城郭探訪

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石田三成は住みづらかった? 滋賀・佐和山城、湧水多く排水溝

2015年05月30日 | 戦国山城

石田三成は住みづらかった? 滋賀・佐和山城、湧水多く排水溝・・・・京都新聞

建物跡から出土した溝(手前)。幅が1・2メートル以上あり、石積みが一部に施されている(彦根市佐和山町)

 石田三成(1560~1600年)の居城・佐和山城跡(滋賀県彦根市佐和山町)を発掘調査していた彦根市教育委員会は28日、排水機能を持った溝を確認したと発表した。一帯は武家屋敷や内堀があったと伝わる場所で、市教委は「湧き水が多く居住に適さない場所に屋敷地として大規模に造成したようだ。交通の要衝にあった佐和山城の重要性があらためて分かる貴重なもの」としている。

 溝は建物跡の区画を仕切っており2本出土した。1本は南北に長さ18メートル、幅0・6~0・8メートルあった。別の1本は東西に長さ約15メートル、幅は1・2メートル以上あった。発掘範囲が狭く建物跡が武家屋敷であったかどうかは判断できないという。

 城の内堀や土塁も出土した。内堀は幅約24メートル、深さ1・7メートル以上あり、本丸側にある台形状の土塁は、下幅11・2メートル、上幅6・4メートル、高さは4・5~2・3メートルあった。土塁側面に石垣はなかった。

 いずれも出土した陶磁器片から三成が城主だった16世紀後半の遺構であるという。

 調査は、江戸時代後期の絵図に描かれている本丸の表玄関にあたる大手口周辺の3カ所計200平方メートル以上で実施した。本丸跡から東に730~780メートル離れた地点になる。

 県教委は2009年、今回の調査場所の北側で武家屋敷の堀跡や豊臣秀吉が好んだ紋様の紐(ひも)金具を確認している。

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行畑(ゆきはた)館 近江国(野洲)

2015年05月28日 | 館跡

お城のデータ

所在地:野洲市行畑2丁目9−1http://yahoo.jp/LKFJ7R

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:

現 状:現・野洲高校学校敷地

遺 構:堀痕

目標地:野洲高校学校

訪城日:2015.5.27

お城の概要

 行畑館跡は、現在野洲高校の敷地となっており、地籍図にあるような遺構は消滅しています。ただし、集落を囲っていた外堀の西側部分が、古図そのままに現在も水路として残っています。

すぐ北側には旧中山道で、重要な位置にある館と思われますが、伝承などは残っていないため、謎のまま失われてしまった城館といえます。

旧地籍図に堀で囲まれた六角形の小区画があり、城館跡と考えられている。この区画のある小字古里には、天正年間(1573~92)まで行畑の集落があったといわれている。地籍図では古里全体が環濠状の水路に囲まれており、館と集落の外堀の役割を果たしていたものと推測される。

 「行畑の現集落は天正年間に移転したものと言われるが、その旧位置とされる小字「古里」(現野洲高等学校)は全体が環濠集落的であり、また、その中には堀と思われる水に囲まれた一画があり、中主町虫生館の場合に類した館跡と考えられる。」

朝鮮人街道
  朝鮮人街道とは、滋賀県野洲市行畑で中山道から分岐し、琵琶湖東岸を北上し、彦根市鳥居本で再び中山道に合流する約41kmの街道です。元々琵琶湖舟運の港を繋ぐ、陸路として便利だった道を、信長が幹線道路として整備し、その後、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた家康が凱旋した時に通ったという、めでたい道として、将軍上洛や外交使節の通行の際にのみ使われた。 鎖国時代、唯一の外交関係があった、朝鮮からの外交使節が通ったので、この朝鮮人街道の名前がついた。


   朝鮮通信使について
   この場合、通信とは情報を交換するという意味ではなく、「信(よしみ)を通ずる」の意味で、親善友好使節団のことである。使節団の一行は正使、副使のほか、軍人、書記、医者、学者、画家、書家、薬師、曲芸師などで編成され、約400人に及んだ。太鼓などを打ち鳴らし、楽器を演奏しながら、曲芸を見せながら華やかに賑やかに、進んだといわれる          

参考書:「歴史の道調査報告書 朝鮮人街道 」(滋賀県教育委員会)   

 行畑の背競地蔵(せくらべじぞう)
814 年、弘法大師が全国行脚の途上、光明皇后とその父藤原不比等の菩提を弔うため、この地を訪れ妙光寺山の大岩壁に不動明王の像を刻まれました。ちょうどそのころ、全国に悪疫(疱瘡ほうそう)が流行し、人々が難渋していたので、悪疫退散の大護摩を焚き、祈願会も勤められました。そのとき、自らの手で大小二体の地蔵菩薩を行合村の三叉路に建立されたといわれています。
三上の郷には日陽山、東光寺があり、毎年勅旨、院使が参向していました。中山道と別れてお成り街道ともいえる参道にかかるこの三叉路で、勅旨の一
行は行列を整え、勢揃いするのを例としたので、これにちなんで「勢揃(ぜぞろえ)地蔵」と呼んでいました。ところが、この地蔵があまりにも大きいので、近郷の親たちが「我が子もこの地蔵くらいになれば一人前だ」と背競べをさせるようになり、いつの間にか「背競地蔵」と呼ばれるようになったようです。

●「造り物」はどうして「一式」にこだわるの?
地蔵祭りに華を添えるのは造り物です。                                                                                       1635 年、徳川家光が実施した参勤交代で中山道は人馬の往来が頻繁になり、人々が近くの村から街道沿いに移り住むようになりました。
 住民のほとんどは農民であり、7 月の祭の頃は田植えや草刈りを終え、骨休みのくつろぎと農(みのり)への感謝から農具を用いてめでたいものを作る
ことを考えたようです。最初は農具一式の造り物を参詣の人たちに見せた娯楽だったものが、時代を経て、材料も仏具や婚礼用品、スポーツ用具など幅が広がりました。ただし、用途を同じくするもの、あるいは材質を同じくするものという「一式」のこだわりは今も受け継がれています。※《参考》愛宕地蔵祭り造り物保存会資料

 

 参考資料1 滋賀県中世城郭分布調査 3 (旧野洲・栗太郡の城)、淡海の城

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長束氏館(大蔵屋敷) 近江国(草津)

2015年05月28日 | 館跡

  

お城のデータ

所在地:草津市長束町大蔵 map:http://yahoo.jp/e4HMZl

区 分:居館

築城期:平安期

築城者:水口盛里(長束盛里)

現 状:竹林・農地・宅地

遺 構:竹林に土塁・堀跡(用水路)、菩提寺

目 標:長束町の春日神社・養国院

訪城日:2015.5.27

お城の概要・歴史

豊臣政権五奉行の一人・長束正家の生家、居館。

正家の父である水口盛里が長束村に移住して館を構え、長束氏を名乗った。

長束集落内の「春日神社を中心とした発掘調査で土塁や柱穴が確認され、この地に館があったと推測されている」。

「長束」の地名は長束一族が平安時代、比叡山の領地を束ねる長だったことが由来とのこと。

今もこの地に7、8軒の長束姓があります。

今、「長束老人憩いの家」として使用されている場所は、長束正家を弔うために建立された養国院があったといわれ、阿弥陀如来と長束正家の母(または息女)の位牌のみが残り、現在も地元の七人衆と呼ばれる人たちが守っています。

「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは来迎員阿弥陀寺、正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

 この地の出身である長束正家は算術に優れ、秀吉五奉行の一人として活躍しました。太閤検地や朝鮮出兵の食料の手配・大阪城や聚楽第の資材管理・経理など事務方としての才能を発揮し、大蔵大輔まで務めた武将でしたが、関ヶ原の戦いで西軍につき追われました。

 正家が密かに秀吉をまつったとされる春日神社には木造の秀吉像があるといわれています。小さな神社ですが地元では「天神さん」と呼ばれ、2~3年に一度サンヤレ踊りが奉納されます。

1502年に作られたという古い獅子頭は市の指定文化財で祭りなどの際に見ることができます。

長束正家

【生誕から五奉行と呼ばれるまで】

1562年:水口盛里の長男として近江国 長束村で生まれます。最初は丹羽長秀に仕えていましたが秀吉に仕えてからは、秀吉の蔵入地管理、太閤検地の実施などで手腕を発揮します。小田原討伐では兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍します。朝鮮出兵の際も兵糧奉行として活躍し1595年近江水口城5万石を拝領し五奉行の末席に名を連ねます。

【秀吉亡き後の正家の人生】

 関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、本戦に参加できず、西軍が壊滅後は捕らえられて切腹させられます。

【大蔵屋敷のあった春日神社】


 「長束大蔵大輔正家候菩提所」と刻まれた石碑が門の脇にあるのは阿弥陀寺です。正家の位牌があると伝えられ、昔は300坪の大蔵屋敷があったとか。今では無住となった寺と「大蔵」という小字名だけに名残をとどめています。

長束正家(なつか・まさいえ) 1562~1600

 豊臣家臣。近江国栗太郡常盤村の出身。通称は新三郎・利兵衛。大蔵大輔・従四位下・侍従。
若くして算術に長じ、丹羽長秀・長重に仕えて財政処理に敏腕を振るっていたが、これを聞いた羽柴秀吉が長秀没後の天正13年(1585)頃に1万石で召抱え、貢租会計を管掌させた。この頃に従五位下・大蔵大輔に叙任。豊臣政権五奉行の一人でもある。
紀伊征伐・九州征伐・小田原征伐などの大掛かりな戦役においては、兵糧奉行として裏方から秀吉の軍事行動を支えた。朝鮮の役には糧食の輸送に活躍した。

天正19年(1591)閏1月には増田長盛らと共に近江国の検地を実施した。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役では肥前国名護屋城に駐屯。
文禄3年(1594)の伏見城工事を分担している。
文禄4年(1595)6月に近江国水口城主5万石となり、のちには12万石に加増された。
慶長3年(1598)、越前国の検地を実施。
秀吉の死後は徳川家康に近づき、石田三成の暗殺計画を知らせたりしたが結局は三成に味方し、東下中の家康を居城の水口で謀殺しようと目論むも失敗する。
関ヶ原の役では西軍勢力として伊勢口を固めて、伊勢国安濃津城を攻めた(安濃津城の戦い)。15日の関ヶ原の合戦では南宮山に布陣したが、吉川広家に遮られて帰城。10月3日(月日に異説あり)、池田長吉に欺かれて出城し、近江国佐久良谷で自刃した。法名は大心院殿速成居士。

集落には、堀痕(区画整備・圃場整備で改変されるが)が残る。

竹林の土塁

土塁遺構の残る竹林(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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光秀の坂本城、軍港備え威容誇る 大津に江戸期の絵地図

2015年05月27日 | 館跡

光秀の坂本城、軍港備え威容誇る 大津に江戸期の絵地図・・・京都新聞

 「字城屋敷」と書かれた江戸時代の絵地図。東南寺も屋根が描かれている(叡山文庫所蔵)

 戦国武将明智光秀が湖岸に築いた坂本城について、大津市の郷土史家が、発掘調査では分かっていない城主の住まいや軍港の位置、内堀の長さなどについて、独自の研究結果を冊子にまとめた。

調査のなかで、坂本城の本丸跡一帯が江戸時代に「城屋敷」と呼ばれたことを示す絵地図を発見した。・・・・大津市教委文化財保護課は「貴重な資料となりうる」と話している。

 大津市唐崎3丁目の松野孝一さん(74)。坂本城は、戦国時代に各地を見聞した宣教師ルイス・フロイスが「豪壮華麗」と書き残しており、たびたび茶会が催されるなど風光明媚(めいび)な城だったことが文献で分かっている。

 しかし短命だった上、発掘調査も進んでいないため、本丸や内堀の一部が部分的に分かっているだけで、多くは謎に包まれている。松野さんは、大津市坂本の叡山文庫所蔵の資料や地元住民が保管していた古地図、神社の由緒書など幅広く資料を集め、現在の地名や地形と照らし合わせて、城造営の歴史や光秀の事業を検証した。

 調査中に松野さんが発見したのが、叡山文庫所蔵の絵地図「東南寺付近城屋敷領地域図」。

廃城後の江戸時代に書かれた地図で、本丸跡から西に約60メートルの東南寺までの「字(あざ)城屋敷」の土地所有者が書かれている。

日吉大社の関係者の名前が見られるのが、「山王(日吉大社の意)の土地に新城普請なり」と書かれた1572(元亀3)年の文献とも合致するため、松野さんは「ここに光秀の屋敷もあったのでは」と考えた。

 また、松野さんは、現在は山王祭の船渡御が出る七本柳の浜(下阪本1丁目)が築城当時もあったことを確認。光秀は浜を軍港として活用、二の丸と三の丸を分ける内堀は総延長約780メートルに及んだと結論づけた。

 坂本城発掘に携わった同文化財保護課の吉水眞彦さんは「字城と書かれた明治時代の地図はあるが、字城屋敷の表記は初めて見た」と話した。

松野さんは「光秀の屋敷や軍港が分かってきたので、坂本城の威容が色づいて見えてきた」と話している。

 調査を機に、松野さんのガイドで周辺を歩くイベント「明智光秀の屋敷跡を歩く」が5月30日に開かれた。松野さんTEL077(579)5464へ。

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布施山城 近江国(八日市)

2015年05月26日 | 戦国山城

東近江布施山城見学会

布施公園には、もう参加者が30人。緑の布施公園で小学生クラブがサッカーの練習。

お城のデータ

所在地:東近江市布施町 (旧八日市市布施町)  map:http://yahoo.jp/Juu07P

築城期:室町期

築城者:布施氏

城 主:布施三河守

区 分:山城

遺 構:土塁、井戸、畝状竪堀(西側)・くぐり門

現 状:山林

訪城日:2015.5.24

お城の概要

布施氏は佐々木六角氏の家臣であり、本家筋といわれる布施三河守家と、布施淡路守家に分かれていた。布施山城の城主は布施三河守家であり、布施淡路守家の城は、東方5kmにある大森城。

永禄6年(1563)に、六角氏被官の後藤氏が六角義弼に観音寺山城内で誅殺され、これに反発して家臣が自領へ引き上げた「観音寺騒動」が起きた際、永禄9年(1566)、布施三河守は布施山城に拠って、浅井氏と呼応して六角氏に反旗を翻した。

この騒動は、蒲生氏の調停によって収拾されたが、六角氏の権限を制限した「六角式目」が制定されました。

布施三河守は永禄11年(1568)の織田信長の近江侵攻の際、この城に籠もり戦いましたが敗れて廃城となりました。

塚越から尾根伝いに登ります。城址で長谷川博美先生の説明城址で長谷川博美先生の説明 平内屋敷

大手道も削岩の矢穴跡(近世のもの)

山麓の茶質屋敷へ

築山庭園の説明

布施の溜の登城口の石仏(城守)

布施公園で参加記念撮影

見学者の記念撮影

  布施山城ポスター写真.docx (648.3 KB) ダウンロード |

日時  5月24日(日) 午前10時〜午後3時

東近江市布施公園駐車場に集合

(昼弁当持参で参加) 塚越から尾根伝いに登ります。

城址で長谷川博美先生の説明を聞きます。

昼食後、別ルートで降り、布施公園で、お茶会。

多数参加して下さい。参加費 500円

:市辺地区まちづくり協議会(市辺コミセン内)電話/fax 05058023392


東野館 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 館跡
東野山館
お城のデータ
 
所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町東野  map:http://yahoo.jp/20J4bD
区 分:居館
現 状:寺院・神社・森林
築城期:鎌倉期
築城者:東野氏
廃城期:織豊期
標 高:
遺 構:法照寺には東野豊前守の墓・説明板
目標地:法照寺・八幡神社
駐車場:八幡神社
訪城日:2015.5.23 
 
お城の概要

東野館は東野山城の西麓、法照寺・八幡神社の南西側付近にあったと云われる。 ちょうどこの辺りから東野山城への登山道もある。 館の遺構はないが、法照寺には東野豊前守の墓が残されている。

歴史

東野氏の居館と云われる。

東野の読みは「とうの」あるいは「ひがしの」ではっきりとしないが、東野山城に合わせてここでは「とうの」とする。(旧東浅井郡浅井町にも東野館があり、こちらは「ひがしの」と)

東野氏は常陸国佐竹氏の一族佐竹行重が伊香郡東野村に封ぜられて、東野豊前守と称したことに始まるという。また一説に東野周防守行一が祖ともいう。

東野氏は浅井氏に従い、滅亡後はその一族が山内一豊に召し出されて土佐へと移った

東野豊前守の墓東野豊前守の墓東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
参道法照寺法照寺
 
武家としての東野氏

近江は鎌倉時代より代々佐々木氏が守護職を世襲し、室町時代には佐々木氏信を祖とする京極氏が北近江を、佐々木泰綱を祖とする六角氏が南近江を守護として治めていた。1467年に応仁の乱が始まると、京極持清と六角高頼はそれぞれ東軍と西軍に分かれて互いに争うようになる。この時東野氏は京極氏の配下として、他の北近江の小領主と供に出陣した。東野氏は東野の東方東野山に居城を築き本拠地とした。

 行重の嫡男・周防守行信は、京極氏から余呉庄の地頭に任じられる。1510年、行信は鳥居本での京極高清と六角氏綱の戦いにおいて、磯野員吉・井口宮内らとともに京極方として出陣し戦功を挙げる。その後も京極氏に従い転戦するが、一族から多くの戦死者を出すことになる。

 京極家の実権が浅井亮政に握られると、浅井氏に仕えるようになる。三代目浅井長政が織田信長に敗北する寸前まで浅井を支えたが、1573年に浅井氏が滅亡した後には、東野に戻り閉居した。 『東浅井郡史』によると、東野左馬助政行、千田采女正・西山旦右衛門らは防戦し、浅井久政の自害を助けている。

 東野山にあった居城は、1583年の賤ヶ岳の戦いの際に堀秀政が砦として再構築し、実戦で使用された。現存する遺構も、その当時のものと考えられている。

  行信の長男、左京進秀行は武士をあきらめ、曲直瀬道三に医学を学び余呉中之郷で医業を始める。秀行の長男左京進行是は、一旦は丹羽氏に仕え千二百石を与えられるが、後に浪人すると中之郷に帰り医業を継いだ。

 秀行の次男左馬助行信は、1585年近江国長浜城主となった山内一豊に召抱えられ、三百石を得て再び武士となる。小田原征伐、関ヶ原の戦いに出陣し功をなす。関ヶ原の戦いの後、徳川家康から土佐国一国を与えられた一豊に従い、土佐に移る。そのため、土佐東野と近江東野と、系譜が別れる事になる。行信は七千石を与えられ、伊予守を名乗る。山内氏の重臣のひとりとなり、明治に至るまで代々高知城主の家臣として仕えた。行信の子、幸政は千四百石を与えられ、江戸城や丹波篠山城の普請に関わった。大坂冬の陣には中備えの大将として従軍し功をあげた

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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摺墨越え遺構  近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

摺墨越え遺構


摺墨越え遺構の図の踏査図の説明中!講師:長谷川博美氏「城郭研究家」

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町摺墨      map:http://yahoo.jp/egOWHn

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・竪堀

現 状:山林

標 高:460m 

目標地:東野山砦

訪城日:2015.5.23

 
林道を今市上砦へ

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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天神山砦 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 
 
  
 
 
現地の縄張図
東郭の西側堀切・土橋

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:伊香郡)余呉町国安・天神前   map:http://yahoo.jp/jAjZwc

築城年:織豊期  天正11年(1583)

築城者:羽柴勝豊(大金藤八郎:山路将監正国、木下半右衛門利久)

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:210m 比高差:60m

目標地:草岡神社

訪城日:2015.5.24

東郭の虎口

お城の概要

天神山砦は北東へ張り出した丘陵の頂部に築かれており、先端に茶臼山砦がある。

天神山砦は東西二郭を中心とした砦で、西郭の方が高所にあり主郭と見られる。

西郭は南北に長い曲輪を土塁が巡り東側に虎口が開く。虎口は平入で主郭の周りを腰曲輪が巡り、北尾根と南尾根に堀切を設けて遮断する。南はさらに小郭があり、その先は深い自然の鞍部となっている。

東郭は一番良く整備されている曲輪で、土塁で囲まれた曲輪の北側に屈折した虎口が開く。南は深い空堀に土橋が架かり、更に小郭と堀切を経て西郭へ続く。東郭の周囲には腰曲輪が巡り、北に虎口があるが、薮が激しく形状は把握し辛い。

天神山砦の北端部は自然地形の緩斜面であるが、この側面に一部三重となった横堀が巡らされており、見所の一つである。

  中央の鞍部で東と西に分かれる。東西の頂部に土塁と腰郭が廻る郭が設けられ、尾根筋は堀切で防御を固めている。
東の主郭と腰郭の虎口は東側に開かれ外枡形を備えている。腰郭の東15m程の所に三日月状の身隠し(塹兵壕)、その10m先にも浅い横堀と低い土塁があり、これも身隠しと考えられる。さらに東に緩やかに傾斜する郭の先端が二重の身隠し。尾根先の南北に竪堀が設けら、その北東が鞍部を隔てて茶臼山砦となる。主郭の南に数段の段郭がある。
西の郭は西側に鞍部を利用した二ヶ所の堀切を穿ち、堀切間に塹壕状の小郭を設けている。北尾根にも一本堀切が入っている。主郭は繭玉状で土塁が廻る。腰郭にも要所に土塁を設けている。虎口は主郭の南、腰郭の南東に開くが平虎口である。
東西の郭を連絡する犬走りが南側に走っている。
この砦は、羽柴軍の最前線基地で北国街道の通る狭い谷筋から盆地へと地形が最初に変化する所で、柴田軍の南下を押さえる絶好の位置にあり、城域も370m×70mで羽柴軍の陣城中では田上山城に次ぐ大きさを持つ砦で、羽柴軍の戦略上重要な位置を占めた砦でることが分かる。

歴史

 天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際には、前年暮に羽柴秀吉軍に降った長浜城主・柴田勝豊の与力の大金藤八郎や山路将監正国、木下半右衛門利久らに砦を築かせ、丹羽長秀の兵らとともに守備させたが、目前の行市山から林谷山の尾根筋に柴田勝家軍が長期戦に備えた陣を布いたため、天神山砦は高所より圧迫され守備が困難となり、秀吉はこれを放棄し、堂木山・神明山へと最前線を後退させ、東野山砦とともに北国街道封鎖ラインとした。

 前線を下げた秀吉は、大金藤八郎・山路将監正国を神明山に移し木村隼人と同陣させたが、後に浮説により二人を堂木山に移したとされる。東主郭の土塁

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

草岡神社より、天神山砦へ
神社の鳥居そばに説明板
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 神社の背後が砦。神社の西へ獣害フェンスの扉から遊歩道(城道)を登る

道案内        map:http://yahoo.jp/jAjZwc

 木之本から北に国道365号を6.7km程行った片岡郵便局を過ぎた直ぐの信号で左折する。西に道なりに400m程進むと草岡神社に至る。その裏山が砦跡である。神社付近に駐車し、神殿に向かい左背後の山道を10分程登れば砦跡に着く。神社の鳥居そばに説明板がある。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

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今市上砦(久太郎小屋) 近江国(余呉)

2015年05月24日 | 

久太郎小屋

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋)
 
小字西陣東陣「今市上砦」、黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

 
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
天正11年の賤ヶ岳の戦いにおける城塞群の中で、秀吉方の砦の内最も北に位置する最戦線が今市上砦。
天神山砦の東、今市と東野の集落に張り出すようにある尾根の標高420mピークに今市上砦はあり、遺構は三ヶ所に分かれている。
上の砦は尾根のピークにあり18×16m四方の単郭で、北東の土塁は最高3mの高さの物見櫓跡南の尾根先約100mの所に堀切があります。
下の砦は、南西方向に90m尾根を下がった斜面にあります。20×13m全周に土塁の痕跡が見られます。北東と南西の角に虎口があります。
東の土塁の外側の溝状のものは山道で、この尾根の上をふもと近くまで続いています。西20mmの所に堀切があります。
砦に入る前に、事前説明
 
ここから、今市上砦域
 
文献に登場する黒田官兵衛の今市上砦(久太郎小屋=武者小屋=宿所)
 
横堀(塹兵壕)塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ

お城のデータ

所在地:長浜市余呉町今市小字西陣東陣(伊香郡余呉町今市小字西陣東陣)

      map:http://yahoo.jp/c8bJMeこの地図のURL

築城者:堀久太郎

区 分:砦(山城)

遺 構:土塁・堀切・桝形虎口・横堀(塹兵壕)・竪堀

現 状:山林

標 高:420m 

目標地:東野館

訪城日:2015.4.23

お城の歴史

文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命

歴 史
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山砦

2015年05月24日 | 

事前の予備知識・自習

   本能寺の変後に明智光秀を討った羽柴秀吉は、織田信長の後継者を決める「清州会議」を主導し後継者を信長の嫡孫「三法師」と定めた。 これによって、三男の信孝を推薦した柴田勝家との不和は決定的なものとなった。

天正11年(1583)2月、柴田軍が北近江に侵攻し、勝家は本陣を内中尾城(玄蕃尾城)とし、行市山・林谷山・中谷山・橡谷山・別所山等に陣城を構えた。

一方、秀吉は3月以降、左禰山(東野山)・神明山・堂木山・田上山・賤ケ岳等に陣城を築き対峙した。

羽柴方から見た賎ヶ岳古戦場鳥瞰復元図

両軍の陣形

4月20日、秀吉が大垣城に入った間隙をぬって、柴田方の佐久間盛政・柴田勝政兄弟が、余呉湖の南、賤ケ岳の麓を通り、中川清秀の守る大岩山砦と岩崎山砦を急襲し清秀は討死する。

 大垣でこの変報を聞いた秀吉は、急遽軍を移動させ、50キロの道程を5時間で走り通し、午後9時には木之本に到着した。「秀吉来る」の報に接した佐久間軍は、退却を始めた。

 21日未明、賤ケ岳切通附近で退却する勝政隊に、秀吉は銃撃を加えて動揺させ、馬廻隊が突撃した。 世にいう「賤ケ岳七本槍」はこの時の事で、勝政隊に大打撃を与えた。

そしてこの敗北で、前田利家が陣地を捨てて敦賀方面に脱出し、柴田軍は全軍が動揺し、秀吉軍が全面攻撃に出たので勝家本隊も敗北、勝家は馬印を毛受庄助に渡し、北ノ庄目指して落ちのびた。

賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦・勝家の天神山見学会

久太郎小屋の銃座柴田方軍(柳ケ瀬方面)へ
天神山城は、一城二郭・・寄り切り
久太郎小屋探索 天神山城見学会
 2015/5/23 前日職員が林道の樹木伐採に奮闘、研修バスは爽やかに新緑の林道を行く。
 
先ず和歌山から来られた方の為に東野山城を特別見学
虎口
次に摺墨越え遺構。
摺墨越え遺構の説明
賎ヶ岳合戦 初期第一線陣地、黒田官兵衛の今市上砦の概略説明
 
 
 
文献に登場する黒田官兵衛(久太郎小屋跡見学)
 
小字西陣東陣「今市上砦」に到着、
黒田官兵衛の久太郎小屋と思われる未知の城に興奮
黒田官兵衛に指示!賤ヶ岳の合戦で、秀吉の文書

官兵衛に指示秀吉の文書

秀吉が賤ケ岳合戦の戦い方を指示した文書

 豊臣秀吉の天下統一の足掛かりとなった賤ケ岳合戦(1583年)で、秀吉が部下の黒田官兵衛らに戦い方を具体的に指示した文書が初めて見つかったと長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が10日、発表した。同博物館は「秀吉の戦略が垣間見られ、貴重」としている。

賤ケ岳合戦「砦小屋壊し援軍待て」 参戦の事実裏付け

 長浜城にいた秀吉が総攻撃の20日ほど前に前線の弟、秀長へ出した。署名にあたる自身の花押(かおう)もある。

 自陣の砦(とりで)周囲にある小屋の撤去を秀長や官兵衛が手伝うよう指示した上で、壊してできた空き地へ翌日に軍勢を送ると伝え、「味方が着くまで撤退してはならない」と命じている

塹壕堀に銃座柳ヶ瀬方面へ
 
勝家は、大岩山攻撃のはじまる以前の4月5日東野山堀久太郎秀政を攻めたことがある。
そのときの状況を秀政秀吉に報告した下書きが残っている。
 「今朝卯の刻より敵の惣人数押出し、柳ヶ瀬川原口に13段、山上に5段に構え、当佐弥山城(東野山)へ取寄せ柴田と相見え、自身金の五幣をふり責め懸りましたので、拙者も若輩ながら御配下に召し加えられた折でもあり、世間体もあり、自分に似合わず、白い釆を振って下知仕益した。鉄砲どもを入れ替え入れ替え撃たせ敵の手負い数百人ありました故、1~2町引き退きました。いよいよ手前の儀は固く守るよう申し付けました。お気遣いなさらないよう尚相変わったことがありましたら追々申し上げます。」
  己刻 卯月5日   久太郎
 
 
ここで名物賎ヶ岳弁当の昼食、特性弁当「賤ヶ岳の合戦 七本槍」

                                                                                                                                    

昼食後、今市上砦 郭南の堀切・土橋へ

 

参加者の見学記念撮影

曲郭2へ

山道を東野山館まで下山、
東野豊前守の墓八幡神社八幡神社
 
 
 
研修修バスで草岡神社に至り、
木陰で暫し休憩、
素晴らしい城郭遺構天神山城の二カ所の陣城を見学。

 

講 師 愛知中世城郭研究会 長谷川博美氏

参考資料:城郭フォーラム【今市上砦・天神山城見学会レジュメ】・滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城

           本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!


週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2015年05月17日 | 番外編

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
2015.05.16(土) 1258 PV 285 IP 1979 位  / 2182639ブログ
2015.05.15(金) 1245 PV 253 IP 2225 位  / 2182082ブログ
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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

日付閲覧数訪問者数ランキング
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2015.05.03 ~ 2015.05.09 9538 PV 1897 IP 2056 位  / 2178203ブログ
2015.04.26 ~ 2015.05.02 7993 PV 1737 IP 2354 位  / 2173476ブログ

トータルアクセス数

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柏原御殿  近江国(山東)

2015年05月16日 | 居城

 

お城のデータ

所在地:米原市柏原 (旧:坂田郡山東町柏原)

   map:http://yahoo.jp/unBp1Hこの地図のURL

別 名:御茶屋御殿

区 分:居館(御茶屋御殿)

標 高:150m 比高:0m

現 状:公園

遺 構:井戸・城跡碑・現地説明板

築城期:江戸期元和9年(1623)

築城者:徳川幕府 二代将軍秀忠

廃 城:元禄2年(1689)

城 主:徳川幕府

駐車場:路上駐車

目標地:

訪城日:2015.5.15

お城の概要

現在も国道21号線から北へ一本道を入った所には江戸時代の柏原宿の町並みを色濃く残している。 御殿跡は小公園となっており、石碑と案内板が建てられている。

 柏原御殿は旧中山道・柏原宿の町並みの南外れに位置し、現在では小公園に整備され井戸が残る。

 近くには京極氏の菩提寺である清滝寺徳源院がある。また、後醍醐天皇の側近で、鎌倉幕府討伐の中心人物であった北畠具行が、京極道誉の助命嘆願にも及ばすこの地で処刑され、墓が建てられている。

 現地案内板より

歴 史

柏原御殿は江戸時代の初め、将軍上洛下向(京都・江戸間の通行)の際の宿泊・休息を目的として、街道の各所に設けられた館である。
 近江では、こうした御殿が柏原御殿のほかに、野洲の永原御殿、水口の水口御殿(水口城)があり、これらを「近江三大御殿」と称された。

 天正16年(1588)徳川家康が上洛の際、統治の西村家で休息。以後中山道通過の際の恒例となっていたが、通過が頻繁になったため、元和9年(1623)二代将軍秀忠が殿舎を新築。以後、御殿番をおいて守備してきた。

 その後、徳川幕府の勢力増大につれて将軍上洛は減少、元禄2年(1689)ついに当地御茶屋御殿は廃止された。
 家康の頃から約百年の間に、記録にあるだけのものを合わせて14回使用されている。元禄4年(1691)の記録では総敷地壱町九畝余、その他御守殿跡一畝八歩とある。

勝専寺の門が御殿の門と伝えられている。(現地案内板を編集) 

柏原宿の地は交通の要衝でもあったため、古くは豊臣秀吉の蔵入地、その後は徳川幕府の直轄地であったが、享保9年には大和郡山藩領となり明治に至った。

 道路脇には案内板と石碑があり、その背後に御殿の井戸だけが残っている。

 御殿跡は、これと云って見るべきものはないが、柏原宿は江戸時代に約500軒もの店や宿がひしめく中山道の中で大規模な宿場町であった。         旧中山道に面した通りは、宿場町の風情を今でも堪能することが出来る。

柏原宿は、柏原駅から西側の旧中山道沿いに江戸時代の面影を残す町並みが続き、歴史資料館もある。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!                                           


柏原城 近江国(山東)

2015年05月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)清滝288    map:http://yahoo.jp/BLjjND

区 分:平城

標 高:150m 比高:0m

現 状:徳浄院

遺 構:城跡碑

築城期:鎌倉期

築城者:柏原為永

城 主:柏原為永・佐々木信綱・京極氏信

駐車場:徳源院の参拝者用無料駐車場

目標地:徳源院

訪城日:2015.5.14

お城の概要

 柏原城は、城の遺構としては城跡碑のみ、徳浄院の片隅に城石碑が建てられているだけだ。 

境内には、京極氏歴代の墓が国の史跡に指定され、本堂・位牌殿・三重塔(江戸時代に)丸亀城主京極高豊が建立)があり、回遊式庭園(見学には要予約)がある。

      二代目道誉桜(京極家5代目当主・京極道誉が植えたと伝わる しだれ桜)

三代目道誉桜

歴 史

 柏原城は、築城年代や築城者については定かでないが、鎌倉時代初頭に柏原為永が居城していたが、正治2年に後鳥羽院から討伐の宣下され、佐々木信綱によって討伐された。 この功により、柏原城は佐々木信綱に与えられた。

 信綱四男氏信が柏原城を相続して京極佐々木氏の居城となったが、その後氏信は太平寺城へと居城を移し、弘安9年に柏原城跡に菩提寺清瀧寺徳浄院を建立した。

  本堂裏に、清滝山の自然林を借景に回遊式の庭園があり、春には道誉桜と称されるしだれ桜が趣きを添えます。もにじや堂前に群生する萩が咲きこぼれる秋の風情も格別とか。小堀遠州庭園。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia・

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!


箕浦氏館 近江国(山東・柏原)

2015年05月14日 | 館跡

お城のデータ

所在地 : 米原市(旧・坂田郡山東町)柏原字今川    map:http://yahoo.jp/PuM5Kl

別 名:柏原代官所

区 分:居館

築城期:室町時代初期

築城者:箕浦次郎左衛門

城 主:箕浦次郎左衛門・箕浦次郎左衛門

遺 構:井戸・説明板

目標地:柏原宿歴史館

駐車場:柏原宿歴史館の駐車場

訪城日 :2105.5.14

お城の概要

  箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

 箕浦氏館は、街道警備が役割とされ、中山道沿いの柏原宿歴史館と向かいあった位置に存し、間口、奥行きとも約100mで四囲に堀、土塁、石垣をめぐらし、本丸、二の丸の構えがあったとされる。
昭和33年まで跡地には柏原小学校があり、四囲に石垣が残っていたようであるが、現在は消失し古井戸が残るのみとなっている。

お城の歴史

 箕浦氏館は、京極道誉が中山道監視のために、その将である箕浦次郎左衛門を置いた所である。

箕浦氏は、京極氏の重臣で、近江源氏山本判官義定の孫・義明が東山道と北陸道の分岐する要衝の地である箕浦庄に移り、箕浦冠者義明と称したことに始まる。

箕浦次郎左衛門は、その子孫で、爾来、江戸期の慶安年間(1648~52)に安芸国・浅野家に仕え当地を離れるまで、柏原に在住した。

『江源武鑑』に・・・

元亀元年(庚午) 永禄十三年を改めて元亀と号す

三月」十日 浅井下野守祐政と箕浦次郎左衛門が知行地の境界について争論を起こし、本日両者が観音寺城にて対決する。箕浦の方に非が認められ、争論の山五ヶ所が浅井に与えられる。箕浦は父祖の忠功を申し上げて非を利に変えようと荒言したため屋形の思し召しが悪くなり勘気を蒙る。・・・・

『太平記巻第三十八』に・・・・

和田楠与箕浦次郎左衛門軍事 
此比摂津国の守護をば、佐々木佐渡判官入道々誉が持たりければ、其身は京都に有乍ら、箕浦次郎左衛門に勢百四五十騎付て、国の守護代にぞ置たりける。催促の国人取合て、其勢僅に五百余騎、神崎の橋二三間焼落て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃を汰て待懸たり。和田・楠態敵を忻ん為に、神崎の橋爪と株瀬と二箇所に打向て引へたれば、此を渡させじと、箕浦弥次郎・同四郎左衛門・塩冶六郎左衛門・多賀将監・後藤木村兵庫允泰則以下五十余騎は株瀬へ馳向ふ。守護代箕浦次郎左衛門・伊丹大和守・河原林弾正左衛門・芥河右馬允・中白一揆三百余騎は神崎橋爪へ打臨む。橋桁は元来焼落したり、株瀬は水深し。・・・・云々

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・現地説明板

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猪鼻城(河内城) 近江国(山東)

2015年05月14日 | 戦国山城

京極氏の隠れ城


 

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)梓河内     map:http://yahoo.jp/uo9zYA

別 称:河内城

区 分:山城

標 高:355m 比高:155m

現 状:山林

遺 構:郭・塹壕空堀(城道)・碑

築城期:鎌倉期

築城者:京極氏

修築者:京極高慶が箕浦城主今井定清

城 守:石田為久(京極氏被官)、梓河内の山上の猪鼻城の城守。

城 域:650m×210m

駐車場:登り口の空地

目標地:河内八幡神社

訪城日:2015.5.14

 梓川を右折、林道口に駐車林道口~支流の橋渡り

お城の概

河内集落の最奥部、梓川の合流点背後位置し、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形だ東西650m・南北210mの広大な、江北随一の城郭。

 主郭・城跡碑のある東の頂部、その北側下に広い削平地があり、さらに西側下、北西下に広い削平地。あるいは段郭があり、70を超える曲郭が残存する

曲郭・敷石の残る。城道には、削岩出来ず巨岩が残る九曲り塹壕空堀道(堀底道)が続く、虎口を兼ねた

尾根先端から始まる塹壕(堀底道)道も碑のある平坦地の西下を越えると長い土橋状を越え、再び塹壕道となって、中尾林道に突き当たります。

集落から、比高約150mの急峻な山容と東西両側面を深い谷川で守られた要害地形に、東西650m・南北210mの広大な、城底道はに立派で、京極の隠れ城。山上御殿に70余の曲郭群・・・兵糧はと想像・心配します。

塹壕空堀・・・堀底道を登る

削岩の矢穴の後の残る巨岩

主郭の城跡 猪鼻城碑 東に伸びる土橋状の武者走りか

曲郭の敷石 

 

歴 史

 日本城郭体系によると、柏原城に近く「京極氏の隠れ城」という。柏原城は1358年(正平8年)頃に京極道譽が居住していたされる。(1336年(建武3年)の強豪氏の祖である氏信が築城したとされる大平寺館は焼失後)。

柏原城は京極氏塁代の中で強大勢力を誇る道譽に、清瀧寺がそれにあたるか。付近にこれがだけ巨大な城郭が構築する勢力は散在しなかった。或いは、街道より奥まった谷頭に立地条件等する勘案すると、京極氏の詰め城として築城か?

『定本日本城郭事典』によりますと、所在地は「坂田郡山東町梓河内」、猪鼻城・別称は「梓河内城」、形式は「山城」です。

 城の歴史は「京極氏十二代高清の後見人をめぐって黒田政光と京極政経が対立、家臣も二派に分かれて相争った時、争乱を避けるべく一族が隠棲の地として築城したとか、また、それ以前に築かれていたが、多年の間、秘密にされ、文書、記録に現われなかったともいわれる。このため、京極氏の隠れ城との異名がある。

 ともあれ、政経派が勢を得、政光派が衰える過程に登場してくる。浅井氏が湖北に戦国大名としての歩みを進め、反対に京極氏が衰微する頃、ここに拠った京極高慶が箕浦城主今井定清に城修築の人夫を求めている。

 城址は京極邸址、馬駆け場に続いて石田氏邸がある。石田氏はここを本拠として河内城の守りについていた。が後年の石田三成との関係は明らかでないが石田家の祖でしょう。

しかし、元亀二年(一五七一)磯野員昌の佐和山城衆中に石田仁兵衛が梓の住人として知られる。また、梓は近江から美濃への通路で、関所が設けられていた。とあります。

道案内

 国道21号線の、梓河内の信号で国道21号線「梓河内」信号に!

南に、すぐに名神高速のガードをくぐり集落に奥へ。ガードより1.7km先集落の一番奥、梓川の右手に中尾林道の入口があり、支流を渡り「霊仙山登山口」があり、霊仙山登山道を5分も登ると城跡の案内板があり、右手に登ります。比高20mほど登ると、不明瞭になるが、尾根に目指し獣道(先輩見学者の登城路)のような急坂を直登する。

 尾根付近でまた道が現れ、岩場の九曲り塹壕掘の城道を尾根まで登ります。途中、岩場の虎口に見える箇所、石段の痕跡に見える箇所がある。尾根から塹壕道をどんどん登ります。壕(掘底道)道が終わり長い土橋になる箇所の左上に碑があります。 
林道入り口手前の空地に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・淡海の城・Wikipedia・レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

         本日の訪問、ありがとうございました!!感謝!!