天正11年(1583)、越前北庄城の柴田勝家は、3月3日に佐久間盛政を雪の融けやらぬ北国街道を近江に向けて出発させた。翌3月4日には勝家自らが主力を率いて北ノ庄を出陣し、江越国境付近の玄蕃尾城に布陣した。
「勝家出陣す」との知らせを受けた秀吉も長浜城から、湖北木之元に軍を進め、柴田軍と羽柴軍は余呉湖周辺に陣地を構築して対峙した。
賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27
賤ヶ岳合戦と城郭探訪 ?2011.8.27
賤ヶ岳の山頂からみた両軍の布陣位置 |
賤ヶ岳(422m 滋賀県木之本町)
「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」
賤が岳の名は馴染みの山である。木之本町に戻り、大音のリフト乗り場に着く。
楽をして登ろうという魂胆であったが、リフトの始発は9時で早すぎた。待っている間に山頂まで登れると、歩いて登ることにする。
スギ林の中を大きく蛇行しながら、2度リフトと交差して山頂駅に着く。
ここから開けた道を緩く登り山頂に着く。
平坦な広場の真ん中に三角点がある。余呉湖や琵琶湖への展望がある。三角点と向かい合うように「賤ヶ岳七本槍の像」がある。一人だけ疲れて槍に凭れて岩に腰掛けている姿の像である。この像をみればこの山が凄惨を極めた賤が岳合戦の舞台であったことを思い出させる。
本能寺で倒れた信長の跡目争いで、仲間であった秀吉と柴田勝家が雌雄を決した戦いであった。秀吉方の七本槍の奮戦で秀吉が勝った。
負けた勝家は越前北の庄に逃れ、館に火をかけお市の方と共に自害した。
お市の方(小谷方ともいう)は、明日登る予定の小谷山の城主浅井長政の奥方であったし、さらに辿れば信長の妹であった。
小谷城と虎御前砦
長政とお市の方、その3人の娘はどうなったのかなど、歴史物語として感涙を呼ぶ舞台がこの地に多い。
この山は勝った秀吉方の事跡が多い。勝家は越前北の庄(福井市)城主だし、湖北は長浜城の秀吉の領地だから当然だ。
当時は刀による斬り合いであった。鉄砲は敵の顔を見ることもなく殺すことができるが、刀による白兵戦は相手の顔を見声を聞きながら殺し合った。しかもかって味方同士であったから余計凄惨だ。
戦争はもういいと余呉湖を眺めると、余呉湖は天女伝説がある。
余呉湖に舞い降りた天女と桐畑太夫との間に生まれたという話があった。
余呉湖には天女が白鳥の姿となってしばしば舞い降り、また去っていくという伝説があった。「余呉の天女」は自分が天女となって湖を舞い去る絵である。
そこで花の吹雪を舞い上げる桜を見て下手な一首。
「見下ろせば余呉の天女の花吹雪」
びわこ塩津、左の木の向こうに竹生島!
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