城郭探訪

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連続講座「近江の城郭」 第1回 長比城(たけくらべ)と東山道

2014年10月31日 | 戦国山城

連続講座「近江の城郭」 第1回 長比城(たけくらべ)と東山道

 柏原駅前・柏原宿

濃霧の長比城

1.日時 平成26年11月2日(日) 10:20~16:30

      米原市柏原生涯学習センター集合(JR東海道線柏原駅下車徒歩10分)

 2.場所 講義:米原市柏原生涯学習センター(米原市柏原)

  現地見学:柏原宿歴史館・旧中山道柏原宿・長比城跡(米原市柏原・長久寺)

3.行程 柏原生涯学習センター(講義・昼食)・柏原宿歴史館(自由見学)→柏原宿本陣跡→八幡神社→長比城跡→JR柏原駅 全行程約2km ※急峻な山登りあり

4.主催 滋賀県教育委員会 5.協力 米原市教育委員会

6.講師 講義「織田・浅井同盟の再検討」 松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)

講座

元亀元年(1570)4月、浅井長政は反織田信長の兵をあげます。越前を攻撃するところだった信長は、命からがら京へと戻り、その後居城岐阜へと帰ります。対して長政は、信長を美濃に封じ込めるため、近江と美濃との国境付近に「かりやす」「たけくらべ」の二つの城を築きました。このうち「かりやす」は米原市上平寺の上平寺城跡に、「たけくらべ」は米原市長久寺の長比(たけくらべ)城跡に比定されます。

 今回の講座では、長比城跡と麓を通る東山道(近世の中山道)沿いの文化財を、文化財専門職員の案内で御覧いただきます。

長比城跡(米原市柏原・長久寺)・・・・後日・・・・現地見学(単独)2015.4.2

 http://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/2afaf4fa8858c807211cf4b983de00fa


雪野山古墳~過去・現在・未来~・・・シンポジューム

2014年10月30日 | 講座

 雪野山古墳は、東近江市と竜王町、近江八幡市との境界にある雪野山の山頂にある古墳で、石室が全く荒らされていない未盗掘の状態で発見されました。

平成元年から発掘調査を始め、石室からは、三角縁神獣鏡や漆を丁寧に塗った矢を入れる容器「ユキ」など、多くの副葬品が出土し、当時大変話題になりました。

 今年は雪野山古墳の発掘調査が行われてから25周年を迎え、また、平成26年3月に国史跡に指定されたことを記念し、10月25日(土)に「雪野山古墳-過去・現在・未来-を語るシンポジウム」を開催されました。
 
 このシンポジウムでは、まず雪野山古墳発掘調査団長を務めた大阪大学の都出比呂志名誉教授らが古墳に秘められた謎に迫る講演会を行います。その後、3人の考古学者によるシンポジウムを行い、雪野山古墳の今後のあり方について話し合っていただきます。

講演会

■「雪野山古墳発掘の経緯と成果」 

  講師:都出比呂志氏(雪野山古墳発掘調査団長・大阪大学名誉教授)

■「近江の前方後円墳と雪野山古墳」

  講師:小笠原好彦氏(東近江市文化財保護審議会委員・滋賀大学名誉教授)

■「雪野山古墳と近江周辺地域」

  講師:菅谷文則氏(奈良県立橿原考古学研究所所長・滋賀県立大学名誉教授)

シンポジウム

テーマ:これからの雪野山古墳

出 演:講演会で登壇いただいた3名

その他

 蒲生コミュニティセンターで雪野山古墳出土の鏡(国の重要文化財)を展示。

 


『~歴史の要所~ 勢多唐橋(せたのからはし)』

2014年10月29日 | 講座

『~歴史の要所~ 勢多唐橋(せたのからはし)』  講師:杉江 進さん
 日本三大名橋に数えられる勢多唐橋の歴史は古く、壬申の乱(672年)には戦場として登場します。東国から京都に入るときの瀬田川に架かる唯一の橋として交通の要所とされ、戦争の際には何度も焼失の憂き目をみました。長い歴史を有するこの勢多唐橋についてお話しいただきます。

瀬田の唐橋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
 
瀬田の唐橋
 
『近江八景』シリーズ(歌川広重)のひとつ「瀬多夕照」に描かれた往時の唐橋。

瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。

宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋・日本三古橋の一つとされる。また、日本の道100選にも選ばれている。

歴史と伝説

東海道・東山道(中山道)方面から京都へ向かうには、琵琶湖を渡る、もしくは南北いずれかに迂回しないかぎり、琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る必要がある。瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。

本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

古代

最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。

神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという(『日本書紀』 気長足姫尊 神功皇后)。

壬申の乱(671年)では、大友皇子と大海人皇子の最後の決戦場となった。大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。御霊神社の主祭神は大友皇子である(『日本書紀』 天武天皇 上 元年七月)。これが瀬田の唐橋の文献上の初見である。

藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱、764年)では、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。押勝は高島郡に走り、滅びた(『続日本紀』 淳仁天皇 天平宝字八年九月)。

平安時代

  • 870年1月9日(貞観11年12月4日)に火事(『日本三代実録』巻十六)。
  • 871年12月19日(貞観13年11月4日)に火事(『日本三代実録』巻二九)。
  • 『延喜式』主税式によれば、近江国の国司の管理下に置かれ、同国の正税・公廨稲から「勢多橋料」1万料が拠出され、その出挙収入によって橋の維持が行われ、朝廷への報告義務もあった。
  • 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
  • 970年8月25日(天禄元年7月21日)に藤原道綱母が明け方に船で勢多橋を渡河(『蜻蛉日記』)。
  • 治承・寿永の乱(源平合戦) 1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経対義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井兼平。宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死(『平家物語』)。

鎌倉・室町時代

  • 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 建武の戦い 1336年(建武4年)、足利直義の率いる北朝軍と南朝軍が瀬田川を挟んで交戦。
  • 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀が本能寺の変で信長を倒されると、景隆は光秀が安土を攻めようとしたため、唐橋と瀬田城を焼いてこれを阻止した。しかし橋は光秀によってただちに修復されてしまった。

江戸時代以降

膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。 2012年(平成25年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至っている。

文学

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は平安時代の連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

【武士(もののふ)のやばせの舟は早くとも急がば廻れ瀬田の長橋】

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。

【五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋桁の忍は 月の名残り哉】

明治28年

本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


講演会 「布施山城の特徴について」

2014年10月27日 | 講座

2014市辺歴史発見熟 れきしセミナー 

日 時 20141026日(日)13:3015:00
内 容 「布施山城の特徴について」                                                                                     講 師 長谷川博美氏 (滋賀民俗学会理事) 
場 所 東近江市市辺町2391 市辺コミュニティセンター
参加費 無料
定 員 約60名(要申込)
主 催 市辺地区まちづくり協議会                                                                                               協 力 城歩会                                                                                                            講演会場:市辺コミュニティセンター

会長挨拶

講師:レジュメ確認中

熱弁中の講師:長谷川氏

講義内容は、

・山頂部概要

・布施山城に有名な蓮歌氏が実際来ているか

・布施の殿様は有名か

・布施三河守とは

・布施氏は裕福/富豪だったか

・布施氏邸とは

・布施山城の永禄落城は本当か

・布施は「古歌」の名所としては、有名

・布施山城のような中世山城に「堀は存在したか」

・布施山城の全体的構造とは

・布施山城籠城戦の悲話とは【布施山城で少年武将の戦死した件は」

・布施山城合戦とは

・布施山城 江戸初期の地誌「淡海温故禄」の意外な加勢勢力の記録

・近隣の土豪層3氏も布施山城に籠城したか

・新発見・・・山麓館 

・「信長、秀吉、光秀」とも交流のあった連歌師:里村紹巴の文献資料『紹巴富士見道記』に永禄10年2月19日「布施山の城の麓にて」と書かれていると。
その場所が「山麓館」の可能性あり、450年もの
昔、布施出羽守が有名な歌人と布施の池を眺めながら、楽しんだ山麓館。

石垣と布施の池が、布施出羽守の栄華を知っている!

金柱宮跡⇒ 

 

布施山城見学会+講座の様子!

   本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


布施山城 近江国(八日市)

2014年10月27日 | 平山城

布施山城 現地見学会
日 時   20141026日(日)受付9:30 見学10:0013:00
内 容   「布施三河守居城遺構見学会」                                                                         講 師   長谷川博美氏 (米原文化協会教養部会部長) 
集合場所 滋賀県東近江市布施町 布施公園 観知溜館(みちるかん)
参加費  1000円 資料・図面付き
定 員   約20名(要申込)
主 催   城歩会

 参加者受付

布施山城・新しく確認された「山麓屋敷」の登城前に、大型踏査概要図で説明

お城のデータ 

所在地:東近江市布施      map:http://yahoo.jp/moidND

現 状:森林

区 分:平山城

築城期:南北朝期

築城者:布施氏

城 主:布施三河守

標高241m 比高差130mの里山は、城郭調査委員の再踏査で堅牢な城郭であった!

遺 構:土塁・竪堀・畝状竪堀・埋め門の石、

   新確認:西曲郭、山麓館(30間×7間・石垣 高さ1.5間×幅3間・庭石)

戦 い: 三雲氏(六角氏) VS 布施氏・大塚氏・(京極氏)

     〇 柴田氏(織田軍) VS ● 布施氏

目標地:布施山・布施ため池・布施公園・布施公園観知瑠館

駐車場:布施公園観知瑠館駐車場

訪城日:2014.10.26

お城の概要

布施山城は、¬字状の小さな独立山系の布施山山頂に築かれた城です。城のある峰は見事な円錐形をしており、よく目立ちます。城跡へは、布施溜池西岸付近から登ることができます。登山口を入ってまもなく、立派な石祠のある大きな塚山に出くわします。城へは塚山南側を登るのですが、その道は、塚山と布施山の山裾に挟まれた堀底道のようになっています。ここに城戸などを設け、塚山に番所や櫓などを構えれば、城の第一の防衛ラインとなるように思われます。また、塚山の下を回るように堀底道が延びており、北側の布施池から流れ出る小沢へと続いています。この沢を渡って直進すると、布施氏の平時の居館があったとされる布施集落に行きつくため、こちらが大手道だったのではないかと推測されます。

塚山(古墳)を越えてからは、2014年市辺コミティセンターの里山整備で城道の解り易くなり、主城域直下の二の曲郭まで大手道主城域は、大きく主郭と副郭の2つの曲輪から成っていました。いずれも、周りを囲む土塁が残っています。主郭虎口はくぐり門の大石材が散乱しています。

 かつては帆立貝式古墳で石囲いの埋門だった。虎口下に転がっている最も大きな平たい石は、その埋門の天板に使われていたもの。主郭の副郭側以外の斜面には多数の竪堀が残存。全体として、規模は大きくはないが、堅牢構造をもつ城。淡路守家の布施公雄の子公保の妻は蒲生賢秀の娘といわれ、観音寺騒動の発端となった後藤氏の居館は布施山城の西2㎞弱のところにあります。布施氏も、六角家中においてはこの両家に勝るとも劣らない勢力をもっていた。





歴 史

 六角家臣布施氏の居城とされる。布施氏の出自は詳らかでないが、戦国期には三河守家と淡路守家の2家に分かれ、前者は布施山城を、後者は大森城を居城としていたとされる。布施の地を領していた三河守家が本家で、布施氏の勢力拡大とともに淡路守家が分かれたものと推測されている。

 永禄六年(1563)、後藤賢豊・壱岐守父子が観音寺城内で主君六角義治に殺害されると、家臣の間で六角氏に対する不満が噴出し、六角義賢・義治父子は観音寺城を追われた。

布施淡路守公雄も浅井氏と通じ、布施山城に籠城した。布施山城主である布施三河守も同調した。布施山城は三雲賢持らに攻められたが、      六角父子は蒲生定秀・賢秀父子の調停により観音寺城へ復帰することができたが、代償として六角氏の権限を大きく制限する「六角氏式目」が制定された。

永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、三河守は布施山城に籠城したとされる。観音寺城や長光寺城が落城と、く布施山城も攻め落とされた。

三河守は、『信長公記』に六角家の「真鳥羽根付き節無しの矢軸」という名宝を探し出して信長に献上したとする記述があることから、落城後は織田家に仕えた。布施山城は、落城によって廃城となった。

 永禄6年(1563年)、六角氏の筆頭家臣であった後藤賢豊が暗殺された。

世にいう観音寺騒動である。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。殿(しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。

新しく確認された「山麓館」へ

 

今回は布施山城の、新しく確認された「石垣」&「山麓館」を先に見学。
登山道を入り、すぐに左に道を進むと、苔の覆われた石垣があり、幅3間×高さ1.5間。その上は平内屋敷。石垣は、自然石を積み重ねたようで、布施山城が作事当時のもの。石垣の下には、水吐け溝もあり。

新規に、宮本女史(城郭探訪家)に発見された石垣(踏査補助)新発見の石垣前一枚!

そこから更に左へ行くと、石が幾つも転がった平坦なところがあります。長谷川講師の話では、「山麓居館」では!

そして、その石は庭石でと推測されてます。

「信長、秀吉、光秀」とも交流のあった連歌師:里村紹巴の文献資料『紹巴富士見道記』に永禄10年2月19日「布施山の城の麓にて」と書かれていると。
その場所が「山麓館」の可能性あり、450年もの
昔、布施出羽守が有名な歌人と布施の池を眺めながら、楽しんだ山麓館。

石垣と布施の池が、布施出羽守の栄華を知っている!

 ルート図:「近江ノ国_米ちゃん」の拝借

http://84630803.at.webry.info/201410/article_12.html

 

【近江にをかしき歌枕 老曾 轟 蒲生野布施の池・・・新羅が建てたり持仏堂の金柱宮】map:http://yahoo.jp/llZyIf

     小脇山城の直下の山麓の「金柱宮跡説明板」map:http://yahoo.jp/llZyIf

 

 

 

山麓館へ

城守も山麓館をしっかり監視!

山麓館の庭石

安井平内屋敷(最初の削平地)

近世の西山麓の砂防石垣近世の砂防石垣二ノ曲郭大手虎口主郭へ主郭の西側土塁主郭で「曲郭の基壇」をしゃがんで確認

主郭南側土塁と南虎口

南虎口には、蔀池(敵が城へ入ってきたの落とし穴)がある。

二等三角点から、講師の再踏査確認された「西曲郭」へ講師の再踏査で、確認された「西曲郭尾根(土橋状)の左右に大きな竪堀、東側の竪堀は厳しく。

 

主郭の搦め手下の畝状竪堀へ

二の曲郭へ戻り、虎口から下山していきました。

下城途中には、道からはずれて竪堀を確認。又、幾つもの曲郭あり、多くの家臣(城守)たちの屋敷跡カ?

ノミ跡の残る、大手道の最初大石。に下城!

登城口の城守様のお邪魔・下山の拝礼して・・・

観知瑠館で記念撮影

右端が踏査補助・城郭探訪家宮本女史。

その後、昼食・・・午後の講座へ

布施山城見学会と講座風景。

本日の感想

講師長谷川氏の城郭見学は、自ら踏査をしているから、城郭内を登ったり、下ったり!

参加者:20を越える見学会に参加しての変化。参加者は資料と現地の確認・撮影に夢中、見て学ぶ!

本日の歩行距離 4.0km  歩数 5338歩  実歩行時間 1:08

    消費カロリー  17.7kcal     脂肪燃焼量 2.5g

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝


久徳城   近江国(多賀)

2014年10月22日 | 平城

お城のデータ 

所在地犬上郡多賀町久徳      map:lhttp://yahoo.jp/AmiyG9

現 状:神社・宅地

区 分:平城

築城期:南北朝期:文明17~18年(1484~1486

築城者:久徳氏

城 主:久徳次郎定高(二郎定高)

城 域:200m×300m

遺 構:空堀・石碑

戦 い:●久徳氏(六角氏) VS ○磯野氏・高宮氏(京極氏)

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.8

お城の概要

久徳地区の氏神市杵島姫神社の境内と南側の遊園地一帯が久徳城址で、遊園地東側には土塁が現存する。
 また、市杵島姫神社周囲には幅5m、深さ1m~2mの空堀が残存する。
 
 久徳城の大手門は現在の市杵島姫神社の入り口とは違い、南側に位置していたという。大手門から南の延びた大手道の先の芹川には大手橋が掛かり、この芹川が外堀の役目を果たしていたと考えられている。

 久徳城の搦手側(北)、住宅の中に久徳氏代々の墓石が建てられている。この地は久徳氏の菩提所赤田山霊山寺のあった場所で、幾つかの墓石があるが、中央の高さ2mほどの墓石がそれだという。

歴 史

 久徳城は多賀神社の神官である多賀氏の一族、多賀豊後守高忠の弟・多賀二郎定高によって文明17~18(1484~85)年頃に築かれたとされる。

 久徳氏は天文年間には京極氏、浅井氏に従っていたが、後に六角義賢に従い、永禄2年(1559)六角軍と共に高宮城を攻めた。
 翌、永禄3年(1560)3月、久徳城は佐和山城の磯野丹波守員昌や高宮城の高宮三河守頼勝を率いる浅井長政の攻撃を受けて落城し、久徳左近太夫実時以下、200余名は悉く戦死した。

 この後、犬上郡一帯は浅井氏の領域となり、佐和山城主・磯野員昌の支配下に入り、六角氏の勢力は愛知川以南へと後退を余儀なくされた。


 久徳氏の居城久徳城は、京極氏と六角氏の境目に位置し、その去就は困難を極めた。実時は娘を高宮城主の高宮氏、敏満寺の坊官新谷氏、多賀大社の神官犬上氏に嫁がせ、勢力の安泰を図っていた。
 京極氏の内紛によって北近江は混乱を続け、そのようななかから浅井亮政が台頭、ついには京極氏をしのぐ存在に成長した。浅井氏の勢力拡大を苦々しく思う六角氏は、北近江に兵を進め、浅井氏を追い詰めたが息の根を止めるまでには至らなかった。亮政のあとを継いだ浅井久政は六角氏に従ったが、久政の嫡男長政は六角氏への対立姿勢を見せた。浅井長政の奮戦によって六角氏はおされ気味となり、久徳実時は母を人質に出して浅井氏に属した。巻き返しを狙う六角義賢(承禎)は久徳氏、高宮氏、新庄氏らに調略の手を伸ばし、実時は六角氏に転じたのである。
 実時が六角氏に通じたことを知った高宮氏は、ただちに浅井氏にその旨を報じた。長政は実時の母を処刑すると、新庄・磯野氏らに命じて久徳城を攻撃した。久徳城は六角氏の援軍を待つ間に、多勢に無勢、久徳城は城主左近太夫はじめ城兵ことごとく討死して落城した。
 その後、久徳一族は六角氏の庇護を受けたが、永禄十一年(1568)、織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると、織田氏に属するようになった。元亀元年(1757)、浅井長政が織田信長と対立するようになり、姉川の合戦が起ると宗重・宗頼・郷時・秀政ら実時の弟たちは織田方として浅井勢と戦った。宗重の活躍は素晴らしかったようで、信長から三千石の黒印状を賜っている。こうして、久徳氏は久徳城に復帰したようで、翌元亀二年、浅井氏の命を受けた高宮三河守の攻撃を撃退している。  

近世に生きる

 浅井氏が滅亡したのちは、豊臣氏に仕えたようで、三千石の黒印状を賜っている。しかし、関が原の合戦に際して西軍に加担したことから、所領を没収され没落の憂き目となった。かくして、久徳一族は四散したが、大名に仕えて武家として久徳氏、帰農して大百姓として続いた久徳氏など、文字通り人生いろいろとなった。現在、久徳の集落に久徳城址が残り、市杵島姫神社の境内として過ぎし昔を偲ばせている。

参考資料:多賀町史/久徳九代記/湖国と文化・第52号 ほか】

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系、戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

              本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!  


下笠城 近江国(草津)

2014年10月22日 | 平城

お城のデータ 

所在地:草津市下笠町      map:http://yahoo.jp/Zvbetl

現 状:畑地

区 分:平城

築城期:南北朝期:宝徳四年(1452)

築城者:下笠信濃守

城 主:下笠高賀・下笠信濃守・三郎左衛門弼之

遺 構:微高地

戦 い:永禄九年(1566) ●下笠信濃守・三郎左衛門弼之父子 VS 〇 青地城主 青地駿河守茂綱

廃 城:戦いに敗れて滅ぼされた。その後の下笠城は廃城。詳細不明。

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.10.21

お城の概要

 下笠地区は、旧草津川と葉山川に挟まれた平野にあり、下笠城はその間をいくつも流れる用水川の一画にあります。眼前を浜街道が通り、また真東に向かえば草津の宿に至ることから、交通の要衝にあったものと推測されます。

 城中や市場といった小字が残っていますが、遺構なし。微高地・竹林。

下笠駐在所裏手の、宅地および更地となっているあたりが下笠城跡とされています。周辺に対してやや微高地となっており、これが唯一の城の面影ということだそうです。

歴 史

 下笠氏の居城とされる。下笠氏の出自は不明だが、下笠城北東の老杉神社の社伝によると、宝徳四年(1452)に下笠高賀なる人物が社殿を造営している。したがって、このころまでに下笠に城館が営まれていたものと推測される。

永禄九年(1566)、笠信濃下守・三郎左衛門弼之父子は青地城主青地駿河守茂綱と戦い、敗れて滅ぼされた。その後の下笠城については不明である。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大

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志那(しな)城    近江国(草津)

2014年10月22日 | 平城

お城のデータ 

所在地:草津市志那町990      map:http://yahoo.jp/4Enyo4

現 状:個人宅・宅地

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:志那氏

城 主::志那弥三郎範重

遺 構:堀跡・屋敷跡

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.10.21


お城の概要

 志那城は、県の遺跡分布図では志那集落990番地の邸宅付近となっている。このお宅には城門のような長屋門が建ち、前には深い水路が走っていて、いかにも城構えのように見えるが、本当のところは不明である。



この向かいの邸宅には「宗鑑翁屋敷」の石碑が建つが、宗鑑翁とは足利義尚に仕えた志那氏の一人で弥三郎範重の通称であり、志那氏がこの付近にあったことは間違いないようだ。

志那は、山田や矢橋よりも琵琶湖に突き出た場所にあり、すぐ対岸には比叡山お膝元の坂本があることから往時は非常に栄えていたであろうことが想像できます。

 志那城址については、現在その位置も定かではなく、滋賀県埋蔵文化センターの遺跡マップに記載されている志那城遺跡の場所です。すぐ近くの民家の門脇には、家主が自費で建てたと思われる宗鑑屋敷跡の立派な石碑があります。が、志那をはじめ浜街道沿いの集落は、近世に道の拡幅されてます。
           

           

歴 

志那氏は、近江源氏佐々木氏の分派である。佐々木秀義の5男五郎左衛門義清を祖とし、志那浜に屋敷を構え志那氏と称したとされる。

『日本城郭大系』では、志那氏の存在は確認されるものの、詳細は不明としている。志那は、矢橋や山田と並ぶ、琵琶湖の重要な湖港であったため、港を支配した在地領主の城館があったことは想像に難くない。

 戦国時代初期の連歌師山崎宗鑑は、初名を志那範重といい、志那の出身であるといわれる(諸説あり)。範重は、はじめ将軍足利義尚に仕え、延徳元年(1489)に義尚が鈎で陣没すると、近江を去ったといわれる。これが正しければ、宗鑑は元志那城主かその一族であったと推測される。志那城と志那氏についてはこのようにほとんど詳細は不明である。

志那港と志那街道は、対岸の坂本や比叡山との連絡で栄えていたため、織田信長の比叡山焼き討ち後は徐々に衰退したといわれる。


山崎宗鑑
室町後期の連歌師・俳人。本名志那弥三郎範重。室町幕府9代将軍足利義尚に仕えた。長永3年(延徳元年1489)義尚が、六角高頼の討伐中の鈎陣屋にて陣没したことを愁いて出家した。山城国山崎に閑居し「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「新撰犬筑波集」の編者。荒木田守武とともに俳諧の祖とされる。

 

西側は、干拓されています、

ここhttp://yahoo.jp/nH6YD7 志那城・・・(南の真珠養稙湖から遠望)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大

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伊岐代(いきしろ)城(伊幾須城)     近江国(草津)

2014年10月21日 | 平城

お城のデータ 

所在地:草津市片岡      map:http://yahoo.jp/NfCZs6

別 名:伊幾須城

現 状:印岐志呂神社

区 分:寺院城郭

築城期:南北朝期:建武二年(1335)

築城者:山門僧

遺 構:堀、曲郭・土塁・石垣

駐車場:神社駐車場

訪城日:2014.10.21

 お城の概要

伊岐代城は、琵琶湖岸を走る浜街道と、中山道と湖港志那港を結ぶ志那街道の交差点付近にあります。北東300mほどのところに、琵琶湖の船奉行を務めた芦浦観音寺が鎮座しています。

 現在は立派な印岐志呂神社があるというほかは、城らしき面影もとくにありません。周囲は深田となっていることから、往時はそれこそ芦の浦に浮かぶ島のような神社だったのではないかと思われます。

『日本城郭大系』では、近江には寺院が城郭化した例が多い(芦浦観音寺、百済寺、弥高寺など)として、神社が城として取り立てられたことに注目しています。しかし、私はそれより建武二年の戦いで神社に篭ったのが比叡山の僧兵であった。往時は、非常時は宗教の違いなど気にならなかったか。
           

           

歴 史

 印岐志呂神社を利用した城である。建武二年(1335)十二月、足利尊氏が朝廷に反旗を翻すと、比叡山の僧兵1000人余が印岐志呂神社などに拠って尊氏軍と戦った。            尊氏軍は一夜で勝利し、神社は焼失したとされる。

 戦国時代に入り、元亀三年(1572)に六角氏の残党が反乱を起こした際、織田信長の軍勢が神社に乱入したことが縁起に記されている。このころ、足利義昭の信長包囲網計画により、湖南では六角氏残党の反乱や金ヶ森一向一揆が発生した。金ヶ森城は、伊岐代城から東に2kmほどのところにあるため、先の信長勢の行動は一向一揆との関連も考えられる。

 慶長以降になって、当地の領主であった芦浦観音寺や、五奉行の1人長束正家などによって社殿が復興された。また、大坂の陣(夏冬不詳)に際し、徳川家康は志那街道を経由し、印岐志呂神社に立ち寄り武運長久を祈願したと伝わる。

印岐志呂神社参道伊岐代神社山門 

印岐志呂神社拝殿

 

印岐志呂神社本殿

奥御前社

神社東側の堀 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 日本城郭大系  

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葛木城(葛城城) 近江国(甲南)

2014年10月21日 | 丘陵城

葛木城  別名 葛城城  滋賀県甲賀市甲南町葛木

石碑はここ:http://yahoo.jp/m2qwJB

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町葛木     (旧甲賀群甲南町葛木)      map:http://yahoo.jp/jNfyHE

 別名 葛城城

現 状:森林

区 分:山城

築城期:室町期

築城者:葛木氏

城 主:葛木丹後守

遺 構:堀(池)、曲郭・土塁・物見櫓

目標地:西川ローズ工場・ミヤコカッター

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.10.9、2014.10.12

西川ローズ工場の東側に碑・裏説明板

お城の概要

 葛木城は、甲南町葛木のうち、集落の北方円通寺の参道の西の丘陵の舌状部に残存する。
堀(池)、土塁に囲われた曲郭50m×40mの確認できる。

ただ比定地は、北側に広がる丘陵地の麓にも曲郭跡の残存、腰郭、物見櫓はハイキングコースとして改変が激しい。

丘陵上にあった詰城に下屋敷。至近距離の葛木館と関連か。

円通寺の参道石碑・・(ミヤコカッターの東=ここの空地に駐車)・・・県道127号線沿い。

葛木城(遠景)

歴 史

 在地土豪である葛木氏の居館だとされる。
『太平記』にみえる、正平15年(1360)近江佐々木勢に対抗するため、伊勢・伊賀勢の仁木義任が陣取った「葛木山」がこの一帯にあったとする説もある。

甲賀五十三家の一つに、葛木丹後守名が見える。葛城家 甲賀市甲南町葛木 字が異なりますが同義語。

  近江の地誌『近江淡海温故録』によると、甲賀武士は、累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌い、質素を好み、大方小身故に地戦計りに出つ。然れども一分一並の武勇は嗜み、故に皆今の世迄相続し、家を失わず、国並みの家々とは格別の風儀なり。世に甲賀の忍の衆と云うは、釣の陣に神妙の動あり。日本国十の大軍眼前に見及び故、其以来名高く誉れを伝えたり。元来此の忍の法は、屋形の秘軍亀六の法を伝授せし故なり。其以来、弥鍛錬して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど、其家詳ならず伝々。

 甲賀は都に近く情報が入りやすわりには、山間部にあり、そして常に合戦に関ってきた経験は、後の世に「甲賀者」呼ばれる、「忍者」に発展する素地を備えていたものと思われる。 

曲郭跡

円通寺(無住)

参道の西脇の廃屋・・・この西隣に曲郭跡

腰曲郭

目標地のミヤコカッター・・・舗装道(円通寺参道)を北に500m

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系  

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飯道寺城 近江国(甲賀・信楽)

2014年10月12日 | 陣城

 山頂虎口

お城のデータ

所在地:山頂虎口甲賀市信楽町宮町(旧甲賀郡信楽町宮町) map:http://yahoo.jp/4WtQBr

区 分:砦

現 状:飯道山寺跡

築城期:南北朝期

築城者:佐々木義秀・應碁上人

城 主:佐々木義秀・應碁上人

遺 構:曲輪・土塁・堀切・石垣

標 高:598m  比高差:300m

  664m(飯道山頂)南側直下 -66m     

城 域:400m×300m

目標地:飯道山頂

訪城日:2014.10.11

お城の概要

「飯道山」は湖南市・甲賀市水口町・信楽町の境にあり、標高は664メートル。金勝山・太神山ともに修験道を修める信仰の山で、山岳信仰の拠点です。甲賀忍者の修練場であったといわれています。山頂には、奈良時代建立の飯道寺跡があり、付近にはのぞき岩、不動明分け岩、蟻の塔渡し胎内くぐりなどとよばれる奇石・怪石が散在します。山頂に立つと、信楽の山々を隔てて金勝・田上、遠くは京都の鷲峰山や湖水のかなたの比叡・比良の山々を望むことができます。この景勝の地。

飯道山寺 絵図

歴 史

『甲賀郡志』のよると、南北朝の争乱の際、延元2年に柏木源蔵人が南朝方として「飯道寺城」に籠ったとある。(山中文書)

『甲賀の城』に、・・・当国於飯道寺城柏木源蔵人相共致軍忠候了、同日信楽調子(現:勅旨)郷内於岩倉城数尅合戦仕候処・・・(山中道敏文書)

南北朝の動乱

 元弘の変に際して、上洛してきた幕府軍は鈴鹿を避けて美濃を通って京に入っている。このことから、山中氏が反幕府的であったことをうかがわれ、建武の新政がなると後醍醐天皇から鈴鹿警固役を沙汰する旨の綸旨を賜っている。しかし、足利尊氏の謀反によって新政が崩壊すると、山中氏は美濃部氏、小佐治氏らとともに守護佐々木氏に属して尊氏に味方した。
 建武四年(1337)、甲賀の南朝方頓宮氏が五辻宮を奉じて信楽で挙兵、飯道寺城と勅使の岩倉城に立て籠った。

これに対して中山四郎右衛門尉、小佐治基氏らが、信楽に攻め込み、夜を徹して激戦がおこなわれた。翌年、五辻宮を奉じた南朝軍が蜂起、北朝方の山中道俊・頼俊および小佐治基氏は激戦のすえに南朝方を伊勢に奔らせている。
 その後、山中氏は観応の擾乱に際して南朝方に転じたこともあったが、南北朝の動乱期を北朝方として行動した。やがて動乱は北朝方の優勢となり、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。かくして、足利将軍を頂点とする中央集権体制=足利(室町)幕府が確立されたのである。そして、近江国の北守護は佐々木京極氏、南守護は佐々木六角氏が任じられた。
 足利義満は室町幕府全盛時代を現出したが、義満の死後、幕府政治は次第に衰退兆候をみせるようになった。嘉吉元年(1441)、足利義教が赤松満祐に殺害されると、幕府の権威を大きく揺らいだ。以後、幕府政治は混乱の度を深め、将軍家、有力守護家の家督争いが引き金となって、応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発した。乱に際して、江北の京極氏は東軍に、江南の六角氏は西軍に属して対立した。文明年間になると六角と京極の抗争が激化し、文明二年(1470)、蒲生郡黒橋で激戦が行われ甲賀武士は六角方として奮戦した。

『信長公記』 天正九年 11、伊賀下向  伊賀国信長御発向の事

 10月9日、信長公は中将信忠殿と織田信澄を同道させ、伊賀国の検分に向かった。そしてその日は飯道寺(現:甲賀市信楽町/水口町)の山に上り、そこから国内の様子を一望したのち同地に宿泊した。

 織田信長が国見をしたと伝えられています。

 

 飯道山山頂到着:標高664m

絶景 湖南・・・三上山・比叡山まで、湖東・・・水口・鈴鹿まで

三角点でmy poleの登頂記念写真

下ります、飯道山寺遺跡へ

飯道山城・・・・(飯道山遺跡)

木道階段をおります

参考資料:甲賀郡志、甲賀市観光ガイド、新視点・山寺」から山城へー近江の戦国時代ー

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探訪【大地の遺産】飯道山(はんどうざん)の修験を訪ねて—飯道寺遺跡—

2014年10月12日 | 探訪「大地の遺産」

◆日時:平成26年10月11日(土)
 9時10分〜15時30分頃

◆集合:貴生川駅9時10分
(JR草津線柘植行8:34着/草津行8:54着、近江鉄道貴生川行9:02着が便利です)

◆距離:約12km(起伏の大きいコース・標高差約500m)

◆持物:健康保険証(コピー推奨)、弁当、水筒、ウォーキングできる服装とトレッキングシューズ等

◆行程:
貴生川駅 → 飯道寺 → 岩壷不動尊休憩所 → 杖の権現休憩所 → 飯道山山頂 → 飯道山遺跡 → 飯道神社(昼食) → 宮町登山口 → 紫香楽宮跡駅(→代替バスにて貴生川駅・運賃別途必要)

◆定員:180名

◆費用:200円



◆詳細:
飯道山(標高646m)は古くから信仰の山として崇められてきました。『延喜式』にもその名前を見ることができ、飯道神社や飯道寺、修行場等、多くの宗教施設が造られました。
飯道寺は、奈良時代に創建されたと伝えられる寺院で、平安時代には密教と山岳信仰が結びつき、熊野、大峰山と並ぶ「修験道」の本拠地に成長します。同時に、甲賀武士達の精神的な支えとしても、重要な影響力を持つようになります。寺にはたくさんの修験者が集まり、厳しい修行を行うと同時に、布教のために全国を自由に行き来しました。戦国時代に至り、この修験者の行動と、大名の情報収集の要望が結びつき、いわゆる「忍者」が生まれたという説もあります。
今回の探訪では、甲賀市観光協会・飯道山観光協会の観光ボランティアガイドと県文化財専門職員が同行案内し、飯道山の文化財を詳しく訪ねます。

修験出発式

杣川通過

飯道寺到着

 
飯道寺
はんどうじ
  • 飯道寺は滋賀県甲賀市にある天台宗寺院。山号は金奇山。 近世までの飯道寺は、飯道山にあった飯道神社の神宮寺で飯道山修験の拠点であったが、明治の神仏分離に際して廃絶した寺院であった。明治時代に、本覚院と号する天台宗寺院が、金寄山飯道寺に号を改めたことにより再興された。 ウィキペディア
     
  • 所在地: 〒528-0046 滋賀県甲賀市水口町三大

日吉神社鳥居

いよいよ、修体験の始まりです!

石仏到着

 岩壷不動尊休憩所

 岩壷不動尊

谷筋砂防石詰右岸砂防石詰

杖の権現休憩所

杖の権現

山頂まで跡500m 

山頂虎口

 飯道山山頂到着:標高664m

絶景

湖南・・・三上山・比叡山まで、湖東・・・水口・鈴鹿まで

2党三角点でmy poleの登頂記念写真

下ります、飯道山遺跡へ

飯道山遺跡(飯道山城)

木道階段をおります

信楽まで

飯道神社に到着、昼食・トイレ

江戸期の絵図(北・東・東・西)・・・南が無い絵図

 飯道神社は、滋賀県にある神社である。詳しくは飯道神社 (甲賀市)... 明治の神仏分離により、神宮寺であった飯道寺は廃寺となり、飯道神社は村社に列せられた。 飯道山は全山が ...滋賀県甲賀市にある。 飯道山(はんどうさん664.2m)の西側中腹(七丁目)に鎮座。 飯山の南側から当社東側へ通じる道があるようだが、 その道は林道で

極彩色の本殿行者堂

昼食後、再出発準備中。

行者道・・・危険!

赤囲いは、砕石のノミの跡

 旧石積に、補修石積の区分がくっきり。

まむし草の実(半熟)で、熟すと真っ赤ですが毒あります

宮町登山口(此処まで車でこれます)

 山の南側から当社南側へ通じる道があるようだが、 その道は林道で

ちょっと休憩・・・・オレンジシガカントリークラブのショートホール観戦(4人で女性だけワンオン!ナイスショット!)

飯道山神社の一の鳥居

紫香楽宮遺跡通過

信楽鐡道11月28日開通

第二名神

発掘調査報告

第二名神・・紫香楽橋の下

紫香楽宮跡北入口

紫香楽宮跡駅前(→代替バス停(番号札回収=点呼)にて貴生川駅・運賃別途必要)

本日の歩行数   21,303歩

     距離    15.9km

実歩行時間    3:36H

消費カロリー   506.4kcal

脂肪燃焼量   72.3g

非常にしんどかった、飯道山の修験 でした。

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


望月村嶋 出城(櫻神社遺構)    近江国(甲南)

2014年10月10日 | 丘陵城

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市甲南町柑子     (旧甲賀群甲南町柑子)      map:http://yahoo.jp/yw488B

現 状:神社・鎮守の森

区 分:丘城

築城期:室町期:文明12年(1480年)

築城者:望月村嶋守重元

城 主:望月村島守重元

遺 構:堀(川)、曲郭・土塁・物見櫓(詰め城)

目標地:櫻神社・柑子自動遊園

駐車場:空地駐車

訪城日:2014.10.9

お城の概要

望月村嶋中屋敷は櫻神社の背後の丘陵に築かれている。 頂部を削平し物見櫓ヵ・詰め城カ?。

北を除く三方に土塁が巡っており南西側が一番高くその上が物見櫓跡(詰め城)、残存する。

頂部の南西は土壇が残るが後世の畑地に開削されたカ?南側は近年道路に改変、背後の尾根を分断カ?

歴 史  

文明12年(1480年)望月村島守重元によって築かれたと云われる。 重元とその子、重房の居城で、北にある青木城には重元の次男重武を配していたという。

神社西に、城の南西の開削された土壇(曲郭跡カ?)・・・ここから頂部へ

背後の西側の土塁

頂部---一番高くその上が物見櫓跡(詰め城)、残存する。

歴 史

 望月村嶋城主 望月村島守重元の次男重武の居城であった。  

【佐々木南北諸士帳】に糀村城主 佐々木随兵 望月刑部左衛門  糀村城主 箕作随兵 望月出雲守の名が見える。

甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。

  • 望月家- 筆頭格。一族の著名人物として望月出雲守・望月吉棟・望月兵太夫・望月与右衛門がいる。望月出雲守の旧居が甲賀流忍術屋敷として残る。

分断された城址道路の西側

正面が望月村嶋出城曲郭。北に開口 

遠景

参考資料:淡海の城

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小谷城  近江国(甲南)

2014年10月10日 | 丘陵城

お城のデータ  

所在地:甲賀市甲南町池田字奥ノ谷       (旧甲賀郡甲南町池田字奥ノ谷 )      map:http://yahoo.jp/4WtQBr

現 状:山林

区 分丘陵城

築城期:室町期

築城者:池田大和守

城 主:池田大和守

遺 構:曲輪・土塁・堀切

比高差:20m

目標地:中野倉庫バス停

駐車場:中野倉庫前に駐車場 

訪城日:2014.10.9

お城の概要

細い道を登る、平坦地があり、さらに右手に登ると主郭です。主郭は東側斜面を削りこんだ形で、西側は削り残し部分が5mほどあります。郭内は藪状態ですが、菱形に近い形の郭で、意図的なのか?後世の改変なのかはわかりませんが、東側には2m弱の土塁は切れ切れに残ります。

歴 史

池田東城が本城で、ここは支城のようです。

室町期築城

『佐々木南北諸士帳』に、池田城主 佐々木随兵清和源氏 池田太郎定信。

                池田城主 後に信長随兵トナル 池田庄三郎亘輝。

                池田城主 其後備前北方住国主トナル 青木筑前。の名が見える。

鈎の陣夜襲 長享元年(1487)9月、足利義尚六角攻めのため近江に進発。湖南湖東で高頼軍と合戦。義尚、同年10月1日鈎の安養寺へ陣を移す。その日の夜、甲賀武士が攻撃する。(第1回)同年12月20日の攻撃で義尚負傷。(第2回 これも疑問) 延徳元年(1489)3月26日、義尚(義煕)25歳で病死。(手傷が死因とする説があるが、間違いであろう。

甲賀21家の1つ、池田家 池田大和守

大原源三  望月出雲守   和田伊予守   美濃部源吾   池田大和守   山中十郎   鵜飼源八   服部藤太夫  芥川左京亮        神保平内   佐治河内守   上野主膳正   伴播磨守   高嶺蔵人 大河原源太   隠岐左近  多喜勘八   頓宮四方介   内記伊賀守   岩室大學介   大野宮

 

センチュリーゴルフクラブのクラブハウスの西が城祉

センチュリーゴルフクラブの駐車場手前に、右林道、すぐ左からの城址・郭へ

アケビの実

左端が城址・・・中野城近くから遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

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小出城  近江国(甲南)

2014年10月10日 | 丘陵城

お城のデータ  

所在地:甲賀市甲南町池田字鍛冶屋川       (旧甲賀郡甲南町池田字鍛冶屋川 )      map:http://yahoo.jp/y28QFA

現 状:山林

区 分丘陵城

築城期:室町期

築城者:池田大和守

城 主:池田大和守

遺 構:曲輪・土塁・堀切

比高差:20m

目標地:中野倉庫バス停

駐車場:中野倉庫前に駐車場 

訪城日:2014.10.9

お城の概要

 畑地から細い道を林に入ると、虎口形状を伴った土塁が。城址は右手ですが、左手側にもピークがあり、主郭外の家臣曲郭カ。周囲に土塁があり、遺構であっても不思議ではないんですがね。

 林の入り口まで戻ると右手に登る道があります。ここを登ると祠があり、さらに登ると一基の墓碑のあるピークです。ここは櫓台カ。

この先に土塁が続き、右手下が主郭ですが藪状態です。戻って祠の先を下りると今は畑地ですが主郭東側下に平坦地があります。主郭は小さめですので、この平坦地に居館があったのかもしれません。

歴 史

『佐々木南北諸士帳』に、池田城主 佐々木随兵清和源氏 池田太郎定信。

                池田城主 後に信長随兵トナル 池田庄三郎亘輝。

                池田城主 其後備前北方住国主トナル 青木筑前。の名が見える。

鈎の陣夜襲 長享元年(1487)9月、足利義尚六角攻めのため近江に進発。湖南湖東で高頼軍と合戦。義尚、同年10月1日鈎の安養寺へ陣を移す。その日の夜、甲賀武士が攻撃する。(第1回)同年12月20日の攻撃で義尚負傷。(第2回 これも疑問) 延徳元年(1489)3月26日、義尚(義煕)25歳で病死。(手傷が死因とする説があるが、間違いであろう。

甲賀21家の1つ、池田家 池田大和守

大原源三  望月出雲守   和田伊予守   美濃部源吾   池田大和守   山中十郎   鵜飼源八   服部藤太夫  芥川左京亮        神保平内   佐治河内守   上野主膳正   伴播磨守   高嶺蔵人 大河原源太   隠岐左近  多喜勘八   頓宮四方介   内記伊賀守   岩室大學介   大野宮

虎口 

中野城近くから遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 佐々木南北諸士帳  

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