城郭探訪

yamaziro

星ケ崎城(鏡山城) 近江国(竜王)

2011年03月20日 | 平山城

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町鏡

別 名:鏡山城

築城期:室町時代中期

初城主:鏡久綱

区 分:山城

遺 構:石垣、竪堀、石碑、説明板

城 域:200m×200m

標 高:247m   比高差:130m

目標地:道の駅 かがみの里

訪城日:2011.3.20

お城の概要
 旧中山道の鏡地区の中ほど山手側の住宅地の横から細い山道が星ガ崎城へと続いている。中山道に面しているこの道が星ガ崎城の大手道。

山形が比較的なだらかであるだけに道が分かり難いが、「星ヶ崎城址」の表示板を目印に登るとほどなく尾根道に出る。尾根筋には堅堀らしきものが幾つかみられる。小さなピークを二つほど越え、登り初めて約30分ほどで山頂に着く。
 山頂の主曲輪はおおよそ50m×20mほどで、城址を示す石碑が建てられている。
南側斜面に高さ3m、長さ20mほどの石垣がしっかりと残り、北東側の斜面にも長さ2mほどの石積みがみられる。また主曲輪の東側虎口にも石が散乱しており、当時は主曲輪周囲に石積みがなされていたであろう。
 国道8号線、星ガ崎城へは、道の駅「かがみの里」から西の山頂へ細い山道を西光寺跡を経ても登れる。
なお、北側山麓には鏡氏の居館である「井上館」がある。

お城の歴史

 星ヶ崎城は佐々木氏の支流鏡氏代々の居城で、鏡山の星ヶ峰にある。

鏡氏は佐々木定綱の二男定重を祖とし、定重の子久綱が鏡庄を領有して鏡氏を称した。

 久綱は承久の乱に官軍に属して尾張で戦死し家系は絶えた。

が、京極宗氏の子貞氏が鏡氏の名跡を継ぎ、鏡氏は以後代々佐々木氏の旗頭を勤めた。

鏡高規とその子定頼は、後に織田信長に仕えた

 主曲輪南斜面の石垣
http://blog.goo.ne.jp/admin/editchannel?chno=66142

 

星ケ崎城址探訪

  

-星ヶ城(ほしがさきじょう)(滋賀県蒲生郡竜王町鏡)(淡海の城友の会より)

 星ヶ崎城跡は鏡山の北東端にある星ヶ峰にあり、眼下に中山道(東山道)鏡宿が見下ろされ、東は馬淵・六枚橋
・長光寺城(瓶割山城)・武佐宿・観音寺城の清水鼻まで中山道が見通せ、西は三上山・守山宿・草津宿が、北は
中世の港があった田中江・江頭の集落・水茎岡山城から琵琶湖が、南は横関から石部・三雲へ通じる道が一望でき
る、まさに陸運・水運の物資と人が交差する交通の要衝に位置しています。

 城の主郭は、20×35mの周囲を石垣が廻る長方形で、南面中央部に虎口を設けています。石垣は南西部に高さ1
~2m、長さ35mほど残っていますが、全体に残りは悪く、北東隅に少し残っている以外は、ほとんど破壊されて
います。石垣石は、鏡山で採れる花崗岩で、節理によって割れた比較的横長の面を持つ石を使って野面積みしてい
ます。主郭の南北には見張り台状の小郭が張り出していますが、これらには石垣が使われていません。山岳寺院西
光寺を利用したという説もありますが、定かではありません。
 星ヶ崎城は、鏡氏の居城とされていますが、詳細はよく分かっていません。鏡氏は、佐々木定綱の次男定重を祖
とし、定重の子、久綱が鏡氏を称したと言われています。久綱は承久の乱で討幕軍として出陣し、尾張にて戦死し
てしまい家系が途絶え、その後、京極宗氏の子、貞氏が鏡氏の名跡を継ぎ、以降佐々木氏の旗頭として存続してい
きます。

 麓には、「井上氏館」となっている土塁と堀が極めて良好に残っている城館跡があります。現在も中で居住され
ておりますので、中に入ることはできませんが、鏡氏の館跡「鏡城」と言われ、星ヶ崎城とセットになっていたの
ではないかとされています。

 城の立地状況は、観音寺城の東の陣城とされた佐生城とよく似ています。佐生城は愛知川を前面に置き、東から
の攻撃に対しての橋頭堡となる城で、しかも石垣が築かれています。星ヶ崎城もこれより西にある信長時代には佐
久間信盛が江南の支配拠点に置いた永原城があります。永原城の東の抑えになる陣城で前面には日野川があり、橋
頭堡となる城です。石垣を主郭のみに用いる点も共通しています。織田が近江侵攻を計った時に、六角義治が十八
の支城で侵攻を阻止しようと試みたとあり、そのうちの一つという説もあります。          

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


小谷城  近江国(湖北)

2011年03月13日 | 平山城

   小谷城址登り口

お城のデータ

所在地:長浜市(旧東浅井郡)湖北町伊部 map:http://yahoo.jp/hax-k
築城期:大永4年(1524)

築城者:浅井亮政

廃 城:天正3年(1585)
区 分:山城
遺 構:曲輪・空掘・土塁・堅堀・石垣
城 域:1000mx1800m

標 高:332m  比高差:230m

駐車場:小谷城戦国歴史館

訪城日:2011.3.11

戦 い: 大永5年(1525) ○六角定頼 VS ●京極高清・浅井亮政
    天文7年(1538) ○六角定頼 VS ●浅井亮政
    元亀3年(1572)  △織田信長 VS △浅井長政
    天正元年(1573) ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉義景

お城のデータ

小谷寺の西から山道を登る。この道は広く車でも安心して登れ、中腹まで車でn20~30分ほどで本丸。
 この間、番所跡~馬洗池~首据石を経て、浅井長政が小谷城落城時に自刃したと伝えられる赤尾美作守の屋敷、本丸櫓台、山王丸の石垣等の見所がある。
 

小谷山曲輪配置図小谷山曲輪配置図

 山王丸の東側の石垣は、小谷城内では最も大きな石垣(高さ約4~5m、長さは約30m)で、この地方特有の石灰岩質の白濁色の石を用いた野面積みで積まれている。
当時は山中にもっと大きな石垣があったとされるが、羽柴秀吉によって破壊されたとも云われている。
 体力に自信のある人は六坊を経て、月所丸,小谷山山頂(標高495m)の大嶽城へ登るのも良い。月所丸は六坊から約10分、大嶽城は約30分の距離。

北国脇往還を眼下に治め、大嶽城を北方の押さえとして、小谷山全山にわたり造られた曲輪は一千カ所にのぽり、近江の数ある城郭の中でも観音寺城と共に屈指のものである。
 また、 上杉謙信の居城・春日山城、能登畠山氏の居城・七尾城、尼子氏の居城・月山富田城、および観音寺城とともに日本5大山城の1つ。

歴 史

 浅井亮政の3代前の重政が明応5年(1491)に京極持清に仕えた時から歴史に登場する。
 大永3年(1523)15代当主京極高清の跡目相続について、浅井町野瀬の梅本坊で家臣団の協議(梅本坊公事)が行われるが、長男・高広を立てようとする浅井亮政、今井越前守等と、次男・高慶を立てようとする父高清、上坂信光、多賀四郎左衛等が対立する。
 梅本坊公事の結果、跡目は次男高慶に決定するが、次男高慶派の中心となっていた上坂氏の横暴に反感を持っていた長男・高延派の浅井亮政、今井越前守は尾上城に寄って次男・高慶派を排除することを画策する。
 大永4年(1524)六角氏の援助を受けて、上平寺城
の京極高清、上坂信光を攻め、高延を救出する。上坂氏の今浜を攻略した浅井亮政は小谷京極丸に高清,高延を迎え入れる。この時点で名目はともかく、江北の実権は浅井氏が握ることとなる。
 大永4年(1524)に小谷城を築城する。

 亮政・久政・長政と三代にわたって湖北を納め、栄華を誇った小谷城であったが、元亀元年(1570)姉川の戦いで織田・徳川軍に敗れた後、天正元年(1573)8月、清水谷から攻め上った織田軍によって落城した。
 浅井氏滅亡後、木下籐吉郎が湖北三郡を与えられ、天正3年(1585)に今浜の地に新たに長浜城を築いた後は廃城となる。

 

浅井の小谷城跡探訪


                  

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、近江の城郭

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。