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コジキジゲン

本は亦、男の子を以て、王となし、住んで七八十年?

2019-01-16 23:23:02 | 古事記字源

 ・・・ローマって、「スッラ」と「ポンペイウス」がその岩盤をコンクリートで固めた・・・「本並・本併・本俾・本埤」失す・・・「翻経意佻」・・・「卑+α」もワンサカ・・・意味のヨメないカンジ・・・「卑=甶+丶+十」に「+α」だから意味も並列して推理・・・それにしても「卑賤・卑属・卑金属・尊卑・品性が劣る・下品・卑俗・卑劣・卑猥・野卑」・・・これはアマリにも酷い漢字の意味だけれど、「卑弥呼」は「鬼道の巫女」だから当然である・・・

 俾=ヒ・ヘイ・しもべ・にらむ・たすける・益する
   俾益
   裨(ヒ)=しもべ・めしつかい・ヘイ・にらむ・横目で見る
       俾倪(ヘイゲイ)・睥(ヘイ)
       俾=亻+卑
         したが-う・しむ・せし-む・ヒ・ヘイ
         かしずく
       異体字「𠈷・𢔌・裨・朇・禆・陴・𥚈・𩫫・𩫮」
 埤=土+卑
   異体字「𡌨・𡐕・壀・陴」
   ます・あたへる・たすける・ひくいひめがき・あたえる
   ヒ・ビ・ヘイ
   甶+α・・・甶=丿+田=フツ・鬼の頭・子供の頭
   卑+α
   捭・猈・萆・郫・𩔹・䫌
   𪐄・椑・粺・裨・鞞
   𠕩・𩫮・鼙・䠋
   㪏・㼰・䇑・𧌠・𩖓・庳
   𠕩=冎+卑=異体字「㗗」
   錍=短い斧・矢先・矢尻・鋤
   睥=睥睨(ヘイゲイ)
   髀=大腿骨=腿・股
   稗=稗粟=稗田(阿禮)
   婢=
   碑=石碑=𥓓
   脾=脾臓
   鵯=鵯鶋(ひよどり・ヒッキン)
   牌=位牌
   痺=麻痺
   萆=萆薢(ひかい)=ヤマイモ科の「ところ・おにどころ」
             蓑・箕
   蜱=真蜱(まだに)
   陴=郫(ひめがき)
   捭・萆・陴・郫・脾・椑
   鞞・篺・䡟・貏・颦・㽡
   睥・裨・粺・箄・薭・䫌
   鼙・朇・顰・聛・蠯・㼰
   㯅・猈・䚜・簰・䱝・諀
   崥・㗗・渒・螷・啤・㵺
   琕・䠋・簲・䴽・豍
   庳・㪏・焷・綼・䇑・䰦
ーー↓↑ーー
 別=𠮠+刂=冂+万+刂=口+勹+刂=冂+刀+刂
 異字体「别=口+力+刂」
 ↓↑
 「わかれる」と読む漢字
 ↓↑
 分(分離・分別)
 別(別離)
 别(別個)
 剖(解剖)
 沠(派閥)
 派(派遣)
 訣(決別)
 𠛰(削る・梳る・けずる)
 ↓↑
 冎+刂=𠛰=わかれる・ベツ・ベチ
 ↓↑
 髀=骨+卑=䠋=𧾷+卑
  =ふともも(太股・太腿)の大腿骨
   ヒ・ビ・ハイ・バ・ヘン・ベン
ーー↓↑ーー
 倭国大乱
 「其國
  本亦以男子爲王住七八十年
  ↓↑   ・・・780年=七百八十年?
          干支 庚申・・・庚(かのえ)の申(さる)
          日本
          宝亀十一年・・・宝の亀の拾の壱の念?
          皇紀1440年
          中国
          唐  建中元年・・・建の中元の年?
          3月(旧暦2月)
          ヤマト王権
          蝦夷征討の城柵の
          覚鱉城(かくべつじょう)を陸奥国内に築く
          5月1日(宝亀十一年三月二十二日)
          宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)が勃発
          夷俘で
          陸奥国伊治郡
          の大領を務める
          伊治呰麻呂が
          伊治城でヤマト王権に反旗
          夷俘軍を率いて
          按察使・紀広純らを殺害
          伊治城は焼失
          唐で、両税法が施行
  ↓↑
  倭國亂 相攻伐歴年
  乃
  共立一女子爲王
  名曰
  卑彌呼
  事鬼道
  能惑衆
  年已長大
  無夫婿」
 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
 ↓↑
 桓帝・霊帝の治世の間(146年~189年)、倭国は大いに乱れた
 『後漢書』卷85 東夷列傳第75
 ↓↑
 永初元年(107年)、倭国王帥升が後漢へ使者を出した
 『後漢書』東夷伝
 ↓↑
 184年
 四月二日
 ・・・張角、太平道の教祖、黄巾の乱の指導者
 黄巾の乱(コウキンのラン・黄巾之乱・黃巾之亂)
 後漢末期の
 西暦184年(中平一年)
 太平道の教祖
 張角を指導者とする
 太平道の信者が各地で起こした農民反乱
 黄色い頭巾を頭に巻いた
 ↓↑
 184年
 干支 甲子
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 ↓↑
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
 ↓↑
 「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」
 『新羅本記』
 ↓↑
 高地性集落
 弥生時代中・後期に
 平地と数十メートル以上の標高差がある
 標高100メートルを超える
 高地の山頂部や斜面に形成された集落
 ・・・津波や洪水・・・そして外来海賊の襲撃・・・?
 大乱発生時期「180~190年頃」
 『後漢書』
 『梁書』には
 「霊帝・光和年中」(178年~184年)
  ・・・例綴・講和(乞う和)念重・・・
        サンフランシスコ?
        1951年9月8日午前11時55分
       (米太平洋時間・日本時間9日午前3時55分)
 ↓↑
 倭の記録
 後漢の
 班固(32年・建武八年~92年・永元四年)・・・建武の八年
 ↓↑    干支 壬辰
       垂仁天皇六十一年
       皇紀692年
       後漢 建武八年
       隗囂 漢復十年
       公孫述 龍興八年
       朝鮮
       高句麗 大武神王15年
       新羅  儒理王9年
 ↓↑    百済  多婁王5年
 &
 班昭(45年?~117年?)・・・曹大姑
 が書いた『漢書』地理志
 班昭は
 曹世叔に嫁したが、夫の死後
 和帝の詔により
 兄の「漢書」編纂を引き継いで
 八表と天文志を完成
 他に
 「女誡」七編
 「東征賦」を著
 曹大姑 (ソウタイコ) とも・・・
 ↓↑
 王充(27年~97年 or 101年?)・・・字は仲任・会稽郡上虞の出身
 が著した『論衡』
 ↓↑
 『晋書』、『梁書』に
 倭人の出自は
 「太伯之後」と・・・太伯=呉の祖
        ・・・太安萬侶・・・呉の末裔?
 記録
ーー↓↑ーー
 184年
 干支 甲子
 日本
 成務天皇五十四年
 皇紀844年
 中国
 後漢 光和七年、中平元年
 張曼成 神上元年
 朝鮮
 高句麗 故国川王六年
 新羅  阿達羅王三十一年、伐休王元年
 百済  肖古王十九年
ーーーーー
 ポンペイウス年表
 紀元前106年・ピケヌムで生まれる
 紀元前 88年・同盟市戦争で初陣を飾る
 紀元前 87年・父ストラボが死去
 紀元前 83年・スッラのローマ侵攻に
        軍を率いてスッラ派へ参加
 紀元前 82年・マリウス派(ポプラレス)が
        抵抗していた
        シキリア・北アフリカを制圧
        (~紀元前81年)
 紀元前 81年・1度目の凱旋式
 紀元前 76年・セルトリウスの反乱を鎮圧するべく
        ヒスパニアへ遠征(~紀元前71年)
 紀元前 71年・2度目の凱旋式
 紀元前 70年・コンスルに就任
     (同僚はマルクス・リキニウス・クラッスス)
 紀元前 67年・海賊征討戦(3ヶ月弱で完了)
 紀元前 66年・小アジア・黒海遠征
        ミトリダテス6世を破る
        (~紀元前63年)
 紀元前 64年・シリア・ユダヤ・フェニキア等を
        ローマの勢力圏に加える
 紀元前 61年・3度目の凱旋式
 紀元前 59年・第一回三頭政治
       (クラッスス及び
        ガイウス・ユリウス・カエサル
        ポンペイウス)
        カエサルの娘・ユリアと結婚
 紀元前 58年・ヒスパニア属州総督に就任
       (~紀元前55年)
        ポンペイウス劇場が完成
 紀元前 56年・ルッカ会談
 紀元前 55年・コンスルに就任(同僚はクラッスス)
 紀元前 54年・ユリア死去
 紀元前 53年・クラッスス戦死、三頭政治が事実上崩壊
 紀元前 52年・コンスルに就任
       (同僚はメテッルス・スキピオ)
 紀元前 51年・カエサル・ガリア総督任期終了
        コンスルへの立候補を表明
 紀元前 49年・カエサル派との内戦が開始
 紀元前 48年・ファルサルスの戦いで敗北
        アレキサンドリアへ逃れ
        同地で殺害
ーーーーー
 紀元前83年2月5日
 戊戌
 甲寅
 丙申
 ↓↑
 紀元前200年2月5日
 辛丑
 庚寅
 壬午
 ↓↑
 日本
 孝元天皇十五年
 皇紀四六一年
 中国
 前漢 高祖七年
 ↓↑
 誕生
 公孫弘=前漢の人物
    (~紀元前121年)
 賈誼=前漢時代の政治思想家・文筆家
    (~紀元前168年)
 劉章=前漢前期の皇族
    (~紀元前177年)
ーー↓↑ーー
 第2次マケドニア戦争
 マケドニア王国
 アカイア同盟
 アッタロス朝ペルガモン王国
 アエトリア同盟
 共和政ローマ
 セレウコス朝
 ガリア・キサルピナにて
 「クレモナの戦い(ケノマニの戦い)」
 現地ガリア人に
 共和政ローマ軍が勝利
 ロドス島が
 マケドニア王国に勝利し
 クレタ島北部を領有、クレタ島戦争が集結
 共和政ローマとアッタロス朝
 ペルガモン王国と
 ロドス島が連合し
 アンティゴノス朝
 マケドニア王国の
 ピリッポス5世との間で
 第2次マケドニア戦争
 (紀元前197年~)
 ↓↑
 紀元前200年頃
 グレコ・バクトリア王国の
 第3代国王
 エウテュデモス1世が死去
 デメトリオス1世が即位
 ↓↑
 前漢丞相
 蕭何の主導
 少府
 陽城延の指揮の下で
 都・長安の南西部に
 未央宮が建設着工
 匈奴が
 前漢の西側国境付近に出現
 「白登山の戦い」
 匈奴軍が
 前漢の
 劉邦軍を白登山で包囲
 ↓↑
 紀元前201年
 干支 庚子
 日本
 皇紀四六〇年
 孝元天皇十四年
 前漢 高祖六年
 ↓↑
 ペルガモンの
 アッタロス1世、ローマに遣使
 「韓王信」が匈奴に投降・・・
 ↓↑
 甲子の年 ・・・ 1864年
 甲子の月 ・・・ 1863年11月
 甲子の日 ・・・ 1873年 1月12日
 ↓↑
 1/1/1    1/1/1・・⇒1/1/3
 ユリウス曆 グレゴリオ曆
 庚申    庚申(己・壬・庚)
 戊子    戊子(壬・ ・癸)
 丁丑⇒戊寅⇒己卯(甲・ ・乙)
 申酉=空亡
 土曜日
 ↓↑
 1/2/6 立春・・・ユリウス曆(古世見)
 辛酉
 庚寅
 癸丑
 ↓↑
   ユリウス曆⇒グレゴリオ曆
 1582年10月5日=1582年10月15日
        =天正十年九月十九日
 壬午(丙・ ・丁)
 庚戌(辛・丁・戊)
 甲戌(辛・丁・戊)
 申酉=空亡
 ↓↑
 グレゴリオ曆
 1582年10月5日
 壬午(丙・ ・丁)
 己酉(庚・ ・辛)
 甲子(壬・ ・癸)・・・甲子~甲戌=数えて11日
 戌亥=空亡              満で10日
 ↓↑
 満年齢の使用(生まれた次の歳から一歳)
 1902年12月22日施行・・・1+9+0+1+2+2+2+2=11+8
 「年齢計算ニ関スル法律
 (明治35年12月2日 法律第50号)」
 ↓↑
 甲乙丙丁戊
 己庚辛壬癸
 干合の「年月・日時」決定
ーー↓↑ーー
 十干年日 01 甲  02乙 03丙 04丁 05戊
 十干年日  06 己  07庚 08辛 09壬 10癸
        ↓   ↓  ↓  ↓  ↓ 
  二月寅時 02丙寅 戊寅 庚寅 壬寅 甲寅
  三月卯時 03丁卯 己卯 辛卯 癸卯 乙卯
  四月辰時 04戊辰 庚辰 壬辰 甲辰 丙辰
  五月巳時 05己巳 辛巳 癸巳 乙巳 丁巳
  六月午時 06庚午 壬午 甲午 丙午 戊午
  七月未時 07辛未 癸未 乙未 丁未 己未
  八月申時 08壬申 甲申 丙申 戊申 庚申
  九月酉時 09癸酉 乙酉 丁酉 己酉 辛酉
  十月戌時 10甲戌 丙戌 戊戌 庚戌 壬戌
 十一月亥時 11乙亥 丁亥 己亥 辛亥 癸亥
 十二月子時 12丙子 戊子 庚子 壬子 甲子
  一月丑時 01丁丑 己丑 辛丑 癸丑 乙丑
----↓↑----
 太初暦
 前漢の
 武帝は・・・・・・・・武帝=武の綴(テイ)=糸+双+双
 太初元年(BC104)
「太初暦」を制定・・・太初=太の鉢(ハツ)=金+本
 前漢も終わりの頃に
 劉歆(リュウキン)が
     ・・・歆=音(立日)+欠
          うける・キン・コン
          like, admire
          willingly, gladly, to quicken
 「三統暦」を作り・・・三の統(糸を充てる)暦(歴)
 「月朔」に関しては
 太初暦と同一
 ↓↑
 後漢四分暦
 一年の長さを
 365+1/4日
 端数が一日の四分の一
 章帝の・・・・・・・章の綴
 元和元年(84)・・・元の和
 以降に行用
 ↓↑
 乾象暦・・・乾(十日十乞・いぬい・乾燥)の象の暦(歴)
            乞=𠂉(かみさし・櫛)の乙
 『晋書』・『宋書』
 の律暦志により
 後漢末には
 天文観測に基づいて
 年の端数を
 1/4から
 145/589=0.24618
 に改めた新しい暦が
 劉洪
 によって創始
 呉の
 孫氏は
 滅亡(天紀四年・280年)
 ↓↑   ・・・280年
         干支 庚子
         応神天皇十一年
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         応神十一年十月条
        「剣池(つるぎのいけ)
         軽池(かるのいけ)
         鹿垣池(ししかきのいけ)
         厩坂池(うまやさかのいけ)を作る」
        「命を受けて貢上れる人
         名は
         和邇吉師(わにきし)
         すなわち
         論語十巻、千字文一巻、
         併せて
         十一巻をこの人に付けて
         すなわち貢進りき。
         この
         和爾吉師は
         文首等の祖。
         また
         手人韓鍛(てひとからかぬち)
         名は
         卓素(たくそ)
         また
         呉服(くれはとり)の
         西素(さいそ)
         二人を貢上りき」
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
 ↓↑      誉田別尊(ほむたわけのみこと)
         誉田別命(ほんだわけのみこと)
         大鞆和気命(おおともわけのみこと)
         誉田天皇(ほんだのすめらみこと)
         胎中天皇(はらのうちにまします)
 ↓↑      ↓↑ ↓↑ ↓↑
         皇紀940年
         中国
         西晋 咸寧六年、太康元年
         呉  天紀四年
         朝鮮
         高句麗 西川王十一年
         新羅  味鄒王十九年
         百済  古尓王四十七年
         西晋が呉を滅ぼし、中国を統一
 ↓↑      占田課田法を制定
 まで用いた
 ↓↑
 景初暦
 楊偉
 により作られ
 曹魏、
 晋・宋と使われ続け
 年の端数は
 455/1843=0.24688
 ↓↑
 元嘉暦・・・元の嘉(十豆加)の暦(歴)
            豆=一+口+䒑(丷一)
 宋の文帝・・・・・・・・文の綴
 元嘉二十二年(445)・・・元の嘉の弐拾弐(念似・念字)
 何承天・・・何の承(うけたまわる・うける・つぐ)の天
         承=継承(ケイショウ)・承継(ショウケイ)
              形 象       象  形 
 が作り
 南朝斉・梁でも使われた
 倭国
 『日本書紀』の
 雄略紀以降
 日の干支が
 元嘉暦で書かれている
 ↓↑
 大明暦・・・・大(一人)の明(日月)の暦(歴)
 宋の祖沖之が始めた
 閏月の置き方に工夫・・・
 梁の           
 武帝が
 天監九年(510)に採用
 陳の滅亡まで南朝で使われた
 ↓↑
 大業暦・・・・大(一人)の
        業(ゴウ)の=业+𦍎(羊八)
               わざ・ギョウ・ゴウ
        異体字・㸣・𤎸・𤑽・业
        暦(歴)  
 隋の煬帝
 大業四年(608)
 劉焯・・・焯=火+卓=異体字「𤎙・㷹」
      あきらか・シャク・トク・タク・ショウ
 が生前作成していた暦を公布
 唐の
 高祖
 武徳元年(618)
 まで使用
 ↓↑
 戌寅暦(平朔)
 はじめ定朔法を採用
 唐の
 太宗
 貞観十九年(645)から平朔
 高宗の
 麟徳二年(665)まで使用
 ↓↑
 麟徳暦・・・麟(麒麟)の徳(トク)の暦(暦)
 唐の
 李淳風
 作
 持統四年(691)頃・・・「字等・字統」の歴の史の念
 「儀鳳暦」
 の名でわが国へ伝来
 本来は定朔法で
 『続日本紀』はこれによる
 平朔として
 『日本書紀』の
 神武紀~允恭紀・・・允(ム儿)恭(共灬)・・・「灬=火」
 ↓↑        允=まこと・ゆるす・イン
     ・・・木戸孝允=天保4年6月26日~明治十年
        1833年8月11日~       1877年5月26日
        癸巳(戊 庚 丙)偏印正財沐浴⇔丁丑
        庚申(戊 壬 庚)正官正財 胎⇔乙巳
        乙丑(癸 辛 己)  偏印 衰⇔己亥
         戌亥=空亡
 ↓↑
 まで
 月朔干支に使用されている
ーー↓↑ーー
 「太安万侶墓誌」の「干支」・・・?
 ↓↑
 左京四条四坊従四位下勲五等
 太-朝臣-安萬侶
 以
 癸亥年七月六日卒之
 養老七年十二月十五日乙巳
ーーーーー
  癸亥年 七月 六日
 養老七年十二月十五日乙巳
 ↓↑
 『続日本紀』
 元正天皇の
 養老七年(723)は
 癸亥の年
 その記事に、
 「秋七月庚午、
  民部卿従四位下
  太朝臣安麻呂卒」
ーーーーー
 墓誌
 養老七年十二月十五日の干支
 カッコ内の数字の
 小数部分は
 時刻(午前六時は、0.25、正午は0.50)
ーーーーー
 養老七年 十二月
 養老七年十二月十五日=西暦724年1月15日Y・ユリウス
           =西暦724年1月19日G・グレゴリオ
 ↓↑
 暦 名  十二月朔の干支  十五日の干支
         朔=一日
 太 初  乙未(31.2099)  己酉
 後漢四分 甲午(30.3255)  戊申
 ↓↑
 乾象   辛卯(27.9163)  乙巳・・・
 ↓↑
 景初   壬辰(28.1860)  丙午
 元嘉   壬辰(28.1343)  丙午
 大明   壬辰(28.1505)  丙午
 大業   壬辰(28.1997)  丙午
 戊寅平朔 壬辰(28.1695)  丙午
 麟徳平朔 壬辰(28.1513)  丙午
 麟徳定朔 壬辰(28.5679)  丙午
 ↓↑
 乾象暦のみ
 墓誌の
 十五日の干支「乙巳」に一致
     干支「丙午」に・・・1日のズレ
ーーーーー 
 続紀に載る
 太安万侶の官人としての経歴
 慶運元年(704)従五位下
 霊亀元年(715)従四位下
 氏上
 民部卿
 彼の葬儀に際し
 墓誌の干支にあえて
 呉の暦を用いた
 太氏一族は
 呉国
 滅亡で
 わが国への亡命者・・・???
 (by …other)…
ーーーーー
 ・・・???・・・

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・・・ニンゲンにナルのも、ナラないのも難しい・・・

2019-01-14 20:47:27 | 古事記字源

・・・木⇔火⇔土⇔金⇔水・・・「惑星=ギリシア語・πλανήτης・plaˈnitis・ラテン語・planēta・planet)=恒星の周りを回る天体のうち、比較的低質量のもの」・・・太陽に近い順から、「水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星」・・・
  マルクス・アントニウス・・・火星(軍神)の「大秦王-安敦」
 (Marcus Antonius)      マルクス・アウレリウス・アントニヌス
 紀元前83年1月14日~紀元前30年8月1日
 共和政ローマの政治家・軍人
 第二回三頭政治の一頭
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 の姪の息子
 オクタウィアヌス
 (初代ローマ皇帝アウグストゥス)
 に敗北・・・
 ↓↑
 マルクス・アントニウス
 (Marcus Antonius)
 紀元前83年1月14日~紀元前30年8月1日
 共和政ローマの政治家・軍人
 第二回三頭政治の一頭
 ガイウス・ユリウス・カエサル
 の姪の息子
 オクタウィアヌス
 (初代ローマ皇帝アウグストゥス)
 に敗北・・・
 ↓↑
 マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルス
 (121-180)
 哲人皇帝=第16代ローマ皇帝
      マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝
      (帝位161~180)
 ↓↑
 中国・後漢王朝(25~220)
 『後漢書』
 97年に西域都護の軍人
 甘英(カンエイ)が
 大秦国に派遣された(結局断念した)
 ↓↑
 『後漢書』
 大秦国が
 後漢・桓帝(位146~167)時代
 166年
 大秦国王の安敦(アントン)が使節を遣わ
 日南郡(ベトナム中部)に入貢
 象牙などの南海の物産を献上
 ↓↑ 
 アントニヌス=ピウス帝(138~161)
 ↓↑
 ・・・「二星会合」って「織女と牽牛が合う」ことの熟語?・・・夜空に観察できる動的天体同士が重なること・・・夜空に観察できる動的天体が恒星と重なる現象・・・?
 ・・・「planet=語源はギリシア語のプラネテス(さまよう者・放浪者)」・・・
 タロットなら
 「放浪者・フール(ばか・バカ・莫迦・破家・馬稼)・数字は0」、「fool・dumb・stupid・idiot・silly・foolish・trivial matter・folly・simpleton・a stupid person・a blockhead(白痴)・an idiot・a foolan idiot」
 ↓↑
 クレオパトラ7世フィロパトル
 (Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ
  Cleopatra VII Philopator
  紀元前69年~紀元前30年8月12日)
 に重なったのは・・・タンなるカンジたモジだけれど・・・
 ポンペイウス・・・本併(並・俾・埤・併・柄・炳・丙)碓・・・?
 カエサル(ユピテル・ジュピター・ゼウス・神・シーザー)・是碓?
 アントニウス(安敦・マルクス)・火星・案取似得素?
 ↓↑
 ・・・星+星=重星=ジュウセイ
       =重誓・重聲・銃声・獣性・柔整
        樹生・渋生・重正・拾世・十世
 ↓↑
 「星食」(eclipse)
 「掩蔽」(occultation)
 「通過」(transit)
 ↓↑
 1170年9月12日
 火星の木星面通過
 カンタベリーの
 修道士ジャーヴァス
 中国の天文学者が観測
 ↓↑
 1590年10月3日
 金星による火星の掩蔽
 ハイデルベルクで
 ミヒャエル・メストリン
 によって観測
 ↓↑
 マルクス(Marcus)
 古代ローマ人の個人名
 ローマの建国神話の
 軍神マルス・・・
 にちなんだ個人名
 ↓↑
 マールス(ラテン語:Mārs)
 ローマ神話における戦と農耕の神
 日本語で
 「マルス」 や「マーズ」と呼ばれる
 英語は
 「マーズ」(Mars)
 元の名は
 マーウォルス(マウォルス、Māvors)
 マーメルス(マメルス、Māmers)
 とも呼ばれた
 ギリシア神話の
 アレースと同一
 軍神として
 グラディーウゥス
(グラディウス、Gradīvus=進軍する者)
 という異称も・・・
 「アテナ=戦争に勝つための戦略や栄誉の神
  アレス=戦場での狂乱や破壊の神
  アプロディテの恋人
  ローマ神話で
  マルスはローマ建国の
  ロムルス
  と
  レムス
  の
  双子の父で
  軍神」
 ↓↑
 マーウォルス
 (マウォルス、Māvors)
 マーメルス(マメルス、Māmers)
 ↓↑
 アレース
 アーレース
 (ΑΡΗΣ、Arēs、Ἄρης, Ārēs)
 ギリシア神話の軍神
 ゼウスとヘーラーの子
 「城壁の破壊者」
 アレウス
 アーレウス
 (Ἄρευς、Areus)
 日本語で
 アレス
 ギリシアの蛮地
 トラーキアで崇拝
 聖獣はオオカミ(狼)=天照大神
    イノシシ(猪)=白猪神
 聖鳥は啄木鳥、雄鶏
        ↓↑
      ・・・鶏=「開皇二十年、倭王、
            姓は阿毎(あま)、
            字は多利思比孤
              阿輩雞弥
        隋書俀国伝=おおけみ=大検見?
           庭鳥=鶏=雞=鷄=二和鳥
      隋の開皇二十年(600年)=推古天皇六年
       ↓↑
      大業三年(607年)=推古天皇十五年
      倭国の使者・膸王朝・煬帝
       ↓↑
      『隋書』倭国伝
      589年
      隋、中国を統一
      高句麗と敵対
      隋は
      広開土王=國岡上
       ↓↑  廣開土
           境
           平安
           好太王
       ↓↑
     「文在寅(ムン・ジェイン・ぶんざいいん)
      1953年1月24日~
      韓国第十九代大統領
      壬辰(乙 癸 戊)印綬正財 冠帯
      癸丑(癸 辛 己)偏印偏財 衰
      乙亥(戊 甲 壬)  印綬 死
       申酉=空亡」
       ↓↑
     「好太王(374年~412年)
      高句麗、第十九代の王
      在位391年~412年)
      姓は高
      諱は談徳
      号は永楽大王
      故国壌王の息子
      386年
      立太子
      辛卯年(391年)
      王位に就く」
      などの
      周辺諸民族と
      同盟策をとったが
 ↓↑   ↓↑
      高句麗の
      乙支文徳・・・・・イッシブントク
     (ウイチムンドク)=壱 子文 解?
               音 詞聞 説?
      将軍
      と
      「撒水(サルス)の戦い」
      乙支文徳
      七戦七敗の末
      隋軍を翻弄し
      引き付けた
      乙支文徳
     「乙支文徳は
      石多(ソクダ)山の者で・・・石が多い?
      山に入り道を極め、悟りを開いた」
     「薩水大捷」
      隋の
      第二次高句麗遠征(612年)
      隋軍に偽りの降伏を申し入れ
      撤退を開始した隋軍に
      追い討ちをかけ大勝利
 ↓↑ ↓↑   ↓↑   ↓↑
   宇文述は
   煬帝より
   嬰陽王
   乙支文徳将軍の捕縛を命じられ
   文徳は隋軍に投降
   慰撫使の
   劉士龍が
   文徳を逃しまった
   文徳が自軍に戻り
   宇文述の追討軍を迎え撃った
   隋軍は兵糧が尽き疲弊
   隋軍は薩水(清川江)を越え
   平壌から30里ほどの山間に布陣
   平壌城の
   文徳は
   于仲文に降伏を表意する詩を書いて送り
   軍を撤収すれば
   嬰陽王を引き渡すと伝えた
   宇文述は停戦に応じ
   軍を退却
   そこへ
   文徳の軍が襲い
   薩水を渡ろうとしていた
   隋軍の背後を突き
   隋軍は
   右屯衛将軍の
   辛世雄
   が戦死
 ↓↑   ↓↑
   隋の将
   于仲文
   に与ふるの詩(停戦要請文)?
   『三国史記』巻44・「乙支文徳」伝
   神策究天文
   妙算窮地理
   戦勝功既高
   知足願云止
 ↓↑   ↓↑
      オリーブの木のオーナー制度
      Venus et Salus(サルウス)
 ↓↑   ↓↑
 アレス・・稗田阿礼
 阿禮州?
 ↓↑
 聖樹はトネリコ(梣・戸に塗る木
           ト-ニ-ヌル-キの転訛」
           イボタノキの蝋を
           ワックスに利用)
       イボタノキ(疣取木・水蝋樹)
    トネリコ(梣・Fraxinus japonica)
       キク亜綱-ゴマノハグサ目-モクセイ科
       の落葉樹
       木の皮を煮て得たニカワ(膠)を
       墨と共に練って写経に使った
       梣=木+山+今=トネリコ=舎人子
         十八纂の今現在・・・?
         十八史略
         南宋の曾先之が中国の子供向けに
         著作した歴史読本
         三皇五帝~南宋までの
         十八の正史を要約した編年体
 ↓↑
 アレスは 
 ポセイドーンの息子の1人
 ハリロティオースが
 アレースの娘
 アルキッペーを犯し
 激怒したアレースは
 ハリロティオースを撲殺
 ポセイドーンは激怒
 アレースを
 神々の裁判にかけることを主張
 以後
 重大事件の裁判が
 アレースの丘で行われるようになった
 ↓↑
 聖獣は狼、聖鳥はキツツキ(啄木鳥)
 マールスからは
 「マルクス・マルケッルス
  マリウス・マルティヌス」
 などのローマ人名が派生
 ヨーロッパ各語にアレンジされた
 ↓↑
 マメルティニ
 (羅: Mamertini、英: Mamertines)
 第一次ポエニ戦争時期
 シチリア島の一部を支配下においていた
 カンパニア人を中心とする傭兵集団
 「マメルティニ」の意味は
 「マルスの子たち」
 ↓↑
 星食
 月が星を隠す星食
 ↓↑
 掩蔽(えんぺい、occultation
 ある天体が
 観測者と他の天体の間を通過するため
 その天体が隠される現象
 掩蔽は近いほうの天体が大きく見え
 遠いほうの天体を
 完全に隠してしまう
ーーーーー
 藤原道長の息子
 藤原教通(のりみち)
 が目撃したモノ(『御堂関白記』)
 ↓↑
 長和四年(西暦1015年)七月八日
 ↓↑
 左衛門督
 (さえもんのかみ=藤原教通
         =藤原道長の5男)
 が云ったことには、
 「夜分、二星会合を見ました」と。
 「その有様は、
  二星が、各々、ゆっくりと行き合って、
  間が三丈ほどになりました。
  小星がそれぞれから出てきて、
  まず
  大星の許に到りました。
  小星が元に還った後に、
  二星が早く飛んで会合しました。
  後に雲が来て、
  会合している二星を覆いました」
 「この事は、昔の人びとは見ていた」
 という・・・・
ーーーーー
 アルタイル(Altair)=牽牛・鷲座=わしざ=和史差
 ベガ(ヴェガ・Vega)=織女・琴座=ことざ=言差
 ↓↑
 虎刺(ありどおし)
 虎杖(いたどり)
 虎掌(うらしまそう)
 虎魚(おこぜ)
 虎威(コイ)
 虎穴(コケツ)
 虎子(コジ)
 虎口(ココウ)
 虎視眈眈(コシタンタン)
 虎鬚(コシュ)
 虎嘯(コショウ)
 虎列剌(コレラ)
 虎狼の心(コロウのこころ)
 虎狼痢(コロリ)
 虎養患遺(コヨウカンイ)
 虎鶫(とらつぐみ)
 虎斑(とらふ)
 虎茄(はしりどころ)
 虎子(まる)
 虎落(もがり)
 虎落笛(もがりぶえ)
 虎耳草(ゆきのした)
 鯱(シャチ)
 虎河豚(トラフグ)
ーーーーー
 ・・・?・・・ブンのインのザイって?・・・
 トラはトラでも「寅・虎・禽」で、竹箒の「おトラさん」・・・
 「張子の虎」って・・・張政の子は虎子・・・壹・臺・・・
 諦めなって、か・・・
 位置と位地は諦めろって、壹與は卑弥呼に云っているらしい・・・?
 「Sorry=」
 「I'm sorry」・・・ sorry?・・・・・・子供の時からはニンゲンじゃぁない・・・
 ・・・ニンゲンになるのは難しい・・・
 「ふえ・笛・笙・管・龠・簘・簧・簫・鰾・籟・籥」ふき・・・

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カエてサルを重複だけれど・カエってカンジ・ワンサカ

2019-01-13 03:07:43 | 古事記字源

・・・「猿(さる・エン)の惑星」・・・・「変えサルの皇帝」・・・暮(呉)れた七夕(7月7日の夜)の「織姫と彦星」=「織女と牽牛」・・・「乞巧奠」・・・昏れた・・・「くれお=晩穂・呉夫・暮尾・紅麗音」?・・・「黄昏=たそがれ=誰彼」・・・
 織女(クレオパトラ7)と

 牽牛(ユリウス・カエサル=Caesar =Julius   Caesar)
    ガイウス・ユリウス・カエサル=ジュリアス・シーザー
   (Gaius   Iulius  Caesar)
    我意臼  百合碓  変猿
 クレ時のクレをハトラ・・・カエサルのはコヨミ・・・
 句例字 句例 葉寅    変え申   曆=古世見
 ↓↑      寅⇔冲⇔申・・・己・・・?
         寅(己・丙・甲)
             ↑・↑=冲⇔己
 ↓↑      申(己・壬・庚)
 グレゴリウス13世・・・・・繰例語理得素
 ↓↑        ・・・愚蓮石伏魚(懲)宇津(有珠・渦・碓)
           石伏魚(ごり)=淡水魚カジカの異名
                   鮴=魚+休
                   チチブ(知知夫)や
                   ヨシノボリ(葦登・芳昇)
 ↓↑                小形のハゼ(鯊)類の異名
 愚連誤理失素拾参の世
 紅蓮(紅煉)ゴリ押足蚕生・・・?
 ↓↑
 (Gregorius XIII)
 1502年1月7日~        1585年4月10日
 辛酉(庚 辛)偏印偏印  病⇔乙酉⇔  辛酉
 庚子(壬 癸)印綬比肩 建禄⇔庚辰⇔  辛丑
 癸卯(甲 乙)  食神 長生⇔壬午⇔  癸巳
 ↓↑
 辛酉
 辛丑
 癸巳(G1501/1/7)節入り前・・・?
 午未=空亡
 ↓↑
 第226代ローマ教皇
 (在位1572年~1585年)
 本名 ウーゴ・ブオンコンパーニ
    (Ugo  Buoncompagni)
 ユリウス暦
 1582年10月5日が
    10月15日に改められた・・・天正十年九月十九日
 ↓↑
 壬午(丙 己 丁)
 己酉(庚  辛)
 甲戌(辛 丁 戊)
 庚午(丙 己 丁)
 ↓↑
 グレゴリウス13世は
 天正遺欧少年の使節が
 1585年(天正十三年)三月十三日
 ローマのバチカン宮殿にて謁見したローマ教皇
ーーーーー

 織女と牽牛
 『文選』の
 漢の時代に編纂された
 「古詩十九首」が初出
 ↓↑
 『西京雑記』
 前漢の采女が
 七月七日に
 七針に糸を通す
 「乞巧奠」が記録
 ↓↑
 南北朝時代
 『荊楚歳時記』
 7月7日、牽牛と織姫が会合する夜と明記
 夜に婦人たちが
 7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し
 捧げ物を庭に並べ
 針仕事の上達を祈ったと記録
 7月7日
 乞巧奠(キコウデン)=織女・牽牛伝説
 ↓↑
 六朝・梁代
 殷芸(インウン)の
 『小説』に
 「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。
  年々に機を動かす労役につき、
  雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。
  天帝その独居を憐れみて、
  河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
  嫁してのち機織りを廃すれば、
  天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、
  一年一度会うことを許す
 (天河之東有織女 天帝之女也
  年年机杼勞役 織成云錦天衣
  天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎
  嫁後遂廢織紉
  天帝怒 責令歸河東
  許一年一度相會」
  『月令廣義』七月令にある逸文)
 ↓↑
 日本の「たなばた」
 奈良時代に伝わり
 元からあった
 日本の棚機津女(たなばたつめ)の
 伝説と合わさって生まれた・・・?
 ↓↑
 「たなばた」の語源
 『古事記』で
 「アメノワカヒコ」が死に
 「アヂスキタカヒコネ」が来た折に詠まれた歌
 「淤登多那婆多」(弟棚機)
 『日本書紀』の
 「葦原中国平定の1書第1」にある
 「乙登多奈婆多」
 また、お盆の精霊棚とその幡から「棚幡」
 『萬葉集』卷10春雜歌2080
 (「織女之 今夜相奈婆 如常
   明日乎阻而 年者将長」)
   たなばたの
   今夜あひなばつねのごと
   明日をへだてて
   年は長けむ」
 など七夕に纏わる歌が存在・・・
 ↓↑
 「牽牛織女の二星が
  耕作、蚕織をつかさどるため
  それらにちなんだ
  種物(たなつもの)
  機物(はたつもの)
  が
  たなばたの由来とする江戸期の文献
 ↓↑
 日本で
 雑令によって7月7日が節日
 相撲御覧(相撲節会)
 七夕の
 詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた
 後、
 平城天皇が
 7月7日に亡くなると
 826年(天長三年)
 相撲御覧が別の日に移され
 行事は分化し
 星合と乞巧奠が盛んになった
 ↓↑
 乞巧奠
 (き こうでん
  きっこうでん
  きっこうてん
  きぎょうでん)は
 乞巧祭会
 (きっこうさいえ)、乞巧
 7月7日の夜
 織女に対して手芸上達を願う祭
 古くは
 『荊楚歳時記』
 に見え
 唐の
 玄宗のときは盛んに行われた
 日本に伝わり
 宮中や貴族の家で行われ
 宮中では
 清涼殿の東の庭に敷いた
 むしろの上に机を4脚並べて果物などを供え
 ヒサギの葉1枚に
 金銀の針をそれぞれ
 7本刺して
 五色の糸をより合わせたもので
 針のあなを貫いた
 一晩中
 香をたき灯明を捧げて
 天皇は庭の倚子に出御して
 牽牛と織女が合うことを祈った
 『平家物語』に
 貴族の邸では願い事を
 カジ(梶)の葉に書いた
 二星会合(織女と牽牛が合う)
 詩歌・裁縫・染織などの
 技芸上達が願われた
 江戸時代
 手習い事の願掛けとして
 一般庶民にも広がった
 日本において
 機織りは
 成人女子が
 身につけておくべき
 技能であった訳ではない・・・???
ーーーーー
 ガイウス・ユリウス・カエサル・・・「カエサル」・・・
 (Gaius Iulius Caesar)
 紀元前100年~紀元前44年3月15日
 共和政ローマ期の政治家、軍人、文筆家
 「賽は投げられた(alea iacta est)」
 「来た、見た、勝った(veni, vidi, vici)」
 「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」
 出生 紀元前100年頃(紀元前102年とも)
 死没 紀元前44年3月15日
 ↓↑
 終身独裁官(ディクタトル)
 独裁官(ラテン語・dictātor=ディクタートル)
 国家の非常事態に1人だけ任命された
 任期は短期間(通常6ヶ月)
 ↓↑
 クレオパトラ7世
 フィロパトル
 (ギリシア語
  Κλεοπάτρα Ζ' Φιλοπάτωρ
  ラテン語
  Cleopatra VII Philopator)
 紀元前69年~紀元前30年8月12日
 古代エジプト
 プトレマイオス朝最後のファラオ(女王)
 クレオパトラ(父の栄光)7世
 アントニウスの死から
 約10日後に
 クレオパトラも自殺
 ↓↑
 紀元前47年
 カエサルの子
 カエサリオンを産んだ
 カエサリオン=プトレマイオス15世
 (Caesarion・Καισαρίων)
 オクタウィアヌスに殺害
 ↓↑
 異父弟妹
 アレクサンドロス・ヘリオス
 クレオパトラ・セレネ
 プトレマイオス・フィラデルフォス
 ↓↑
 クレオパトラ・セレネ(アントニウスとの娘)は
 女王クレオパトラ7世と
 マルクス・アントニウスの
 双子の一人
 双子のもう一人は男子で
 アレクサンドロス・ヘリオス
 と名付けられた
 セレネは
 マウレタニア王
 ユバ2世と結婚
 ↓↑
 マルクス・アントニウス・アンテュッルス
 (Marcus Antonius Antyllus)は
 オクタウィアヌスに殺害
 アレクサンデル・ヘリオス
 プトレマイオス・フィラデルフォスは
 アントニウスの死から数年も立たない内に病死
 ↓↑
 フルウィア
 フルウィア (マルクス・アントニウスの妻)
 プブリウス・クロディウス・プルケル、
 次いで
 ガイウス・スクリボニウス・クリオ
 と結婚し、最後に
 マルクス・アントニウス
 の3番目の妻
 ↓↑
 との次男
 ユッルス・アントニウスは
 アウグストゥスの
 義理の甥として重用され
 執政官
 アジア属州総督
 アウグストゥスの娘
 ユリアとの密通により自死
 ↓↑
 カリグラ
 クラウディウス
 ネロ
 などは
 アントニウスの血筋
 ↓↑
 カエサル・・・シーザー
ーーー↓↑ーー
   猿田彦・・・猿目・沙流目・申目・猿女
 ↓↑↓↑    国譲り・国津神・熱田神宮?
 猿(さる・サル)
  (尾のあるもの)
 ↓↑
 英    語 マンキー monkey
 英    語 モンキー monkey
        エイプ  ape
        シミァン simian
 独    語 アッフェ Affe
 蘭    語 アープ  AAP
 仏    語 サンジュ singe
 伊    語 シンミア scimmia
 西    語 モーノ  mono
 西    語 モノ   mono
        モナ   mona
 葡萄牙  語 マカーコ
 羅    語 シーミウスsimius
 希    語 ピテーコスπιθηκος
        マイムー μαϊμού
             maimou
 露    語 アビズィヤーナ обезьяна 
 中    語 ホウツ  猴子
 中    語 ボウズ  猴子
 スワヒリ 語 キマ   kima
 スワヒリ 語 トゥムビリ tumbili
        (サバンナモンキー)
 ヒンディー語 バンダル बंदर
 ↓↑
 ヘブライ 語 コフ   קוף
ーーーーー
 『荘子』・・・「斉物論」・・・「朝三暮四」・・・趙纂模史?・・・
 ・・・「斉(ひと・齊)しい」・・・「すべての物は斉しい」・・・
 ・・・「胡蝶の夢」・・・
 「斉物論(セイブツロン)」
ーーーーー
 ・・・by wikipedia.org/wiki/・・・
 ・・・「カエ」て「サル」を重複だけれど・・・「カエ」ってカンジ・・・ワンサカ・・・

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猿田彦・猿目・沙流目・申目・猿女・国譲り・国津神・熱田神宮?

2019-01-11 22:22:59 | 古事記字源

 「対象物」の音声化と文字化・・・「音声と文字」のイメージ化・・・人間って?・・・緒形?・・・
 「鷽」の泣き声は「細く、悲しげな調子」らしい・・・

ーーーーー
 シオニズム?
 (Zionism)・・・Zi-on-ism・・・Zi-o-ni-sm
  ・・・鹽(塩・しお・しほ)煮事務?
      ・・・ジ-オン-イズム・・・ジ-オ-二-ズム・・・
      ・・・ジ-オン-イズミ・・・ジ-オ-二-ズミ・・・
            ↓↑    ↓↑    ↓↑
        「マミムメモ=真実無目漏=まみむめも」
     字音  出夢・伊豆務・井津務・出武?
         和泉・出水・五三・伊澄・和?
         小泉八雲?
ーーーーー
 「アラバの海(塩の海)」=「東の海」
 「ヤム・ハメラハ(ים המלח)」…海=ים(イャム)
  ヘブライ語
 ↓↑
 「アルバフル・ル・マイイトゥ(البحر الميت)」
  アラビア語
 ↓↑
 「Dead Sea」
 ↓↑
 塩(しお)
 ヘブライ  語 メラフ מלח
 ヘブライ  語 メラハ מלח
 ペルシャ  語 ナマク نمک
 希     語 ハルス αλς
 ↓↑
 スウェーデン語 サルト salt
 カタルーニャ語 サル  sal
 アイスランド語 サルトゥsalt
 ポーランド 語 スル  sól
 アイルランド語 サラン salann
 ハンガリー 語 ショー Só
 チェコ   語 スール sůl
 エストニア 語 ソール sool
 スロヴァキア語 ソリ soľ
 エスペラント語 サーロ salo
 ルーマニア 語 サーレ sare
 ↓↑
 英     語 ソールトsalt
 独     語 ザルツ Salz
 仏     語 セル  sel
 伊     語 サーレ sale
 西     語 サル  sal
 羅     語 サール sal
 露     語 ソーリ соль
 蘭     語 ザウト ZOUT
 ↓↑
 タミル   語 ウップ
 マレー   語 ガラム garam
 ベンガル  語 ボロン লবণ
 リトアニア 語 ドゥルスカ druska
 ↓↑
 ヒンディー 語 ナマク नमक
 インドネシア語 ガラム garam
 モンゴル  語 ダヴス Давс
 スワヒリ  語 チュンヴィ chumbi
 エスペラント語 サーロ salo
 ディヴェヒ 語 ロヌ ލޮނު
 (モルディブ)
ーーーーー
 猿田彦・・・猿目・沙流目・申目・猿女
       国譲り・国津神・熱田神宮?
 ↓↑
 猿(さる・サル)
  (尾のあるもの)
 ↓↑
 英    語 マンキー monkey
 英    語 モンキー monkey
        エイプ  ape
        シミァン simian
 独    語 アッフェ Affe
 蘭    語 アープ  AAP
 仏    語 サンジュ singe
 伊    語 シンミア scimmia
 西    語 モーノ  mono
 西    語 モノ   mono
        モナ   mona
 葡萄牙  語 マカーコ
 羅    語 シーミウスsimius
 希    語 ピテーコスπιθηκος
        マイムー μαϊμού
             maimou
 露    語 アビズィヤーナ обезьяна 
 中    語 ホウツ  猴子
 中    語 ボウズ  猴子
 スワヒリ 語 キマ   kima
 スワヒリ 語 トゥムビリ tumbili
        (サバンナモンキー)
 ヒンディー語 バンダル बंदर
 ↓↑
 ヘブライ 語 コフ   קוף
ーーーーー
 『荘子』・・・「斉物論」・・・「朝三暮四」・・・趙纂模史?・・・
 ・・・「斉(ひと・齊)しい」・・・「すべての物は斉しい」・・・
 ・・・「胡蝶の夢」・・・
 「斉物論(セイブツロン)」
  現行本は西晋の
  郭象が52篇本の・・・・・・・・「郭象」⇔「郭務悰」?
  雑駁な部分を削って
  33篇(内篇7,外篇15,雑篇11)・・・雑篇「十一・拾壱・足壱」
  に整理
 「33篇のうちでは内篇7篇が最も古く
  とくに〈逍遥遊篇〉〈斉物論篇〉
  の2篇は荘周本人の思想の精髄を伝える」
     「現実世界の根源にあって
      それを
      支えている〈道〉の絶対性のもとでは
      現実世界における
      万物の多様性や価値観の相違などの
      あらゆる差別相が止揚されて
      意味をもたなくなる・・・
      道の在り方に目覚め道と一体となることによって
      個が個としての価値を完全に回復し
      何ものにもとらわれない
      境地に到達できるという論(麦谷 邦夫)」・・・?
 ↓↑
 猿・さる・まし・ましら・エン
 猿猴・エンコウ
 沐猴・モッコウ
 狙猴・ソコウ
 得手・えて
 猿公・得手公・えてこう
 得手吉・えてきち
 貜父・猩猩・狒狒・蜼・猱蝯
 貜・玃・猴・狙・獨・狨・果然(猓然)・禺(寓)
ーーーーー
 サルトル=猿捕る・申取る
 ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル
 (Jean-Paul Charles Aymard Sartre)
 1905年6月21日~      1980年4月15日
 乙巳(戊庚丙)偏財正官 死⇔庚申
 壬午(丙 丁)傷官偏印 病⇔庚辰
 辛卯(甲 乙)  偏財 絶⇔戊午
  午未=空亡
 ↓↑
 シモーヌ・ド・ボーヴォワール
  (Simone de Beauvoir)
 1908年1月9日~          1986年4月14日
 丁未(丁乙己)偏財偏財  墓⇔丙寅
 癸丑(癸辛己)比肩比肩 冠帯⇔壬辰
 癸亥(戊甲壬)  正官 帝旺⇔戊子
  戌亥=空亡
ーーーーー
 ・・・
 シオン運動
 シオン主義
 イスラエルの地(パレスチナ)に故郷を再建
 ユダヤ教
 ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化の
 復興運動
 「シオン」=エルサレム市街の丘の名前
       ザイオン
 ナータン・ビルンバウムにより
 ↓↑
 ドレフュス事件
 オーストリア人記者
 テオドール・ヘルツルは
 ユダヤ人自ら国家を建設を訴え
 1897年
 バーゼルで第1回シオニスト会議を主宰
 ヘルツルは建国の父
 1917年
 バルフォア宣言
 イギリス外相が
 「パレスチナにおける
  ユダヤ人居住地の建設とその支援」
 を約束
 1947年
 国連によるパレスチナ分割決議
 1948年
 イスラエルが建国・・・
ーーーーー
 栂牟礼城(とがむれじょう)
 大分県
 佐伯市
 弥生(旧-南-海部郡-弥生町)
    ・・・海部郡=あまグン=尼軍(群・むれ・牟礼)
 大字
 井崎上小倉にあった山城
 明治二十七(1894)年
 国木田独歩が訪問し
 「源叔父」と「春の鳥」を著作・・・?
 大永年間(1521年~1528年)
 佐伯氏
 第十代の
 佐伯惟治によって
 栂牟礼山に築かれた
 栂牟礼城は
 豊後
 大神氏の一族、・・・大神⇔おおみ神=大御神⇔天照大神
 佐伯氏の居城
 「上犬塚(緒方町)・・・上(かみ)の
             犬(いぬ)の
             塚(づか)=緒(糸の者)の方
  があり
  大分県内に
  熊-牟礼(禮)山、猪-牟礼(禮)山、角-牟礼(禮)山
  栂-牟礼(禮)山、花-牟礼(禮)山
  などの山名…」・・・無礼(禮)or無頼or村井(邑井)or武令?
         無礼=牟礼=群
 ・・・栂(とが)の牟礼(むれ)・・・群⇔牟礼(禮)?
 ↓↑
 栂=木+母
 ↓↑ツガ(栂、学名:Tsuga sieboldii)
   マツ科ツガ属に分類される常緑性の針葉樹
   別名を「トガ」という
   かつて「咎人」の磔刑に使った木
    ・・・キリストを「磔りつけた木」+母⇔聖母マリア?
   牟=厶+牛
     通仮字「貿」
      ・・・貿(あきなう)=貿易=モノを交換して替える
     貿の異体字「贸・𥆆・𧴵・𧵍・𧵲・𧶝・𧶻・𡭌」
     牟の異体字「?・𢃷・眸・𠫚」
 ↓↑  ↓↑
     哞=口+厶+牛=なく(鳴・啼・哭・泣)
     哞=牛の鳴き声
     むさぼる・ボウ・ム
     奪う・かぶと・鉾(ほこ)
     牟尼=サンスクリット語 muniの音写
        聖者・釈迦・仙人・修行者・隠棲者
       「沈黙を守る人」?・・・尼(あま)が貪る?
     大永七年
     栂牟礼城(とがむれじょう)の戦い
     大友義鑑は
     佐伯惟治が逆心ありとし
     討伐軍
     臼杵近江守長景を派軍
     佐伯惟治は
     栂牟礼城に籠城したが
     水路を断たれたが
     兵粮米を水と見せかけ
     馬を洗う作戦で敵を欺いた・・・
     後、大永七年七月二十五日
     城を落ちて逃亡したが殺された・・・
 ↓↑
 なじむ=相手と親密な関係を築くこと親しく接する
     親しくつきあう・親しくする・心安くする
     仲良くする・親しむ・打ち解ける・解け合う
     慣れる=なれる=名例留?
         ・・・「成・生・馴・熟・狎・鳴」れる
     馴染む=なじむ=名字務?
         ・・・ナジミ
         なれる・ならす・よい・おしえ
         ジュン・ シュン・クン
         なつく・馴化・馴致
         おとなしい・従順な・すなお・よい
         馴雅・馴行
         おしえ・おしえる
         馴化⇔訓練⇔釧路・・・・・馴=馬+川
                 ・・・・・釧=金+川
         訓練(トレーニング)・・・訓=言+川
         実際に、何らかのことを行って習熟させること
         一定の目標に到達させるための実践的な教育活動
         動物に何らかの学習をおこなわせるための
         系統的な方法・企業では研修
         ・・・嚌=口+齊=なめる・嘗・甞・舐
            異体字「𠴧・𠻎・𡄡・哜」
           「周󠄀書曰、太保受同祭嚌」
           「班彪、北征賦、鵾鷄鳴以嚌嚌」
           「太玄經、樂、管絃嚌嚌。
                 (注)嚌嚌、憂悲也」
           「集韻、嚌、嚌啀、笑皃」
                斉・斎・齋・・・済・臍
              臥薪嘗胆
 I hope you get use to your new environment.
  (環境に馴染めば…)
 I hope you feel comfortable
   in your new environment.
  (環境に馴染むとイイけれど)
 I hope
   your new environment will feel like home.
 メイク ユア セルフ アット ホーム
   make yourself at home
 ↓↑
 馴染む=变得熟悉・融合
ーーーーー
 ・・・???・・・
 ウソ(鷽)が鳴く声は森林に実存するのか・・・?
 「ウソ(鷽・Pyrrhula pyrrhula Linnaeus)
  スズメ目アトリ科ウソ属
  鳥類の一種
  和名の由来は
  口笛を意味する古語「うそ」から来ており
  ヒーホーと口笛のような
  鳴き声を発することから名付けられた」・・・
 「鷽替え(うそかえ)
  菅原道真を祭神とする神社(天満宮)
  において行われる特殊神事
  鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じ
  前年にあった災厄・凶事などを嘘とし
  本年は吉となることを
  祈念して行われる」・・・
 ・・・気持ちはワカるが・・・
 鷽の泣き声が「細く、悲しげな調子」らしい・・・

コメント
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宇宙の龍寓城にオトヒメさまは・・・いるの?

2019-01-09 19:18:25 | 古事記字源

 本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体・探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASAの無人探査機が、撮影ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・
 ↓↑
 ・・・教育番組・・・
 田中 久重(たなか ひさしげ)
 寛政十一年九月十八日
 (1799年10月16日)
  ~
 明治十四年
 (1881年11月7日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳
 甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌
 癸酉(庚     辛)       印綬 病⇔乙巳
   戌亥=空亡
 ↓↑
 発明家
 「東洋のエジソン」・・・
 ↓↑  トーマス・アルバ・エジソン
    (Thomas Alva Edison,
     トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?
      ↓↑
     1847年2月11日        ~1931年10月18日)
     丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未
     壬寅(戊 丙 甲)正官傷官    死⇔戊戌
     丁丑(癸 辛 己)  偏官    墓⇔丙午
      申酉=空亡
 ↓↑
 「からくり儀右衛門」
 と呼ばれた
 芝浦製作所(東芝の重電部門)の創業者
ーー↓↑ーー
 筑後国
 久留米(福岡県-久留米市)の
 鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?
 田中弥右衛門の長男
 幼名は
 儀右衛門
 嘉永六年(1853年)
 佐野常民・・・・常の民
 の薦めで
 蘭学狂いの
 鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)
        金+咼(冎+口)     縞(糸+高)・志麻
        咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ) 
          「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」
          簡体字「呙」
          異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ
          咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩
          窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ
            腋窩(エキカ・エキワ)
            眼窩(ガンカ・ガンワ)
            蜂窩(ホウカ)
            窩主(けいず)買い=盗品と知りながら
            売買すること・その商人
            故買(コバイ)・系図買い
        直(すぐ・ただち)正(ただせ)

 が治める
 肥前国
 佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上
 精煉方に着任
 日本初の
 蒸気機関車
 蒸気船の模型を製造
 反射炉の設計
 大砲製造
 元治元年(1864年)
 佐賀から久留米に帰り
 久留米藩の
 軍艦購入
 銃砲の鋳造に携わった
 ↓↑
 跡部 良弼
 (あとべ よしすけ)
 寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)
 ~
 明治元年十二月二十日(1869年2月1日)
 ↓↑
 己未(丁 乙 己)傷官印綬  衰⇔戊辰
 乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印  絶⇔乙丑
 丙午(丙   丁)  劫財 帝旺⇔癸亥
  寅卯=空亡
 ↓↑
 旗本、幕臣
 肥前
 唐津藩主
 水野忠光
 の六男・・・666
 老中
 水野忠邦の実弟
 通称は季十郎・大膳
 官位は従五位下
 山城守、信濃守、能登守
 甲斐守、伊賀守、遠江守
 に遷任した
 ↓↑
 大塩の乱
 (天保八年二月十九日・1837年3月25日)で
 責任を問われることはなく
 後は
 大目付を経て
 勘定奉行に栄進
 勘定奉行在任中の
 天保十三年(1842年)
 翌年に予定された
 十二代将軍
 徳川家慶の
 日光東照宮
 謝参準備のため日光に赴く途中
 下総
 古河の宿場本陣に宿を取ったが
 幕府の威光を盾(傘)に
 参勤交代で
 既に同宿場の本陣に入っていた
 陸奥
 仙台藩主
 伊達慶邦
 を強制的に退去させ
 後日
 伊達侯から幕府に強硬な抗議
 ↓↑
 天保の改革
 (1830年~1843年)
 天保九年
 農村復興を目的とした
 人返令
 奢侈禁止を諮問
 天保十二年
 (1841年)
 大御所
 十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?
 徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?
 が死去
 ↓↑
 五月十五日
 十二代将軍
 徳川家慶は
 享保・寛政の改革の趣意に基づく
 幕政改革の上意
 水野は幕府各所に
 綱紀粛正と奢侈禁止を命じた
 ↓↑
 水野 忠邦(於莵五郎)の側近
 寛政六年六月二十三日
 (1794年7月19日)
 ~
 嘉永四年二月十日
 (1851年3月12日)
 甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印 長生⇔辛亥
 辛未(丁 乙 己)傷官劫財  衰⇔辛卯
 戊寅(戊 丙 甲)  偏印 長生⇔丁卯
  申酉=空亡
 ↓↑
 鳥居 耀蔵が町奉行
 寛政八年十一月二十四日
 (1796年12月22日)
 ~
 明治六年
 (1873年10月3日)
 丙辰(乙 癸 戊)傷官正財    冠帯⇔癸酉
 庚子(壬  癸)正官偏印  病⇔辛酉
 乙丑(癸 辛 己)  偏財   衰⇔戊子
  戌亥=空亡
 ↓↑
 徳川家斉の側近
 別名 忠耀(諱)・胖庵(号)
 蝮の耀蔵、妖怪(渾名)
   ・・・天保十四年閏九月十四日
      水野は老中職を罷免されて失脚
      諸改革は中止
 ↓↑
 跡部 良弼は
 兄の
 水野忠邦が失脚後も
 政治的命脈を保ち続け
 兄が重用した
 鳥居耀蔵と
 そりが合わず
 個人的に
 鳥居と敵対していたために
 失脚は免れた・・・?
 ↓↑
 氐宿(テイシュウ・テイシュク)
    ともぼし
    二十八宿の一
    東方青龍七宿の第三宿
    距星はてんびん座α星
    星官(星座)の氐は
    天秤(てんびん)座
    α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成
    氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足
 ↓↑
 氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)
   氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
 ・・・氏の一(はじめ)?
 氐族=中国の民族の一・チベット系
    氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?
 氏(シ)=薄い刃物?
      祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏
                     氏=ノ+𠄌+弋(一乀)
      同一血族の系統
 氐=氏+一
   人が身をかがめて地面に手を触れること?
   平伏している様・・・?
 氒=氏+十=ね・ケツ・カチ
   ・・・氏の十族?
  =橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?
   厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく
     厥角・屈
     ・・・「蕨=わらび・和良比」なら
         薇(ぜんまい)・・・
         発条(ぜんまい)で
         巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)
        「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.
     中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」
     石を発掘する・ほる・つくす
     つきる(素問・陰陽離合論)
     陰根厥き、火敦起きる
     病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)
     足凝り
     くぼみ(窪)にひっかかる
ーーーーー
 ↓↑
 緒方 洪庵
 文化七年七月十四日
 (1810年8月13日)
  ~
 文久三年六月十日
 (1863年7月25日)
 足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)
 医師、蘭学者
 大坂に適塾(大阪大学)を開校
 天然痘・・・天然=自然
 治療に貢献
 幼名は騂之助(せいのすけ)
 諱は惟章(これあき)・章(あきら)
 字は公裁
 号を洪庵・適々斎・華陰
 弟子から
 「メース(オランダ語meester=先生」
 と呼ばれた
 ↓↑
 豊後国の豪族
 豊後
 佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工
            伯=人+白・・・新羅系渡来人
 の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師・空海・眞魚
              蝦夷族の監督官?
 備中
 佐伯氏
 の一族
 備中国
 足守藩(岡山市北部)士・・・足(たり)の守?
 佐伯惟因
 (瀬左衛門)の三男
 母は
 石原光詮
 の娘・「きょう」
 備中
 佐伯氏は
 佐伯惟寛
 (惟定の弟)
 ↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛
 ↓↑   子=惟重、女子(藤堂元則室)
      佐伯惟定(さえき これさだ)
      安土桃山時代~江戸時代前期
      戦国武将
      豊後-佐伯氏-第十四代当主
      豊後国-海部郡
      栂牟礼城主
 ↓↑    津藩重臣
      豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔
      佐伯惟教は
      大友宗麟の武将で
     「耳川合戦」で討死・・・耳の川・・・字選合選?
      嫡子の佐伯惟定は
      島津軍から
      栂牟礼城(とがむれじょう)を死守し・・・木母厶牛礼

          大分県佐伯市弥生(旧南海部郡弥生町)大字井崎上小倉

      豊臣秀吉から感状を下された
      大友義統が
      朝鮮役の
      敵前逃亡で
      改易され
      佐伯惟定も領地を失い
 ↓↑    藤堂高虎の客将となった・・・
 の末裔・・・
 八歳のとき
 天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念
 ↓↑
 文政八年(1825年)二月五日
 元服し
 田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章
            田齋・田齊の文章・・・?
 十月         惟神道=カンナガラのミチ
 大坂蔵屋敷
 留守居役となった父と共に大坂に出る
 ↓↑
 文政九年(1826年)七月
 中天游の私塾
 「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?
 に入門
 緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)
 以後は
 緒方を名字とする?・・・名字の選択の根拠はナニ?・緒方さん
 四年間、蘭学、特に医学を学ぶ
 ↓↑
 天保二年(1831年)
 江戸へ出て
 坪井信道に学び
 宇田川玄真にも学んだ
 ↓↑
 天保七年(1836年)
 長崎へ遊学し
 オランダ人医師
 ニーマン
 のもとで医学を学ぶ
 緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織
 と号した・・・
 ↓↑
 天保九年(1838年)春
 大坂に帰り
 瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業
 同時に
 蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く
 天游門下の先輩
 億川百記
 の娘・八重と結婚
 のち六男七女をもうける
 ↓↑
 弘化二年(1845年)
 過書町(大阪市中央区北浜三丁目)
 の商家を購入し
 適塾を移転
 ↓↑
 嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)
 6日前に
 京に赴き
 佐賀藩が輸入した種痘を得
 古手町(大阪市中央区道修町)に
 「除痘館」を開き
 牛痘種痘法
 による切痘を始める
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 嘉永三年(1850年)
 足守藩の要請で
 「足守除痘館」を開き切痘を施した
 関東から九州までの
 186箇所の分苗所を維持し治療
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 安政五年四月二十四日(1858年6月5日)
 洪庵の天然痘予防の活動を
 幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
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 文久二年(1862年)
 幕府の要請で
 奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕
 歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け
 手塚良仙
 ら七名を推薦
 十二月二十六日
 「法眼」に叙
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 文久三年六月十一日(1863年7月25日)
 江戸の医学所頭取役宅で喀血、窒息で死去
 享年五十四
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 明治四十二年(1909年)6月8日
 贈従四位
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 適塾
 福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎
 長与専斎、佐野常民、高松凌雲
 などを輩出
 病理学書
 『病学通論』を著作
 安政五年(1858年)
 コレラ(虎列剌)
    ・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い
           死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)
 流行で
 『虎狼痢治準』
 と題した治療手引き書を出版
 息子たちにはまず漢学を学ばせた
 万延元年(1860年)
 門人の
 箕作秋坪
 から
 英蘭辞書二冊を購入
 英語学習を開始
 福澤諭吉が適塾に入塾し
 腸チフスを患った時
 中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を
 診察、看病し治癒
 洪庵は
 西洋医学の治療と同時に
 漢方処方をした
 江戸で
 将軍
 徳川家茂の侍医
 洪庵は
 護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持
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 妻の八重の甥は
 紙幣製造に貢献した化学者の
 岸本一郎(1849~1878)・・・岸本一郎?
 岸本は緒方宅で育ち
 幕府派遣の
 英国留学生に選抜
 日本の最初期の化学留学生とし
 ロンドン留学
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 華岡青洲一派の
 漢方塾
 合水堂とは塾生同士の対立
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 次男の
 緒方惟準(これよし)
 慶応元年(1865年)
 幕府の命令でオランダ留学
 明治元年(1868年)に帰国
 京都の典薬寮の医師となり
 明治天皇の侍医
 明治二年(1869年)
 大坂に設立された
 浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長
 オランダの軍医
 ボードイン
 らとともに病院の運営
 明治四年(1871年)
 陸軍軍医
 明治十八年(1885年)
 陸軍軍医学会長兼近衛軍医長
 脚気の予防策に
 麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立
 明治二十年四月
 陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設
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 第十子の
 惟直はフランス語を学び
 1873年
 ウィーン万博で通訳
 1875年
 イタリアの
 トリノ・・・トリの・・・
 で日本語教師
 翌年当地の女性と結婚
 長女
 エウジェニア-豊
 が生まれる
 1878年
 25歳で死去
 孫の
 緒方知三郎
 緒方章
 はそれぞれ病理学者と薬学者である
 曾孫の
 緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・
ーーーーー
 ・・・フゥ~ぅ~ン・・・
 緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・

コメント
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