本日、1/8のニュース・・・「史上最遠の天体の接近撮影に成功・雪だるま形・太陽から65億キロの史上最も遠い天体・探査機ニューホライズンズが撮影・@NatGeoMagJP・NASAの無人探査機が、撮影ナショジオ」・・・いか、ナンカ、関連があるのかな・・・
↓↑
・・・教育番組・・・
田中 久重(たなか ひさしげ)
寛政十一年九月十八日
(1799年10月16日)
~
明治十四年
(1881年11月7日)
↓↑
己未(丁 乙 己) 偏官偏財 墓⇔辛巳
甲戌(辛 丁 戊) 傷官偏印 衰⇔戊戌
癸酉(庚 辛) 印綬 病⇔乙巳
戌亥=空亡
↓↑
発明家
「東洋のエジソン」・・・
↓↑ トーマス・アルバ・エジソン
(Thomas Alva Edison,
トマス・アルヴァ・エディスン…富増・蛙留話鴉・重字寸?
↓↑
1847年2月11日 ~1931年10月18日)
丁未(丁 乙 己)比肩比肩 冠帯⇔辛未
壬寅(戊 丙 甲)正官傷官 死⇔戊戌
丁丑(癸 辛 己) 偏官 墓⇔丙午
申酉=空亡
↓↑
「からくり儀右衛門」
と呼ばれた
芝浦製作所(東芝の重電部門)の創業者
ーー↓↑ーー
筑後国
久留米(福岡県-久留米市)の
鼈甲細工師・・・鼈甲=「べっこう=別項・別稿」細工の詞?
田中弥右衛門の長男
幼名は
儀右衛門
嘉永六年(1853年)
佐野常民・・・・常の民
の薦めで
蘭学狂いの
鍋島直正・・・鍋(なべ・名部)の揣摩(しま)
金+咼(冎+口) 縞(糸+高)・志麻
咼(よこしま・くちがゆがむ・カ・カイ)
「冎=字形に穴にはまりこむ関節の骨」
簡体字「呙」
異体字「剮・和・喎」・・・和?・・・なごむ
咼、渦、過、鍋、禍、堝、蝸、窩
窩=あな・あなぐら・カ(クヮ)・ワ
腋窩(エキカ・エキワ)
眼窩(ガンカ・ガンワ)
蜂窩(ホウカ)
窩主(けいず)買い=盗品と知りながら
売買すること・その商人
故買(コバイ)・系図買い
直(すぐ・ただち)正(ただせ)
が治める
肥前国
佐賀藩の・・・嵯峨・性・差雅・・・相模・佐上
精煉方に着任
日本初の
蒸気機関車
蒸気船の模型を製造
反射炉の設計
大砲製造
元治元年(1864年)
佐賀から久留米に帰り
久留米藩の
軍艦購入
銃砲の鋳造に携わった
↓↑
跡部 良弼
(あとべ よしすけ)
寛政十一年十月二十一日(1799年11月18日)
~
明治元年十二月二十日(1869年2月1日)
↓↑
己未(丁 乙 己)傷官印綬 衰⇔戊辰
乙亥(戊 甲 壬)印綬偏印 絶⇔乙丑
丙午(丙 丁) 劫財 帝旺⇔癸亥
寅卯=空亡
↓↑
旗本、幕臣
肥前
唐津藩主
水野忠光
の六男・・・666
老中
水野忠邦の実弟
通称は季十郎・大膳
官位は従五位下
山城守、信濃守、能登守
甲斐守、伊賀守、遠江守
に遷任した
↓↑
大塩の乱
(天保八年二月十九日・1837年3月25日)で
責任を問われることはなく
後は
大目付を経て
勘定奉行に栄進
勘定奉行在任中の
天保十三年(1842年)
翌年に予定された
十二代将軍
徳川家慶の
日光東照宮
謝参準備のため日光に赴く途中
下総
古河の宿場本陣に宿を取ったが
幕府の威光を盾(傘)に
参勤交代で
既に同宿場の本陣に入っていた
陸奥
仙台藩主
伊達慶邦
を強制的に退去させ
後日
伊達侯から幕府に強硬な抗議
↓↑
天保の改革
(1830年~1843年)
天保九年
農村復興を目的とした
人返令
奢侈禁止を諮問
天保十二年
(1841年)
大御所
十一代将軍・・・11・十一・拾壱・足壱?
徳川家斉・・・家の斉(齊・斎・齋)?
が死去
↓↑
五月十五日
十二代将軍
徳川家慶は
享保・寛政の改革の趣意に基づく
幕政改革の上意
水野は幕府各所に
綱紀粛正と奢侈禁止を命じた
↓↑
水野 忠邦(於莵五郎)の側近
寛政六年六月二十三日
(1794年7月19日)
~
嘉永四年二月十日
(1851年3月12日)
甲寅(戊 丙 甲)偏官偏印 長生⇔辛亥
辛未(丁 乙 己)傷官劫財 衰⇔辛卯
戊寅(戊 丙 甲) 偏印 長生⇔丁卯
申酉=空亡
↓↑
鳥居 耀蔵が町奉行
寛政八年十一月二十四日
(1796年12月22日)
~
明治六年
(1873年10月3日)
丙辰(乙 癸 戊)傷官正財 冠帯⇔癸酉
庚子(壬 癸)正官偏印 病⇔辛酉
乙丑(癸 辛 己) 偏財 衰⇔戊子
戌亥=空亡
↓↑
徳川家斉の側近
別名 忠耀(諱)・胖庵(号)
蝮の耀蔵、妖怪(渾名)
・・・天保十四年閏九月十四日
水野は老中職を罷免されて失脚
諸改革は中止
↓↑
跡部 良弼は
兄の
水野忠邦が失脚後も
政治的命脈を保ち続け
兄が重用した
鳥居耀蔵と
そりが合わず
個人的に
鳥居と敵対していたために
失脚は免れた・・・?
↓↑
氐宿(テイシュウ・テイシュク)
ともぼし
二十八宿の一
東方青龍七宿の第三宿
距星はてんびん座α星
星官(星座)の氐は
天秤(てんびん)座
α星、ι星、γ星、β星の4つの星で構成
氐=Root=天の根・青龍の胸及び前足
↓↑
氐=氏(人が前にかがまる)+一(下の面)
氏+一
人が身をかがめて地面に手を触れること?
・・・氏の一(はじめ)?
氐族=中国の民族の一・チベット系
氐・低・底・抵・邸・岻・砥⇔氐=土台・基礎?
氏(シ)=薄い刃物?
祖先を同じくする同族集団・・・氏⇔民=冖+氏
氏=ノ+𠄌+弋(一乀)
同一血族の系統
氐=氏+一
人が身をかがめて地面に手を触れること?
平伏している様・・・?
氒=氏+十=ね・ケツ・カチ
・・・氏の十族?
=橛(杭)・・・棒状の歩行用のステッキ・・・?
厥=その・それ・まがる・まげる・ぬかずく
厥角・屈
・・・「蕨=わらび・和良比」なら
薇(ぜんまい)・・・
発条(ぜんまい)で
巻貝・ヤドカリの貝・蝸牛(かたつむり)
「蝦=海老=えび=蛯は国字」・・・蝦夷.
中国北方の異民族の名「突厥(トッケツ・トックツ)」
石を発掘する・ほる・つくす
つきる(素問・陰陽離合論)
陰根厥き、火敦起きる
病名。のぼせ(素問・六節蔵象論)
足凝り
くぼみ(窪)にひっかかる
ーーーーー
↓↑
緒方 洪庵
文化七年七月十四日
(1810年8月13日)
~
文久三年六月十日
(1863年7月25日)
足守藩士・・・足(たり)の守(かみ)の藩(ハン)の士(シ)
医師、蘭学者
大坂に適塾(大阪大学)を開校
天然痘・・・天然=自然
治療に貢献
幼名は騂之助(せいのすけ)
諱は惟章(これあき)・章(あきら)
字は公裁
号を洪庵・適々斎・華陰
弟子から
「メース(オランダ語meester=先生」
と呼ばれた
↓↑
豊後国の豪族
豊後
佐伯(さえき)氏・・・佐=人+ナ+工
伯=人+白・・・新羅系渡来人
の流れをくむ・・・佐伯氏=弘法大師・空海・眞魚
蝦夷族の監督官?
備中
佐伯氏
の一族
備中国
足守藩(岡山市北部)士・・・足(たり)の守?
佐伯惟因
(瀬左衛門)の三男
母は
石原光詮
の娘・「きょう」
備中
佐伯氏は
佐伯惟寛
(惟定の弟)
↓↑・・・兄弟=緒方惟照、惟定、惟寛
↓↑ 子=惟重、女子(藤堂元則室)
佐伯惟定(さえき これさだ)
安土桃山時代~江戸時代前期
戦国武将
豊後-佐伯氏-第十四代当主
豊後国-海部郡
栂牟礼城主
↓↑ 津藩重臣
豊後佐伯=栂牟礼城主の佐伯惟教の末裔
佐伯惟教は
大友宗麟の武将で
「耳川合戦」で討死・・・耳の川・・・字選合選?
嫡子の佐伯惟定は
島津軍から
栂牟礼城(とがむれじょう)を死守し・・・木母厶牛礼
大分県佐伯市弥生(旧南海部郡弥生町)大字井崎上小倉
豊臣秀吉から感状を下された
大友義統が
朝鮮役の
敵前逃亡で
改易され
佐伯惟定も領地を失い
↓↑ 藤堂高虎の客将となった・・・
の末裔・・・
八歳のとき
天然痘にかかった・・・天(典・点・転・伝・田)念
↓↑
文政八年(1825年)二月五日
元服し
田上惟章と名乗る・・・田の上(かみ)の惟の章
田齋・田齊の文章・・・?
十月 惟神道=カンナガラのミチ
大坂蔵屋敷
留守居役となった父と共に大坂に出る
↓↑
文政九年(1826年)七月
中天游の私塾
「思々斎塾」・・・思々の斎(齋・斉・齊)・・・差異?
に入門
緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)
以後は
緒方を名字とする?・・・名字の選択の根拠はナニ?・緒方さん
四年間、蘭学、特に医学を学ぶ
↓↑
天保二年(1831年)
江戸へ出て
坪井信道に学び
宇田川玄真にも学んだ
↓↑
天保七年(1836年)
長崎へ遊学し
オランダ人医師
ニーマン
のもとで医学を学ぶ
緒方洪庵・・・洪水の庵=いおり=廬・伊織・夷織
と号した・・・
↓↑
天保九年(1838年)春
大坂に帰り
瓦町(大阪市中央区瓦町)で医業を開業
同時に
蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開く
天游門下の先輩
億川百記
の娘・八重と結婚
のち六男七女をもうける
↓↑
弘化二年(1845年)
過書町(大阪市中央区北浜三丁目)
の商家を購入し
適塾を移転
↓↑
嘉永二年十一月七日(1849年12月21日)
6日前に
京に赴き
佐賀藩が輸入した種痘を得
古手町(大阪市中央区道修町)に
「除痘館」を開き
牛痘種痘法
による切痘を始める
↓↑
嘉永三年(1850年)
足守藩の要請で
「足守除痘館」を開き切痘を施した
関東から九州までの
186箇所の分苗所を維持し治療
↓↑
安政五年四月二十四日(1858年6月5日)
洪庵の天然痘予防の活動を
幕府が公認し牛痘種痘を免許制とした
↓↑
文久二年(1862年)
幕府の要請で
奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕
歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け
手塚良仙
ら七名を推薦
十二月二十六日
「法眼」に叙
↓↑
文久三年六月十一日(1863年7月25日)
江戸の医学所頭取役宅で喀血、窒息で死去
享年五十四
↓↑
明治四十二年(1909年)6月8日
贈従四位
↓↑
適塾
福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎
長与専斎、佐野常民、高松凌雲
などを輩出
病理学書
『病学通論』を著作
安政五年(1858年)
コレラ(虎列剌)
・・・虎列剌=高熱・下痢・嘔吐などを伴い
死に至ることもある・コロリ(虎狼痢)
流行で
『虎狼痢治準』
と題した治療手引き書を出版
息子たちにはまず漢学を学ばせた
万延元年(1860年)
門人の
箕作秋坪
から
英蘭辞書二冊を購入
英語学習を開始
福澤諭吉が適塾に入塾し
腸チフスを患った時
中津藩大坂蔵屋敷で療養していた彼を
診察、看病し治癒
洪庵は
西洋医学の治療と同時に
漢方処方をした
江戸で
将軍
徳川家茂の侍医
洪庵は
護身用ピストル(拳銃・短銃・短筒)を購入所持
↓↑
妻の八重の甥は
紙幣製造に貢献した化学者の
岸本一郎(1849~1878)・・・岸本一郎?
岸本は緒方宅で育ち
幕府派遣の
英国留学生に選抜
日本の最初期の化学留学生とし
ロンドン留学
↓↑
華岡青洲一派の
漢方塾
合水堂とは塾生同士の対立
↓↑
次男の
緒方惟準(これよし)
慶応元年(1865年)
幕府の命令でオランダ留学
明治元年(1868年)に帰国
京都の典薬寮の医師となり
明治天皇の侍医
明治二年(1869年)
大坂に設立された
浪華仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長
オランダの軍医
ボードイン
らとともに病院の運営
明治四年(1871年)
陸軍軍医
明治十八年(1885年)
陸軍軍医学会長兼近衛軍医長
脚気の予防策に
麦飯給食を勧めたが軍上層部と対立
明治二十年四月
陸軍を辞し大阪にて緒方病院を開設
↓↑
第十子の
惟直はフランス語を学び
1873年
ウィーン万博で通訳
1875年
イタリアの
トリノ・・・トリの・・・
で日本語教師
翌年当地の女性と結婚
長女
エウジェニア-豊
が生まれる
1878年
25歳で死去
孫の
緒方知三郎
緒方章
はそれぞれ病理学者と薬学者である
曾孫の
緒方富雄は東京大学で血清学を研究・・・
ーーーーー
・・・フゥ~ぅ~ン・・・
緒方先生ってボクの育った鶉の分院の医院長だったけれど・・・