行ってきました
>明日香保存財団主催の「飛鳥学講演会」
今回のお題は”飛鳥の大寺から平城の大寺へ”
まずは講演に先立って、明日香村教育委員会の高橋さんから
明日香村の発掘報告を聞き、
それからお二人の先生のお話へ。
一人目は菅谷文則先生。
「留学僧と大寺」というお題でのお話です。
遣唐使というと難破して命を落とす人が多かったというのが”常識”だけど、
生還率(をい)でみれば、10人のうち8人は戻ってこれたという。
となれば、船が難破・座礁して被災したものは多かったとしても、
遣唐使の死亡率は思っていたほどには高くないというのが実情らしい。
へー。そうなんだ。
仏教が伝わったということはそれ以上に、
仏教にまつわる人々も来日したということを意味する。
寺を建てる技師や、暦、五経、易、薬、音楽、瓦、書、画、
その他の技術を持った人々もそれに乗じて来日している。
仏教が伝わった頃に大量の僧が来日したということはなく(記録上80人強)
どちらかといえば遣唐使として日本から海外に渡った人(僧)の方が多いとのこと。
留学生(僧)は一度に同じ船で大陸に渡っていくが、現地についたらそれぞれの
勉強をして目的を達成したなと思うところで帰国するのでかえりはバラバラ。
次にやってくる遣唐使船の帰りの便に乗せてもらったり、まだまだ勉強が足りないと
思えば居残って勉強を続けたり。
こっちから勉強で行った坊さんの中で有名なのは定恵@藤原鎌足の長男とか、
道昭@日本で初めて火葬にされたという記録を持つ人。
あと、玄@大仏建立に関与した人や、戒律を授けてくれる高僧を探しに出た
栄叡や普照などがいる。(普照は鑑真和上とともに帰国できたけど、栄叡は客死)
この道昭って人が結構、藤原京の時代に朝廷に影響力を持っていた人のようで。
道昭自身は火葬にされたけど、その二年後に天皇として初めて火葬にされたのが持統天皇。
きっと持統天皇は道昭を重用したいたんだろうなと思わせるような出来事です。
マンガ『天上の虹』では、持統天皇が「死んだらどんな骨壷に入ろうかしらね♪」
なんていっているシーンもありましたっけ。
この道昭がおべんきょしていたのが長安。いまの西安です。
大雁塔が見え、なおかつ、小雁塔も見える位置に居を構えていたようです。
右に見える大雁塔、左に見える大雁塔。(かな、逆だったっけな)
このハナシを聞いた持統天皇が、んじゃ塔は二つ造りましょう!
ってしたのかも~という妄想も生まれるってもんです。
実際、塔はそれまで伽藍の中で一番重要な建物でしたが、
次第に装飾としての要素を含むようになり、
どんどん高層化していきました。
薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものは、東西に塔を置く伽藍形式ですが、
お釈迦様のお舎利を置く「ハカ」としての建物が、
東西に二つもあるという不思議な状態になるのでした。
塔を二つ持つお寺の建立。
もしこれも遣唐使として、大陸に渡り、
それらのモノを検分してきた僧たちの
経験を反映した上での寺作りなのだとしたら、
大寺の設計ってのもかなり遣唐使や留学僧たちは
密接な関係があったのだなっとうかがわせます。
休憩をはさんで木下正史先生による講演は、発掘が語る「飛鳥の大寺」。
仏教はまず伝来したときには、各家の中に仏像を安置し、
それを拝むというタイプの”テラ”ができ、
もともと邸宅であったものを寺院とするような”捨宅寺院”の建物に代わる。
その次が、豪族(蘇我本家)による私立寺院の建立で
日本最初の伽藍寺院である飛鳥寺が建つ。
その後は、氏寺(私寺)から官寺(国立の寺)へ。
大寺の歴史は舒明天皇が百済川のほとりに九重の塔(!)を建てたという、
百済大寺に始まると見られる。
この寺と見られているのが吉備池廃寺。
おお、奈良検定で場所の位置を問う問題が出たっけ。
舒明天皇崩御後は「大宮」は放棄されたが、
「大寺」は皇極天皇、天智天皇によって造営が継続。
その後、天武天皇の頃に百済大寺を高市へ移したので「高市大寺」と呼ばれ、
のちに「大官大寺」と改称された。
そして、大官大寺は文武天皇の頃には藤原京に移ったらしい。
何故か『続紀』には記されてないのだけど、『扶桑略記』には
「和銅4年大官大寺、藤原宮焼失す」と残されている。
藤原宮の大官大寺は焼けてなくなってしまったという記録を裏付けるように、
その跡地から、焼け崩れて落ちた黒こげの柱跡が出てきたことから、
火災にあって失われたものであるとうことが裏付けられた。
で。
ここで一つのナゾが。
どうやら大官大寺は二つあったらしいということ。
つまりは天武朝の大官大寺と、文武朝の大官大寺があったんだということ。
こんなこと前から知ってる方にしてみたら「ナニヲイマサラ」なのだろうけど。
私にしてみたら「ええ~?!」でした。
いただいた資料によれば。
1)天武朝大官大寺は、『書紀』『大安寺伽藍縁起』では大寺院として整っていたことが示唆されている。
2)発掘した大官大寺跡は、文武朝創建のもの。前身寺院を修造したものではない。
3)天武朝大官大寺と文武朝大官大寺の併存
(1)『大安寺伽藍縁起ナラビ流記資材帳の記載によれば、
①冒頭の縁起文では文武天皇造立の丈六仏のことを記載してある
②しかし、資財の条では文武造立の丈六仏の記載を欠く。(和銅4年の火災で焼失したためか?)
(2)資財の条で、舒明12年(640)施入の灌頂幡、皇極・天智天皇施入の仏、
天武・持統天皇施入の繍仏・経巻の伝存を記述してある。(これは火災で焼失を免れたため?)
4)平城京大安寺に伝存していた資材には、舒明・皇極・天智・天武・持統天皇の施入物あり。
(1)文武天皇の施入物は伝存していない。
それは何故か?
文武天皇造営の大官大寺と、天武天皇建立の大官大寺が別の寺で、
両寺が併存していたとすれば、ナゾは解けるのではないかと、いうことなんだそうな。
それには、天武天皇の建立した大官大寺がどこにあったのかを明確にしなくてはならないことに。
さーどこに埋まってんだろ。ワクワク。
うみゅみゅと思っているうちにハナシはドンドン進み、講演会はお開きとなりました。
なんか自分の中でこなれる前に話が終わってしまった感があるのですが。
まあ、これから先のことについては「夏休みの宿題」もしくは「自由研究」ってことになるかと。
それらについてはこちらのサイトにも詳しい記述があるのでご参照ください(って丸投げ)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ootera.htm
あたしは、奈良検定の勉強もあるのだよ。
ぶちぶち。
こうしてみると私、飛鳥の土地鑑ないのがバレバレだなあ。
奈良通いというか、飛鳥通いもせんといかんなあ。
※いかんのか?(笑)
>明日香保存財団主催の「飛鳥学講演会」
今回のお題は”飛鳥の大寺から平城の大寺へ”
まずは講演に先立って、明日香村教育委員会の高橋さんから
明日香村の発掘報告を聞き、
それからお二人の先生のお話へ。
一人目は菅谷文則先生。
「留学僧と大寺」というお題でのお話です。
遣唐使というと難破して命を落とす人が多かったというのが”常識”だけど、
生還率(をい)でみれば、10人のうち8人は戻ってこれたという。
となれば、船が難破・座礁して被災したものは多かったとしても、
遣唐使の死亡率は思っていたほどには高くないというのが実情らしい。
へー。そうなんだ。
仏教が伝わったということはそれ以上に、
仏教にまつわる人々も来日したということを意味する。
寺を建てる技師や、暦、五経、易、薬、音楽、瓦、書、画、
その他の技術を持った人々もそれに乗じて来日している。
仏教が伝わった頃に大量の僧が来日したということはなく(記録上80人強)
どちらかといえば遣唐使として日本から海外に渡った人(僧)の方が多いとのこと。
留学生(僧)は一度に同じ船で大陸に渡っていくが、現地についたらそれぞれの
勉強をして目的を達成したなと思うところで帰国するのでかえりはバラバラ。
次にやってくる遣唐使船の帰りの便に乗せてもらったり、まだまだ勉強が足りないと
思えば居残って勉強を続けたり。
こっちから勉強で行った坊さんの中で有名なのは定恵@藤原鎌足の長男とか、
道昭@日本で初めて火葬にされたという記録を持つ人。
あと、玄@大仏建立に関与した人や、戒律を授けてくれる高僧を探しに出た
栄叡や普照などがいる。(普照は鑑真和上とともに帰国できたけど、栄叡は客死)
この道昭って人が結構、藤原京の時代に朝廷に影響力を持っていた人のようで。
道昭自身は火葬にされたけど、その二年後に天皇として初めて火葬にされたのが持統天皇。
きっと持統天皇は道昭を重用したいたんだろうなと思わせるような出来事です。
マンガ『天上の虹』では、持統天皇が「死んだらどんな骨壷に入ろうかしらね♪」
なんていっているシーンもありましたっけ。
この道昭がおべんきょしていたのが長安。いまの西安です。
大雁塔が見え、なおかつ、小雁塔も見える位置に居を構えていたようです。
右に見える大雁塔、左に見える大雁塔。(かな、逆だったっけな)
このハナシを聞いた持統天皇が、んじゃ塔は二つ造りましょう!
ってしたのかも~という妄想も生まれるってもんです。
実際、塔はそれまで伽藍の中で一番重要な建物でしたが、
次第に装飾としての要素を含むようになり、
どんどん高層化していきました。
薬師寺式伽藍配置と呼ばれるものは、東西に塔を置く伽藍形式ですが、
お釈迦様のお舎利を置く「ハカ」としての建物が、
東西に二つもあるという不思議な状態になるのでした。
塔を二つ持つお寺の建立。
もしこれも遣唐使として、大陸に渡り、
それらのモノを検分してきた僧たちの
経験を反映した上での寺作りなのだとしたら、
大寺の設計ってのもかなり遣唐使や留学僧たちは
密接な関係があったのだなっとうかがわせます。
休憩をはさんで木下正史先生による講演は、発掘が語る「飛鳥の大寺」。
仏教はまず伝来したときには、各家の中に仏像を安置し、
それを拝むというタイプの”テラ”ができ、
もともと邸宅であったものを寺院とするような”捨宅寺院”の建物に代わる。
その次が、豪族(蘇我本家)による私立寺院の建立で
日本最初の伽藍寺院である飛鳥寺が建つ。
その後は、氏寺(私寺)から官寺(国立の寺)へ。
大寺の歴史は舒明天皇が百済川のほとりに九重の塔(!)を建てたという、
百済大寺に始まると見られる。
この寺と見られているのが吉備池廃寺。
おお、奈良検定で場所の位置を問う問題が出たっけ。
舒明天皇崩御後は「大宮」は放棄されたが、
「大寺」は皇極天皇、天智天皇によって造営が継続。
その後、天武天皇の頃に百済大寺を高市へ移したので「高市大寺」と呼ばれ、
のちに「大官大寺」と改称された。
そして、大官大寺は文武天皇の頃には藤原京に移ったらしい。
何故か『続紀』には記されてないのだけど、『扶桑略記』には
「和銅4年大官大寺、藤原宮焼失す」と残されている。
藤原宮の大官大寺は焼けてなくなってしまったという記録を裏付けるように、
その跡地から、焼け崩れて落ちた黒こげの柱跡が出てきたことから、
火災にあって失われたものであるとうことが裏付けられた。
で。
ここで一つのナゾが。
どうやら大官大寺は二つあったらしいということ。
つまりは天武朝の大官大寺と、文武朝の大官大寺があったんだということ。
こんなこと前から知ってる方にしてみたら「ナニヲイマサラ」なのだろうけど。
私にしてみたら「ええ~?!」でした。
いただいた資料によれば。
1)天武朝大官大寺は、『書紀』『大安寺伽藍縁起』では大寺院として整っていたことが示唆されている。
2)発掘した大官大寺跡は、文武朝創建のもの。前身寺院を修造したものではない。
3)天武朝大官大寺と文武朝大官大寺の併存
(1)『大安寺伽藍縁起ナラビ流記資材帳の記載によれば、
①冒頭の縁起文では文武天皇造立の丈六仏のことを記載してある
②しかし、資財の条では文武造立の丈六仏の記載を欠く。(和銅4年の火災で焼失したためか?)
(2)資財の条で、舒明12年(640)施入の灌頂幡、皇極・天智天皇施入の仏、
天武・持統天皇施入の繍仏・経巻の伝存を記述してある。(これは火災で焼失を免れたため?)
4)平城京大安寺に伝存していた資材には、舒明・皇極・天智・天武・持統天皇の施入物あり。
(1)文武天皇の施入物は伝存していない。
それは何故か?
文武天皇造営の大官大寺と、天武天皇建立の大官大寺が別の寺で、
両寺が併存していたとすれば、ナゾは解けるのではないかと、いうことなんだそうな。
それには、天武天皇の建立した大官大寺がどこにあったのかを明確にしなくてはならないことに。
さーどこに埋まってんだろ。ワクワク。
うみゅみゅと思っているうちにハナシはドンドン進み、講演会はお開きとなりました。
なんか自分の中でこなれる前に話が終わってしまった感があるのですが。
まあ、これから先のことについては「夏休みの宿題」もしくは「自由研究」ってことになるかと。
それらについてはこちらのサイトにも詳しい記述があるのでご参照ください(って丸投げ)
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_ootera.htm
あたしは、奈良検定の勉強もあるのだよ。
ぶちぶち。
こうしてみると私、飛鳥の土地鑑ないのがバレバレだなあ。
奈良通いというか、飛鳥通いもせんといかんなあ。
※いかんのか?(笑)