披露宴にご招待を受けました。冠婚葬祭、冠は既に私たちの生活様式からかけ離れた風習となってしまいました。婚葬祭のうち「婚」はビジネスと結びついています。「葬」はまだ地域の風習として残っていますが、共働き等の事情や地域の形骸化からこちらも斎場にお願いすることが多くなっています。祭は若者達を中心にまだ残っているほうでしょうか。
「婚」について
祝辞は短い方がよい。上司や仲人(最近はとんとお会いしなくなりました)が美辞麗句を並べて「秀才」と「才媛」が、と申しても周囲の皆さんはよく知っているのであります。(立川志の輔より引用)
祝辞が長い方がよい人もいるのであります。それは新郎新婦の両親です。嬉しいのです。肩の荷が下りた、ホッとした、息子娘が一人前になった。こんな嬉しい会はないのです。新婦の父は寂しいのです。娘はどっかにいってしまう。この一刻が永遠に続いてほしいと願っています。祝辞があっさりしていると、物足りない感じになってしまう。娘のエピソードが聴きたいのです。(山口瞳より引用)
でもせいぜい5分程度に収めるのがよろしいと私は思います。出来るだけ親身になっていれば何でもよいのです。
料理は実に豪華です。ご祝儀が無くなってしまうのではないかと心配になるほどです。今回も茶碗蒸しか、と思っていたらキノコスープだったり、焼きたてのパン(あまりに旨いので頂いてきました)もあれば、出汁のきいたお茶漬けもあり、レストランなら魚にしますか、肉にしますかと尋ねられるところが両方出てきたり。
酒は程ほどがよろしい、というのが持論です。ばかばかビールやら焼酎やらを煽り続けては、両家の気遣いを無駄にします。話を聴く耳も持たなくなり、終いには「よ!成田屋!」などのかけ声まで出てきます。特にお決まりの〆の両家の挨拶と新郎新婦の挨拶くらいは耳を傾ける雰囲気くらいは持ちたいかな。
不義無礼は個人個人の姿勢の問題です。それを諫めるのは他人では出来ません。この人は危ないなあ、と思ったら新郎新婦に「ご夫婦で招待したら」と言ってあげるのが親身かも。(賢い奥様は辞退されると思いますが)
私の周りにはこういう場で大胆不敵になる方が多く、楽しいのですがハラハラもします。憎めない人達ばかりで、自宅や公民館あたりでの披露宴に最も適しています。
私自身も粗にして野です。しかし卑ではないといえる生き方はしたいと思ったのでした。
「婚」について
祝辞は短い方がよい。上司や仲人(最近はとんとお会いしなくなりました)が美辞麗句を並べて「秀才」と「才媛」が、と申しても周囲の皆さんはよく知っているのであります。(立川志の輔より引用)
祝辞が長い方がよい人もいるのであります。それは新郎新婦の両親です。嬉しいのです。肩の荷が下りた、ホッとした、息子娘が一人前になった。こんな嬉しい会はないのです。新婦の父は寂しいのです。娘はどっかにいってしまう。この一刻が永遠に続いてほしいと願っています。祝辞があっさりしていると、物足りない感じになってしまう。娘のエピソードが聴きたいのです。(山口瞳より引用)
でもせいぜい5分程度に収めるのがよろしいと私は思います。出来るだけ親身になっていれば何でもよいのです。
料理は実に豪華です。ご祝儀が無くなってしまうのではないかと心配になるほどです。今回も茶碗蒸しか、と思っていたらキノコスープだったり、焼きたてのパン(あまりに旨いので頂いてきました)もあれば、出汁のきいたお茶漬けもあり、レストランなら魚にしますか、肉にしますかと尋ねられるところが両方出てきたり。
酒は程ほどがよろしい、というのが持論です。ばかばかビールやら焼酎やらを煽り続けては、両家の気遣いを無駄にします。話を聴く耳も持たなくなり、終いには「よ!成田屋!」などのかけ声まで出てきます。特にお決まりの〆の両家の挨拶と新郎新婦の挨拶くらいは耳を傾ける雰囲気くらいは持ちたいかな。
不義無礼は個人個人の姿勢の問題です。それを諫めるのは他人では出来ません。この人は危ないなあ、と思ったら新郎新婦に「ご夫婦で招待したら」と言ってあげるのが親身かも。(賢い奥様は辞退されると思いますが)
私の周りにはこういう場で大胆不敵になる方が多く、楽しいのですがハラハラもします。憎めない人達ばかりで、自宅や公民館あたりでの披露宴に最も適しています。
私自身も粗にして野です。しかし卑ではないといえる生き方はしたいと思ったのでした。