(大学内の教員ブログが閉鎖されましたので、写真が見られなくなりました。2020年9月11日を前にして再び写真の一部をアップしました)
2011年9月11日、この日は2001年に米国で同時多発テロが発生し10年という日でした。
この日には、10年前を振り返ってテレビでもいろいろな特集が組まれていました。
最近の学生や同僚または最近知り合った方々にはこのことを知らない方も多いのですが、実は僕は2001年9月11日にはニューヨークのラ・ガーディア空港にいて、この同時多発テロに遭遇しました。
2001年9月には、旧大佐町から姉妹都市ニューパルツ・ヴィレッジへの姉妹都市訪問団が派遣され、僕も団員兼通訳としてニューヨーク州ニューパルツ・ヴィレッジに派遣されました。
この時は、ニューパルツ・ヴィレッジで開催されたTaste of New Paltzという行事に参加させていただき、姉妹都市大佐町のそして日本の名産や文化を紹介して来ました。
我々の訪問は現地の新聞New Paltz Timesにも大きく取り上げられました。
ニューパルツのごみ処理関連の視察をさせてもらったり、自然保護について意見交換の機会も設けてもらいました。
(僕としては通訳のよい勉強の場となりました。)
ニューパルツでは、歓迎会や送別会はもちろん、様々な市民同士の交流の場を設けていただきました。
非常に暖かい歓迎ともてなしを受け、姉妹都市ニューパルツでの滞在を終え、我々一行は9月11日の早朝4時過ぎ、ニューパルツ・ヴィレッジのヴィレッジ・ホール(役場)で、早朝なのにもかかわらず多くの見送りを受け、ニューパルツ・ヴィレッジをたち、帰国便に乗るためニューヨークのラ・ガーディア空港に向かいました。
早朝、ニューパルツ・ヴィレッジで皆さんの見送りを受ける
これが、本来乗るはずだった9月11日朝ニューヨークのラ・ガーディア空港発の飛行機のバウチャーです。
IMG_0105
そして、空港であの当時多発テロが発生したのです。
この辺のことは、以前記事に書きましたので、そちらをご参照ください(↓)。
2001年9月11日
バス会社と交渉し空港から脱出している時に見えた世界貿易ビル(の跡地)から上がる煙です。
本当は、もっと近くからこの煙を目にしたのですが、写真を撮ろうと思いついたのは、距離的に少し離れてからでした。当時は僕はブログなどしていませんでしたので、今のように何でもかんでも写真に撮っておこうとはしなかったのですが(でも教材用の写真は当時もたくさん撮っていましたが)、空港からの脱出に必死で写真を撮ろうという考えに至りませんでした、また何となくこの空港の緊迫感や物々しさを写真に撮ってはいけないような感じもしました。
でも、かなり離れてからでも、ビルの跡地から立ち上る煙が最初は黒くだんだん白っぽくなったのを覚えています。
ちなみにこの世界貿易センタービル(通称ツインタワー)は、このようなものでした。
実は、これはこの日に記念に買った絵葉書です。
この絵葉書に、ニューパルツの友人たちに後でサインをしてもらい、この同時多発テロを無事生き延びた証としました。
このツインタワーはニューヨークのシンボルのような建物でしたので、それまでにいろんな絵葉書を購入していました。
また、ワールドトレードセンターを記念する絵葉書もテロ後に多数作成されました。これらの絵葉書は翌2002年から2003年頃にかけて購入しましたが、うまく取り込むことができませんでしたので一枚のみ紹介します。
さて、絵葉書の紹介はこの辺にしておきます。
次は、新聞の紹介です。テロ発生の翌日の新聞は全面的にテロに関する記事が掲載されていました。
IMG_0094
IMG_0095
タテヨコを直すことができませんでした。
また、主な雑誌ももちろんテロについての特集を組みました。
表紙にはこのような写真が並びました。
IMG_0096
IMG_0097
IMG_0098
IMG_0099
IMG_0100
当時の雑誌をこれだけ買い揃えたのは今となっては貴重なコレクションです。
さて、空港から脱出してコネティカット州まで避難した我々を、ニューパルツの方々は4台の車で迎えに来てくれました。
迎えに来てもらったのは午後9時頃だと記憶しています。
つまりテロが発生して、約12時間後のことでした。
仲間はいても不安な我々を迎えに来てくれたニューパルツの友人たちの顔を見て、涙が出るほど嬉しかったことは今でも鮮やかに記憶に残っています。
そして、また来てくださいとその日の午前4時に皆に見送ってもらったニューパルツに、まさかこんなに早く再訪することになるとは思っていませんでしたが、再び戻ったニューパルツで本当にホッとしました。
翌日から、帰国便が決まりニューパルツを再びたつまでの6日間、我々はニューパルツでテロの被害者として迎えられ、本当に温かくしていただきました。
テロのため中止されたイベントの食事を提供いただき、ピクニックのようにしていただいたり
ニューパルツの近郊リゾート地のモホンク山に連れて行っていただいたり
プールで遊ばせてくれたり
テロで帰国ができなくなった我々の不安をできるだけ取り除こうという配慮が感じられる歓待でした。
また、教会で行われたテロ犠牲者のためのミサに参加したり、公園で行われた犠牲者の追悼式にも参加したりしました。
IMG_0104
このテロの直後のアメリカの雰囲気は、平和を求める気持ちと愛国心に溢れていたと形容できると思いますが、街のいたるところに国旗が飾られていたり人々が国旗を身に付けていたりしたのが印象的でした。
このようにニューパルツでは本当によくしてもらいましたので、我々はそのお礼を込めて、教会で住民への感謝のための会を開きました。
そして、ニューパルツを再び出発しました。この時にも大勢の人が見送りに来てくださいました。
航空機を使ったテロでしたので、その直後に飛行機に乗るのは少し怖かったのですが、無事帰国することができました。
帰国した我々を待っていたのが報道陣。
ちょっと有名人のような帰国を味わうことができました。
そして、僕は緊急報告と題して、同時多発テロに遭遇したことを報告する機会を設けていただき報告を行いました。
あの時から10年がたちました。
その時は必死で、事件発生直後は戦争の勃発かと思い、アメリカに足留めされもう日本になかなか帰れなくなるかもしれないなどとも思いました。
あの同時多発テロでの犠牲者たちには心から哀悼の意を捧げますが、自分たちは、ニューパルツの方々の親切のおかげで無事過ごすことができましたので、今となってはよい思い出です。
でもあの時に感じた日常の平凡こそが幸せということは今でも忘れてはいけないと思います。
また、あのような出来事を通じ、ニューパルツの方々とは心理的な距離が本当に近くなりました。
これらの記録をいつかまとめておきたいと思っていましたが、テロ発生10年の節目となる今、まとめてみました。
長い報告にお付き合いいただきありがとうございました。
2011年9月11日、この日は2001年に米国で同時多発テロが発生し10年という日でした。
この日には、10年前を振り返ってテレビでもいろいろな特集が組まれていました。
最近の学生や同僚または最近知り合った方々にはこのことを知らない方も多いのですが、実は僕は2001年9月11日にはニューヨークのラ・ガーディア空港にいて、この同時多発テロに遭遇しました。
2001年9月には、旧大佐町から姉妹都市ニューパルツ・ヴィレッジへの姉妹都市訪問団が派遣され、僕も団員兼通訳としてニューヨーク州ニューパルツ・ヴィレッジに派遣されました。
この時は、ニューパルツ・ヴィレッジで開催されたTaste of New Paltzという行事に参加させていただき、姉妹都市大佐町のそして日本の名産や文化を紹介して来ました。
我々の訪問は現地の新聞New Paltz Timesにも大きく取り上げられました。
ニューパルツのごみ処理関連の視察をさせてもらったり、自然保護について意見交換の機会も設けてもらいました。
(僕としては通訳のよい勉強の場となりました。)
ニューパルツでは、歓迎会や送別会はもちろん、様々な市民同士の交流の場を設けていただきました。
非常に暖かい歓迎ともてなしを受け、姉妹都市ニューパルツでの滞在を終え、我々一行は9月11日の早朝4時過ぎ、ニューパルツ・ヴィレッジのヴィレッジ・ホール(役場)で、早朝なのにもかかわらず多くの見送りを受け、ニューパルツ・ヴィレッジをたち、帰国便に乗るためニューヨークのラ・ガーディア空港に向かいました。
早朝、ニューパルツ・ヴィレッジで皆さんの見送りを受ける
これが、本来乗るはずだった9月11日朝ニューヨークのラ・ガーディア空港発の飛行機のバウチャーです。
IMG_0105
そして、空港であの当時多発テロが発生したのです。
この辺のことは、以前記事に書きましたので、そちらをご参照ください(↓)。
2001年9月11日
バス会社と交渉し空港から脱出している時に見えた世界貿易ビル(の跡地)から上がる煙です。
本当は、もっと近くからこの煙を目にしたのですが、写真を撮ろうと思いついたのは、距離的に少し離れてからでした。当時は僕はブログなどしていませんでしたので、今のように何でもかんでも写真に撮っておこうとはしなかったのですが(でも教材用の写真は当時もたくさん撮っていましたが)、空港からの脱出に必死で写真を撮ろうという考えに至りませんでした、また何となくこの空港の緊迫感や物々しさを写真に撮ってはいけないような感じもしました。
でも、かなり離れてからでも、ビルの跡地から立ち上る煙が最初は黒くだんだん白っぽくなったのを覚えています。
ちなみにこの世界貿易センタービル(通称ツインタワー)は、このようなものでした。
実は、これはこの日に記念に買った絵葉書です。
この絵葉書に、ニューパルツの友人たちに後でサインをしてもらい、この同時多発テロを無事生き延びた証としました。
このツインタワーはニューヨークのシンボルのような建物でしたので、それまでにいろんな絵葉書を購入していました。
また、ワールドトレードセンターを記念する絵葉書もテロ後に多数作成されました。これらの絵葉書は翌2002年から2003年頃にかけて購入しましたが、うまく取り込むことができませんでしたので一枚のみ紹介します。
さて、絵葉書の紹介はこの辺にしておきます。
次は、新聞の紹介です。テロ発生の翌日の新聞は全面的にテロに関する記事が掲載されていました。
IMG_0094
IMG_0095
タテヨコを直すことができませんでした。
また、主な雑誌ももちろんテロについての特集を組みました。
表紙にはこのような写真が並びました。
IMG_0096
IMG_0097
IMG_0098
IMG_0099
IMG_0100
当時の雑誌をこれだけ買い揃えたのは今となっては貴重なコレクションです。
さて、空港から脱出してコネティカット州まで避難した我々を、ニューパルツの方々は4台の車で迎えに来てくれました。
迎えに来てもらったのは午後9時頃だと記憶しています。
つまりテロが発生して、約12時間後のことでした。
仲間はいても不安な我々を迎えに来てくれたニューパルツの友人たちの顔を見て、涙が出るほど嬉しかったことは今でも鮮やかに記憶に残っています。
そして、また来てくださいとその日の午前4時に皆に見送ってもらったニューパルツに、まさかこんなに早く再訪することになるとは思っていませんでしたが、再び戻ったニューパルツで本当にホッとしました。
翌日から、帰国便が決まりニューパルツを再びたつまでの6日間、我々はニューパルツでテロの被害者として迎えられ、本当に温かくしていただきました。
テロのため中止されたイベントの食事を提供いただき、ピクニックのようにしていただいたり
ニューパルツの近郊リゾート地のモホンク山に連れて行っていただいたり
プールで遊ばせてくれたり
テロで帰国ができなくなった我々の不安をできるだけ取り除こうという配慮が感じられる歓待でした。
また、教会で行われたテロ犠牲者のためのミサに参加したり、公園で行われた犠牲者の追悼式にも参加したりしました。
IMG_0104
このテロの直後のアメリカの雰囲気は、平和を求める気持ちと愛国心に溢れていたと形容できると思いますが、街のいたるところに国旗が飾られていたり人々が国旗を身に付けていたりしたのが印象的でした。
このようにニューパルツでは本当によくしてもらいましたので、我々はそのお礼を込めて、教会で住民への感謝のための会を開きました。
そして、ニューパルツを再び出発しました。この時にも大勢の人が見送りに来てくださいました。
航空機を使ったテロでしたので、その直後に飛行機に乗るのは少し怖かったのですが、無事帰国することができました。
帰国した我々を待っていたのが報道陣。
ちょっと有名人のような帰国を味わうことができました。
そして、僕は緊急報告と題して、同時多発テロに遭遇したことを報告する機会を設けていただき報告を行いました。
あの時から10年がたちました。
その時は必死で、事件発生直後は戦争の勃発かと思い、アメリカに足留めされもう日本になかなか帰れなくなるかもしれないなどとも思いました。
あの同時多発テロでの犠牲者たちには心から哀悼の意を捧げますが、自分たちは、ニューパルツの方々の親切のおかげで無事過ごすことができましたので、今となってはよい思い出です。
でもあの時に感じた日常の平凡こそが幸せということは今でも忘れてはいけないと思います。
また、あのような出来事を通じ、ニューパルツの方々とは心理的な距離が本当に近くなりました。
これらの記録をいつかまとめておきたいと思っていましたが、テロ発生10年の節目となる今、まとめてみました。
長い報告にお付き合いいただきありがとうございました。