城郭探訪

yamaziro

「万石堤」と「五十年の森」

2014年04月30日 | 遺蹟

ハートピア入口に説明板

今崎と今堀の村境を流れる蛇砂川は天井川で何度も反乱を起こしていました。寛政三年(1791)八月の水害では、多くの家屋や田畑が浸水したため、住民は仙台藩に救助を願いでました。そこで、川の北側にある森を遊水地として、これを取り囲む五尺(約1.5m)、長さ三百六十間(約650m)の土手が築かれました。

六十二万石の仙台藩が造ったので万石堤と呼ばれています。太平洋戦争中、八日市飛行場が拡張されたため、堤の大半は壊されて、今はその一部は八日市福祉センター(ハートピア)の北側に残っています。 中野地区まちづくり協議会(現地説明板)

 尚、仙台藩の陣所は東近江市(旧八日市市)上羽田に置かれいました。

江戸時代、仙台藩(62万石)伊達氏の飛び地(領地)であったため、万石堤と呼ぶ。  ハートピア入口に説明板 仙台藩は、江戸時代に主として現在の宮城県全域と岩手県南部(北上市まで)および福島県新地町を領地とした藩である。旧字では[仙臺藩。 居城は現在の仙台市にある仙台城で、石高は62万石。江戸時代全期を通じて外様大名の伊達家が治めた。知行地には茨城県・滋賀県に数か所の飛び地があった。

飛び地の近江国

旧  国郡     名継目判物旧高旧領取調帳
村数石高(表高)村数   石高(内高)
近江国 蒲生郡之内 18 8,842.794 18 12,220.49600
野洲郡之内 2 1,157.206 2 1,157.20600
小計 20 10,000.000 20 13,377.70200

近江国 - 蒲生郡野洲郡とに9,999石2斗4升4合

東近江市今崎町、東近江福祉センターハートピアの裏側に広がる「50年森」。この森が、中野地区まちづくり協議会のみなさんの手によって美しく蘇りました。   2011年に作業に着手する前の50年森は、木々がうっそうと生い茂り、暗く、荒れ果てた放置林でした。作業を開始すると、待っていたのは大量のゴミでした。 50年森には中央を貫く形で「万石堤」という、江戸時代にこの土地を治めていた ・・・

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


平子城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月28日 | 平山城

(県道4号線のトンネル)この道は路巾が広いので、路上駐車(車は少ないがカーブで危険!)右手のコンコリート斜面に階段が、ここを登ります。

所在地:甲賀市水口町岩坂 map:http://yahoo.jp/YpNwEU
     旧:甲賀郡水口町
目標地点:

区 分:丘陵城   標高:   m 比高差:60m 
現 状:山林

遺 構:郭・土塁・堀 
築城期:室町期

城 主:衛藤氏
駐車位置からの主郭まで:岩坂集落から15分

訪城日:2014.4.25

尾根に向かって急坂の山道が付いている。比高20mほどで左に土塁が2区画、簡単に到達できる。10分ほどで城域に着きました。

甲賀五十三家・衛藤氏の居城。
養父神社奥の山中にあり、見事な土塁や土橋、空堀が残る。

郭内は雑木で詳細・撮影確認出来ず。歩いていくと道の脇に低い土塁がある。さらに進んで行くと虎口もあり、途中から浅いながらも堀も掘られている。土塁は郭をめぐるように盛られており、東側に回りこむとそこは低地となり、池のようなものがあった。天然の水堀であろうか。

甲賀の城は単郭方形の城が多いですが、方形とは言っても周囲には丸みがありますが、ここの城は近世の城のようにまさしく方形という感じに角がカクカクと曲がって空堀が巡っていま。

 東側は空堀の外側にも平削地になっている。武者溜まりの施設を併設していたようだが?。

郭内はさらに藪がきついんですが、南北に主郭を仕切る土塁がある。

歴  史

甲賀郡中惣の衛藤氏の城と伝える。

遺構規模が非常に小さい城というよりは屋敷カ!

 この部分にも簡素な城郭構造が存在しているということには間違いがない。

更に登ると自然の地形をいかした詰め城カ・櫓台カ・・・幸い森林伐採・間伐で明るく!

 南側谷筋・・・竪堀の様にも見えるが!

ここから詰城・櫓台域カ

http://yahoo.jp/l9YaDe

 

 

下ります。

北側も間伐で明るく

又、平子城は養父神社の背後の山中にあり、見事な土塁と堀が残されている。http://yahoo.jp/1tPDtO
城郭紹介は現地の訪城していないため詳しく説明できないが。
 興味のある方は現地を訪ねて頂きたい。比較的簡単に訪城することができる。

区 分:平山城
遺 構:空掘,土塁,曲輪

比高差:約30m

日本城郭大系には城郭遺構はないと記載されているが?

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!



高山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

所在地:甲賀市水口町高山 map:http://yahoo.jp/gYUTRO 

    旧:甲賀郡水口町

目標地点:笹山神社

区 分:山城  標高:230m 比高差:80m 

現 状:山林

遺 構:郭・横堀・竪堀

築城期:室町期

築城者:高山氏

駐車場から主郭までの所要時間:麓から10分

訪城日:2014.4.25

国道307の三大寺北の信号から県道4号線に入ります。600m先の左手の山が城址ですが、

ここから入城、西側へ10m程で城域です県道4号沿いの小公園西側に平削地・・・そして切岸が!主郭で三角点。最高所!

 山頂はけっこう広い平削地ですが城郭というより詰め城。この平削地を巡るように窪地が、空堀のようには見えず、武者隠しの遺構か?

東側は公園化され林道が付けられ、一部土塁が残る。



歴   史

高山氏の本城とされます。ここの高山氏は高山右近の先祖という言い伝えもあるようですが

★右近の先祖

 一説によると右近の先祖は、今の滋賀県甲賀郡水口町高山まで溯ることができると言う。ここに古くから藤原の姓を名乗る一族が居住し、後に高山と名乗るようになった。
 その子孫、高山源太左衛門は長亨の乱(1487年)に戦功があったため甲賀五三家の一つに数えられている。その高山家の支流が摂津の国高山(現在の大阪府三島郡)に城を構えたとされ、右近はそこで産まれた。甲賀五三家には、後の高槻城主で右近と親しかった和田惟政の先祖もいる事実はこの説を裏付けるものであろう。

 別の説では、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であった。越前守範重なる人物は武蔵野合戦(1352年)で将軍足利尊氏方に属して功があり、上野国那波郡のうちに所領を賜った。その子孫重利(右近の祖父)が摂津国茨木に移住したとされる。

 一方、摂津高山の豪族が、実権を握って領主になった際、当時の慣例により、その地名を自分の姓としたとも考えられる。

 摂津において高山の名が現れるのは、15世紀半ばである。高山氏は勝尾寺(現在も大阪府箕面市に現存する。)の代官であった。勝尾寺の記録によると、1458年に「高山入道」という代官がいた。この領地をめぐって、寺と高山氏の確執が続き、ついに高山氏が権力を握った。

遠景(東側より)

 

 

 

県道4号で分断された出丸!

高山集落の笹山神社の西の県道4号線沿い・・・東側

 

登城口の公園・県道4号越しの林(出丸カ?)

高山集落の笹山神社

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


山上館 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 館跡

 

所在地:甲賀市水口町山上字下り苗代・岩ノ谷  map:http://yahoo.jp/XEdkNO

現 状:グラウンド

遺構:土壇

形式 :居館

築城者:山上氏

訪城日:2014.4.25

上館は、飯道山をピークとする山塊の南東麓の台地上に営まれる山上集落内にあった。

山上公民館南側の町民グラウンドは、周辺とは1段高い位置にあり、旧来「城山」「殿山」と呼ばれ、土塁囲みの曲輪に石組みの井戸があったと伝えられている。
現在遺構は見られないが、東側山中に所在する山上城との間には大堀切があったといい、その名残りが路地として残っている。
山上の地は、信楽との境界付近に位置し、杣川を見下ろす台地上に所在することから、戦略上重要視されていたと考えられ、山上城・山上館をはじめ、さらに南方には山上Ⅰ・Ⅱ城も築かれていた。
山上城主は山上氏の居館とされるが詳細不明。

 

⇒へ「山上城」虎口

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


山上城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

所在地:滋賀県甲賀市水口町山上字下り苗代・岩ノ谷 map:http://yahoo.jp/PDSHrJ

現  状::山林

区 分:平山城

遺 構:曲輪・土塁・堀切

築城者:山上氏

城 主:山上氏

標 高:210m  比高差10m

訪城日:2014.4.25

現  状

山上集落にある「休養センターやまびこ館」が目印。その南にあるグラウンドが山上館跡で、道路を挟んで東側にあるのが山上城。

山上城は、飯道山をピークとする山塊の南東麓の台地上に営まれる山上集落東端の独立丘上にあった。山上公民館南側の町民グラウンドには山上館があったと伝えられ、山上館から堀切を挟んた山中の集落寄りのピークに所在したのが山上城である。

登城にはグラウンド東側の路地を南方へ向かうと、途中に畑地内を上る山道が現れる。途中は高低差のない道を進み、上りだしたら間もなく屈曲して虎口aに辿り着く。
基本プランは東西約30m×南北約20mの単郭であるが、甲賀でよく見られる方形ではなく歪な楕円状である。南辺から西辺にかけては高さ約1.5mの土塁がめぐり、北側は地形が自然下降している。これは後世の破壊を受けた可能性があり、本来は四方に土塁がめぐっていたと考えるのが普通であろう。
東側の土塁は幅が広く約5m四方の平面が確保されていて、土塁というよりも曲輪の1つの様相である。
虎口aを出て城道が屈曲する東端b付近は土塁を組み合わせて堀切の役割を造っている。

山上の地は、信楽との境界付近に位置し、杣川を見下ろす台地上に所在することから、戦略上重要視されていたと考えられ、山上城・山上館をはじめ、さらに南方には山上Ⅰ・Ⅱ城も築かれていた。

歴 史  

詳細不明。

山上城は山上館の東隣にある丘陵に築かれている。

館との間は堀跡とも考えられる一段下がった道によって区画されているだけである。

基本的に単郭の城で、西から南面に対して土塁が巡り、東側にも一部土塁があり幅広になっている。南東部が開口して虎口になっており、一度右に折れて入る構造になっている。

東へ続く尾根に一条の空堀があり、そこから竹林となって平坦地と段が付いているが、堀や土塁などは見あたらない。 

土塁の上の平削地

山上城・・・遠景

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


牛飼城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月27日 | 平山城

甲賀の城より

住所 :甲賀市水口町牛飼字城山

現在の状態 :山林・八幡神社・信楽高原鐡道線路

遺構 :曲輪・土塁

形式 :丘城

築城者 :

有名城主 :

築城期:室町期

訪城日:2014.4.25

牛飼城は、旧信楽道沿いに密集した牛飼集落の北西に、細長く延びる丘陵上の北端付近に比定されている。

 

現在はその丘陵上に信楽高原鉄道が開通しているため、旧状を留めていないが、線路脇に高さ2~3mの土塁の痕跡が残っている。この土塁は方形居館の南西辺にあたると指摘され、それに伴う空堀の存在も伝承されている。

 

比定地とは外れているが、丘陵上の南西に所在する八幡神社などが鎮座する小公園付近には、複数の平坦地が存在する。これらも城遺構の可能性があるが、後世の改変なのかも知れない。

  

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市史(甲賀の城)

本日も訪問、ありがとうございました

 
 

下山北城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月25日 | 平山城

甲賀の城より

所在地:甲賀市水口町下山 map:http://yahoo.jp/TtyisW
    旧:甲賀郡水口町

築城期:戦国期

築城者: 伴氏

初城主:下山氏

区 分 :丘陵城 

標高:190m     比高差:10m 

遺 構 :土塁、空堀、虎口

城域 :60m×60m

駐車城:位置からの主郭から2分

訪城日:2014.4.23

 

 下山北城は、南北60~70m、東西約60mの単郭方形の城であるが、ひとつの丘を削り取って造られたもので、土塁は切り出しで造られており非常に分厚い。

 曲輪南側には平虎口を設け、東~南には堀を巡らしている。堀は深く、北側背後は比高差のある斜面をなしており、防御施設としての機能を十分に果たしている。

 西側は雑木が生い茂り状況は確認できない。東側の土塁は、土塁の馬踏みから城外までの比高差がは10mはありそうな見事な土塁である。また、北側土塁の高さを目測で測るに、12~13mはゆうにある。

 南側の虎口は平虎口で開口部は2m、虎口を形成する土塁の高さは3~4mを測る。虎口の東側土塁上には平場(櫓台)を設け技巧的である。

 虎口は西側にも設けられている。曲輪内部は雑木と竹林で、削平状態はあまり良いとはいえないが、周囲の雑木、竹林など切り取れば、素晴らしい城郭遺構が出現するに違いない

歴 史

下山氏の本城である下山城に対する支城とされる。

                                           下山城・伴屋敷(九品寺)・・・遠望

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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内貴川田山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 平山城

内貴川田山城は、北内貴集落の南東、川田山丘陵地の北西先端部に所在する。
すぐ北麓には川田神社が鎮座し、境内参道から赤鳥居にそれて山中に入ると、稲荷社が祀られている。この祠のある敷地は約10m四方に削平され、北辺以外は土塁が廻っていて主郭。

土塁は参道の西辺と南辺に開口しているが後世の破壊なのかも知れない。南辺の虎口から出ると堀状となり、この窪地を東方に向かうと1回屈曲して浅くなりながらも山上方向に約20m一直線に延びている。この窪地を中心に南北に複数の不完全な削平地がみられる。

東端山上との境は浅い溝程度で堀切とは言い難く、全体的には城遺構と考えていいものかと感じられる。
 内貴川田山城は、城郭大系などで「内貴城」と記載されいる城で、川田神社南側丘陵の西先端部に築かれている。 一の鳥居右手に稲荷社の鳥居があり、ここから登る。

 稲荷社の境内となっている曲輪は、北面を除く三方を土塁に囲まれ、更に境内の背後に一段高くなった曲輪と二つの曲輪ある縄張りで、二つの曲輪南側には空堀が構築されていた。 

歴  史

詳細不明。

「甲賀郡志」に記された内貴伊賀守が築いたと伝わる「内貴城址」は、長年遺跡目録などでこの内貴川田城だとされてきた。しかし近年では内貴尾山城がその内貴城だと見直された。

川田神社背後の丘に築かれたお城。

 

所在地滋賀県甲賀市水口町北内貴字川田山 map:http://yahoo.jp/X3KKS6

遺 構曲輪、土塁、空堀

形 式丘城

築城者:内貴氏

築城年代:不明

訪城日:2014.4.23

搦め手登城口?

 

水口 岡山城が遠望できる

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

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内貴殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 館跡

住所 :甲賀市水口町貴生川字東村 map:http://yahoo.jp/zjVpqp

現在の状態 :雑木林・民家・畑地

遺構 :土塁・堀跡

形式 :居館

築城者 :内貴氏

訪城日:2014.4.23

 
 

内貴殿屋敷は、東内貴集落の南外れで、尾山丘陵のすぐ南西麓に所在する。

現在は「殿屋敷」と呼ばれる一画の東半分に竹木林が残り、その北東隅付近に畑地として利用された堀跡と思われる窪地が明瞭に残っている。薮の中には堀跡に沿って南北約30mの土塁が確認でき、堀底からの高低差は約6mにおよぶ。
竹林の西側は現在1軒の民家と畑地等になっているが、畑地西側には小さな土盛りが残る。これが屋敷西端の土塁痕跡と考えると、約50m四方の方形館の姿が浮かび上がる。

屋敷の北東、尾山頂部には内貴尾山城が所在したとされ、詰城に対する居館という立地である。

歴 史

内貴尾山城主、内貴伊賀守の屋敷跡と考えられるが、詳細は不明

福照寺参道の横に駐車加(内貴殿屋敷の土塁の隣)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


内貴尾山城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月24日 | 平山城

別 名:内貴城

所在地:甲賀市水口町貴生川字尾山 map:http://yahoo.jp/OaDa_v

現 状:山林

区 分:平山城 標高192.1m

遺 構:土塁、空掘

築城者::内貴伊賀守

訪城日:2014.4.23

 
 

福照寺 宝物庫の裏に石仏

内貴尾山城は、内貴川田山城南方の同じ山塊に所在する。「甲賀郡志」には内貴城址が所在したのは「大字内貴の東方の高地」という記載があるが、現在もその位置については解明されていない。

東内貴集落の南外れにある内貴殿屋敷からは約150m北東の尾山丘陵のピーク付近に存在したと想定されている。

  尾山はその候補のひとつだが、後世のタケノコ林開墾によって破壊され、調査も行われていない。
登城には南腹の福照寺の西脇から山中に入り、竹林となっている。斜面を登り切ると一面に下草が広がる頂部に至る。

福照寺の西脇から、入るとすぐ土塁が残る。また、土塁の西側下に空堀が残る

歴 史

「甲賀郡志」に記されている内貴伊賀守が築いたと伝わる「内貴城址」が、この内貴尾山城だと想定されるが、詳細は不明。

登城口 

すぐに、南側に土塁が残る

残された空堀

内貴尾山城(遠望)

城域と推測される、タケノコ竹林何本は、土の中から出迎え

 

 

 

福照寺から、北虫生野城(約500m東)を望む

福照寺参道の横に駐車加(内貴殿屋敷の土塁の隣)

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


内貴川田殿屋敷 近江国(甲賀・水口)

2014年04月23日 | 館跡

 内貴川田殿屋敷は、川田山南麓にある竹藪に土塁と空堀の遺構が残っている。 この遺構が殿屋敷で、ほぼ50m四方の単郭居館であったと推定される。

 東側の尾山には畑地となって遺構消滅したが内貴川田山城があり、この殿屋敷が平素の居館で詰の城が内貴川田山城であろうと考えられる。

 内貴川田殿屋敷は、築城年代は定かでないが内貴氏によって築かれた。 内貴氏の居館と考えられている館。

所在地滋賀県甲賀市水口町北内貴 map:http://yahoo.jp/wf42Np

遺 構:土塁、空堀

形 式:居館

築城者:内貴氏

訪城日:2014.4.23

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


虫生野(むしょうの)堂の前城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月23日 | 平山城

 

 

住所 :甲賀市水口町虫生野字堂ノ前  map:http://yahoo.jp/PQqCGh

現在の状態 :山林

遺構 :曲輪・土塁・堀切・案内板

形式 :丘城 比高15m

別名 :虫生野城

築城者 :望月氏か

訪城日:2014.4.23

 
 

虫生野堂の前城は、水口町虫生野のうち堂の前集落背後にあり、「虫生野城」とも呼ばれている。集落東側の丘陵部は北西に突出し、北方を見下ろせる絶好の位置に築かれていた。

縄張は南北約80m×東西約40mの甲賀では典型的な単郭方形であるが、自然地形を生かしたためか西隅には角がなく、南東土塁は他よりも高くなっている。
虎口は南西辺に開口し(a)、城道は案内板の建つところから登り坂になり、虎口西側の土塁が張り出しているため、直角に折れて城内に入るようになっている。また虎口両側の土塁は幅が広く、侵入者を攻める(横矢構造)想定がなされている。

曲輪内は未整備の不足か破竹が激しく、撮影が困難であるが、土塁は綺麗に整備され一周できる。
北西辺の土塁にも開口部があるが、幅が狭く虎口というよりは排水口だと思われる。
土塁北東隅の外側には小丘がある。これは掘り切られたCの残丘と考えられ、その西側には狭い削平地が確保され、わずかな土塁bが築かれていた。

虎口というよりは排水口と思われる。

詳細不明。

貴生川町誌に、「虫生野に望月某の屋敷跡あり…」と記されており、屋敷跡の所在地は不明だが、虫生野堂の前城も望月氏に関連する城である可能性がある。

 

遠望・・・西から

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、貴生川誌

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


北虫生野(きたむしょうの)城 近江国(甲賀・水口)

2014年04月23日 | 丘陵城

浄福寺 

住所 :甲賀市水口町虫生野字加久戸・山添

 南城:http://yahoo.jp/OBUKyi 北城:http://yahoo.jp/VnrXKT

現 状:山林

遺  構:曲輪・土塁・横堀・井戸跡

区分:丘陵城 

標高:190m 比高差:約30m

築城期:-

築城者:-

訪城日:2014.4.23

  北虫生野城は、内貴の南方に接する北虫生野集落の東背後に位置する。谷間を隔てて南北それぞれの尾根筋に縄張の技法がやや異なる2つの城が存在するが、両城ともに比高約20mの丘陵上先端に集落を見下ろすように築かれている。

集落は山際ぎりぎりに密集しているが、その中程の高台に浄福寺があり、寺内を通り抜けて更に山中へ向かう山道を進むと、まもなく北側の斜面が途切れるところで回り込むと北城Ⅰの虎口が現れる。

虎口へ向かう途中は雛壇状に削平されており、その北端は横堀で北麓からの侵入を防ぐ格好となっている。虎口に建つと、北城の全容を見下ろすことができる。太く高い土塁は圧巻である。
虎口からすぐ内部には入城に邪魔な位置に井戸跡がある。侵入を遮る落とし穴なのだろうか。

北城へ

 北城は地形に合わせて少し歪ではあるが、基本的には単郭方形プランと言える。だが最も侵入に備えるべき西山麓側が切岸のみと不自然である。これは後世の破壊による改変があったと考えたい。南北の土塁が西端で途切れる付近で、曲輪に段差が設けられているが、ここに虎口のような通路aがある。また南側の土塁は幅広となっており、他城でもよく見られる虎口上の防御施設の構えで、もしかするとこの段差のラインに土塁は存在したのかも知れない。

主郭への虎口の横矢土塁

左側が城道・・・・北側からの遠景

南城へ

 東虎口

 南城は、浄福寺境内南東斜面の墓地を通り抜け、登りきると城域に入る。曲輪Ⅳは最高所だが、ほぼ自然地形のままで物見台程度の機能であろう。
南方尾根筋を進むと削平地ⅡⅢとなるが、Ⅱは削平不十分、2つを区切る切岸も低くほぼ無いに等しい。Ⅲには井戸か水溜めのような窪みがある。

Ⅲを過ぎると次の削平地にはL字形の土塁cと、山麓へ向かうL字形の堀切道bが確認できる。しかし土塁cの意図がよく判らない。武者隠し程度にしか機能しないように見える。
築城半ばで頓挫してしまったのだろうか。

このように北城と南城では隣り合っていながら性格が異なっている。類似例としては湖南市の丸岡城⇔東丸岡城、甲賀町上野の冨田山城⇔観音堂城などが挙げられる。

 

西からの遠景北城(遠景)南城(遠景)

駐車位置

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!

 


神明山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

蜂須賀彦左衛門・木村子隼人が羽柴方の最前線の陣城

 神明山砦は堂木山砦から南西に延びる尾根を約20分ほど登った所にある。
登城道は、堂木山砦から尾根を辿るか、若しくは余呉町火葬場の100mほど西から登山道が延び、この道を10分ほど登ると、堂木山砦と神明山砦の中間に位置する鞍部に出て、更に尾根を10分ほど登る。

 神明山砦は前衛の曲輪群と中核部の曲輪群と2つに分かれており、その間は約100m。前衛の曲輪は50m×30mほどの尾根を削平した簡単な造りで堂木山砦方面の見張り台的な位置づけのようである。
 中核部は大きくは二の曲輪群と一の曲輪に分けられ、二の曲輪群は比高差を利用して階段状に曲輪を連ねた切岸防御を主体とし、一の曲輪は平坦な尾根上に60m×30mの曲輪中央部に土塁を伴った櫓台を配している。
また、一の曲輪背後には2条の堀切を入れ、堀切間の10m×10mの三の曲輪を後方の備えとしている。

 狭い尾根を一杯に使って築かれているが、全体的には堂木山砦と比較すると手狭な感は否めない。いずれの砦も秀吉方の最前線に位置しているが、主力の堂木山砦の後方を固める、あるいは堂木山が落ちた時の備えとして築かれたカ?。

所在地:伊香郡余呉町文室   maphttp://yahoo.jp/VaMvc9

築 城 :天正11年(1583)

初城主:蜂須賀正勝

区 分 :山城

遺 構 :土塁,堀,土橋

城 域 :200m×50m

標 高:295m 比高差:160m 

訪城日:2014.4.20

歴 史

天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

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主郭で

三角点・・・主郭の東側土塁上

熊の爪痕

別所山砦(前田利家・利長陣城)・行市山砦(佐久間盛政陣城)・中谷山砦(原彦次郎長頼)。遠望:玄蕃尾城。(天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で柴田勝家方の砦として築かれた。)

下山・・・イカりイソウ 

神明山砦(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城)

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


堂木山砦 近江国(伊香・余呉)

2014年04月22日 | 平山城

賎ヶ岳合戦 進め余呉城郭研究会 堂木山砦

堂木山砦は城郭愛好家には、非常に人気の高い城郭です。

日 時 2014420日(日)13:001600

集合場所 長浜市余呉町下余呉1938 はごろも市

交 通 JR北陸本線「余呉駅」下車 徒歩5
内 容 織豊系傑作陣城堂木山砦を詳細現地解説  

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

会 長 田畑喜久弘氏 挨拶 ※雨天決行

定 員 20名(要申込)主催 余呉城郭研究会                                                                                                                                            

 堂木山砦へは余呉町の火葬場の東へ小川沿いの道から山中に入る山道がある。

 堂木山砦は余呉にあって、賤ヶ岳から行市山へと連なる稜線から派生した尾根が、北国街道(国道365号線)付近まで張り出した舌状尾根上、比高150mほどの位置に築かれている。この砦は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに際して、羽柴秀吉軍の木村隼人等が布陣した秀吉軍の最前線の砦であると共に、北国街道を押さえる重要な砦である。

とっかかりのない急斜面を登り切る。 ここから砦までは傾斜の緩やかな尾根筋を辿るが、道は無くなり登り難いことこの上ない。

入城前に、西の堀切で・・・講師:長谷川博美氏より概要説明中!

歴  史

 天正11年2月28日(太陽暦では3月21日)、北庄城の柴田勝家は雪解けを待ちきれず、前田利長を先鋒として江北に向けて出陣させ、3月3日には佐久間盛政,前田利家を、3月9日には勝家自ら諸将率い、除雪をしながら北之庄を発進した。

 勝家軍が越前を発進するのに先んずること約2ヶ月、天正10年(1582)12月下旬、秀吉は美濃・岐阜城攻めの帰路に柳ケ瀬付近を巡視し、翌年1月には柴田勝豊の部下である大金籐八郎と山路正国に天神山に砦を築かせていた。

 北国街道を南下し、江北に着陣した柴田軍が行市山を中心とした山麓に展開して砦を築くと、羽柴軍の天神山砦は標高も低く、羽柴軍の他の砦からも突出した形となり、秀吉は天神山砦を捨て木村隼人等に堂木山砦、蜂須賀正勝に神明山砦を築かせて防御ラインとした。

登ること約20分、植栽人口林の中に堀切と土塁の壁が現れる。

所在地:伊香郡余呉町堂木 maphttp://yahoo.jp/3bzoGP                                                                             築城期 :天正11年(1583)
初城主:大金籐八郎,山路正国
区 分:山城(陣城・砦)
遺  構:土塁、
堀切
城 域:150m×50m
標 高:238m 比高差:120m 
訪城日:2014.4.20

 
 砦は4つの曲輪で構成され、主曲輪を中心に尾根の北側に1つ、南に2つの曲輪を配置しているが、柴田軍の布陣する山並みと尾根で繋がる北の曲輪と主曲輪は、周囲に高い土塁を廻らせ堅固な守りとしている。
両曲輪とも東側(羽柴陣側)に平虎口を設け、二つの曲輪を食い違い虎口で接続している。

 通常、城砦の縄張りがされる際、曲輪には外部と繋がった2つの虎口が設けられるものであるが、ここ堂木山砦の中核をなす曲輪にはその虎口が1つしか設けられていない。
 こんな所にも堂木山砦が最前線に位置する危機感とともに、賤ヶ岳の戦いでは羽柴軍が守りに徹していたことが窺える。

 

堂木山砦(遠望)・・・余呉湖岸より

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、現地説明板、講師:長谷川博美氏の現地説明・見学会レジュメ

本日も訪問、ありがとうございました