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馬の建の忠・・・ナマエのヘン・・・

2019-01-23 23:40:56 | 古事記字源

 ・・・「光緒帝(コウチョテイ)=清の第十一代皇帝(在位1875年~1908年)・諱は載湉」・・・時代は回る(循環する)・・・ 湉=氵+恬(忄舌)・・・水は心の舌(千の口)?
ーーーーー
 馬建忠・・・馬(うま)の・・・・馬子=宇摩子・・・孫(まご)
 ↓↑    建(たける)の・・・倭建
                「建皇子・建王」は
                 話すことが不自由で夭折・・・?
       忠(中心・心中)・・中臣鎌足(鎌子)
                 忠義・忠信・忠臣
                 中大兄皇子=天智天皇
                 葛城皇子=天命開別尊
       蘇我-倉山田-石川麻呂の娘(遠智娘)
       と
       天智天皇の息子が
      「建皇子・建王」
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
       斉明天皇四年(658年)五月条
       斉明天皇の皇孫、「建王は八才で薨去」・・・八=捌
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
       今城なる 小丘が上に・・・いまきなる をむれがうへに
                    今来    於牟礼 上
       雲だにも 著くし立たば・・くもだにも しるくしたたば
                    句摸    知る句詞多他葉
       何か歎かむ・・・・・・・・なにかなげかむ
                    名似仮名解化務
 ↓↑    ↓↑
       射ゆ鹿猪を 認ぐ川上の・・いゆししを つなぐかはへの
                    言う詩誌  繋ぐ化話経之
       若草の 若くありきと・・・わかくさの わかくありきと
                    和歌句差之
       吾が思はなくに・・・・・・あがもはなくに
                    阿賀摸葉名句似
 ↓↑    ↓↑
       飛鳥川 漲らひつつ・・・・あすかがは みなぎらひつつ
       行く水の 間も無くも・・・ゆくみづの あひだもなくも
       思ほゆるかも・・・・・・・おもほゆるかも
 ↓↑    ↓↑
       同年十月条
       斉明天皇は
       紀温湯(和歌山県-白浜町-湯崎温泉)で
       建王を追憶、歌三首を詠んだ
 ↓↑    ↓↑
       山越えて 海渡るとも・・・やまこえて うみわたるとも
       おもしろき 今城の内は・・おもしろき いまきのうちは
                          今来
       忘らゆましじ・・・・・・・わすらゆましじ
                    和州等諭真詞字
 ↓↑    ↓↑
       水門の 潮のくだり・・・・みなとの うしほのくだり
       海くだり 後も暗に・・・・うなくだり うしろもくれに
       置きてか行かむ・・・・・・おきてかゆかむ
 ↓↑    ↓↑
       愛しき 吾が若き子を・・・うつくしき あがわかきこを
       置きてか行かむ・・・・・・おきてかゆかむ
 ↓↑    ↓↑
 馬建忠・・・?
 (バ ケンチュウ・Ma Jianzhong)
 1845年2月9日~1900年8月14日
 乙巳(戊 庚 丙)比肩正財沐浴⇔庚子
 戊寅(戊 丙 甲)正財正財帝旺⇔甲申
 乙丑(癸 辛 己)  偏印 衰⇔己未
  戌亥=空亡
 ↓↑
 清末の思想家・外交官・言語学者
 フランスに留学
 帰国後
 李鴻章(りこうしよう)の幕僚
 外交問題に敏腕を振るい
 洋務派の理論家
 「適可斎記言」著作
 ↓↑・・適、可斎記の言
     適=辶+啇=辵+啇
     異体字「适」
       かなう・ゆく・たまたま
       ふさわしい・あてはまる
       テキ・セキ
       適帰・適従
       ぴったり当てはまる
       適応・適正・適宜・適正・適性・適切
       適度・適当・適用・快適・好適・最適
       自適・清適・不適・適合
       心にかなう(叶う・敵う・適う・仮名得)
 ↓↑    啇=亠+八+冂+古
         もと・ねもと・やわらぐ・テキ・チャク・セキ
       異体字「摘・啻」
       啇⇔帝・啻(啇)・嫡・適・敵
           啻=帝+口
           通仮字「翅・適」
           語時、
           啻(ただ)ならざるなり、
           口に従ひ、帝を聲(こえ)とす、
           一に曰く、啻は諟(シ)なり、
           讀みて鞮(テイ)の若(ごと)くす
           諟=言+是=ただす・シ・ジ・テイ・タイ
           鞮=革+是=かわぐし・かわぐつ
                 シ・ジ・テイ・タイ
           蒂=艸+帝=へた(蔕)・ほぞ(臍=月+斉)
                 テイ・タイ
             蔕・𧀱=艹+亠+八+冖+巾=蒂
             果実の萼(がく)
 ↓↑        ↓↑ ↓↑
           締(しめる)
           諦(あきらめる)
           啼(なく)
           蹄=ひづめ=足+帝
           帝=祭卓の形・神に供える酒食を載せる台
             天帝を祭る祭卓を帝
             帝を祀る身分の人を嫡(巫女)
 ↓↑
 字は眉叔(ビシュク)
 丹徒(タント)、江蘇省-鎮江出身
 淮軍(ワイグン)糧台を務め
 光緒四年(1878年)
 フランス留学
 駐仏公使
 郭嵩燾
 の通訳
 バカロレア (フランスの中等教育修了レベルの国家資格)
 パリ政治学院で法学の学位
 ↓↑
 光緒六年(1880年)
 天津で
 李鴻章の洋務運動を推進
 光緒七年(1881年)
 アヘン(阿片・鴉片)専売と
 税収問題の解決のため
 イギリス領インド帝国に派遣
    ・・・「諳厄里亜(アングリア)」=イギリス
       「応帝亜(インディア)」=インド
        と当て字して読ませた
 光緒八年(1882年)
 李鴻章により朝鮮に派遣され
 朝鮮と
 イギリス・アメリカ・ドイツ
 との通商条約締結を推進(米朝修好通商条約など)
 壬午事変が発生し
 興宣大院君の連行にかかわった
 光緒十年(1884年)
 唐廷枢が管理する
 輪船商招局に入り
 光緒十六年(1890年)
 対外貿易の発展と
 民間産業の振興を説いた
 「富民説」を著
 李鴻章から
 上海機器職布局総裁に任命されるも
 経営難から辞職、故郷へ引退
 光緒二十一年(1895年)
 李鴻章に北京に呼ばれ
 日清戦争の講和条約を結ぶために
 日本に赴く
 李鴻章を補佐
 光緒二十二年(1896年)
 上海で
 『時務報』主筆の
 梁啓超
 を知り
 『適可斎記言記行』を著作
 光緒二十六年(1898年)
 中国語の文法書
 『文通(馬氏文通)』を著し出版
 光緒二十八年(1900年)
 李鴻章から呼び戻されたが
 死去
 ↓↑
 兄弟
 馬建勛・・・次兄
   ・・・馬(うま)を
   ・・・建(た)てる
      勛(いさお)
   ・・・勛=員(口目八)+力=異体字「勋・勳・勲・𠢋」
       =いさお・クン
        員=かず・イン
          円い鼎の形・・・?
          人や物の数・員外・員数
          係の人・所属する人・委員・随員
 ↓↑     ↓↑
          はば・まわり
          幅員(フクイン)=道路・橋・船などの、はば
        員石=かずいし=日本人名前の読み
        ↓↑ 一石、計石、主石、寿石、重石
           数石、万石、量石、和石
 ↓↑     ↓石=いし・いわ・セキ
           石=いわ=磐・岩・巖・違和・伊和・委倭
                磐余彦=神武天皇
           質量の単位
           一石=2.5俵・米の重さの150キロ
          「四鈞為一石(4鈞で1石を為す・淮南子)」
                 1鈞は30斤・1石は120斤
           日本の石高
           1石(こく)
           10斗(100升)(150kg)
            1斗=10升(約15kg)
 ↓↑     ↓↑
          「一石(イッセキ)二鳥」
        ↓↑ (投擲の一石を投じ二鳥を得る)
        隕石=インセキ
 ↓↑     ↓↑
          人員
          委員・会員・各員・客員・議員・欠員
          雇員・冗員・剰員      
        勳=熏+力
          熏=黑(黒)+屮
          火で焙煎した煤や煙が籠もる様子
          薫(かおる)、燻(いぶす)の原字
 ↓↑    ↓↑
 馬相伯・・・長兄
       教育家
       建常・・・建の常、馬の相、伯(人の白=曰=いわく)
       後に良と改名
       字は相伯、湘伯、薌伯
       晩号は
       華封老人・・・華に封ぜられた老の人
       クリスチャンネームは「ヨセフ」?
ーーーーー
 清王朝
 在位期間 1875年2月25日~1908年11月14日
 姓・諱 愛新覚羅載湉・・・湉=テン・デン=氵+忄+舌
          恬湉・澶湉=川の水が波立たず
                静かに流れるさま
    (アイシンギョロ・ヅァイティヤン
     aisin gioro   dzai tiyan)
 諡号 景皇帝
    同天崇運大中至正経文緯武仁孝睿智端倹寬勤景皇帝
 廟号 徳宗
 同治10年6月28日~光緒34年10月21日
 (1871年8月14日~       1908年11月14日)
 辛未(丁 乙 己)偏財比肩冠帯⇔戊申
 丙申(戊 壬 庚)劫財傷官沐浴⇔癸亥
 丁亥(戊 甲 壬)  傷官 胎⇔癸酉
  午未=空亡
 ↓↑
 父 醇親王奕譞
 母 葉赫那拉氏(西太后妹)
 后妃 孝定景皇后(隆裕皇太后、葉赫那拉氏、西太后姪)
 陵墓 崇陵
 年号 光緒 (1875年~1908年)
 ↓↑
 道光帝の第七子の
 醇親王奕譞の第二子
 母は西太后の妹
 従兄の
 同治帝が早世した後・・・同字綴?
 伯母の
 西太后
 によって擁立され
 即位三歳
 ↓↑
 同治十年(1871年)
 ヤクブ・ベクの乱が
 新疆で勃発最中
 ロシアの
 イリ占拠・・・イリ王朝=第10代の崇神天皇
        ワケ王朝=第16代の仁徳天皇
       ヲホド王朝=第26代の継体天皇
             を初代とする3王朝の興廃
        ・・・ネコ王朝は存在する・・・?
 ↓↑    ↓↑ ↓↑    ↓↑
        イリ=中央アジアの地名 (Ili, ile)
        イリ地方・イリ川・イリ
        カザフ自治州・グルジャ市の別名
        天山山脈を源とし西流するイリ川の流域
        トルコ系あるいはモンゴル系の
        諸遊牧民族の根拠地
        「伊犂」とも・・・
        韓国全羅北道の地名 (Iri)=裡里市
        チェコの男性名(イジー)
        Jiři
        イリ・シュタイネル
        イリ・ナスターゼ
        アルバニアの男性名 (Igli)
        イリ・ターレ
 光緒元年(1875年)
 日本の朝鮮の干渉(江華島事件)
 光緒五年(1879年)
 日本の琉球併合(琉球処分)
 光緒十一年(1885年)
 清仏戦争
 ベトナムへの影響力喪失
 西太后
 李鴻章
 左宗棠
 らによる
 洋務運動で清の経済・技術発展が進められ
 新疆は
 光緒三年(1877年)
 までに
 左宗棠に平定
 光緒七年(1881年)
 イリ条約で
 イリはロシアから返還
 李鴻章が
 光緒八年(1882年)
 壬午事変
 光緒十年(1884年)
 甲申政変を経て
 光緒十一年
 天津条約
 光緒十三年(1887年)
 光緒帝は16歳
 西太后から政権を委譲され
 彼女の指導で政治を行う訓政
 光緒十五年(1889年)
 結婚し正式に親政開始
 ↓↑
 翁同龢
 李鴻藻
 ら側近が
 光緒帝に接近し派閥が結成
 西太后
 李鴻章
 らと対立
 光緒二十年(1894年)
 日清戦争敗北
 李鴻章の淮軍・北洋艦隊壊滅
 光緒二十一年(1895年)
 下関条約で朝鮮への影響力喪失
 日清戦争後
 李鴻章を罷免
 康有為
 梁啓超
 らによる
 変法運動への関心を示し
 西太后の傀儡から脱し
 自らの親政により
 清の中興を
 光緒二十四年(1898年)
 体制の抜本的な改革を宣言した
 (戊戌の変法)
 急進的な改革に宮廷は混乱
 保守派の期待は西太后へ集まる
 変法派の一部が西太后の幽閉を計画
 当初変法派に同調していた
 袁世凱は
 変法派を裏切り
 計画を西太后の側近
 栄禄に密告
 西太后は先手を打ってクーデターを起こし
 光緒帝を監禁し、変法派を弾圧(戊戌の政変)
 西太后は光緒帝の廃位を考え
 光緒帝の従甥で自らの大甥の
 端郡王
 載漪の子
 溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが
 列強の反対にあい
 光緒帝の廃位は断念
 ↓↑
 光緒二十六年(1900年)
 義和団の乱が勃発
 8ヶ国連合軍が北京に迫り
 西太后に連れられて
 西安まで落ち延びた
 その際に光緒帝の側室
 珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害
 西太后の命令で復帰した
 李鴻章と列強の交渉で
 光緒二十七年(1901年)
 辛丑和約を締結
 事件の処分は直接首謀者だけに限られ
 実権は西太后が握り続け
 西太后の主導で、
 かつての「戊戌の変法」と
 同じ路線の近代化改革である光緒新政を展開
 光緒帝は終始西太后の傀儡・・・
 ↓↑
 光緒三十四年(1908年)10月21日
 崩御
 翌日の
 10月22日に西太后も死去
 西太后の遺言で甥の
 溥儀が
 宣統帝として即位
 実父で光緒帝の弟の
 醇親王
 載灃
 が政権を委ねられたが
 清は
 宣統三年~四年(1911年~1912年)
 「辛亥革命」で滅亡
ーーーーー
 「同音の漢字による書きかえ
  出典: フリー百科事典
  『ウィキペディア(Wikipedia)』」
 ↓↑ ↓↑ ↓↑
   しま=揣摩=あてずいりょう=揣摩憶測
当(當)て推量(あてずいりょう)=当素法・当寸法
       充て隋 漁
       宛て随 猟
           瑞 陵
           湍・猯・惴・遄・腨
           揣=扌+耑
           喘=口+耑(ゼン)
           瑞=王+耑
             しるし・めでたい・みず
             めでたいしるし
             瑞雲・瑞験・瑞典=瑞西=スウェーデン
             よろこばしい
             瑞雨
             みず・みずみずしい
             瑞穂
             瑞皐=高野長英
             瑞典=瑞西
               =Sverige(スヴェーリエ)
         陵=おか・みささぎ・リョウ
         凌=しのぐ・リョウ
凌駕・凌雲
         リョウ=了・令・両・㚑・灵・两・伶・良・苓
             兩・䑠・亮・悢・釕・凉・倆・凌・竜
             料・羚・翏・惊・㥄・掕・掚・聊・聆
             崚・猟・陵・涼・掠・梁・菱・棱・脼
             晾・喨・椋・量・祾・碐・睖・粮・粱
             裲・輌・楞・稜・鄝
       当=⺌+彐
       當=⺌+冖+口+田
       異体字「当・當・儅・噹・裆・襠・𡭠・𤱭」
       繁体字「噹・當」
       档=あたる=檔
        =格子になった書類戸棚・机の横木
         反りやすく、もろい低質の木材
         梟首の木
         档案=明清朝以降の官庁の公文書
            木札に文字を記し
            保存に際しひもで貫いて
            壁にかけておいた形が
            檔(かまち)に似ていることからいう・檔子
            国民管理を目的に作成される
            個人の経歴、履歴のファイル
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓
       当用漢字=1946年(昭和21年)11月5日
       国語審議会が答申し
       11月16日に内閣が告示した
      「当用漢字表」に掲載された
       1850の漢字
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
 政府は,昭和56年10月1日,
 内閣告示第1号をもつて
 「常用漢字表」を告示し,
 一般の社会生活において
 現代の国語を書き表すための
 漢字使用の目安を定め
 国の各行政機関に対しては,
 内閣訓令第1号
 「常用漢字表」の実施について」を発し,
 「常用漢字表」を公用文における
 漢字使用の
 目安とすることになりました。
 これを受けて,国の各行政機関においては,
 常用漢字表の実施に関して,
 公用文における
 漢字使用等の
 具体的な取扱い方針について
 別添資料のとおり取決めがありました。
 ↓↑
 本県(茨城県)においても,
 昭和56年
 茨城県
 訓令第26号をもつて
 茨城県
 文書管理規程を改正し,
 この内閣告示を
 適用することになりました。
 ついては,
 国の各行政機関による
 公用文における
 漢字使用等の
 一連の取扱い方針の趣旨を尊重し,
 今後,公用文の作成に当たつては,
 下記のとおり取り扱うことにしましたので,
 その旨を
 貴所属職員に周知徹底させるよう
 御配意願います。
 なお,
 公用文の書き方については,
 特に書式が指定されているものを除き,
 「茨城県文書管理規程別表第1公文の用例」,
 「文書事務の手引」によることにしましたので,
 併せて貴所属職員に周知願います。
 ↓↑
 おつて,
 「公文書の書き方について」
 (昭和28年4月10日文発第33号総務部長通達)
 「当用漢字」の補正について」
 (昭和29年4月2日文収第22号総務部長通知)
 「文書の
  左横書きの実施について」
 (昭和35年2月1日35文発第1号)
 「公用文における
  当用漢字の
  音訓使用
  及び
  送り仮名の付け方の実施について」
 (昭和49年4月2日文第47号総務部長通達)
  及び
 「法令用語の改善について」
 (昭和29年11月22日文発第31号総務部長通達)
 は廃止・・・
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
    しま=揣摩=あてずいりょう=揣摩憶測
      =あれこれ推量する・あれこれ吟味する
       揣摩の術・・・読心術・・・Mind reading
              読唇術=Lip-reading=読話術
       SKの嘘の根拠は鷽・獺?・・・
       命を賭けた自己保身・・・?
       独裁南北半島からの逃げ場はジャポンしかない・・・
       北方四島での災害を救助してくれるのジャポンしかない
       日本人は
       半島人の命も、露西亜人の命も、中国人の命も
       東南アジアの植民地の現地人の命も
      「人間」として救った・・・?
      =conjectures and surmises
       speculation
       giving one's imagination
 ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
 ?? ?? ?? ??・・・??

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ザバイカル時間午後11時・・・笑止千万・・・

2019-01-22 00:42:56 | 古事記字源

 ・・・国家間の約束、ダレが護るのか、ダレが信じるのか・・・オメデタイ・・・「朝鮮=日本人拉致誘拐・1965年日韓条約」、「北方四島=色丹島にアメリカ資本で発電所?・アメリカの建機メーカー、キャタピラー社がディーゼル発電所を建設・2018年9月完成」・・・「日ソ中立条約=1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦の間で締結された中立条約・正式名称は大日本帝国及ソヴイエト社会主義共和国連邦間中立条約」・・・「1941年4月13日、モスクワで調印した。ソ連側全権はヴャチェスラフ・モロトフ外務人民委員(外務大臣)、日本側全権は陸軍軍人で駐ソビエト連邦大使の建川美次と外務大臣の松岡洋右が署名」・・・「1945年(昭和20年)4月5日、翌年期限満了となる同条約をソ連政府は延長しない(ソ連側は「破棄」)ことを日本政府に通達」・・・
 1945年(昭和二十年)8月8日
 モスクワ時間午後5時
 満州との国境地帯
 ザバイカル時間午後11時
 ポツダム宣言への参加を表明した上
 「日本がポツダム宣言を拒否したため
  連合国の参戦要請を受けた」
 として宣戦を布告、事実上条約を破棄した
 9日午前零時(ザバイカル時間)をもって戦闘を開始し
 南樺太・千島列島
 満州国・朝鮮半島北部等
 へ侵攻、侵略・・・
 1917年・・・
 「自由ロシヤの目的は・・・
  他民族を支配することでもなく、
  彼らから
  その民族的な財産を奪取することでもなく、
  外国領土の暴力的奪取でもない。
  それは、
  諸民族の自決を基礎とした
  確固たる平和をうちたてることである」
 「わが連合国にたいして
  あたえた誓約は完全に遵守される」
 ↓↑
 不自然な「共同体」の追求・・・
 ↓↑
 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー
 (Aleksandr Fyodorovich Kerenskii)
 1881年4月22日(ロシア旧暦)
 グレゴリオ暦では
 1881年5月4日~        1970年6月11日
 辛巳(戊庚丙)傷官偏印 建禄⇔庚戌
 壬辰(乙癸戊)偏財比肩 冠帯⇔壬午
 戊戌(辛丁戊)  比肩  墓⇔壬戌(辛酉)
  辰巳=空亡
 ↓↑
 1917年2月23日
 国際婦人デー
 首都ペトログラード(サンクトペテルブルク)での
 食料配給改善デモ
 デモは拡大し、市内の労働者の大半が参加
 2月26日
 ネフスキー大通りのデモに警官隊が発砲
 ↓↑
 兵士が下士官を射殺し、街へ逃走し
 連隊規模の
 兵士が反乱参加
 労働者と
 内務省・軍司令部・警備隊司令部・警察・兵器庫などを襲撃
 ↓↑
 2月27日
 にはモスクワ
 3月初めには他の都市でも革命
 2月28日
 ドゥーマ(国会)の解散を皇帝に命じられ
 議長ロジャンコは
 国会議員12名からなる臨時委員会を設置
 ロジャンコは政権を掌握を決定
 各省庁を接収
 ↓↑
 メンシェヴィキは
 ソヴィエトの結成が呼びかけ
 臨時委員会メンバーの
 メンシェヴィキの
 ニコライ・チヘイゼを議長に
 臨時委員会メンバーで
 社会革命党の国会議員
 ケレンスキーを副議長とし
 ペテルブルクのソヴィエトが結成
 執行委員15人の内、ボリシェヴィキは2名のみ
 ↓↑
 臨時政府は
 3月2日
 ニコライ2世皇帝の退位を要求
 弟の
 ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公
 に皇位を譲ったが
 ミハイル大公は
 3月3日にこれを拒否
 ロマノフ朝崩壊
 ↓↑
 ユリウス暦3月3日
 臨時政府が樹立
 ケレンスキーは
 司法大臣として入閣
 後
 4月
 陸海軍相に就任
 ↓↑
 3月6日
 臨時政府は
 同盟国との協定を維持し
 戦争継続の声明を発表
 ↓↑
 3月9日
 「帝国主義戦争を内乱へ」
 従来のスローガンを維持
 ↓↑
 3月12日
 中央委員の
 カーメネフ
 スターリン
 が流刑地から
 ペトログラードに帰還し
 ボリシェヴィキは
 臨時政府に対する
 条件付き支持・戦争継続の容認
 「…われわれは
  銃弾には銃弾を
  砲弾には砲弾をもって
  自己の持場を固守するであろう」
 ↓↑
 3月14日
 ペトログラード・ソヴィエトは
 革命継続と世界各国の革命を訴えた
 ↓↑
 3月27日
 臨時政府は「戦争目的についての声明」を発表
 「自由ロシヤの目的は、
  他民族を支配することでもなく、
  彼らから
  その民族的な財産を奪取することでもなく、
  外国領土の暴力的奪取でもない。
  それは、
  諸民族の自決を基礎とした
  確固たる平和をうちたてることである」
 「わが連合国にたいして
  あたえた誓約は完全に遵守される」
 ↓↑
 3月28日
 臨時政府は
 「戦争目的は諸民族の自決と平和」
 であると声明
 ↓↑
 4月3日
 亡命地から帰国した
 レーニンの
 四月テーゼ(10ヶ条のテーゼ)は
 4月24日~29日
 「革命的祖国防衛主義の拒否」
 「プロレタリアートと貧農の手に
  権力を渡す第二の段階への過渡」
 「臨時政府の一切の拒否」
 「全権力のソヴィエトへの移行の宣伝」
 「議会制共和国の否定
  労働者・雇農・農民代表ソヴィエトの共和国設立
  警察、軍隊、官僚の廃止」
 「土地の国有化
  土地の処理を
  地区の雇農・農民代表ソヴィエトへ委任」
 「全銀行の統合と労働者代表ソヴィエトによる統制実施」
 「社会的生産と生産物の分配にたいする
  労働者代表ソヴィエトによる統制」
 「党大会の召集、党綱領の改訂、党名の共産党への変更」
 「社会排外主義と
  中央派に反対する新しいインターナショナルの創設」
 が
 ボリシェヴィキの党全国協議会で
 党の公式見解となる
 ↓↑
 5月5日
 第一次連立政府成立
 ↓↑
 7月8日
 第一次連立内閣の
 リヴォフ首相が辞任
 ↓↑
 1917年7月中
 (グレゴリオ暦7月16~20日
  ロシア=ユリウス暦7月3日旧暦7月3~7日)
 ペトログラードで
 兵士や工場労働者たちが
 ロシア臨時政府に対して
 自発的に武装デモを起こし
 交戦状態に至った事件
 「七月の日々・七月危機」
 「七月事件・七月暴動」
 ↓↑
 ボルシェヴィキは当初
 デモ行動を阻止しようとしたが
 その後デモ隊支援を決定
 ↓↑
 武力衝突
 ボルシェヴィキの
 ウラジーミル・レーニンは逃亡と潜伏生活
 他の指導者たちは逮捕
 ロシア臨時政府による
 七月蜂起の鎮圧
 ボルシェヴィキ勢力の影響力は後退
 ↓↑
 7月21日
 ケレンスキーは首相に就任
 ↓↑
 7月24日
 ケレンスキーを首相とする
 第二次連立内閣が成立
 ↓↑
 8月
 陸軍総司令官
 ラーヴル・コルニーロフが
 ボリシェヴィキ排除を目指し
 ペトログラードに進軍
 ↓↑
 9月9日
 ケレンスキーは
 コルニーロフを更迭
 ケレンスキーは自ら陸軍総司令官に就任
 ボリシェヴィキが勢力拡大
 ↓↑
 9月15日(ユリウス暦9月1日)
 ケレンスキーは国号を
 「ロシア共和国」に変更
 ↓↑
 十月革命
 10月上旬
 レーニンがフィンランドから帰還
 ボリシェヴィキに
 臨時政府打倒を呼びかけ
 ケレンスキーは
 11月5日(ユリウス暦10月24日)早朝に
 士官学校生徒などを動員し
 ボリシェヴィキの機関誌印刷所などを襲撃させた
 レフ・トロツキー率いる赤軍は反撃
 印刷所を回復、郵便局、発電所、銀行を占領
 ↓↑
 11月6日(ユリウス暦10月25日)
 ボリシェヴィキは
 ペトログラードで全面的蜂起(十月革命)
 ケレンスキーが動員した戦力は
 「死の大隊」と呼ばれる
 2個女性大隊のみ
 赤軍に敗北し、全員が捕虜
 ↓↑
 ケレンスキーは冬宮殿を脱出
 臨時政府の閣僚は全員逮捕・監禁
 後に追放もしくは脱走・亡命
 プスコフに逃れた
 ケレンスキーは
 同地の騎兵部隊を率いて
 ペトログラードを奪還しようと試み
 ツァールスコエ・セローを占領したが
 翌日
 プルコヴォで赤軍との戦闘に敗れ
 フランスに亡命
 ロシア内戦が勃発すると
 ケレンスキーは
 白軍を「反革命右派」
 赤軍を「反革命左派」
 と非難
 1941年の
 独ソ戦開始後には
 ヨシフ・スターリン
 に支援を申し出た・・・
 ↓↑
 ケレンスキーの亡命後
 1939年
 オーストラリア人の元ジャーナリスト
 リディア・"ネル"・トリットン
 と再婚
 1940年
 ナチス・ドイツが
 フランス侵攻すると
 アメリカ合衆国に脱出
 1945年
 オーストラリアの
 ブリスベンに移住
 1946年2月
 リディアは脳卒中を起こし
 4月10日
 彼女と死別
 後、
 再びアメリカに戻り
 ニューヨークに居住
 カリフォルニア州で過ごし
 スタンフォード大学の講師
 フーヴァー戦争・革命・平和研究所の
 研究員として
 ロシア史や政治史に関する記録を残し
 革命政権時代に
 ロシアのユダヤ人、人権保護を訴え
 ユダヤ系人間から資金援助や支援を受けていた
 KGBは
 「ピエロ」のコードネームを付けて
 ケレンスキーを監視
 ↓↑
 1970年
 ニューヨークの自宅で死去
 遺体はロンドンに埋葬された
ーーーーー
 ・・・???・・・
 日ソ中立条約・第3条
 本条約は 両締約国に於て
 其の批准を了したる日より実施せらるべく
 且5年の期間効力を有すべし
 両締約国の何れの一方も
 右期間満了の
 1年前に本条約の
 廃棄を通告せざるときは
 本条約は
 次の5年間
 自動的に延長せらるものと認めらるべし
 (大日本帝國
  及
  ソヴィエト社會主義共和國聯邦間中立條約、第三條)
ーーーーー
 ・・・

コメント
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ティサ=Tisza=ハンガリーの「尾長蜻蛉・蜉蝣」・・・

2019-01-21 20:42:34 | 古事記字源

 ・・・「一言」=「A single word・one word」・・・「一言居士(こじ)=a person who has something to say on anything and everything」・・・「a ready critic」・・・「ローマは一日にしてならず=Rome was not built in a day」・・・「一言一行=every word and act; just a word or an act」・・・「一行=an act」なのか?、あるいは「一行=a party・a company」なのか?、あるいは「一行=oneline」・・・「one line」・・・命を繋ぐって・・・大変・・・カゲロウ・・・「ティサの開花」・・・・

 ティサ=Tisza=ハンガリーの「尾長蜻蛉・蜉蝣」
 ↓↑     マジャル=洪牙利=匈牙利=匈奴=フン族
         Magyar
         Magyarország(マジャルオルサーグ)=Hungary
        =かげろう=陽炎
     ・・・成虫になって2時間の命・・・
 ↓↑  ↓↑
     1956年10月23日~11月10日・・・戦車 1,130・・・
     ナジ・イムレ(Nagy Imre)
     1896年6月7日~       1958年6月16日
     丙申(戊壬庚)正官印綬帝旺⇔戊戌
     甲午(丙己丁)正財正官 病⇔戊午
     辛卯(甲 乙)  正財 絶⇔甲子 満62歳
      午未=空亡
 ↓↑  ↓↑
 ナジ・イムレ
    ・・・名字・入務例?
   (意務・医務・異夢・斎務・忌・任)例・・・?
 ハンガリーの
 閣僚評議会議長(首相・1953年~1955年・1956年)
 石工職人
 第一次世界大戦の
 東部戦線で
 ロシア軍に捕虜中
 ロシアで
 1917年2月(G/3月革命)に発生した革命運動
 1917年10月に発生した革命で
 ロマノフ朝(ロシア帝国)が崩壊
 内戦を経てソビエト連邦の設立
 ↓↑
 ロシア革命となり
 ロシア革命の赤軍に参加・・・ニコライ二世処刑に参加
 ベルリンの壁崩壊・・・ベルリンの壁は「石の壁」だった?
 ↓↑  ↓↑
 1989年11月9日
 ハンガリー動乱時
 ソ連の侵攻に抵抗し
 KGB・秘密裁判で処刑
 ↓↑  ↓↑

     ティサ=Tisza=ハンガリーの「尾長蜻蛉・蜉蝣」
     水面で脱皮、川岸の木の上で2度目の脱皮
     (1月20日夜7時半・ダーウインがきた)
http://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/tag/
 ・・・hahahaha、ッ・・・
 word=間投詞・感歎詞?
    いいとも、いいぞ、そのとおり
    相手の申し出に賛同するときなど
    ~を言葉で
    wə́ːrd【カナ】ワードゥ=words・wording・worded
 ↓↑
 案山子=Kakashi=scarecrow
 ↓↑       figurehead=dummy
          bird scarer(田畑などに設置する)
          malkin=mawkin
Scarecrow
scare(脅して追い払う)
          crow(カラス)
         久延毘古(くえびこ)=山田のそほど
         久延毘古命=山田の曽富止(曽富騰・そほど)
              =知識の神
         止=ト+丄=トめる・ヤめる・トマる・シ
         騰=月(肉)+駦(𠔉+馬)
         異体字「𢥂・𦫀・駦・𩥱・𩦜・驣・𩧖・𩧔」
           あがる・のぼる・トウ
           駦=馬が疾走する
             馬が勢いよく跳(は)ね上がる
           高く跳び上がる
           高くはね上がる・わき上がる
           急騰(キュウトウ)・高騰( コウトウ)
           上騰(ジョウトウ)・反騰(ハントウ)
           沸騰(フットウ)・暴騰(ボウトウ)
           奔騰(ホントウ)
 ↓↑
         駮=馬+交=馬+亠+父=馬+亠+ハ+乂
           まだら・ぶち・なじる
           ただす・非難する・なじる・といただす
           ハク・ホク・バク
           一角・二尾で馬に似た想像上の猛獣
           虎や豹を食うという
 ↓↑
         久延彦神社(くえびこじんじゃ)
         奈良県桜井市三輪にある神社
         大神神社(三輪神社)
         式内名神大社=大和国一宮=旧官幣大社
         美和乃御諸宮
         大神神社、美和神社、三輪神社の総本社
         大物主大神を祀る
         末社に久延彦神社(曽富止神社)
    「どこへも足を運ばなくても
     世の中の事をすべて知っている神」・・・情報組織機関
                        忍者の元締め?
 ↓↑
 一言主神=the one word god・・・?
 一言だけ
 ほんの一言が人を傷つけることもある
 Just a word can do harm to a person.
 ↓↑
 一言で言えば、神は役立たずなのだ
 In a word, God isn't any use.
 ↓↑
 main=méin・形容詞
    物・事が主要な・肝心な
    もっとも重要な
    主な、中心的な
    the main building=本館
    a main event=メーンイベント
    a main bank=メーンバンク・主力銀行
    the main products=主要産物
    the main topics of discussion=主な議題.
    精いっぱいの・ありったけの力
    by main force [strength]
    こん身の力をふりしぼって・力ずくで.
    the main thing
    特定の状況において肝心なこと.
 名詞
 水道・ガスの本管
 電気の幹線
 mains
 the mains=壁のコンセント
       本管の・幹線の
 a water main=水道本管
        turn off the gas at the mains
        ガスの本管を止める
 mains gas=本管から来るガス
 the main=主要部分・主要な点
 in the main=大部分は・概して
 ↓↑
 the main=大海・わだつみ・・・・大海人皇子=メイン
      marine=ラテン語の「mare マーレ(海)」
          から派生した「marinus マリヌス」
          という形容詞を起源に持つ語
          フランス語のマラン(男性形、marin)
          マリーヌ(女性形、marine)
          を経由して、それが英語等にも移入された
      島(island)と区別して本土(mainland)
      島=island・・・時々、古語の「Isle」
      しま=揣摩=あてずいりょう=揣摩憶測
        =あれこれ推量する・あれこれ吟味する
         揣摩の術・・・読心術・・・
         SKの嘘の根拠は鷽・獺?・・・
         命を賭けた自己保身・・・?
        =conjectures and surmises
         speculation
         giving one's imagination
 ↓↑
 麻薬を静脈に注射する(mainline)
 古英語=mgen(力)・MAY1・MIGHT2
     main2・méin
     闘鶏試合.
 サイコロ博打(博奕)の「5から9までの数字」.
 Main=méin=the Main=マイン川=Rhine川に注ぐ支流
 ↓↑
 main=物事の大きさ・重要さが他よりまさっている
 chief=人に関する場合は第一の優位を占めている
 ↓↑
 フランス語 main=principal
       La main=手
 ↓↑
 ラテン語 manus=hand=手
      manus からの派生単語
      manner・manual
      manner=作法
      manual=マニュアル・やり方
 ↓↑
 maintain
 main「手」tain「つかんで離さない」
 維持する
 maintenance
 維持
 manage
 management
 管理、経営、マネジメント
 manager
 管理者、経営者、マネージャー
 manicure
 mani「手」cure「手入れ」
 マニキュア・手や、手の爪のケアをする
 manipulate
 操作する、操る
 manipulation
 mani「手」
 pul「満たす」
 -ate「する」
 -tion「こと」
 操作・操縦
 manipulator
 操縦者
 manner
 マナー
 manual
 manu「手」-al「性質」
 手で扱う、手引き・取扱説明書
 マニュアル
 manufacturable
 manu「手」
 fact「つくる」
 -ure「こと」
 -able「できる、しうる」
 製造できる
 manufacture
 manu「手」
 fact「つくる」
 -ure「こと」
 製造、製造する
 ↓↑
 major=main=主な・重要な・大きい
    語源はmag=強い・大きい・magnitude
ーー↓↑ーー
 「一言主(ひとことぬし)」・・・Word main
 ↓↑
 日本の神
 神話・歴史書の記述(記録)
 『古事記』(712年)
 下つ巻が初出
 ↓↑
 460年(雄略天皇四年?)
 ↓↑・・・干支  庚子
      皇紀  1120年
      中国
      宋   大明四年
      北魏  和平元年
      北涼  承平十八年
      朝鮮
      高句麗 長寿王四十八年
      百済  蓋鹵王六年
      新羅  慈悲王三年
 ↓↑   ↓↑
      北魏が
      雲崗に
      石窟寺院の造営を始める
      柔然が
      高昌に侵攻し
      宋の
      河西王(北涼の残党)を滅ぼす
 ↓↑   ↓↑  ↓↑
      北涼(ホクリョウ)
      397年5月~439年9月?・・・460年?
      五胡十六国時代に甘粛省に存在した国
      建国者は段業
      実質的な創始者は
      盧水胡の沮渠蒙遜
      国号は涼(リョウ)
      建康公→涼王→張掖公→河西王
      397年5月~400年6月 段業
      400年6月~433年4月 沮渠蒙遜
      433年4月~439年9月 沮渠牧犍
      沮=はばむ・ふせぐ・もれる・ショ・ソ
        ふせぐ・もれる・はばむ・さまたげる
        沮止=阻止・・・沮=疏
        さわ・湿地
        沮洳 (ショジョ) ・・・処女?
        くじける・ひるむ・もれる・もらす
        東-沃沮(トウ-ヨクソ)
      渠=みぞ・キョ
        人工の水路・掘り割り・運河
        暗渠・河渠・函渠・溝渠・船渠
        隧道=随道・隋道
        かしら・首領
        渠魁(キョカイ)・渠帥(キョスイ)」
      牧=牧場・牧畜・牧童・牧師
      犍=牛+建
        異体字「㓺・㸫・㹇・𤚳」
        ケン・カン
        去勢された牛・「きんきり牛」
        犍陀多(カンダタ・蜘蛛の糸)
            ガンダーラ
        建・健・縨・旔・腱・楗・鍵・鞬
        煡・䭈・毽・踺・㯬・犍・騝・徤
        湕・键・䊕・睷・鰎
 ↓↑   ↓↑  ↓↑
      沮渠 安周(ソキョ アンシュウ)
      五胡十六国時代
      北涼の後継政権の
      高昌-北涼最後の王
      匈奴の支族、盧水胡族出身
      兄の哀王-沮渠-牧犍の在位中は
      楽都郡太守
      太平真君二年(441年)
      北魏によって
      酒泉王に封じられた兄の
      沮渠-無諱により軍勢を与えられ
      鄯善に向かい、これを降伏させて
      北涼遺民の根拠地とした
      承平二年(444年)
      前年高昌で王位に就いた
      無諱の去により即位
      即位後、
      南朝宋より
      都督涼河沙州
      三州諸軍事・涼州刺史・河西王
      に封じられた
 ↓↑   ↓↑  ↓↑
      承平十八年(460年)
      柔然が高昌を攻撃し殺害
      北涼は滅亡
      高昌は
      闞伯周が
      柔然により擁立され
      高昌国王となり
      闞氏高昌が開かれる
 ↓↑   ↓↑  ↓↑
      誕生
      ロムルス・アウグストゥルス
      西ローマ帝国最後の皇帝(没年不明)
      死去
      エリア・エウドキア
      東ローマ皇帝の
 ↓↑   テオドシウス2世の皇后(401年~)
 ↓↑   ↓↑  ↓↑
      459年
      登塔者(柱頭行者)聖シメオン死没
      遺体が安置の聖堂で
      耳が聞こえず口も利けない少年の
      耳と口が癒される奇蹟が起こった
 ↓↑   昭和五年(1930年)11月16日
      ・・・煙突男(田辺潔、1903~1933)
      昭和二十四年(1949年)年6月11日
         電柱男・・・?
 460年(第二十一代-雄略天皇四年?)
 雄略天皇が
 葛城山へ
 鹿狩りに行ったとき
 紅紐の付いた
 青摺の衣を着た
 天皇一行と全く
 同じ恰好の
 一行が
 向かいの
 尾根を歩いているのを見附け
 雄略天皇が名を問うと
 「吾は
  悪事も一言
  善事も一言
  言い離つ神。
  葛城の
  一言主の大神なり」
 と答えた
 天皇は恐れ入り
 弓や矢のほか、
 官吏たちの
 着ている衣服を脱がさせて
 一言主神に差し上げた。
 一言主神はそれを受け取り
 天皇の一行を見送った
 ↓↑
 『日本書紀』(720年)
 雄略天皇が一言主神に出会い
 その後共に狩りをして楽しんだ
 ↓↑
 『続日本紀』(797年)
 巻二十五
 高鴨神(一言主神)が
 天皇と獲物を争ったため
 天皇の怒りに触れて
 土佐国に流された
 一言主を祀っていた賀茂氏の地位の低下
 (ただし
  高鴨神は、祀られている
  迦毛大御神は
  味耜高彦根神であるとする説も・・・)
 ↓↑
 『日本霊異記』(822年)
 ↓↑ 一言主は
    役行者に使役される神として記録
    神護景雲二年(768年)以降
    ・・・768年
    干支 戊申
    皇紀1428年
    中国
    唐 大暦三年
 ↓↑ 
 一言主は・・・雄略天皇に土佐に流刑・・・
 役行者(賀茂氏の一族)に
 使役される神で
 役行者が
 伊豆国に流されたのは
 不満を持った
 一言主が朝廷に讒言したため
      役行者は
 ↓↑   ↓↑  ↓↑ ↓↑
   ・・・文武天皇の時代に
      伊豆国に流された
      役小角
     (えんの おづの・おづぬ・おつの)
      舒明天皇六年(634年)伝
       ~
      大宝元年六月七日(701年7月16日)
      役優婆塞(えんのうばそく)
      加茂役君(賀茂役君)・・・訳者?
      姓は君・修験道の開祖・・・翻訳者?
       ↓↑
      役の君は
      役民=無報酬の労働者徴用の統括者?
         人夫、人足、土方手配師の親分
         役座(やくざ)の親分?
         役座=喧嘩仲裁人?
         厄座?
         薬座=高弟に国家の医療・呪禁を
            司る典薬寮の長官
            典薬頭に任ぜられた
            韓国広足・・・?
           (からくに の ひろたり)
      延暦九年(790年)十一月十日(壬申)
      韓国源らが
     「韓国氏は、かつて
      物部塩児が先祖代々朝鮮半島への
      外交官を務めていることを記念して
      改氏した氏族で、
      純粋な日本人であるのに、
      名前のせいで最近
      増えてきた渡来人と間違えられて困る」
      と訴え、居住地の名をとって
     「高原」氏に改氏
     (『続日本紀』巻第四十
       延暦九年十一月十日・壬申条)
       西暦790年 12月20日(壬申)
         庚午 戊子 壬申
 ↓↑   ↓↑  ↓↑ ↓↑
         文武天皇三年(699年)五月二十四日
         西暦699年6月26日
         讒言され、役小角は伊豆島に流罪
         2年後の
         大宝元年(701年)一月
         大赦で茅原に帰る
         六月七日死亡68歳
          ↓↑
         やくざ=「渡世人」の世話役?
             「渡来人」の世話役?
         オイチョカブ賭博の「三枚」は
         手札3枚の合計が10又は20になると
         無得点になる
        「8・9・3」の組み合わせが20で
         無得点になり
         無得点の組み合わせを
        「ヤクザ(八九三)」と呼んだ
 ↓↑   ↓↑  ↓↑ ↓↑
      三輪氏、賀茂氏の支族
 ↓↑   ↓↑  ↓↑ ↓↑
 役小角
 (えんの おづの・おづぬ・おつの)は
 一言主を呪法で縛り
 『日本霊異記』執筆の時点でも
 まだそれが解けていない・・・
 ↓↑
 能の演目
 『葛城』では
 女神とされている
 ↓↑
 葛城山麓の
 奈良県御所市にある
 葛城一言主神社が
 全国の
 一言主神社の総本社
 地元で
 「いちごんさん」と呼ばれ
 一言の願いであれば
 何でも聞き届ける神とされ
 「無言まいり」の神として信仰されている
 ↓↑
 『続日本紀』
 で流されたと書かれている
 土佐国には
 一言主を祀る
 土佐神社があり
 土佐国一宮になっている
 祀られているのは
 味鋤高彦根神であるとする説もあり
 両神ともが主祭神とされている・・・
 ↓↑
 大和の葛城山の
 一言主神は
 雄略天皇と狩りの獲物を巡って争い
 天皇によって土佐に流され
 鎮座していた
 須崎の鳴無神社から
 石を投げて
 現在の土佐神社に宮を定めた
 投げた石は、
 「礫石」という名で境内にある・・・
 ↓↑
 『古事記』では
 葛城山中で
 一言主神と出くわした天皇は
 着ていた衣服を差し出して崇めた
 ↓↑
 賀茂氏の別の祖神である
 味鋤高彦根尊を
 「高鴨神」とする説も支持され
 結果、現在の土佐神社の祭神は
 二柱となった
 ・・・坂本竜馬に絡めたハナシだろう・・・?
 ↓↑
 祭神は古来は
 「土佐大神=高鴨神」で
 現在は
 一言主神と味鋤高彦根尊の
 ↓↑
 大国主命の子の
 事代(ことしろ・ジダイ)主神と二柱
 同一視されることもある
 ↓↑
 一言(いちごん) さん
 ↓↑
 「悪事(まがごと)も一言
  善事(よごと)も一言
  言い離(はな)つ神」
 ↓↑
 一言主神
 大和の葛城(かつらぎ)山の神
 悪い事も善い事も一言で言い放つ
 託宣神
 奈良県御所(ごせ)市にある
 一言主神社に祭られ
 葛城神(かつらぎのかみ)
 ↓↑
 一言主神社
 茨城県常総市
 大同四年(西暦809年)創建
ーー↓↑ーー
 伊豆七島
 伊豆諸島全体を指す
 定住している島は9島

 年表
 674年
 麻績王(おみのおう)
 ↓↑・・麻続王、麻積王とも
     出自は
     大友皇子(天智天皇の太子)
     美努王(橘諸兄の父)
     柿本人麻呂など諸説・・・
     天武四(675)年
     因幡(鳥取県)に流罪
     鳥取県鳥取市国府町岡益
     梶山古墳は
     麻績王の古墳・・・
     or
     伊勢国の伊良虜の島に流罪(万葉集)
   「打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや
    伊良虞の島の 珠藻刈ります」
    と歌ったのに対し、麻績王の答歌
   「うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ
    伊良虞の島の玉藻刈り食む」
    と詠んだ
 ↓↑ ↓↑
     同時にふたりの子が
     伊豆嶋
     血鹿嶋(長崎県の五島列島)に流刑
 ↓↑
 の子の一人が
 伊豆大島に流罪
 680年
 駿河国から分け
 伊豆国が設けられる
 699年
 文武天皇
 三年五月二十四日
 西暦699年6月26日
 讒言で
 役小角が
 伊豆島に流罪
 724年(神亀元年)
 伊豆国を遠流の地として定める
 1156年(保元元年)
 源為朝が大島に流罪
 関東管領(山内上杉家)の支配下
 相模三浦氏の支配下
 後北条氏の支配下
 江戸幕府の直轄地
 1606年(慶長十一年)
 宇喜多秀家が八丈島に流罪
 最初の八丈流人
 1698年(元禄十一年)
 英一蝶が三宅島に流罪
 1709年(宝永六年)
 徳川綱吉が死去
 将軍代替わりの大赦
 英一蝶、許されて江戸に帰還
 1714年(正徳四年)
 江島生島事件
 歌舞伎役者の
 生島新五郎が三宅島に
 (1742年・寛保二年に赦免)
 侍医の
 奥山交竹院が
 御蔵島に流罪
 1729年(享保十四年)
 奥山交竹院らの尽力により
 三宅島の属島扱いされてきた
 御蔵島が「独立」
 1780年(安永九年)~1785年(天明五年)
 青ヶ島で噴火
 天明五年四月~五月の噴火で
 202名が八丈島からの救助で避難するも
 132名は死亡したと推定
 佐々木次郎太夫ら島民が帰還を果たす
 1835年(天保六年)までの50年間
 青ヶ島は無人島
 ↓↑
 1827年(文政十年)
 徳川譜代の旗本
 近藤重蔵守重
 の長男
 近藤富蔵が
 父の地所争いの相手一家7人を殺傷し
 八丈島に流罪
 これが最後の流人・・・
ーー↓↑ーー
 大国主命の子の
 事代(ことしろ・ジダイ)主神と二柱
 同一視されることもある
 ↓↑
 一言(いちごん) さん
 ↓↑
 「悪事(まがごと)も一言
  善事(よごと)も一言
  言い離(はな)つ神」
 ↓↑
 一言主神
 「にほん語」の
 「ことば」の
 概念・内容規定・意味規定
 範疇・カテゴリーの
 「推測、推察、推定、推理」の
 スベテは
 「楷書漢字」である
 「漢字の字形の形象」の
 構成文字(一文字)
 ↓↑
 「一・礀・丶・乁・乀・丿・乙・乚・亅」
 ↓↑
 の組み合わせからなる
ーーーーー
 ・・・???・・・

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トキメク根拠はタイショウをエてカンジること・・・

2019-01-20 07:51:09 | 古事記字源

 ・・・「…めく・α+めく」・・・「かきくくけこ=カキクケコ=書記句化拠(ヶ処)」・・・本拠(ホンキョ)って、根拠(コンキョ)・・・?

 拠=よる・よりどころ・キョ・コ
   旧字「據」
   依拠(イキョ)・割拠(カッキョ)・群拠(グンキョ)
   根拠(コンキョ)・準拠(ジュンキョ)・証拠(ショウコ)
   占拠(センキョ)・典拠(テンキョ)
   本拠(ホンキョ)
 拠=よる・よりどころ・キョ・コ
   何かをするための足場とする
   拠点・依拠・割拠・準拠・占拠
   たよりとなる足場・よりどころ
   原拠・根拠・典拠・本拠・論拠
 拠=據=据(簡体字)・・・据=扌+尸+古
 拠=扌+処(夂几)・・・夊几
   異体字「㨿=扌+虍+処・・・手(扌)の虎の処
       據=扌+虍+豕」・・・・・手(扌)の虎の豚
         扌=てへん=「弖・氐」辺(偏・編・篇・変・片)
         扌=二(に・ジ)+亅(かぎ・ケツ)
ーーーーー
 ひらめく(閃めく)
 ひらめく
  get an epiphany
  have a brain wave [storm]
  have an inspiration
 はためく(旗めく)
 ざわめく(騒めく)
 どよめく(響く・響動めく)
 わめく(喚く・叫く・嚄・嚷・ワメク)
 ↓↑
 めくるめく(目眩く・眩めく・転めく)
 (動カ五[四])
 目がくらむ・めまいがする
 魅力にひかれて理性を失う
 何かに魅せられて目がくらむ思い
 「くるめく=転めく・眩めく」
 「くるくる回る・せわしく動き回る・騒ぎまくる」
 ↓↑
 「…めく」
 接尾語カ行四段活用
 名詞・形容詞・形容動詞の語幹に付いて
 「…らしくなる・…のように見える」
 「擬声語・擬態語に付き…めく」
 ↓↑
 あ めく(叫く・大声を出す
      さけぶ・わめく・雄叫び)
 いまめく(今めく)
 つやめく(艶めく)
 いろめく(色めく)
 うためく(歌めく)
 う めく(呻く・呻吟・苦吟)
 おぼめく(はっきりしない・不審に思おもう
      知しらないふりをする・知らっぱくれる)
 おやめく(親めく)
 かどめく(才めく・才能めく・門めく)
 からめく(唐めく・異国風・加羅めく)
 きしめく(軋めく)
 きらめく(煌く・燦めく)
 こほめく(ごとごと音がする・ごろごろ鳴る
      ひしめく)
 こ めく(子めく)
 さらめく(沙羅めく・更めく・笹の音めく)
 上衆めく(じゃうずめく)
 ときめく(時めく・動悸めく)
 どよめく(響めく・響動めく)
 なまめく(艶めく)
 はなめく(華めく)
 ひしめく(犇めく)
 ひとめく(人めく)
 ひらめく(閃く)
 ぶ めく(蚊か・蜂はちなどが羽音はおとを立たてる)
 ふるめく(古るめく)
 ほとめく(好遇する、饗応する
      熱めく・火てる・熱狂?
      ホトホトの擬音)
 ほのめく(仄めく・態度や言葉にそれとなく表れる
      ある動作をちょっとする
      匂わす)
 よしめく(由めく・由緒めく)
 を めく(喚く)
ーーーーー
 ・・・・???・・・「めく=目句・眼苦・芽倶」・・・
               女宮(寓・九=玖=王+久)

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居安思危・思則有備・有備無患・・・慰安思危・・・

2019-01-18 14:03:21 | 古事記字源

 ・・・もう少し卑屈に「囟(ひよめき・シ・シン)=顖(囟心頁)=䪿(囟頁)」を考えてみると・・・「卑=ひくい・~せしむる」・・・「卑位・卑近・卑湿・卑小・卑賤・卑微・高卑」・・・「ひよめき(顋門・顖門)」は「ときめき(心悸)」じゃぁないんだ・・・?・・・「キラめき(煌)」はツララ(氷柱)だけれど・・・ヒヨドリ(鵯)は「飛ぶときは数回羽ばたくと翼をたたんで滑空するパターンを繰り返して飛ぶため、飛ぶ軌道は波型」・・・波形ですか・・・モニターの心電図か・・・

 䫌=卑+頁・・・「卑の頁(ページ・大貝・ケツ)」
   異体字「𩔅=甶(囟=田)+兀+頁
        𩔙=甶(囟=田)+比+頁」
ーーーーー
 稗=稗粟=稗田(阿禮)
  =禾(のぎ・のき)+卑(いやしい・卑弥呼)
     能義・退き  癒や示威・療・醫
     乃木・載き  癒・療・醫・居安
     穎・梠・宇・軒 癒や誣い
 ↓↑
  誣=言+巫=フ・ブ
    しいる・あざむく・そしる
ありもしないことを事実のように言う
誣言・誣告・欺誣(ギフ)・讒誣(ザンブ)
    誣謗・誣罔
    誣い言(しいごと)
 ↓↑
 陴=郫(ひめがき)=阝+卑+阝・・・コザと邑=国・村
     姫 垣・・・姫の環濠宮殿
 ↓↑     左辺の阝=小里・阜・郷
 ↓↑     右辺の阝=大里・邑=国・村
 ↓↑
 卑(いやしい)の弥(彌)を呼(よぶ・呼称)
 彌=弥=あまねし=天音(根・禰)史(詞・氏・子)
   や・あまねし・ひさしい・わたる
   つくろう・いよいよ・いや
   ビ・ミ
 呼=口+乎(か・や・コ・ヲ)
 ↓↑
 いやす=居安・・・?
 史書「春秋」の注釈書「春秋左氏伝・孔子」
 通称『左傳』
 『春秋左氏伝(襄公一年)』
 ↓↑
 居安思危 思則有備 有備無患
 ↓↑
 居安思危=安きに居て危うきを思う
 思則有備=思えば則ち備え有り
 有備無患=備え有れば患え無し
      Providing is preventing.
      prevent=~防ぐ・止める・阻む
 the act of providing pronunciation in kana
       振り仮名を付けること
ーーーーー
 椑=木+卑
   たる・ふだ・ヘイ・バイ
   「椑指」=「拶指」
       =指の間に木を挟んで強く縛る拷問
        特に女性に対して行われた
 ↓↑
 「卑」=柄杓又は柄杓状の酒器を手で持つ様
     「椑」の原字
     婢=雑事を処理すること(執事)
       大型柄杓状酒器=「卓」
       小型柄杓状酒器=「指」
     (by wiktionary.org/wiki/婢)?
 ↓↑
 卑=ひくい・~せしむる
   卑位・卑近・卑湿・卑小・卑賤・卑微・高卑
   態度がひくい・遜ったり・媚び諂ったりする
   謙卑・卑屈
   いやしい・身分がひくい
   卑官
   道徳や品格がひくい
   ↓↑
   卑怯・卑語・卑俗・卑劣・卑猥
   卑近
   卑金属
   卑湿
   卑小
   卑賤
   卑屈
   野卑
   自卑
   卑鄙
   卑陋
   謙卑
   高卑
   不亢不卑
 ↓↑
 䫌=卑+頁・・・「卑の頁(ページ・大貝・ケツ)」
   異体字「𩔅=甶(囟・田)+兀+頁
       𩔙=甶(囟・田)+比+頁」
         ↓↑
       囟(ひよめき・シ・シン)
       顖(囟心頁)=䪿(囟頁)
       ↓↑
       幼児の頭蓋骨がまだ未縫合の形で
       頭蓋骨に隙間がある状態
       「ひよめき=ヒクヒクと動くさま
             心拍、脈拍の動き
       ↓↑
       鰓(えら・サイ)の動き=魚+思
       顋(えら・サイ)の動き=思+頁
       顖
       兀=ゴツ・ゴチ・禿(はげ)
         頭の突き出した「オデコ(凸)」
         高くそびえているさま
 鵯(Hypsipetes amaurotis・アマウロチス)=ひよどり=氷取
   Brown-eared Bulbul
   ・・・イアドゥ=耳(状物)のある・耳付きの
      bulbul=ブルブル…nightingale=ナイチンゲール

 ↓↑ ↓↑
 「卑弥呼」(?~242年~248年)・・・
 三国志
 卑彌呼=鬼道に仕え、衆を惑わす
     高齢(80歳以上?)で夫はない
     弟がいて国の統治を補佐
 ↓↑   ↓↑
     景初二年(239年)十二月
 ↓↑   ↓↑
     卑弥呼、         239年
     難升米らを魏に派遣    ↓↑
     ナン(ダン)ジョウマイ
        ・・・弾正眞意?
       難=艹+口+夫+隹
         艹+口+二+人+隹
         艹+口+一+一+人+隹
     親魏倭王の
     仮綬の金印
     銅鏡100枚を与えられた   ↓↑
     皇帝は
     難升米
     と
     都市牛利
     トシゴリ・・・都の市の牛の利・・・肇語理?
     ねぎらい
     難升米 に率善中郎将・・・善⇔膳
               ・・・膳部(かしわでべ)?
     都市牛利に率善校尉
     に為して
     銀印青綬を授けた
 ↓↑    ↓↑  ↓↑      ↓↑
     正始元年(240年)
     帯方郡から
     魏の使者が倭国を訪れ
     詔書、印綬を奉じて
     倭王に拝受させた
 ↓↑    ↓↑  ↓↑      ↓↑
     正始四年(243年)十二月
     倭王は大夫の
     伊聲耆
     イセイキ・イセヱキ・・・伊勢役?
     掖邪狗
     ワキヤク・ヱキヤク・・・和記役・倭記訳?   
     ら八人を復遣使として
     魏に派遣
     掖邪狗らは
     率善中郎将の
     印綬を受けた
 ↓↑    ↓↑  ↓↑      ↓↑
     正始六年(245年)
     難升米に黄幢を授与
 ↓↑    ↓↑  ↓↑      ↓↑
     正始八年(247年)
     倭は
     載斯、
     烏越
     らを
     帯方郡に派遣
     狗奴国との
     戦いを報告
     魏は
     張政・・・・張の政
     を倭に派遣し
     難升米
     に詔書、黄幢を授与
 ↓↑    ↓↑  ↓↑      ↓↑
     卑弥呼が死亡後(247年~?)
     男の王が立つ
     国が混乱し
     互いに誅殺しあい
     千人余が死んだ
     卑弥呼の宗女
    「壹與・臺與」を
     十三歳で王に立て
     国中を鎮定
     倭の女王
     壹(臺)與は
     掖邪狗ら
     20人に
     張政の帰還を送らせ
     掖邪狗らはそのまま
     都に向かい
     男女の
     生口30人
     白珠5000孔
     青大句珠2枚
     異文の
     雑錦20匹を貢いだ
 ↓↑    ↓↑  ↓↑    ↓↑
 「卑弥呼」       景初二年(239年)十二月
 ↓↑    ↓↑  ↓↑    ↓↑
 「卑衍」(ヒエン?~238年)・・・238年???
 ↓↑  「卑」+「衍=彳+氵+亍
            あまる・・・・海部留・海人留
            余分にあまる・海女留・甘留・・・阿毎
            エン・・・円・塩・燕・奄⇔奄美・天見
            余計な
            衍字・衍文
            延び広がる・押し広げる
            衍義・敷衍」
 三国時代に
 燕王を自称して
 魏に対し反乱をおこした
 公孫淵の
 配下の将軍・・・?・・・名前が「卑の衍」のブン(文・分)?
 ↓↑
 238年・・・二百三十八
貳陌参拾(足)捌
 ↓↑
       貳=弋+二+目+八
      弐(新字体)
      弍(俗字)
      貮(俗字)
      𢎐(俗字)
 干支 戊午
 ↓↑
 日本
 神功皇后摂政三十八年
 皇紀898年
 ↓↑
 中国
 魏     景初二年
 公孫淵(燕)紹漢二年
       ・・・公(おおやけ)の孫(まご)の淵(ふち)
       淵=ふち・ふかい・おくぶかい・エン
         異体字「渕・渊」
         ふち・水を深くたたえている所
         深淵・淵海
         物の多く集まっている所
         淵叢(エンソウ)
         淵藪・淵叢・渕薮・渕叢
        「淵」は魚の
        「藪」「叢」は鳥獣の集まる所
         物事の寄り集まる所
         中心として栄えている所
         ふかい・おくぶかい
         𡆼・𣶒・囦
         𠝃・𣴸・𣴺
         渁・渆・㴊・・・渁=氵+水+水
         𣾬・㶜
 蜀(蜀漢) 延熙元年
 呉     嘉禾七年、赤烏元年
 ↓↑
 朝鮮
 高句麗 東川王十二年
 新羅  助賁王 九年
 百済  古尓王 五年
 ↓↑
 遼東の・・・・・・領土は遼東、帯方郡と楽浪郡
 公孫淵が前年・・・公孫淵=字は文懿
          魏の大司馬・楽浪公
 魏に謀反し
 魏の
 司馬懿
 率いる追討軍に敗れ
 景初二年(238年)八月二十三日=紹漢二年(238年・燕)
 に滅亡
 50年続いた
 公孫氏の
 遼東支配が終わる
 ↓↑
 呉の年号を示す
 「赤烏元年」紀年銘の
 画文帯神獣鏡が
 山梨県
 西八代郡
 市川三郷町の
 鳥居原
 狐塚古墳から出土
ーー↓↑ーー
 ローマ内戦(6皇帝の年)
 3月22日
 ゴルディアヌス1世が皇帝即位
 息子の
 ゴルディアヌス2世を共同皇帝に指名
 4月12日
 ゴルディアヌス2世が戦死
 ゴルディアヌス1世が自死
 4月22日
 マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス
 と
 デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス
 が共同で皇帝
 ゴルディアヌス3世が副帝に即位
 5月10日
 マクシミヌス・トラクス
 が
 プラエトリアニ
 (近衛軍団)により殺害
 7月29日
 プピエヌス・マクシムス
 が
 バルビヌスがプラエトリアニ
 により殺害
 ゴルディアヌス3世が単独皇帝
 ↓↑
 誕生
 マルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス
 ローマ皇帝ピリップス・アラブスの息子(~249年)
 文鴦
 魏・呉・西晋で活躍した武将(~291年)
 ↓↑
 死去
 4月12日
 ゴルディアヌス1世(159年頃~)
 4月12日
 ゴルディアヌス2世(192年~)
 5月10日
 マクシミヌス・トラクス(173年頃~)
 5月10日
 ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムス
 (217年、or 220年頃~)
 7月29日
 マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス
 (178年頃~)
 7月29日
 デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス
 (165年頃~)
 公孫淵、三国時代
 遼東
 公孫氏の当主(燕王)
 李福、蜀(蜀漢)の政治家
ーー↓↑ーー
 三国志の
 「卑衍」
 ↓↑
 燕王の
 公孫淵が
 魏・・・・魏=委任、鬼・・・まるく盛りあがって高い
        
        韓氏・趙氏とともに晋を滅ぼし
        晋の領土を3分
        前403年
        文侯のとき周の諸侯に列せられた秦に滅ぼされた
        三国時代
        曹操が魏公に封じられ(後漢の献帝より)
        (220~265)
 に反乱し
 太尉の
 司馬懿が
 公孫淵討伐に派遣
 遼東に到着した
 司馬懿に対して
 「卑衍」は
 楊祚と共に数万人の歩兵を率いて
 二十里にわたる塹壕を掘って
 これを迎え撃ったが
 魏の胡遵の攻撃を受けて敗れた
 ↓↑
 司馬懿が向おうとしていた
 襄平が無防備であった事を苦慮した
 「卑衍」は、
 闇夜にまぎれて撤退し
 再び
 司馬懿の軍勢を迎え撃ったが、再び敗れた
 ↓↑
 「三国志演義」の
 「卑衍」は
 公孫淵が燕王を自称し
 魏に反乱した際には
 元帥となった・・・「演義」が「元帥」・・・?
 ↓↑
 司馬懿の討伐軍が派遣され
 遼東に来たところで
 「卑衍」は
 楊祚と共に二十里にわたる
 防衛線をしいて対抗
 司馬懿が
 襄平を狙う動きを見せたところを
 追いかけようとしたが
 夏侯覇
 と
 夏侯威
 の伏兵によって敗れた
 ↓↑
 魏軍の包囲網を突破して
 生還した
 「卑衍」だったが
 再び
 司馬懿の軍と戦った際に
 夏侯覇と一騎打ちとなり
 数合・・・刀を打ち合い切り結ぶ数のこと
 交えることなく討ち取られた
 ↓↑
 卑衍(ヒ エン)・・・?
ーーーーー
 ↓↑
 李 福(リ フク)
 三国時代蜀漢にかけての政治家
 字は孫徳
 父は豪族の
 李権(伯豫)
 子は李驤
 孫は李寿
 益州梓潼郡涪県の人
 ↓↑
 父は
 劉焉が益州牧として赴任した時
 命令に逆らい激怒した
 劉焉に惨殺
 ↓↑
 194年
 劉璋が継いだ後に仕官・・・
 215年夏5月
 劉備が
 益州を占領
 書佐から
 西充国長・成都令・巴西太守・江州都督・揚威将軍
 に昇任
 劉備死後
 諸葛亮から
 尚書僕射に任命され
 平陽亭侯に封じられた
 234年
 五丈原の本陣に勅命で見舞いに赴き
 諸葛亮から
 国家の後事と後任の丞相を
 蒋琬に任すべきだとの遺命を受け
 238年
 魏を討伐するため
 蒋琬に従い
 前監軍・司馬
 として
 漢中の南鄭城に駐屯
 突如急死
ーーーーー
 ・・・???・・・
 鱉=敝+魚
   異体字「鳖・蟞・鼈・𪔀・龞・鳖」
   すっぽん・ベツ・ヘツ
 ↓↑
 758年(天平宝字二年)
 桃生(ものう)城についで
 ↓↑
 767年(神護景雲一年)
 宮城県最北端に
 伊治城が造られ
 北の胆沢(いさわ)の地
 岩手県南部が
 律令政府の
 領土獲得の対象となり
 ↓↑
 780年(宝亀十一)
 覚鱉城築城の議
 伊治城より南の
 長岡(宮城県古川市)の
 百姓家が賊に焼かれる事件が起こり
 造営は急を要し
 同年三月に
 按察使(あぜち)
 紀広純
 が直接築城の指揮を行った
 が
 蝦夷出身の
 伊治呰麻呂(あざまろ)の反乱
 にあい殺害された・・・築城の完成は不詳
ーーーーー
 ・・・

コメント
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