城郭探訪

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多羅尾滝の磨崖仏

2016年02月09日 | 探訪「大地の遺産」

 

 

529-1821 滋賀県甲賀郡信楽町多羅尾

『甲賀市指定史跡』多羅尾(たらお)滝の摩崖(まがい)石仏群

多羅尾(たらお)は奈良から近江へ、また京都から伊賀・伊勢への道が行き交う交通の要地です。

京街道に沿った大きな岸壁に、阿弥陀如来像を中心に、地蔵菩薩像や不動明王像などの石仏や五輪塔(ごりんとう)が刻まれている他、舟形光背を背にした数多くの地蔵菩薩像などを見ることができます。

注目すべきは、正中二年(1325)という鎌倉時代後期の年号が彫られていることで、さらにその他の石仏の製作年代を考えると、室町時代後期にかけて、順次彫られたものとみられます。

これらの石仏の中には、彩色のあとも見出され、極めて貴重な摩崖(まがい)石仏群といえます。

かつてこの地域には山岳宗教が栄え、石仏群の前方には滝の行場があったと伝えられ、石仏たちは、こうした山岳修行と関係があったのかもしれません。

街道は御斉峠(おときとうげ)を越えて伊賀上野に通じ、往時は旅人の安らぎの場にもなっていたでしょう。

多羅尾(たらお)学区自治振興会』

甲賀市信楽町多羅尾 多羅尾滝の摩崖石仏群

甲賀市信楽町多羅尾 多羅尾滝の摩崖石仏群


管山寺 近江長浜市余呉坂口

2015年09月28日 | 探訪「大地の遺産」

山上駐車場の説明板(管山寺城の説明はありません)   

          

歴代住職の墓

余呉湖の東にあり、菅山寺が350m付近にある。余呉町のウッディーパル余呉から林道が延びて終点に駐車場がある。

 菅山寺への案内板がある。ここは尾根の最高部であって、アカマツとブナが混生した珍しい景色である。西の余呉町坂口から表参道が上がってきて合流する。不思議なことにここから参道は東中腹に向けて下っていく。参道に坂口から始まる四国八十八ヶ所巡りの石仏が並んでいる。石仏はやや小さく頭が壊されたものが多く無惨である。

 分岐があり直進すれば菅山寺である


 菅山寺は天平宝字8年(764)僧照檀開基し、寛平元年(889)道真中興と伝え、盛時には3院49坊があった。
 建治3年(1277)銘の梵鐘(国重)には、道真が寺院を建立し不動明王を安置したと彫られている。そして、このときから龍頭山大箕寺から大箕山菅山寺となった。賤が岳の戦いで焼失したが、再興された。現建物は江戸時代の建築である、と説明してある。

 都で政治の中心にいた菅原道真が、寂しい山中の寺院を再建している。これには次のような伝説がある。
 余呉湖には天女伝説がいくつかある。湖畔に住む漁師桐畑太夫は天女と恋に落ち一子をもうけた。天女が去って子はやむなく菅山寺に預けられた。やがてここを訪れた菅原是善の養子となり、後に道真となった。
 美しい湖がこうした伝説を生んだのだろうか。なお案内看板にも道真は余呉湖畔川並の生まれと書いてある。
 本堂背後に五輪塔や無縫塔、墓碑がたくさん並べられている。墓であろうが、整理されて明るくて、石造品の展示場のようである。山門も残っているようだが回らず、最初の分岐のところに戻る。
 一帯はブナ林がよく残っている。菅山寺は暗く陰鬱な印象を受けなかったのは、芽吹きを始めたブナのせいだと気が付いた。これがもっと葉を茂らせて暗くなる夏の頃であれば違った印象を受けるはずである。いい時期に来たと喜ぶ。
 尾根道に中部自然歩道の標識があり、田上山へ長い歩道がある。田上山はこれから登るつもりだが、距離が長いので一旦下り、下から登ることにする。散策に訪れる人がある。

ケヤキ門

大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千三00年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

護摩堂

『管山寺』

山号は大箕山。
近江湖北二十七名刹巡礼第一番札所。
管山寺は当初、龍頭山大箕寺と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に照檀上人が孝謙天皇の勅命を受けて建立されたと伝わる。当時は法相宗だったが、のちに真言宗となり今に至っている(真言宗豊山派)。
その後、菅原道真により中興した。道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889年)から3院49坊の寺院に復興、名も管公の一字を採り大箕山管山寺と改められたと伝えられている。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、僧房105末寺70余の極めて大きな寺であった。

管山寺に現存する建物は全て江戸時代の建造物である。現存の本堂は元禄5年(1692年)の建立。天正10年(1582年)の大地震、賤ヶ岳の戦い等で大破したが、一山の衆徒の手厚い志により再建された。

明治以降は衰退し、現在まで無住となっているが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされている。

宝物は・官山寺 弘善館(里坊)

本堂

やがて神秘的な池に着く。折から小学生数十人が遠足でやってくる。それがなければ怖いようなところである。
 池畔は広がり近江天満宮の鳥居と社がある。菅山寺守護神で、菅原道真を祀る。道真は菅山寺を中興したとされている。
 五所権現を過ぎて池を半周すると、苔むした僧坊跡の石垣が続き、菅山寺への真っ直ぐな参道となる。堂々とした本堂と鐘楼がある。少し上に如法経堂がある。

        近江天満宮    

この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

  

  

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


・官山寺 弘善館(里坊)2013.9.6

2015年09月19日 | 探訪「大地の遺産」

・官山寺 弘善館(里坊)

2013年09月06日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

管山寺参道へ

 大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千余年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

 この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

 

里坊【弘善館】に寺宝

 

 

 

 

 

 管山寺山門・・・ケヤキは道真公お手植え

参考資料:パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明・PCホームページ・blog 等々

本日も、訪問ありがとう御座いました!


葛川息障明王院 近江国 大津(葛川坊村町)

2015年04月01日 | 探訪「大地の遺産」

住所/〒520-0475 大津市葛川坊村町155       TEL/077-599-2372

 アクセス

★電車/JR湖西線「堅田」駅より、江若バス「坊村」バス停下車 徒歩約4分

 ★車/湖西道路「真野」ICより約30分

駐車場/約40台(無料) 拝観料/無料 拝観時間/9:00~16:30

寺号碑 三宝橋 霊場木札

天台宗。山号は安曇山(あどさん)。本尊は千手観世音菩薩。

近畿三十六不動尊霊場第27番札所、びわ湖百八霊場第18番札所。

859年、円仁和尚の師弟である相応(そうおう)和尚が、厳しい修行の末に生身の不動明王を感得し、その木像を安置したのが始まり。

 

 三宝橋

弁天堂鳥居・本堂・護摩堂

本堂 本堂内部

回峰行(かいほうぎょう)とは独特の行で、100日間、1日30km、夜中に山中などを走るというもので、この厳しい行の道場にふさわしく、寺院は老杉が生い茂る深山におおわれている。

開基(創立者)は相応和尚(そうおうかしょう)である。地名を冠して葛川明王院(かつらがわみょうおういん)と称されることが多く、息障明王院(そくしょうみょうおういん)、葛川息障明王院、葛川寺などとも称される(宗教法人としての名称は「明王院」)。

大津市北郊の深い山中に位置する天台修験の道場である。開基の相応は回峰行(比叡山の山上山下の霊地を巡礼し、数十キロの道のりをひたすら歩く修行)の創始者とされている。

政所表門

相応による草創

『葛川縁起』(鎌倉時代前期成立)や相応の伝記『天台南山無動寺建立和尚伝』(10世紀頃成立)等によれば、明王院は、貞観元年(859年)に相応和尚(831 - 918、建立大師)が開いた修行道場という。相応は天台座主を務めた円仁(慈覚大師)の弟子で、はじめ比叡山東塔の南に位置する無動寺谷に住したが、修行に適した静寂の地を求めて当地に移ったという。

『葛川縁起』の伝える開基伝承は伝説色が濃いものの、大略次の話を伝える。

 相応は葛川の地主神である思古淵神(志古淵神)から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、7日間飲食を断つ厳しい修行を行った。満願の日、相応は三の滝で不動明王を感得(仏などの超人間的なものの存在を感じ取ること)する。放心した相応が三の滝の滝壺に飛び込むと、不動明王と見えたのは桂の古木だった。この霊木から千手観音像を刻み、安置したのが明王院の始まりとする。

なお、上記の浄喜・浄満の末裔とされる葛野(くずの)常喜家・葛野常満家は現在も信徒総代として門前の集落に存在している。

現在、本尊の千手観音像と脇侍の毘沙門天像、不動明王像は相応の時代まではさかのぼらず、平安時代・院政期(12世紀)の作とされる。現存する本堂は江戸時代の建築だが、保存修理工事の結果、平安末期に建立された前身堂の部材が一部転用されていることが判明した。

境内発掘調査の結果等から、平安末期には現状に近い寺観が整っていたと推定される。

『梁塵秘抄』には葛川への参詣道について歌った今様が収められており、平安末期には山林修行地としての葛川が著名だったことがわかる。

年代の確かなものとしては、九条兼実の日記『玉葉』治承5年(1181年)6月18日条に、「今日より法眼が葛川に参籠した」とする記述が初出とされている。

坊村村社

 参考資料:ウィキペディア 明王院 (大津市)


景清道 近江国(安土)

2015年03月16日 | 探訪「大地の遺産」

この道は、景清なる平家の落人が、平氏再興の祈願の為、尾張国(名古屋市)より、遥か京都の清水寺の薬師如来へ参詣のために通った道と言われており、又、眼病平癒のために通った道であると言い伝えられている.
歴史的には、かなり古い道筋らしいが、田舎の畦畔の小径、人里離れた山道、湖辺など通り、特に屈曲が多く狭くて人目を避け近道となっている点、世を憚る特定な人物が往来して居たのでないかと思われる。
資料によると一説には、当時は各地の通行の取調べが厳しい時代からすれば、関所の公道を避け、ひそかに通った間道「陰道」・「かげ京道」の転音化したものとする説が有力である。
「景清道」は、遠き尾張国の熱田より北国路に向い、大垣過ぎで中山道に入り関ケ原より近江に来ており、柏原から醒井から息郷・番場を通り、鳥居本より彦根に至り、ここより景清道らしき古道が現存し、伝承されている。
近年の土地開発で、陰道を偲ぶ箇所は一部に過ぎないが、地域に根付いている事は確かである。現在の地図では明確でないが、通説によれば、彦根より宇尾、堀、極楽寺、楡(にれ)、安食中、三津、肥田、百々、長野西、長野東の旧道を通り、愛知川の御幸橋に至っているようである。

愛知川は、御幸橋付近で渡し舟で五個荘町簗瀬に着き、宮荘の五個神社の横に出て、景清も参詣したであろう、入口に清水が湧き出る荘厳な行願禅寺を通り過ぎ、大城神社の森を目指して真直ぐに自転車道が伸びているのが「景清道」である。

五個荘小学校前の、通学道路を横切り、金堂に菅原道真公を祀る立派な大城神社横の、いかにも景清道らしい細い小径を経て石塚に至り、繖山の麓の清水谷を経て、安土町石寺(栢尾)に入り、有名な蓮池を通る。

ここより景清道、山中に向い紅葉で名高い近江の名園教林坊を通り過ぎ、山林道を西にとり、険しい鳥打越にさしかかり、峠を過ぎるとすぐ近江八幡市と安土町が一望出来て、今と変わらぬこの風景に、景清は遠い都に心を馳せ、そうして遠望出来る鶴翼山麓の旅庵寺に思いを寄せたことであろう。
ここから山手に行けば、瓢箪山古墳近くを通り、桑實寺参道入口に至る。桑實寺よりは、真直ぐに農道が伸びている。上豊浦に至ると、景清ゆかりの袈裟切地蔵堂を拝し、小中の行者堂前を西に向い、沙々貴神社街道(安土・西生来線)を横切り、小路と思われる道を、ちはし地蔵堂前を経て、浄厳院裏の慈恩寺を通り過ぎ、山本川の新橋「景清橋」を渡り近江八幡市に入る。景清道は、長田町にある農協カントリー前の田園の中を直線に鷹飼町に伸びており、その問には、県立八幡工業高校のグランドの傍らを通っている。
鷹飼町に至れば、市内より来ている黒橋道と交差し、法恩寺の裏を通り、JR西浦踏切(廃設)を渡り、八幡街道を横断して四宮地先に至っているが、市街化が進み、その面影を留めることが困難である。(以前は八幡駅の裏にあたる四宮地先で住宅街は切れ、八幡十三郷の重要河川であった錦川に沿って出町、中村町へ向い、金田地先の分水堰より北方に行けば、現在の市役所裏通りに至り、西方に伸びるのが景清道であった。)中村町の八幡神社にたどりつき、隣に景清が寄寓した旅庵寺が静かにたたずんでおり、景清との関係を知る人は以外と少ない。
更に景清道は西に向い、土田町の日尊神社前を通り、正宗禅寺を過ぎ、県道の下街道を西に進み、加茂町の蓮光寺を眺めながら「足伏走馬」の小公園より農道に入り、桃農園の横を通る。
この付近は、北方に鶴翼山・長命寺がすっきりと浮かび、南方には三上山・鏡山の全望が眺められ、通り過ぎた繖山も遥か東方に頂きを残している。景清も望めたであろうこの風景は、昔も今も変わらない。田中江町の国宝薬師如来像を祀る薬師堂前に、保存された景清道に感動を新たにして、並行して町内を通り、江頭町の丸の内団地を通り抜ければ、こんもりとした鎮守の森のある十王町の牟礼神社に至る。
この辺から日野川(仁保川)の堤や小道を経て、川の渡し場の小田越(小田町)もしくは、小畠越(野村町)より野洲郡に入ったと言われている。野洲郡小南史には、牟礼神社の辺りから日野川を渡り、小南へ渡ったとの説もあり、川の流れによって、渡る所は変わっていたと思われる。小南からは、中主町比留田、六条、五条、須原、小浜に至り、舟で堅田、大津、京都清水寺に至る道を、古来より「景清道」として、今日までその名を留めている。

4.清景旅庵寺と、ゆかりの史跡
◇旅庵寺と景清の腰掛け石

旅庵寺(住職、小嶋真純師)は、近江八幡市中村町にあり、新たな本堂には、景清が安置した秘仏の本尊、薬師如来像が祀られている。天台宗派で、初めは神宮寺・恵命寺と号したようであるが、慶安3(1650)年10月に景清の由緒をもって、比叡山山門の令號文書が当寺に宝物として保存されており、更に享保9(1724)年の近江志新開略記に、「悪兵衛景清京都尾張往還二薬師佛ヲ持ムキテ堂ヲ営建ノ由ニテ清景旅館寺ト号シ本尊現存」とある。これに関係してか、町内道端に「薬師如来景清安置佛」の石碑があり、裏に文化8(1811)年8月吉日と残されている。

寺には景清の肖像画が宝物として所蔵されているが公開されていない。庭先には、景清が腰掛けて休んだと言われている「腰掛け石」が、以前境内の片隅にあったものを移転し保存されている

◇桑實寺と景清の背くらべ石

景清が旅庵寺で寄寓して眼病平癒のため、桑實寺(安土町)の薬師如来に日参したと言われている。
この桑實寺は、西国薬師第46番霊場、近江湖東第18番霊場で、天智天皇の勅願寺院として白鳳6年(南北朝時代)に創設され、縁起は、近江に疫病が流行して天皇の第四皇女の阿閉(あべ)皇女も病にかかり、定恵和尚の法会により薬師如来を本尊として開山する。又、定恵和尚が中国より桑木を持ち帰り、この地で始めて養蚕を広めたための寺号と言われている。

境内に「景清身丈石」があり、説明の立札には「景清の背くらべ石=平影清源平時代武将晩年は佛教に帰依し特に薬師如来の信心厚く桑實寺へ百日間の日参をなした記念です。」と書かれている。景清が日参し、自分の背丈と身体をとどめた石と伝えられている

◇袈裟切地蔵

安土町上豊浦では、不思議にも首のない地蔵尊を拝することが出来る。これは景清が桑實寺に日参している折、その地蔵尊が景清の心を探るため、容貌端麗な女性に化身し景清を誘惑したが、景清は動じないどころか、さては妖怪の化身かと、腰の太刀でその女性を一刀両断のもとに袈裟切りにしてしまったためであると言う。「己れの首を探した者は幸福に酬ゆ。」と、未だにその首を探しているという。大変珍しい地蔵尊のお姿である。

◇景清道の道標

①安土町慈恩寺の西の木戸と言われるところに、旧山本川に架かっていた「景清橋」の道標が、道端に今も保存されている。橋に景清道を案内しているのは他に類がなく、貴重な石造物と言える。
②安土町石寺の繖山の裾にあたる山中に、景清道がそのままに現存しており、生い茂る樹木や竹藪の間を通り過ぎる古道を偲ぶことが出来る。日頃は通る人影もないが、秋の観音寺石寺イベントには、この景清道の道標が歴史家の関心を一層高めるところである。
③五個荘町金堂に残る景清道の道標は、広大な郷社の大城神社の神苑の南側を細く通る小径があり、金堂から真直ぐに龍田に向い伸びている。その入口に地蔵尊のお堂が安置されており、その側に景清道の道標がくっきりと案内されており、人馬のみが通行出来る幅狭い古道に接する事が出来る。龍田の五個荘小学校前の道路を横切る形で、宮荘に向かう自転車道があり、その入口にも景清道の道標が設置されている。朝夕通学する児童は、この道をどのように理解しているだろうかと、一度聞いてみたい気がする里道の景清道である。

 
参考資料:景清伝記 - 近江歴史回廊倶楽部・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

探訪【大地の遺産】湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて―長法寺遺跡―

2015年03月15日 | 探訪「大地の遺産」

高島市には、かつて「高島七カ寺」と呼ばれる天台宗の有力寺院が存在しました。「七カ寺」と称される寺院については諸説あるものの、『近江輿地誌略』では長法寺を「高島郡七箇寺の第一」としています。

長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、開基は慈覚大師円仁とも伝えられています。また、伝承では織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したとされますが、室町時代末に廃絶した後、長らくその所在は不明となっていました。
昭和31年、県立高島高等学校歴史研究部によって再発見された時には、ほとんど人の手が入らない状態で、今なお中世に栄えた山岳寺院の姿を伝えています。

今回の探訪は、高島町観光ボランティア協会のガイドと市と県の文化財専門職員が同行案内し、近世城郭のような大規模な石垣や石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土木技術により造営された長法寺遺跡を詳しく訪ねます。

打下城跡

 

巨石「馬の足跡」

 峠「下の鼻打


鉄塔下(昼食)

 

長法寺城跡

切り通し「ヤクシガムネ」

蓮池

七町坂 → 七廻り

参考資料:[PDF]長法寺跡-高島市鵜川-(PDF:2113KB) - 滋賀県

本日の歩数 14,525歩   2時間41分    10.8km

消費カロリー 295.5kcal    脂肪消費量 42.2g

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

名称:探訪【大地の遺産】湖西明神崎に石造りの寺院跡を訪ねて―長法寺遺跡―  

主催:滋賀県教育委員会・高島町観光ボランティア協会  

協力:高島市教育委員会  

日時:平成27年3月14日(土曜日)

約7km(標高差260m・健脚向き)

     JR近江高島駅 → 打下城跡 → 巨石「馬の足跡」→ 峠「下の鼻打」→ 鉄塔下(昼食)→ 長法寺跡 → 長法寺城跡 → 蓮池 →

         → 切り通し「ヤクシガムネ」→ 七町坂 → 七廻り → JR近江高島駅   


探訪【大地の遺産】飯道山(はんどうざん)の修験を訪ねて—飯道寺遺跡—

2014年10月12日 | 探訪「大地の遺産」

◆日時:平成26年10月11日(土)
 9時10分〜15時30分頃

◆集合:貴生川駅9時10分
(JR草津線柘植行8:34着/草津行8:54着、近江鉄道貴生川行9:02着が便利です)

◆距離:約12km(起伏の大きいコース・標高差約500m)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、ウォーキングできる服装とトレッキングシューズ等

◆行程:
貴生川駅 → 飯道寺 → 岩壷不動尊休憩所 → 杖の権現休憩所 → 飯道山山頂 → 飯道山遺跡 → 飯道神社(昼食) → 宮町登山口 → 紫香楽宮跡駅(→代替バスにて貴生川駅・運賃別途必要)

◆定員:180名

◆費用:200円



◆詳細:
飯道山(標高646m)は古くから信仰の山として崇められてきました。『延喜式』にもその名前を見ることができ、飯道神社や飯道寺、修行場等、多くの宗教施設が造られました。
飯道寺は、奈良時代に創建されたと伝えられる寺院で、平安時代には密教と山岳信仰が結びつき、熊野、大峰山と並ぶ「修験道」の本拠地に成長します。同時に、甲賀武士達の精神的な支えとしても、重要な影響力を持つようになります。寺にはたくさんの修験者が集まり、厳しい修行を行うと同時に、布教のために全国を自由に行き来しました。戦国時代に至り、この修験者の行動と、大名の情報収集の要望が結びつき、いわゆる「忍者」が生まれたという説もあります。
今回の探訪では、甲賀市観光協会・飯道山観光協会の観光ボランティアガイドと県文化財専門職員が同行案内し、飯道山の文化財を詳しく訪ねます。

修験出発式

杣川通過

飯道寺到着

 
飯道寺
はんどうじ
  • 飯道寺は滋賀県甲賀市にある天台宗寺院。山号は金奇山。 近世までの飯道寺は、飯道山にあった飯道神社の神宮寺で飯道山修験の拠点であったが、明治の神仏分離に際して廃絶した寺院であった。明治時代に、本覚院と号する天台宗寺院が、金寄山飯道寺に号を改めたことにより再興された。 ウィキペディア
     
  • 所在地: 〒528-0046 滋賀県甲賀市水口町三大

日吉神社鳥居

いよいよ、修体験の始まりです!

石仏到着

 岩壷不動尊休憩所

 岩壷不動尊

谷筋砂防石詰右岸砂防石詰

杖の権現休憩所

杖の権現

山頂まで跡500m 

山頂虎口

 飯道山山頂到着:標高664m

絶景

湖南・・・三上山・比叡山まで、湖東・・・水口・鈴鹿まで

2党三角点でmy poleの登頂記念写真

下ります、飯道山遺跡へ

飯道山遺跡(飯道山城)

木道階段をおります

信楽まで

飯道神社に到着、昼食・トイレ

江戸期の絵図(北・東・東・西)・・・南が無い絵図

 飯道神社は、滋賀県にある神社である。詳しくは飯道神社 (甲賀市)... 明治の神仏分離により、神宮寺であった飯道寺は廃寺となり、飯道神社は村社に列せられた。 飯道山は全山が ...滋賀県甲賀市にある。 飯道山(はんどうさん664.2m)の西側中腹(七丁目)に鎮座。 飯山の南側から当社東側へ通じる道があるようだが、 その道は林道で

極彩色の本殿行者堂

昼食後、再出発準備中。

行者道・・・危険!

赤囲いは、砕石のノミの跡

 旧石積に、補修石積の区分がくっきり。

まむし草の実(半熟)で、熟すと真っ赤ですが毒あります

宮町登山口(此処まで車でこれます)

 山の南側から当社南側へ通じる道があるようだが、 その道は林道で

ちょっと休憩・・・・オレンジシガカントリークラブのショートホール観戦(4人で女性だけワンオン!ナイスショット!)

飯道山神社の一の鳥居

紫香楽宮遺跡通過

信楽鐡道11月28日開通

第二名神

発掘調査報告

第二名神・・紫香楽橋の下

紫香楽宮跡北入口

紫香楽宮跡駅前(→代替バス停(番号札回収=点呼)にて貴生川駅・運賃別途必要)

本日の歩行数   21,303歩

     距離    15.9km

実歩行時間    3:36H

消費カロリー   506.4kcal

脂肪燃焼量   72.3g

非常にしんどかった、飯道山の修験 でした。

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


○近江戦国探訪「八幡山城下町と朝鮮人街道」  近江国(近江八幡)

2013年12月22日 | 探訪「大地の遺産」

○近江戦国探訪「八幡山城下町と朝鮮人街道」

八幡山城は羽柴秀吉の甥で後に養子となった羽柴秀次の居城です。安土城にかわる近江の拠点城郭として、豊臣時代の到来を象徴する城です。また、八幡堀の南に築かれた城下町は、八幡山廃城後も栄え続け、近江商人の一つである八幡商人発祥の地として知られています。

朝鮮人街道は、織田信長が整備した下街道を前身とする街道で、江戸時代、朝鮮から江戸の将軍に派遣された使節(朝鮮通信使)が通ったことからこの名が付きました。秀次は、八幡山城下町を建設した際、町の南を通る朝鮮人街道を城下町を通るように付け替えました。八幡山城下町(江戸時代には八幡町)は、八幡堀と朝鮮人街道という水陸の主要な交通路を取り込んだことによって大きく発展したのです。

今回の探訪では、旧八幡山城下町を通る朝鮮人街道沿いの史跡を訪ねます。

全体ルート図はこちら

1.日時 平成25年(2013年)12月21日(土) 13時10分~16時30分
      A班13:10~16:00 B班13:40~16:30
     あきんどの里公園(近江八幡市小幡町)集合 
      ※JR近江八幡駅で近江バス長命寺行きに乗り小幡町資料館前バス停下車すぐ
      ※近江バス近江八幡駅発車時刻→小幡町資料館前到着時刻 近江鉄道バス時刻表
        12:40→12:45 13:00→13:05 13:25→13:30
      ※自家用車でお越しの場合、市営小幡観光駐車場(あきんどの里公園すぐ)
       もしくは市営多賀観光駐車場(あきんどの里公園まで徒歩約20 分)をご利用ください。
       いずれも有料(普通車1 日500 円)。駐車場についてはこちら
      ※あきんどの里(近江八幡市多賀町)とは異なります。お間違えの無いようご注意ください。

     近江八幡市立資料館前(近江八幡市新町3丁目)解散
      ※近江鉄道バス小幡町資料館前・新町バス停すぐ

2.行程
あきんどの里公園→朝鮮人街道(背割水路)→池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)→本願寺八幡別院→西元町(朝鮮人街道西の見付)旧中川煉瓦製造所縄縫工場→八幡山城伝羽柴秀次館跡→八幡堀新町浜→日牟礼八幡宮→永原町の町並→鍵之手町(朝鮮人街道東の見付)→八幡山城下町遺跡出土竹管展示見学(八幡コミュニティセンター)→新町の町並→近江八幡市立資料館前
全行程約5km(市街地平坦道)
※建物の見学は外観のみです。

 

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


探訪【大地の遺産】天智天皇の足跡を訪ねて 2013.11.02

2013年11月03日 | 探訪「大地の遺産」

 近江大津宮(667~671年)は天智天皇の宮処(みやこ)です。『日本書紀』によれば、天智天皇はこの宮で即位し、冠位制度の整備や全国的戸籍の編成、 水時計の設置など、革新的な政策をつぎつぎと打ち出しました。友好関係にあった百済を支援するため朝鮮半島に出兵し、唐・新羅と戦って敗北した国家存亡の危機のなかで、ここ大津を舞台として新しい国づくりに着手したのです。

今回の探訪では、大津市埋蔵文化財調査センターでの講演後、同センター職員や県の文化財専門職員の同行案内のもと、天智天皇ゆかりの地周辺の文化財を詳しく訪ねます。多くのみなさまのご参加をお待ちいたしております。

日時 平成25年11月2日(土曜日)11時00分 ~ 16時30分頃

2.主催 滋賀県教育委員会・大津市埋蔵文化財調査センター

【集合・受付】大津市埋蔵文化財調査センター11時00分 までに集合

【行程】

大津市埋蔵文化財調査センター(講座、昼食) → 志賀の大仏→ 崇福寺跡→ 南滋賀町廃寺→ 近江神宮→ 皇子山古墳群(大津宮跡一帯の眺望) → 近江大津宮錦織遺跡 

15.チラシ(PDF:474KB)

講座

現地探訪

 

石造阿弥陀如来坐像
(志賀の大仏(おおぼとけ))

 

滋賀里は「大津の宮跡」推定地とされ、京都への旧山中越えの街道がありました。山中越えで京都へ向かう旅人の安全を願ったといわれています。3mを越える阿弥陀像ですが、威圧感はなくゆったりとした雰囲気が漂う石仏です。鎌倉時代の作と考えられます。

林道脇の削岩ドリル跡

 

崇福寺跡

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

崇福寺跡(すうふくじあと)は、滋賀県大津市にある飛鳥時代後期から室町時代にかけて存在した寺院の遺跡。

崇福寺は、668年に天智天皇の勅願により近江大津宮の北西の山中に建立され(『扶桑略記』ほか)延暦年間に十大寺に選ばれるなど栄えたが、たびたび火災にみまわれるなど衰退し、一時園城寺に付嘱したものの山門寺門の抗争に巻き込まれるなどし、室町時代には廃寺となった。寺跡は1928年(昭和3年)からの発掘によって確認。現在の跡は梵釈寺(桓武天皇が天智天皇追慕のために建立)との複合遺跡と考えられている。国の史跡と歴史的風土特別保存地区に指定されている。

位置

 比叡山南麓、大津市滋賀里の3つの尾根上に位置する。 「日本後紀」に嵯峨天皇が、平安京から山中越をして崇福寺に立寄り、近くの梵釈寺に寄って湖上唐崎あたりを遊覧したとあり、このあたりと推定されていた。

 

 

遺跡

 

史跡崇福寺跡は、3つの尾根に主要建物跡が存在するが、北尾根の金堂(弥勒堂)、講堂、中尾根の小金堂、三重塔が崇福寺の遺跡であり、南尾根の建物跡は、梵釈寺の遺跡であると考えられている。1938年(昭和13年)の調査において、三重塔跡の塔心礎に穿たれた小孔から納置品が発見された。納置品のうち、仏舎利を納める舎利容器は、四方に格狭間のある台を付けた金銅製の外箱、銀製の中箱、金製の内箱の三重の箱に納められていた。金製内箱の内側には瑠璃壺を安置するための受花があり、その上に金の蓋をした高さ3.0cm、口径1.7cmの球形の瑠璃壺と三粒の舎利が納められていた。その周囲からは、瑠璃玉・硬玉丸玉・金銅背鉄鏡・無文銀銭・水晶粒・銅鈴・金箔木片などが伴出している。これらの出土品は、奈良時代の舎利の奉安状態が知られる貴重な遺品であり「崇福寺塔心礎納置品」として一括して国宝に指定されている。(近江神宮所蔵。京都国立博物館に寄託)。 現在、南尾根(梵釈寺跡)の金堂跡に「崇福寺跡」の石碑が建っている。

 

壺笠山城が真ん中の遠望

百穴古墳群

(大津市滋賀里町甲)

  百穴古墳群は今から約1400年前(古墳時代後期)に造られた墓が多く集まったところです。これらの墓は、大きな石を上手に積み上げて造られた石の部屋(横穴式石室)を土でおおったものです。 石の部屋は、死んだ人を納める場所(玄室)と、これと外とを結ぶ細い通路(羨道)とにわかれています。 表から見ると、この通路の入り口が穴のように見えます。 この穴がたくさんあることから、「百穴」という名前がつけられました。
  石室の壁の石は、天井に向かうにつれて少しづつ迫り出して積まれているため、天井はドーム状になっています。 石室内には二、三人の人が葬られており、死んだ人は、時には金のイヤリングや銅のブレスレットなどで飾られ、北石の棺桶に入れられました。 また、石室内には、多くの土器(土師器、須恵器)もいっしょにおさめられました。 この仲には、お祭り用のミニチュア炊飯具セット(カマド・カマ・コシキ・ナベ)も含まれています。
  古墳時代後期、古墳群は全国各地でたくさん造られましたが、この百穴古墳群のように、石室の天井がドーム状で、ミニチュア炊飯具セットが納められているという特徴は、大阪・奈良・和歌山の一部にも認められますが、ほとんどが大津市の坂本から錦織にかけての地域だけに見られるものです。 現在までの研究では、これらの特徴は、遠く中国や朝鮮半島からやって来た人たちと、深く関係するのではないかと考えられています。
  昭和十六年(一九四一)年一月、国指定の史跡となりました。

大津市教育委員会

 

公園内に残る塔の心礎

南志賀の地は、昔から古瓦が出土することが知られていた。

 

昭和三年と昭和十三年から十五年にかけての二度の発掘調査によって、塔、金堂、僧坊跡などが見つかり、この地に寺院が存在していたことが明らかにされた。また、その後の調査で、この寺院跡の伽藍配置は、塔と西金堂が東西に対置し、これらをとりまいて回廊がめぐる「川原寺式伽藍配置」であることがわかった。このうち、塔、西金堂、金堂の基壇は瓦積みで仕上げられていた。

 

この寺院は、天智天皇建立の崇福寺とも、桓武天皇建立の梵釈寺とも考えられていたが、『扶桑略記』に、崇福寺が大津宮の戌亥(北西)の方向に建てられたという記事があり、この南志賀の地の寺院跡と同時に調査された滋賀里山中にも寺院跡が発見されていることから、そこが崇福寺跡として妥当性が高く、また、『日本後紀』には、崇福寺と梵釈寺が近接した位置にあったことが見られることから、この南志賀に位置する寺院跡は、逸名の寺院、南滋賀町廃寺ということになっている。調査の際には多数の瓦や土器が出土しており、その中にはこの地でしか見られない蓮華を横から見た文様で飾られた方形軒瓦もある。これらの遺物等から、白鳳時代から平安時代末頃までこの寺院が存在していたことが明らかになった。この廃寺跡から約300m西の地点で、この寺で使用した瓦を焼いた瓦窯群(榿木原遺跡)が見つかっており、瓦を手がかりに生産、需要、供給といった流通関係が明らかにされている。

 

宇佐山城遠望(右が二ノ丸)

本殿の上にNHKのアンテナ塔(この床下に宇佐山城主郭の石垣が?)

黒川村460km黒川村と天智天皇

不老長寿伝説~天智天皇のむべなるかな~
 蒲生野に狩りに出かけた天智天皇がこの地で、8人の子供を持つ大変元気で健康的な老夫婦に出会いました。
天智天皇がこの老夫婦に、「汝ら如何に斯く長寿ぞ」と長寿の秘訣を尋ねたところ、老夫婦は、「この地で取れる無病長寿の霊果を毎年秋に食します」と言いながら、ひとつの果実を差し出しました。
それならば食べてみようと天智天皇もその果物を一口食べました。すると、「むべなるかな(もっともであるな)」と一言天皇は言ったのです。
この時に発した「むべ」という言葉がそのまま果物の名前の由来となりました。そして、これより朝廷に毎年献上することになったのです

 

近江神宮楼門(境内から)

皇子山古墳

大津宮錦織遺跡

大津京シンボル緑地

近江神宮表参道(11月3日古式流鏑馬の準備完了)

 

本日も訪問、ありがとうございました。


菅山寺 近江国(余呉) 

2013年09月17日 | 探訪「大地の遺産」

     山上の駐車位置(大きなスペースあり)

この先は土砂崩れ通行不可土砂崩れ現場 

山上駐車場の説明板(管山寺城の説明はありません)   

近江名所図会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 近江名所図会(おうみめいしょずえ)は、江戸時代に近江国を紹介した案内記(ガイドブック)である。

1815年(文化12年)の刊行。秦石田と秋里籬島が編集、蔀関月と西村中和が画を担当したとされているが、実際は、『木曽路名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩順拝図会』から近江関係の記事を抜粋してまとめたもの。全4巻。別名として「琵琶湖勝概全覧図会」とある。

当時の習俗・風俗が詳細されており、民俗学・歴史地理学の格好の資料である。

             

さて・・・これから向かう管山寺だが・・・。

『管山寺』

山号は大箕山。
近江湖北二十七名刹巡礼第一番札所。
管山寺は当初、龍頭山大箕寺と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に照檀上人が孝謙天皇の勅命を受けて建立されたと伝わる。当時は法相宗だったが、のちに真言宗となり今に至っている(真言宗豊山派)。
その後、菅原道真により中興した。道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889年)から3院49坊の寺院に復興、名も管公の一字を採り大箕山管山寺と改められたと伝えられている。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、僧房105末寺70余の極めて大きな寺であった。

管山寺に現存する建物は全て江戸時代の建造物である。現存の本堂は元禄5年(1692年)の建立。天正10年(1582年)の大地震、賤ヶ岳の戦い等で大破したが、一山の衆徒の手厚い志により再建された。

明治以降は衰退し、現在まで無住となっているが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされている。

宝物は・官山寺 弘善館(里坊)

石仏がお出迎え。首から上は殆どない?

  

 

管公お手植えの檜

    

 大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千三00年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

                     

                        

この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

  

   

車で・・・唯一のビューポイント 

 赤子山スキー場のリフトの最上部!

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


探訪【蒲生氏郷の足跡を訪ねて-2】2013.7.14

2013年07月16日 | 探訪「大地の遺産」

=城下町巡る歴史探訪イベント=


 県教育委員会は今年六月~来年三月、水と大地に刻まれた歴史遺産に光をあて、その魅力を全国へ情報発信する「近江水と大地の遺産魅力発信事業」の一環として、二十三の探訪会や講座を開催している。七月は、日野町を舞台にした探訪「蒲生氏郷の足跡を訪ねて~中野城と城下町~」などが開かれる。

 蒲生氏郷はの武将。近江守護六角氏の家臣であったが、父・賢秀が織田信長に従い、以降織田家の家臣として信長の天下統一事業に参加していく。探訪では、氏郷の居城中野城の城下町として発展した日野町を散策しながら、今も残るゆかりの地を巡る。近江日野出身

開催日時は七月十三日。中野城趾(近江バス日野川ダム口下車徒歩五分)集合、日野まちかど感応館解散。

行程は,中野城趾―仁正寺藩陣屋跡―興敬寺―清源寺(昼食)―聖財寺―西大路集議所―法雲寺―馬見岡綿向神社―信楽院―日野まちかど感応館。歩行距離は約六キロ。

 

 

 保知煙管、玉受山、桟敷窓など、興味深い歴史と文化が鏤められた日野町の散策イベントが十三日、商人の町並みを色濃く残す清水町一帯で開かれる。
 同町は、湖東百二十八郷を治めた日野城主・蒲生氏郷の城下町として栄え、いまも町の至る所に当時の面影が色濃く残る。

 


多賀観光ガイド研修会2013.7.11

2013年07月15日 | 探訪「大地の遺産」
非公式  多賀観光ガイド研修会
講師:長谷川博美氏
 
 
研修・見学城郭  敏満寺城
 
 
 
 

近 江 敏 満 寺 跡

近江敏満寺跡(近江胡宮明神)

参考文献:「敏満寺は中世都市か」多賀町教育委員会、サンライズ出版、2006:(当ページの大部は左記参考文献による。)

近江敏満寺塔婆の概要

古代・中世には敏満寺三重塔(五重塔)、南谷西福院多宝塔西谷西迎院多宝塔の3塔があったことが文献で確認できる。

敏満寺の創建

聖徳太子、あるいは慈証上人、あるいは敏満童子などと云われるが、東大寺水沼荘と関係する敏満童子説が有力と云う。
しかし、確たる資料が無く不明とするしかない。
 ※敏満童子:三修上人の弟子、三修上人は9~10世紀初頭に、伊吹山寺を開基する。

中世の敏満寺

●「平等院坊下史」
敏満寺の確実な文献上の初見は天治2年(1125)「平等院坊下史」(「長史坊政所下文案」)と云う。

・「坊政所下文案」(『敏満寺目録』所収)
             大治二年(1125)三月
 坊政所下  平等院領
    敏満寺 限東山道、限南薦辻越、限西鳥居下相木大道、限北寺登路
 右件四至内在家敷地山林荒野等、依為 霊験之聖跡、 国衛之時不勤 公役 厳免己畢、成 平等院領 之後、
 任 旧例 同雖被 奉免 未賜 政所御下文 仍住僧 等任 申請 所 仰定 如件 座宜承知、依伴行之、故 下、
   大治二年三月 日公文大法師在判
                別当法眼和尚位在判
                   法橋上人 在判
                   大法師   在判

上記の「坊政所下文案」に敏満寺の四至が示されている。
「敏満寺小字図」で云えば、東は青龍山東麓、南は南谷・原田、西は大門池・現在の敏満寺集落、北は西谷・多賀道の広大な範囲であったと知れる。また当時は宇治平等院支配であったと推定される。
 敏満寺小字図:これは近世の小字図であるが、この小字から凡その古代末・中世の敏満寺の寺域を 知ることが出来る。
        この図のほぼ中央を南北に走る道路は名神高速道で、南は原田から北は西谷・高宮池(この池は近世のものと思われる)に至る
        高速道の左右(東西)敏満寺堂宇が立ち並んでいたものと推定される。
 胡宮神社境内絵図:近世のもの と云うも、現在行方不明と云う。
        但し、画像は不鮮明、図書の掲載の絵では全く解読不能。

●東大寺・俊乗坊重源
 ※東大寺再興大勧進重源とかなりの関係があったと推定される。
治承2年(1178)・治承3年及び寿永2年(1183)兵火で敏満寺焼亡。
文治3年(1187)本堂再建落慶、重源は再興本堂に藤原伊経の手書き額を掲げるなど、長期に関係があったとされる。
その関係の一つの例証として重源による「舎利」の寄進がある。
 建久元年舎利寄進状:重文・胡宮神社蔵

・「重源仏舎利寄進状」
         建久九年(1198)十二月十九日
 奉送    敏満寺
  東寺御舎利一粒 弘法大師請来
   金銅一尺三寸五輪塔内方二寸水精玉中奉納 以両面赤地錦裏之
  金銅蓮台之左羅一口
  同加比一支
  織物打敷一帖
 右以件仏舎利相具以前舎利可被安置当寺候、是真実之仏舎利也、不可有疑殆、若加偽言者必可堕妄語罪候、
 早重賢察可被致恭敬供養候之由可令伝申衆徒御中給候、恐惶頓首敬白、
   建久九年十二月十九日大和尚(花押)
 謹上 木幡執行御房

 金銅一尺三寸五輪塔:重文・胡宮神社蔵
  ※上記「金銅一尺三寸五輪塔」は京都国立博物館に寄託、多賀町立博物館に複製品があると云う。

●白河院舎利
 ※上記俊乗坊重源寄進の舎利とは別の舎利も伝わる。
「仏舎利相承図」(胡宮神社文書)が残る。
 仏舎利相承図
 仏舎利相承図テクスト
以上によれば白河院舎利は愛妾祇園女御、その妹の子平清盛(清盛は白河院の落胤とする)に伝えられ、その内の一粒は文永元年(1264)敏満寺に施入されたとされる。

●「敏満寺堂塔鎮守目録」(「敏満寺縁起」<元徳3年(1132)と云われる。>所収)
 ※中世には以下のように多くの堂塔鎮守があったと伝える。
敏満寺本堂は7間で、三重塔一基を具える。また塔婆として南谷西福寺多宝塔西谷西迎院多宝塔があったと知れる。
また鎮守 木宮両社(拝殿九間)もあったと知れる。

 
敏満寺堂塔鎮守目録:胡宮神社蔵:上図拡大図

                     
                                                           年月日未詳
注進 当寺堂塔鎮守目録所

 本堂 七問 本尊大日並観自在号     三重塔婆一基 本尊五皆如来
 如法堂 一宇三間               観音堂 本尊十一面
 常行三昧堂 三間四面 本尊阿弥陀    法華三昧堂 本尊丈六阿弥陀
 五大尊堂 不断護摩             千三昧堂 一間四面本尊阿弥陀
 食堂 本尊文珠                楽屋 七間
 一切経蔵 一宇三間             宝蔵 一宇三間
 楼門 一宇                   大湯屋 七間
 鐘楼 一基
 木宮両社 拝殿九間             新熊野十二所 拝殿五間          白山権現
 天満天神 北野                八大龍■
   南谷
 西福院 七間 本尊阿弥陀三尊并不動沙門  同多宝塔婆 一基 本尊五智如来
 観世音堂 七問 本尊十一面           同勧請(鎮)守十二所権現
 極楽寺 三間                    地蔵堂 一問四面
 権現堂 一間四面 同廊愛染堂         往生寺 本尊阿弥陀三尊
 上林寺 本尊文珠                 来迎寺 本尊阿弥陀
 光照寺 本尊阿弥陀                釈迦堂
   西谷
 西迎院 三間四面本噂何弥陀三尊      同地蔵堂 本尊千体地蔵
 同多宝塔 本尊尺迦多宝            仏上寺 本尊阿弥陀三尊
 谷堂 三間本 尊弥陀              地蔵堂 三問
 延命寺 五間 本尊阿弥陀           浄上寺 三間四面 本尊弥陀
 同大日堂                      同薬師堂
 同鐘楼                       同光寺 五間 本尊阿弥陀
 同方丈如法堂                   光明寺 一間四面 本尊不動弥陀
   尾上谷
 丈六堂 本尊丈六阿弥陀            同如法堂 三間
 西明寺 千体地蔵                西円寺三間四面 本尊千手
 観音堂 本尊十一面               同如法堂
 地蔵堂 本尊千体地蔵             権現堂
 大円寺 本尊地蔵                円性寺 本尊阿弥陀
   敏満寺目安写
 右大吉祥院僧正 良尊御代

●多賀社参詣曼荼羅
現在3種類の参詣曼荼羅が知られる。
その内の最も古いものと推定される「参詣曼荼羅1」

多賀参詣曼荼羅1敏満寺:左図拡大図
    :多賀参詣曼荼羅1敏満寺部分図(下図の破線部)

多賀参詣曼荼羅1:全図
    :絵図の破線部が敏満寺境内

「参詣曼荼羅2」

多賀参詣曼荼羅2敏満寺:左図拡大図

多賀参詣曼荼羅2:全図(色彩図):図の下部の伽藍が敏満寺境内

上掲:多賀社参詣曼荼羅2・・・モノクロ図(全図)、多賀社参詣曼荼羅2・・・色彩図(右部分図)

 ※参詣曼荼羅:多賀参詣曼荼羅は多賀明神及び中世敏満寺を描いた貴重な絵図で、
   敏満寺には三重塔(参詣曼荼羅1)もしくは五重塔(参詣曼荼羅2)があったと推定される。

中世末期の敏満寺

●「福寿院由来記」
  ・・・天正元年(1573)頃の敏満寺を記し、近世初頭の敏満寺の様子をうかがうことが出来る。
   ・・・寛政9年(1797)当時の住職祐仙が複写した文書と云う。
  戦国末の兵火以前の敏満寺については以下のように記録される。


一当山第一座之良吏を福寿院と号す、此と云ハ、
 一山の之(ママ)頭、孰(イズレ)れの坊か越之哉(コエンヤ)、此外当山を四流に分地ス、原田 南谷 西谷 北谷と云、
  原田の執行を
 宝寿寺 本尊釈迦如来 当山兵火の後、地福院住職移之、以降院号ニ改ム、後ニハ宝寿院といふ
  南谷の執行を
 世尊寺 本尊釈迦如来 慶長年中迄堂宇有之 俗に釈迦堂と云
  西谷の執行を
 西照寺 本尊中品中生の阿弥陀如来 江北淺井家之祈願所なり
  北谷の執行を
 無量寺 本尊阿弥陀仏 元和年中迄堂宇有之 俗ニ溝坊といふ
  右四ケ寺は四谷の執行と云、
  次二四政所と云院宇有之、
 地福院 本尊地蔵菩薩 ○原田組、居寺ハ本堂の西二有之、
 金剛院 本尊金剛賢菩薩 ○文亀之炎上以降無再造営、原田宝寿院此役を勤る
 延寿院 本尊普賢菩薩 ○西谷之内、俗ニ円中坊と云是也、元和年中迄院宇有之
 地蔵院 本啓地蔵菩薩 ○北谷組之内寺辻北側ニあり、元和年中迄院宇有之、唯今当院ノ本尊これなり
  右之四院政所役といふ、請 之命ヲ行之、
一八百八坊之内院号四拾四院、坊号壱百六拾四坊、合弐百八坊、俗上方万と云、加行密教伝法ス、
 右四拾四院之内、衆徒方之頭ニケ院、西光院 地蔵院之西 西福院 上同、

※敏満寺首座は福寿院であり、この山(寺院)は原田 南谷 西谷 北谷の四谷で構成され、各々執行があり、四政所を初め合計208坊から成ると云う。 いずれにしろ、大伽藍があったと思われる。

  その後、敏満寺の兵火による荒廃を記し、その直後の再興の状況を記す。
 

一当山堂宇坊舎、文亀三紀癸亥年三月十日之夜焼失す、其後佐々木六角屋形高頼朝臣再造之、寄附之領知ハ如元也、
一元亀三壬申年、信長公為兵火当山堂塔坊舎不残焼失す、自是寄附之領知を失ふ、此時原田塔頭ハ火難を遁ル、
 仍而本尊大日を奉始、原田宝寿院エ奉移、福寿院法印徳仙茂宝寿院へ再住す、
一天正元癸酉年三月、福寿院徳仙代院宇再造之、本尊大目如来茂福寿院江奉移、法印徳仙寺役等無怠慢勤行之云々、
 此時再造する坊舎ハ
福寿院 を始メ            世尊寺 南谷、俗ニ釈迦堂と云
延寿院 西谷                正覚院 西谷組之内、寺辻南側
遣迎院 西谷組之内仁王門ノ西ノ方  地蔵完 北谷組之内、寺辻北側
光明寺 本尊甘露王如来、滅罪所   西光院 地福院之西
西福院                    来覚完 麻生(傍注「アソウ」)玄人屋敷之北也、西谷組之内
束一坊 高宮三河守祈願所       慈光坊 磯野丹波守祈願所也
勝蔵坊                    中之坊 久徳左近太夫祈願所
仙蔵坊 北谷字風呂谷、○元和年中之住持祐仙(傍注「只今之小兵衛家之事也」)代二十ニ所権現官仕之当番也、
     仍而其以来祐仙家ニ代々此社地を所持ス、後二寛永十一年、大目殿天下之御造営二なる時ニ、
     彼社地を福寿院汪祐仙より寄附すと云々、
来鳳坊                    浄敦坊
浄泉坊                    明智坊
月定坊 風呂ノ谷之下、横道より与辻北側、高野瀬殿祈願所、北坂之音福ゆずりを受ル
蓮台坊 南谷                西蓮坊 北谷之内
浄観坊 南谷                高井坊 北谷ノ内
医王院 西谷ノ内字水船         教寿坊 平ノ衆徒守
本行房 西谷                常実房
福行房                    徳満房
浄法房                    音教房
福乗房                    祐徳房
乗円房                    乗満房
福純房                    来信男
徳円房                    休宗房 西谷
教園房
右之坊宇、兵火の後自分二再造之也、雖然寄附之所領を失ひし故、僧料無之、多くハ他山へ出立す、
或ハ耕作を事とし、還俗の身に下るも有、原田方は此度之火難を遁るといへ共、領知なき故法令不正、
我々になり、他山へ出立す、又ハ還俗す、相残テ先格寺法を正しく相守ものハ、福寿院・宝寿院ニケ院のミ也

※文亀3年(1503)焼亡・六角高頼が再興、元亀3年(1572)信長により焼亡、直後の天正元年(1573)長史福寿院初め多くの坊舎が (多少信憑性に欠けるきらいもあるが)再造されるも、当時は経済的基盤を欠き、終には福寿院・宝寿院ニケ院となる。
なお敏満寺衆徒方般若院・成就院は敏満寺を離れ、多賀社の被官を頼み「札売勧進の坊主」となると云う。

  「新谷氏伝譜系図」では永禄5年(1562)の淺井長政による兵火があったとする。
 

「新谷氏伝譜系図」
勝経 新谷伊豆守 敏満寺公文所
  神官職 家老 岡左衛門尉重元・北村三郎兵衛尉政常
永禄五年九月四日、久徳左近大輔実時叛江北京極殿御方、為江南観音寺城主六角左京太夫義実(賢カ)之味方、
依之、不移時中浅井備前守長政引卒八千余騎軍勢、押寄久徳城、数日攻戦、終突一城落去矣、仍敏満寺衆徒并神官等久徳之一味也、故浅井忽押寄敏満寺、于時衆徒等於惣大門前防禦之、及敗軍、浅井勝乗、直於院内坊合軍火、此刻味方学頭豊一坊・池之坊、
同学侶光満坊以下百弐拾之坊舎悉炎上、新谷伊豆守・同下司左衛門太夫・前公文出羽守、凡其勢八百余人皆戦死、
同九月五日、多賀大社諸伽藍倶炎上、神官坊舎悉破却、
此日新谷伊豆守負重疵、人山中自殺畢、
 法名 王台院殿公文照清禅定門
 妻 久徳左近大輔実時女 享禄元年正月十七日卒
                  智道禅定尼

勝虎 新谷越前守 
   神官 敏満寺公文所
敏満寺破却之刻、寺産宝物旧禄等散在云云、其身負重手、引退大君ケ畑村、保養疵全癒云云、浅井殿加憐愍、被召出、
如旧例神官職被申渡畢、永禄六年社頭遷宮、自浅井殿敏満寺門前・藤瀬・萱原三箇村寺領拝領、
永禄十一年九月廿日、平相公平信長公敏満寺四至封疆地除被仰渡、
天正元年九月四日、於佐和山城奉拝謁 信長公、則為社領賜旧領三箇邑、
同十七年佐和山城主堀左衛門督秀政殿之与力侍被申渡、此刻屋敷地免除、
  天正十九年正月十五日卒、法名岳照院宗観大禅定門
  妻 今村帯刀正息 法名 妙度禅定尼
  文様二年八月九日卒
(系線は省略)

※新谷氏は代々中世末期の「神官」「敏満寺公文所」であるとする。
永禄5年(1662)久徳左近大輔実時は六角氏に味方したため、淺井長政は久徳城に押し寄せ、落城させる。久徳に一味した敏満寺衆徒・神官も攻撃を受け、120の坊舎は悉く炎上、学頭以下800人が戦死、後日には多賀社も炎上、新谷勝経は自殺、子息勝虎も負傷する。
永禄6年3ヶ村の寺領受領、永禄11年信長、3ヶ村の寺領を安堵、


  「川瀬右近覚書」では元亀年中(1570-)織田信長により焼払われたとする。
     (これは多賀社にあった旧記を延享3年大神主川瀬右京が書写し、さらにこれを文化5年福寿院が写したもの)
 

(前略)
 一元亀年中織田信長公ヨリ使者長谷川大竹被参此地、社坊二万三千石御朱印有之段、
  此度織田氏公ヨリ御朱印書相改役参り申候間、別当三ケ寺江右之由被相達申候事
 一三ケ寺ヨリ坊中寄セ相談被致、坊中承知不致。織田氏江訴シヨウ申上ル事
 一織田氏大竹ヲ呼、今日胡宮三ケ寺ヨリ返事有之由可申人ル事
 一長谷川中々此度主君之蒙り(脱字アルカ)慰ニハ不被参トテ、森蘭丸江此由被申候事
 一松本伊勢丸又々使者二被参、先達長谷川使者二参リ候段承知無之故、此度織田信長公ヨリ主明(命)二付参リ申軟。
  双方坊中為方ニ相成様可被指上事弥承知不致事故、此段織田氏へ中上ルトノ事
 一社坊ニ持セ置候ハ何之ヱキ(益)有ン。此方へ取上ルト被申候事
  後ニ社坊焼被払候事
  坊中立退可申事
(後略)

※織田信長は敏満寺寺領23000石を改める動きに出るも、別当3ヶ寺(福寿院・宝寿院・神護寺)はこれを拒否する。再び信長の寺領改めの要求があったが 敏満寺は再度拒否、そこで信長は寺領を取り上げ、社坊を焼き払う処置に至る。

近世以降の敏満寺

永禄5年の戦火で本尊大日如来は西麓の宝寿院に遷座、慶長年中には礎石が彦根城普請のため運び去られると云う。
寛永年中徳川家光は胡宮明神の造営を行い、大日堂が再建・本尊は帰座する。
また元敏満寺の塔頭であり既に多賀大明神の社僧となっている般若院・成就院は、多賀明神年中行司には、両院が多賀明神に出張して執行する形態であったと云う。
近世には敏満寺長史福寿院が再興され、胡宮明神を付属させ、明治維新まで存続する。(福寿院は社務所として現存する。)
現在、大日堂および観音堂、胡宮明神、福寿院(現社務所)が現存し、境内には、天台の大寺であった時代の敏満寺金堂礎石・仁王門跡などを残す。
観音堂:寛永15年(1638)造営、元禄12年(1699)修復、寛政9年(1797)頃<福寿院別当声海代>現位置に移転 。
大日堂:寛永年間、徳川家光の大造営により再建。

 2001/10/07撮影:
 近江敏満寺金堂跡:境内には礎石と金堂跡碑が残存する。
 近江敏満寺仁王門跡:以前から礎石5個が露出していたが、発掘調査の結果12個の礎石を持つことが判明、
            瓦の出土が無く、檜皮葺等と想定される。遺跡上部の構造物は名神高速道高架橋。

敏満寺跡はその中心に名神高速道路が建設され、多くが破壊されたと云う。
青龍山の頂上付近には、「岩磐」があり、その麓には13世紀~16世紀の「石仏谷遺跡」がある。
また中世末期には、敏満寺も武装し、それを物語る敏満寺城の遺構が発掘される。
 敏満寺城遺構図

2008/09/24撮影:
 近江敏満寺金堂跡附近:特に地上には遺構は確認できませんが、附近を含めかなり広い平坦地を残す。
 近江敏満寺参道:この参道の建設時期は不明ながら、参道は仁王門から金堂附近に達する。
 近江敏満寺仁王門礎石
 近江敏満寺観音堂     近江敏満寺大日堂:いずれも江戸初期の造営と云うも、仮堂的な建築で敏満寺の寺勢の衰えを感じさせる。
 近江敏満寺胡宮明神:拝殿及び本殿
 福寿院
  福寿院山門     福寿院坊舎1    福寿院坊舎2    福寿院庭園1    福寿院庭園2


 
 
 
楢崎(ならさき)城 犬上郡多賀町楢崎
 
 :佐和山城から移築門
 
 
これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
 
 
歴史
樽崎氏は、楢崎を拠点に鎌倉時代より六角氏の下で軍事部門において活躍した一族で、南北朝時代の軍記物「太平記」にもその名が記されている。
永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長に攻められた主君の六角承貞が甲賀郡三雲に逃れると、楢崎氏も楢崎の地を離れ蒲生郡へと移り、館は放棄され、領地は織田信長に没収された。これにより同地にあった楢崎氏の菩提寺の十福寺も廃寺となった。
江戸時代になって彦根藩主井伊家の家老であった脇家と宇津木家によって、十福寺跡地に天徳山高源寺が建立され、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っている。
高源寺の総門は、石田三成の居城であった佐和山城の裏門を移したものと云われ、また、宝篋印塔は、鎌倉時代の作とされ「楢崎氏」の供養塔と伝えられている。
平成8年度には、多賀町教育委員会により発掘調査が行われ、室町~戦国時代の館跡が発見されている。
 
発掘調査で発見された楢崎氏館跡は、高源寺の北側(山裾の微高地)に位置し、背後に山がひかえ、前面は幅2.4m、深さ1.2mの堀をめぐらし、堀の内側を板塀や柵列などで囲い、そのなかに井戸や建物が存在していた。さらに屋敷地の中には池状遺構(庭園?)や墓地も発見され、軍事的機能だけでなく生活空間も伴っていた。
楢崎氏館跡の目と鼻の先の正楽寺には、京極道誉が拠点とした山城の勝楽寺城や館があり、この地は犬上川扇状地の要に位置し、軍事拠点として重要な地域であったことが窺える。
なお、楢崎氏館に詰城があったとすれば、尾根上の勝楽寺城と重複していた可能性が高い。
高源寺の背後尾根、前面の段築
 
アクセス
 
名神彦根ICを出た国道306号の原町交差点を東の多賀方面に道なりに8.3km程行った国道307号の金屋北交差点で左折する。県道227号線に入り、東に道なりに1.5km程行った道が左に大きくカーブする手前で右折する。道なりに南に270m程行った先の山裾にある高源寺付近が城跡である。
 
 
 
 
 
 

 

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探訪・講座【継体天皇の足跡を訪ねて】2013.7.6

2013年07月03日 | 探訪「大地の遺産」

 

『本書紀』によると、継体天皇は応仁天皇五世の孫といいます。

父の彦主人王(ひこうしおう)が住んでいた近江国高島郡の別邸「三尾之別業(みおのなりどころ)」で生まれ、父の死後は母の振媛(ふりひめ)の実家があった越前国坂井郡の高向(たかむく)で育ちました。

57才のとき、武烈天皇の後継者として河内の樟葉宮(くずはのみや)で即位しましたが、その後20年たってようやく大和入りがかなったといいます。

『日本書紀』にみえるこの即位物語は、越前や近江を基盤とする豪族がかかわった古墳時代後期はじめ(6世紀前半代)の実際の政変を反映すると考えられています。

五番領城址

★演題:継体天皇の足跡を訪ねて
★講師:白井忠雄氏(高島歴史民俗資料館 学芸員)

 


姉川の合戦史跡めぐりウォーキング 2013.6.29

2013年06月29日 | 探訪「大地の遺産」

元亀元年(1570年)6月28日、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が、姉川を挟んで壮絶な戦いを繰り広げた『姉川の合戦』に由来する姉川南岸史跡をガイドさんの解説付きで巡ります。

茶臼山山頂では新緑の森林浴を楽しみながら、姉川の合戦場を見下ろすビューポイントを堪能頂いた後、稲の苗が植えられた田園風景に溶け込んだ史跡を巡るウォーキングを堪能いただけます。

開催期間平成25年6月29日(土)8:30~
場所北郷里公民館 滋賀県長浜市東上坂町976-7
  [自動車]北陸自動車道長浜ICから車で5分
  [駐車場]有

龍ヶ崎砦(茶臼山古墳群)遠景 横山城遠景

遠藤直経の戦場墓碑:元亀元年、遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。

 

⑥龍ヶ鼻の砦郡

 [地図をみる]

 この背後の山である龍ヶ鼻は、姉川合戦の直前に、織田信長や徳川家康が本陣を敷いた砦跡です。元亀元年(1570)6月19日、浅井長政を攻めるため、織田信長は大軍を率いて近江に入りました。21日から浅井氏の居城小谷城を攻めましたが、その構えが固いとみるや、わずか1日の攻撃で兵を返しました。

24日にはこの龍ヶ鼻に陣を移し、徳川家康もそこへ合流して、南方の横山城の攻撃を行います。信長や家康の陣跡は、ここから東へ約300メートル程登った龍ヶ鼻砦跡(標高187メートル)や、そこへの途中、茶臼山(ちゃうすやま)古墳(滋賀県指定史跡、前方後円墳)の後円部にあたる龍ヶ鼻陣所付近にあったと見られます。

合戦の当日にあたる28日未明、浅井・朝倉軍が姉川北岸に前進したのを見て、織田信長は「陣杭の柳」に、徳川家康は「岡山」に、それぞれ本陣を移し合戦が行われました。

 

この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山(かつやま)」と呼ばれるようになったとされます。

徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。江戸時代以来「流岡(ながれおか)神社」が鎮座していましたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合祀されました。

この「流岡神社」には織田信長が勝利祈願をしたとの社伝があり、境内の大杉の上部が枯れているのは、合戦の折、両軍の矢が飛びかって枝を折ったためと伝えられています。一方、上坂神社には織田信長が寄進した金燈籠(かなどうろう)が現存しています。

上坂氏館 

戦国時代に京極氏・浅井氏の家臣であった上坂(こうさか)氏の館跡です。上坂氏は、室町時代から北近江の守護であった京極氏の有力家臣で、戦国時代には上坂家信・信光が出て、京極氏執権として湖北統治の実権を握りました。さらに、伊賀守意信(おきのぶ)は浅井氏に仕え、天正元年(1573)の浅井氏滅亡後は、その子正信が秀吉の弟・羽柴秀長の家臣として各地を転戦しています。

関ヶ原合戦の際、西軍となり敗れたことで帰農、正信は父意信の弟信濃守貞信から屋敷跡を受け取っています。上坂氏は中世以来江戸時代に至るまで、姉川から取水し北郷里地区を灌漑する「郷里井(ごうりゆ)」の管理者として知られ、姉川上流や北岸の村々との争いに際しては、その代表者として臨みました。

館跡は土塁と堀に囲まれた複数の城館からなり、今も「いがんど」(伊賀守屋敷)や「しなんど」(信濃守屋敷)の地名や土塁の一部を残しています。また、江戸時代の絵図(「上坂家文書」)にみえる「丸之内」の跡が、この児童遊園に当たります。

  

 

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