足軽屋敷 太田家住宅(彦根市芹橋2丁目)
講座 【彦根城外堀の歴史を振り返る】2013/5/26・・・・主催 彦根番所の会
講師:井伊 岳夫氏
(彦根市教育委員会事務局文化財部 文化財課市史編さん室 副主幹)
レジュメ
1.江戸時代の外掘の様子
別冊資料:彦根城外掘マップ 1・2
現在:中堀(大手門近くから)
現在:中堀(いろは松・二ノ丸佐和山多門櫓)
護国神社前の空堀(元外堀跡)
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!
足軽屋敷 太田家住宅(彦根市芹橋2丁目)
講座 【彦根城外堀の歴史を振り返る】2013/5/26・・・・主催 彦根番所の会
講師:井伊 岳夫氏
(彦根市教育委員会事務局文化財部 文化財課市史編さん室 副主幹)
レジュメ
1.江戸時代の外掘の様子
別冊資料:彦根城外掘マップ 1・2
現在:中堀(大手門近くから)
現在:中堀(いろは松・二ノ丸佐和山多門櫓)
護国神社前の空堀(元外堀跡)
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!
平成25年度
淡海観光ボランティア連絡協議会【東近江ブロック交流研修会】
と き:平成25年5月29日 (水曜日)
ところ:東近江市 蒲生あかねホール
参加者:104名
会場:東近江市 蒲生あかねホール
受け付け準備
この間:駐車場誘導係へ
午前の部・・・・あかねホール
進行案内:開会案内
進行係:東近江(八日市観光ボランティア〇氏)
9:45 ~オープニングイベント(よし笛演奏)
主催者代表:挨拶・・・八日市観光ボランティアガイド協会 会長 谷氏
来賓祝辞
東近江市 小椋市長様
東近江市観光物産課長様・東近江市観光協会長様
三重県 いなべ市語り部 部会長様
東近江市&いなべ市・・・名刺交換中
・講演 【東近江の古墳と渡来文化】
講師:東近江市文化課埋蔵文化材センター 嶋田氏
昼食
午後の部:現地研修会
・Aコース・・・14名(ガイド2名含む)
掩体壕へ
陸軍の「八日市飛行場」に改称、航空第3大隊
大凧会館へ
戦争遺産の石碑
館内の2階「世界の凧」
金念寺へ(徒歩にて、移動)
金念寺山門
金念寺の江州音頭【桜川・真鍮一門】石碑
金念寺の江州音頭【桜川・真鍮一門】の墓碑
市宮神社へ
移動車中
暗渠の下の「丁石地蔵」を歩道と車道の境に祀られてます。 後方のお山が「太郎坊宮 阿賀神社」
此処から、暗渠にして歩道になってます、せつた地頭まで!
筏川に、1丁毎に(お花をお供えするようにケトウの花が!)
金柱宮跡へ
船岡山【万葉碑」 へ
船岡山でのサプライズ「万葉衣装で相聞歌・・・」
「あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る」
「紫草(むらさき)の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも」
現地研修後、あかねホールへ
アンケートを回収後、解散
終了後、「各ボランティアガイド協会様」お見送り!
がもう観光ボランティア協会・八日市観光ボランティア協会の会員の皆さん お疲れ様でした。
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
【打下城見学会】・・・下城の巨体を見る。
10時高島駅に集合
打下城は非常に巨大で土木工事見事な城で見学に時間を費やします。長法寺見学は時間的には無理。曇・雨。
お城のデータ
所在地:高島市勝野
築城期:永正2年(1505)
初城主:高島玄蕃允
区 分 :山城
遺 構:石垣,空堀,竪堀
城 域:250m×250m
標 高:379m 比高差250m
お城の概要
打下城は近江と越前を結ぶ北国街道(西近江路)沿いの標高379mの通称城山の山頂一帯に築城されている。
打下城へは日吉神社横から延びる山道を登る。しばらく登ると防砂ダムに出て、道は行き止まりとなるが、ダムの左手に高巻きするような形で山道が付けられている。
急な斜面ではあるが道はしっかりと整備されており、標識も随所にあって迷うことはない。約30~40分で尾根筋に出る。
打下城の城域は、大きくは中郭、南郭部と北郭部の2つの城域に分かれており、尾根筋を左手に道をとると中郭、南郭に、また右に道をとると北郭に至る。
中郭の周囲は東の急斜面を除き、幅5~6mの横堀を巡らしている。また、南側虎口横には4~5m四方の櫓台があり、石積みがされている。
この城の見所のひとつと考えていた北郭の畝状竪堀を捜して尾根を歩き回るも、北郭を特定できず、後ろ髪を引かれる思いで下山。多分、高圧線鉄塔の建つ"下の鼻打"辺りではないかと考えられるが・・・・・。
歴 史
打下城は永正2年(1505)に高島玄蕃允(げんばのじょう)が築城したのを創築とし、その後、海津政義の居城になったとされる。
元亀年間(1570~72)には、江北の浅井氏か越前の朝倉氏によって改修されたと考えられている。
また、元亀年間後期には林与次左衛門の城となり、天正元年7月26日高島の木戸城,田中城を攻めた織田信長が逗留したと伝わる。
----------------------------以下、信長公記 元亀4年の条
大船にて高島へ御働き、木戸・田中両城攻めらるゝ事
七月廿六日、信長公御下り。直ちに江州高島表、彼の大船を以て御参陣。陸は御敵城、木戸・田中両城へ取り懸け、攻められ、海手は大船を推し付け、信長公御馬廻を以て、せめさせらるべきところ、降参申し、罷り退く。則ち、木戸・田中両城、明智十兵衛に下さる。
高島の浅井下野・同備前、彼等進退の知行所へ、御馬を寄せられ、林与次左衛門所に至って御居陣なさる。当表、悉く御放火。
----------------------------ココマデ
北郭の虎口
北郭址
尾根上の小郭群を主郭へ
唯一のビューポイント
主郭の虎口の石垣主郭の現地説明板
【歴史】
打下城跡は大溝古城とも呼ばれ378.7mの山頂一帯にあって、東西270m・南北300m以上の城域を有する大規模な中世山城です。ここからは湖北や湖東地方も展望でき、直下を通る北国街道(西近江路)を容易に見渡せる交通上の要衝にあります。城の遺構は大別して南北の2ブロックに分かれます。この地は南ブロックの中主郭は標高379mのピークに設けられた30m*25mで2段の曲輪であり主郭であると考えられます。北ブロックの遺構は主郭より北方へ延びる尾根上に数カ所の小曲輪を連結し、それより先端の土橋を渡って虎口に達する大型の曲輪(54m*32m)と東側周辺の畝堀及び2カ所の小曲輪群よりなります。打下城の創建は永禄年間以前(1558年以前)に国人領主の林氏又は高島氏が関与したものとされますが、元亀年間(1570~72年)に江北の浅井氏か越前の朝倉氏による改修の跡が認められます。また、その後は織田信長の陣所となったこともあります。城跡にはバラエティーに富んだ築上展開がみられ県下有数の縄張りを持つ山城です。<現地案内板より 高島町観光協会>
打下城。攻略の記念(証拠写真)
打下城は近江と越前を結ぶ北国街道(西近江路)沿いの標高379mの通称城山の山頂一帯に築城されている。
打下城へは日吉神社横から延びる山道を登る。しばらく登ると防砂ダムに出て、道は行き止まりとなるが、ダムの左手に高巻きするような形で山道が付けられている。
急な斜面ではあるが道はしっかりと整備されており、標識も随所にあって迷うことはない。約30~40分で尾根筋に出る。
打下城の城域は、大きくは中郭、南郭部と北郭部の2つの城域に分かれており、尾根筋を左手に道をとると中郭、南郭に、また右に道をとると北郭に至る。
中郭の周囲は東の急斜面を除き、幅5~6mの横堀を巡らしている。また、南側虎口横には4~5m四方の櫓台があり、石積みがされている。
南郭
犬走り
最後の講師のレクチャー!
講師・・・長谷川博美氏(城郭研究家)
遠望(JR近江高島駅ホームより)
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
毎日新聞 2013年05月25日 大阪朝刊
天武・持統天皇合葬陵とされる奈良県明日香村の野口王墓古墳(7世紀後半)について、宮内庁が過去の調査を基に「5段構造の八角形墳」と結論付けた報告が、村教委が24日発表した「牽牛子塚(けんごしづか)古墳発掘調査報告書」に掲載された。天皇陵は7世紀中ごろから八角形墳が採用され、野口王墓も文献などから八角形とされていたが、宮内庁が調査結果を公表するのは初めて。【矢追健介】
陵墓は原則として一般の研究者は調査できない。野口王墓古墳が1235年に盗掘されたと記した文献「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」には、「八角形」との記述があるが、全体像は分かっていなかった。近年、情報公開請求が相次ぎ、福尾正彦陵墓調査官が斉明天皇陵と確定的になった牽牛子塚古墳の発掘調査報告書に論文を寄稿した。
福尾調査官は1959年と61年に行われた宮内庁の現況調査と、奈良県立橿原考古学研究所の所長だった故・末永雅雄氏らによる75年の立ち入り調査などを基にまとめた。
それによると、野口王墓は、墳丘の測量結果などから5段構造の八角形と判明した。高さは全体が約7・7メートル、最上段は他の段の倍の約3メートルあり、墳丘全面に加工した凝灰岩を貼り付けてストゥーパ(仏塔)のように見せていたと分析。最下段の1辺の長さは約16メートルあり、その周囲に幅約3メートルの石敷きがあったと推測した。
大王墓は6世紀までは前方後円墳や方墳だったが、7世紀に即位した舒明天皇(天武の父)から八角形になったとされる。中国古代思想や国土の四方八方を天皇が支配するという思想を視覚化したという説などがある。
舒明天皇陵とされる段ノ塚古墳(奈良県桜井市)や天智天皇(天武の兄)陵とされる御廟野(ごびょうの)古墳(京都市)は墳丘の八角形部分が2段で、大型で色の異なる岩が使われている。大阪府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は「切り石で全面を化粧しており、それ以前にはない形式が、天武天皇から始まったことが分かる。古墳の変遷を考える上で重要だ」と評価した。報告書は1冊6300円で25日から販売される。問い合わせは明日香村地域振興公社(0744・54・4577)。
特別博物館講座 日 時 2013年5月19日(日)13:30~
内 容 「小谷城と姉川の合戦」太田 浩二氏(長浜歴史博物館)
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!
特別博物館講座 日 時 2013年5月26日(日)13:30~
内 容 「天下不武の城・岐阜城を探る」高橋 方紀氏(岐阜市教育委員会)
岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。
織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として国の史跡に指定されている。
『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。
その4 城郭
岐阜城歴代城主(年譜)
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。
たこは昔、いかだった-。滋賀県東近江市で300年以上続く伝統行事「大凧(おおだこ)」は長く、「大紙鳶(いか)」と呼ばれていた。江戸時代の絵図には「沖野ケ原大いか」の記述が残る。いつ頃に呼び方が変わったか。26日の「東近江大凧まつり」を前に、東近江大凧会館などに残る資料から探った。
海外各地にもたこ揚げ文化は広がっており、名称の由来はさまざまだ。その多くが、日本と同じ様に生き物の姿を基にしている。
英語のカイトはトビ、フランス語のセーフボランはクワガタムシの意味。ドイツ語は龍、ベトナム語は鳥、スペイン語はすい星、ポルトガル語はオウムが由来になっている。いずれも宙を舞ったり、空とつながりの深かったりするものばかりだ。
一方、日本国内はタコ、イカの水中生物が由来。東近江大凧会館の鳥居学芸員は「日本は形から名前を付けたことが大きい」と説明する。「水の中の生き物が空を舞うのが面白い」。そんな日本人ならではの感性も、影響しているのかもしれない。
「大紙鳶(おおいか)之図」。呼び名が記された市内の資料で最も古いものは、1858(安政5)年の扇。100畳敷の大凧を揚げる様子を描写した絵とともに記されている。74(明治7)年の大凧揚げを描いた絵や版画には、はっきり「大いかの図」と明記される。
日本に、たこが伝わったのは平安時代とされる。尻尾をたくさん付けた形が、空を舞っているイカやタコのよう見えたことから、京都や大阪など関西で「いかのぼり」として定着したと言われる。
東近江市八日市地区では、江戸中期に男子出生を祝って始められたとされ、三つの村で競い合って規模を大きくしていった。当初は「いか」と呼ばれていた。東近江大凧保存会の山田敏一会長は「今、いかと呼ぶ人はほとんどいないが、先々代の会長や先輩は大いか、大いかと呼んでいた」と振り返る。資料に関しても、明治初期までの絵図や版画には「紙鳶」「紙烏賊」など「いか」と読む記載しか残っていない。
「たこ」の登場は82(明治15)年。中野神社(東近江市)所蔵の絵図に初めて「大凧」の文字が記された。ただ、同年に個人所有の版画には「大紙烏賊」の記載も残り、まだ両者の呼び名が混在する。明治20~30年代になると、新聞記事でも「大凧」と表記されるようになり、徐々に「たこ」が根付いていったと見られる。
東近江大凧会館の鳥居勝久学芸員は「明治になり、江戸の言葉や文化が全国へ浸透していくなか、関東の呼び名『たこ』が定着したのでは」と推測する。両者が混在した82年は、東近江の長い大凧の歴史の中でも、最大の240畳敷が空に舞った年。大きなイベントで注目度も高く、たこの呼び名が一気に広まった可能性が考えられる。
ただ、なぜ関東ではたこなのか。たこ研究の第一人者、故斎藤忠夫さんは著書などで「江戸時代、京都を中心とする上方のイカノボリに対し、江戸っ子の対抗意識から『たこ』と勝手に付けたのかも」との説を紹介する。
今年も東近江の誇る伝統行事は能登川地区の市ふれあい運動公園で開催される。青空を舞う100畳敷は、タコに見えるか、イカに見えるか。由来に着目して観覧するのも面白い。
日付 | 閲覧数 | 訪問者数 | ランキング | |||
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2013.05.25(土) | 566 | PV | 148 | IP | 6929 位 / | 1876678ブログ |
2013.05.24(金) | 577 | PV | 130 | IP | 8422 位 / | 1876267ブログ |
2013.05.23(木) | 459 | PV | 177 | IP | 5051 位 / | 1875767ブログ |
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高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。
信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。
この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。
数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。
しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。
斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。
岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。
「尼御前」は源義経の従女として義経一行の奥州行きに同行していたが、難所として知られていた安宅関超えに際して「女の私がいては足手まといになる」と身を案じてこの岬から身を投げたという伝説が残っている。
尼御前岬 石川県加賀市美岬町 map:http://yahoo.jp/-F7AhJ
尼子御前SA(下り線)芭蕉碑
芭蕉の句碑周囲の花壇に守られて、静かにずっしりと座り込む
戦国武将の明智光秀(1528?~82)がかつて住んでいたと言い伝えのある多賀町佐目で18日、歴史愛好家らが地区内に残る古い墓石や中世の山城跡と見られる遺跡を調べ、伝説の手がかりを探した。
本能寺の変で織田信長を討った光秀は美濃(現在の岐阜県)の土岐氏の支族とされるが、詳細は不明。
http://www.asahi.com/area/shiga/articles/OSK201305210100.html
朝日新聞2013.5.22
所在地:甲賀市甲賀町和田 map:http://yahoo.jp/XqZwev
築 城:天正2年(1574)
築城者:和田惟政
初城主:足利義昭
区 分:居館
遺 構:土塁、井戸
標 高:207m
訪城日;2013.5.21
公方屋敷は和田川の西、和田惟政の居城・和田城の北方約800mにあり、三方を丘状尾根に囲まれた東西100m×南北150mほどの一帯としており、ほぼ中央部に大きな杉の木の下に案内板が建てられている。
一方、滋賀県教育委員会が公方屋敷跡と称しているのは、この小さな谷を形成している南と北の丘の上としている。
いずれも削平がなされ曲輪跡であったことが確認できる。南の尾根上の曲輪一帯は竹藪の中に櫓台も確認できる。
この地形は六角氏の初期の居館であったとされる小脇館とよく似ており、中世における居館選地に共通性を見ることができる。
また、この屋敷跡の西側約300mに川を挟んで、公方屋敷支城と称される砦がある。
歴 史
公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。
永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好、松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。
その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。
その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。
和田城郡(パンフレットより)
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!
所在地:滋賀県甲賀市甲賀町和田字柞ヶ谷 map:http://yahoo.jp/MYdohZ
遺 構:曲輪、土塁、空堀
区 分:丘陵
築城者:和田惟政
築城期:不明
標 高:232m 比高差 30m
訪城日:2013.5.21
お城の概要
甲賀地方は周囲を山で囲まれたという地形的な特質もあって独立性の高い地域です。
中世においては、近江守護六角氏からも一定度自立し、郡中惣(ぐんちゅうそう)と呼ばれる在地領主の連合体が地域支配を行っていました。こうした政治体制を反映して、甲賀の城は皆同じような規模と構造を持っており、突出した大きな城は築かれませんでした。和田城もそうした城の一つです。
和田城は甲賀市甲賀町和田の集落の周りを囲む小高い丘の上に位置しています。甲賀の城の特徴の一つとして、城が集落の内部に築かれるのではなく、集落近くの小丘陵に築かれることが上げられますが、和田城もそうした場所にあります。和田の集落周辺の丘上には、3つの支城が築かれており、和田の集落を守っていた様子がうかがえます。
和田城は、甲賀地方の有力在地領主であった和田氏の居城です。足利義昭を助け、後に織田信長に仕えた和田惟政はこの和田氏の出身です。
和田城は甲賀の城の定石通り、一辺約30mの土塁で囲われた方形の主郭を持つ城館です。しかしそれだけでなく、主郭の外側に帯郭状の二段の郭を持ち、背後の山との間を堀切で断ち切るなど複雑な構造を持っている点が特徴的です。
まだ発掘調査も行われておらず、詳しいことは分かりませんが、現状でも遺構がよく残っており、甲賀の城の雰囲気を味わうことのできる城跡。
和田城郡(パンフレットより)
和田谷の中央を流れる和田川に沿って北から右岸に高殿城・公方屋敷・和田城、左岸に公方屋敷支城・和田支城Ⅲ・和田支城Ⅱ・和田支城Ⅰが並び、和田谷全体が集合体として大きな城であったと云え、その中で和田城は、支城群に守られた一番奥に位置している。
城の縄張りは、丘陵の二つのピークを内、北側のピークに方形の土塁で囲んだ主郭を置き、西側に堀切を隔て二の曲輪を、更に丘陵鞍部を箱堀とも云えるに曲輪に仕立て、南側のピークの曲輪との間をで仕切りている。 主郭の西と北側にも比較的広い腰曲輪配している。
主郭部は、約50m四方の方形で西側は下の曲輪との高低差約5~6m程ある土塁がある。 南西隅に虎口が設けられ、また北西隅には「天守台」との云われている櫓台がある。 主郭北側には高さは約1mの土塁が残り埋門形式の虎口があった。
惟政の墓だとされる五輪塔(安土町浄厳院)
歴 史
和田城の築城年代は定かではないが、源満政を祖とする和田惟政がこの城を築いたと考えられている。
・・・・・信長公記・・・・
一巻 流亡将軍 一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事
義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。
越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。
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永禄8年、奈良興福寺一乗院を逃れた足利義昭は、和田惟政を頼り、和田城へと入る。
和田城の城主は和田伊賀守惟政と推定される。和田惟政は近江守護佐々木六角の軍奉行を務め、足利義昭を領内に亡命させ、細川藤孝らと共に将軍擁立に尽力した。
惟政は雄琴城主(大津市)、芥川城主(大阪府高槻市)となり、キリスト教伝来で有名なフランシスコザビエルを保護し、彼を信長に謁見させた武将として知られている。永禄11年、和田惟政は義昭庇護の功によって摂津芥川城主となった。
天正元年、足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた時、最初信長に従っていた惟政は、のち義昭に属して摂津高槻城に籠もる。 しかし、信長に攻められ、中川清秀に捕らえられ斬られた。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城
本日も訪問、ありがとうございました。感謝!
大原城祉
所在地:甲賀市甲賀町田猪野 map:http://yahoo.jp/XljYfG 旧:甲賀郡甲賀町
目標地点:
区 分:居城
標 高:200m 比高差:0m
現 状:宅地・田畑
遺 構:土塁・虎口・堀
築城期:室町期
築城者:大原氏(大原数馬)
訪城日:2013.5.21
甲賀の典型的な箱型の単郭であるが、南側には両側に土塁と門構えで当初の大手。東側は近世の破壊道(車・農道)として開口か
築城年代は定かではないが室町時代に、大原数馬によって築かれたと云われる。
方形の館で周囲に土塁が巡っており、現在も大原氏の末裔の大原宅(民家)として使用されている。
個人宅ですが、虎口の土塁が本当にりっぱで明瞭です。平野部の個人宅敷地で、訪城イベントであったため忍書(古文書)の「万川集海」も展示頂き拝見できました。
江戸時代の忍書「万川集海」を伝えてる。
尚、土塁の北東隅の鬼門には祠が祀られ、現在に踏襲されている
水堀でしょうか?
立地
大原城は杣川と櫟野川の合流地に位置し、油日谷ののど元に位置し、又伊賀街道(近世の杣街道)に面し近世大原市場のに見られるように、陸上交通や谷川を利用した物流拠点の立地である。
周辺に方形の平削地の宅地割や地形が点在する。屋敷地が展開いていた可能性がある。水口の植城に似た配置・景観の可能性も残る。
遠望
甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、後の甲賀流忍術の中心となった家々である。
大原家の甲賀五十三家の1つで、後の甲賀流忍術の中心となった家
近江伴氏からは、甲賀郡大原から発祥した大原氏をはじめ、上野氏、多喜氏らが分かれ、「伴・大原・上野・多喜」の四氏はとくに伴四党と称された。そして、大原氏からは篠山・勝井氏が分かれ、多喜氏からは山岡・馬杉氏が分かれ出た。
豊臣秀吉に仕えて水口城主、さらに駿河府中十四万石の大名に出世した中村一氏は馬杉氏の一族という。
他方、織田信長の四天王の一人に数えられた滝川一益も大原一族の一人であったと伝えられる。
大原氏は伴四党の一家として甲賀郡油日村田堵野を本拠とし、南北朝時代には武家方として行動した。観応の擾乱が起こると、南朝に転じた足利直義に属し、正平五年(1350)、小佐治氏らとともに油日山麓の善応寺で挙兵した。南北朝の動乱を経て室町時代になると、甲賀衆は近江南半国守護佐々木六角氏の被官に組み込まれていった。
応仁の乱以後の戦国時代になると大原氏は、大原中・大原市場・櫟野などを領有し、佐々木六角氏の重要な戦力として時代の荒波を生きたのである。六角高頼が将軍足利義尚の討伐を受けた長享の乱において、大原源三は高頼を支援して義尚が本陣を置く鈎を夜襲するなど大活躍をした。戦後、鈎において戦功が著しかった大原氏は甲賀二十一家の一に数えられ、和田・上野・高峰・多喜・池田氏と並ぶ南山六家の一として重きをなした。
大原氏が最初に城を築いたのは、大字鳥居野の地であったという。しかし、のちに大原氏の氏神を城内に勧進し、新たに城を築いたのが篠山城だという。氏神はいまも鳥居野に鎮座する大鳥神社であり、その境内は大原城址ということになる。実際、大鳥神社の正面には壕跡を思わせる水路が流れ、境内の一角には土塁跡と見られる遺構が残されている。甲賀衆は「郡中惣」を組織し、それを同名中と呼ばれる同族組織が支えた。そして、大原同名中は、現代も年に一回、八月三日に大鳥神社に会されるという。そのときの参会者の装束は、昔ながらの羽織袴に帯刀という物々しさである。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、淡海の城、Wikipedia
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木内城跡碑(県道からすぐ)
所在地:滋賀県甲賀市甲賀町上野字才作 map:http://yahoo.jp/FGOes3
遺 構:曲輪、土塁、空堀
城 域:40m×40mの方形で単郭
目 標:県道4号線油日信号
区 分:平城
標 高:218m
訪城日:2013.5.21
お城の概要
木内城は、杣川沿いの平野部に築かれた典型的な方形単郭の豪族居館だ。 県道沿いの竹藪の中に目印の城石碑を確認できる。県道4号線油日信号を東に約100m、北側の竹藪に車からでも確認できる。
城石碑辺りから城内への進入は容易で北奥の土塁・堀が見応えある。現在は、南側を除く三方に土塁と堀が残っている、主郭周囲の土塁は、高さ3mも厚みもある見応えのある40m四方の箱型の綺麗な遺構である。
南側は現在は城域に(県道で不明だが)南の杣川が急崖を堀に、周囲を土塁と堀構築、城としての要害性を固めていた。
遠望・・・東側から
歴 史
木内城は、築城年代や築城者など詳細なことは定かでない。
この地を領した上野氏居城とも。
江戸期に上野村の一部を領した旗本水野氏に関する遺構とも。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、甲賀市誌(甲賀の城)、
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