城郭探訪

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長福寺城  近江国(近江八幡)

2017年03月28日 | 山城


お城のデータ

所在地:近江八幡市長光寺町・馬淵町/東近江市上羽田町 map:http://yahoo.jp/MmVb99

立 地:山頂/山腹

現 状:山林

築城期:室町期

築城者:

遺 構:曲輪・竪堀・低土塁・堀切・石垣

標 高:220m  比高差130m(長福寺町公民館より)

目標地:長福寺町公民館

駐車場:近江八幡市水道タンク管理道の鉄扉前

訪城日:2017.3.28

滋賀県中世城郭分布調査より

お城の概要

岩倉山の西山麓は、近江八幡市馬淵町大字落合

 長福寺町公民館より、近江八幡市水道タンク管理道を東南に、水道タンク手前50mを右手の竪堀を頂上120m登ると頂上に至る。

舗装された管理道路から登るすぐ、平削地が頂上まで大小無数にある。

岩倉山は、石切山でもあった。石切の為に平削地の可能性がある。

(八幡山城の石垣は『岩倉石工文章』によると、南方約4kmの地にある岩倉山より石材を運んだという記載がある。)、

お城の歴史

 遺跡ウォーカーのコメントに【魯忠 2011年2月16日 17時35分】

長福寺城は佐々木六角氏の庶流落合氏の居城である。落合氏は六角氏に仕え、先陣を司る家柄であり江州七手組として名を馳せた。長福寺城には落合因幡守、同相模守定為、同出雲守家裕、同内蔵介らが在城し、観音寺城にも伝落屋敷跡がある。

しかし

『滋賀県中世城郭分布調査』その他城郭一覧には、「291落合城 蒲生郡日野町落合」

 『日野町志』には、「落合因幡守城跡在長福寺」とあるが、詳細不明」と記す。

が、現在、蒲生郡日野町に落合集落が存在しない?が、

遺跡ウォーカーには、「滋賀県蒲生郡日野町落合 落合城」城郭分布調査1、城。不明。不明

 

 日野町志』には、蒲生郡日野町落合「落合因幡守城跡在長福寺」とあるが、詳細不明」と記す。

日野町の長福寺は(滋賀県蒲生郡日野町松尾2区1340)に存在する。


ここから山へ                           石垣                  低土塁(山頂)                                 

参考資料:遺跡ウォーカー、『浅井三代記』『滋賀県中世城郭分布調査』『日野町志』 、Wikipedia

本日の訪問ありがとうございす!!


逢坂二丁目周辺の遺構 近江国(大津)

2017年03月26日 | 陣所

お城のデータ

別 称:長等山陣城の砲台地か?

 所在地:大津市逢坂二丁目  map:http://yahoo.jp/yEp-xr

立 地:長等山 山腹。

現 況:山林

築城期:織豊期後期(1600年)

築城者:西軍(豊臣方 立花宗茂と毛利軍) 

遺 構:平削地

標 高:200m 比高差駐車場より70m(大津城より110m)

目標地:長等不動明

駐車場:長等不動明

訪城日:2017.3.23

お城の概要

長等山陣城。 今は、長等公園に、整備されています!
此処から、大砲で砲撃されたか!

お城の歴史

関ヶ原の戦い前哨戦...
参考資料:近江の城郭探訪より

【大津城の戦い】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。

この籠城に対して、西軍の立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そ こで西軍は、

長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。
城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍 の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった 高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本 丸に入り、和睦開城を申し入 れました。.
参考資料:近江の城郭探訪より

逢坂二丁目周辺の遺構(砲台地か?)

此処まで

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9、さきろぐ、近江の城郭探訪

本日の訪問ありがとうございす!!

 


長等山陣城 近江国(大津)

2017年03月24日 | 陣城

お城のデータ

別 称:長等山陣城

所在地:滋賀県大津市小関町・神出開町 map:http://yahoo.jp/uAezDV

立 地:長等山 山腹。

現 況:山林

築城期:織豊期後期(1600年)

築城者:西軍(豊臣方 立花宗茂と毛利軍) 

遺 構:平削地

標 高:230m 比高差100m(大津城から140m)

目標地:長等不動明

駐車場:長等不動明前

訪城日:2017.3.23

お城の概要

長等山陣城。 今は、長等公園に、整備されています!
此処から、大砲で砲撃されたか!

お城の歴史

関ヶ原の戦い前哨戦...
参考資料:近江の城郭探訪より

【大津城の戦い】

大津籠城は慶長五年(1600)9月4日から始まり、家臣の妻子をよんで兵糧米の確保や、塩や味噌、醤油も城内の蔵に入れ、防御を堅固にするため城のまわりを14時間もかけて焼き払いました。

この籠城に対して、西軍の立花宗茂と毛利軍の率いる一万五千の大軍は大津城を包囲し、大津城が非常に見やすい、城の南西にある長等山(ながらさん)の山腹に陣をはりました。西軍の総攻撃は9月6日からはじまり、城外の前線陣地は全滅となりましたが、城内の守りは堅く、一進一退の攻防が続きました。そ こで西軍は、

長等山に大砲を据えて、城内に向かって砲撃を開始いたしました。

この攻撃ぶりを京の町衆も手弁当をもって見物にきていたといわれています。
城内はこの攻撃にも開門の様子なく、6日目を迎えましたが、西軍 の外堀を埋める戦略により、より激しい攻撃が行われ、9月14日、秀吉と親しかった 高野山の僧、木喰応其(もくじきおうご)と新庄直忠が本 丸に入り、和睦開城した。

大津城坂本方面
長等山陣城

長等山陣城・・・兜山大明神のは尾後に平削地

 
 
兜大明神の南平削地

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9、さきろぐ、近江の城郭探訪

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大森城跡(大森館・大森氏居館) 近江国(蒲生)

2017年03月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市蒲生大森町 map:http://yahoo.jp/AjIxms

別 名:大森氏居館

区 分:平城・居館

立 地:平地

現 状:寺地・境内地

築城期:室町期

築城者:大森数馬

遺 構:消失

目標地:蒲生大森町集会場・願王寺

駐車場:蒲生大森町集会場・願王寺

訪城日:2017.3.17

お城の概要

『蒲生町史(平成7年)』の742頁には

大森氏

現在、蒲生大森町集落の願王寺の場所を「数馬屋敷」と呼んでおり、大森数馬の館であろう。

現在はは土塁や堀は残っていないが1980年頃には、本堂の裏には土塁に一部思われる堤があった(白井政行氏談)。

願王寺の住職に話では、「もともと寺の周りは全部川であったともいい、堀の名残ともみられる。(安田義幸氏談)。

日野川西岸の小字岩吹には、「数馬」と呼ばれる所があり、そこが大森氏関係の場所と判断され、墓があったといわれる。

お城の歴史

『蒲生町史(平成7年)』の710頁には

大森の地名は旧八日市大森町にもあるが、諸書に登場する大森氏は蒲生町の大森の出身と考えられてる。

安井氏と同様、永禄十一年の日野城籠城に人数に「家の子郎等」の一人として見えているのが初見。

『近江蒲生郡史』巻八の「古蹟名勝志」の項では、大森数馬なる人物について、もともと佐々木六角の家臣であり、同氏滅亡の後蒲生家に仕えたとある。

天正10年本能寺の変後の日野城籠城にも、葛巻隼人らとともに、大森左京進のなが見える。

さらに、蒲生氏が会津に移ってからの分限帳にも、大森左京(六百石)。大森彦四郎(三百石)など見える

六角氏・蒲生氏の家臣であった大森氏の館跡であった。

参考資料:滋賀県城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)、蒲生町史、近江蒲生郡志・遺跡ウォーカー

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水口城の【御殿玄関】が移築

2017年03月22日 | 文化財

画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外


水口山蓮花寺

所在地:滋賀県甲賀市水口町松栄2−40
蓮華寺本堂には、水口城の御殿玄関が移築されていると言われています。
現地案内板等はありません。

水口城(甲賀市)概要:

甲賀市観光・旅行見所ナビ

 水口の地は東海道が通過する交通の要衝で、将軍家が京都や大坂に上洛した際は宿所として利用しました。水口城は寛永11年(1634)に3代将軍徳川家光の宿館として築かれたもので、近江小室藩初代藩主の小堀遠州が作事奉行として幕府から派遣され延10万人が動員、石垣などの用材は戦国時代の山城で廃城となった水口岡山城のものを利用しました。

 小堀遠州は土木、建築事業を幾つも手掛け、作庭、茶道にも精通し、千利休、古田織部と共に日本三大茶人 茶道三宗匠に数えられた文化人でもあり、将軍家が水口城に対し思い入れが強かった事が窺えます。

 水口城は「水口御茶屋」とも呼ばれ、構成は京都の二条城に類似し、ほぼ正方形の本丸には御殿、4隅には平櫓(艮矢倉、巽矢倉、坤矢倉、乾矢倉)、東側の出丸には大手門(虎口・一之門:高麗門・二之門:櫓門)、北側には北御門(虎口・一之門:高麗門・二之門:櫓門)が配され、二ノ丸には管理・警護の施設が設置されました。

 しかし、将軍家が利用したのが家光1回限りで、それ以外は幕府から1年毎城番が派遣され維持管理が行われました。

天和2年(1682)、石見吉永藩より加藤明友が2万石で入封し水口藩を立藩、水口城の本丸には将軍家の御殿があった為、2の丸を拡張し藩庁と藩主御殿が設けられ、それに伴い城下町も大幅に変更されました。正徳年間(1711~1716年)には利用されなくなった家光時代の御殿は破却されその後は空き地だったようです。

 明治維新後に廃城となり多くの施設は破却されましたが本丸の敷地や石垣などが残され昭和47年(1972)に滋賀県指定史跡に指定されています。

 水口城の遺構としては、本丸乾矢倉が民間の倉庫として移築され、その後現在地に再移築され何故か2層2階に改変し水口城資料館として公開されています。

その他には茶室が大岡寺

御殿の玄関が蓮華寺に移築されています。

水口神社は、江戸時代に寛文3年(1663)には当時の代官だった小堀氏により社殿が再建されました。

水口藩が立藩すると歴代藩主の崇敬社となり正徳5年(1715)には藩主加藤嘉矩が社殿を造営しています。

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、家、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、空、屋外


岡崎鼻城  近江国(蒲生)

2017年03月20日 | 平山城

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市(旧蒲生町)横山町  map:http://yahoo.jp/zUWfwE

区分:城

立 地:山地・天狗前古墳

現 状:山林(横山自然公園)

築城期:中世

築城者:

遺 構:北側斜面に土塁か?竪堀か?、尾根部分の平削地曲輪跡か?巨岩

標 高:130m 比高差15m

目標地:横山自然公園

駐車場:横山自然公園

訪城日:2017.3.17

お城の概要

横山町小字岡崎・野田に「北の木戸」の城郭関連地名が残る。

推測だが、横山館の詰め城の可能性が考えらる。

蒲生横山地区にあったとされる丘城。 築城時期など、不詳。

雪野山の南、名神高速道路沿いに伸びる丘の東端にあったとされる。
天狗前古墳を利用して築かれたと考えられ、周囲には帯状の平坦地が複数確認できる。

古墳の巨岩も土塁・櫓台代わりに利用していたか?。

北側斜面が城の遺構らしきものであるかが不明。
現在、一帯は横山自然公園として整備されている。

お城の歴史

『滋賀県城郭分布調査4』の「岡崎鼻城」の説明欄には「近江国城記録」に見えるが、未詳。

北側斜面

東端へ

東端の古墳

布施山城(遠望)

参考資料:『滋賀県城郭分布調査4』、遺跡ウォーカー、さきろぐ

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中村治兵衛宗岸屋敷跡

2017年03月16日 | 文化財

近江商人の実践哲学に、よりますと!

「三方よし」の原典となっ た、中村治兵衛宗岸の遺言 状「宗次郎幼主書置」...売 り手よし、買い手よし、世 間よし

商取引は、取引の当事者双方の みならず、取引自体が社会をも 利することを求めたのが「三方 よし(さんぽうよし)」の精神 であり、近江商人の活動の普遍 性を完結に語るものである。

...

近江国神崎郡石馬寺町(源:滋 賀県東近江市五個荘町石馬寺)の麻布 商、二代目中村治兵衛(法名: 宗岸)が、嫡男3代目治兵衛(法 名:宗壽〈そうじゅ〉)は、延 享4年(1747年)9月26日に34歳 で没したので、その遺児である 娘(法名:〈妙壽〉)に養子・ 宗次郎を片山半兵衛家から迎え て4代目治兵衛を嗣がせた。

妻と子に先立たれた宗岸が初め て幼主の宗次郎へ「書置」を記 したのは、1754年(宝暦4年) 11月のこと。この「書置」に は、家と家業の存在を15歳の幼 い養嗣子の教え諭さなければな らない、70歳に達した宗岸家の 事情があった。

「三法よし理念を示す原典と なったこの「書置」は、24カ条 (「宗次郎幼主書置」11カ条、 「追書宗次郎」13カ条)からな る遺言状「書置」文書は、3メー トルにもおよぶ長文である。 「宗次郎幼主書置」の8番目の条 文には次のように書かれてい た。

  • 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然
  • 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然 画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然<input type="hidden" name="fb_dtsg" value="AQH5-MueJC2I:AQHNIbpFhZjr" /><input type="hidden" name="data_only_response" value="1" />
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「近江の城郭」 大津城・城下町跡/膳所城跡・城下町跡

2017年03月11日 | 平城

.現地探訪「大津から膳所へ」

大津城跡・城下町跡

・膳所城跡・城下町跡

(1)日時:平成29年(2017年)3月4日(土曜日)12時30分~16時30分

(2)場所:大津城跡・城下町跡・膳所城跡・城下町跡(滋賀県大津市)

  • 集合場所:JR大津駅北口(琵琶湖側)
  • 解散場所:篠津神社 ※京阪中ノ庄駅まで徒歩10分

(3)主催:滋賀県教育委員会

(4)協力:大津市教育委員会

(5)探訪行程

  • JR大津駅→大津城跡→旧東海道→膳所城跡→篠津神社
  • 全行程約8km

(6)案内講師:大津市教育委員会文化財保護課専門職員

(7)定員:100名(事前申込制 先着順)

(8)参加費:無料

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石塔後谷城 近江国(蒲生)

2017年03月01日 | 山城

未訪問者の新発見か?!
県道45号より(遠景)、屋根上が土塁!

石塔後谷城へ行って来ました!

お城のデータ


所在地 滋賀県東近江市(旧:蒲生郡蒲生町)石塔町 map:http://yahoo.jp/xnG3i8

遺構概要 城郭分布調査4、

築城期:中世細分不明

築城者:金井丹波守の居城
区 分:山城
立 地:山地
現 況:山林

遺 構:土塁・曲輪・櫓台・竪堀・切岸・箱掘・堀切・

訪城日:2017.3.1

お城の概要

『滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生郡・神崎郡)』には、石塔後谷(うしろたに)城の解説に、「城前城(じょうのまえじょう)」を改称、小字「城ノ前」には遺構は認められず、その背後の山が小字「後谷」で、小分け地名に「千馬垣」「御城谷」「姫ヶ沢」「田根丹波」などある。地元では金井丹波守の城跡とも言っている。

蒲生石塔地区を通る県道45号線が大きく西に迂回する丘上にあったとされる。

蒲生石塔地区にあったとされる城。
『越前城』の別名があるが、この地域の旧地名「城前」が変形したものと思われる。

石塔集落の西側に林道があり、林道に入るとすぐ地蔵堂ある。反対側に空堀と大きな彫り上げ土塁が100m位、山上曲輪郡、山上北側のぼり虎口か?土塁か?

お城の歴

蒲生石塔地区にあったとされる丘城。
金井丹波守の居城とされるが、それ以外のことは一切不明。

 

素晴らしい、彫り上げ土塁に圧倒されました!

林道を挟んで山上曲輪へ

箱掘

三角点三角点

北側の土塁堀切か西側堀

参考資料:『滋賀県城郭分布調査 4』、 『日本城郭大系11』『滋賀県遺跡目録』、遺跡ウォーカー

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