
      氏は秦、朴市とも・・・朴市=愛智
      姓は造
      大花上・秦河勝の子・・・
      645(大化元)年
      古人大兄皇子
      蘇我田口川堀
      物部朴井椎子
      吉備笠垂
      倭漢文麻呂
      らと共に、改新政権に対する
      謀反計画の謀反に加わったが
      吉備笠垂
      の裏切りによって失敗
      皇子は殺害された?・・・
      兵は向けたが皇子を殺害したかどうか?
      ・・・で、
     「朴市-秦-田来津」は許された・・・?
      ↓↑
      662(天智元)年
      小山下の位
      秦田来津
      は
      狭井梹榔=さいのあじまさ=狭井檳榔・・・?
      ↓↑      ↓↑  
          梹(木兵)=檳(木賓)→兵=賓
      ↓↑  青森県東津軽郡
          外ヶ浜町三厩
          梹榔(字)
          ↓↑
          賓客=敬って
             もてなすべき客人
             訪れて来た人
          嬪=女+賓=天皇の寝所に侍する女官
          ↓↑皇后・妃・夫人の下位で
            四位・五位の者
            後世の
            女御(にょうご)・更衣(こうい)
          ↓↑
          賓県(ヒン-ケン)
          中華人民共和国
          黒竜江省ハルビン市に位置する県
          県人民政府の所在地は
          賓州鎮
          漢晋代は「挹婁」
          南北朝時代は「勿吉」
          隋代は「靺鞨」の居住地
          唐代は「渤海」の版図
          968年
         「渤海」滅亡
         「遼」により
          東京道・・・その後
         「金」により上京会寧府
         「元」は遼陽省開元路
         「明」は奴儿干都司
          を設置
         「清」初はニングタ将軍の管轄区
          1744年(乾隆九年)
          ラリン・アルチュカ副都統の管轄
         (拉林  阿勒楚喀)
          1880年(光緒六年)
          賓州庁が設置
          1909年(宣統元年)
          賓州府に昇格
          中華民国成立で
          1913年(民国二年)
          賓県と改称・・・
          当初は吉林省の管轄
          1945年(民国三十四年)
          松江省に
          1954年
          黒竜江省に移管
      ↓↑  ↓↑
          檳榔・蒲葵・梹榔
          ヤシ科の常緑高木
          暖地の海岸付近に生え
          シュロ(棕櫚)に似る
          高さ10メートル近く
          葉は大きな扇状で柄が長く
          幹の頂に多数集まってつく
          花は黄色で小さく
          果実は楕円形で青色
      ↓↑  ↓↑
          檳榔子・梹榔子
          檳榔樹の種子
          健胃
          収斂(シュウレン)
          ↓↑・・・縮むこと・引き締まること
          ↓↑   一つにまとまること・集約
               租税などを取り立てること
               生物学で
               系統の異なる生物どうし
               近似した形質をもつ
               方向へと進化する現象
          ↓↑   相近・収れん
          条虫駆除
          などの薬用
          暗黒色の染め物の染料に使用
      ↓↑  古名、
      ↓↑  あじまさ・・・阿字正・阿字眞差
                 庵治倭・蛙詞眞作?
      ↓↑  ↓  ↑
      ↓↑  阿島 さッ?・・・阿毎王朝の島(横島)
          味鋺 さッ?
          名古屋市北区
          味鋺(あじま)は元は悪地で
          湿地帯の悪しき地・・・?
         「鋺(かなまり)」=「金の椀」
                  =「金物の椀」
                  =「仮名モノの話夢」
      ↓↑  ↓↑
      ↓↑  檳榔毛の車・梹榔毛の車
      ↓↑  檳榔の
          葉を
          細かに裂き
      ↓↑  白く
          晒(さら)したもので
      ↓↑  車の箱を
          覆(おほ)った牛車
      ↓↑  大臣以下、四位以上の
      ↓↑  公卿 ・女房・高僧が乗った牛車
      と
      兵五千を率いて
      百済王子
      豊璋
      の帰国に従って
      百済へ渡航
      王位についた
      豊璋
      と
      鬼室福信は
      都を山害の地である
      州柔から
      平地で農業生産力の高い
      避城へ遷そうと議したが
      田来津は避城は敵に近く
      平地での防衛に不向きして反対
      二カ月後
      避城で
      新羅の攻撃を受け
      州柔に撤退
      ↓↑
      663(天智二)年
      白村江で
      唐水軍に大敗
 ↓↑   戦死
 朴(ほお・パク・ボク)の木は油気がなく
 磁気を遮断する特性があり
 固すぎず、
 あく(灰汁)がないので
 刀が錆びない
 ↓↑
 「え の き=榎=朴」
 「榎(十八夏・十八一ノ目夂)・榎木」
 「榎=えのき=朴市(えのち・えいち)」?
 「ニレ(楡)科の落葉高木
  高さは20メートル
  葉は左右不同の広卵形・雌雄同株
  春に葉とともに淡黄色の小花を数個ずつつける
  小核果は熟すと橙色になり食用
  材は器具・薪炭などに使用
  昔は街道の一里塚に植えられた
  古名は「え」
ーーーーー
 ・・・???・・・

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