城郭探訪

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永原御殿跡 近江国(野洲)

2018年02月24日 | 御茶屋御殿

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

家康ら上洛時の居室跡を初確認 滋賀画像に含まれている可能性があるもの:屋外

お城のデータ

所座地:滋賀県野洲市永原 map:https://yahoo.jp/TcrMRL

別 称:永原御茶屋御殿

区 分:平城

現 状:竹林(発掘調査)

築城期:織豊期最後

築城者:徳川家康

遺 構:土塁、水堀、屋形、敷石、土橋、虎口

目標地:菅原神社

駐車場:永原御殿前駐車場

訪城日:2018.2.17

お城の概要

最後の土の城か?

溝跡(水堀)や礎石は指図通りに配置されており、周辺の竹林からは本丸を取り囲む土塁跡や櫓跡も見つかった。市教委は「非常に状態がよく、当時の資料との整合性も高まり、御殿の全容解明へ前進した」としている。 

  御殿は徳川家が上洛(じょうらく)時に休息や宿泊に使った施設で滋賀県内では水口(甲賀市)、柏原(米原市)、伊庭(東近江市)にもある。永原御殿は約4万平方メートルと県内最大級で、1601年までに家康が築いたとされ、7回宿泊した記録が残る。その後、拡張工事も行われたが、幕藩体制が確立して将軍の上洛の機会は減った。34年の家光の上洛を最後に使われなくなり、85年に解体された。

お城の歴史

 永原は、 永原氏が室町中期に永原城(上永原城)を築城し、文明12(1480)年頃には永原越前守重秀が、筑前守重頼が活躍をした。佐々木六角氏の氏族永原氏の居城。 佐々木六角氏が織田信長に滅ぼされると、永原氏は永禄11(1568)年の織田信長近江侵略に、六角氏と共に永原氏も衰退した。永原氏は野洲・栗東・甲賀の一部にまで勢力を持っていた。元亀元(1570)年には織田信長の重臣・佐久間信盛がこの永原城に入城する。のち永原氏は信長に許しを得て復活。 

 永原城廃城後、天正14(1586)年に信長後天下を支配した豊臣秀吉が、徳川家康に永原のこの地を与え、後の「大坂冬の陣(1614)」・「夏の陣(1615)」などで家康、秀忠らが利用した。徳川将軍の宿泊地として永原御殿が築城された。

 永原御殿は、徳川将軍が上洛する際の宿泊施設として、朝鮮人街道沿いに築かれた居館である。御茶屋とも呼ばれる。 

画像に含まれている可能性があるもの:屋外三ノ丸の発掘調査時

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1001127653383143

 

二ノ丸への門

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外敷基石と石仏 

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然東側の土塁

画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外、自然西側の土塁

画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然北・東側の土塁

 

隣接する菅原神社画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外

菅原神社 (スガハラ) ~(永原天神 江部の天神さん)

御祭神 
菅原道真公
〔配祀神〕菅原淳茂卿 度會春彦公 島田忠臣公

御由緒

 創祀は不詳。社記によると、ここ永原の字馬場のうちには御殿跡が残され、永原御殿と呼ばれた。徳川将軍上洛の際の休泊所が設けられていたが、その当時御殿の北に位置する土安神社(当社の風地境内社、小堤城主永原越前守源重秀の再建)とともに御殿守護の社とされ、慶安二年、徳川家光公から八石余の朱印地を先例に従って寄附されている。なお、この朱印は、明治維新には逓減禄に改められた。明治以降、菅原・土安両社。    

当時の江辺庄永原村、北村、中北村三ヶ村の村社となり、永原重秀が御神像の腐蝕することを恐れ、新しい御神躰を奉製し、当社遷座の日を例祭日(四月第二の午の日)と定め神輿の渡御が行われるに至った。

 本殿・境内建物

 画像に含まれている可能性があるもの:屋外本殿 二間社流造 間口二間三尺 奥行二間三尺

〔拝殿〕入母屋造 間口三間 奥行三間

 境内社(摂社・末社)

八幡神社 蛭子神社

その他の写真
 

滋賀県野洲市教育委員会は14日、徳川家康が築いたとされる江戸時代の将軍家の宿泊所「永原御殿跡」(同市永原)から、本丸の中央部にある部屋「古御殿」跡と、西側にあり望楼や茶室だったとされる「御亭」跡が出土したと発表した。資料から御殿の存在は知られていたが、私有地のためこれまで本丸の調査は行われておらず、建物跡が確認されたのは初めて。

  国史跡指定を目指し、江戸中期に製作された間取り図「指図」を基に、古御殿と御亭があったとされる計約90平方メートルを2017年8月から発掘調査した。古御殿跡からはコの字形で東西12メートル、南北7メートル以上の溝跡、御亭跡からは東西4・5メートル、南北4・8メートルの溝跡が出土し、それぞれ加工跡がある礎石も見つかった。

  溝跡や礎石は指図通りに配置されており、周辺の竹林からは本丸を取り囲む土塁跡や櫓跡も見つかった。市教委は「非常に状態がよく、当時の資料との整合性も高まり、御殿の全容解明へ前進した」としている。

  御殿は徳川家が上洛(じょうらく)時に休息や宿泊に使った施設で滋賀県内では水口(甲賀市)、柏原(米原市)、伊庭(東近江市)にもある。永原御殿は約4万平方メートルと県内最大級で、1601年までに家康が築いたとされ、7回宿泊した記録が残る。その後、拡張工事も行われたが、幕藩体制が確立して将軍の上洛の機会は減った。34年の家光の上洛を最後に使われなくなり、85年に解体された。

  2018年2月17日午後1時半から、現地説明会に参加した。野洲市077(587)1121。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、空、屋外写真の説明はありません。

参考資料:滋賀県神社庁・京都新聞 2018.2.15

 本日の訪問ありがとうございす!!


「近江の城郭 足利将軍と近江」 鈎陣所跡

2018年02月16日 | 陣所

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。

 応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱により、中央権力としての室町幕府は衰退し、地方勢力が台頭する戦国時代が幕を開けます。近江においても守護六角氏が権力を振るうようになり、幕府に対し反抗的な態度を取るようになります。これに対し、将軍権力の回復をめざす室町幕府第九代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討つため自らが近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。しかし戦線は膠着し、義尚が延徳元年(1489)に陣中で没したため、六角氏を滅ぼすことはできませんでした。将軍親征をはねのけたことで、これ以後六角氏は戦国期の守護権力として自立していくこととなります。

この時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。

現地には、今も土塁や堀の痕跡が残されています。今回の講座では、文化財専門職員の案内で鈎陣所跡を訪ねます。

1.日時:平成30年2月12日(月・祝)13時45分~16時30分自動代替テキストはありません。

  • 栗東市手原赤坂会館集合
  • 講義:手原赤坂会館(栗東市手原3丁目9-5)1階多目的ホール画像に含まれている可能性があるもの:テキスト写真の説明はありません。写真の説明はありません。
  • 現地見学:鈎陣所跡・旧東海道

3.行程

  • 手原赤坂会館→旧東海道(旗本渡辺領代官猪飼邸・すずめ茶屋)→天王神社→鈎陣所跡(永正寺・寺内)→旧東海道→JR手原駅
  • 全行程約4km
画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、靴、子供、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、屋外

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、靴、植物、屋外、自然

4.主催:滋賀県教育委員会
5.協力:栗東市教育委員会
6.講師
  • 講義「鈎の陣」:藤岡英礼氏(栗東市教育委員会)
  • 現地探訪:藤岡英礼氏(栗東市教育委員会)
7.定員:80名(事前申込制・先着順)
8.参加費:無料
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
         
本日の訪問ありがとうございす!!

北内貴城(比佐殿屋敷) 近江国(甲賀・水口)

2018年02月12日 | 山城

 写真の説明はありません。

別 称:比佐殿屋敷

所在地:甲賀市水口町北内貴字大谷・水口字下真海 map:http://yahoo.jp/IgNUVy

現 状:山林

遺 構:曲輪(二郭三曲輪)・ニ重土塁・障子堀・竪堀・土橋

区 分:平山城 (山頂)

築城者:美濃部茂忠

築城期:織豊期 永禄年間(1558-70)

標 高:230m  比高差50m

目 標:みなくち子どもの森(一番奥)

駐車場・・・(要注意:閉門16:30)

訪城日:2018.2.10

お城の概要

甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた

北内貴城は北内貴の東端、野洲川左岸に広がる山塊内に所在する。

野洲川(東側)は、切岸状で土塁はない。西側の池(灌漑池)を前掘に、築城され比高差少ないためか土塁の外側を堀込んで障子掘に、その外側は掻揚土塁として防御力を図る巧みな築城技術的な城!

現在西麓の谷部はみなくち総合公園(みなくち子どもの森)、公園を見下ろす格好で南北に延びる尾根頂部(230m)を一杯に築かれている。

 曲輪Ⅰが主郭と見られ、甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた方形区画で、急崖の北東辺以外は平地城館のような横堀が掘られている。南東辺に平虎口が開口し、土橋状の通路で曲輪Ⅱに至る。
 曲輪主郭と副廓の間は主郭側高く5mを図る。長い土塁と障子掘である。

南端は尾根筋を遮断する堀切に土橋が架かっていて、曲輪Ⅲ側には櫓台のような高まりが更に防御性を高めている。
曲輪Ⅱは北東辺以外を甲賀には珍しい障子掘・二重土塁に囲まれた方形区画土塁で囲み、北隅付近に虎口が開口している。虎口の外側は、城道に付属する土塁が設けられる厳重さから、これが大手だと思われる。大手を下った先には幾つかの削平が確認できる。

 北内貴城は、他の甲賀の城のように集落背後とは離れた立地と、特徴的な縄張、特定の土豪(美濃部氏)の城と伝わる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、座ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城の歴史

 北内貴城は、永禄年間(1558-70)に美濃部茂忠が築いた。

茂忠の子美濃部治茂は、蒲生氏の女である比佐女を室に迎えたが、この比佐女がここに住したため「比佐殿屋敷」の別名が伝わる。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、犬、屋外、自然

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041628562666385

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041632192666022

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1041633565999218

作図:長谷川博美氏

参考資料:『甲賀市史 甲賀の城』・城歩会資料・

本日の訪問ありがとうございす!! 


近江国(日野)小御門城主・蒲生高秀建立

2018年02月08日 | 文化財
雲住寺は、浄土宗 龍光山。
百足退治で有名な藤原秀郷候(通称 俵藤太)ゆかりの寺院。
應永15年、藤原秀郷より十四代目の蒲生郡小御門城主・蒲生高秀により、秀郷追善のため建立したのが始まり。

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている

昭和30年代の瀬田の唐橋

『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

 西詰名盤

龍王神社

本殿

龍光山 秀郷院 雲住寺  平成6年に建立された「百足供養堂」

 

雲住寺(うんじゅうじ)

民話『三上山のムカデたいじ』ゆかりのお寺と神社が瀬田の唐橋のたもとに並んであります。雲住寺は、ムカデ退治に活躍した藤原秀郷(俵藤太・たわらとうた)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっており、瀬田の夕照が眺められる部屋もあります。そのすぐ隣にあるのが、俵藤太と乙姫を祭神とする龍王宮秀郷社。昔から瀬田の唐橋の下には龍神が住むという伝説があり、1440年頃に現在地に橋を架け替えたとき、龍神をご神体として祀ったといいます。ちなみに藤原秀郷は実在の人物で、平将門の反乱に際し、秀郷が将門の左目を射抜いて見事に征討。これは瀬田橋の龍神の御加護によるものである、という由来から、ムカデ退治の伝説が生まれたと考えられています。

 

 百足供養堂のある寺
 近江八景・瀬田の夕照で知られ、日本三大名橋の一つでもある瀬田の唐橋は欄干の美しい橋だ。都への要衡としてたびたび歴史の舞台に登場するこの橋の東詰めに、雲住寺はある。
 雲住寺が開かれたのは応永15年(1408)。初めは天台宗だったが、16世紀中頃に浄土宗となっている。
 山門を入ると正面に本堂、そしてその左手に「百足(むかで)供養堂」と書かれた小さな六角堂が目にとまる。実はこれ、寺を開いた時の城主・蒲生高秀から逆上ること14代前の藤原秀郷(俵藤太=たわらとうた)により退治されたむかでの供養堂

 醍醐天皇の時代、俵藤太は勇名をとどろかした武将だった。あるとき勢多(瀬田)の橋に大蛇が出て往来をさまたげた。狩りの途中、橋を通った秀郷はこれをものともせずにその背中を渡って行く。すると突然、翁が秀郷の前に現れ、「私は橋の下にすむ龍神です。三上山を七巻半もする大むかでが出て、苦しめられています。ぜひ退治していただきたい」と言った。さて、秀郷は三本の矢を用意し、むかで退治に出た。二本の矢は次々に跳ね返された。そこで三本目には自分の唾をつけ、キリリと射ると、矢はついに眉間に突き刺さり、むかでは退治された。

蒲生高秀はこの地に寺を建立したわけで、以来、寺は瀬田の唐橋の守り寺となっている。寺にはむかで退治の縁起を刻んだ版木、また藤太ゆかりの太刀の鍔(つば)や、蕪矢(かぶらや)、鎗鉾先。また近江八景の版木などが残されている。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

天台宗から浄土宗(二十五世)に宗派を変えています。

百足退治に関わる什物もあるそうです。「俵藤太秀郷公太刀鍔(蒲生家伝来)」「蕪矢根」「槍鉾先」「藤原朝臣忠郷公像(大津市文化財指定)」「俵藤太百足退治踏ん張りの石」など。

境内本堂左前には「百足供養堂」もあります。

電話により事前に予約すると、住職の話やお茶の接待があるようです。

日本三大名橋『瀬田の唐橋』や近江八景「瀬田の夕照」を書院から眺めることも可能だとか。
瀬田の唐橋に戻り、西詰へ向かって歩き出します。 さらにこの神社の隣にあるのが、雲住寺である。創建は応永15年(1408年)、蒲生郡に城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の当事者が全て祀られているという格好になるわけである。

途中の中島に、秀郷像?と思わしきものがありました。瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。

 さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。


 俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。
 闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。
 その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。
 
参考資料:瀬田川観光協会、城郭探訪
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寺前城 近江国(甲賀・甲南)

2018年02月03日 | 丘陵城

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治小字寺前城 map:https://yahoo.jp/n-VrSo

別 称:持前城

区分:丘陵城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:服部氏か?

改築期:織豊期

遺 構:曲輪・虎口・土塁・堀切・横堀・現地説明板(大谷池の岸にある)

標 高:213m  比高差:10m

目標地:新名神高速道路甲南サービスエリア

駐車場:路上駐車

国指定史跡

訪城日:2018.1.20

お城の概要

寺前城の詳細は詳細は不明ですが、「甲賀郡中惣遺跡群」のひとつとして国の史跡に指定されています。大谷池の西にある丘陵の北端に築かれており、南側には二重堀切をへだてて村雨城が隣接しています。甲賀特有の二城連結城で、村雨城を主郭として、寺前城を副郭としていたと考えられます。村雨城に比べると小規模ですが、主郭部を囲う土塁のほか、堀切や喰い違い虎口などの遺構を見ることができます。甲賀郡中惣遺跡群(寺前城・村雨城・新宮城・新宮支城・竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

寺前城は大谷池の西にある丘陵の北端に築かれており、南側に隣接して村雨城がある。寺前城は方形区画の主郭に東を除く三方に土塁が付く。東側にもかつては土塁があったという。村雨城に続く南尾根には二条の深い堀切・・箱堀を設けて遮断している。主郭の虎口は複雑で、北と北西に虎口を開く。北虎口は土橋を経て北から西へ曲がり、北西虎口は西から北へ通路が伸び、それぞれの通路が土橋状の通路として交わる。

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/989070394588869

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外、自然、水

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、

その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、現地説明板」より

画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、植物、木、屋外、自然村雨城と寺前城の間の箱堀画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、屋外、自然

写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査 旧甲賀郡の城』・『甲賀市史・甲賀の城』・城歩会資料・

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村雨城 近江国(甲賀・甲南)

2018年02月03日 | 丘陵城

画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治小字池ノ谷 map:https://yahoo.jp/4LmW4Y

区 分:丘陵城

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:服部氏か?杉谷氏?

改築期:織豊期後期(信長の近江侵略に備えて)

遺 構:高土塁・箱掘・虎口

標 高:210m 比高差20m

目標地:新名神高速道路甲南サービスエリア

駐車場:路上駐車

国指定史跡

訪城日:2018.1.20

お城の概要

甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

村雨城は大谷池の西にある丘陵に築かれており、北側に隣接して寺前城がある。村雨城は大きく東西二郭で、東が主郭、西が二郭となる。主郭の周囲は高土塁が巡らされ、西中央部に虎口を開く。西の二郭は北側に土塁を設けており、西側がやや北へ張り出すようになっている。

主郭の南北両尾根は深く堀切となり、北はやや自然地形に近い尾根に東西に土塁が付き、その先が寺前城の二重堀切へ続いている。

村雨城は、寺前城と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、その50mほど南にあるのが村雨城である。
甲賀市甲南町新治付近には、現在確認されている中世の城館が7箇所あるそうだ。いずれも方形に土塁で囲む城館で、 保存状態も非常に良いそうだが、この村雨城もほぼ完存である。
主郭は25m×20mの長方形に近い形で、周囲を土塁がめぐっている。南側の土塁は、部厚くて高く、その外側に空堀をめぐらせている。
西側に設けられた虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
また、虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられ、曲輪の先端より下方へ緩い斜面になっている。
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、往時は谷になっていたようだ。
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、

その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、現地説明板」より

写真集 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/989069254588983

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、植物、屋外、自然南側の箱掘画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然土塁東側画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然東側から虎口画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然北側虎口写真の説明はありません。作図:長谷川博美氏

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査 旧甲賀郡の城』・『甲賀市史・甲賀の城』・城歩会資料・

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