城郭探訪

yamaziro

日本5大山城

2012年02月29日 | 文化財

北国脇往還(現在の国道365号線)を眼下に治め、大嶽城を北方の押さえとして、小谷山全山にわたり造られた曲輪は一千カ所にのぽり、近江の数ある城郭の中でも観音寺城と共に屈指のものである。

 また、 小谷山全山にわたり造られた小谷城上杉謙信の居城・春日山城、能登畠山氏の居城・七尾城、尼子氏の居城・月山富田城、および観音寺城とともに日本5大山城とも云われている。

小谷城の白米伝説】
 大手道の番所を過ぎてしばらく山道を登ると、馬洗池と云われる石組みで作られた池がある。
小谷城の水は、はるか東方の天吉寺山の海抜650mの元池から延々10数キロ以上のサイフオン仕掛けの竹の"とい"で引いてきたらしく、水は城中からこの池に流れ込んでいたという。

 天正元年(1573)8月、織田信長は小谷城最後の総攻撃の前に、天吉寺山からの竹の樋を破壊したため、小谷城内には水が一滴もなくなった。

小谷城の浅井側では水が絶えたと知れば、敵は勢いづいて攻め込んで来る。そこで水を落としていた樋から白米を馬洗い池に流して、城にはまだ水があるように見せかけたという。


肥田城 近江国(彦根)

2012年02月25日 | 平山城

 野良田合戦と肥田城・・・日本で初の水攻めされた城

 

探訪 野良田合戦と肥田城水攻め 20120225

講 座

  野良田合戦と肥田城水攻め~連続講座第5回に向けて

 肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~28)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)からかつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館で、おそらく、周辺に築かれた城館遺跡同様の姿であった考えられます。

 肥田城は日本で初めて「水攻め」が行われた城とされています。土地に残る痕跡からは城郭自体の形状だけでなく、水攻めのために築かれた堤の跡も推定することができます。土塁の推定位置から考えると、水攻めは宇曽川・愛知川およびその周囲の小河川の水を引き込んで行われ、肥田城だけでなく、城館の周囲に形成された集落も巻き込まれてしまったものと思われます。

 水攻めを行ったのは代々近江守護として室町幕府から任じられた六角氏です。肥田城の城主、高野瀬氏が六角氏を見限り、浅井氏の勢力下へ鞍替えしたことが戦いの発端となりました。永禄2年(1559)、河川の流水を堰き止め、土塁内に水を引き込んで行われた肥田城の封鎖は、堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。翌永禄3年(1560)に再度六角氏は高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政(後の長政)が高野瀬氏救援のため出陣し、肥田城西方の野良田付近で両者は戦うことになりました。

 なぜ、肥田城を巡って六角氏と浅井氏は戦うことになったのでしょうか。六角氏は守護大名から戦国大名への道を歩みました。その勢力の基盤は近江守護職を務める中でつながりを持った国人(地元に所在して土地を治めた武士)達でありました。一方、浅井氏は京極氏配下の国人から戦国大名へと歩みました。その勢力は周囲の国人達も取り込んで拡大していき、拡大の矛先は六角氏の勢力下にあった犬上郡以南への地域へも向けていきます。浅井氏にとっても国人達が勢力の基盤となっています。国人達の側から見ると、大名は自身の領地の保有を保証してくれる者です。戦乱の時代の中
で国人達は所領を確実に保証してくれる大名の勢力下へ入ることが、生き抜くための術であったのです。自らの身・所領を守るためには身を寄せる大名を見限り、別の大名へ鞍替えすることも辞さなかったのです。ただ、大名にとって国人の離反は勢力衰退につながるため避けなければなりません。そのため、国人の大名に反する動きには厳しい対処をとる必要も出てきます。また、勢力下の国人が危機に見舞われた際には大名は救いの手を差し伸べることもしなくてはならないのです。「武篇の者」と称された戦国大名達はその武力をもって事に対処していきます。
そのため、肥田城を巡って六角、浅井両氏は矛を交えることになったのです。

 「野良田表の戦い」は当初兵力に勝る六角氏が優勢に進めましたが、最後は寡勢ながらも奮戦した浅井氏が勝利しました。この勝利によって浅井氏は犬上・愛知郡を手に入れ戦国大名として自立していきました。破れた六角氏は勢力範囲を失い、永禄6年(1563)に観音寺騒動が起きるなど衰退への道を歩むことになったのです。  (上垣)

肥田城見学へ

お城のデータ

所在地::彦根市稲枝町肥田  map:

現 状:畑地・集落

遺 構:石碑・曲輪・土塁・堀・石碑

区 分:平城

築城期:大永年中(1520年前後)

築城者:六角氏

城 主:高野瀬備中守隆重・蜂屋頼隆・長谷川秀一

廃 城:慶長年間(1596~1615)以後

城 域:100m×100m

戦 い:永禄3年(1560)   △浅井長政,高野瀬秀澄 VS  △六角義賢

目標地:聖泉大学

駐車場: 聖泉大学・周辺に駐車

訪城日:2012.2.25

お城の概要

 肥田城跡を示す石碑が肥田公民館前に建てられているが、元々この石碑は公民館の北方にあったものを移されたものである。

 肥田城址の位置ははっきりとはしないが、公民館から北西約200mの山王祠辺りから木簡と古銭が出土したこと、および山王祠周辺に丹波屋敷,民部屋敷,藤蔵屋敷、および勘解由屋敷といった小字名が残っていることから、山王祠辺りが肥田城の本丸(主曲輪)だといわれている。しかし2008年には山王祠も消失し、圃場整備が進められている。

 公民館の南西約200mには、高さ1~1.5mほどの土塁と堀跡が約300mほどにわたって残されており、この土塁は家臣屋敷だけではなく町屋も取り込む形で築かれており、肥田城は惣構えの城であったことが窺える。

 公民館に隣接する崇徳寺は肥田城主の菩提寺でもあり、肥田城を築いた高野瀬氏累代の墓、および蜂屋頼隆、長谷川秀一の墓がある。
また、歴代の肥田城主・高野瀬隆重,高野瀬秀隆,蜂屋頼隆、および長谷川秀一の肖像画、と位牌がある。

 崇徳寺は臨済宗建仁寺派で山号を大智山といい、寺伝によれば高野瀬隆重によって建立されたという。
崇徳寺には、室町幕府第2代将軍足利義詮、第12代将軍足利義晴から崇徳寺に宛てた手紙や六角氏が発給した禁制などが保管されている。
 なお、崇徳寺や公民館には肥田城の再現図がある。

肥田城は、小字「山王」・「月山」を中心としてその周辺に城が広がっていたと考えられています。

その周囲には「門前」「新助屋敷」「小座敷」「丹波屋敷」「藤蔵屋敷」「勘ヶ由屋敷」「道場屋敷」といった城郭関連と思われる地名が存在し、城を中心として家臣たちの屋敷が広がっていた様子がうかがえます。

現在これらの地域は田地となって城の痕跡は見られませんが、これらの東側には「西町」「東町」、南には「登町」という地名があり、町場があったと考えられます。町場は、現在住宅地となっており、堀の痕跡と思われる溝が残されています。

水攻めの土塁については、聖泉大学の敷地と宇曽川との間にその痕跡が見られるほか、野良田町の東に広がる田地の畔のラインとして残っています。

 肥田城遺跡では過去数度の発掘が行われ、肥田城跡に関する遺構・遺物が発見されています。それによると肥田城は大きく三時期に分かれていること、宗教関連遺物が見つかっており、「山王」という地名からも宗教関連施設が城内にあったと考えられることなどが分かりました。(松下)

歴 史

肥田城は愛智氏の支流である高野瀬隆重によって、 宇曽川の左岸に築城された。

永禄2年(1559)江北・浅井氏と江南・六角氏の国境に領地をもつ肥田城主・高野瀬秀隆は小谷城の浅井賢政(後の長政)と通じた。当時の浅井氏は、六角氏属国からの独立を模索していた。

 肥田城が浅井氏の支配下になると、観音寺城の六角義賢(後の六角承禎)は軍を起こし、宇曽川を堰き止め肥田城を水攻めにしたが、折りからの大雨で堤防が決壊し水攻めは失敗に終わった。

 翌永禄3年(1560)六角氏と浅井氏は肥田城の西、野良田で相まみえたが、寡兵の浅井氏の勝利するところとなり、この時から浅井氏は娶っていた六角氏の家臣・平井氏の女を追い返すとともに、賢政改め長政と名乗り戦国大名への道を歩み始めた。

 永禄11年(1568)近江に進攻した織田信長は、元亀元年(1570)に野洲川の下流の落窪で六角氏に勝利し、天正2年(1574)に江南から六角氏を追放した後、肥田城には蜂屋頼隆を入れた。

 その後、城主は長谷川秀一に替わったが、秀一は文禄の役に従い朝鮮で病死したため、肥田城は慶長年間(1596~1615)以後廃城となった。

  肥田城は近江守護六角氏の被官高野瀬氏の居城として大永年間(1521~1528)、宇曽川南岸の河岸段丘上に築かれました。肥田城の位置する犬上郡は愛知郡とともに北近江に勢力を持つ京極氏(後に浅井氏)と南近江に勢力を持つ六角氏との境界として、両者の勢力争いが繰り広げられた所です。

 永禄2年(1559)、高野瀬氏が浅井氏側に寝返ったため、六角義賢が肥田城を攻撃します。この時六角義賢は、肥田城の周囲に長大な土塁を築き、宇曽川の水を引き入れて水攻めにしました。しかし増水のため土塁が決壊し、水攻めは失敗に終わります。

 翌永禄3年(1560)、ふたたび肥田城を攻撃しようと出陣しますが、肥田城の西、野良田(現彦根市野良田町)において劣勢の浅井長政軍に完敗を喫します。

この野良田の戦いは浅井氏が北近江を基盤とする戦国武将として自立する契機となった戦いといわれており、一方六角氏にとっても永禄6年(1563)の観音寺騒動にいたる権力の衰退の始まりとして重要な戦いです。

  その後肥田城は織田信長、羽柴秀吉のもとで湖東地域の拠点城郭の一つとして、高野瀬氏の後蜂屋頼隆、長谷川秀一が城主となりました。しかし徳川時代には城は無くなっており、おそらく秀吉時代の末期に廃城となったものと思われます。

 

  

   ・・・(サービス参加者のマドンナ)

参考資料;滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、わたしの町の戦国(彦根教育委員会)

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


「城跡から探る永源寺の戦国時代」

2012年02月24日 | 歴史講座・フォーラム

ふるさと文化体験学習館(市原野町)で二十四日午後七時半から歴史講演会「城跡から探る永源寺の戦国時代」が開かれる。中井均・県立大学准教授を講師に招き、一色城、和南城、高野城を中心に同地区の戦国時代を読み解く。受講料百円(資料代)。

中井均・県立大学准教授を講師

レジュメ・・・

城跡から探る永源寺の戦国時代・・・一色城・和南城・高野城を中心に・・・

◆はじめに

・今、お城が白い⇒14世紀から17世紀の300年間に日本列島で約3~40,000カ所も築かれる【中世は大築城】

・古代の城は国家が築城、中・近世は武士階級が築城

・戦国時代の城は「土」から「成」もの⇒土木(普請)施設

◆近江の城 

永源寺町内の中世城館跡分布図

城跡周辺図・高野館遺跡(お鍋の方の屋敷=信長の側室)の石垣

高野館遺跡検出遺構平面図

和南城跡の縄張り概要図「石井 均作図」2012.1.12踏査

 講聴者約60名

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


野寺城(川守城・横山城) 近江国(蒲生)

2012年02月24日 | 平山城

野寺城跡俯瞰図

お城のデータ

別 名:川守城、横山城

所在地:東近江市(旧蒲生郡蒲生町)横山町/蒲生郡竜王町川守 map: http://yahoo.jp/3yfT6u

現 状:山林+山頂

遺 構:竪堀、低土塁、犬走り、現地説明板

築城者:古田氏一族

築城期:織豊期(年元亀元年(1570年)前後)

標  高:204m  比高差:104m

城 域:東西100m南北100m

訪城日:2012.2.23

お城の概要

 野寺城は雪野山から南側に延びる尾根上に連なる3つの小峰のうち、もっとも北側の標高204mの峰に位置しています。この城の築城時期は不明ですが、伝承では、雪野寺(現在の龍王寺の前身と考えられる寺院)付近の山に六角氏の家臣で、弓道の一派を創始したといわれる吉田氏が居城を有していたと伝えられており、野寺城をその吉田氏の城とする説もあります。参照「近江の城」

また、郭の虎口と明確に捉えられる遺構も原状では明確に確認できません。山頂部の郭の東および南側の下部には帯状の平面を呈する郭とも考えられる平坦面がいくつか構築されています。郭跡以外に城跡として残存する遺構のうち、明確なては竪堀があります。竪堀は斜面に山頂部の郭に向かっていくつか構築されています。特に東側斜面には複数の竪堀が畝状に配置されています。この竪堀を多用して斜面を防御しようとする野寺城の縄張りは六角氏の勢力下にあった蒲生・神崎郡の山城としては珍しい手法だといえます。

 城跡の西側にも山腹の斜面を雛壇状に削平し造られた平坦面群(竜王山遺跡)が存在しますが、その形態からは寺院跡である可能性が高く、野寺城とは直接結びつかない遺構群と考えられます。

 

歴 史

  この地域の軍事的な緊張、及び軍事行動は元亀元年(1570)の六角軍と織田軍の落窪の戦いまでで、六角軍と織田軍の戦いの中で築かれた城であると考えられています。近江源氏・佐々木六角氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い古田氏一族の居城と伝えられています。

 野寺城の築城者、経緯等については、文献等の記録にほとんど登場しないため詳らかではありません。この城跡は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻によって引き起こされた織田・六角両家の軍事的緊張の中で構築されたものではないかとも考えられます。

  妹背の郷の第二駐車場に車を置いて。

 山の北東の里山整備のイノシシゲートから 案内版に沿って

     竜王山遺跡・・・? 

 

山頂部を楕円状に削平され、その周囲を囲むように、東・南・北斜面に犬走りや竪堀などが設けられています。

 

その北側隅に貯水池と思われる凹地がのこされています。

野寺城跡縄張図

 主郭30m×40m野寺城跡俯瞰図

 

 主郭から西に、鏡山、三上山・・・眼下に日野川が琵琶湖へと・・・。

   野寺城へは麓の龍王寺付近から城跡に通じる道があり、ハイキングコースとして整備されています。公共交通機関の場合、近江八幡駅からのバスを利用すると、川守停留所で下車後、登り口まで徒歩10分程度で向かうことができます。自動車利用の場合、国道8号線からは竜王町方面へ通じる県道を利用して城跡へ向かうことになります。川守の集落から日野川を渡り、登山口付近の雪野山の山麓にある龍王寺を目標として向かいます。国道8号線から約20分で着くことができます。名神高速道路を利用する場合は、竜王ICからおよそ10分です。車の駐車には龍王寺あるいは竜王町雪野山史跡広場妹背の里の駐車場を利用することができます。

 野寺城では、平成22年度に竜王町が実施した里山森林と遺跡整備を兼ねた事業により、城跡内部が間伐され、残存する郭跡へ向かう通路・案内看板が整えられました。郭の形状も捉えやすく、見学し易くなりました。城跡から周囲の見通しがきくことで、周辺に残る城跡も望むことができます。また、一帯には中世の城跡だけでなく、雪野山古墳に代表される大小多数の古墳や白鳳寺院である雪野寺跡も立地し、古代から連綿と続く歴史に触れることができます。(上垣)

妹背の里(南西)から、直登は無理!    植林されたヒノキの森は・・・急で途中で登山道無くなる。

  

参考資料:遺跡ウォーカー(東近江市 横山城)、滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、現地説明板

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


竜王山遺跡(野寺城下屋敷?)  近江国(竜王)

2012年02月24日 | 館跡

竜王山遺跡

お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町川守 map:http://yahoo.jp/-3djMZ
現 状:山林・山腹
区 分:山麓屋形
築城期:織豊期(元亀元年(1570年)前後)
築城者:古田氏一族
標 高:140m  比高差30m
遺 構:平坦地・現地説明板
目標地:龍王寺・妹背の里
駐車場:妹背の郷の第二駐車場
訪城日:2012.2.23
お城の概要
『滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡)』の竜王山遺跡の解説には、 雪野山山系の南端に一番高い山頂部に野寺城の遺構が鮮明に残る。この西側の登城路に数多くの平坦地が残る、野寺城の下屋敷(山腹屋敷・山麓館」か? 雪野山の南側は、東西に横切るいくつかの鞍部のうちでも、「シナド超え」「奈良路」は古く(白鳳期)から利用されてた。平坦部は「シナド超え」を中央を野寺城への城道)通る。から北西50m前後の箇所に雛壇状に始まり、さらに西に150m・南西に200m程度に広がる。

お城の歴史

  この地域の軍事的な緊張、及び軍事行動は元亀元年(1570)の六角軍と織田軍の落窪の戦いまでで、六角軍と織田軍の戦いの中で築かれた城であると考えられています。近江源氏・佐々木六角氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い古田氏一族の居城と伝えられています。

 野寺城の築城者、経緯等については、文献等の記録にほとんど登場しないため詳らかではありません。この城跡は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻によって引き起こされた織田・六角両家の軍事的緊張の中で構築されたものではないかとも考えられます。

 妹背の郷の第二駐車場に車を置いて。

 山の北東の里山整備のイノシシゲートから 案内版に沿って

     竜王山遺跡・・・? 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城、淡海の城

本日の訪問ありがとうございす!! 


城の石垣、木の根で崩落 各地で膨らみ押し出す被害

2012年02月20日 | 文化財

写真:国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の竹之丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。東日本大震災で崩落した=福島県白河市教委提供

写真:国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供拡大国史跡・小峰城跡の本丸の石垣。崩落前の姿=福島県白河市教委提供

写真:「孕み」を起こした高松城の石垣。このあと03年の台風で崩れた=高松市教委提供拡大「孕み」を起こした高松城の石垣。このあと03年の台風で崩れた=高松市教委提供

 

 お城の石垣が、全国各地で崩落の危機に直面している。原因は、樹木の根が石垣の内側に張り出し、妊婦のおなかのように膨らむ「孕(はら)み」と呼ばれる現象。桜の名所や緑豊かな公園として、市民に親しまれている史跡が多く、伐採は容易ではない。

http://www.asahi.com/eco/news/OSK201202070068.html

 


聖徳太子が岩に爪で刻んだという十三仏

2012年02月18日 | 観光ボランティアガイド

近江八幡・安土町の南東にある箕作山(みつくりやま)は、地元では岩戸山の名で親しまれています。

この山頂にある巨大な一枚岩に、13体の仏さまが刻まれています。【視認出来ず】
 飛鳥時代、聖徳太子が金色の光を発する不思議な岩を見つけられ、仏のお導きと思い仏像を彫ろうとしましたが、道具を持っていなかったので自分の爪で刻んだ、といういい伝えがあります。
 現在、仏さまを刻んだ岩の前にはお堂が建ち、外から見ることはできませんが、熱心な信者が毎日お参りをしています。毎年4月には千日会が盛大に行われます。

巨岩に微か漢字が・・・!

仏さまを刻んだ岩の前のお堂

 

  

 

  


小脇山城   近江国(八日市)

2012年02月10日 | 戦国山城

 南郭 石垣群

お城のデータ

所在地:東近江市(旧:八日市市)小脇町    map:http://yahoo.jp/tgLmOC

築 城期:鎌倉期

築 城者:三井氏

初城主:初城主:三井新三郎・三井石見守時

区 分:山城

遺 構:石垣、郭、土塁、竪堀、説明板(縄張り付)

城域 : -

標 高:373m    比高差270m

目標地:箕作山ハイキングコースを利用 太郎坊参集殿or十三仏(安土・内野)

駐車場:箕作山ハイキングコースを利用 太郎坊参集殿or十三仏駐車場

無 料;箕作山ハイキングコースのmapは太郎坊宮駅トイレ横に在ります

訪城日:2012.2.10

南郭 石垣群

 

お城の概要

 八日市と安土にまたがる小脇山にある山城です。十三仏のある岩戸山とその奥に小脇山が見えています。十三仏登山口の駐車場に車を止め、まずは十三仏まで上がります。岩戸山山頂まで石段が続きますが、麓より十三仏まで7丁と記してありました。

 城跡には僅かではありますが石垣も残っています。石垣があると登ってきた。十三仏から尾根伝いに小脇山に行きます。十三仏より15分ほどで小脇山山頂に着きます。山頂手前に2カ所石垣が認められますが、山頂近くの石垣はもう一方のものより大きいものです。山頂はせまく、主郭ではなく狼煙台か物見櫓。

当時においては六角氏の家臣、三井氏の居城が伝わっている。

 近江地方には石垣を用いた城跡が数多く現存しているが、この山城も高所にありながらも相当多くの石垣が使用されており、地表に露見している部分は多くはないが、山上郭群の随所に石垣跡あるいは石列を窺う事が出来る。見学する分には石垣跡が一番目を楽しませてくれる遺構になるとは思われるが、斜面に眼を凝らせば縦堀などの遺構も充分確認する事が可能であり、地表風化は激しいが僅かながら北郭群に土塁の高まりも見て取る事が出来る。個人的には小規模で縄張り妙味(堀切を中央に挟んでほぼ尾根上に直線的に郭が配置)には少し欠けるが、これだけ当時の石垣跡が拝めるのであれば充分見学に値する山城とも見受けられるので、比高230mを上るきつい登山にはなるが、険峻さを誇る山城の好きな方、あるいは石垣跡に興味のある方には当然お薦めの城跡

現地城跡平面図

ちょっと休憩【マイ・ポールとマイ・ハット】

歴  史

 『佐々木南北諸士帳』には、「小脇城主三井新三郎安隆・同石見守時高」の名がみえ『大洞弁天当国古城主名札』にも「三井新三郎」の名がみえるとある。

 また、 『蒲生郡史』には、「三井氏は佐々木六角氏の京邸六角東洞院付近にあった祇園神社の領地を私占す、應永16年8月に社司神人等満高にその押防禁止を願う」とあり、佐々木六角氏との繋がりの深さを想像させる。

『佐々木南北諸士帳』には小脇城主三井新三郎安隆、三井石見守時高などが見え、後者は天文十二年(1543)頃に活動したのが平井系図に見えるとのことです(『姓氏家系大辞典』ミツイ条)。

 豪商三井家の家伝に江州鯰江から伊勢に移ったというのを、一応信拠して話を進めます。また、三井氏の先祖に関する系図では、管見に入った限り、鈴木真年編の『諸氏本系帳』四所収の「三井系図」が最も詳細。
  小脇山城は佐々木氏の家臣三井氏の居城とされ、三井氏は佐々木氏の流れを汲むといわれているが、詳細は不明である。
 なお、三井男爵家は三井氏の子孫といわれている。

小脇山 三角点

八日市市街、箕作小学校のグランドが・・・!

遠方は雪の比良、長命寺山・津田山・西の湖・瓢箪山古墳・・

赤神山(350m)とご神体の太郎坊山

茶の鉄塔の下が箕作り城跡・・・「織田信長は観音寺城は箕作城の戦いで」・・・。その向こうが和田山城跡。遠方が山崎城跡・荒神山城跡

考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『佐々木南北諸氏帳』『大洞弁天当国古城主名札』『蒲生郡史』

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!

 


小脇館  近江国(八日市)

2012年02月10日 | 居館

  箕作山に抱かれるような場所に位置する東近江市小脇の小脇館跡は、近江守護であった佐々木宗家の館跡と考えられている遺跡です。

「城」や「山城」とは性格の異なる遺跡ですが、近年注目を集めている守護館・守護所遺跡のひとつ。 

小脇館跡の推定範囲図 四角く囲んだ線に濠跡が確認されました 太郎坊本殿から眺めた小脇集落 白点線内が小脇館跡推定範囲

お城のデータ 

所在地:東近江市小脇町  (旧八日市市小脇町)  map:http://yahoo.jp/tgLmOC

築 城期:鎌倉期1185年(文治元)

築 城者:佐々木氏

初城主:佐々木定綱

区 分:居館

遺 構:現地説明板

城域 :100m×100m 

訪城日:2012.2.10

  説明板

 大将宮堀跡と考えられる水路堀跡?と考えられる水路・・・臣下屋敷跡カ?

 昭和54年(1979)に行われた発掘調査では、幅9.5m~11m、深さ2mの堀が発掘されるとともに、一辺が100m以上の方形館であることが判明している。
 またこの小脇町には掘田,惣田,御所,馬場,馬ヤケ,コチャ門(東門),岡門,蓬来門等の地名が残っている。(八日市史より)

小脇館の歴史

  吾妻鏡(あづまかがみ)』には、源頼朝が建久元年(1190)に京からの帰途に「小脇」へ投宿し、四代将軍藤原頼経が暦仁元年(1238)に「小脇」の「佐々木信綱御所」に宿泊したという記述が見えます。これらに出てくる「小脇」は佐々木宗家の館をさすと考えられていて、現在の小脇集落付近がその遺跡とされています。集落周辺には、御所・馬ヤケ・コチャ門(東門)・岡門・蓬莱門(南門)・馬場といった館跡らしい地名が残されていて、ここに館があったことをうかがわせます。また、地籍図に見える堀田・惣田という名の細長い田は、館にめぐらされた二町(約220m)四方の濠の名残りと考えられます。

、ここが佐々木氏の小脇館跡でほぼ間違いないと思われるのですが、その実態についてはまだよくわかっていません。1979年に実施された濠推定地の発掘結果では、地割りに残された濠跡が幅8~11m、深さ約2mの規模であったことがわかりました。また濠跡などから出土した土器類は16世紀のもので、観音寺城と石寺の御屋形跡が整備されるまで小脇館が機能していたことを予測させます。しかし、館の内部や周囲に予想される町や村の様子、小脇館跡の存続期間などはまったく未解明です。

 宇多天皇の血筋を引く佐々木氏は、平安時代中ごろに佐々木庄の荘官として近江に土着し、小脇館に居住したとされています。

  小脇館跡は一辺100m程度かそれ以上の規模を有する平地式方形館で。

 守護館が室町時代から戦国時代前半期に機能したもので、鎌倉時代は確認されていません。

小脇館が史料が示すように鎌倉時代初めに始まったとすると、全国的にきわめて貴重な例となります。

  六角氏は小脇に本拠を置いてきましたが、鎌倉末期に頼綱は金田に屋敷を構えました。金田館と呼ばれたこの屋敷に氏頼は金剛寺を建立し、この寺は戦国期にはしばしば城として機能しました。六角氏の本拠地は金田館あるいは金剛寺城へ移設された。

 その後、近江八幡市の金剛寺・安土町「金剛寺(こんごうでら)」・佐々木六角氏が観音寺城と石寺城下町の御屋形と、小脇館を廃して以降のことと考えられます。

 『滋賀県百科事典』によりますと、所在地など城の歴史は「八日市小脇町にあった近江守護佐々木六角氏の館。

すでに1185年(文治元)に守護職となった佐々木定綱の館は小脇にあり、以後、戦国時代に観音寺城が築城されるまで、佐々木氏代々の本拠地であった。

 1190年(建久元)に源頼朝が、1238年(嘉禎3)には将軍頼経(よりつね)が宿しており、将軍宿泊のときには、『吾妻鏡(あづまかがみ)』に「御儲結構無比類」と記録された。

小脇館は湖東平野の農業生産力という基盤にくわえ、近江から鈴鹿山脈をこえて伊勢国にいたる中世近江商人にさかんに利用された八風街道という交通の要衝に位置している。

  そのため、すでに鎌倉時代の『源平盛哀記』に「蒲生郡小脇の八日市」とみられるように、定期市場の中心となっていた。現在、「御所」「鳥門」「東風門」などの小字名がつたわる。(後略)(満田良順)」とあります。

なお、八日市小脇町は現在東近江市小脇町になっています。

<佐々木氏>

平安末期、平治の乱で破れ関東に落ち伸びていた佐々木秀義は、源頼朝の挙兵に従い平家との戦いに活躍しました。佐々木氏はその功績により近江に復帰しました。

佐々木惣領家は秀義の嫡男定綱に引き継がれ、定綱の後は嫡男広綱が継ぎますが、承久の乱<承久三年(1221年)>で宮側に付いた広綱は斬首され、惣領家は三男の信綱が継ぎます。

仁治三年(1242年)に信綱がなくなると、近江は四人の息子たちに分割されました。

長男の重綱は坂田郡大原荘(山東町)の地頭職を得て大原氏を名乗り、

次男高信は高島郡田中郷(安曇川町)・朽木荘(朽木村)の地頭となって高島氏を名乗りました。

三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡(神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀)を与えられて六角氏を名乗り

四男氏信は近江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を与えられて京極氏を名乗りました。

 

 小脇館

小脇館から小脇城(左山頂)     

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

       本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


信長の馬つなぎ松・千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊

2012年02月03日 | 平山城
 元亀元年(1570)越前の朝倉攻めを敢行した織田信長は、4月25日敦賀の手筒山城を落とし、翌26日には金ケ崎城、,疋田城をも落とし、まさに木ノ芽峠を越えて越前に攻め入らんとした時、近江江北・小谷城を本城とする娘婿の浅井長政の離反にあい、若狭から朽木街道を経て京に逃げ戻る。この時信長に従う者は僅か10名ほどだったと云われている。

 信長は浅井討伐の準備をするため、美濃・岐阜城へ帰国するルートとして選んだのが、千種越え(現在の永源寺町甲津畑から杉峠を越えて、三重県菰野町にでるルート)であったが、

馬つなぎ松その時に信長が甲津畑で馬を繋いだと云たれる松が甲津畑の速水氏宅にある。

遠藤周作氏の『男の一生』では、千草越えで織田信長を狙撃した甲賀の杉谷善住坊を、金ケ崎の戦いの際に遠藤喜右衛門が雇った傭兵であったとする。

『杉谷善住坊のかくれ岩』の標示があったので谷に下りてみると説明板があった。

簡単に説明すると浅井長政の裏切りにより織田信長が濃州岐阜に戻るとき、ここで待ち伏せに会い杉谷善住坊の鉄砲でかすり傷を負った。

杉谷善住坊のかくし岩

\\\\\\\信長公記 三巻  遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事\\\\\\\\

 5月19日、浅井長政は鯰江城(東近江市・愛東鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(旧永源寺町)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(旧永源寺町甲津畑)の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

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\\\\\\\信長公記 巻六  復讐  杉谷善住坊成敗の事\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

 杉谷善住坊という鉄砲の名手がいた。先年(元亀元年1570年)、信長公が千草峠を通行した際、六角承禎に依頼されて信長公をわずかに十二、三間の距離から鉄砲二玉で狙撃した者である。このときは天運あって玉は信長公の身を少しかすめただけで終わり、信長公は虎口を逃れて無事岐阜へ帰り着くことができた。
 その後善住坊は鯰江香竹を頼って高島に隠居していたが、このほど磯野員昌に捕らえられて9月10日岐阜へ護送されてきた。

  岐阜では菅谷長頼と祝弥三郎が奉行となって厳しい詮議をおこない、善住坊から千草山中での一件を余さず尋ね出した。これにより善住坊は路傍に立て埋めにされ、通行人に首を鋸で引かれる鋸引きの刑に処された。

 信長公は復讐を果たし、年来の憤りを鎮めた。上下の満足はこれに過ぎたるものはなかった。

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その後磯野丹波守は信長より近江高島郡を与えられる。丹波守は高島に隠れていた、かつて信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえ、天正元年(1573年)9月に岐阜へ引き出した。 

        本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


額田王

2012年02月02日 | 観光ボランティアガイド

万葉ロマンの地 蒲生野 と 彼岸花  ・・・youtube   by Mryoshi3838

http://www.youtube.com/watch?v=ydG98p5aS0A&feature=related

天皇、蒲生野(がもうの)に遊猟(みかり)したまいし時に、額田王の作る歌

・茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 -- 万葉集の一・20
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

船岡山・額田王
(船岡山 陶板画)

天智天皇(一般には中大兄皇子)の寵姫であり、かつては皇弟大海人皇子(のちの天武天皇)の恋人で
大海人皇子の間には十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけた額田王が、
蒲生野で薬狩りがあった時に詠んだ歌
薬狩というのは、鹿の若角(鹿茸という薬にする)をとるための狩りで
標野とは禁野のこと、つまり天皇の狩猟地。
紫草の生い茂る蒲生野の只中で、鹿を追って馬を駆る男たちを眺めての相聞歌

皇太子(ひつぎのみこ)の答ふる御歌
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方・・万葉集20・21
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも

この様な心情の歌が、安易に世に残る訳もないと考えられ、色々な解釈がなされていますが
人の心情が表現された舞台の蒲生野に興味がつきません。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

★一旦恋愛の歌の贈答であると思わせておいて、宴の席での座興であったことに気づかせる。
1.文法的説明をする。
2.語釈をする。
  ・あかねさす=「紫」の枕詞。
  ・紫野=紫草が栽培されている野原。紫は恋焦がれる思いを表す。
  ・標野=立入禁止の野原。
  ・野守=野の番人。
  ・袖振る=愛情を伝える動作。
  ・にほふ=色が美しい。
  ・妹=あなた。男子が姉妹や妻や愛人など親しい女子を呼ぶ言葉。
3.現代語訳をさせる。
  ・紫草を栽培する立入禁止の野原を行き、番人が見ていないのですか、あなたが袖を振るのを。
  ・紫草のように美しいあなたを憎く思っているならば、人妻だからといって、どうして私は恋などしようか、いやしない。
     ↓
   あなたを憎く思っていないから、人妻でも恋をしている。
4.これは「紫の唱和」と呼ばれていることを説明する。
  ・この二首は恋愛の歌である。
5.系図を見ながら「野守」「君」「妹」とは誰を指すか、この歌の背景を考える。
  ・野守=天智天皇。
  ・君=大海人皇子。
  ・妹=額田王。
  ・天智天皇が開いた宴の席で、妻である額田王と前夫である大海人皇子が、不倫の愛の歌を詠みあっていることになる。
  ・元々、天智天皇が自分の娘たちを大海人皇子に嫁がせ額田王を取り上げたという説もある。
  ・後年、壬申の乱で大海人皇子が天智天皇の子の大友皇子との皇位争いに勝ち天武天皇になった。とすれば、                         この歌がその遠因になっていることになる。
6.この歌の部立、三人の年齢などから、本当の背景を考える。
  ・「相聞」(恋愛の歌)でなく、「雑歌」(宴の歌)になっている。
  ・この時、天智天皇は四五才前後、大海人皇子は三七、八才、額田王は四〇才過ぎである。
  ・したがって、この歌は宴の席での余興である。
  ・「君が袖振る」は大海人皇子の舞振りを、「紫草のにほへる妹」は額田王をからかっている。額田王は大海人皇子が元服した時の添臥と言われている。
  ・万葉の時代の人の開放的な明るさを感じとる。

 

市宮神社に、額田王が天智天皇を思い慕い、天皇の訪れがないのを嘆く歌。

君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹  

君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く

 


太郎坊宮お火焚き祭(滋賀県東近江市・2012年1月9日))

2012年02月02日 | 観光ボランティアガイド

太郎坊宮どんど焼き(滋賀県東近江市・2012年1月9日)

http://www.youtube.com/watch?v=juKRl6uqjjk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=nP__JvSJnr4&feature=related

 

京都鞍馬山の次郎坊の兄、太郎坊天狗が守ると言われる、「太郎坊さん」で親しまれる勝運授福の杜。

数年前に友人が「太郎坊の磐座のエネルギーは
普通ではない」と言っていたのを思い出して妻と
行くことにしました。