城郭探訪

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講座:戦国の敦賀城(まぼろしの敦賀城)

2018年04月15日 | 講座

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日 時:2016年12月18日

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敦賀城の歴史

1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城したが、まもなく頼隆は九州平定中に病死したため、代りに1589年(天正17年)大谷吉継が5万石で敦賀城に入城した説、また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説がある。

吉継は敦賀城を水城として大改修した。1600年(慶長5年)に石田三成が秀吉死後に秀吉の遺命を無視し、豊臣家を崩壊させようと画策する徳川家康の打倒を訴えて立ち上がると、再三にわたり「三成に勝機なし」と説得。しかし三成の堅い決心を知り、熱意に感じ入ると、敗戦を覚悟して西軍に加担した。関ヶ原の戦いでは奮戦したが敗北、自刃し、戦後は所領は没収された。その後、城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康によって代官が派遣されていたが、1616年(元和2年)に一国一城により、敦賀城は破却された。

 廃城以降、主郭部には小浜藩の役所(奉行所、代官所)とお茶屋(陣屋)が置かれた。小浜藩は、1624年(寛永元年)に京極忠高の所領となったが、1634年(寛永11年)に京極氏は松江城へ転封となり、代わって酒井忠勝が小浜藩主となった。

 以降、幕末までの240余年を酒井氏が支配する。なお、分家である敦賀酒井氏(敦賀藩とも鞠山藩ともいう)の陣屋は旧金ヶ崎城近くに建てられた。明治に入ると、廃藩置県により1871年(明治4年)に県庁舎が置かれたが、さらに警察署、裁判所、病院と変遷した。1909年(明治42年)には、敦賀尋常高等小学校が移転、現在は敦賀西小学校になっている。

現在の敦賀城

敦賀城伝承地は、北は結城町の赤川、南は三島町の霊山院から稲荷神社、東は水路の残る旧笙の川沿い付近で西小学校・八幡神社・西蓮寺が連なるライン、西は真願寺から敦賀病院を経て霊山院のライン、で囲まれる南北500m、東西300mの範囲という。現在、城跡には城塁を含め、その面影を偲ばせるものはないが、以下の遺構などがある。

  • 敦賀西小学校正門の真横に敦賀城の案内碑があり、慶長年間の国絵図に描かれた三層の天守も刻まれている。2009年、新校舎建設に伴い、小学校グラウンドの発掘調査を実施したところ、敦賀城の時代に相当する建物遺構が発見された。
  • 来迎寺の山門は、城の中門を移築したと伝えられる。
  • 来迎寺の書院には、腰高障子13枚が残る。敦賀城破却時に移されたと伝わる。
  • 真願寺には、敦賀城の礎石が残る。本寺は敦賀城域の北西隅に当たるという。
  • 真願寺から東へ延びる赤川は、敦賀城の堀の遺構と言われる。また伝承範囲の南側と東側にも部分的に水路が残っている。
  • 八幡神社には、敦賀城主大谷吉継が寄進したという本殿の龍の木彫、石灯籠、石鳥居がある。
  • 西蓮寺の西隣には三の丸趾の木柱が建ち、そこから南の稲荷神社付近には三の丸地蔵尊の祠もあり、西蓮寺から稲荷神社の付近が三の丸であったようである。
  • 関ヶ原合戦後、福井藩主となった結城秀康によって、代官が派遣されたことから、結城町の地名が残る。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人写真の説明はありません。
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  • 参考資料;『ウィキペディア(Wikipedia)』、講座:敦賀城レジュメ
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講座:信長家臣たちの城

2017年02月08日 | 講座

 

安土山

日時:2017.1.28

講師:中井 均氏

安土城

坂本城(明智光秀)

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。

長浜城(羽柴秀吉)

大溝城(織田信澄) 

勝龍寺城(長岡京)細川藤孝

 元亀2年(1571)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。

 安土城

 安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。

信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽秀長、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。

この城を築城した目的は、岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。

城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。

1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フォロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。そして普請を手がけたとの由緒を持つ石垣職人集団「穴太衆」はその後、全国的に城の石垣普請に携わり、石垣を使った城は全国に広がっていった、という点でも重要である。

城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では、仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。

 滋賀県は平成元年から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。20年間で調査が実施されたのは史跡指定面積の約20%(17ヘクタール)にとどまったが滋賀県の財政事情から事業継続には至らず、全域の調査(50年から100年必要とされる)は将来にゆだねられることとなった。

坂本城(明智光秀) 

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。

 

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。

長濱城

 長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築き、それが長浜城の元と伝えられる。以後、家臣の今浜氏・上坂氏が守将として在城したといわれている。

 姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃、小谷(湖北町)から当地に城下町を移し、地名を長浜と改め、ここに城を築いて数年間居城とした。天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦では、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城したことがある。

 江戸時代になって、慶長11年(1606)には徳川家康の家臣である内藤信成が入城し、その子信正が摂津高槻に移るに至って廃城(元和元年・1615)となった。

 建物及び石垣の大半は、彦根城の築城に際して移され、その天秤櫓(国・重文)や三重の隅櫓は当城の遺構といわれている。また、当市内の大通寺台所門(市指定建造物)、知善院表門(市指定建造物)も当城の遺構として名高い。この豊公園は「本丸」という小字名でよばれ、城域の中心部にあたるところから貴重な史跡として昭和37年に市の指定文化財として指定されている。

 城跡の遺構は、これまでの発掘調査によって石垣や掘立柱建物跡、礎石建物跡さらには舟着場らしき石組遺構等が一部発見されている。しかし、調査は部分的であり、全体の縄張りや細部の構造については、未だ解明されていない。
(城内説明板
より) 

大溝城(織田信澄)

大溝城(滋賀県高島市高島町勝野、鴻湖城とも)は、織田信長が、安土に壮大な城を築いたころ対岸の高島の地に築城された。

 この城は、琵琶湖とその内湖を巧みに取込んで築いた水城で、明智光秀の縄張(設計)で出来たと伝承される。
そのころ、高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主・磯野員昌が、信長に背いて突然出奔したため、信長は天正六年(1578)2月3日その跡地を甥(弟信行の長男)の織田信澄に宛行い大溝城主としたという(『現地案内板』)。

城主に入った信澄は高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、また、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
ところが、天正十年(1582)6月2日、明智光秀が本能寺に謀反を起こすと、光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は、丹羽長秀と謀って、6月5日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大坂城内二の丸千貫櫓に攻め込んだため、信澄は自害して果てた(『現地案内板』)。

大溝城は、やがて解体されて甲賀郡水口の岡山城に移されたが、城を中心に形成されていた大溝の城下町は、元和五年(1619)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部氏にひきつがれ、整備されて湖西地域の中核的存在として、豊かな歴史と文化を育んで来た(『現地案内板』)。

勝龍寺城(長岡京)細川藤孝

観音寺城のたたかいで勝利した織田信長は、足利義昭を奉じて上洛する2日前の永禄11年(1568)9月26日、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚ら4人の家臣に先陣を命じ、桂川を渡河し三好三人衆の岩成友道が守る勝竜寺城を攻撃させた。

岩成友通は足軽衆を全面に押し立て応戦したが、織田軍は精鋭の馬回り衆を乗り入れ戦いを有利に進めて首級を50余りあげ、上洛を果たしていた信長の陣所である東福寺へ届けたとされる。

自ら首改めを済ませた信長は、上洛を果たした翌9月29日に全軍に出陣を命じ、信長自身が5万兵を率いて勝竜寺城の攻略に向かった。畿内の広範囲を勢力下に置いていた三好三人衆であったが、織田方の大軍を前に降伏・開城する。これは観音寺城の戦いで近江守護であった六角義賢・義治父子が織田軍の上洛を防ぐと予想していたが、一日も経たずに観音寺城が落城したことが少なからず影響していたと考えられている。

元亀2年(1571)、細川藤孝が山城西岡一帯を信長より与えられ勝竜寺城主となり、二重の堀を持つ堅固な城に改修したとされる。同年10月14日の信長より藤孝宛ての『印判状』には

勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し — 織田信長の印判状

とあり、桂川より西にある家のすべては3日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように信長自身が命じている

その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追い出し畿内から掃討することになる。

 

参考資料:講座レジュメ、ウィキペディアほか

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片桐且元の苦渋、豊臣存続への思い解説 「湖灯塾」

2016年12月10日 | 講座

   

 

片桐且元の苦渋、豊臣存続への思い解説 滋賀「湖灯塾」

苦渋に満ちた戦国武将片桐且元の人生について語る太田さん(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)苦渋に満ちた戦国武将片桐且元の人生について語る太田さん(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)

 京都新聞主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が10日、滋賀県近江八幡市出町の京都新聞湖灯ホールであった。長浜城歴史博物館館長の太田浩司さん(55)が「大河ドラマ『真田丸』をめぐる群像~片桐且元(かつもと)を中心に」をテーマに講演した。

 且元は近江出身で豊臣秀吉の「賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍(やり)」の1人として頭角を現した。関ケ原合戦後、豊臣政権の存続を思いながらも徳川家康に従い、大坂夏の陣が終わって20日後に病死した。

 太田さんは「戦場での活躍より事務官僚として有能だった」と指摘。且元が秀吉の息子秀頼を補佐し、同時に家康の家臣だったことについて「両属性があり複雑な立場だが、豊臣政権が復活できないことを誰よりも分かっていた。豊臣を一大名として残そうと真剣に考えていた」と語った。

 大坂冬の陣の和睦成立直前に且元が西本願寺宗主に「喜ばしい」と伝えた書状を紹介、「且元が家康側に回ってから出した書状は1通も見つかっていなかった。早く和誼になり、豊臣家が残ってほしいとの思いが垣間見られる」と話した。

 且元が豊臣方の中心人物として竹生島や石山寺など県内各地の寺の復興に尽力したことなどを振り返り、「近畿地方の統治において且元の果たした役割は大きい」と述べた。

【京都新聞 2016年12月10日】

大坂冬の陣、和睦交渉内情伝える 武将・片桐且元の書状発見

 

大坂冬の陣の徳川方の内情を西本願寺宗主に報告する片桐且元の書状。表面のけば立ちもあり、且元筆の書状と考えられるという(30日午後4時12分、京都市下京区・龍谷大大宮図書館)

  賤ケ岳の七本槍の一人として豊臣家に仕えた近江出身の戦国武将片桐且元(かつもと)(1556~1615年)が、徳川方についた直後に起こった大坂冬の陣(14年)の和睦交渉の内情などを西本願寺宗主に伝えた書状が見つかり、龍谷大大宮図書館が30日、発表した。発見した本願寺史料研究所の大喜直彦・上級研究員(日本史)は「冬の陣終盤の徳川方の詳しい様子を記す貴重な史料」とする。

  軸装された書状は縦30.5センチ横49センチ。今年6月に東京都の古書店の目録の記述から発見した。古書店が所有していた経緯は不明という。

  書状の日付は、1カ月続いた戦いが佳境を迎えた12月18日。大坂城への砲撃を指揮した且元が西本願寺12代宗主の准如(じゅんにょ)に宛てており、大坂城に近い「備前島」に布陣する且元のそばで、戦況に満悦する江戸幕府2代将軍秀忠の姿が記される。「大坂より色々御詫言候」と、豊臣側から非を認めてきたという記述がある。

 書状にある日付の翌日、和睦は成立した。大喜上級研究員は「大坂の陣の具体的な方法がより明らかになった。和議開始当日の戦場の様子も分かる」としている。且元の書状は10月13~21日、京都市下京区の龍谷大大宮学舎本館で特別展示さた。 【 京都新聞 2016年09月30日】

 

片桐且元

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

Katagiri Katumoto.jpg片桐且元像(模写、大徳寺玉林院所蔵)
片桐 且元( かつもと)は、賤ヶ岳の七本槍のひとり。秀吉からは長らく助作(助佐)と呼ばれていた。

 豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件大坂城を退出して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同国小泉藩主となった片桐貞隆

生涯 

近江国浅井郡須賀谷の浅井氏配下の国人領主・片桐直貞の長男(1556)に生まれる。

元亀元年から天正元年9月1日にかけての織田信長による浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落した。落城前日(8月29日)の日付の浅井長政から片桐直貞に感状が現存する。17歳の且元も一貫して浅井方として戦い、幼き浅井三姉妹大野治長兄弟らと共に、落城を経験した。

秀吉の直参衆

片桐門  天正18年(1590年)に且元が薬師寺の普請奉行を務めた際、馬上のまま出入りしたという宿舎の正門。MOA美術館内に移築。

羽柴秀吉は、長浜城主及び北近江3郡の領主となり、且元は、近江国生まれの石田正澄三成兄弟と秀吉に仕官。毛利輝元に対する中国攻めにも従軍した。

天正11年5月、信長死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い福島正則加藤清正らと共に活躍し、一番槍の功を認められて賤ヶ岳の七本槍のひとりに数えられた。秀吉から摂津国内に3千石を与えられた。

天正12年6月、小牧・長久手の戦いに従軍。

天正14年、方広寺大仏殿の建設で作事奉行を務めた。

天正15年の九州征伐に従軍し、軍船の調達を担当。

天正18年の小田原征伐では、脇坂安治徳川家臣と共に小田原城の接収に立会った。

 秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)では弟・貞隆と共に出征。釜山(現在の釜山市)昌原城(馬山城)に駐在し、秀吉からの一揆衆のなで斬りや街道普請などの指令を取り次ぎ、2度の晋州城の戦いなどに参加した。文禄2年、講和に向けた休戦により9月から10月に帰国した。

文禄3年、伏見城普請を分担。文禄4年、5,800石を加増され、本知の4,200石と併せて1万石となった。所領は播磨、摂津、伊勢に点在していた。

文禄5年閏7月13日に発生した慶長伏見地震以降は、復興事業に関連した大坂の都市改造計画にかかわた。

慶長3年3月15日の醍醐の花見では三の丸殿に御輿添頭(警護役)として随従。同年8月15日、小出秀政らと共に秀頼の傅役(輔佐役)5名の1人として指名され、大坂城番の城詰めとして近侍することになった。

豊臣家家老

豊臣秀頼   徳川家康
豊臣秀頼
 
徳川家康

慶長4年(1599年)1月10日、豊臣秀頼が五大老五奉行に伴われて伏見城から大坂城に遷った際、自邸の無い徳川家康は伏見城に戻るまで、且元の屋敷に2泊している。以後ふたりは連絡を取り続けていくことになる[10]。慶長5年(1600年)長束正家ら奉行衆より、小出秀政と且元は大坂城の所務の監督的な立場に、家康ら大老衆からは石田正澄、石川貞清頼明兄弟と共に御奥の警護役に任じられている[11]

9月の関ヶ原の戦いでは文治派奉行衆を中心とした石田三成方(西軍)に付き、秀政、頼明、弟の貞隆などの旗本も加わる大津城の戦いに、増田長盛と同じく家臣を派遣したが、武断派武将らを中心に支持を得た家康方・東軍勝利の後は、長女を家康への人質に差し出し、豊臣と徳川両家の調整に奔走した。この功績により、逆に家康から播磨国伊勢国の所領6千石と引替に大和国竜田2万4千石を与えられた[注釈 5]。また同じ頃、茨木城の城主となった。

 以降、家康の政治を幼い秀頼の代行として承認し、協力する立場となった。当初は全国の蔵入地を総監する立場から、徳川氏の所務方の大久保長安の検地]などに協力。また寺社奉行として、当初は豊臣公儀の政策だった畿内を中心とした多数の寺院復興事業に取り組む。

慶長9年の秀吉7回忌と同15年の13回忌の大祭(臨時祭礼)では総奉行を務める。また朝廷との橋渡しを務めた他、慶長14年の後陽成天皇の寵姫と不良公家の乱行醜聞として悪名を轟かせた猪熊事件では、京都所司代板倉勝重に協力した。

慶長10年頃からは、家康から豊臣家直轄地の摂津国・河内国和泉国小豆島[16]を管轄する、国奉行のような立場に任じられる。同年までを区切りに行われた本多正純による西国33国の郷帳・国絵図作成事業では、奉行担当国の絵図作成だけではなく、家康在所の伏見城内において全般的な実務にも当たっている。

慶長16年、駿府城を本居としていた家康が4年ぶりに上洛。これより前に家康から秀頼に二条城での会見要請があり、秀頼の母・淀殿は「家康から大坂城へ来るべき」と難を示すが、且元が「関東と不和となり合戦起こらんこと必定」と上洛を説得をして会見を実現させた。その際に吉凶を占ったクジで大凶を引くと、吉に書き直させたという。3月28日の二条城会見では且元も同席した。 同年の禁裏普請では、大坂方で3万石を負担した。

既に慶長11年には、家康らの意向に沿って管轄内にキリスト教禁止令を発布していたが、慶長19年には、前年公布の以心崇伝が起草した禁止令に従い、教会を打ち壊して棄教政策を徹底し、53人を肥前国長崎へ送った。

方広寺鐘銘事件

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」

慶長19年3月には、再建開始から14年目の方広寺大仏殿がほぼ完成し、秀頼の名において全国から鋳物師を集める。 銘文を南禅寺長老の文英清韓に選定させていた梵鐘も4月には完成し、奉行代表として「片桐東市正豊臣且元」の名も刻まれている。棟札の書は三井寺興意法親王による。

5月、家康は且元に対して方広寺の供養の導師に真言宗仁和寺門跡覚深法親王を指名する。7月、後水尾天皇より大仏開眼法要天台宗妙法院門跡常胤法親王を指名する勅命が下される。家康は、開眼法要を8月3日、堂法要の日取りを秀吉の命日である8月18日という指示を出した[25]。18日は、秀吉17回忌の大祭の日となっていたため、且元は、両法要を8月3日とし、早天(早朝)に常胤法親王を開眼、堂法要の導師を覚深法親王とし、終日天台宗僧侶を上座とする。

7月末、板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などに疑惑がかけられる方広寺鐘銘事件が起こる。崇伝と本多正純を中心に調査が行われ、板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。8月13日の夜、大坂城下が静まらない中、且元、大野治長、清韓などが駿府へ派遣される[26]。17日に鞠子宿にて清韓が駿府奉行に囚えられる。

8月18日に銘文に対して崇伝が住職を務める臨済宗の南禅寺及びその下位に属する京都五山の7人の僧侶に検証が命じられ 清韓が銘文に隠し題として「国家安康」と家康の諱を用いたことは不敬とみなされ、更に林羅山より呪詛などと批難された。

19日の入府より、且元は、崇伝らへの弁明に務めたが、家康との会見も無いままだった。しかし、29日に駿府入りした大蔵卿局は家康とすんなり面会となり、鐘銘のことも話題とならずに丁寧に扱われ、家臣の山本豊久は「騙し合い」と評している。9月8日、崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい」と伝えられ、9月12日に帰坂する。

徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明だが、戦争を避けるために「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案するが、大野治房渡辺糺といった淀殿の側近たちから家康との内通を疑われるようになる。 9月23日、織田信雄より薄田兼相らを討手とする暗殺計画を知らされ屋敷に篭り守りを堅める。 秀頼や木村重成からこれを調停する動きがあったものの、28日に高野山に入るとして城を出ることを決め、秀頼側からも不忠者であることを理由に改易が決められる。そこで蔵米や金などの勘定の引き継ぎを済ませると、10月1日に300程の雑兵を率き連れ、弟の貞隆や石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去した。且元は貞隆の茨木城へ入り、勝重に援兵を要請した。 この日は、既に勝重から且元の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康による、徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。

大坂の陣

「大坂夏の陣図屏風」右隻 (部分、大阪城天守閣収蔵)

大坂の陣には家康に人質を送って従属し、10月10日には、且元は土佐国へ大坂への米の回送を禁じている。10月12日には家臣の多羅尾半左衛門を300の兵での救援に向かわせたが既に遅く、迎撃されて半左衛門も戦死に至る。自らも本隊を率いて、海路を進むために尼崎の港を目指したが、上手くいかずに逃げ帰る。

家康が二条城に到着した23日には軍議に加わり、先鋒を命じられる。11月1日には小豆島周辺3ヶ国に物資の回送と大坂城の経済封鎖を命じ、3日には絵図の制作にあたり、5日には今井宗薫ら堺衆の奮戦を賞賛するなど、徳川方に厚い全面的な協力をした。12月、徳川方は真田丸の戦いでの敗戦や兵糧不足の問題などで戦況は思わしくなかった。そこで16日より北側だけでも100門以上の大筒石火矢での攻撃を開始し、18日には且元も家康の砲術方の数十人を率いてこれ加わり、備前島から本丸の淀殿近くへの砲撃などを行った。この戦果が大坂方を講和の席につかせる一つの契機となった。

慶長20年(1615年)1月に隠居を願い出たが許されず、竜田や伏見などに転居の後、4月は駿府に屋敷が与えられた。江戸への拝謁の途上で夏の陣が起こると、4月26日の夜半には竜田城の周辺へ放火が行われた。

5月6日午後、且元は道明寺に到着。7日早朝、久宝寺で将軍・徳川秀忠麾下の弟・貞隆の隊に合流し、軍監・石川貞政、蒔田広定ら諸将と会した。且元・貞隆隊は岡山口への布陣を命じられた。 初陣の嫡男・片桐孝利には家臣の梅戸八右衛門を付けて送っている。

大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元に知らせてきたので秀忠に通報し、豊臣氏は助命叶わず滅亡した。

前年より肺病を患い、家康より送られた片山宗哲の診察を受けていたが、大坂夏の陣から20日ほどした5月28日に京屋敷にて60歳で死亡した。 葬儀は大徳寺で行われた。

且元の跡は嫡男の孝利が跡を継いだが、竜田藩1万石はその甥で4代片桐為次が早世したことで明暦元年(1655年)に無嗣断絶となった。こうして且元の系統は絶えたが、大和小泉藩1万1千石の藩主となった弟・片桐貞隆の家系は明治まで大名として存続して家名を伝え、その子孫は明治になって子爵に叙せられている。

逸話

片桐東市正且元(落合芳幾画「太平記英勇伝七十五」より)
  • 兄の賢珍を継いで、天正17年に近江国草津の芦浦観音寺の住職と、近江国と大和国で合わせて4万石の蔵入地の代官となるが、豊臣秀吉に若き日の且元と石田三成の教育を命じられた。
  • 絵本太閤記』に、山崎の戦い決着後の夜に、死体を装って秀吉に不意打ちしようとした明智光秀の側近の明智光近を討ったという且元の活躍。
  • 『多田雪霜談』によると、天正14年、秀吉により摂津山下城主・塩川長満の攻撃を、池田輝政堀尾吉晴と共に命じられた。山崎の戦いで光秀に味方し逃亡した地黄城能勢頼次の旧領は長満の領地となっていたが、後に秀吉の命で頼次に戻されており、それを九州征伐で頼次が留守になったところで長満が再領有しよう攻撃したためだという。『川西市史』ではこれを別説とし、『高代寺日記』によれば、塩川氏の取り潰しの原因はお家騒動だと記している。また『能勢町史』によると、頼次は島津義弘が能勢郡を在京賄料として拝領していた天正年間に、野間神社の再興願いを聞き遂げられており、秀吉の死後には徳川家康に取り立てられ、関ヶ原の戦いの後に3千石で再興となる。その後、大坂夏の陣の出陣による留守中に、大坂方となった長満の子の塩川頼面が領内に攻め込み、それを頼次を含めた徳川軍が破り、頼次は5377石に加増されている。
  • 慶長19年、豊臣家と徳川家の関係は緊張が高まり、2月17日には家康はイギリス商人より大砲、弾薬、鉛600キログラムを購入。『東武談叢』などによると、前田利長に豊臣家の織田長益と大野治長から、調練の依頼及び軍資金と兵糧の準備完了を報告する密書が送られており、利長は家康へ転送している。6月22日、徳川家康より且元と大野治長は、豊臣家が浪人を召し抱えて調練に励んでいるという風評への憂慮を告げられ、その一方でそれぞれ5千石の加増を受けたとしている。

【安土城考古博物館特別陳列関連講座】11/19(土)「お市と浅井長政」

2016年11月20日 | 講座

安土城考古博物館特別陳列関連講座
『お市と浅井長政』
特別陳列「お市と浅井長政」(10/29〜11/27)の関連企画として、当館学芸員により博物館講座を開催しますので、どうぞ御参加ください。

【日程】平成28年11月19日(土)13時30分〜15時

【講師】当館学芸課 副主幹 ��攴�����【会場】安土城考古博物館2階セミナールーム
(近江八幡市安土町下豊浦6678)

【参加費】200円(資料代等)
入館料は含まれていませんので、特別陳列の観覧には、常設展入館料が別途必要です。

【定員】当日先着140名
(事前申し込みは不要です)

【お問合せ先】
滋賀県立安土城考古博物館
TEL:0748-46-2424

◆主催:滋賀県立安土城考古博物館


石田三成と佐和山城

2016年10月30日 | 講座

 

 

石田三成の略歴

永録8年(1560)頃  近江国坂田郡石田村の領主・石田正継の次男として生まれる。兄は石田正澄。

天正年間       このころ長浜城主となった、羽柴秀吉に仕える。

天正11年(1583)   秀吉の配下として、賤ヶ岳の戦いに参加。

天正12年(1584)   近江国蒲生郡今在家村(元・東近江市)で、検地を行う。

天正13年(1585)   治部少輔に任官

天正14年(1586)   堺奉行となる。

天正15年(1587)   秀吉の九州攻め。秀吉の取次役として島津氏と交渉。

天正18年(1590)   秀吉の小田原攻めに従う。

天正19年(1591)   近江犬上郡・坂田郡と美濃国の蔵入り地(秀吉の領地)の代官となる。

文禄元年(1592)    朝鮮出兵で総奉行として朝鮮半島へ渡る。

文録4年(1595)    関白豊臣秀次失脚後に佐和山城主となり、近江国伊香・浅井・坂田・犬上郡の領主となる。

慶長4年(1599)    加藤清正・福島正則・黒田長政ら7名の攻撃を受ける。

慶長5年(1600)    関ケ原の戦いに敗れ、東軍の攻撃を受けた佐和山城も落城し、父・正継と兄・正澄は自刃。     

            三成も京・六条河原で庄処刑される。

三成と佐和山城

・佐和山城主であったのは、最後の5年間だけで、それ以前は秀吉の代官であった。

・三成は豊臣政権の官領として秀吉の傍にいることが多く、領内に関する文書の多くは父・正継のもの。

湖灯塾、愛されて200回、三成と佐和山城語る

200回目の湖灯塾で石田三成と佐和山城について学ぶ参加者たち(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)

 京都新聞主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が29日、滋賀県近江八幡市出町の京都新聞湖灯ホールで開かれ、1996年6月の初回からこの日で200回となった。彦根市教育委員会文化財課学芸員の林昭男さんと斎藤一真さんが「石田三成と佐和山城」と題して講演した。

 湖灯塾は地域の魅力や課題を読者とともに考える場として始まり、年10回程度開いている。これまでにまちづくりや政治経済、歴史、環境、福祉などさまざまなテーマで講師を招いてきた。

 200回目は、彦根市北部にあった佐和山城で1591年から5年間、城主を務めた三成に焦点を絞った。同城跡の調査に携わる林さんは、「最大の特徴は立地の良さ。東日本と西日本の中間に位置し、陸上交通だけでなく湖上交通も抑えられる」と指摘。「本丸の石垣は人為的に壊された跡があった。彦根城築城の際に使える石は持っていかれたのだろう」と語った。

 斎藤さんは、三成が豊臣秀吉と大名の取り次ぎ役で政策実行責任者だったことを踏まえ、「立場的に不満が三成に集まった。大名は現実主義者なので、関ケ原の戦いで三成を嫌う大名が徳川家についたという単純な図式ではない」と述べた。

 講演後に記念パーティーがあり、滋賀中央信用金庫の南井伝治専務理事が「地域の新聞社が200回も市民講座を開くのは珍しい。300回、400回と重ねていただきたい」と祝福した。

京都新聞【 2016年10月29日 22時40分 】


『琵琶湖図』の謎に迫る

2016年08月21日 | 講座

=9月15日、滋賀の文化財講座=

琵琶湖文化館蔵 琵琶湖図(部分)

◇大津
 滋賀の文化財講座「県立琵琶湖文化館蔵『琵琶湖図』の構図を読み解く(朝鮮通信使とシーボルト)」が九月十五日午後一時半~三時まで、大津市打出浜のコラボしが21で開催される。
 琵琶湖文化館が所蔵する円山応震筆の「琵琶湖図」は、湖畔を行朝鮮通信使行列が描かれることで注目され、平成二十八年三月にはユネスコ記憶遣産の登録候補として日韓共同申請のリストにも掲載された。
 ところが良く見ると構図や描かれた風景などには解釈しづらい点が多く、謎に満ちている。今回の講座(主催=県教育委員会)では、シーボルトの著作『NIPPON』に描かれた琵琶湖図などをヒントに、謎多き絵に新解釈を試みる。講師には、井上優・県教育委員会事務局文化財保護課主幹が予定されている。
 参加希望者は、氏名(ふりがな)・住所(市町まで)・連絡先(電話番号)・この講座を何で知ったかなどを書いて、FAX(077―522―9634)などで申し込む。定員は二百人で、事前申し込み制だが、当日参加も可。詳しくは、琵琶湖文化館(TEL077―522―8179)へ。

滋賀報知新聞2016.8.21


謎多き井伊直虎

2016年07月05日 | 講座
女性がなぜ城主に? 滋賀・彦根、謎多き井伊直虎を紹介
来年の大河ドラマの主人公、井伊直虎が「おんな城主」となった経緯などを語る小和田氏(彦根市中央町・長松院)

 来年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」にちなむ歴史講座が2日、彦根市中央町の長松院で開かれ、戦国時代史の研究者、小和田哲男静岡大名誉教授(72)が、「なぜ直虎は『おんな城主』になったのか」と題して講演した。

 NPO法人「ひこね文化デザインフォーラム」が主催する「歴史手習い塾セミナー」の22回目。連続講座として3日は、井伊直虎に養子として育てられた彦根藩初代藩主直政を取り上げる(受け付け終了)。

 小和田氏は、「江」や「軍師官兵衛」など大河ドラマの時代考証を何本も手掛けており、「おんな城主直虎」も担当する。

 講演では、遠江(現静岡県西部)井伊谷の国人領主だった井伊家が、戦国時代に後継を次々に失い、家の存続のため直虎が領主となったことなどを説明。実際、直虎の名で公文書を発給し、印も通例では成人男性しか用いない「花押」を使った文書もあり、「女地頭、また女城主と呼ばれるゆえん」と語った。

 一方、なぜ名前を「虎」としたかや、生涯結婚しなかったかなど「謎が多い」といい、「ドラマでは脚本家の腕の見せ所」と話して約120人の参加者を笑わせた。

【 京都新聞 2016年07月03日 11時25分 】


講座:『信長文書の 世界』

2016年06月21日 | 講座

滋賀の文化財講座「打出のコヅチ」

第2回信長文書の世界

織田信長というと、古いしきたりや秩序にはとらわれず、新しい時代を切り開いた革命児といったイメージが広く定着しています。

しかし、信長の政策をみると、意外なほど現実的で、戦国末期という時代の枠組みのなかで行動していたことがわかります。

信長の実像と一般に流布しているイメージとの間には大きなギャップがあるのです。



今回の講座では、少し角度を変えて、信長が発給した古文書を題材に、信長の実像に迫ります。古文書に書かれた内容だけでなく、手紙の書き方、紙の選び方など、新たな古文書の見方を通して、これまでとは違った織田信長の姿をご
紹介します。

 

          

   

        

               

      

    
   

1.日時 平成28年6月16日(木) 13:30〜15:00
                    ※13:15受付開始

2.場所 コラボしが21(大津市打出浜2−1) 3階大会議室
     JR膳所駅より徒歩約15分 京阪石坂線石場駅より徒歩約5分

3.講師 松下 浩(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課副主幹)

4.主催 滋賀県教育委員会(主管:文化財保護課) 滋賀県立琵琶湖文化館

5.後援 滋賀県文化財保護連盟、公益社団法人びわこビジターズビューロー

6.募集人数 200名(事前申込制 ただし当日参加も可)

7.聴講料 無料