城郭探訪

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鏡山陣所

2020年04月11日 | 陣所

近江の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


近江の戦い 

戦争:建武の乱 
年月日:和暦:延元元年/建武3年9月中旬 - 29日
西暦:1336年10月下旬 – 11月3日 
場所:近江国(滋賀県) 
結果:足利氏は琵琶湖を擁する近江国を征服して建武政権への補給路を遮断、建武の乱の決着 

近江の戦い(おうみのたたかい)は、建武政権期(広義の南北朝時代)、延元元年/建武3年9月中旬から29日(1336年10月下旬から11月3日)にかけて、近江国(現在の滋賀県)で、建武政権の新田義貞・脇屋義助らと、足利方の小笠原貞宗・佐々木導誉らとの間で行われた戦い。建武の乱の末尾を飾る戦いで、比叡山に本拠地を遷した建武政権は、この敗戦によって近江側からの補給路を断たれたことで、同年10月10日(西暦:11月13日)に足利方へ降伏した。 

9月中旬、足利方の小笠原貞宗が甲斐・信濃両国の一族・軍勢3,000余騎を連れて、東山道から近江国へ進み、瀬田(現在の滋賀県大津市瀬田)まで差し掛かったところ、比叡山の衆徒が瀬田の唐橋を撤回した後だったので、仕方なく野路に陣を張った(『梅松論』下)。そこに新田義貞・脇屋義助が瀬田川を渡って攻撃を仕掛け、大きな戦いとなったが、最後は貞宗が勝利した(『梅松論』)。 

足利方の小笠原貞宗は次の攻撃を警戒して、より防衛力の高い鏡山に陣を張り直したが、それにも関わらず新田軍は果敢に攻撃を続けてきたので、これも撃退した(『梅松論』)。貞宗はさらに堅固な伊吹山の山中に立てこもり、伝令を遣わして京都の足利方に事の次第を注進した(『梅松論』下)。 
折しも、京では「山徒(比叡山の僧兵)といい新田軍といい、近江国の力によって、東坂本(比叡山の東側=滋賀県側)の敵どもは力を維持しているのだから、足利軍を派兵して近江国を制圧し、東坂本への兵糧の補給路を塞ぐべきではないか」という議論の最中だった(『梅松論』下)。そこにちょうど、貞宗と義貞の戦いの報が入ったので、派兵が決定した(『梅松論』下)。

背景
前年末から続く建武の乱の後半戦は、九州で再起して本州に戻った足利尊氏・足利直義ら足利方が、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)に行われた湊川の戦い、および同年6月から8月にかけて行われた第二次京都合戦と立て続けに大勝した。一方の建武政権側は、首都京都と四人の重臣「三木一草」(結城親光、名和長年、楠木正成、千種忠顕)を全て失うという壊滅的状況にあった。しかし、後醍醐天皇と総大将新田義貞は比叡山に籠城し、山門(延暦寺)の持つ強大な財力・兵力と、交通の要衝琵琶湖を擁する近江国からの補給を背景に、再起を虎視眈々と狙っていた。

経過

9月末、佐々木導誉(高氏)を援軍の主将として足利方本軍が出陣(『梅松論』下)。 27日には今川掃部助(諱不明)も出撃し、導誉の弟佐々木経氏は兄ではなく今川氏の指揮下で戦った(『朽木古文書』)。 足利方本軍は丹波路から若狭国小浜(現在の福井県小浜市)に出て、導誉はこの周辺の地形・戦略に通じていたため、滞りなく近江北部から進撃し、貞宗との合流に成功(『梅松論』下)。 
足利軍ははじめ木浜役所(現在の守山市木浜町)に陣取ったが、新田軍が姿を見せて威圧したため、28日夜、近江国栗太郡大満加里(現在の守山市洲本町己爾乃神社周辺)の河原を、小佐治基氏らが夜通し警護した(『小佐治文書』)。 
29日、両軍は伊岐代(現在の草津市片岡町印岐志呂神社)・馬場(現在の草津市馬場町)で開戦(『田代文書』)。これに負けて逃げる新田軍を足利軍は追撃して志那浜(現在の草津市志那町の志那浜湖岸)で散々に打ち破り、足利方の武将田代顕綱も首級一つをあげるなどの武勇を見せた(『田代文書』。 

影響
足利方の目論見通り、建武政権・比叡山は大きく力を削がれ、降伏への決定打となった(『梅松論』下)。 10月2日から8日まで和泉国で、10月8日には伊予国で小規模な小競り合いがあったものの、覇権を確立した足利方には何の問題にもならなかった。 
延元元年/建武3年10月10日(1336年11月13日)、後醍醐天皇は投降して京に還り、ここに建武政権は終焉を迎えた[5]。 
一方、新田義貞は後醍醐の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸方面に向かい、越前国敦賀(現在の福井県敦賀市)金ヶ崎城に籠城、南北朝の内乱まで引き続き抗戦した(金ヶ崎の戦い)。 

伝説・創作
『太平記』巻17「江州軍の事」では、佐々木導誉が建武政権軍に偽りの投降をして、建武政権の近江における所領を獲得。

小笠原貞宗を近江から追い出した後、今度は建武政権を攻めて、手柄を独り占めするといった、導誉の婆娑羅大名ぶりを引き立てる創作が描かれる。 


上鳥羽城 近江国(長浜市上鳥羽)

2020年04月11日 | 陣所


お城のデータ
所在地:米原市(旧坂田郡山東町)菅江町~長浜市鳥羽上町 map:http://yahoo.jp/mJezEZ
目標地:新横山トンネル・八幡神社
区 分:陣城
標高:270m  比高:150m 
現 状:山林
遺 構:郭?・堀切?
築城期:室町期

築城者:京極氏

城 主:荒尾三郎左衛門尉
目標地:新横山トンネル・八幡神社
駐車城:八幡神社の向かい空地 http://yahoo.jp/2LqNmC

お城の歴史

近江守護佐々木六角は、かねてより江北に出兵、そうして江北南部の国人土豪に対し出兵命令などの軍事行動をなしてきた江南軍の総師定頼(守護六角氏綱の弟)は、天文7年(1538)の春には大軍を率いて、佐和山・鎌刃・太尾山城等々の江北の主城を次々と陥落させ、本陣を長沢(近江町)まで進め、江北の南部一帯を席巻した。

これに対して京極高延(高峯・高広)並びに、浅井亮政の江北軍は大いに防戦に努めた。『改訂坂田郡志』はその防戦の事例の一つとして、鳥羽上の城は京極高延方の荒尾三郎左衛門尉(山東町本郷に称名の荒尾神社がある)が城主であり、攻め手は江南軍の一翼をになうそれも江北の京極高慶(高延の弟で後の高吉)の兵で、激戦の末に高延方の兵は鳥羽上を放棄せざるをえなかったようである。

 登り口は、鳥羽上トンネルを長浜市側の幡神社から旧トンネルの林道からである。

 尾根部分は典型的な連郭式の配置となっており、北進すると延々と削平地が続くき犬走りを設けてある箇所が多い、いくつかの郭ごとに堀切を設けてあるが、延々細長く起伏変化には乏しい。最高部に教育委員会の石碑が確認できたが、他の遺構はかなり風雨に削られていてる。

 


絹川(衣川)陣所(天満宮の遺構) 近江国(大津)

2018年04月28日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然

お城のデータ

別 称:天神社の遺構

所在地:大津市衣川3丁目 map:https://yahoo.jp/t_zBtZ

現 状:神社・山林

区 分:丘陵/陣城

築城期:織豊期

築城者:浅井・朝倉軍

遺 構:平削地・土塁・櫓台・

目標地:衣川天満宮

駐車場:天満宮の路上駐車

訪城日2017.4.16、2018.4.26

お城の概要

堅田駅から徒歩約1.3km、明神橋近くに衣川天満宮があり、明神橋を渡るとき、参道脇は桜が咲いてました。今は衣川天満宮で、背後に丘陵があり、天満宮の駐車場を利用この日は、祭礼であった(普段は見ることが出来ない神輿も)。

 春日山から南東に舌状に伸びる、衣川天満宮の丘陵に、城郭遺構が残る。詳細不明であるが、築城期は志賀の陣の絹川陣所である。

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々。

志賀の陣の浅井・朝倉軍の陣所。

訪城日:2018.4.26

天満宮の由緒https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1044819262347315

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/944526269043282画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、木、橋、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、橋、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、バイク、木、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:空、木、雲、植物、屋外、自然

 参考資料:『滋賀県中世城郭分布報告』『來迎寺要書』

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「近江の城郭 足利将軍と近江」 鈎陣所跡

2018年02月16日 | 陣所

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。

 応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱により、中央権力としての室町幕府は衰退し、地方勢力が台頭する戦国時代が幕を開けます。近江においても守護六角氏が権力を振るうようになり、幕府に対し反抗的な態度を取るようになります。これに対し、将軍権力の回復をめざす室町幕府第九代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討つため自らが近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。しかし戦線は膠着し、義尚が延徳元年(1489)に陣中で没したため、六角氏を滅ぼすことはできませんでした。将軍親征をはねのけたことで、これ以後六角氏は戦国期の守護権力として自立していくこととなります。

この時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。

現地には、今も土塁や堀の痕跡が残されています。今回の講座では、文化財専門職員の案内で鈎陣所跡を訪ねます。

1.日時:平成30年2月12日(月・祝)13時45分~16時30分自動代替テキストはありません。

  • 栗東市手原赤坂会館集合
  • 講義:手原赤坂会館(栗東市手原3丁目9-5)1階多目的ホール画像に含まれている可能性があるもの:テキスト写真の説明はありません。写真の説明はありません。
  • 現地見学:鈎陣所跡・旧東海道

3.行程

  • 手原赤坂会館→旧東海道(旗本渡辺領代官猪飼邸・すずめ茶屋)→天王神社→鈎陣所跡(永正寺・寺内)→旧東海道→JR手原駅
  • 全行程約4km
画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、子供、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、靴、植物、屋外、自然

4.主催:滋賀県教育委員会
5.協力:栗東市教育委員会
6.講師
  • 講義「鈎の陣」:藤岡英礼氏(栗東市教育委員会)
  • 現地探訪:藤岡英礼氏(栗東市教育委員会)
7.定員:80名(事前申込制・先着順)
8.参加費:無料
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
         
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野村城 近江国(草津)

2017年12月08日 | 陣所

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外、自然

お城のデータ

所在地:草津市野村町6 map: https://yahoo.jp/TwFuCm
現 状:公園・宅地
区 分:平城
築城期:織豊期
築城者:野村氏
城 主:野村丹後守
目標地:安羅神社
駐車場:安羅神社境内
訪城日:2017.12.7
お城の概要
草津市野村6丁目の野村セントラルパークが、遺跡ウォーカーの比定地である。
近年商業開発や宅地開発が進み、遺構はないが5丁目の安羅神社の社殿碑に「永禄中野村丹後守高家社殿を修造して武運を祈ると見ゆ。」と記す。草津の野村は永録年間は野村氏が領主であった。 画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外
画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外
お城の歴史
草津市野村5丁目には、安羅(やすら)神社がある。
鳥居の横の社伝碑ある、「慶運元年(704)三月、牛頭天王この地に降臨なり、これ当社の創なり」とある。「永禄中野村丹後守高家社殿を修造して武運を祈ると見ゆ。」
社伝の終わりには、「野村、穴村に安羅神社、十里に小安羅神社の鎮座あるは、安羅郷の古へを推想するに足る」とある。
御由緒
徃古この地一帯は安良の里、または安良郡ともよばれていた。栄花物語に引く長和元年大嘗会歌にも「もろ人の願ふ心の近江なる安良の里の安らけくして」とあり、また近江国注進風土記(山槐記元暦元年)にも「安良郡 栗太」とみえている。
明細書によれば創祀年代不詳であるが、社伝によると文武天皇の慶雲元年に牛頭天皇が、この地に降臨された、時の国司がすぐ天皇に奏聞し、この地に神籬をたてて祀り、国土安泰・疫病退散・五穀豊穣を祈った。これが当社の創立と考えられる。
又後村上天皇の興国五年に鈴鹿より速佐須良比鵝ε桂?型世瞭鹵譴凌昔遒鮃艫?気譴燭氾舛┐襦1箆叔?屬北鄲蔀宛綣藕皺箸?俄討掘?隸芯控廖?丗紅鳳匹魑Г蠎凖造鮟ぢい靴拭?修慮緻鄲執饅馭圭??海涼呂飽椶蠎劼鮗蕕辰慎?燭?△襦”
明治九年村社に加列。
本殿・境内建物画像に含まれている可能性があるもの:屋外
〔本殿〕入母屋造唐破風付 間口一間三尺 奥行二間三尺
〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間
 
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査3「旧野洲・栗太郡の城」』・遺跡ウォーカー・安羅神社の社伝碑・滋賀県神社庁HP
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小塚山陣所(小塚山城) 近江国(大津)

2017年05月05日 | 陣所

お城のデータ

所在地:大津市苗鹿2-7-11(法光寺)  map:https://yahoo.jp/Pz_rT7

別 称:小塚山城

現 状:山林

区 分:陣所

築城期:

築城者:

築期:織豊期

改築者:浅井、朝倉軍

遺 構:平削地(本陣)、土塁・

標 高:138m  比高差:50m(旧西近江路より)

目標地:西光寺(大津市苗鹿2-7-11)

駐車場:西光寺

訪城日:2017.4.20

お城の概要

大津市苗鹿町の法光寺の裏山に位置する。

城址は、西光寺の西側に林道があり、西光寺の本堂の高さに土塁が残る。

遺構は、林道を挟んで東西に存在していたようである。

お城の歴史

『來迎寺要書』一  真雄和尚

元亀元年坂本合戦時、当寺什物悉ク手・・・・

  • 一、九月十八日、浅井備前守長政、朝倉左衛門義景、其勢二万八千余騎ニテ、江州志賀郡江打出、小塚山ヲ為本陣、苗鹿、雄琴、乳野、仰木、飯室、絹川(衣川)、堅田辺迄取陣也、此時宇佐山之取出森三左衛門可成五百余騎ニテ志賀表ニ人数ヲ伏置、・・・・云々

          

 

 

  • 法光寺 (大津市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
法光寺 (大津市) 本堂.JPG本堂
 

法光寺(ほうこうじ)は、滋賀県大津市苗鹿にある天台宗寺院

歴史

仁寿元年(851年小槻今雄に対し同寺の建つ滋賀郡雄琴・苗鹿(現滋賀県大津市雄琴・苗鹿)の地が与えられ、同寺は小槻氏氏寺として貞観5年(863年)今雄により創建されたとされる。一説には今雄以前に延暦寺末寺として最澄により開基され、那波加神社別当寺であったとも言われる[1]。この地は小槻氏とつながりが深く、地名の「雄琴」は今雄の名に因むとされる。一帯には氏神として、今雄を祀る雄琴神社や小槻氏祖・於知別命を祀る那波加神社が残り、当寺とは神宮寺鎮守社の関係にある。

中世には法光寺領の雄琴荘・苗鹿荘を巡り小槻氏と妙法院門跡との間で訴訟が起こっている。この際には小槻氏の領となったが、小槻氏が壬生家大宮家に分裂すると両者の間で再び相論となっている。壬生家領となった法光寺領はその後戦国時代六角氏の支配下となり、六角氏は壬生家に80石(実際には50石)を上納することとなった。

境内

往時には堂舎24宇・支院僧坊30余寺あったと伝えるが、元亀2年(1571年織田信長比叡山焼き討ちの際に焼失し、延享3年(1746年)再興が図られた。現在は数棟の堂宇が残るのみで、本堂は1916年建造。

元慶8年(884年7月7日に没した今雄の墓とされる。元は境内裏山に残る法光寺古墳群 (3円墳から成り中央主墳が今雄の墓とされる) の墳丘上に建っていたとされる。毎年7月7日、今雄忌として供養が行われている。
  • 苗鹿地蔵堂
苗鹿地蔵は最澄が彫ったとされる「坂本六地蔵」の1つで、境内の地蔵堂の中に立つ。街道沿いにあったが当寺内に移転した。移転前、堂前で大名が落馬したという故事から「すべり地蔵」とも呼ばれ、足腰を守ると言われる。
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査報告9(旧滋賀郡の城)』・遺跡ウォーカー・『江州佐々木南北諸氏帳』『ウィキペディア(Wikipedia)』・法光寺の歴史・『來迎寺要書』

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逢坂二丁目周辺の遺構 近江国(大津)

2017年03月26日 | 陣所

お城のデータ

別 称:長等山陣城の砲台地か?

 所在地:大津市逢坂二丁目  map:http://yahoo.jp/yEp-xr

立 地:長等山 山腹。

現 況:山林

築城期:織豊期後期(1600年)

築城者:西軍(豊臣方 立花宗茂と毛利軍) 

遺 構:平削地

標 高:200m 比高差駐車場より70m(大津城より110m)

目標地:長等不動明

駐車場:長等不動明

訪城日:2017.3.23

お城の概要

長等山陣城。 今は、長等公園に、整備されています!
此処から、大砲で砲撃されたか!

お城の歴史

関ヶ原の戦い前哨戦...
参考資料:近江の城郭探訪より

【大津城の戦い】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。

この籠城に対して、西軍の立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そ こで西軍は、

長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。
城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍 の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった 高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本 丸に入り、和睦開城を申し入 れました。.
参考資料:近江の城郭探訪より

逢坂二丁目周辺の遺構(砲台地か?)

此処まで

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9、さきろぐ、近江の城郭探訪

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【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう! 「石田三成出生の地を訪ねて」

2016年12月01日 | 陣所

Wikipedia

横山城は  滋賀県長浜市堀部町・石田町)にあった山城。元亀年間(1570年~1573年)の織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点であり、信長の部将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として守備していたことで知られる。

歴史

横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。

その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原(岐阜県関ケ原町)から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る湖北往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。

信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。

【近江歴史探訪】戦国武将ゆかりの地をたずねよう! 「石田三成出生の地を訪ねて」


真田丸の絵

2016年10月26日 | 陣所

詳細な真田丸の絵、松江で発見 江戸期「極秘図」

松江歴史館が所蔵する城の絵図集から発見された真田丸の図。上(北)に出丸、下(南)に堀が描かれている(同館提供)

 松江歴史館(松江市)が所蔵する全国各地の城の絵図集「極秘諸国城図」(江戸時代)に、大坂城の出城といわれ、NHK大河ドラマで取り上げられている「真田丸」が具体的に描かれた図があることが分かり、12日、松江市が発表した。

 真田丸の絵図は広島市立中央図書館(同市中区)にもあるが、今回の絵図は敷地の範囲を示す堀の位置や付属施設の出丸の存在も具体的に描かれており、真田丸を知る上で重要な手掛かりになるという。

 歴史館によると、絵図は、縦約28センチ、横約40センチ。松江市の住民が、1953年に市に寄贈したが、松江城の図がないため詳細な調査はしていなかった。

京都新聞【 2016年07月12日 20時55分 】


鏡陣所   近江国(竜王)

2016年08月26日 | 陣所

西光寺跡/西光寺遺跡

 
お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町鏡 map:http://yahoo.jp/iWvkln
現 状:山林・山腹・山麓。 
区 分:陣所
築城期:南北朝期
築城者:
遺 構:寺院跡。 堂坊跡
目標地:竜王かがみの里
駐車場:竜王かがみの里
訪城日:2016.8.26

お城の概要

鏡山十二峰の一つ星ケ峰のふもとに伝教大師が「西光寺」を建立しました。 源頼朝や足利尊氏も泊まったといわれている古刹です

西光寺は、818年、伝教大師(最澄)が夢のお告げにより、建立されたと言われています。鏡山十二峰の一つ、星ヶ峰の麓に位置し、最盛期には、僧坊300坊を超えるほどの寺勢を誇る。康平(こうへい)2(1060)年の乱で一山焼亡し中興されましたが、織田信長の兵火(1571年)で廃寺となりした

 その名残をとどめていのが鎌倉時代後期1300年頃作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。記念宝塔として昭和35年2月に国の重要文化財に指定されました。 塔の高さは210cm、笠石の下の塔身の周囲は180cmです。2段の基壇を築き、その上に孔雀の向かい合っている格挟間を彫った基礎を置き、塔身、笠、相輪を積み重ねています。 また、石の角に梟(ふくろう)の彫刻があるのは、あまり例がないといわれています。

西光寺跡・仁王尊堂は、滋賀県蒲生郡竜王町にあり、中山道(国道8号線)沿いにある「道の駅竜王かがみの里」の駐車場横のわき道を突き当って右側。駐車場からは、歩いてすぐなので、道の駅の駐車場から徒歩で。緩やかな坂・階段を上ると、8畳敷きほどの畳の部屋の建物があり、中には、仁王堂と書かれた提灯が掛っていす。その奥に仁王尊堂。仁王尊堂の右手には、祈願された方が奉納されたと思われるわらじが沢山掛っています。仁王尊堂左手の坂道をさらに上がっていくと、西光寺の名残をとどめる宝篋印塔や西光寺の鎮守であった八柱神社の石灯籠等が残る。 

 お城の歴史
鏡陣所は、『太平記』に観応二(1351)年に、足利尊氏鏡宿に陣を取るとある。詳細不明は不詳ながら、鎌倉時代には、篠原宿に代わって隆盛した宿と考えられている。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)
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武佐寺陣所 近江国(近江八幡)

2016年08月09日 | 陣所

長光寺陣所跡を思わせる長光寺(武佐寺)

お城のデータ

所在地:近江八幡武佐町  map:http://yahoo.jp/QztJuE

区 分:陣所

現 状:長光寺(武佐寺)

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:鎌倉期 永正3年(1506)

築城者: 

遺 構:長光寺

目標地:長光寺

駐車場:長光寺 

訪城日:2016.8.9

     
中世東海道(東近江市「能登川の歴史2巻53頁」より)

お城の歴史

 南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く、文和年間(1352-56年)には足利尊氏は後光厳天皇を奉じて武佐宿へ、義詮は摂津を経て播磨国鵤宿へ落ち延びた。

文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。  康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり

足利 義詮(あしかが よしあきら)は、南北朝時代の室町幕府第2代将軍。初代将軍足利尊氏の嫡男。

 元弘3年(1333)、伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐のために父・尊氏が鎌倉幕府軍の総大将として上洛した際、母・登子とともに方丈家の人質として鎌倉へ留め置かれた。

尊氏が丹波国で幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を攻略すると、幼い千寿王(義詮)は足利家家臣に連れ出され鎌倉を脱出し、新田義貞の軍勢に合流し鎌倉攻めに参加した。

 この際千寿王は、父の名代として、家臣らの補佐により、鎌倉攻め参加の武士に対し軍忠状を発付し、後に足利氏が武家の棟梁として認知される端緒を作る。これが新田義貞と足利高氏の関係が悪化する元となる。建武の新政では、叔父の直義に支えられて鎌倉に置かれ、尊氏が建武政権から離反すると、父とともに南朝と戦い、主に鎌倉において関東を統治した。

尊氏による幕府開府後、足利家の執事である高師直と尊氏の弟の足利直義の対立が激化して観応の擾乱が起こり、師直のクーデタにより直義が失脚すると、義詮は京都へ呼び戻され直義に代わり幕府の政務を任される。

正平6年(1351)8月には、尊氏が直義派に対抗するために義詮と共に南朝に降伏し、11月に年号を南朝の「正平」に統一する正平一党が行われる。翌年に南朝方の北畠親房や楠木政儀らが京都へ侵攻すると、義詮は京を逃れて近江国へ避難した結果、光巖、光明、崇高天皇の三上皇及び皇太子の直仁親王を奪われたが、観応の年号を復活させるとともに兵を募って京都を奪還し、三種の神器の無い状態で新たに後光厳天皇の即位を実現させる。また、正平8年(1353)6月、正平10年(1355)1月にも異母兄の直冬や山名時氏らの攻勢により、一時的に京都を奪われている

文和三年(1354)十二月に、南帳軍の足利直冬・桜井直常らが京へ迫った際に、「支えきれない」と判断した足利尊氏ら北朝軍が、後光厳天皇とともに避難した先が「江州武佐寺」『太平記』

                

武佐寺略記

 当寺は所謂、武佐寺の一部にして推古二年甲寅二月聖徳太子、武阿綱に命じて伽藍を此の地に建立し賜ひ、之を武作寺と称す。

村名、武佐の由りて来る所、蓋し此れによるか。由りて自ら彌陀の像を作り其の一堂に安置し名付けて東金堂と云う。即ち当寺是れなり。

また別に観音の像を作りて別堂に安置し名付けて西金堂という。      
今の長光寺是れなり。    当寺爾来天台宗に属せしが嘉禎元年(1235)四月見真大師(親鸞聖人1876年追贈)関東より帰路の途次寄錫あり。

寺主大師に謁して聞法随喜し直ちに師弟の契りを結びて其時より真宗に帰す。大師のちの名を大同房了仙と賜い六字尊号に所持の念珠と和歌      
  
○南無阿弥陀仏をたのむ人なればなればみなたすくべき近いなり      
○百八の心なからに称ふれば 南無阿弥陀仏にめぐりあふなり      
○くりかえしくりかえしても尊きは南無阿弥陀仏の御名にぞありける   
      
と三首を添えて、汝我を見んと思はば此の記念を見るべし と。  是等の品今なお当寺に宝蔵す。      
元暦元年(1184)四月左近衛中将平重衡朝臣、鎌倉へ護送せらる時、当寺に詣で本堂の柱に      
      
 ○世のうきめみつつ近江の武佐寺や広く済はん法ぞうれしき     と題して去れり。

惜哉、其後兵火のために其堂焼失せり。      
文和四年(1355)正月中旬後光厳天皇、乱を避けて当寺に駕籠を駐め賜ふ。      
康安元年(1361)十二月再び臨幸ましまし、六十日間御駐輦(ちゅうれん)あらせられたり。後、貞治元年(1362)当寺住持還栄を法眼僧都に叙し、彌陀の古像一軀(安阿彌の作と云ふを賜ふ) 即ち今の本堂御本尊これなり。此時より太子御自作の阿弥陀如来は之を内道場に安置することとなれり。      
永正より天正に至る年間に加賀国本願寺の所領となれりし時、当寺の住持祐乗、實如上人の命を受けて加賀国を治む。 由りて金沢に一寺を建立して広済寺と称す。

天正十五年(1587)当寺主、嗣子なきを以て之を本願寺に求む。顕如上人のち安休房西周に命じてその嗣となす。

安休は浅井久政の子にして徳川家の姻戚たり。是を以て家康、秀忠の二公の寵遇を受け、廔々幕府に召され拝受せし数二、三に止まらず。

   

参考資料:東近江市「能登川の歴史2巻」、武佐寺略記、Wikipedia、近江八幡市の歴史第六巻

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長寿寺陣所  近江国(石部)

2015年12月11日 | 陣所

 六角討伐、浦上則宗が東寺の長寿寺陣所

三重塔跡…三重塔があったが、織田信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

お城のデータ

所在地:滋賀県湖南市(旧甲賀群石部町)東寺619   map:http://yahoo.jp/S-q_OC

現 状:寺院

築城期:奈良期

築城者:寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建し、聖武天皇の皇女誕生に七堂伽藍を建立し長寿寺と名づけたという。

改 築:鎌倉期には源頼朝が、室町期には足利将軍家が祈願所として諸堂を造改修した。

城 主:天台宗

遺 構:土塁、曲郭、畝状竪堀

駐車場:長寿寺参拝者用駐車場 

訪城日:2015.11.19

石造多宝塔

お城の概要

伊勢路として利用された古代の東海道は、近江・伊賀・伊勢・大和を結ぶ重要な交通路であった。このため、たびたび戦乱の中に登場することになる。また、軍事上の拠点として多くの城館も築かれた。 現在知られる甲賀郡の中世城館の位置をみると、野洲川と伊勢路を見おろす丘陵上に多くの城館が築かれている。特に杣川上流部に集中してみられ、(『滋賀県中世城郭分布調査1』)、奈良との結びつきが強かったものと思われる。

 石部平野の北の入り口にあたる甲賀郡と野洲郡の境界付近は野洲川が通る狭隘部をなしている。このためそこを通過する伊勢路を容易に封鎖することができるので、軍事上重要な位置にあった。

歴 史

 応仁の乱の際、六角勢掃討の先鋒を務めた浦上則宗が東寺の長寿寺に在陣しているが、これも伊勢路や金勝寺に至る道、ひいては甲賀郡、栗太郡東部を容易に扼することのできる重要地点であったからである。

  浦上則宗の軍勢が甲賀郡に侵入するが六角高頼はやはり正面切った抵抗をせずに姿をくらました。義尚は27日には手狭な安養寺から少し北東にある上鈎の真宝館に移動した。12月2日夜、六角に加担する甲賀衆が義尚の陣所に夜襲をかけた。 いわゆる「甲賀忍者」が有名になるのはこの時からである

「鈎の陣」に参加した甲賀武士は53家、特に活躍したのが21家あったというこの前後に幕府方大名の陣地で火事が続発し、それらも甲賀忍者の仕業であるという。具体的には閏11月に伊勢貞誠の陣で、12月に織田広近の陣で、翌年5月浦上則宗の陣で出火している

 長享元年(1487)9月、尾張守護・斯波義寛に従って織田寛広と共に足利義尚の六角高頼討伐(鈎の陣)に出陣し、翌年3月に帰国。延徳3年(1491)の足利義稙による第二次六角攻めにも従軍した。この軍陣で、11月の大津八町町道場の戦いで浦上則宗と協力して六角政綱を討ち取り、翌年3月29日の愛知川の合戦でも安富元家・浦上則宗と共に若槻城(五箇荘・簗瀬城)を救援する活躍を見せている。

信長の近江平定

 観音寺城から伊賀に遁逃していた江南の大名六角義賢が、伊賀武士と甲賀武士の糾合をもってその再興を準備し、信長に対立する江北の浅井長政とも結んで、豪族や小領主をして所々に一揆をおこさせて北進してきたため、信長の武将佐久間信盛(野洲永原城)・柴田勝家(長光寺城)などが、義賢と野洲川を挟んで対峙することとなった。それが野洲河原の戦いでは、「三雲三郎左衛門父子、高野瀬、水原なんど伝宗徒の侍、並伊賀、甲賀究竟兵780余」が討ちとられる(『信長記』)など、六角方は大敗し、家門を誇った六角氏もその権勢を失ったのである。その野洲河原の戦いに続いて起きるのが、同年六月の姉川の合戦(東浅井郡浅井町)である。朝倉・浅井の連合軍と姉川を挟んでのこの戦いは、信長麾下の徳川家康の活躍によって、連合軍が大敗に終わり、近江国を支配してきた六角・浅井の両大名は、この野洲川・姉川の合戦で再起する力すら失ってしまったのであった。

長寿寺に三重塔があったが、信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

山門

 三重塔があったが、信長によって安土城に移され、今も安土山中の総見寺跡に残る塔。

宝物殿に

本堂(国宝)

弁天堂

石造多宝塔

参考資料:湖国と文化(近江の古戦場)、石部南小学校HP、Wikipedia

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四十九院陣所     近江国(豊郷)

2015年12月10日 | 陣所

お城のデータ

所在地:滋賀県犬上郡豊郷町四十九院  map:http://yahoo.jp/-B3FD9

区 分:陣所

現 状:唯念寺

標 高:ーm   比交差:-m

築城年:鎌倉期 永正3年(1506)

築城者: 本願寺実如

城 主:

遺 構:

目標地:唯念寺

訪城日:2015.12.6

お城のデータ

豊郷は、中世には安食荘・甲良(かわら)荘・日枝荘・吉田荘に属した。東山道に沿う四十九院村と枝村に市座と関所ができ、商業が活発化する。枝村商人は紙座の特権を持ち、主に美濃で仕入れた和紙を京都へ運ぶことで利益を上げた。鈴鹿山脈の八風峠を越えて伊勢や尾張へも行商したが、峠の通行権などを巡って蒲生郡の保内商人としばしば争論を起こした。

中世東海中世東海道(東近江市「能登川の歴史2巻53頁」より)

交通の要衝であるために南北朝以降戦乱に巻き込まれることが多く文和年間(1352-56年)には足利義詮が後光厳天皇を奉じて四十九院に下向している。

城砦としては那須城(石畑)・吉田城(吉田)・高野瀬城(高野瀬)・赤田城(八町)があった。那須城は那須与一の次男と伝わる那須宗信の居館(現在の八幡神社)で宗信はのちに仏門に入り、称名寺(石畑)の開祖となった。吉田城は近江源氏六角氏の一族である吉田氏の居館で、現在も跡地は「吉田屋敷」や「城屋敷」と称される。吉田氏は応永年間(1394-1428年)に上洛し、1496年(明応5年)から京極氏が入城した。上洛後の吉田氏の子孫に角倉了以がいる。高野瀬城は六角氏の部将である高野瀬氏の、(現在の古河AS豊郷工場)居館。赤田城は永正年間(1504-21年)に赤田源隆が多賀荘(現在の多賀町)から移り住んだ居館で、現在の白山神社。源隆はのちに仏門に入り、常禅寺(八町)の開祖となった。

 

歴 史

  • 〔太平記  三十一〕
  • 八幡合戰事附官軍夜討事 宰相中將殿〈◯足利義詮〉ハ、〈◯中略〉三月〈◯文和元年〉十一日、四十九院ヲ立テ、三萬餘騎、先伊祇寸三大寺ニシテヲ分ツ、或ハ漫々タル湖上ニ、山田矢早瀬ヤマダヤバセノ渡舟ノ棹サス人モアリ、或ハ渺々タル沙頭ニ、堅田高島ヲ經テ駒ニ鞭ウツ勢モアリ
  • 文和元年(1352)閏2月、義詮京都の戦いに破れ近江国四十九院に逃れ、道誉父子随従す。6月、芝宮弥仁王擁立のため、武家使者として執奏勧修寺経顕と交渉す。8月、義詮、道誉に命じ、禅林寺聖衆来迎院雑掌に出雲国淀新荘地頭職を渡付せしむ。
  • 唯念寺は、はじめは法相宗であったが、その後天台宗をあわせ、永正3年(1506)に本願寺実如が照光坊と称する道場にした。
     元亀元(1570)、唯念寺二十七世であった巧空は、摂津の石山本願寺が織田信長の攻めにあうと聞き、門徒200人とともに救援に出発観音寺山(安土)付近で信長勢に囲まれて討ち死にし、門徒の多くも戦士した。
     このため本願寺顕如は、巧空の十七回忌に際し、唯念寺二十八世の巧寂宛に弔状を送り、当寺に永く本山直門の寺格を許すとし、さらに照光坊の名を改め「唯念寺」の名を与えた。
  • 元和元年(1615)、彦根藩主井伊直孝は大阪夏の陣に際して、当寺など真宗四カ寺に対して、大坂方の後方撹乱と隣国の一揆に対する警戒を依頼した。
 
唯念寺は

天平年中に行基が聖武天皇の勅を受けて当地に一宗を建立したことに始まる。
本尊は行基自らが彫ったとされる弥勒菩薩と弥勒菩薩像を安置し、他に山号を兜卒山、寺号を四十九院と名づけられた。
これは弥勒菩薩経の四十九重摩尼宝殿によるもので兜卒内影を顕すために、当院と奥の院であった奥山寺(荒神山)との間に点在して多くの堂舎が建立された。現在、これらの堂舎の名称は地名として残っている。
当地の地名も、弥勒菩薩の本院である兜卒山四十九院のある邑(むら)として世に知られ、その寺名が村の呼び名になったとされる。

芙蓉閣(書院)
この寺で最も古い建物で室町期に建立の書院建築。建築当時の七堂伽藍の一つにあたる。
当初の三階建は歳月とともに階下のみとなったが、床柱などから昔の趣が忍べるとされる。
また、書院の前庭は「皇苑」と称された。建立当時、後光厳天皇の行在所があったことによる。芙蓉の名も授けられとされる。
寛永年中徳川家康の工匠甲良宗広が江戸城、二条城の修・改築、日光東照宮造営を終わって唯念寺に身を寄せた当時、唯念寺本堂再建に奉仕したもので、様式は本山同様に設計され、内部は日光東照宮不要の絵具を用いて光彩を加えたとされる。
襖戸には、現在もその絵具の残存している箇所がある。
現在は非公開のようである。

芙蓉庭園
蓬莱式枯山水として知られ、北条時頼もこの庭を愛好したといわれる。「行基の庭」とも呼ばれた。
庭は蓬莱式枯山水で、築山が滝石組を基点として東方南に走り、中ほど大岬石、島々州崎が護岸石組、中央鶴亀の二島、築山に椎の大樹など、築山、枯泉池、泉石の景色もよいとされる。
最近は荒廃が進み、公開中止となっている。

  • 後光厳天皇と将軍足利尊氏
    嘉暦年中(1326)将軍尊氏は、しばしば当院に逗留し、その際、法堂を再建した。文和3年(1354)義詮(よしあき 尊氏の子)は、後光厳天皇を奉じて当院を行在所とし難を避けた。南北朝時代は常に将軍の逗留地となっていた。その時、天皇より兜卒山四十九院の勅額を拝した。
  • 甲良豊後守宗廣との関係
    宗廣が故郷に帰ったのは日光東照宮の大事業も終わり、大棟梁職を長子の宗次に譲ってからが通説になっている。
    寛永16年(1639)の寛永寺の五重塔を創建した後とされる。宗廣68才頃と推定されている。32才で出府し、68才に故郷へ、この30数年間に江戸・日光その他において幾多の大功績を残し、一人で帰ってきたとされる。宗廣は壇那寺であった唯念寺に身をおいた。そこから思い出のある京都に度々往復などして余生を送った。この間唯念寺に残る資料には「宗廣在世中に浄財を寄付して寺院を起立した」とある。
    唯念寺で安心立命仏道修行の静かな余生を送っていた時に、自分の肖像彫刻「木像」を残した。今も唯念寺の秘宝として大切に保管されている。宗廣は正保3年(1646)病を得て京都で没した。ときに年74才であった。

唯念寺の秘宝である自刻の像
彫刻像は法体の姿で、阿弥陀如来に向かって静かに合掌されている姿という。
木像は総高約43.6cm、その頭、耳の大きさが宗廣の人並み優れた明晰な頭脳の持ち主であったことを表し、目元のおだやかさ引き締まった口元に如何にも意思の強固な人柄であったことをこの像が物語っているとされる。
 

 

春日神社

御由緒
天平3年僧行基が四十九院建立の時、伽藍鎮護の神として祭神を院内庭園に勧請したのが創祀で、康安元年後光厳天皇の行在所であった時「春日大明神」の宸翰を賜わる。永正3年同院が真宗に転じた時、現今の地に遷座し現在に至る。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、古事類苑データベース、ウィキペディア(Wikipedia)、淡海の城、豊郷の昔ばなし、甲良豊後守宗廣、東近江市「能登川の歴史2巻」、

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安養寺陣所  近江国(栗東)

2015年11月05日 | 陣所
 安養寺由緒の石碑 
 

お城のデータ

 所在地:栗東市市安養寺88 map:http://yahoo.jp/gqT3uM

現 状:安養寺・山林(八十八霊場)

築城期:奈良時代 天平十二年(740) 

築城者: 良弁僧正が開基

陣所期:室町期

陣 主:足利九代将軍義尚 

区 分:陣所

遺 構:主郭・郭・土塁・空堀

標 高:ー m 比高差:30m

駐車場:安養寺参拝者駐車場

訪城日:2015.11.5

お城の概要

 安養寺城は、奈良時代創建の安養寺を、六角討伐に足利九代将軍義尚が最初に陣所を構えた。栗東市立治田東小学校に燐で名神高速道路が門前の東を走る。

安養寺の境内の山中にはミニ八十八所巡りの石仏は配置され、城郭遺構の低土塁・平削地・大きな空堀が残る。六角討伐に足利九代将軍義尚に従軍した兵士の宿所と想像する。

 

歴 史
 
 足利義尚が最初に陣をおいた安養寺、甲賀衆(甲賀忍者)はこの地を夜襲したと伝えられる。その後、義尚は永正寺に本陣を移し、同地において客死した。
安養寺の境内は高速道路に寸断され、永正寺は土塁がわずかに残るばかりで、過ぎ去った歴史の軌跡をたどる難しさを実感する。
 
 
『長興宿羅記』に
・鈎陣所・・・長享元年10月4日の条「令著陣同国鈎安養寺給」
・・・・・・・・・・長享元年10月28日の条「今日自江州陣上洛人語日、将軍御陣所被改鈎安養寺、令移同所真法館(山法師也)給、被館狭少之間、仮陣所一」宇被新造、伊?奉公外様軍勢、各改陣所参候御近辺云々」とある。
 
   
表参道
表山門県指定庭園の説明書 
 
山門を入ると左では、空堀が100m
薬師堂外観 
歴史
     
安養寺の歴史  

歴史1 (安養寺山の麓に、良弁によって開基)

 安養寺山の麓に、聖武天皇の勅願により、東大寺の建立に尽力し、金勝寺を開基した良弁によって開基されました。

当初は法相宗に属していましたが、承和元年(834)太政大臣藤原良房の本願により、弘法大師こと空海が中興開基され、以後真言宗大本山大覚寺派の名刹として知られています。 

歴史2 (焼失と再建)

 安養寺には、弘法大師が作ったとされる愛染明王や大黒天などが残っています。
皇室の帰依も厚く、弘長3年(1262)に亀山天皇が諸堂を再建したと寺伝に記されています。その後、火災に遭いましたが、嘉元2年(1304)に復興しました。

 長享元年(1487)、室町幕府と対立し、近江で力を誇っていた六角高頼氏を討伐に出陣した第9代将軍足利義尚が、栗東で最初に陣を構えたのが、安養寺でした。

安養寺に入った義尚は、本格的に甲賀郡内の六角勢掃討に着手しましたが、長期化を予想した義尚は、手狭な安養寺を出て、上鈎にある永正寺に陣を置きました。この戦いの時に、六角勢の兵火にかかり、十二ヶ院などの建造物が焼失しました。 大永年間(1521~1528)に再興されましたが、再び戦乱に呑みこまれてしまいます

 元亀元年(1570)8月9日、織田信長が佐々木氏の残党と戦ったその兵火を浴びて、本堂・僧房などがことごとく焼け落ちました。 

歴史3 (再興)

 貞享元年(1684)に京都から慧堅戒山が入山し再興し、正徳元年(1711)に江戸幕府第6代将軍徳川家宣に末永く天下安全の祈祷を修する旨命じられました

東方山安養寺の略縁起
  和暦(西暦)          内容
天平十二年(740) ・聖武天皇の勅願により、金勝寺25別院の一つとして、良弁僧正が開基。
         ・本尊が薬師如来であることから東方瑠璃山安養寺勅願を賜りました。
承和元年(834)  ・弘法大師空海が中興、真言宗に改宗。伽藍造立の本願は太政大臣藤原良房。
弘長三年( 1263) ・亀山天皇は勅願所とされ七堂伽藍をはじめ二十余の僧坊の並ぶ大伽藍を建立、弘法大師作の愛染明王を下賜される。
長享元年(1487) ・足利九代将軍義尚が佐々木(六角)高頼討伐のため、陣所とする。
         ・しかし、兵火に罹り堂宇を消失。その後大永年間に復興。
元亀元年(1570) ・織田信長の兵火のため、本尊の薬師三尊等の一部を除いて、すべて焼失する。
貞享元年(1684) ・戒山慧堅律師、旧跡の荒廃を惜しみ、仏殿僧舎を再建建立。
享保三年(1718) ・後西院の皇女宝鏡寺理豊宮より、
          後西院天皇真筆の「東方山」・「安養寺」・「放光院」の山号・寺号・院号の三額を賜る。
 
参考資料:『湖国と文化』2015年秋近江の古戦場、安養寺HP、滋賀県中世城郭分布調査

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桑実寺(仮幕府)  近江国(安土)

2015年10月27日 | 陣所

紙本著色『桑実寺縁起絵巻』 2巻、附・後奈良天皇宸翰題籤(しんかん・だいせん)及び消息
 絵巻の絵画は土佐光茂(みつもち)筆。将軍足利義晴から寄進された。(京都国立博物館寄託所蔵)

室町幕府12代将軍足利義晴が、約3年在住し、宿坊のひとつである正覚院に仮幕府を置いたことでも知られる。『桑実寺縁起絵巻』を奉納、絵には桑実寺本堂をはじめ、多くの堂舎が描かれいる。

 信長は1534年5月12日尾張の那古屋城で誕生した時、安土では第12代将軍 足利義晴が観音寺城内の桑実寺内に室町仮幕府を開設。6月8日より10日まで3日間にわたりここで近衛尚道の娘と将軍義晴の結婚式が盛大に行われた。
長男は後の第13代将軍 足利義輝、彼は将軍の地位にあるが剣聖 塚原ト伝から奥義の伝授を受けた剣豪であり、腕が災いしてか、松永久秀の二条城襲撃の際に 壮絶な戦いで闘死。

将軍が戦った例は長い歴史の中でも無い。次男は第15代将軍 足利義昭、織田信長の擁立で将軍となったが、信長から九箇条の「殿中御掟」を突きつけられ、これに不満を持ち二度に渡り信長に逆らって挙兵したが、追放される。 室町幕府最後の将軍、足利義昭。

 観音寺城最盛期の一時期でもある。今では寂れた場所であるが当時は佐々木六角氏本拠地として近江の中枢であり、天下掌握、戦略の要衝であった。
 

仮幕府のデータ

所在地:近江八幡市安土町桑実寺675 map:http://yahoo.jp/tZDSK8

別 称:桑峰薬師

創 建:伝・白鳳6年(677年)

開 基:定恵(藤原鎌足の長男)

築城期:室町期・・・享禄4年(1531)

築城者:12代将軍足利義晴

仮幕府の概要

桑実寺(くわのみでら)(滋賀県近江八幡市安土町)は、標高433メートルの繖山(観音寺山)の中腹にあり、観音正寺へと登る途上に位置する。

 寺伝では、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられている。

寺名は、定恵が唐から持ち帰った桑の実をこの地の農家にて栽培し、日本で最初に養蚕を始めたことに由来する。

室町幕府

1532年には室町幕府12代将軍足利義晴が、ここに仮の幕府を設置。のちに15代将軍足利義昭も滞在する。

享禄4年(1531)近江守護職佐々木定頼を頼った将軍足利義晴が約3年在住し、宿坊のひとつである正覚院に仮幕府を置いたことでも知られる。
また、15代将軍足利義昭も滞在するなど、近江の中でも由緒ある寺院のひとつである。

桑実寺の位置(古地図)

門前に「景清の丈くらべ石」の残る

平景清も目の回復を願って、近江八幡の投宿して通った。影清道が残る

参考資料:桑実寺HP、ウィキペディア(Wikipedia)』、かくれ里を行く(書籍)

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