久ぶりに、安土城址に登って、信長公と同じ視界が、往時は琵琶湖の内湖(大中の湖・小中の湖・須内湖)も今は干拓されて農地に)
話題の町長さんとあづち天使のお出迎え1000人~1500人大集団
JR東海道本線開通120年記念イベント!
安土城址大手門に石段に、お地蔵さん、石仏が数十体が・・・!
信長らしく『天下布武』
天主近くの森 蘭丸の屋敷跡(未発掘)
(秀吉や利家の屋敷跡は大手門のすぐ一番下)
豊臣秀吉が、遺品で立てた『信長公の廟』(遺骨は、本能寺でも見つからず)
上の図は安永九年(1780)に刊行された「都名所図会」に描かれた本能寺だが、秀吉の命により移転され再建されたものである。信長の時代の本能寺は四条西洞院・油小路・六角・錦小路にわたる地域にあったのだそうだ。
織田信長が、天下統一の拠点として近江(滋賀県)の安土に築いた城。
1576年、信長は岐阜から琵琶湖東岸の安土に本拠を移し、城下町をつくって商人を集め、楽市・楽座の制をしいて自由に取引きできるようにした。本能寺の変のさいに明智光秀に接収され、によって焼かれた。これを攻めた織田信雄(信長の子)
天下布武
訓読すれば「天(あめ)の下、武を布(し)く」となる。「武力を持って天下を取る」という風に解釈されることが多いが、武家の政権を以て天下を支配する」という意味に取ること多い。信長は美濃攻略後に井ノ口を岐阜と改名した頃からこの印を用いている。
織田信長朱印「天下布武」
天主は敷石のみ、信長も見た眺望(今は農地だが、当時は三方琵琶湖であったと・・・!)往時は琵琶湖の内湖(大中の湖・小中の湖・須内湖)も今は干拓されて農地に)
当時のままの、三重塔・二王門(楼門)を残すのみ
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!