コジキのキリちゃん、砂漠で蜃気楼を追う・・・再三考・・・
2022/427・水曜日・・・追加添加・・・文・・・プラトン古事記をカタる
「絵」に関しては「渡辺崋(華)山」が「ギリシア哲学者(医者)」の「ヒッポクラティス」の「肖像」を「模写」している。彼の画題は花や、鶏、寺小屋の写生等、多岐にわたっている。だが、何故「ヒッポクラティス」なのか?彼の格言は「医学」を追求するモノとしての
「人生は短し、芸術は長し」
であった。ここでは医者で、彼の記録した「青草人」を対象にした「後輩医学生」育成の「医学書」の中での格言であるから「芸術」とは「医療技術」のコトである。みずから(自・己)医療用器具の「鉗子(カンシ)・鋏(剪み・ハサミ)」や、「ピンセット・セッシ」を造ったに違いない。それに、「包帯巻き」の技術も・・・だが、彼は絵や、彫刻、建築、音楽、詩文、文学、演劇、武術もコナス人物だった、のかも・・・古代ギリシャの人間だったから・・・その才能はマルチであった、カモ・・・
「現存・古事記」はトテモ、とてもの「乱学者」の「仕業の産物」であるとしか思えないと妄想をタケル・・・七百壱拾弐年の代物ではナイ・・・なッ?
そして、オイチョカブの「花札」である。ナゼカ、箱の絵には「天狗」の絵もあるが、「ナポレオン・ボナパルト」が描かれているモノもある。何時の時代からなのか?・・・そして、「アメ」の「小野道風」の絵の示唆である。チャンスがあったら絵柄の構成をよく見て欲しい。
「一大」発見!!?
☆(星)♂♀(金星火星水星)♪・×;;*( 音符点懸雨粒)○⊥(日杭)С(月)
∽※∽(相似方位) ■※■(大海八方大地) ▲#▼Д▲(三角井戸逆参角台3角)
地図・緯度・地理史
古事記に展開されている「場所」は何処であったのか?
下の地図を診れば中国大陸「会稽山」の近くに「東台」の地名がある。
会稽山・東台
会稽山-中華人民共和国-浙江省紹興市南部に位置する山
行政区画名.
会稽郡-紹興市一帯に設置された郡(前233年~758年)
会稽県-紹興市の旧称。→商港・小経・正慶
↓ ↓
↓ 日本の元号の一つ。持明院統(後の北朝)方にて使用 された。
↓ 元徳の後、元弘の前。
↓ 1332年から1333年5月25日までの期間を指す。
↓ 壱千参百参拾参→肇(始初)の選る纂は模擬、模倣の算を拾う纂
↓ 13=一三=いざ(伊邪)→伊邪那岐・伊邪那美の33=参拾参
↓ 三=さ・ざ・さぶ↓ ↓ ↓
↓ さむ・そ・そう↓ ↓ ↓
↓ ↓ イザ ↓
↓ 十三 ↓ ↓
とさ ↓ ↓
↓ 十六(いざ)夜 ミソあまりミツ
↓
旧名を壱参参参→位置(位地)は三山の算のネン→3×3=12→壱拾弐年(念・撚)
↓ ↓ ↓
↓ 参=參 壱が重る地(路・似・爾・邇・璽・蒔)
↓ 參=ムムム∧(人・イ・合)彡
↓ ↓ ↓
↓ 仝(ドウ・ズ・ヅ)=∧+工=同=々
↓ 三ム(シ)=三の「よこしま」
↓ ∧=人・イ・合(会・山)・彡(サン)=刷毛跡=長い毛
↓ 5月25日→ゴガツ・ニジュウ・ゴ・ニチ→語合似重語似知(比)
↓
茅山、→茅沼は「孝徳天皇(軽皇子)」の父親は「茅渟王」
別名を→捌=「8・八」の名→英語では「エイト(ッ)=eight」
↓ ↓
↓ 「H」の横倒し「工=え・エ」
↓ アルファベットの8番目→H(エイッチ)→工(たくみ)
↓ 重(絵)一致 多句見
↓ H鋼(エッチコウ)・H=水素・英土 工=コウ→乞・請
↓
畝山と称す。→「畝傍山」は奈良、三山の一←耳成山・天香久山
↓「傍(そば・ボウ)」とは漢字合体造りの「右側の字」→「畝」の右字は「久」
↓ ↓
↓ 畝(うね・せ・ボウ・モ・ホ)=亠(音の略字)
↓ 田(た・デン)
↓ 久(ひさしい・キュウ)
↓ 畝=地積の単位「歩(6尺4方)の百倍」・30歩(約1アール)
↓ 中国周王朝の一尺は「約22.5センチメートルが歩」。百歩が「畝」
↓ 訳弐拾弐点五先知目重取るが符
↓
夏朝→なつあさ→名通字→カチョウ→花鳥・可聴・華頂・科長←奈津字
↓ 夏=一+ノ+目+夂(チ・スイ・すいにょう)→壱(始)の女は水女
禹(ウ)の時代に→ウ→烏・鵜・卯・兎・宇・迂・有・得・菟・羽・雨・胡・右・得
↓ 鴉・雅・鸕・東・亀・佐・回・無・損・於・毛・音・人・左・点
↓ 禹=乃(すなわち=砂、沙の輪の地)+中(央)+冂(まき構)+ム(よこしま)
会稽山の名称が使用され、
禹が死去した地でもあり、現在も禹を祭った「禹(ウ)王廟」が位置する。
地名の由来は禹が死去する際、諸侯が一堂に会しその業績を計ったことから
「会稽(会計)」と称された。
計算を合わせる←滑稽・酷刑・国系・国景・告鶏・語句形
↓ ↓
↓ 計=言を拾う 刻計→時計→字形
↓ 会=八+亠(音略・鍋蓋)+ム→八+二(次・爾・邇)+ム
↓ 計=言+十(拾)
↓ ∥同義異字
↓ 稽=禾+尤+旨(七日)→能義の異なる旨さ(小刀・とうす)
↓ 禾(のぎ)のモットモな旨さ・退きの夕の比の日
↓ ↓
↓ 乃木希典の甚だしい七日→二〇三高地
↓ ↓ ↓
↓ 妻の名は「御七=静子」 念 残の高知
↓ 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職
↓ ↓ ↓
↓ ↓ 壱(イチ)を拾(ひろう)
↓ ↓ 壱(イチ)通記(つき)
↓ ↓ 漆(うるし)の爾(ジ)を知(しる)
↓ 明治37年(1904年)6月6日、乃木は「塩大澳」に上陸した。
↓ このとき乃木は、大将に昇進し、同月12日には正三位に叙。
↓ 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、
↓ 8月7日に第1回目の、10月26日に第2回目の、
↓ 11月26日に第3回目の総攻撃。
↓ また、白襷(たすき)隊ともいわれる決死隊による突撃
↓
五鎮名山の中の南鎮→五鎮名の纂→鎮星(金眞日生)→土星→鎮(魂)星
↓ 何時陳(列)名参(考)→五瀬命→神武(磐余)の兄
↓ ↓ ↓
↓ ↓ 古事記・中巻日下の楯津(蓼津・隼都)で戦死
↓ 真木和泉・来島又兵衛←日下玄瑞←蓼=丱+参=たで
↓ ↓
↓ マキ=「巻・真紀・磨記」・イヅミ=泉・出水・伊豆見・緯度視
↓ ↓
↓ 医学所・好生館で学←名は通武・義助・号は江月斎
↓ 汚なきヤツ→黒→九=玖(王+久=王宮・長)=黒曜石=石器→節季
↓ 記他(北=玄武=黒色・虚宿)名記夜通→ヨゴレるヤツ=輿呉列留埜通
↓
北鎮-幽州・医巫閭山(遼寧省・北寧市)→医者・巫覡(フゲキ・かんなぎ)
東鎮-青州・沂山(山東省)
沂(キ・ギ・ギン・ゲ・ゴン・畔・辺・淵・縁・隈=垠)→熊
↓ ↓ ↓
↓ 沂=氵(水)+斤→「沂水」は河で、汶水(河)と合流 くま=曲がる
西鎮-雍州・呉山(陝西省・隴県)→呉→ゴ・くれ→暮れ・黄昏→繰れ
中鎮-冀州・霍山(山西省・霍州)→霍→ジャク→弱・若・字訳→すずめ=珠洲目
南鎮-揚州・会稽山(浙江省・紹興)→紹介・昭光・小経
↓ ↓
↓ 正慶
↓ ↓
↓ 正慶(しょうきょう、しょうけい)年号は、→正教・承継・象形・小計・小景
↓ 1332年~1333年5月25日まで→壱千参百参拾参・壱参参参
↓ 語画通・二重(念)語
↓ 持明院統(北朝)で使用された。→字名音統一
↓ 1331年9月1日(元徳三年八月九日)、
↓ 鎌倉幕府は
↓ 後醍醐天皇→語体語・語対語
↓ (大覚寺統・南朝)の→難聴な大學の字の統一
↓ 「元徳から元弘」の改元を認めず、→言解く・原稿・言行
↓ 執権
↓ ↓
↓ 北条守時は光厳天皇→修辞・巧言
↓ (持明院統・北朝)を即位させ→字妙音の統一
↓ 1332年5月23日
↓ (元徳四年・元弘二年四月二十八日)に→言解く思念・言行字念
↓ 詞画通・二重葉値比
↓ 光厳天皇は「正慶」に
↓ 代始改元した。→台詞改言・太子戒厳・大師開眼・題詞解言
↓ 1333年5月25日→壱千参百参拾参「撚」語付記弐拾五似知
↓ (正慶二年/元弘三年七月七日)→言行残念タナバタ→多名葉多
↓ 後醍醐天皇が還幸し、光厳天皇は退位、鎌倉幕府は滅亡。
↓ 「正慶」の元号は廃され、
↓ 翌年
↓ 1334年3月5日(元弘四年一月弐拾九日)に→イザ(伊邪)ミヨ、纂の語
↓ 「建武」と改元。→建武の中興→倭建・天武・文武・若建・則天武后
↓ 後醍醐天皇は、光厳天皇の即位と、
↓ 「正慶」の元号の無効宣言。
↓
春秋時代には越の国都として発展していた。→シュンジュウ=主無自由
呉と越がこの地域において対立していた。→呉(くれ・ゴ)=繰れ語・
越王 勾践は→クセン=句選(撰) 越(こえる・エツ)=声留・曰閲
呉王 夫差に敗れて会稽山に逃げ込み、→フサ→譜差
夫差の下僕になるという屈辱的な条件によって和睦し、
↓ クツジョク→句通序句→古事記序文
↓ クツジョク→沓(くつ・トウ・ドウ)字輿(与)句→沓合・沓潮・沓至
助命された(『史記』の越王勾践世家)→ジョメイ=女名・女姪・序名
↓ 鋤名・除名・舒明→舒明天皇
後に勾践は夫差を討って呉を滅ぼす。→苦戦・負さ・互→互換→語幹・後漢・五巻
↓ 勾=勹+ム・践=足+戔→素戔嗚=素盞嗚=素戔呼(素戔烏・素戔雄)
↓ ↓
↓ 須佐之男→彡頁イ(人)左之田力→ソセン(祖先)は烏
↓ ↓ 烏丸
↓ ↓ 烏桓(烏丸)
↓ ↓ 前漢から南北朝時代の北方遊牧民
↓ 須佐之男の妣(はは・ヒ・女比)の國は
↓ 「根の堅州國」→中国・契丹(キャセイ)=Cathay→カタイ→堅塩姫→蘇我
↓ 契丹(きったん、キタン、キタイ・Cathay・Khitan・Khitai
↓ ピンイン: Qìdān)は、
↓ 4世紀から14 世紀にかけて、満州から中央アジアの地域に存在した
↓ 半農半牧の民族。
↓ 10世紀初頭に 現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。
↓ ↓
↓羈縻政策(キビセイサク)とは→吉備→備前・備中・備後→黍→吉備真備→阿倍正弘
↓ ↓
↓中国の唐王朝によっておこなわれた周辺の異民族に対してとった統御政策の呼称
↓古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。
↓周辺の異民族・諸国家に対し政治的・軍事的・文化的に従属関係を作りあげたが
↓ これらの具体化が領域化(内地化)・覊縻・冊封などであった
↓ 領域化は支配地に内地と同じ州県を設置し、唐朝から官僚を送り込んで
↓ そこの住民を唐の国法下に置いて直接支配することであり,
↓ 冊封は周辺民族・国家の首長に
↓ 唐の官爵を与え唐王朝の支配秩序に組み込むことである。
↓ 天下りシステム日本!!
↓
この話から、敗戦の恥辱や他人から受けた辱めを
「会稽の恥」という故事成語が生まれた。
前210年 始皇帝による会稽巡幸が行われた。
前漢 漢初、会稽郡は呉郡と称された。
前202年 劉邦は韓信を楚王に封じ、秦代の
会稽郡、
東海郡
泗水郡
薛郡 陳郡 楚国 を設置した。
129年(永建4年)、会稽郡北部の
13県に呉郡を設置→13=「壱拾(足)参・壱参・十三」に懸ける
192年(初平3年)には
新安県→新案
長山県 を、 →訳語(おさ)の纂(サン)を懸ける
195年 興平2年)には
呉寧県を、
196年 建安 元年)には →懸案(ケンアン)
松陽県
建安県
漢興県
南平県を、
200年(建安4年)には
豊安県を、 →豊国の安倍→大分豊後の阿毎王朝→三浦按針の漂着
205年(建安10年)には 建平県を、
218年(建安23年)には 遂昌県及び 定陽県を新設
袁術の部将の→袁世凱
孫策が揚州に侵攻すると、
会稽太守であった
王朗はその攻撃に耐えられずに降伏、
以降は
孫策が会稽太守を自称した。
孫策は後に袁術から自立し後漢朝に帰服を申し出たが、
中原の戦乱に苦しむ後漢朝の支配は揚州方面にまでは及ばず、
孫策の死後は弟の孫権に会稽太守の地位が継承された。
孫権は
208年、
曹操(魏の武帝)を →草々・怱々・草創・早々・葬送・錚々
草壁→日下の部→久坂玄瑞
赤壁の戦いで破り→関日置(セキヘキ)→赤璧(あかだま)姫
呉の創始者(大帝)となる。
隋唐589年(開皇9年)、
旧会稽郡は呉州に改編、山陰、上虞、始寧、永興4県を統合し
会稽県、
余姚、?、?3県を統合し 句章県が設置された。→ 余は女の兆
605年 ( 大業初年)に呉州は 越州と改称、→越前・越中・越後
607年(大業3年)には会稽郡と改められ、
会稽、句章、諸曁、?4県を管轄した。 →曁→既に旦(朝陽・旭日)
唐朝 が成立すると 621年(武徳四年)、
会稽郡が廃止となり
越州を再設置、
会稽、諸曁、山陰3県を管轄した。
742年( 天宝元年)、越州は会稽郡と改称、7県を管轄した。
758年 乾元元年)に再び越州と改編し会稽郡の行政区画は消滅
東台(東臺=Dōngtá・ドンタイ)市(トウタイ-シ)は
中国江蘇省
塩城(鹽城=Yánchéng・イェンチェン)市に
↓
中心座標
↓
北緯33度23分秒 東経120度7分秒
↓ ↓ ↓
1)ホクイ参拾参ド弐拾参フン 2)トウケイ壱百弐拾ド七フン
↓ ↓ ↓
↓1)補句意纂拾う算渡(図)二重山分(雰=雨分)→阿蘇山の外輪内輪
↓2)闘鶏壱百(珀=王白)二重都史地府務→「闘鶏」は阿毎王朝の壱与
↓ ↓
↓ 隋書俀(イ+妥)人伝→随処(随所)にイを妥-協、合-掌
↓ 開皇二十年、→開港念(20の漢数字)撚(捻)
↓ 倭王姓阿毎、→阿毎は「阿部・阿倍」
↓ 字多利思比孤、→字(あざな)は「多の利を思い比べる弧(天体12区分)」
↓ ↓ 太の歳を想い比較する円弧
↓ 號阿輩雞彌、→「奚+隹+弓+爾」→爪幺一人隹弓爾→奚(ケイ)+隹(スイ)
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ケイスイキュウジ ↓
↓ ↓ 系垂旧事(旧字・給仕・給餌) ↓
↓ ↓ ↓
↓ ↓ 號=号+虎・阿=阜+可・輩=非+車 ↓
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ 輩=ならぶ・列・車の列 ↓
↓ ↓ 奈良武 ↓ ↓
↓ ↓ 同輩の年齢順序↓
↓ ↓ ↓
↓ ↓ 津女は幼い壱の人、隹=旧(舊)鳥、球の地(児・字)←球磨(くま)
↓ ↓ ↓
↓ ↓ ミミズク(木菟、木兎、鵩、鶹、鵂、角鴟、鴟鵂、耳木菟、耳木兎)は
↓ ↓ フクロウ科のうち 羽角(ウカク、いわゆる「耳=ジ」)がある種の総称
↓ ↓ 古名はツク。ズクとも。フクロウには 含めることと含めないこととがある
↓ ↓ 羽角とは、哺乳類の耳(耳介)のように突出した羽毛 である
↓ ↓ 梟(ふくろう・みみずく=木菟=owl・アウル)の意味
↓ 遣使詣闕。
↓ 上令所司訪其風俗。
↓ 使者言倭王
↓ 以天為兄、→夜空の天体観測
↓ 以日為弟、→昼間の太陽観測
↓ 天未明時出聽政、
↓ 跏趺坐、→足+加+足+夫→あぐら(胡座)=結跏趺坐
↓ ↓ ↓
↓ 日出便停理務、 胡=「西洋・中東」の座→星座
↓ 云委我弟。
↓ 高祖曰→高祖→高御産巣日・高木神
↓ 「此太無義理」→太(おほの)→太安萬侶→はなはだ無義理
↓ 於是訓令改之。 葉名頗(皮頁・よこしま)拿
↓ ↓
↓ 壱(イチ=はじめ・元・始(女+台)・位置・位地)は百(モモ=ももそ媛)
↓
位置する県級市。
塩城市は江蘇省東北部の海岸部に位置し、
黄海、海岸沿いには広い
砂浜や
干潟が広がり、
野鳥や魚介類の重要な生育地。→夜鳥(梟・ふくろう)・家鳥(鶏・にわとり)
↓ 魚貝類→魚(まな・ギョ)と貝(かい・ハイ・バイ)の類
↓ 真名に介在、介入・介錯(カイシャク)
↓ ↓ ↓
↓ 真名仮名=漢字 解釈
↓ ↓
↓ 介鳥=雉(きじ)→生地・記事・木地
↓
北は連雲港市、→連雲→連なるアメの云々→八雲
西は淮安市、揚州市、→揚(あげる・ヨウ)=「扌(手)+易」の州(くに)
南は泰州市、南通市に隣接。→何通の詞
↓
塩(鹽・盬・鹵)城は後漢末期の
「献帝時代」に→献=南の犬の帝→卑弥弓呼
「建安の七子の一」の文人
「陳琳」、南北朝時代の名医である
「徐道度」、清代の治水家
「憑道立」、その他明代・清代には詩人の
「呉嘉紀」や
「孫玉樹」、書法家の
「宋曹」、書家の
「萬嵐」、講談師の
「評書」の創始者
「柳敬亭」が輩出した場所である。
↓
塩城付近は
周以前は淮夷の住む地域の土地であり、
周代には
青州に、
春秋時代には
呉、
戦国時代は
楚に属していた。
秦代には郡県制導入の結果、東海郡となった。前漢の初期に「射陽侯・劉纏」が封じられ、漢の武帝四年(紀元前119年)に「塩涜(瀆=氵+賣)県」が置かれた。
これが塩城に県が置かれた最初である。三国時代は魏の一部となり県制度は廃止。西晋が県制を復活。東晋の「義熙七年(411年)」に「塩城県」と改められたのが「塩城の名の始まり」。南北朝では「塩城郡」であった。
隋王朝初期には「塩城県」となったが、隋末期に「韋徹」が塩城に本拠を置き王を称し、「新安県」と「安楽県」に分割した。唐王朝に「塩城県」が「復活」し、宋代には楚州に、元代には「淮安路」に、明代には「淮安府」に属した。清王朝初期に江南省の一部となった。「康熙六年(1667年)」に江蘇省の一部となった。
中華民国初期、江蘇省第十行政督察区の一部。1946年「葉挺市」と改名。後に元の塩城県に戻された。塩城県以外の県は、清の「雍正九年」に「阜寧県」が、「乾隆三十三年」に「東台県」が、日中戦争時に「台北県」・「塩東県」・「阜東県」・「建陽県」が建てられている。1966年、新たに「響水県」が誕生した。
1983年に塩城県が廃止され、新たに塩城市となり、その下に城区・郊区と響水県・浜海県・阜寧県・射陽県・建湖県・大豊県・東台県の七県が置かれた。
1987年には前後して「東台県」と「大豊県」が市となり、
1996年には郊区が廃止され「塩都県」となった。
2004年には城区が「亭湖区」に、「塩都県」が「塩都区」に改められた。
・・・「塩」である・・・「エンジョウシ」の周辺、一円の「地名」とそこに登城した歴代の「人物名」と「履歴」である・・・「懸けられている」のである・・・
「カケ」である。算数の掛け算ではない。
「文字同音のカケ産・化卦算」である。そして
、「炎上死」したのは「垂仁天皇の妃、佐本媛=沙和遅媛」
↓
かけ・カケ→懸け・賭け・欠け・駆け・架け・翔け
書け・描け・画け掻け・駈け・加計・斯け
で、「か・カ」と「け・ケ」の「音声文字」のスベテである。そして、「稲城で炎上死」したのは「品牟都和氣(気)命=本牟智和氣(気)命」の母で、「垂仁天皇の后=きさき=妃、佐波遅比賣=沙本毘賣」であった。いずれもこの母子の「二つの名前」が「異字の漢字」で記されている。カケられている「キイポイント」は「本=書籍」である。「蘇我馬子・蝦夷・入鹿」の「島大臣の館」が「乙巳(いつし・いつみ・おつみ)の変(645=陸肆伍=六百四拾五年)」で「炎上」し、「天皇記・国記(旧事=舊事本紀・帝紀?)」が燃えた(?)記事は曖昧である。翌6(六・陸)月13(壱拾参)日、蝦夷は舘に火を放ち「天皇記」、「国記」、その他の珍宝を焼いて自殺。「船史恵尺」が「国記」を火中から拾い出して中大兄皇子へ献上。「船史恵尺」とは名前からして「航海日誌の恵みの尺度」である「海図・地図」である。江戸時代では「シーボルト事件」である。そもそも「大化=たいか=大火→他意化・鯛化・対価→太化」の「改新」である。
「天皇記(てんのうき、すめらみことのふみ)」は、620年(推古天皇28年)に「聖徳太子」と「蘇我馬子」が編纂したとされる歴史書である。
「日本書紀・推古弐拾八(28)年の是歳条」←「28」とは「稗田阿礼の年齢」であり、「宿曜経の二十八宿の星座数」であった。「20の数字」には「念」の漢字が「宋王朝」から使われだしたらしい。「8」は「ハ(言葉)」であり、「捌(ベツ・仕分ける・分別・区別)」の漢字があてられる、である。
↓
「皇太子・嶋大臣共に議はかりて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
・・・古代国家、奈良時代から戦国時代、そして江戸時代末期まで、多くの歴史上の「楼閣、砦、城、館、寺、宿場、町並み」が戦(いくさ)で「炎上」した。
「蘇我氏の館(645年)」、
「白村江での軍船(663年)」、
「不破の道(関)にある家(壬申の乱・天武元年(627・六百弐拾七年)六月弐拾四日(七月弐拾七日)」、
「七」は「漆(うるし)」で、「氵(シ・水・サンズイ)+黍(きび)」ある。「きび」とは「吉備」であった。
「不破の道(関)の美濃国の多品治(おほの・ほんじ)の蜂起、占拠は天武側への加担であった」、
「東大寺大仏殿(平重衡が南都を攻め、この兵火(治承四年・1180・12月弐拾八日)、東大寺も大仏殿、伽藍の大半を焼失」、
「三好松永の乱(永禄十年・1567・十月十日)で東大寺の大伽藍を再び炎上灰燼」、
「御所は・ 1159(平治元)年12月9日から、江戸時代、宝永大火(1708年月8日、天明大火年月日
火事での蔵書書物は甚大である・・・「本・書籍・記録の火災での焼失」である・・・
「・・・寺院(ジイン)・京都(キョウト・京師)、町並・石山本願寺・本能寺・安土城・大阪城・江戸城・江戸町並・吉原の廓(郭・くるわ)・会津若松城・榎本武楊の軍艦・蝦夷函館・五稜郭」等が炎上した。・・・「京都」は「京師(ケイシ)」ともきろくされ、同字異音漢字の「京師(キョウシ)」は戦前の教師の育成学校、「京都師範学校」の略である。今現代の「教育大学」である。ナニを教えてきたんだか・・・?
・・・漢字の「本」と言う文字が記録されているのは「石山本願寺・本能寺・榎本武楊」である・・・「本」である。そして「多品治(おほの・ほんじ=本字)」の「品治」で、「多(おほの)」は「太(おほの)安萬侶」の「おほの」である。
・・・アマ・リ・ニモ、フ・ザケ・テ・イ・ル・・・が、これが「二本文化」と、云うものである。
算数の掛け算の「カケル記号」が「×」であるならば、文字は片仮名の「メ」であり、類似するのは「〆」である。「×」は拒否、否定、不可の「ぺけ・ダメ・バツ」であり、「十」をナナメにした文字で、ローマ数字の「10」である。「10」そのものは「アラビア(亜剌比亜)数字」で、「十」とは「足(たり)」であった。象徴的なのは「十字架」で、金星記号の「♀=○+十」で、「エジプト(埃及)王の杖」の「アンク」であった。更には甲骨文字は「七(一+L)」と「十」が曖昧である・・・「L」とは「乙(オツ・ツ・イチ・きのと・おつ・おと)の略字」で、しかも英語の「エル(L)」であった。「エル(L)」とはアルファベットの「12字」で、数字の「50=五拾」である。英和辞典では象徴的な「L」とは「高架鉄道(elevated railroad)」で、「家の翼、袖(そで)」とある。「La(ラ)」は音階の「ドレミファソラシド」の「弟6音」である。「ロクオン」とは「録音」で、音の記録である・・・現在コンピュータで使用されているのは「ログオン(logon)」、「ログイン(login)」である。「log」「とは「丸太・航海日誌・測程儀」である。「logarithm」とは「対数」である。すべて「logic」で、「Logos」である。
なんで、カミの言葉が「丸太」なんだか、「イエス(神の子→父と子と聖霊の三位一体の二位)」は大工の息子だった、らしいが「太安萬侶(丸・円・○)」、丸太の安売りは「火事の前」が相場であるな。
丸太商人は
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「紀伊国屋文左衛門(キのクニヤ ブンザエモン)である。
寛文9年・1669年?~享保19年4月24日・1734年5月26日」は江戸元禄期の商人。
元姓は「五十嵐」氏。
名は「文吉」。
俳号は「千山」。
略して「紀文」、
「紀文大尽」。
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紀州湯浅(和歌山県有田郡湯浅町) 出身。文左衛門が「二十」代の頃、紀州「みかん(橘)」や「塩鮭」で富を築いた。元禄年間には江戸「八丁堀」へ住み、江戸幕府の側用人「柳沢吉保」や勘定奉行の「荻原重秀」、老中の「阿部正武」らに賄賂を贈り接近。上野寛永寺「根本」中堂造営で巨利を得て幕府御用達の「材木商人」となるも、深川「木場」を「火災」で焼失、材木屋は廃業。 また、幕府から十文銭の鋳造を請け負って造った十文銭は質が悪く、五代将軍綱吉の死と同時にこの十文銭は1年で通用停止。晩年は 浅草寺内から「深川八幡」に移り、「宝井其角」らの文化人と交友。「千山」の俳号を名乗った。享保19年(1734年)に死去したとされる。「享年66才」。 紀伊國屋は2代目文左衛門が継いだが、衰退。八丁堀に広大な邸を構え、吉原での豪遊の逸話がある。