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コジキジゲン

顰(ひそ)める・・・顰面(しかめづら・しかめっつら・しかめつら)・顰蹙(ヒンシュク)

2021-05-17 12:45:41 | 古事記字源

 「おか・オカ」の上でナニがあったのか?
  草壁皇子=日並皇子
  尊号 岡(丘・阜)宮御宇天皇
       岡(丘・阜)宮天皇
      長岡(丘・阜)天皇

 地球人事情・・・恥丘人自浄・・・?
 新西洋事情・・・新中東、新東南、新極東ジジョう・・・
 「新西洋事情」・・・「新東洋ジヂョう」・・・ハナミズに靡く・・・?
 1968年12月10日~1970~1975年~・・・「審窮己之字状」・・・
 戊申年(68)・己酉(69)・庚戌(70)・辛亥(71)・壬子(72)~
 甲子月(12)~
 甲寅日(10)・乙卯(11)・丙辰(12)・丁巳(13)~
 庚午時~
 ↓↑
 深田 祐介(ふかだ ゆうすけ・本名 雄輔)
 ↓↑
 1931年7月15日
 ~
 2014年7月14日
     大運2013年10月(82歳)丙戌 正官
 辛┏未(丁乙己)比肩・偏官衰⇔甲午 正財
 乙┏未(丁乙己)偏財・偏官衰⇔辛未 比肩
 辛┏未(丁乙己)  ・偏官衰⇔丙戌 正官
 甲┗午(丙 丁)正財・正官病⇔甲午 正財
   戌亥空亡
 ↓↑
 1982年に『炎熱商人』で第87回直木賞を受賞
 1982年に『炎熱商人』で第87回直木賞を受賞
 1976年に『新西洋事情』で第7回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞
ーーーーー
 ・・・???・・・堀ちえみ(千恵巳・千恵美・智恵美)・・・
          燃えて斯当歩児(ISTANBUL)・君府・・・訓符?
                  伊斯坦布尔・伊斯坦布爾
          ボスポラス海峡(ラ語Bosporus・英語Bosphorus)
          トルコ北西部の
          黒海とマルマラ海とを結ぶ海峡
          ヨーロッパ部分(オクシデント:Occident)
          アジア部分(オリエント:Orient )
          を隔てる海峡
          2013年海底鉄道トンネルが日本の援助で開通
          土耳古・土耳其・土留古・都児格・都耳格
          都兒格・都尓格・度爾格・度兒格・都耳基
          都児弧・都児古・都兒・都耳・土国

 ↓↑
 新約聖書
 『マタイによる福音書』第5章~7章
 『ルカによる福音書』第6章
 「サンジョウのスイクン」・・・
 真福八端・真福詞
 塩と光・豚に真珠・砂上の楼閣
 祝福の山・・・Mount of Beatitudes・・・
 ガリラヤ湖(ガリラヤ海・ゲネサレト湖
       キネレト湖・ティベリアス湖)
 カペナウム(Capernaum・カペルナウム・Kfar Nahum)
 近郊の丘
 人を裁くな、あなたがたも裁かれないために
 人を裁くな。
 そうすれば、あなたがたも人から裁かれることがない。
 人を赦しなさい、そうすれば、あなたがたも赦される
 ・・・ムリかも・・・
 ニホンジンは頑張っているけれど・・・
 許すべきは自然災害・・・
 ナンジのテキは畏敬すべき自然、天然ではナイ
 ナンジのテキはイキカタが違う・・・
 ナンジのテキをウラメだから
 説教を理解するのはムリなヒトビト・・・
 パンを只で呉れるという噂を聴いて集まってきただけ
 コロナワクチン注射にも
 お誘いにはオマケが必要だ・・・
 将来のモウケを見込んだ投資損だから・・・
 オマケが「天国でのサイワイ」って・・・喰えんから・・・
 死後の生活に望むモノ・・・そんなものアンのか、ねッ・・・?
 オマケがなければヤッテこないヤツラだから・・・
 スイ、スイ、スイダラだったの説教よりもパンだった・・・
 彼らとって
 「奇跡」は「魔術」、でなければ「トリック」だから・・・
 ヒトビトの「常識」を嘗めんじゃねぇ、ッ・・・
 ↓↑
 シモン・ペテロ=西門彼得・・・漁師・・・マナとり人
 アンデレ=安得烈
 ヤコブ=雅各
 ヨハネ=約翰
 フィリポ=腓力
 バルトロマイ=巴多羅買
 トマス=多馬・多瑪
 マタイ=馬太・瑪太・・・元税金徴税人・・・
 アルパヨの子ヤコブ=亞勒腓的兒子・雅各
 タダイ=達太
 シモン=西門・・・黒田如水(シモン)は現実主義者?
 ユダ・イスカリオテ=加略人・猶大・・・会計士
 奇跡を信じていたのに・・・ウマいハナシがナイ・・・
 垂下・垂涎(スイゼン)
 ↓↑
 懸垂
 模範を示す
 教える

  ↓↑
 「山上の垂訓・垂範」・・・・・炊飯(スイハン)?
                 ↓↑
     推古天皇=豊 御食炊  屋姫  尊
     554年5月21日
     欽明天皇十五年乙巳朔癸丑・四月九日
     ~
     628年4月15日
     推古天皇三十六年三月 七日=癸丑
          戊子年三月十五日=辛酉(古事記)
          大運619年11月(65歳)壬戌食神
   ┏甲 戌(辛丁戊)偏財・偏印 衰⇔戊子偏印
   ┗己┏巳(戊庚丙)印綬・偏官長生⇔丙辰偏官
    庚┗申(己壬庚)  ・比肩建禄⇔癸丑傷官
    壬 午(丙 丁)食神・印綬沐浴⇔戊午偏印
    子丑空亡
    ↓↑
    諱 額 田部  皇女
     (ぬかたべのひめみこ)
    諡 豊 御食炊  屋姫  尊
     (とよみけかしきやひめのみこと)
      豊 御食炊屋  比売 命

 父  欽明天皇・・・「欽=金+欠」
           「明=日+月」
 母  蘇我 堅塩媛・「堅塩=かたしを・かたし
            ケンエン
            犬猿・倦厭・嫌厭
           「嫌厭の情」
           「兼燕・懸燕」の「帖」
           「蛇蝎 (ダカツ) の
            如く(ゴトク)
            嫌厭する」
            嫌縁・建厭・・・?
 皇配  敏達   天皇
 子女  菟道貝蛸 皇女
 ↓↑   ↓↑
     菟道  貝 蛸(章魚・多胡・多古・胼胝・凧)
    (トドウ バイショウ)
         貝=かい・カイ=✕=目+八
           甲斐・歌意・魁・隗・海・改・會・解
             美唄(北海道空知郡美唄)
             美空ひばり(雲雀・skylark)
             beauty sky lark
             ビューティフル スカイラーク
            「りんご追分」
             追分(おいわけ)
             道が二つに分かれる場所
             牛馬を追い、分ける場所
             北海道胆振支庁管内
             勇払郡に存在した町
             室蘭本線と
             夕張線(石勝線)の交差、分岐点
             蝦夷・開・介・カイ
             檜=桧=北海道「檜山」郡江差町字中歌町
             蛸=たこ=章魚・多胡・多古・胼胝・凧
             追分節
            「江差追分」
             元々は
             信濃追分で
             長野県
             北佐久郡
             軽井沢町
             あたりで歌われていた
             馬子唄(小諸馬子唄)
             ↓↑
             追分節の特徴=追分形式
             明確な拍節を持っていない(手拍子を打てない)
             音域が広い
             高い声~低い声までのオクターブ
             母音を伸ばす
             あァ~~
             えェ~~
             一音多声型・歌詞等の一文字を長く伸ばす
             ↓↑
            「追分形式」⇔拍節感の明白な
            「八木節形式」
            (一音一声型
              シラブル型)・・・白ぶる?

 ↓↑   ↓↑
 子女  菟道貝蛸 皇女
     竹田   皇子
     小墾田  皇女
     尾張   皇子
     田眼   皇女
 ↓↑              
 「埀訓・埀君・埀薫・埀勲・埀釧」
  ↓↑
 「垂仁天皇」・・・埀訊転向(天功・典項)
          埀=丬+壬+七+亠(丄=上)
       丄=上・丅=下
       異体字「上・𠄞・𨑗・丄(古字)」
       うえ
       うわ
       かみ
       あがる・あげる
       のぼる・のぼせる
       たかい・たかまる・たかめる
       ほとり
  ↓↑
 「垂(埀)仁天皇」
 第十一代天皇
 在位
 垂仁天皇元年一月二日
 ~
 垂仁天皇九十九年七月十四日
  活 目入 彦 五十狭茅 天皇
 (いくめいりびこいさちのすめらみこと・日本書紀)
  活 目 天皇
 (いくめのすめらみこと・日本書紀)
  活 目 尊
 (いくめのみこと・日本書紀)
  伊久米伊理毘古伊佐知命
 (いくめいりびこいさちのみこと・古事記)
  伊久米天皇
 (いくめ・常陸国風土記)
  生 目天皇
 (いくめ・『令集解』所引「古記」)
  伊久牟尼利比古大王
 (いくむにりひこ・上宮記)
  ↓↑
 母 御間城姫
 皇后 狭穂姫命
    日葉酢媛命
 子女 景行天皇 他
 皇居 纒向珠城宮
  ↓↑
 崇神天皇(御間城天皇)の第三皇子
 母    御間城姫命(みまきひめのみこと
            大彦命の娘)
 兄の
 「豊城入彦命」・・・何処から豊城に入ったのか?
          「入彦=いりびこ=伊里卑処」?
              入り毘古
               (比古・備処・尾処)
 をこえて
 24才で皇太子・・・ナゼ?
  ↓↑
 垂仁天皇二十三年
 鳥取部、鳥養部、譽津部
 設置
 「狭穂姫」の児
 「誉津別命(ほむつわけのみこと・日本書紀)」
       本牟都和気 命  ・古事記
       本牟智和気 王  ・古事記
       品 津別 皇子・尾張国風土記逸文
       ↓↑
      「応神天皇」の名は
      「譽田天皇(ほむたのすめらみこと)」
       別称 誉田 別 尊
            誉田 別 天皇
            胎中   天皇
            品陀 和気命
            大鞆 和気命
            品 太  天皇
            凡牟都和希 王
 「誉津別命
  が
 「鵠(くぐい)」を観て
 初めて
 「安藝(あぎ)」
 と言葉を発した・・・?
 「肥長姫」と結婚
 姫は「蛇=它=巳=邪=よこしま」・・・?
  ↓↑
 崇神天皇
 崩御の翌年の一月二日即位
 彦坐王(伯父)の娘の
 「狭穂姫命」を皇后
 皇后の兄
 「狭穂彦王の叛乱」
 兄と共に焼死
 即位十五年二月
 丹波道主王の女
 「日葉酢媛命」を皇后に迎え
 景行天皇(大足彦尊)
 倭姫命
 らをもうけた
 即位三十七年
 大足彦尊を立太子
 即位 99年に140歳で崩御
 『古事記』は153歳で崩御
 ↓↑
 即位
 二年
 「狭穂姫」立后・・・沙本 毘売命
           佐波遅比売命(古事記)
 三年
 纒向珠城宮に遷都
 五年
 従弟の
 「狭穂彦」が妹の
 「狭穂姫」皇后を唆し
 天皇を暗殺を謀る
 皇后は皇子
 「誉津別命」
 を預け兄と共に焼け死ぬ
 ↓↑
 兄の稲城に逃げた
 「狭穂姫皇后」は皇子を妊娠しており
 稲城で生まれた皇子を天皇に渡した
 兄と共に焼死した(古事記)
 ↓↑
 十五年
 「丹波道主王」の女(むすめ)たちと再婚
 長女の
 「日葉酢媛命」を皇后
 末娘の
 「竹野媛」は醜かったので戻され
 途中、媛は恥じて
 「葛野」で輿から投身自殺(書紀)
  ↓↑
 「歌凝比売」
 「円野比売」
 の二人を故郷に戻される途中
 円野比売が
 相楽で自殺未遂
 弟国で自殺(古事記)
 ↓↑
 二十五年
 武渟川別・彦国葺・大鹿嶋・物部十千根・大伴武日
 集めて崇神天皇を称えて神を祀ることを誓った
 天照大神の祭祀を
 日葉酢媛命が生んだ皇女の
 「倭姫命」に託し
 宇陀、近江、美濃と
 周った
 倭姫命は
 「伊勢」に落ち着き
 伊勢神宮を建立(元伊勢伝承)
 二十七年
 初めて
 「屯倉(天皇の直轄地)」を造った
 諸神社に武器を献納し神地・神戸を定めた
 二十八年
 殉死の禁令
 三十二年
 七月
 日葉酢媛命薨去
 野見宿禰の進言で
 殉死に替えて
 埴輪を埋納
 三十五年
 子の
 「五十瓊敷入彦命」
 に河内国の
 高石池
 茅渟(ちぬ)池
 を始め諸国に多くの
 「池溝=前方後円墳の水郷」
 を開設
 三十九年
 「五十瓊敷入彦命」が
 千本の剣を作り
 「石上神宮」に納めた
 八十八年
 天日槍の曾孫
 「但馬 清彦」に但馬の神宝を献上させた
 九十年二月
 「天日槍」の玄孫の
 「田道間守」に命じ
 常世国の
 非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)
 を求めさせた
 九十九年
 崩御
 在位53年で辛未年に崩御(『住吉大社神代記』)
 干支は
 『書紀』の「庚午年没」と1年異なるが
 『古事記』では
 「崇神天皇没の戊寅年」の
 53年後が「辛未」のため一致・・・
 景行天皇元年
 三月
 「田道間守」帰国

ー↓↑ーーーー
 睡眠破壊・睡眠崩壊・・・ネコさんの萌芽・・・惰眠破壊情報・・・
 「華」の分解・・・「リンゴ」の分解・・・
 ???・・・りんご・リンゴ・林檎・・・理務語の花弁・・・
 蘋果花・・・埜花弁(瓣・英)・・・
 蘋果花=薲・・・日下を歩む頁(page・大貝)
         日下の賓客・別嬪・・・
 ↓↑
 蘋=艹+頻
   艹+頻
   艹+步+頁
   艹+歩+頁
   艹+止+少+頁
   艹+止+小+丿+頁
 ↓↑
 頻=頻繁
 瀕=瀕死
 顰=頻+卑・・・頻繁(斌班)な卑弥呼?
   頻+卑
   步+頁+甶+丿+十
   步+頁+卑
   歩+頁+甶+丿+十
   歩+頁+卑
   止+少+頁+丿+田+十
   止+少+頁+卑
   止+小+丿+頁+田+十
   ト+丄+亅+ハ+丿+頁+卑
   ヒン
   ビン
   しかめる
   ひそみ
   ひそめる
   顔をしかめる
   眉間にしわを寄せる
   顰める(しかめる)
   不愉快な気持ちや苦痛を表す表情
   顰(ひそ)み
   顰(ひそ)める
   ↓↑
   顰面(しかめづら・しかめっつら・しかめつら)
   顰蹙(ヒンシュク)
   ↓↑
   一笑一顰(イッショウイッピン)
   しかめたり笑ったり
   わずかな表情の変化のこと
   ↓↑
   西施の顰みに倣う
   良し悪しを考えず、むやみに人の真似をする
   人に倣って物事をする時に謙遜していう言葉
   越の西施(セイシ)の美貌
   「顰みに倣う」
   顰蹙を買う(ヒンシュクをかう)
   自己の言動が他人に軽蔑され嫌われる
   眉を顰める(まゆをひそめる)  
 ↓↑
 嚬=口+頻=顰
   口+步+頁
 㰋=木+頻=檳
   木+步+頁
   果木名・檳榔・檳
   木頻婆=果名+++
   檳榔・棕櫚科・常綠喬木
   羽狀複葉・果長橢圓形・橙紅色・可入藥
   言相思也
   卽 佛書 所謂 頻婆
   ビンロウ(檳榔)
   ヤシ科の植物
   檳榔(ビンラン・bīnlang)
   種子は嗜好品・噛みタバコに似た使用
   駆虫・血圧降下・縮瞳作用
   艹+歩+頁
   艹+止+少+頁
   艹+止+小+丿+頁
 果=田+木
   口+十+十+八
 花=艹+化=華=艹+丑+十
  ・・・椛(木+花=もみじ
          紅葉・黄葉・栬)
       木花之佐久夜 毘売
         神阿多都 比売
       (かむあたつ ひめ)
        嚙み合った 比女(馬・瑪)
              秘米(苺・梅・楳)
       華=艹+三+丨+丨+十
         艹+王・十+王
           王 拾 王
           王=一十一
           拾う
           王=一十一
       ↓↑
       華⇔  樺(かば)
          白樺(しらかば)
           樺太(からふと・カバタイ)
          垂乗崋蓽畢
          畢(おわる・網)=田+凵+十+一
          畢竟・畢宿=あめふり星=降雨を受ける傘
          垂=垂(たらす・たれる・しだれる)・垂(しで)
            埀=丿+一+北+丨+二
             =壬+北+丄
             =千+北+工
             =千+丬+匕+工
             =千+丬+匕+丅+一
          異体字「𡸁・𠄒・𠂹・𠃀・𠣔・埀・𡍮・𡷩
              捶・𢛲・陲・𦉈・㪜・搥・棰・箠
              𢈹・𢮒・𢴹・𥴓・𦈼・𦉖・𨺪」
       蕐=艹+一+仌+十+仌
       英=艹+央=花弁・瓣
         艹+冂+一+人
         花弁
 花=艹+イ+匕(𠤎七ヒ)
 ↓↑
  蘋果=薲果
  ↓↑
  薲=艹+賓
   艹+賓
   艹+宀+一+少+貝
   ヒン
   うきくさ
   かたばみも
   水面にうかび生える草の総称
   かたばみも(酢漿草・片喰・傍食
         かがみぐさ・すいば
         しょっぱぐさ
         すずめぐさ
         ねこあし
         もんかたばみ
         方波見・片波見
         片喰・方喰)・藻
   でんじそう(田字草)・・・傳字相・・・電磁層?
         四つ葉の
         クローバーに似た形の水草
         シダ=歯朶・羊歯植物
   うきくさ(浮草=フソウ=扶桑?)の一種・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
   ↓↑
  「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
  ↓↑  ↓↑
 旧「HP」の移転先
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 

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梵語(ボンゴ)の音訳用字・・・意義も採った・・・?

2021-05-15 00:44:16 | 古事記字源

  耶律楚材?・・・邪理通 素材・粗材・・・?
  ↓↑
 「耶律 大石」・・・なぜか、大石・・・
           仇討ち御法度(ごはっと)=禁止・・・?
  ↓↑
 「邪(よこしま)な里の律(法・掟)の大の石」・・・?
 「大石 内蔵助 良雄」
 の長男
 「大石 主税 良金(享年十六歳)」
 ↓↑
 次男
 「吉千代→吉之進」
 母方
 「理玖(りく)」の
 石束家一門が
 松平伊賀守領分の
 「但州」美含郡竹野谷の
 順谷村井山
 円通寺
 「大休」和尚の許で出家させ
 「祖練(錬)元快」と名乗り
 宝永六年(1709)三月一日
 十九歳で死亡
 ↓↑
 「大石 内蔵助 良雄」
 の妻
 「理玖(りく)」は
 現在の豊岡市出身
  京極家の家老
 石束 宇右衛門(毎公)
 と
 佐々成政の子孫
 快楽院の長女で
 討ち入り前に
 大石と離婚後
 芸州(広島藩)
 浅野家より終生百石を得
 生き残った子供は
 浅野家で厚遇された
 大石 大三郎(三男)
 大石 るり(次女)
 ↓↑ 
  ・・・「邪(よこしま)の里の彳の聿に通う大の石」・・・?
  ・・・「邪(よこしま)の里の彳の聿に通う壹の人の丆の口」・・・?
  ・・・「丆=表面・面・外面・外見」・・・「口」・・・
  ・・・「寺坂 信行(吉右衛門・きちえもん)筆記」
            ・・・足軽・戒名 節岩了貞信士・・・?
            土佐藩主
            山内家の分家
            麻布(あざぶ)・・・安詮院(あぜぶ)?
            山内家
            第三代
            山内豊清(主膳)に仕えて
            士籍を得た
      主人 吉田 忠左衛門
         富森 助右衛門
      が一行から別れて
      仙石
      伯耆守
      の屋敷へ行った」・・・?
  ↓↑
  耶=耳+阝=邪=牙+阝
    ヤ
    か
    疑問・反語・詠嘆の助字
    父親のこと
    よこしま=邪
    梵語(ボンゴ)の音訳用字・・・意義も採った・・・?
 ↓↑
 耶(か)
 耶蘇(やそ)・・・耶蘇教=切支丹=天主教=基督教=邪教
 有耶無耶(うやむや)
 曖昧・有りや無しや
 干将莫耶(カンショウバクヤ)
 古代中国の名剣
 干将=春秋時代の呉の国の刀工の名
 莫邪=刀工の妻の名
 干将が炉に妻の髪と爪を入れ
 二振りの名剣が完成させ
 剣に「干将・莫邪」という名づけて献上
 是耶非耶(ぜかひか)
 物事の善か悪かの判断の迷い
 疑問や反語の「耶」+「是非」
 「所謂 天道 是耶 非耶」
 天の定める道は正しいのかどうかは・・・?
 ↓↑
 律=彳+聿(肀)
 ↓↑彳+肀+二
   彳+肀+一+一
   彳+ヨ(⺕・彐=彑)+肀+一+一
   一丨扌ケキ扌
   ↓↑
   辻道
   十字路の象形
      「行=彳( 廴・チャク・テキ)+亍(チョク)」の
        「彳= 廴=佇む・たたずむ・緩めの歩行」
        「彳」=左足・左歩
        「亍」=右足・右歩
        「彳亍」(テキチョク・チーチュー)」
        「躑躅(つつじ・踯躅・ジージュー)」
        「躊躇(チュウチョ)」
         ・・・鼠の鳴き声の著・鼠=子=イエス=移鼠
           『使徒信行・使徒言行録』
         文章の組み立て
         キアスムス構造(X字構造・交差法)
         キアスムス構成の中心は
        「エルサレム」
         「イエスの復活(蘇生・蘇我)」
        「使徒行伝・使徒行録・使徒信行禄」
        「「新約聖書」
          早い時期に
          ラテン語、シリア語、コプト語
          などに翻訳使徒信行録
         『マタイ福音書』
          マテュー (仏: Matthieu)
          マシュー (英: Matthew)
          マテウス (独: Matthaus)
          マトフェイ (露: Матфей)
         「マテオ(伊: Matteo) 」
          ・・・マテオ・リッチ=Matteo Ricc
             1552年10月6日~1610年5月11日
             イタリア人イエズス会員
             カトリック教会司祭
             利瑪竇(Li Mǎdou ・り まとう)
             明の万暦帝に置時計などを献じ
             北京に定住し
             カトリック布教
            「幾何学原本」
            「坤輿万国全図」
             など西洋学術を紹介
          Matthew=マチュウ=マタイ
                   =巻替=交他意=万碓
                   =真鯛=眞他意=又意・股異
         「馬太・瑪他意⇔瑪瑙(めのう)」
                 ・・・メノウ乳鉢・乳棒
                 乳鉢(にゅうばち・mortar)
                 に固体を入れ
                 乳棒(にゅうぼう・pestle)
                 でスり
                 粉砕または混和するために
                 使用
         「馬太・瑪太」
          の
          オリジナルはアラム語で
          ヘブライ書も
          ヘブライ語版がオリジナルであった・・・」
        「アラム語というかヘブライ語でマタイの書が
         ジョージ・ハワード教授の本で出版
         シェム・トブ・ベン・イサーク・イブン・シャプルト
         1385年
         「試みを経た石(エヴェン・ボーハン)」
         に収録
         ギリシャ語本文の元になった原文(写本)」
         by ウィキペディア(Wikipedia)
   ↓↑
   手=聿(肀)・弖・氐
     肀+二
     肀める(おさめる)・肀べる(のべる)・肀(ふで)
   ↓↑
   丮=ケキ・もつ。手に持つ。手でにぎり持つ
     両手にものを持つ形・握持
   ↓↑
   丮=‡+⺄・・・𠨭
     二+丨+⺄
     ケキ・キャク
     𠃨・𢩦=乙⺄二十キ=丮
     しっかりと(右)手に持つ
     手に取りしっかりと握る
     同「𡙕=執」・・・
      「丮=丸」
     逆(左手)=𠨭
     𠂡=ホウ・フウ・フ
       かぜ・かざ=風・风凮凬𠙊凨𠙈𠙗飌
       𠘨二十キ=𠂡
     異体字「𠃨・𢩦・𩰊」・・・
     丮の左右相対する形=鬥(とう)
              =鬭(闘)・鬨(とき)
     鼫=鼠+石
       臼+𠂡+丆+口
       臼+一+丿+口
       セキ むささび・リス科の動物
       けら・昆虫の名
       𠂡=一+丿+㆐+二+𠄌
   ↓↑
   リツ
   リチ
   のっとる
   のり
   決まり・法則・規則
   のっとる・決まりに従う・手本にする
   音階・音楽の調子
   漢詩詩型の一
   仏教の僧侶の守るべきいましめ
   律(のっと)る
   律(のり)
   一律(いちりつ)
   黄金律(おうごんりつ)
   戒律(かいりつ)
   規律
   急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう
   喼喼如律令(きゅうきゅうじょりつりょう)
   軍律(ぐんりつ)
   憲律(けんりつ)国家の規則・国家の掟
   ↓↑
   三寸不律(さんずんふりつ)
   長さの短い筆
   「三寸」は長さが短い
   「不律」は筆の別名
   千篇一律(せんぺんいちりつ)
   「千編一律」
   二律背反(にりつはいはん)
   雷同一律(らいどういちりつ)
   周りの意見にむやみに同調すること
   雷の轟きで物が共振
   ↓↑
   必要の前に法律なし
   必要に迫られた緊急事態の時は
   法律など気にしていられない
   律儀は阿呆の唐名
   律義者の子沢山
   呂律が回らない
   「呂律」は和音階の呂律
   言葉の調子
   ↓↑
   肀=コ+十
     イチ
     イツ
     おさめる
     のべる
     ふで
     筆・書く
     とうとう・ついに
     自分から・自ら
     修める・述べる
     すばやい・すばやく走る
     共に・従う
   ⺻=肀+一

 西遼(カラ・キタイ)・・・加羅(~)・記(紀)他意(替・碓・・・?
 初代皇帝(グル・ハン)
 太祖
 「耶律 阿保機」の末子(第4子)の
 「耶律 牙里果」の7世の孫
 「遼」が滅亡する際
 契丹人を引き連れて西へ敗走
 モンゴル高原西部
 新疆ウイグル自治区
 カザフスタン東部
 マー・ワラー・アンナフル
 までの広大な地域を領有
 故地奪回を目指し東征するが挫折
 ↓↑
 『遼史』
 天慶五年(1115年)
 科挙で
 状元となって
 翰林院の
 「翰林応奉」に就いた
 他に
 「耶律 蒲魯」
 の契丹人による進士
 遼朝では
 契丹人は支配階級で
 科挙の受験は禁止されていたので・・・
 推挙によって
 北面官の
 大林牙院(南面官の翰林院に当たる)
 に進み上級の林牙に就いた・・・
 ↓↑
 泰州(黒竜江省泰来県)
 祥州(吉林省農安県)
 二州刺史
 遼興軍(河北省盧竜県)
 節度使を歴任
 ↓↑
 保大二年(1122年)
 「女真人」の
 「金」から攻撃を受け
 皇帝
 「天祚帝」
 は中京から西の雲中の陰山に逃亡
 「耶律 大石」
 は宰相の
 「李 処温」
 とともに南京(燕京・北京)で
 第7代興宗の孫の
 「耶律 涅里(天祚帝の従父)」
 を擁立し
 「天錫帝」として
 「北遼」を建国
 天錫帝は
 大石を軍事統帥に任じた
 大石は
 宋
 金
 2国と戦うことは困難と考え
 宋との和平を望んだ

 「燕雲十六州」・・・10世紀
 ↓↑遼が後晋から割譲され支配した16州
   朔州・寰州・応州・雲州・蔚州・新州・武州・儒州
   媯州・檀州・順州・幽州・薊州・涿州・瀛州・莫州
   624年(武徳七年)
   唐に
   高開道が滅ぼされ
   隋の
   涿郡
   懐戎県の地に
   北燕州が設置
   634年(貞観八年)
   北燕州は
  「媯州」・・・媯=女+為
   と改称
   702年(長安二年)
   懐戎県の県治を
   清夷軍城に移転
   742年(天宝元年)
  「媯州」は
  「媯川郡」と改称
   758年(乾元元年)
  「媯川郡」は
  「媯州」の称にもどされ
   河北道に属し
   懐戎・媯川
   の2県を管轄
   936年(天福元年)
   後晋の建国で
  「媯州」は
  「燕雲十六州」の一つとして
  「契丹」に割譲
  938年(会同元年)
  「契丹」により
  「媯州」は
  「可汗州」と改称し
  「清平軍」が置かれた
  「可汗州」は
   奉聖州に属し
  「ふところらいけん」をかんかつ
   北宋
  「媯州」は
  「雲中府路」に属すが統治の実態はなかった
   1122年(天輔六年)
   金が可汗州を奪い
   翌年
  「可汗州」は廃止
   1195年(明昌六年)
  「懐来県」は
  「媯川県」と改称され
   徳興府に属した
 ↓↑
 宋は海上の盟に則り
 「燕雲十六州」
 を攻撃し
 「童貫
 (ドウカン)」
  ワラベのツラヌキ・・・「川上 梟帥(たける)
  倭  男具那命(ヤマトオグナのミコト)古事記
  日本 童男尊(ヤマトオグナのミコト)日本書紀
  の貫き・・・
  日本 建(たける=日本童男=倭男具那=大和武)
  は
  熊襲 梟帥(たける)
  の尻を刺し貫いた
  長吉 熊襲(くまそ)

 「童貫」
 の監督下で15万の大軍を動員し攻撃したが
 「耶律 大石」
 はこれを
 「白溝河」
  ・・・白い溝
 (みぞ・漊・渠)のカのワ?
      船渠=Dock
         =ドック(蘭語 dok)
          Dog=ドッグ=犬・狗・戌 
       渠=氵+巨+木
         キョ
         みぞ・おおきい
         かしら・かれ・なんぞ
         みぞ・ほりわり
          溝渠(コウキョ)
         おおきい・広い・かしら
         渠魁(キョカイ)
         渠帥(キョスイ)
 において打破
 北遼は
 宋へ和平を持ち掛けたが
 「童貫」
 は拒絶
 「李処温」・・・処温・・・温泉?
 の宋との内通が露見
 「回離保」・・・回(まわし)離保(保っをハナし)?
 は
 「李処温」
 とその子の
 「李奭」・・・奭=大+皕
             一+人+百+百
             セキ・シャク・カク・キャク
             さかん・いかるさま・怒る
                 猪狩 様子
                 入鹿 相貌?
              異体字「𠁗=十+一+人+百+百」
 を捕らえてこれを処刑
 天錫帝が崩御し
 北遼は
 「秦王」・・・秦の王?
 「耶律 定(天祚帝の五男で皇太子)」を立て
 天錫帝の未亡人の
 「徳妃蕭普賢女」が摂政
 20万の宋軍は再び侵攻
 宋は将軍の
 「劉 延慶」
 は「燕京=北京」を奇襲
 「耶律 大石」
 は市街戦で宋軍を撃破
  ↓↑
 「童貫」
 は
 北遼攻撃は困難と判断し
 金に
 燕京攻撃を依頼
 「阿骨打」・・・阿の骨を打つ?
 (アクダ)   金の初代皇帝(在位1115年1月28日(1月1日)
                ~ 1123年9月19日(8月28日))
         女真族
         完顔部(ワンヤン部)の族長
        「完顔阿骨打・都勃極烈」
 は受理し、北方より三路から
 燕京を攻撃
 「耶律 大石」は
 居庸関での迎撃に失敗し
 金軍に捕らえられたが
 「阿骨打」は
 「耶律 大石」らを厚遇・・・
 保大三年(1123年)
 大石は秦王
 「耶律 定」
 「徳妃蕭普賢女」
 を奉じて
 「天祚帝」の元へと逃亡
 ↓↑
 保大四年(1124年)
 金軍が迫ると
 「耶律 大石」
 は200人ほどの
 契丹部の重装騎兵を引き連れ
 外蒙古
 遼の北西部
 可敦城に逃れ
 モンゴル高原一帯の
 十八部の王を招集して自立
 1130年
 金は
 遼の降臣の
 「耶律 余睹」
 を派遣して攻撃
 「耶律 大石」
 はこれと交戦したが突然撤退
 西へ移動して
 アルタイ山脈西部に入り
 ビシュバリクに向かった
 ビシュバリクを首都とする
 天山ウイグル王国の
 「ビルゲ可汗」
 は
 「耶律 大石」
 ら契丹王侯を迎え
 大量の軍馬やラクダなどの贈物を贈り
 大石ら契丹王家に臣従することを承認
 1132年
 「葉密立」・・・葉を密に立る?
 (エミル・新疆ウイグル自治区ドルビルジン県)
 で即位し
 「天祐 皇帝」と名乗り
 元号を
 「延慶」
 とし
 「西遼」を建国
 イスラーム史書では
 西遼=カラ・キタイ=「黒い契丹」
 大石以降の君主たちを
 グル・ハン
 葛爾汗=「全てのハン・全世界のハン」
 ・・・「葛(かづら)の
     爾(に・ジ)の
     汗(あせ・カン)」・・・?
 延慶三年(1134年)
 ウイグルで
 テュルク系の
 「カルルク」・・・・「輕・珂瑠」「留矩・留句」
 部族による反乱発生
 大石(徳宗)は出兵鎮圧
 北辺を西遼の直轄地と定め
 ベラサグン(八剌沙袞・キルギストクマク付近)
 へと遷都し
 「クズオルド」・・・「屑・国栖・框・葛」の
           「於留都(譯・土・渡)」?
 と改めた
 「徳宗」
 は
 天山山脈の南北のシルクロードルートを押さえ
 東西に分裂していた
 カラハン朝の軍を
 康国四年(1137年)撃破
 東部を領域に治めた
 ベラサグンは
 東カラハン朝の
 イブラーヒーム2世
 によって治められていたが
 カルルク部族
 カンクリ部族
 などへの支配力は低下
 諸部族から掠奪や反乱に見舞われ
 徳宗
 契丹軍の侵攻を許した
 イブラーヒーム2世
 徳宗に使者を派遣し
 首都に招き
 政権移譲を伝えた
 東カラハン朝の君主は
 「ハン」の称号を剥奪され
 「イリグ・トルカン」
 という称号を与えられた・・・
 ↓↑
 徳宗
 北西の
 カンクリ
 キルギス
 諸部族を征服
 天山、パミール高原を超えた
 フェルガナ地方まで支配
 康国四年(1137年)
 マー・ワラー・アンナフル
 領有の
 西カラハン朝
 第20代君主
 マフムード2世は臣属
 康国八年(1141年)
 ホラズム・シャー朝
 アトスズ
 毎年金貨3千ディーナールを納めるよう誓約させ
 両王朝を臣従させた
 ↓↑
 康国八年(1141年)
 徳宗は
 カラハン朝を支援していた
 セルジューク朝
 第8代スルタン・サンジャル
 の率いる大軍を
 サマルカンド近郊
 カトワーン平原で撃破
 中央アジアに覇を唱えた
 サンジャルは自らの封土であった
 ホラーサーンを拠点として
 セルジューク朝君主による
 イラン全土の統一的な支配を目論んでいたが
 この敗北によって計画は頓挫し
 結果、間接支配ながらも
 中央アジアの
 イスラーム政権は異教徒の傘下となり
 テュルクメン諸集団の統制が不可能になった
 12世紀後半
 テュルクメン諸集団による
 イラン各地での騒乱
 セルジューク朝諸王家の崩壊
 ↓↑
 故地奪還
 徳宗
 は金に対する
 7万の親征軍を出発させる行軍中に崩御
 享年58
 徳宗の没後
 幼少の
 「耶律 夷列(仁宗)」が継ぎ
 大石の后妃の
 「蕭塔 不煙」・・・蕭塔に不煙?
 が称制となった
ー↓↑ーーー
 「耶律 楚材」・・・邪の律、楚を材とする?
 遼(契丹)
 太祖
 「耶律 阿保機」
 の長男の
 東丹国の
 懐王(義宗・天譲帝)
 「耶律 突欲(トツヨク)」8世の孫
 遼の宗族出身
 代々中国化、漢化した家系
 遼の滅亡後
 金の官僚
 祖父は
 「耶律 聿魯」
 父
 「耶律 履」
 金制で
 宰相級の
 尚書右丞
 の
 三男(末子)
 ↓↑
 科挙を免ぜられ
 代替の試験を首席で通過し
 尚書省の下級官僚に任官
 モンゴルが金に侵攻
 首都の中都(北京)で
 左右司員外郎
 1214年
 中都が陥落し捕虜
 中国の天文と卜占に通じてい
 チンギス・カン
 に召し出され
 中国語担当の書記官(ビチクチ)となり
 ハーンの側近に仕えた
 1219年
 遠征でもチンギスの本隊に随行
 カン側近の占星術師として働き
 その体験の詩作を
 『西遊録』に収めた・・・西遊記・・・石猿?
 ↓↑
 チンギス死後
 後継者で
 「クリルタイ」
 が紛糾
 チンギスの遺志を尊重して
 オゴデイを立てることを説き
 オゴデイの即位に貢献・・・
 ↓↑
 オゴデイ即位
 書記として仕え
 中書省の書記機構の幹部となり
 北中国の金の旧領の統治に携わった
 楚材は捕虜たちを
 「万戸」・・・萬乎・漫湖・曼子・蔓子・慢子?
 と呼ばれる集団に分け
 3つの万戸を置き
 各万戸ごとに
 農民・職人
 職業に大別した戸籍をつくり
 戸単位に課税する中国式税制を導入
 ↓↑
 1234年
 干支  甲午
     天福二年
     文暦元年十一月五日
     皇紀1894年・・・1+8+9+4=22・・・弐拾弐
 中国
 南宋  端平元年
 金   天興三年(旧1月10日まで)
 モンゴル帝国 太宗(オゴデイ)六年
 朝鮮
 高麗 高宗二十一年
    檀紀3567年・・・3+5+6+7=21・・・弐拾壱

 モンゴルと南宋の連合軍、金を滅ぼす
 誕生
 阿塔海、元の政治家、軍人(~1289年)
 アバカ、イルハン朝の第2代ハン(~1282年)
 吉川経高、鎌倉時代の武士(~1319年)
 二条教良、鎌倉時代の公卿(~没年未詳)
 ベアトリス・ド・プロヴァンス
 シチリア王カルロ1世の最初の妃(~1267年)
 ↓↑
 1206年・丙寅・元久三年、建永元年四月二十七日
 テムジンが大ハーン
 チンギス・カンを称す
 ↓↑
 1260年・庚申・正元二年、文応元年四月十三日
        皇紀1920年
     南宋 景定元年
     モンゴル帝国 中統元年五月十九日
     高麗 元宗元年
 クビライが大ハーン即位
 ↓↑
 1368年・戊申・南朝 正平二十三年
     北朝 貞治七年・応安元年二月十八日
        皇紀2028年
     元  至正二十八年
     明  洪武元年
     夏  開熙二年
     高麗 恭愍王十七年
 朱元璋の
 明により中国の地を追われる
 ↓↑
 1635年・乙亥・寛永十二年
        皇紀2295年
     明 崇禎八年
       高迎祥 興武元年
     後金 天聡九年
     李氏朝鮮 仁祖十三年
 モンゴル=蒙古
 後金により滅亡
ーーーーー
 ・・・???・・・
 1234年
 モンゴルが金を最終的に滅ぼし
 北中国を併合
 中国式に全土を
 ハーン直轄領にするために
 モンゴル貴族に
 征服した領土を分与することに反対
 儒学を家業とする家を
 「儒戸」に指定する制度を考案
 税を軽減するかわりに
 儒教と祭祀を行わせ、実務官僚層の供給源とした
 ↓↑
 オゴデイの晩年
 西アジア式に人を単位とする
 人頭税制度を
 中国に導入することを説く
 中央アジア出身の
 ムスリム(イスラム教徒)財務官僚層が台頭
 行政干渉
 楚材らの派と対立
 楚材らは信任を失っていった
 ↓↑
 1241年
 オゴデイ死没後
 発言力をもたず
 3年後に死没
 詩集『湛然居士集』
 ↓↑
 鄭氏(蘇氏の説)が産んだ末子の
 「耶律鋳」が跡を継いだ
 その嫡子の
 「耶律希亮」
 と共にクビライに仕え
 中書左丞相に累進
 楚材は再評価され
 太師、上柱国を贈られ
 広寧王に追封
 文正と諡された
ーーーーー
 ・・・???・・・邪(よこしま)の里の都の座居・・・

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前途遼遠(ゼントリョウエン)・・・遼東・遼西・契丹・・・但馬

2021-05-12 16:27:59 | 古事記字源

 遼東之豕(リョウトウのいのこ)・・・遼東の以東・南東・・・
 遼東の猪子・・・伊吹山の白猪・・・
 詮=言+全・・・
 栓=木+全・・・ゴム栓・・・耳栓・口栓・鼻栓・血栓・・・
 ↓↑
 「愚鈍」な「義」を「詮(言+全・あきらかにする)」・・・太の平の記?
 ↓↑
 栓(セン)=ウコギ科の落葉広葉樹
      「ハリギリ」の別名
       ハリギリ(針桐)
       別名、センノキ(栓の木)
          ミヤコダラ
          テングウチワ
          ヤマギリ
       木材で「栓(セン)」と呼ばれる
       肌が深く裂け
       黒ずんだ褐色の木から取れる「オニセン(鬼栓)」
       木肌がなめらかな木から取れる「ヌカセン(糠栓)」
       に分かれる
       鬼栓は加工には向かず
      「沈木」=チンボク
       しずみぎ・うもれぎ
       水中や土中に沈んでいる木
       堤防工事の際に水中に沈め
       その中へ石を詰める枠木
       浮石沈木(フセキチンボク)
       一般大衆の無責任な言論が
       道理に反して威力をもつ
       水に沈むはずの石を浮かせ
       水に浮くはずの木を沈める
       ↓↑
       沈木
       に用いられる
       糠栓の材は軽く軟らかく加工がし易い

 ↓↑
 栓
 何らかの器の穴を塞ぐ、ふた(蓋)
 穴や器の口などをふさぐもの
 穴をふさぐ木の釘(くぎ)
 壜・瓶=びんなどの口をふさぐもの
 cork(コルク)の栓
 活栓(カッセン)・ 血栓(ケッセン)・水栓(スイセン)
 密栓(ミッセン)・元栓(もとセン) ・栓塞(センソク)
 栓塞(センソク)=血栓や炎症によって血管が塞がること
 脳血栓・脳梗塞の一種
 脳の血管に、動脈硬化などで
 生じた血液のかたまりが
 詰まることで起こる病気
 そのかたまり
 意識障害や半身麻痺などの症状
 脳血栓症
 心筋梗塞
 耳栓(みみせん)
 水道栓
 活栓(カッセン)=コック(cock)
          cook?料理
 管などを自由に開閉する装置
 バルブ(valve)・・・
 ↓↑  バブル・bubbl
     泡・気泡・シャボン玉
     あぶく
 ↓↑  バルブ・bulb?球根・鱗茎
     液体や気体の配管など
     流体が通る系統において
     設けられる流れの
     方向・圧力・流量の制御を行う機器の総称
    「弁(ベン)」という語が用いられる
     配管・水廻り設備部材
     調節器
     水廻り部材・ポンプ圧・油圧機器・ホース

 ↓↑
 詮=言+全
   言(亠+二+▭)+全
   言(亠+二+匚+丨)+全
   言(亠+二+匸+丨)+全
   言(亠+二+丨+コ)+全
   言(亠+二+凵+~~)+全
   言(亠+二+冂+_)+全
   言(亠+二+「+」)+全
   言(亠+二+ㄴ+ㄱ)+全
   言+人+王(一+十+一) 
   言+入+王(干+一)
   言+入+王(一+土)
   言+亼+土
   セン
   あきらか
   えらぶ
   しらべる
   そなわる
   ものの道理をときあかす・明らかにする
   選ぶ・選抜する・はかる
   そなわる・そなえる・ととのう
   のり・道
   せん・しるし・かい
   つまり・結局・つまるところ
   方法・手段
 ↓↑
 全+α
 栓=木+全=木全=きまた=木俣・木又・木股
       瓶栓・ゴム栓=護謨栓
              護=護憲・護国・援護
              謨=言+莫
               =ボ・モ
                はかる・はかりごと
 筌=竹+全=茶筌・茶筅(チャセン)
 銓=金+全=秤・量る
 痊=疒+全=癒える・癒す・慰安
 跧=足+全=跧 伏(センプク)・腹這うこと・這いつくばること
          匍匐(ホフク)
 輇=車+全=輴・膞・䡅・槫・輲・車輪・円盤状の車
 絟=糸+全=細布・細糸
 荃=艹+全=からしあえ
 拴=扌+全=ロープ・縄・糸などで物体を
             つなぐ・つなぎとめる・くくりつける
 佺=イ+全=偓佺(アクセン)・仙人の名
          槐山に棲み体毛が濃く
          足は疾駆する馬のように速い
 姾=女+全=古の女子の人名用字
 峑=山+全=山頂
 恮=忄+全=謹慎
 洤=氵+全=いずみ
 烇=火+全=火貌
 牷=牛+全=いけにえ(生け贄)
 硂=石+全=銓・筌・・・掏り棒?
 酫=酉+全=醛・鹹葅=漬物
 駩=馬+全=黑嘴白毛的馬
           くちばし(嘴・喙・觜)
 㓌=冫+全=冷氷・・・つらら=氷柱
 䀬=目+全=目瞬・目眇視・・・目蓋・瞼(まぶた)
 輇=車+全=槫・車輪
 㻇=王(玉)+全=拴
  ↓↑
 安詮院=あぜぶ=アンセンイン?・・・案選(撰)韻?
 あぜぶ・・・畦布・畔歩・・・汗部・阿施武
                  ア=丫・蛙・合・倦?
 アゼブ=安詮院
 熊本県
 玉名市に
 安心院姓多
 ↓↑
 熊本県
 玉名市
 伊倉北方
 に江戸時代にあった
 安心院=アジミ
 ↓↑
 安詮院 貞熊(あぜぶ さだくま)・・・???
 安=宀+女
 詮=言+全
 院=阝+完=阜+宀+元
 貞=ト+目+ハ
 熊=ム+月+ヒ+ヒ+灬
 ↓↑
 1889年(明治二十二年)4月27日
 ~
 没年不明?
 ↓↑
                1940/6
     大運1936年10月(47歳)⇔癸亥比肩
 己 丑(癸辛己)偏官・偏官冠帯⇔庚辰印綬
┏戊┏辰(乙癸戊)正官・正官 養⇔壬午劫財
┣癸┗酉(庚 辛)  ・偏印 病
┗戊 午(丙 丁)正官・偏財 絶
   戌亥空亡
 ↓↑
 熊本県
 玉名郡
 伊倉町
 大字
 伊倉
 出身
 ↓↑
 大正から昭和時代前期の
 台湾総督府官僚
 彰化市尹
 台中市尹
 ↓↑
 1920年(大正9年)3月
 台湾総督府
 営林局書記
 1932年(昭和7年)
 台湾総督府地方理事官
 台北州基隆郡守
 1936年(昭和11年)12月28日
 彰化市尹に就任
 1939年(昭和14年)4月~翌年6月まで
 台中市尹を務めた
 退官後
 台湾新聞常務
 ↓↑
 詮(あきらか)
 詮ぶ(えらぶ)
 詮べる(しらべる)
 詮わる(そなわる)
 ↓↑
 所詮
 様々なことをしても
 最終的に行きつくところ・・・
 結局のところ
 詮(セン)行いの労力に見合う効果・効き目
 詮方・為ん方(センカタ)物事を行う方法・なすべき方法
 詮議(センギ)罪人を取り調べたり、捜索したりすること
 詮索(センサク)細かい所まで徹底的に調べ求めること
 詮ずる所(センずるところ)色々と考えた結果・結局のところ
 ↓↑
 名詮自性(ミョウセンジショウ)
  名がそのものの本質を表しているもの
  本質に名が相応しいもののこと
  「名詮」はその名に備わっている
  「自性」はそのものの本質
 ↓↑
 詮=なすべき手段、方法・せんかた
   効果・価値・かい・ききめ
   煎じつめたところ・結局
   明らかにする・詳しく調べる
   物事の道理をつき詰めるのこと
   つまるところ・結局・所詮・究極
   詮(あきらか)
   詮ぶ(えらぶ)
   詮べる(しらべる)
   詮わる(そなわる)
  ↓↑
 「詮=あきら」
 「義詮」
 「満詮」
 その他の人物は
 「あき」
 「のり」
ー↓↑ーーー↓↑ー
 足利 義詮(あしかが よしあきら)
 室町時代(南北朝時代)
 室町幕府
 第二代将軍
 初代将軍
 足利尊氏
 の嫡男
 母は
 鎌倉幕府
 最後の執権
 北条守時の妹
 正室の
 赤橋 登子
 姓名 源義詮(みなもとのよしあきら)
 ↓↑
 元徳二年六月十八日
 (1330年7月4日)
 ~
 正平二十二年・貞治六年十二月七日
 (1367年12月28日)
      大運1359年2月(28歳)乙酉正官
 庚午(丙 丁)食神・偏印帝旺⇔丁未印綬
 壬午(丙 丁)偏財・偏印帝旺⇔辛亥傷官
 戊戌(辛丁戊)  ・傷官 墓⇔己酉劫財
 戊午(丙 丁)比肩・偏印帝旺⇔庚午食神
  辰巳空亡
 ↓↑
 改名 千寿王(幼名)→義詮
 別名 坊門殿
 戒名 宝筐院殿 道権 瑞山
      筐=竹+匡
       かご・はこ・かたみ・竹で編んだハコ
       匡=匚+王
         キョウ・ただす・すくう
         正しくする・匡正
         すくう・たすける・ 匡済
         王を匚(箱・凾・はこ)に閉じ込める
         曲がったモノを矯正する・・・
         曲がった腰(骨)を矯正する・・・
         corset(コルセット)・・・?
         匚(箱がまえ・囗-丨=匚)
            構 え
         匸(匿がまえ・一+乚)
           隠匿   壹=壱 乚=乙
         コ(こ・己-乚=コ)
                乚=乙
                「かくす=隠」の古字
                 異体字.「隱 ・⺃」
                     隱=阝+㥯
                       阝+爫+工+彐+心
                 隐・㡥・㥼・䨸・乚(古字)
                 嶾・濦・蘟・𠃊(同字)
                 𤔌・𨼆・𨽌
                 雪隠
                 乚=「乙(おつ遶)」の異体字
                「かくす・人の目に触れないようにする
                 物で覆ったり、 しまいこんだり する
                 物事を人に知れないように する
                 秘密にする」
             己(キ)-乙(イツ・おつ・おと)=コ
             つちのと
             おのれ
             ム=私             
             よこしま-イン=コ
         コ=コ・えり
           異体字
         「滬=氵+扈=戸+邑」
              扈従(コジュウ・コショウ)
             跋扈(バッコ)
              扈(したがう・コ)
              扈(つきそう)
              扈(はびこる)
              扈(ひろい)
              起き上がり小法師(扈)
              こぼす=零す・翻す・溢す
                  こぼ(毀)つ
              重心を利用した玩具
              丸底人形
              roly-poly toy
              tilting doll
              タンブラー
              wobbly man
              ヤジロベエ(弥次郎兵衛)
              balance toy(釣り合い人形)
           上海(シャンハイ・申)市
           北東を流れる川の名
         滬=上海の別称「申」の起因
           このころは
           今の黄浦江より西に
           今の呉淞江(蘇州河)に沿って
           ラッパ(喇叭)状の入江が深く入り込んで
           滬瀆(コトク)と呼ばれていた
           「滬」とは木製の漁具=網代(あじろ)
           上海の別名
           上海=申・・・サル女=猿女=上海女?
              戦国時代
             「春申君」の封地だった
              で
             「申」と称す
             「滬(コ)=魚を捕る道具」
              とも呼ばれる
           えり・あじろ
           漁具の一
           竹を並べて魚を捕る仕掛け
         凵(坎にょう・坎がまえ・受けばこ.)
            遶    構     箱・函・匣
            遶=辶+堯
              辶+垚+兀
              辶+土+一+儿
              ジョウ・ ニョウ
              めぐる・めぐらす
              とりまく・かこむ
         冂(境がまえ・牧がまえ)
         遶=ニョウ=繞・饒・撓・橈・蕘
 ↓↑
 遼=リヨウ=瞭・療・寮・僚・尞
 ↓↑       ↓↑
 遼=辶 +尞
   辶 +昚 +小
   辶+ 大+丷+日+小
   リョウ
   はるか
   距離や年月のへだたりが大
   ゆるめる・ゆるくする
   川の名・遼河
   王朝の名
 ↓↑

 遼遠(リョウエン)
 遼東(リョウトウ)・・・遼東半島←北西(戌亥)←日本
 ↓↑
 前途遼遠(ゼントリョウエン)
 これから先の道のりが非常に遠いこと
 「前途」はこれから先の道のり、将来のこと
 「遼遠」はどこまでも続いているということ
 目的を果たすまでに
 たくさんの苦労や災難が待ち構えていることをいう
 ↓↑
 遼東之豕(リョウトウのいのこ)
 世間を知らずで経験や知識が少なく
 取るに足りないことで得意になること
 「遼東」
 中国にある遼河という河の東の地方
      遼河以西の地域を遼西
           以東を遼東
 「豕=豚」
 遼東の農家に頭の白い豚が生まれ
 農民は特別なものだと思い
 天子に献上しようとしたが
 道中で見かけた豚の群れは
 皆頭が白く・・・頭白・白髪?
 他の地方では
 ごく普通のことと知り
 自身の無知を
 恥じて帰ったという故事・・・恥=耳+心
               恥骨・恥垢・恥辱
               羞恥心(shame)              
 ↓↑         「会稽の恥を雪(すす)ぐ」
             会計・會計・快慶の恥?
 遼東の豕(リョウトウのいのこ)・・・旅順港?

 ↓↑
 隱=阝+㥯
   阝+爫+工+彐+心
 ↓↑
 遶=辶+堯
   辶+垚+兀
   辶+土+一+儿
 ↓↑
 西遼=カラ=キタイ
    遼が滅亡したとき
    遼の王族
    耶律大石が
    西トルキスタンに逃れ
    1133年に建国国家
    1211年にナイマンに滅ぼされた
        名意萬(万)?
   =黒契丹
    カラは黒
    キタイは契丹
    中国では西遼
    契丹人の遼の皇帝の一族
    耶律大石(ヤリツダイセキ)
    ↓↑・・・耶律楚材=明昌元年六月二十日
             (1190年7月24日)
              ~
              ドレゲネ称制
              三年五月十四日
             (1244年6月20日)
              モンゴル帝国の官僚
              字 晋卿
              號 湛然居士
    が
    金・宋軍に
    首都
    燕京を攻撃され
    1125年に脱出
    外モンゴルを経て西進
    中央アジアに入り
    カラ=ハン朝を倒し
    1133年
    建国
    都はカラ=ハン朝に続き
    ベラサグン
    1141年
    セルジューク朝軍を破り
    サマルカンド
    ブハラ
    などの
    西トルキスタン
    の主要な交易都市を支配
    西トルキスタンに
    漢文化の影響を受けた
    13世紀
    西の
    ホラズムに圧迫され
    1209年
    ホラズム王
    ムハンマドに敗れ
    東方に移動
    チンギス=ハン
    に敗れて逃れてきた
    ナイマン部
    タヤン=ハン
    の息子
    クチュルク
    に
    1211年
    王位を奪われ滅亡
    後
    ナイマンは
    チンギス=ハンに滅ぼされ
    カラ=キタイ
    の遺領と遺民は
    モンゴル帝国に支配された
    モンゴル帝国
    カラ=キタイから
    中国風統治制度を採り入れた
 ↓↑  ↓↑
    西遼(カラ=キタイ)
    キルギスを中心に
    トルキスタン全域を支配
    王族は仏教徒
    中国式の
    廟号や年号、貨幣を使用
    遼文化を継承
    1133年~1211年までの約80年間
    西トルキスタンはイスラーム化
    東トルキスタンは仏教圏
    14世紀後半
    チャガタイ=ハン国の頃からイスラーム化
    カラ=キタイ(西遼)
    1141年
    サマルカンド郊外草原で
    イスラーム教国
    セルジューク朝軍を破った
    カラ=キタイ人
    はモンゴル帝国に支配され
    モンゴルは制度上の枠組みを
    活用した
ー↓↑ーーー
 源義詮(みなもとのよしあきら)
 墓所 神奈川県鎌倉市浄妙寺光明院
    神奈川県鎌倉市瑞泉寺
    神奈川県鎌倉市円覚寺黄梅院
    伝
    京都府京都市右京区嵯峨野の宝筐院
    伝
    静岡県三島市川原ヶ谷の宝鏡院
 官位 従五位下、左馬頭
    従四位下、左近衛中将
    従三位、征夷大将軍
    正二位、権大納言
    贈従一位 左大臣
 幕府 鎌倉幕府→室町幕府第2代征夷大将軍
 主君 足利尊氏→後光厳天皇
 氏族 足利氏(足利将軍家)
 父  足利尊氏
 母  赤橋登子
 兄弟 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王ほか
 妻
 正室 渋川幸子
 側室 紀良子
 子  千寿王・義満・満詮
    柏庭清祖・廷用宗器・宝鏡寺殿
 ↓↑
 尊氏の幕府開府後
 足利家の執事
 「高師直」
 と尊氏の弟
 「足利直義」
 の対立で
 「観応の擾乱」
 が起こり
 師直のクーデタにより
 直義が失脚
 義詮は京都へ呼び戻され
 幕府の政務を任される
 正平六年(1351年)
 八月
 尊氏が
 直義派に対抗するために
 義詮と共に
 南朝に降伏し
 十一月
 年号を
 南朝の「正平」に統一
 「正平一統」
 翌年に南朝方の
 北畠親房
 楠木正儀
 らが京都へ侵攻
 義詮は京を逃れて
 近江国へ避難
 光厳、光明、崇光天皇
 の三上皇
 皇太子
 直仁親王を奪われ
 観応の年号を復活させ
 兵を募って京都を奪還
 三種の神器の無い状態で
 後光厳天皇の即位を実現
 正平八年(1353年)六月
 正平十年(1355年)一月
 異母兄の
 直冬
 山名時氏
 らの攻勢により
 京都を奪われた
 ↓↑
 正平十三年(1358年)
 四月
 尊氏死没
 十二月
 義詮は
 征夷大将軍に任命
 正平十六年(1361年)
 細川清氏・畠山国清
 と対立した
 仁木義長が南朝へ降り
 執事(管領)の
 清氏が
 佐々木道誉の讒言で南朝へ降った
 細川清氏や畠山国清
 を滅ぼし
 正平十七年(1362年)七月
 空席の管領職に
 斯波義将を任命
 正平十八年(1363年)
 大内氏、山名氏
 仁木義長、桃井直常、石塔頼房
 幕府に帰参
 義詮の執奏により
 勅撰和歌集の19番目
 『新拾遺和歌集』が
 後光厳天皇より綸旨
 正平二十年(1365年)二月
 三条坊門万里小路の新邸に移転
 評定衆・引付衆を縮小し
 将軍の親裁権の拡大を図った(御前沙汰)
 園城寺と南禅寺の争いで
 今川貞世に命じ
 園城寺が管理する
 逢坂関等を破却させた
 正平二十二年(1366年)
 斯波氏が一時失脚
 細川頼之を管領に任命
 (貞治の変)
 正平二十二年(1367年)十一月
 側室の
 紀良子との間に生まれた
 嫡男
 義満を
 細川頼之に託し
 十二月七日
 死去・享年38
 ↓↑
 三条坊門に邸宅を営んだため
 「坊門殿」と呼ばれた
 室町季顕から「花亭」を買い受け別邸
 のちに「花亭」は
 足利家より
 崇光上皇に献上され
 仙洞御所となった
 第3代将軍
 義満は再び皇室から
 「花亭」を譲り受け御所とし
 「花の御所」
ーーーーー
   ↓↑
  「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
  ↓↑  ↓↑
 旧「HP」の移転先
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 

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待ち惚け・・・machibouke・・・コロナ転がるキの根っ子

2021-05-10 11:12:40 | 古事記字源

 醍醐味・・・Cheese(チーズ)・・・球体・地球・・・
 旧態依然・・・コロリ転がるキの根っこ・・・
 コロナコロガルキの根っ子
 ニトを追うもの・・・
 後醍醐=ごたいご=語碓語=御他意語=オン(音)替語・・・

 太(おほ・ふとい・タイ)の平(たいら)の記(しるし)

 「太平記」
 全40巻
 南北朝時代
 後醍醐天皇の即位
 ~
 鎌倉幕府の滅亡
 建武の新政
 と
 その崩壊後の
 南北朝分裂
 観応の擾乱
 2代将軍
 足利義詮
 の死去と
 細川頼之
 の管領就任まで
 (1318年・文保二年~1368年・貞治六年)
 頃までの約50年間の
 軍記物語
 今川家本
 古活字本
 西源院本
 などの諸種・・・
 ↓↑
 「太平=平和を祈願・怨霊鎮魂」的な意義・・・
 ↓↑
 作者と成立時期は不詳
 今川貞世の
 『難太平記』に
 法勝寺の
 恵鎮上人(円観)が
 足利直義に
 三十余巻を見せたとの記事
 14世紀中ごろまでに
 後醍醐天皇
 の崩御・巻21
 あたりまでの部分が
 円観
 玄慧
 など室町幕府と関わりを持つ
 知識人を中心に編纂された・・・
 ↓↑
 全40巻
 現存流布本で全40巻
 16世紀の時点で
 巻22は既に欠落
 前後の巻より素材を抜き出して補完
 内容は3部構成
 後醍醐天皇の即位~鎌倉幕府の滅亡
 第1部(巻1~11)
 ↓↑
 建武の新政の失敗
 南北朝分裂~後醍醐天皇の崩御まで
 第2部(巻12~21)
 ↓↑
 南朝方の怨霊の跋扈による
 足利幕府内部の混乱を描いた
 第3部(巻23~40)
 「巻22の欠落」
 現在伝わっている伝本の中で
 巻22を立てているものでも
 内容そのものは
 巻23~24の記事を使用
 巻22は欠巻・・・
 ↓↑
 巻数については
 全40巻とするのが一般的
 古態本は巻22を欠く実質39巻本
 後出本は巻22を編集によって埋めた
 実質40巻本のほかに
 終末部(40巻本の巻38または巻39~巻40)を
 2巻、3巻に分割して41巻
 または
 42巻本にした写本も存在(米沢本、京大本系統など)
 ↓↑
 儒教的な
 大義名分論
 君臣論
 仏教的因果応報論を基調
 「宋学」の影響を受けた・・・
 後醍醐天皇は作中で徳を欠いた天皇・・・
 ↓↑
 皇国史観の
 水戸学で
 後醍醐天皇が
 正統な天皇と主張し
 明治~昭和初期には
 太平記が重視されなかった・・・
 ↓↑
 「呉越合戦」
 「漢楚合戦」
 『太平記』の引く故事
 漢籍(『日本書紀』など日本の史書)
 と相違・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 後醍醐天皇の崩御が
 平清盛の死に相当・・・?
 ↓↑
 随所に『平家物語』の影響
 古典からの引用、脚色も多・・・
 ↓↑
 「呉越合戦」
 「漢楚合戦」
 この二つは
 『太平記』漢籍由来故事でも他を圧して長大
 『太平記』の引く故事は
 単純な勘違い
 漢籍、『日本書紀』など日本の史書と相違
 巻25「伊勢宝剣説話」に奇怪な神代説話が掲載
 『太平記』=「軍記物語」
 ↓↑
 現存『太平記』
 本文は
 「巻二十二・二二・弐拾弐」
 に当たるべき記事を欠く
 ↓↑
 まとまった
 古写本
 古態本
 ↓↑
 神田本
 西源院本
 南都本
 神宮徴古館本
 ↓↑
 四系統の相互の関係
 流布本本文との比較では
 南都本系統が一番近く
 西源院本が一番遠い・・・
 ↓↑
 すべての古写本が混態本
 流布本より古いが
 巻22を編集によって埋めている諸本の代表
 ↓↑
 今川家本(陽明文庫本)
 永正二年(1505年)
 の現存写本の中では最も古い奥書有
 この写本の伝来には
 甲斐武田氏との関わりもある・・・
 ↓↑
 天正本
 毛利家本
 流布本に対し
 外部資料などで増補した異文を持つ・・・
 ↓↑
 梵舜本
 古写本の中では流布本に最も近似
 ↓↑
 現在所在不明のもの
 ↓↑
 金勝院本
 今出川本(菊亭本)
 島津家本(薩州本)
 北条家本(系統不明)
 ↓↑
 「楠木正成」
 「橘」氏の後裔を自称
 建武の新政で
 後醍醐天皇の側近
 後醍醐天皇vs足利尊氏
 で南朝方で
 「湊川の戦い」で戦死
 名前が
 「楠木」表記とされたのは明治時代
 太政官の修史館における決定で成された
 諸本は
 名前を一貫して
 「楠正成」
     楠=木+南(みなみ・ナン・south)
   木+ナ+冂+𢆉
   十+八+ナ+冂+𢆉(𦍍)
   ↓↑
   𢆉(𦍍)=ジン・ニン・カン
   𢆉(𦍍)=㨖=扌+致=挃=刺?
   屰=𢆉=戟(ゲキ・ほこ)
      =矛・戈・殳・牟
   異体字「𦬏・𦍍・戟・逆」
   ↓↑
   𨐋=亠+𢆉=立+十
   㚔=大+𢆉
     ジョウ・ニョウ
   𢆎=大丷一䒑十干𢆉=㚔
     手枷(てかせ)・刑具
     罪を犯す
     盗みなどの犯罪を繰り返す
   ↓↑
   東西南北・・・南
     烏睦・灘歩苦?
    十(✕)方位
   東南西北・・・南
   盗難・登宇難?
   ↓↑
   南
    「南」白川静『常用字解』
    「象形=銅鼓の形
   苗族の使用した楽器
   底がなく
   吊り下げてその鼓面を打つ
   のちその音を借りて・・・?
   方位の名の
   “みなみ”に用いる」・・・?
   古語に南をカゲトモ(影面、光の当たる方向)
      北をソトモ(背面)
    ナンで「指南=師範・先生・指導者」
    なのか・・・?
    枝葉に光を注ぎ生長させる
    太陽が移置する方向・・・
   異体字「𡴖=山+久+𢆉
       𡴟=山+ハ+⻀+干
   𡴟=屮+乀+⺸
     山+𠆢+⺸」
   𡴖=屮+乀+⺸
   ナ・ナン・みなみ
   南=𡴟=山丿屮人丷一⻀䒑十干𢆉=𡴖
   みなみ・方位の一つ
   背を北に向けた時に体の正面の方角
   「指南車=磁石の両端の針先が南北示す南」
   「南妙法蓮華経」
   「南無阿弥陀仏」
   「南=太陽の方向」
    ・・・「南の妙法は蓮の華」
   「南は無阿(おもねることがない)
    弥(弓+爾・いやさか)
    陀(阝+它=蛇=巳=[m:308])
      小里の邪なヘビ
    仏(人+ム=私=己=邪)」
 と表記
 『楠木合戦注文』
 などの資料は
 「楠」ではなく
 「楠木」と記録
 ↓↑
 クスノキ(樟・楠・Cinnamomum camphora)
 クスノキ科
 ニッケイ属
 常緑
 高木
 クスノキ=楠=本来は中国の
  「タブノキ=椨・Machilus thunbergii
  クスノキ科タブノキ属の常緑高木
  イヌグス(犬楠・犬樟)
  タマグス(玉楠・多摩樟・球樟)
  ヤマグス(山楠・耶摩樟)
  ツママ(都万麻)」とも称す
  「都万麻=ツママ=通萬交・巻・麿=万呂」
  単にタブとも
  ワニナシ属(Persea・アボカドと同属)」
  ワニナシ(鰐梨)=アボカドの和名
    アボカドの別称
   「alligator pear(アリゲーターペアー)」
    の直訳「鰐梨(ワニナシ)」
    ゴツゴツした表皮が
    ワニを連想
    和仁・倭似・把爾・話似?
  別名クス・ナンジャモンジャ
  句素・なんじゃもんじゃの木
     ヒトツバタゴ=一つ葉田子
  句諏(一葉多語(ひとつばたご))
    ナンジャモンジャ
    特定の場所に生えている見慣れない立派な植物
    怪木や珍木に対して地元の人々が付けた愛称
    特定の植物の種名ではない
     ヒトツバタゴ(一つ葉田子)を指すことが多いが
    他の樹種の場合もある
    あんにゃもんにゃ
    何じゃもんじゃ 
  果実は球形で黒い
  直径1センチメートルほどで
  同じクスノキ科の
  アボカドに近い味

 クズのキ
 ↓↑
 「葛城の漢字考」
  ↓↑
  クズ
 (葛・montana va・lobata・kudzu)
   マメ科クズ属のつる(蔓)性の多年草
   様々な昆虫のつく植物
   オジロアシナガゾウムシ
   マルカメムシ
   クズノチビタマムシ
   フェモラータ オオモモブトハムシ
         (コガネハムシ)
   の幼虫は
   クズの蔓を肥大させ
   虫こぶ(ゴール)としその中を食べる

   根を用いて食材の
   葛粉・片栗粉・漢方薬が作られ
   薬用
   根を葛根(かっこん)
    風邪や胃腸不良(下痢)の民間治療薬
   花を葛花(かっか)
    二日酔の酔い覚まし・花酒
   葉は葛葉(かつよう)
    傷の止血
   の生薬
   萬葉集では秋の七草の一
    葛布
    葛の繊維で編んだ布・新石器時代の遺跡から出土
   中国
   鶏斉根(雞齊根・ケイサイコン・jīqigēn)
   ↓↑
   緑化・土壌流失防止用→有害植物・侵略的外来種
ーーー↓↑ーー
  光禄大夫・・・禄・碌・録・緑・・・縁(エン)?
   ↓↑
   善徳女王(?~647年2月17日)・・・645年
   ゼントクジョオウ
   ソンドクニョワン
   ソンドンニョワン
   ↓↑蘇 我   善 徳・・・?
    (そ が の ぜんとこ)
     皇極天皇4年(645年)
     6月14日   ↓↑
    「乙巳の変」↓↑
   ↓↑            ↓↑
   新羅の第27代の王(在位632年~647年)
   新羅初の女王
   姓  金
   諱  徳曼
   諡  善徳
   號  即位後に
      聖祖皇姑
   ↓↑
   父  真平王
   母  葛文王
      福勝の娘の
      摩耶夫人
   王配 水月
      葛文王
      朴欽飯
   ↓↑
   祖父(父方):銅輪太子
   祖母(父方):萬呼太后 金氏
   祖父(母方):葛文王金福勝
   祖母(母方):松華公主
        (第24代国王
         真興王の
         萬呼
         太后の姉妹)
   ↓↑
   姉妹:天明公主(金龍春の妻)
   甥 :武烈王(第29代国王)
   妹 :善花公主(百済第30代
           武王の王妃)
   甥:義慈王(百済第31代国王)
   妹:天花公主
   ↓↑
   叔母(父方):萬明夫人
        (真平王の異父妹
         父は第24代国王
         真興王の弟・金粛訖宗
         金庾信の母)
   従兄弟:金庾信
   従 弟:金欽純(第19代風月主)
   従 妹:金宝姫(武烈王の側室
           文明王后の姉
           金庾信の長妹)
   従 妹:文明王后金氏(武烈王の王妃)
   ↓↑
   叔母(父方):萬龍娘主
        (真平王の異父妹
         父は真興王の息子で
         銅輪太子の弟・金貞粛
         第12代風月主 菩利公の夫人)
   従 弟:礼元公(第20代風月主)
   従 妹:宝龍娘主(第21代風月主 善品の夫人
            第30代国王
            文武王の王妃
            慈儀王后の母)
   ↓↑
   叔父(母方):虎林公(第14代風月主
             摩耶夫人の弟)
   夫  :朴欽飯・金龍春・乙祭
ーーー↓↑ーー
  「真平王」代から用いられた
  「建福」・・・建の福・・・?
   の年号を
   在位3年(634年)3月
  「仁平」・・・仁=人+二
         平=干+八・・・平⇔乎
           一+ハ+十
   と改元
   ↓↑
   633年8月
   百済の侵入
   635年
   唐より父の
   真平王に与えられていた
  「柱国・楽浪郡公・新羅王」
   の爵号を継承
   ↓↑
   636年5月
   百済が
   独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃で潜伏
   角干(1等官)の
   閼川
   弼呑
   を派遣
   百済軍を殲滅させ
   将軍 于召を捕虜
   638年
   閼川を大将軍に任命し
   高句麗が
   七重城(京畿道坡州市)襲撃の際
   高句麗を撃退
   ↓↑
   642年
   7月
   百済に西部40余城を陥落させられ
   8月
   高句麗と百済とが
   連合(麗済同盟642?~660年)し
   党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取
   新羅の唐への朝貢の経路が絶たれ
   百済に
   大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられた
   大耶城の奪回のために
   対百済戦の救援軍を求めて王族の
  「金春秋(武烈王)」が
   高句麗に赴いたが
   人質にされ
   高句麗からの援軍は得られなかった
   643年
   9月
   唐に使者を派遣し
   高句麗・百済を討つ救援軍を求めた
   唐からの条件は
   女王を廃し
   唐の王室から
   新王を立てろと迫られ
   新羅国内で
   親唐派
   反唐派
   が対立
   647年正月
   女王自らが任命した
   上大等の
  「毗曇」らが女王廃位の内乱を起こした
  「金庾信(黄帝の子の少昊金天氏の子孫)」
   ら地方勢力が女王を支援
   正月8日
   女王が陣中で死没・在位16年間
   狼山(慶州市)に葬られた
  「金庾信」らは
  「真徳女王」
   を立て
   正月17日
   乱を鎮圧し
  「毗曇」ら20余名を誅殺
   死後、唐からは
   光禄大夫の号を追贈された

   ↓↑
   光禄大夫(コウロクタイフ)
   前漢以降の官職名・中大夫
   論議を職務とし
   郎中令(光禄勲)に属していた
   武帝の
   太初元年(紀元前104年)
   中大夫を
   光禄大夫と改称
   秩禄を比二千石とした
   ↓↑
   慶州
   市月城の瞻星台・・・市の月
   ↓↑
   善徳女王は仏教保護
   「慈蔵法師」
   を唐に派遣して仏法を修めさせ
   「慈蔵法師」の発願で
   645年3月
   皇龍寺の九層塔を創建
   芬皇寺
   霊廟寺
   が完成
   霊廟寺の建立と同時に
   「瞻星台(天文台)」を築いた
   640年
   王族の若者を留学生として
   唐の
   国子監に派遣
ーーーーー
   葛(かど・かつら・かずら)
   ↓↑
   中大兄皇子
   天智天皇
   葛城皇子・葛木皇子
   ↓↑
   葛野王(かどのおう)
   ・・・弓削皇子を一喝で
   文武天皇の皇位継承決定
   弓削皇子(ゆげのみこ)
   天武天皇の第九皇子(第六皇子)
   弓削氏=道鏡の一族・・・?
   道鏡(文武天皇4年(700年)?
      ~
      宝亀3年4月7日(772年5月13日)
   俗姓 弓削氏(弓削連)
      弓削 櫛麻呂
   道鏡の属する系統(弓削連)
   物部一族
   物部守屋が母姓を仮冒して
   弓削大連と称して以降
   子孫が弓削氏を称した・・・
   弓削皇子(ゆげのみこ)
   父   天武天皇
   母   大江皇女(父 天智天皇)
      中大兄皇子=天智天皇
   同母兄 長皇子
   ↓↑
   葛野王(かどのおう)
   天智天皇八年(669年)
   ~
   慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
   正四位上
   式部卿=官人の
       名簿や人事や儀礼に関する
       法規および実務を把握
   父  弘文天皇(大友皇子・伊賀皇子)
   母  十市皇女・・・十一・イチ拾イチ
   兄弟 壱志姫王=壱志姫王(いちしひめのおおきみ)
      名は
     『日本書紀・続日本紀』
      などで確認出来ず
      遥か時代を下った
     『本朝皇胤紹運録』
      に大友皇子の女として見える
      母は藤原鎌足の女の
  「耳 面 刀自」姫?
  (みみものとじ)
   字 面 譯自・・・?
   子  池辺王(淡海三船の父)
      藤並王・田辺王
  ↓↑
   葛木⇔藤ノ木→藤原⇔侵略的外来種・・・?
  ↓↑
  地面を這う蔓(つる)
  他のものに巻きついて
  10メートル以上に伸び
  全体に褐色の細かい毛が生える
  ↓↑
  根もとは木質化
  地下で肥大し長芋状の塊根
  長さ1.5メートル
  径は20センチに達する
  ↓↑
  葉は大型の三出複葉
  長い葉柄で互生
  小葉は直径15センチメートル超の
  菱形状の円形で
  中裂することあり
  受ける日光の強さで
  角度を変え
  草質で幅広く大きい
  葉の裏面は
  白い毛を密生して白色を帯びる
  ↓↑
  花は8~9月の秋に咲き
  葉腋から
  総状花序が上向きに立ち上がり
  濃紺紫色の
  甘い芳香を発する蝶形花を房状に密集し
  下から順に咲かせる
  花色
  白いものをシロバナクズ
  淡桃色のものをトキイロクズ
  ↓↑
  花後に
  褐色の剛毛に被われた枝豆に似た
  長さ15センチメートルほどの
  扁平な果実(莢果・豆果)を結ぶ
  ↓↑
ーーーーーー
 ・・・???・・・
 智証麻立干(22)
   |
 法興王(23)ーー立宗
        真興王(24)ー萬乎夫人ー国飯
        |           |
     銅輸-眞智王(25)     眞徳女王(28)
        |   |
    眞平王(26) 龍春
        |   |
   善徳女王(27) 武烈王(29)
            |
           文武王(30) 仁問 仁真 文王
           ↓↑
  文武王(建福四十三年・626年~681年7月21日)
          (在位661年~681年・永隆二年七月一日)
            (626年~681年7月21日)
    ↓↑        ↓↑
    ↓↑      文武天皇(683年・天武天皇十二年
             ~
             707年7月18日・慶雲四年六 月十五日)
             日本 第四十二代天皇
          (在位697年8月22日・文武天皇元年八月一日
             ~
             707年7月18日〈慶雲四年六月十五日)
             諱 「珂瑠(かる)=軽(かる)」
    ↓↑
   (在位661年~681年)
    諱 法敏
    武烈王の長子
    母 角干(1等官)の
      金舒玄の娘(金庾信の妹)
      文明夫人
    妃 波珍飡(4等官)の
      金善品(真智王の弟の金仇輪の子)
      の娘の
      慈儀王后
      661年6月
      武烈王が死去し
      王位就任
      高句麗を滅ぼし
      唐の勢力を
      朝鮮半島から駆逐
      半島統一
ーーーーー
 蘇我 善徳(そが の ぜんとこ)
 蘇我馬子の長男
 ↓↑
 兄弟 河上娘・善徳・蝦夷・刀自古郎女
    法提郎女・川堀・倉麻呂・杲安
 子  志慈・・・御炊朝臣の祖
    果安
 ↓↑
 飛鳥寺(法興寺)の初代寺司(てらのつかさ・司長)
 ↓↑
 聖徳太子=蘇我入鹿=蘇我善徳
 ↓↑
 聖徳太子・蘇我入鹿と同一人物(厩戸皇子は別人)
 ↓↑
 蘇我馬子=聖徳太子
 ・・・???・・・
 『日本書紀』巻第二十二
 「推古四年冬十一月
  法興寺造 竟(おはりぬ)
  則 以大臣男 善徳臣 拝寺司
  是日 恵慈 恵聡 二僧
  始住 於 法興寺
 ↓↑
 『日本書紀』巻第22
 推古天皇十八年(610年)
 蘇我蝦夷の年齢
 『扶桑略記』の記述によると
 25歳
 推古天皇四年(596年)
 蝦夷の年齢は
 十一歳で
 善徳
 が
 蝦夷の兄・・・
 ↓↑
 国栖の木
 葛・屑・九図
 ↓↑
 『太平記』
 中世~物語僧の「太平記読み」によって語られ
 初等学問における
 教科書(テキスト)の役割
 江戸時代は講談で語られる物語の一
 室町時代
 『太平記』に影響された
 多くの「軍記物語」が書かれた
 ↓↑
 赤穂藩
 浅野家
 主君
 浅野長矩(あさの ながのり)・・・匠守(たくみのかみ)
 の
 国家老(筆頭家老)
  大 石  良 雄
 (おほいし よしお・よしたか)
  大 石  内蔵 助・・・「内蔵=うちくら」が「クラ」?
 (おほいし くらのすけ)
 別名 百官名・内蔵助
 幼名 松之丞
 仮名 竹太郎・喜内
 渾名 昼行燈
 号  可笑
 戒名 忠誠 院 刃 空  浄 剣 居士
    注正 韻 葉 句得 条 懸 遺志(意志・意思)?
 ↓↑
 万治二年(1659年)・・・萬字自然?
 ~
 元禄十六年二月四日(1703年3月20日)
 大石   内 蔵 助
 (おほいし くらのすけ)
 ↓↑
 と
 家臣団が
 元禄十五年十二月十四日
   (1702年1月30日)
 辛 巳(戊・庚・丙)
 辛 丑(癸・辛・己)
 乙 酉(庚・ ・辛)
 ↓↑
 十二月十五日未明
 本所
 吉良屋敷に討ち入り
 吉良義央
 の首を獲った
 ↓↑
 「赤穂事件」
 が起ると
 「竹田出雲」
 らにより太平記の
 「塩冶判官の物語」に仮託され
 「仮名手本忠臣蔵」として書かれ
 説話、浄瑠璃など
 日本近世文学に影響を与えた・・・
 ↓↑
 戦国武将
 「太平記」を兵法書と捉えた
 その集大成が
 『太平記評判秘伝理尽鈔』
 ↓↑
 16世紀
 カトリックの布教を行った
 イエズス会の宣教師たちは
 『平家物語』
 『太平記』
 を
 日本の歴史や文化、思想
 日本語などを学ぶための資料・教材として注目
 イエズス会が
 活版印刷で刊行したキリシタン版
         『太平記』は強い影響を与えた
    教材として『太平記抜書』刊行
 『太平記抜書』では、神仏に関する記述が
 キリスト教の唯一神(デウス)にそぐわないとされ
 「神仏」は、当時の日本における
 「デウス」・・・出碾・出碓・・・小碓命
  の同義語であった
 「天道」
 に置き換えられた
 日本語の語彙を
 ポルトガル語で説明した辞書
 『日葡辞書』でも
 語彙の説明の為の例文の多くが
 『太平記』から引用された
ーーーーー
 ・・・???・・・
   ↓↑
  「古事記字源のページの表紙・音楽・動画」
https://haa98940.wixsite.com/mysite
  ↓↑  ↓↑
 「古事記字源のページ・2016/12~」
https://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/archive/2016/12
  ↓↑  ↓↑
 本日の「干支歴」
http://meisiki.bake-neko.net/
  ↓↑  ↓↑
 旧「HP」の移転先
http://meisiki.bake-neko.net/kkmokuji.htm

 

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使用カチ・交換カチ・・・足利のカチに太平のジキはアラず

2021-05-06 14:28:18 | 古事記字源

 「徒歩(かち)の利=歩兵・足軽の利」=二股の「足利」に太平期はなし・・・

 チームワーク・・・夫々(其々・それぞれ)、個々の分担が全体の死活バランスをとっている・・・人体に巣くう共生、寄生の黴菌・・・惑鎮?
  ↓↑
 「群れる5匹のチーター」の走行・・・ビンタの制裁
 「帝国陸海軍のビンタ」・・・訓練でミスしても「生き残れる」が
 ↓↑     戦争の実践現場は「生死の境目」・・・
       しかも、「団体戦」である
       ダレかのヘマは「組織全体の壊滅」・・・

       5匹のチータのリーダーの
       抜け駆けチータに対するパンチ・・・
       5匹でも「社会生活」である
       協同社会での「活殺状況」での
       生存には規律、軍律の遵守だけでは無理・・・
       機敏で、臨機応変な判断力、身体能力が必要だ
       戦場は殺人鬼同士の「活殺の場」である
       戦争続行、継続であればその枠内で
      「生存期間の長短」は「運と時間の問題」である・・・
       イズレにせよ石器時代~現代まで
      「地球人」は命を繋いできた。人口も増加している
      「人類」は絶滅しない・・・?
       でも、「個体の人間」は生存期間の長短はアレ
       確実に「物体化」される・・・

       ↓↑
       5匹のチーター
       ビンタを喰らったドジな奴が
      「リーダー」になるって・・・
      「実力」のある存在に成長したらしい・・・
       組織に於いてサバンナの「狩り=活殺」は
       チームワークの是非にかかっている
       市民社会に国境超えて飛んでくるミサイルに
       戦線も戦場も無い・・・
       落下地点の爆発は「市民の無差別殺傷」である
       既に今現在蔓延の「Chinavirus」も然り、である
       コロナ兵器でバラマキ感染・・・
       戦時中なのに「仲良し、こよし」・・・ダレが?
       ヤツラの「魂魄意識」は「軍隊蟻」と同類である・・・
       イや以下である・・・
      「軍隊蟻」にはヤツラも「義の虫」と文字で認めているが・・・
       意味が違う・・・
      「奴らの軍隊組織」は「軍隊ビジネス」
       おまけに「売国生維持屋」はワンサか・・・
       ソウ謂えば「防衛次官・モリや某」っていたけれど・・・
       今現在は・・・あいつ等らしい・・・
       ↓↑
       さて、「倭人・和人」諸君・・・
      「憲法遵守」で「生きられる」とオモウなョなッ・・・
       改正以前にミサイルは飛んでくるし、飛んできている・・・
       改定してもゴロツキは仕掛けてくる
       武力侵略しなくても
       自国では個人で売買私有を出来ない不動産
       ヤツラは
      「和人・倭人」の土地と不動産を買い漁っている・・・
       兎に角
      「民主主義・自由主義・人道主義」で
      「軍隊組織の機能」は果たせない・・・
      「憲法護って自国市民」はマモレない
      「自衛隊」は
      「市民社会の当たり前のルール」で
      「自国民」を「無傷」で守るのが鉄則である・・・
      「自衛権」の執行は
      「正当防衛」で、「征討防衛」である
      記録された「法」をマモッテ
           「命」をオトス
      なんてコトはしない・・・
      己の息があるうちに
      ボウカンから逃げるか
      逃げ場がなければ
      暴漢をヤツケなきゃぁ・・・

 ↓↑
 チーター (Acinonyx jubatus)
 語源は「斑」を意味する「cita」というヒンズー語
 種小名「jubatus」は「鬣がある」
 「チート(cheat)」で「だます・あざむく」の意味
 ↓↑
 頭胴長(体長)110~150センチメートル
 尾 長    60~90センチメートル
 肩 高    67~94センチメートル
 体 重    35~72キログラム
 体 型    細い
        頸部から背にかけて体毛が伸長
 種小名    jubatus=鬣がある
        鬣=リョウ・ヨウ・たてがみ・うながみ
        鬣=騣・巤・騌・鬃・鬉・鬐・鬛
          Mane・Crest
          特に哺乳類の頸部、頭部に
          密集して生える長い毛
          幼獣の鬣も含め
          この伸長した体毛に由来
          毛衣は淡黄色で硬く
          黒い斑点が点在
          和名や英名は
         「胴体に斑点がある」
          という意のサンスクリット語
         「chitraka」に由来
          眼の内角から口にかけて
          黒い筋模様が入る
          この筋模様(涙状斑)は
          昼間の眩しさを和らげる機能
          尾には黒い帯模様
          先端の毛衣は白い
 ↓↑
 頭 部 小型
     耳介は小型で、やや扁平
     虹彩は黄褐色で、瞳孔は丸い
     犬歯および歯根は小型
 四 肢 細長い
     爪をおさめる鞘がなく
     爪を部分的にしかひっこめることができない
     爪がスパイク機能で速走に適している
     属名「Acinonyx=動かせない爪」の意
 ↓↑
 出産直後の幼獣
 体長30センチメートル
 体重240~300グラム
 飼育下では平均463グラム
 生後3か月以内の幼獣は
 頸部から背にかけて
 青灰色の鬣状の体毛で被われる
 この鬣は捕食者から発見されにくく
     体温調節の機能
 ↓↑
 ジンバブエ(旧ローデシア)に
 斑点が繋がり
 帯状になる
 突然変異個体(キングチーター)がいる
 この変異は劣性遺伝
 イエネコの
 タビー模様を遺伝子の変異によって、もたらす・・・?
 ↓↑
 足の利=歩行の利・走行の利
     徒歩(かち)の利=「歩兵・足軽」の利
 ↓↑
 かち=勝・徒・葛・褐・捷
 カチ=狘・㞽・姡・欪・捖
    眓・䏦・殌・䀨・䂒
    䎀・傄・嵑・猲・䛎
    䟠・䯇・䟯・㪡・㮯
    㿣・䍳・䦚・䬂・䅥
    嶡・嶱・擖・頢・㵐
    䈓・䯋・噶・獦・㵧
    噲
 ↓↑
 かち=徒・徒歩・歩・歩行
 かち=勝ち
 かち=褐
 かち=価値・直
 カチ=Cachi
 かちあう=搗ち合う
 かちあお=褐襖
 かち あがる=勝ち上がる
 かちあげ=搗ち上げ
 かちありき=徒歩き
 かちえる=勝ち得る・贏ち得る

ーー↓↑ーー

 「徒歩(かち)の利=歩兵・足軽の利」=二股の「足利」に太平期はなし・・・
  足 利  尊 氏
 (あしかが たかうじ)
 鎌倉幕府の御家人
 足利貞氏の次男
 室町幕府
 初代征夷大将軍(1338年~1358年)
 足利将軍家の祖
 姓名 源 尊氏
 ↓↑
 嘉元三年(1305年)
 ~
 正平十三年・延文三年四月三十日
 (ユリウス暦1358年6月7日)
 ↓↑
 改名 又太郎(幼名)・・・又(右手)の太い郎(やっこ)?
    高氏→尊氏
 戒名 等持院殿 仁山妙義大居士 長寿寺殿
    当字音傳 訊簒妙義碓遺志 帖拾字傳?
 ↓↑
 河内源氏
 義国流
 足利氏 本宗家
 八代目 棟梁
 足利貞氏 次男
 初めは得宗
 北条高時の偏諱を受け
 高氏(たかうじ)と名乗る
 新田義貞と同族
 ↓↑
 元弘三年(1333年)
 後醍醐天皇が
 伯耆
 船上山で挙兵した際
 その鎮圧のため
 幕府軍を率いて上洛したが
 丹波国・・・単葉句似?
 篠村八幡宮で幕府への反乱を宣言
 六波羅探題・・・六=亠+ハ=陸・ロク=録
         波=氵+皮=纂隋の化倭=名見
         羅=網の糸の小鳥=ラ=覶
 を滅ぼした
 後醍醐天皇の
 諱・尊治(たかはる)の偏諱を受け
 高氏の名を尊氏(たかうじ)に改名
 鎌倉時代の
 足利宗家当主の通字が
 「氏」であったため
 室町幕府の将軍15人の中で
 唯一「義」の字が名に使われていない
 ↓↑
 後醍醐天皇の新体制
 「建武の新政(中興)」下・・・注項の下?
 公卿
 「西園寺公宗」・・・西園寺公望
 の反乱計画発覚
 鎌倉方の残党
 「北条時行」
 が起こした
 「中先代の乱」により
 窮地に陥った弟
 「足利直義」
 救援のため東下し、乱を鎮圧
 鎌倉に留まり
 恩賞を独自に配布
 天皇と関係が悪化
 「建武の乱」勃発
 「箱根・竹下の戦い」では大勝
 第一次京都合戦
 「打出・豊島河原の戦い」で敗北
 九州に都落ちし
 太宰府天満宮を拠点に上洛して京都を制圧
 光明天皇を擁立し
 征夷大将軍に補任
 武家政権(室町幕府)を開いた
 後醍醐天皇は
 吉野に脱出し
 南朝を創始
 ↓↑
 是円・・・これ円
 真恵・・・真の恵
 兄弟らへの諮問のもと
 基本方針n
 『建武式目』発布
 隠退していた弟
 「足利直義」
 が事実上の指導者となった
 保守派で伝統的法令を取り入れた「直義」に対して
 尊氏の側近
 執事
 「高師直(こう の もろなお)
 =高階 師直( たかしな の もろなお)」
 は
 建武政権の先進的法令を取り入れ
 革新的な改革を行った
 後醍醐天皇崩御後
 菩提(ぼだい)を弔う
 天竜寺を建立
 その後
 「尊氏・師直」派
 vs
 「直義」派
 で
 「観応の擾乱」
 師直・直義の死により乱は終息
 その後も南朝や実子の
 「足利直冬」
 など反対勢力の打倒に奔走
 ↓↑
 『新千載和歌集』
 は尊氏の執奏により
 「後光厳天皇」
 が撰進を命じ
 以後の勅撰和歌集は
 二十一代集の最後の
 『新続古今和歌集』
 まですべて将軍の執奏による
 ↓↑
 足利氏の本貫(名字の根拠の地)・・・蘆の甲賀?
 下野国
 足利荘(栃木県足利市)
 上杉(うえすぎ)氏・・・上の簒の史?
 の本貫
 丹波(たんば)国
 何鹿(いかるが)郡・・・何鹿(なか・カロク)郡
 八田(やだ・はった)郷
    やつだ・はちだ・はちた
    はた・はつだ
 上杉荘(京都府綾部市上杉)
 鎌倉幕府の本拠地
 相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)
 などの説
 ↓↑
 母 貞氏側室
   上杉清子(兄に貞氏正室の
        北条顕時の娘が産んだ足利高義)
 元応元年(1319年)十月十日
 十五歳
 従五位下に叙し
 治部大輔
 同日に元服
 得宗・北条高時の偏諱を賜り
 高氏(通称は又太郎)と名乗った
 赤橋流北条氏の
 赤橋(北条)守時の妹
 赤橋登子を正室に迎える
 守時は鎌倉幕府の執権
 元弘元年・元徳三年(1331年)
 父・貞氏が死去
 足利氏の家督は兄の
 高義が継いでいたが
 高氏の元服以前に死亡
 高氏が継いだ
 ↓↑
 元弘の乱
 元弘元年・元徳三年(1331年)
 後醍醐天皇
 二度目の倒幕企図
 笠置・・・笠=竹+立
      置=罒+直
          直=十+目+乚(乙)
 で挙兵(元弘の乱)
 鎌倉幕府は高氏に派兵を命じ
 天皇の拠る
 笠置
 楠木正成の拠る
 下赤坂城の攻撃に参加
 父
 貞氏の喪中で
 出兵動員を辞退したが許されなかった
 足利氏は
 「承久の乱」で
 「足利義氏」
 が大将の一人として
 「北条泰時」
 を助けて勝利を導いて以来
 対外的な戦いでは
 足利氏が大将を務めるのが嘉例
 ↓↑
 「元弘の乱」失敗
 倒幕計画の
 後醍醐天皇廃位
 持明院統の
 「光厳天皇」践祚
 元弘二年・正慶元年(1332年)三月
 後醍醐天皇は
 隠岐島に配流
 ↓↑
 篠村八幡宮
 足利高氏旗あげの地碑(京都府亀岡市)
 元弘三年・正慶二年(1333年)
 後醍醐天皇
 隠岐を脱出
 伯耆国
 船上山
 に籠城
 高氏は幕命を受け
 西国鎮圧の
 「名越高家」
 とともに
 司令官として上洛
 高氏は
 妻  登子
 嫡男 千寿王(義詮)
 を同行しようとしたが
 幕府は人質として
 鎌倉に残留させた
 ↓↑
 名越高家
 緒戦で戦死
 後醍醐天皇の誘いを受け
 高氏は天皇方につくことを決意
 四月二十九日
 所領の
 丹波国
 篠村八幡宮(京都府亀岡市)
 で反幕府の挙兵
 播磨国の赤松円心
 近江国の佐々木道誉
 らの反幕府勢力を糾合して入洛
 五月七日
 六波羅探題
 を滅亡させた
 関東で
 上野国の御家人
 「新田義貞」
 を中心とした叛乱
 鎌倉を制圧し
 この軍勢に
 鎌倉からの脱出に成功した
 「千寿王」も参加
 ↓↑
 高氏の庶長子
 「竹若丸」
 は伯父に連れ出されたが
 脱出に失敗して途中で
 北条勢に捕まり殺害された
 ↓↑
 建武の新政
 高氏は
 鎮守府将軍・左兵衛督
 三十箇所の所領を与えられた
 ↓↑
 元弘三年・正慶二年(1333年)
 八月五日
 従三位に昇叙
 武蔵守を兼ね
 天皇の諱「尊治」から偏諱を受け
 尊氏と改名
 建武政権では自らは要職には就かず
 足利家執事
 高師直
 その弟
 師泰
 家臣多数を政権に送り込んだ
 ↓↑
 元弘三年・正慶二年(1333年)
 義良親王(後村上天皇)
 が陸奥太守
 北畠顕家
 が鎮守府大将軍に任じられて
 陸奥国に駐屯
 尊氏も
 成良親王を上野太守に擁立して
 直義とともに鎌倉に駐屯させた
 護良親王は
 尊氏を敵視し
 建武元年(1334年)・・・建の武の元を撚る?
 父の命令で逮捕され
 鎌倉の
 直義に預けられて幽閉された
 ↓↑
 「中先代の乱」
 建武二年(1335年)
 信濃国で
 北条高時の遺児
 北条時行を擁立した北条氏残党の反乱
 時行の軍勢は鎌倉を一時占拠
 直義は鎌倉を脱出する際に
 独断で護良を殺害
 尊氏は
 後醍醐天皇に
 征夷大将軍の官職を望んだが許されず
 八月二日
 天皇の許可を得ないまま
 軍勢を率いて鎌倉に向かった
 天皇は
 征東将軍の号を与え
 尊氏は
 直義の軍勢と合流し
 「相模川の戦い」
 で
 時行を駆逐
 八月十九日
 鎌倉を回復
 ↓↑
 建武の乱
 尊氏はそのまま鎌倉に本拠を置き
 独自に恩賞を与えはじめ
 京都からの上洛の命令も拒んで
 独自の武家政権創始の動き
 十一月
 尊氏は
 「新田義貞」
 を君側の奸とし
 天皇にその討伐を要請
 天皇は逆に
 義貞に
 尊良親王をともなわせ
 尊氏討伐を命じた
 奥州から
 北畠顕家
 が南下
 尊氏は赦免を求めて隠居を宣言
 直義・師直などの足利方が各地で劣勢となり
 尊氏は彼らを救うため
 天皇に叛旗を翻すことを決意
 十二月
 尊氏は
 新田軍を
 「箱根・竹ノ下の戦い」
 で破り、京都へ進軍
 ↓↑
 建武三年(1336年)
 正月
 尊氏は入京
 後醍醐天皇は比叡山へ退いた
 奥州から上洛した
 北畠顕家
 楠木正成
 新田義貞
 の攻勢に晒され
 一月三十日
 敗北
 尊氏は
 篠村八幡宮に撤退し
 京都奪還を図る
 二月十一日
 「摂津豊島河原の戦い」で
 新田軍に大敗
 尊氏は
 摂津兵庫から播磨室津に退き
 「赤松 円心」
 の進言を容れて
 京都を放棄して九州に下った
 ↓↑
 九州への西下途上
 長門国
 赤間関(山口県下関市)で
 少弐頼尚に迎えられ
 筑前国
 宗像大社の
 宗像氏範の支援を受ける
 ↓↑
 延元元年・建武三年(1336年)
 宗像大社参拝後
 三月初旬
 筑前
 「多々良浜の戦い」
  ・・・多々良=蹈鞴・踏鞴・鑪=ふいご
 で
 天皇方の
 「菊池武敏」
 らを破り
 「大友貞順(近江次郎)」
 ら天皇方勢力を圧倒し
 尊氏は、京に向かう途中の鞆で
 「光厳上皇」
 の院宣を獲得
 西国の武士を傘下に集め再び東上
 五月二十五日
 「湊川の戦い」
 新田義貞
 楠木正成
 の軍を破り
 六月
 京都を再び制圧した
 (延元の乱)
 ↓↑
 尊氏は洛中を制圧
 八月十七日
 比叡山に逃れていた天皇の顔を立てる形での和議
 後醍醐天皇
 十一月二日
 光厳上皇の弟
 光明天皇に神器を譲った
 十一月七日
 尊氏は
 明法家(法学者)の
 是円(中原章賢)
 真恵
 兄弟らへ諮問し
 『建武式目』十七条
    ・・・建の武は史記の女?
       壹拾漆(うるし)の嬢
           得留師(史・詞)
 を定め
 新たな武家政権の成立を宣言した
 尊氏は
 源頼朝と同じ
 権大納言に任じられ
 「鎌倉殿」と称した
 後醍醐天皇は
 十二月に京を脱出し
 吉野(奈良県吉野郡吉野町)へ逃れ
 光明に譲った三種の神器は偽物で
 自らが帯同したものが本物であるとし
 「南朝」を樹立
 ↓↑
 観応の擾乱
 ↓↑
 尊氏の墓(等持院)・・・等字音・答字音?
 延元三年・暦応元年(1338年)
 尊氏は
 光明天皇から
 征夷大将軍に任じられ
 室町幕府を開幕
 翌年
 後醍醐天皇が吉野で崩御
 尊氏は慰霊のために
 「天龍寺」造営を開始
 造営費は
 「元」へ
 「天龍寺船」が派遣され貿易・・・
 諸国に
 「安国寺と利生塔」の建立命令
 南朝との戦い
 北畠顕家
 新田義貞
 楠木正成の遺児
 正行
 などが戦死し
 小田治久
 結城親朝
 は南朝を離反
 正平三年・貞和四年(1348年)
 「高師直」
 が吉野を攻め落として
 全山を焼き払った
 ↓↑
 尊氏は政務を直義に任せ
 軍事指揮権
 恩賞権
 を握り武士の棟梁として君臨
 尊氏
 と
 直義
 との両頭政治・・・
 幕府内部で対立
 高師直
 と
 直義派
 の対立
 内部抗争
 「観応の擾乱」
 に発展
 正平四年・貞和五年(1349年)
 直義が師直を襲撃し
 師直側の反撃を受け
 直義が逃げ込んだ尊氏邸を
 師直の兵が包囲し
 直義の引退を求める事件が発生
 直義は出家
 ↓↑
 師直は直義に代わって政務担当で
 尊氏の嫡男
 義詮
 を鎌倉から呼び戻し
 尊氏は代わりに次男
 基氏を下して鎌倉公方とし
 東国統治の鎌倉府を設置
 直義の引退後
 尊氏庶子で
 直義猶子の
 直冬
 が九州で直義派として勢力を拡大し
 正平五年・観応元年(1350年)
 尊氏は
 直冬討伐のために中国地方へ遠征
 直義
 は京都を脱出し
 南朝に降伏し
 桃井直常
 畠山国清
 ら直義派の武将たちもこれに従った
 直義の勢力が強大になり
 義詮
 は劣勢となって京を脱出
 尊氏も
 「光明寺合戦」や「打出浜の戦い」で敗北
 尊氏は
 高師直・師泰
 兄弟の出家・配流を条件に
 直義と和睦し
 正平六年・観応二年(1351年)
 和議
 尊氏は寵童の
 「饗庭氏直」を代理人に立てたが
 氏直には
 直義に
 「師直の殺害を許可する」
 旨を伝えるように尊氏は命じた・・・
 和睦後
 師直兄弟とともに京に戻るが
 彼らに
 行列の後ろから
 三里(約2km)ばかり離れてついてくるように指示
 (『観応二年日次記』)
 師直ら
 高一族は護送中に
 父の敵として恨んでいた
 「上杉能憲」
 により殺害された
 ↓↑
 直義は
 義詮の補佐として政務に復帰
 論功行賞で
 尊氏派の武将の優先を直義に約束させ
 高氏を滅ぼした
 上杉能憲
 の死罪を主張
 直義との交渉の末、流罪にした
 直義は政務から再び引退
 ↓↑
 尊氏は
 佐々木道誉
 の謀反を名目に近江へ
 義詮は
 赤松則祐
 の謀反を名目として播磨へ
 京の東西へ出陣
 実際には
 直義追討を企てて南朝と和睦交渉
 直義は京を放棄して
 北陸を経由し鎌倉へ逃亡
 尊氏と南朝の
 和睦は同年拾月に成立
 「正平一統」
 和睦によって
 尊氏は南朝から
 直義追討の綸旨を得たが
 尊氏自身が擁立した北朝の
 崇光天皇は廃された
 尊氏は直義を追って
 東海道を進み
 「薩埵峠(静岡県静岡市清水区)の戦い」
 「相模早川尻(神奈川県小田原市)の戦い」
 などで撃ち破り
 直義を捕らえて鎌倉に幽閉
 直義は
 正平七年・観応三年(1352年)二月
 高師直の一周忌に急死
 ↓↑
 尊氏が京を不在にしている間に
 南朝方との和睦は破られた
 宗良親王・新田義興・義宗・北条時行
 などの南朝方から襲撃され
 尊氏は武蔵国へ退却したが
 すぐ反撃し
 関東の南朝勢力を破って鎌倉を奪還
 (武蔵野合戦)
 畿内で
 南朝勢力が義詮を破って京を占拠
 北朝の
 光厳・光明・崇光
 の三上皇と皇太子
 直仁親王を拉致
 近江へ逃れた
 義詮はすぐに京を奪還し(八幡の戦い)
 佐々木道誉が
 後光厳天皇擁立に成功し
 北朝が復活
 今度は
 佐々木道誉
 と対立して南朝に下った
 山名時氏
 楠木正儀
 が京を襲撃し
 義詮を破り京を占拠
 尊氏は義詮の救援要請で
 京へ戻り
 義詮とともに京を奪還
 ↓↑
 正平九年・文和三年(1354年)
 直冬を奉じた旧直義派による京への大攻勢を受け
 翌年
 尊氏は京を放棄するが
 直冬を撃退して京を奪還
 東寺の直冬の本陣に
 尊氏の軍が自ら突撃して直冬を敗走させた
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 尊氏は
 島津師久の要請に応じ
 自ら
 直冬
 畠山直顕
 懐良親王
 の征西府の
 討伐を行なうために
 九州下向を企てるが
 義詮に制止された
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 正平十三年・延文三年(1358年)四月三十日
 京都二条万里小路第(京都市下京区)
 で薨去
 死因は背中の腫れ物
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 「尊」の字
 後醍醐天皇(名は尊治)から
 1字を与えられたもの
ーーーーー
 ・・・「太平記」・・・???・・・
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