城郭探訪

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夕日ヶ丘城(向山城・入日ヶ岡城) 近江国(野洲)

2018年03月31日 | 平山城

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お城のデータ

別  名 : 向山城、入日ヶ岡城

所在地 : 野洲郡野洲町大篠原成橋 Yahoo!地図http://yahoo.jp/tQqeZ7

築城年 :文明年間(1469~87)

築城者: 田中四郎右衛門・奥左門守之」とあり

改築者:馬淵氏

形  式 : 平山城

標 高:146m   比高差:40m

遺  構 : 竪堀、櫓台、土塁、竪堀、堀切

訪城日 : 2018.3.31

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

お城の概要

 夕日ヶ丘城は、大篠原成橋集落の北西にある夕日ヶ岡と呼ばれる三つのピークを持つ独立丘陵の中央ピーク上に位置している。周辺には、星ヶ崎城、小堤城山城、上永原城などが2~3km程の距離で所在している。

中央ピークの東側鞍部から西に向け登って行くと、山頂部が北に張り出た所に取り付く。その斜面には、この城の見所である畝状竪堀が設けられており、竪堀の間を抜け不明瞭な堀切を経て、北東の郭に入る。北東側の中央には、方形土壇が築かれており、櫓が設けてあったと思われ、北東や南東の郭をはじめ四方への睨みを利かせている。北東土壇と中央土壇の間には、四方を土壇と土塁で囲繞された郭、中央土壇の南西側に削平地、その北西側一段下に腰郭、南西端が墳丘の土壇となっている。墳丘土壇の西側鞍部は堀切で遮断している。

いずれの遺構も不明瞭であり、織田信長軍の破城を受けたのではないかとされている画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然

お城の歴史

「鏡山の西入日岡ニ城ヲ築キ 田中四郎右衛門・奥左門守 之」とあり、これは大篠原字向山の向山城(従来夕日ヶ丘城等と呼んだ)であり、また、古絵図には「入日岡 田所殿屋敷跡」と記されている(大篠原共有文書)が、詳細については不明である。

六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる

馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。

馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2㎞ほどのところにある、向山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。向山城は文明年間(1469~87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも推測される。

  山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。

 宗綱の娘は、蒲生定秀に嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀の生年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだものとみられる。

宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。           

式目が制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧のために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。

一説には、馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つとなったものと推測される。 

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、草、空、屋外、自然

 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。

『日本城郭大系』には、元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、敗れて滅ぼされたとある。夕日ヶ丘城が存続していたのか、城で戦闘があったのかな不明。

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041188472710394

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041189352710306

参考資料:城歩会資料、踏査図作成・現地説明:長谷川博美氏、滋賀県中世城郭分布調査

本日の訪問ありがとうございす!!


宇佐山城 近江国(大津)

2018年03月12日 | 陣城

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ

お城のデータ

所在地:大津市錦織町(宇佐山)~南滋賀町~神宮町 map:https://yahoo.jp/fOwgre
区 分:陣城(山城)

現 状:山林・TV中継局

築城期:織豊期

築城者:森可成・明智光秀

遺 構:曲郭・石垣・塹壕堀・堀切・竪堀・土塁

標 高:333m  比高差:200m 

目標地:近江神宮・宇佐八幡宮

駐車場:近江神宮参拝者駐車場
訪問日:2018.2.24

お城の概要

 宇佐八幡宮の東尾根を宇佐八幡宮から道案内と登城道(城道)を登る。途中の二ノ丸の竪堀から右手方向へに登ります。出郭のような小さな平削地があります。道が尾根下の平坦道になると左上を見上げると本丸(主郭)櫓台の石垣が見えます。本丸跡にはTV中継塔が建っていますが、本丸(主郭)はこの南斜面の規模の大きな石垣が残り、そこから東斜面にかけて石垣が残存している。

二ノ丸斜面、南斜面にも石垣が残存し、二ノ丸の南斜面下の帯郭をさらに下りた規模の大きな石垣が残存しています。

本丸(主郭)と堀切で隔てた三ノ丸の東郭の南斜面にも僅かですが石垣遺構が残存します。また、二の郭の西側段郭に下り、さらに西尾根を進むと竪堀、堀切が残ります。城は小さい城ですが、歴史に残る城であり、石垣も初期の石垣が見られる。それから、本丸(主郭)にあるNHKの中継局の建物の西側が少し浮かせて建てられています。その下を覗くと石列の水路跡や大石が残存します。主郭の北側と東側に塹壕堀が残り、二ノ丸の西側から登り土塁、主郭は高石垣・桝形虎口・塹壕堀で守備は堅固な陣城です。

また、三ノ丸の北の山頂に出丸・端城が残存し砦(未訪)、map:https://yahoo.jp/RbnR5q3

中山超えの街道とは谷川が深く切込み地形です。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、サイクリング(複数の人)、木、屋外、自然

お城の歴史

この城の文献上の初見は永禄13年(元亀元年、1570)3月20日の多門院日記で、

内々三井寺、大津、松本可有見物之通ナルニ、今度今道北、ワラ坂南、此二道ヲトメテ、信長ノ内、森ノ山左衛門城用害、此フモト二新路ヲコシラヘ、是ヘ上下ヲトヲス、余ノ道ハ堅トヾムル故、三井寺へ通ル物ハ道ニテ剥取ト申間、乍思不参見、渡了、残多者也、新路ノ大ナル坂ヲ超ヘテ、山中ト云所ヲ通リ、白川ヘ出、東山ノ辺ヲ通ル」 —多聞院日記ー

とあり、この時多聞院英俊は、三井寺などを見学しようとしていたが、京から大津に通じる二本の道が閉鎖されていた。森可成が新城を築き、その麓に進路を通しこの道に通行させようとした。しかし、まだこの道は工事中だったのか可成の家来によって阻止され、三井寺の参拝を中止し白川方面に出たとしている。この時代、築城の様子が記録されている史料は少ないが、多聞院日記はその時の重要な様子を示している。(Wikipedia)

元亀元年(1570)6月28日の姉川の合戦では、浅井久政・長政父子、朝倉義景(義景は出陣していません)を滅ぼすことはできませんでした。双方かなりの兵力が失われたと思われるのですが、なんと信長は足利義昭の要請で8月20日に南方表即ち大坂の野田・福島に出陣します。

三好三人衆が反逆し、裏で石山本願寺も動いているということです。この時、信長は浅井・朝倉連合軍の動きを監視するため横山城には木下藤吉郎を城番で据え置き、小谷城と北国脇往還の監視にあて、佐和山城には丹羽長秀を始め市橋利尚・水野信之・河尻秀隆が張り付いて磯野員昌の動きを牽制し東山道の確保をさせています。近江の西の入り口にあたる逢坂関近くには、すでに越前朝倉攻めで失敗し退却後に森可成を置いた宇佐山拵(こしらえ)があり、元亀元年5月9日以来、森可成が守備しています。この頃徳川家康は三河に戻り野田・福島合戦には出陣していません。織田軍の半分が野田・福島に遠征し、徳川軍もいないこのチャンスを浅井・朝倉連合軍が逃すはずがありません。琵琶湖の西岸を北から南下し都を奪取する作戦に出ます。同時に一向宗門徒に決起を促し、各地で一向一揆を起こさせています。

 信長が最も窮地に立たされた元亀争乱の始まりです。宇佐山城攻めにかかるにあたり、浅井・朝倉連合軍は現在の堅田から雄琴温泉(千野・苗鹿)のあたりに陣を敷きます。対する森可成は、信長の弟である尾張野夫(のぶ)城主織田信治と草津部田(へた)城主青地茂綱に援軍を請います。森可成等は、宇佐山城から撃って出て交通の要衝である坂本を占領し街道封鎖をして連合軍の進軍を阻もうとしました。

9月16日の小競り合いの後、20日に森可成等は浅井・朝倉連合軍に加担した延暦寺の僧兵や浅井対馬・玄蕃の軍に側面攻撃を受け、朝倉中務・山崎吉家・阿波賀三郎隊・浅井長政本隊に挟まれ奮戦むなしく3人とも討ち死にしてしまいます。

 宇佐山城を連合軍は続いて攻撃しますが、可成の家臣、武藤五郎右衛門・肥田彦左衛門の抵抗に遭い落城させることはできませんでした。

宇佐山城危うしの知らせを聞いた信長は急遽、野田・福島から引き返し、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城奪取をあきらめ、はちが峯・壺坂山・青山といった延暦寺領の峯に陣を敷きます。信長は延暦寺に対し、近江の寺領を安堵するから信長側に味方するよう、反抗するのなら根本中堂・山王廿一社焼き払うと朱印状をもって稲葉良通を使わしますが、延暦寺は無視しました。

 山岳寺院延暦寺はまさに山城と同じで、不用意に攻撃できず、信長は比叡山包囲戦に入り、坂本の香取屋敷・穴太・田中・唐崎・宇佐山・叡山西古城の将軍山・八瀬・大原口に陣を置きます。包囲戦は11月28日天皇の講和勧告の綸旨を持った足利義昭の仲介を受け、12月10日の交渉成立、13日の両軍退却に致るまで膠着状態が続くという信長が最も苦戦した戦となりました。講座では、明治26年の地図を見ながら主な陣地・間道を確認し、信長苦戦の原因を探ってみようと思います。(仲川=滋賀県文化財保護課)画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

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写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然二ノ丸から本丸への「登り土塁」

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然本丸の東側の塹壕堀

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然丸の虎口南側土塁

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、靴、子供、屋外、自然三ノ丸北西部の腰廓へ

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然三ノ丸の東側石垣

『宇佐山城出城/宇佐山城端城』へ。この日は、体調不良で断念しました😢!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、城歩会資料(作図:長谷川博美氏)、Wikipedia、滋賀県文化財保護課

本日の訪問ありがとうございす!!