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観音寺城     出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2012年12月31日 | 戦国山城

観音寺城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
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観音寺城
(滋賀県)
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
別名 佐々木城
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁・文明年間(1467年 - 1487年)
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年)
遺構 本丸、二の丸、曲輪、土塁、石垣、堀、門跡等多数
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒
東経136度9分46.55秒

観音寺城(かんのんじじょう)は、滋賀県近江八幡市安土町にあった山城である。支城に和田山城、佐生城、箕作城などがある。国の史跡に指定されている。

概要

 
佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

応仁の乱

室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

第一次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果:京極持清・京極勝秀の連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清軍
京極勝秀軍
六角高頼軍
指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城
 

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型 / 滋賀県立安土城考古博物館所蔵

 

第二次観音寺城の戦い

第二次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果:六角政堯・京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯軍
京極持清軍
六角高頼軍
指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城
 

応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いので六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

繖山

 

第三次観音寺城の戦い

第三次観音寺城の戦い
戦争:攻城戦
年月日:文明元年(1469年)5月
場所:観音寺城一帯
結果:六角高頼軍の勝利
交戦勢力
六角高頼軍 六角政堯軍
京極持清軍
指揮官
六角高頼、山内政綱
伊庭貞隆、伊庭行隆
多賀高忠
六角政堯
戦力
不明 不明
損害
不明 不明
 

東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

観音正寺

 

観音正寺

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

その後の観音寺城の戦闘年表

和暦西暦主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

現代

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(52番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 石寺楽市会館
    • 観音正寺

構造

現在のような観音寺城になるまで幾度かの改修が実施されたことが、文献や発掘調査などから明らかになっている。

観音寺城改修の歴史
回数年代主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年) 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

観音寺城は現在、正確な曲輪の数はわからないが1000箇所以上の曲輪があり、その多くが石垣で囲まれた日本国内屈指の大規模な山城であったと見られている。                                                                                                       山城の特徴として、居住に便利なように山麓に居館を設け、山上付近に戦闘、防備施設があるのが一般的だが、観音寺城は山麓全体に分譲地、もしくは団地のような居住性の高い曲輪が配されている点が他の山城とは大きく異なる。

 これは六角氏の政治的立場と関係が深いと考えられている。もともとこの地域は自立意識の高い国人衆が多く、彼らと連合政権のような政治を実施していくために、城郭も広い屋敷をもつ曲輪が必要であったと思われている。

 
昭和57年の繖山カラー空中写真

このため規模こそ日本国内で屈指のものであるが、防備のための城というよりも、権威づけ、政治色の強い城ではあったため、単純な虎口、竪堀などはなく防御施設は貧弱と言われている。六角氏も本格的な籠城戦は実施せず、一旦城を明け渡した後に勢力を整えて、再び奪取する戦術を何度もとっていた。

これに対して『戦国の堅城』では、一定の防備が整っていたのではないかとしている。観音寺城の攻め口は、南側と北側になる。南側、つまり楽市や六角氏の居館があった方向から攻め上ろうとすると、そこには強固な石垣がある平井丸、池田丸があり、また山裾の平地部分に部隊を展開しようとすると、観音寺城の支城、箕作城、長光寺城があり挟撃される可能性がある。また北側、安土山(現在の安土城)の方向になると、曲輪はないものの尾根沿いに切岸と巨大な土塁をもって防衛ラインを形成したと考えられている。つまり山の尾根そのものを土塁としていたのではないかと『戦国の堅城』は指摘している。

この後、山城も大きく進化していき、一線防備でなく曲輪の配置や形状に工夫が見られて拠点防備になっていくが、観音寺城は当時の技術としては堅城で、発展途上ではなかったとか思われている。

本丸

標高は395メートル、面積は約2000平方メートル、主な遺構としては、礎石、暗渠排水、溜枡(ためます)、幅4メートルの大手石階段などがある。またここには「二階御殿」と言われた施設があったのではないかと思われている。

本丸跡中心部分

大手石階段

暗渠排水跡

食い違い虎口跡

本丸の石垣

平井丸

平井丸は、標高375メートルで面積は約1700平方メートル、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8メートル、長さ32メートルにも及ぶ虎口跡があり、2メートル以上の石も使用されている。また南側には幅80センチメートル、高さ1.3メートルの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

平井丸虎口

平井丸虎口

潜り門

池田丸

 
池田丸跡

池田丸は標高365メートル、面積は約2700平方メートルで、最南端に位置し、本丸にある御屋形へ通じる城戸口になっている。またこの曲輪は南曲輪と北曲輪にわけられ、周囲は土塀をめぐらし、南面には庭園をもつ主殿や溜枡等が発掘されている。

淡路丸

観音寺城の東の端に一郭独立したような形で、府施氏の居館淡路丸の曲輪跡があり、丁度観音寺城の鬼門の方向に当たるとされている。

大きさは、東西43m×南北50mの規模があり、周囲には土塁、東西、南側には土塁の内、外側に石垣を築いている。この曲輪は、南西、西の中間、北東の3か所の虎口を設けている。また南外側では、道路を挟んで上下斜面に腰曲輪跡が残っているが、この淡路丸に付随したものと考えられている。

曲輪を土塁で囲む、構築法がシンプルであるなど、府施氏の城であった府施山城、大森城と類似点が多いのもこの曲輪の特徴である

淡路丸の石垣

 
佐々木古城跡繖山観音山画図

その他曲輪

その他曲輪として数多く存在する。

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。                    これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望

 
後方が安土山
 
天満宮の参道
 
六角氏の御館跡

六角氏の御館

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

 

 

 
石寺楽市の案内看板
 
石寺楽市の推定地

石寺楽市

現在の近江八幡市安土町石寺に、石寺楽市が開かれていた。楽市とは、非課税等を通じて自由な売買を可能にした市のことである。石寺楽市は日本国内での文献上の初見で城下町に築かれたとされている。この地域は下御用屋敷、犬の馬場、馬場道、講口といった、城下町をうかがわせる地名が伝えられている。

これに対して『日本城郭大系』では、近江八幡市安土町石寺以外に、もう1カ所、楽市があったのではないかと指摘している。この石寺の地域には多くの武家屋敷もあり、ここに楽市も混在していたとすれば、規模が小さいとしている。また石寺楽市の古文献には「保内町」という記載が見受けられ、石寺にはない。石寺の隣になる近江八幡市安土町東老蘇には「保内町」という地名が伝わる場所があり、この周辺には3千軒も家が建ち並んでいたと伝承されている。これらのことにより、当初石寺に築かれていた楽市は、後に東老蘇にも新市として増設されたのではないかと指摘している。

この石寺楽市は、近隣にある安土城の楽市にも影響を与えることになる。

この石寺には楽市以外にも犬追物馬上跡があり、ここで佐々木流馬術を伝授していたと思われている。また犬追物絵図が現存しており、本丸にあった屋形二階に飾られていたものの写しであると伝わっている。

 

佐々木六角氏 御屋敷(天満宮) 近江国(安土・石寺)

2012年12月31日 | 居館

訪城日:2012.12.30

歴史

近江源氏の佐々木氏、後に近江守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。

 
佐々木氏の家紋(目結紋「平四つ目」)

歴史・沿革

正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の建武2年(1335年)に、南朝側の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。                                                                             ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている。

応仁の乱

室町時代の応仁の乱では、六角高頼が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。                                                   六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

第一次観音寺城の戦い

年月日:応仁2年(1468年)4月1日

戦 い:攻城戦

     ×六角高頼軍vs  〇京極持清軍・京極勝秀軍

総大将:伊庭行隆      京極勝秀

場 所:観音寺城一帯

結 果:京極持清・京極勝秀連合軍の勝利⇒観音寺城は開城

 細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

第二次観音寺城の戦い

年月日:応仁2年(1468年)11月8日

場所:観音寺城一帯

六角政堯軍、京極持清軍vs六角高頼軍

結果:六角政堯・京極持清連合軍の勝利⇒観音寺城は開城

指揮官:六角政堯、京極持清vs山内政綱

 応仁2年11月初め、陣代山内政綱がようやく京都より帰国し観音寺城の防備を固めた。弓削の戦いで六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。山内政綱は防戦したが守り切ることができず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。

 

第三次観音寺城の戦い

年月日:文明元年(1469年)5月

場所:観音寺城一帯

六角高頼軍vs六角政堯軍・京極持清軍

指揮官:六角高頼、山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆vs多賀高忠、六角政堯

結果:六角高頼軍の勝利

 

 東軍の細川勝元は8代将軍足利義政を擁して官軍となった。この権威を利用して文明元年(1469年)5月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した高頼とその被官は焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極軍を撃退することに成功する。

 

その後、高頼が幕府御料地を侵略した際には延徳元年(1489年)9月に9代将軍足利義尚の親征を、延徳3年(1491年)8月には従弟の10代将軍足利義稙の親征を受けたが、高頼は2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)。

その後の観音寺城の戦闘年表

和暦西暦主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。

廃城

戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢・義治父子の頃には浅井長政に野良田の戦いで敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂などで衰退することになる。

永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢・義治父子は観音寺城から逃げ無血開城した。

その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

 

日吉神社

 

左は清水山 箕作城址                      右・・・小脇城址

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2012年12月30日 | 番外編

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佐和山城跡など県内8遺跡 発掘調査報告書を刊行

2012年12月30日 | 城郭・イベント情報

=文化財保護協 購入受付け中=

家臣らの屋敷跡が出土した佐和山城跡(彦根市)


 県文化財保護協会と県教育委員会は、平成二十四年度発行の発掘調査書の購入予約を受け付けている。
 報告書が刊行される遺跡は、(1)六反田遺跡・(彦根市)縄文時代後・晩期、(2)六反田遺跡・(同)飛鳥~奈良時代、(3)佐和山城跡(同)安土桃山時代、(4)湖東南部草津川地域における琵琶湖開発事業関連遺跡(草津市)縄文時代~近世、(5)粟津湖底遺跡・における琵琶湖開発事業関連遺跡(大津市)縄文時代、(6)天神畑遺跡・上御殿遺跡(高島市)縄文時代~室町時代、(7)宇佐山古墳群(大津市)弥生時代~平安時代、(8)浄土屋敷遺跡(東近江市)鎌倉時代――の八遺跡。
 注文と問い合わせは、所定の用紙に希望の遺跡の報告書の冊数、氏名、住所、電話番号を記入し、来年一月末までに同協会(TEL077―548―9780、ファックス077―543―1525)へ。販売価格は年明けに同協会ホームページで公表する。
 なお、各遺跡の内容は次の通り。

 (1)「六反田遺跡」(彦根市)=縄文時代後期後葉の堅果類貯蔵穴群と土偶。晩期中葉の土器棺墓群などの調査。

 (2)「六反田遺跡」(彦根市)=飛鳥時代~奈良時代の船着き場遺構を備えた流路から、人形・斎串などの祭祀関連遺物や、木簡や墨書土器などの公的機関を裏付ける出土。

 (3)「佐和山城跡」(彦根市)=安土桃山時代。「境目の城」佐和山城の初の調査。佐和山東麓で武家屋敷や城下町を発見。石田三成在城時のものと思われる。

 (4)「琵琶湖開発事業関連遺跡」 (草津市)=縄文時代~近世にかけての北山田湖底遺跡・矢橋湖底遺跡など所収。縄文時代~古代の土器、石器、木製品のほか、銭貨類や近世陶磁器が出土。

 (5)「琵琶湖開発事業関連遺跡(粟津湖底遺跡・)」 (大津市)=縄文時代とされる粟津湖底遺跡の全量分析結果をはじめ、未報告の押形文土器の資料や石器類・炭化材に関する分析を掲載。

 (6)「天神畑遺跡・上御殿遺跡」(高島市)=縄文時代~室町時代。弥生時代~古墳時代の方形周溝墓や平安時代の甕棺墓・建物跡のほか、遺跡内を縦断する河川跡からは縄文時代~室町時代の土器・木製品。

 (7)「宇佐山古墳群」(大津市)=弥生時代~平安時代。弥生中期後半の集落、弥生後期~古墳初頭の周溝墓群、古墳中期の箱式石棺を備えた方墳、都城型土馬を用いた奈良時代の祭祀場など出土。

 (8)「浄土屋敷遺跡」(東近江市)=鎌倉時代~室町時代―『浄土屋敷遺跡・』(平成二十二年)で報告した堀や溝で囲まれた中世集落の様相と変遷を補則。

http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0011945


柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦い

2012年12月29日 | 古戦場

 柴田勝家と羽柴秀吉が対決した賤ヶ岳の戦いが行われたのは、天正十一年(1583)四月のことであった。

 前年の冬、領有する北陸からの行動が雪で制限された勝家は、一時の休戦を欲した。
そこで、天正十年十一月、勝家は、前田利家、不破勝光、金森長近を宝寺(山崎城)に派遣して秀吉と会わせ、和平の承諾を得た。
  利家は交渉が成功したものと思い込み、京都の織田信長の墓(大徳寺)に詣で、和平が成ったと信じて帰国し、勝家も油断したという(『太閤記』)。
また、この時に、すでに内応の約束がなされていたといわれている(高柳光寿氏)。

  しかし、秀吉の言は表面上のもので、着々と勝家討伐の軍を編成していた。これを察知した勝家は決戦に臨むこととした。

利家は京都からいったん能登に引き上げ、三月四日頃、勝家本隊に所属して北ノ庄を出陣し、その時に勝家に人質を差し出したらしい(『前田家譜』『古今消息集』『土佐国蠧簡集』)。

 

  三月十二日、柴田軍は、北国街道の要衝である柳ヶ瀬を中心に布陣し、しばらく利家は勝家本陣にいた(『富田文書』)。

前田利家隊に関する良質の史料は無いが、その次に、別所山砦に配置されたらしい(『近江輿地志略』)。

  この別所山は、かつて万福寺があり、織田信長の浅井氏攻めの際に灰燼に帰したままであったが、整備して城砦を築いたという(楠戸義昭氏『戦国佐久間一族』)。


 
(別所山砦・滋賀県教育委員会)

 

  その後、「西の方二ヶ所」の抑え(『太閤記』)、つまり、堂木山城・神明山砦の抑えにまわり(『江州余吾庄合戦覚書』)、茂山に移動したとされている(高柳光寿氏)。

  四月二十日、中川清秀の戦死、佐久間盛政の侵攻などの報告を受けると、秀吉は大垣から木ノ本に急行した。実に迅速で驚くべき古今稀有の行軍であった(『秀吉事記』『豊鑑』)。

  この夜、秀吉は利家に使いをやって「合戦がはじまったら裏切りを頼む。しかし貴下の心中は察している。ただ傍観してくれれば裏切りと同様に考える」と伝えると、利家は「裏切りは困る。中立的態度をとる」と返事をしたという(『川角太閤記』)。

 

~前田利家の背反~

  佐久間盛政の深追いによって佐久間隊が賤ヶ岳に破れ、本陣(行市山)へ戻るところ、もしくは、権現坂砦で防御を試みるところを秀吉隊が追撃するに至り、茂山砦にあった利家は、その陣地を放棄して移動を開始した。

それは、佐久間隊の背後を遮って、峰越えに移り、塩津谷に下り、敦賀方面へ脱出したのだという(『江州余吾庄合戦覚書』)。
また、塩津越えをして匹田に出て、木ノ目峠を経て府中城に逃れたともいう(『加賀藩歴譜』)。

  この退却の際に、小塚藤右衛門、木村三蔵ら5、6名が討死した(『村井重頼覚書』)。
横山長隆、富田景勝らの譜代衆、殿軍を受け持った長連竜も戦死したという(『三州志』『北藩秘鑑』)から、相当な激戦であったとも思われるし、利家自身にも危険が及んだものと推察される(岩沢愿彦氏)。

 

この前田隊の退却は、佐久間隊からは後陣の崩れに見え、後陣からは佐久間隊の崩れに見えたことから、ひろく戦意を失って、戦場を脱する者が続出した(『江州余吾庄合戦覚書』『賤ヶ岳合戦記』)。

利家はわずかの兵で府中城に帰陣すると、直ちに城の守備を整えさせ、城下町から鉄砲を徴発した。そして二十一日夜から翌日にかけて追撃軍との銃撃戦と市街戦があって、再び戦死者が出たらしい(『小川忠左衛門覚書』『亜相公御夜話』)。


関ヶ原の戦いで高次は東軍に属し大津城に籠城した

2012年12月29日 | 平城

歴史

1586年(天正14年)、豊臣秀吉は坂本城を廃城とし、浅野長政に命じて新たに築城された。その後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、1595年(文禄4年)に京極高次が城主となり6万石を与えられた。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで高次は東軍に属し大津城に籠城した。しかし大津城はもともと琵琶湖の水運を利用して美濃、越前方面から運ばれてくる物資を安全に保管するための城郭であり、攻防戦には不向きであった。

9月7日より毛利元康・立花宗茂ら西軍1万5000に城を囲まれ攻防戦が開始された。

これに先立ち、京極軍3000は12時間かけて城下を焼き払い、町は荒野と化した。

  京極軍は家臣赤尾伊豆守、山田大炊以下、奮戦し、7日間持ち堪えたが、9月13日からは近くの長等山から大砲で砲撃を受け、砲弾は眼下に落ちるような勢いで天守その他の建築物を破壊し、城内が混乱した間隙を縫って立花軍が二ノ丸までを占拠した。ここに至り、北政所の側近孝蔵主と高野山の木食応其の仲介による講和が成立する。

9月14日に降伏開城した高次は園城寺に入り、剃髪して高野山に上った。しかし、西軍1万5000を大津城に釘付けにした功績は大きく、戦後、徳川家康は高次を召しだし、若狭小浜城8万2000石に加増転封させた。

高次が若狭へ移ってまもなくして、家康は大津城を廃城にし、新たに膳所崎に膳所城を築城した。大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、彦根城、膳所城に転用、移築された。

彦根城の天守は、3層3階地下1階の複合式望楼型で、2重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。

各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。

大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したといわれ、昭和の天守解体修理のときに、転用されたものと見られる部材が確認されています。

北はびわこ競艇場の正面通りまで

南は打出浜まで!


「もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」

2012年12月29日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

 

打出浜なぎさ公園の琵琶湖岸の常夜灯(灯台ヵ)県立琵琶湖文化館(閉館中)

湖畔に石碑【県立琵琶湖文化館のすぐ隣に】

湖畔に説明の駒札【県立琵琶湖文化館のすぐ隣に】

「小舟入の常夜灯」(1808年の建立、高さ8.4m、大津市指定文化財)。旧東海道を大津ハローワークを膳所方面に50m。

【写真の右奥は、県警本部ビル、左はライオンズマンション】

京都で伊勢神宮を信仰をするグループがお伊勢参りをする拠点として建立されたのだそうです

ことわざ「急がばまわれ」は、実は琵琶湖で出来た言葉。

室町時代の連歌師宗長が

もののふの 矢橋の船は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」と詠んだのが起こり。

東海道の草津宿から大津宿を抜けて京都へ向かうのに、

 草津の矢橋から大津の石場まで琵琶湖を横断する船のルート
 約6kmと短いが、比叡山から吹き下ろす突風で舟が転覆するなど危険なコースを行くよりも、瀬田の唐橋を経由して琵琶湖をぐるっとまわっていく陸路
 約12kmと長いけれど、安全なコースを行く方が確実だ、という意味です。

 さて写真は、語源となった【草津-大津間】の渡し船の目印とされていた「小舟入の常夜灯」(1808年の建立、高さ8.4m、大津市指定文化財)です。

jyouyatou02.jpg現在は、湖岸が埋め立てられていることもあって、琵琶湖からは離れた場所(中央四丁目の大津税務署付近)にあります。石面には「京都世話人」38名の名前が刻まれ、京都で伊勢神宮を信仰をするグループがお伊勢参りをする拠点として建立されたのだそうです。

この辺りは湖上交通の拠点として、水茶屋が軒を連ねるなど賑わっていた場所だったそうで、石面には大津の世話人として「船方中、小舟入茶屋中伊勢屋甚兵衛・船屋平八」とも刻まれています。
jyouyatou03.jpg今は、住宅街の中に埋もれるように建っていますが、周辺だけ突然道幅が広くなっているところなどは、昔の船着場のなごりなのかも? 

急がば回れ実証なるか 滋賀県建築士会がイベント

京都新聞 転載

 「急がば回れ」の語源となった東海道の草津宿(草津市)-大津宿(大津市)間を、船を使うコースと、徒歩だけのコースに分かれて実際に進み、速さや風景を比較する催しが29日に開かれる。県建築士会のメンバーたちが江戸時代の旅装束姿で同日朝に草津を出発。大津に到着後、報告を兼ねた無料フォーラムを開く。

 かつての草津-大津間は、瀬田の唐橋を経由する徒歩コース(約14キロ)より、琵琶湖を帆船で結んだ「矢橋(やばせ)の渡し」を使ったコース(約10キロ)の方が近道。ただ、船は突風に遭って転覆する危険があり、遠回りでも安全な道を歩いた方が結局早く着く-との例えから「急がば回れ」の言葉が広まったとされる。

 今回の催しは、「矢橋の帰帆(きはん)」「瀬田の夕照(せきしょう)」など近江八景にも数えられた草津-大津間の景観を見直そうと県建築士会大津、湖南両支部が共催。両支部の若手メンバーや両市職員ら十数人が三度笠(がさ)に地下足袋姿で草津宿本陣を朝8時半に出発。瀬田の唐橋を経由して本来の東海道を歩く班と、「矢橋の渡し」を漁船で再現する班に分かれて比較する。

 大津支部青年委員会の久木野利一さん(41)は「今回はエンジン付きの船を使うので、船コースの方が速いはずですが、当日の天候次第では『急がば回れ』の実証になるかも。沿道から声援を頂ければ有り難い」と話す。

また、西武百貨店大津店の道路を挟んで公園あります。石橋港跡です。

本日の訪問ありがとうございす!!


彦根城

2012年12月29日 | 平城
世界遺産暫定リスト登載「彦根城」

彦根城HOME > 彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕(ふち)や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利(せり)川)を約2kmにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末(おすえ)町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

彦根城の古写真

<map id="Map2" name="Map2"> </map>彦根の城下町 - 400年前の都市計画 ―

彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕(ふち)や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利(せり)川)を約2kmにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末(おすえ)町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

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城下町鳥瞰

城下町鳥瞰図

彦根城の文化財

彦根城の文化財

国指定 【建造物】国宝 彦根城 天守
国指定 【建造物】
国宝 彦根城 天守
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  国指定 【建造物】重要文化財 天秤櫓
国指定 【建造物】
重要文化財 天秤櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 西の丸三重櫓
国指定 【建造物】
重要文化財 西の丸三重櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 佐和口多聞櫓
国指定 【建造物】
重要文化財 佐和口多聞櫓
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国指定 【建造物】重要文化財 太鼓門櫓
国指定 【建造物】
重要文化財 太鼓門櫓
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  国指定 【建造物】重要文化財 馬屋
国指定 【建造物】
重要文化財 馬屋
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  国指定 【名勝】玄宮楽々園(玄宮園)
国指定 【名勝】
玄宮楽々園(玄宮園)
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  国指定 【名勝】玄宮楽々園(楽々園)
国指定 【名勝】
玄宮楽々園(楽々園)
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彦根城 表御殿
彦根城 表御殿

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  登り石垣
登り石垣

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  市指定文化財 【天然記念物】オオトックリイチゴ
市指定文化財 【天然記念物】
オオトックリイチゴ
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  米蔵
米蔵

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オニバス
市指定文化財 【天然記念物】
オニバス
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近江戦国探訪「八幡 秀次の城と城下町」 城下町【瓦ミュージアム】編 2012.12.22

2012年12月28日 | ブロガーによる歴史探訪情報発信

瓦ミュージアム裏入口付近

  かつて、日本各地には多くの瓦製造所が存在した。
これらをここでは「在地瓦」と呼び、古代の官営瓦工房や、中世の寺社に属した瓦工房と区別しておきたい。
「在地瓦」は中世末から近世以降に、主に地元で産する粘土を材料に地元の需要に答えるために、地元の工房で生産される瓦で、製造工房の経営者や工人は必ずしももともと在地の者とは限らないが、定住し工房を在地で営んでいる者と定義しておく。

  在地瓦生産の起源に関しては、
 1)築城に際し城主が瓦工を招聘、または前任地より連れてきた。

 2)寺院の建立、又は改築による瓦の葺き替えに伴い招聘された瓦工が在地に定住した。

 3)在地の者などが、当該地に需要を見込みよそで修行して工房を開いたり、よその者が需要を見込んで移り住み営業を開始した。

等の言い伝えがなされている場合が多い。

いずれにせよ、それなりの需要がなければ工房の経営は続かないわけで、現に昭和30~40年代をピークに在地瓦生産は低迷し、現在は大産地に集約されてきているのが現状である。
一方、古くからの都市部や城郭・大寺院の所在するところ以外は、在地瓦の起源が近現代である場合が多いが、これも瓦屋根の一般への普及拡大時期と一致する。

 

 

  八幡瓦の起源について

  当地には羽柴(後の豊臣)秀次が叔父である関白藤原(後の豊臣)秀吉の命により天正13(1585)年築城を開始したといわれる「八幡山城」が存在したが、この時瓦工が当地に招聘されたことが起源とする資・史料は現時点では何ら知られていない。

現在のところもっとも有力な説は、当地に所在する「本願寺八幡別院」の屋根葺き工事に伴い、京都深草より瓦工が移住したというものである。

これは、文政10(1827)年成立と考えられる「寺本家過去帳」後書きに記されているもので、この寺本家は長く八幡瓦を製造する家々の中心的存在であり、寺本家から八幡瓦生産が始まったといわれている。

したがって寺本家の当地への移住・瓦生産開始が、八幡瓦の起源とされる。


シリーズ「淡海の城」(32)-敏満寺城(びんまんじじょう)(滋賀県多賀町敏満寺)

2012年12月27日 | 城郭・イベント情報

シリーズ「淡海の城」(32)-敏満寺城(びんまんじじょう)(滋賀県多賀町敏満寺)
 今回は、名神高速道路の多賀サービスエリアにある城郭遺構を紹介します。
 多賀サービスエリアがある場所には、実は平安時代に伊吹山寺の僧三修(さんしゅう)が開基したとされる敏満
寺という南北2500m、東西2000mの範囲におよぶ広大な寺域をもつ寺院がありました。東大寺再建で活躍した俊乗
房重源も建久9年(1198)に金剛五輪塔1基を寄進しており、この寺を非常に重視していたようです。室町期には寺
域を有する青龍山西麓に本堂・南谷・西谷・北谷と別れる50余の堂舎が建ち並び、守護の不入権をもち、戦国期に
は2万石を越える寺領を持っていたといいます。西明寺・金剛輪寺・百済寺といった湖東三山の天台寺院と並ぶ勢
力を維持していたことが分かります。
 永禄5年(1652)9月4日、久徳城(現多賀町久徳)城主久徳左近大輔実時が観音寺城の六角義実の味方をしたた
め浅井長政が80余騎の軍勢を率いて久徳城を攻めます。この時、敏満寺衆徒と敏満寺公文所・神官職を務める新谷
(しんがい)伊豆守勝経(妻は久徳実時の娘)は、久徳実時の味方をします。浅井勢は敏満寺に押し寄せ、敏満寺
衆徒は大門前で防御しましたが敗れてしまいます。勝ちに乗じた浅井勢が敏満寺の坊舎に火を付けたため120の坊
舎は悉く炎上し、新谷勝経ら800余人は戦死し、敏満寺は滅亡したということです。胡宮神社の参道入り口となっ
ている高速道路高架下に敏満寺大門跡がありますが、礎石は火を受けて赤色に変色しており、焼き討ちにあったこ
とを静かに物語っています。
 敏満寺が再び明らかにされるきっかけとなったのは、昭和34年の高速道路建設に伴う発掘調査、昭和57年・61年、
平成6年・9~12年にかけてのサービスエリア施設改良工事に伴う発掘調査が滋賀県教育委員会や多賀町教育委員
会で行われたことによります。なかでも昭和61年の名神高速道路多賀サービスエリア上り線施設等改良工事に伴う
発掘調査で寺院遺構とは思えない遺構が検出され、これが敏満寺を防衛する城郭部ではないかと言われてきていま
す。
 その場所は現在の多賀サービスエリア上り線(名古屋方面)の最北端に位置します。高さ1~5m、基底部幅6
~10mを測る土塁に囲まれた郭、虎口、櫓台が見つかりました。郭内からは礎石建ち建物2棟、掘立柱建物1棟以
上、深さ9m以上もある石積み井筒の井戸、幅60㎝・深さ30㎝程度の区画溝、3m×1.8mの隅丸方形で焼けた石
や炭が堆積した火葬墓と考えられる土抗が検出されました。
 城郭部は少なくとも二つの郭から構成され、最北端の主郭には北端に堀切と張り出した櫓台を備えており、主郭
への出入り口は南西端に開き、正面を櫓台で守り、90度ターンして空堀との間の虎口受け(出入り口前のテラス)
に出るという複雑な構造を持たせています。出入り口部分の構造から永禄・元亀頃のものという評価が専門家の中
でされています。また、発掘調査で明らかになった城郭部はこの上り線最北端部だけですが、寺域を画した要地に
いくつか城郭部があったのではないかと指摘されています。敏満寺は、東山道の要衝に位置し、江南、江北の境目
に位置することから佐々木六角氏と佐々木京極氏あるいは浅井氏の領土拡大の拠点に利用されてきたことは十分考
えられます。
 近江の天台系山岳寺院は比叡山延暦寺を始め、先述の湖東三山等が織田信長の焼き討ちにあっています。延暦寺
山徒や湖東三山衆徒が武装して、浅井長政と結託し城塞化していったことが起因となっています。また、山岳寺院
の参道を中心に枝葉のように展開する坊舎群を城郭に取り込み、山城が発展していくという見解が近年研究者の間
で出されており、敏満寺の城郭部の遺構は、まさに寺院を山城化させていく過程を如実に顕す物と報告されていま
す。しかし、敏満寺の場合は、あくまで武装化した寺院と捉えるべきで、後の山科本願寺や石山本願寺と同じ形態
と捉えるべきではないでしょうか。
 遺構は埋め戻されて、土塁と虎口のみ見ることができます。現在はドッグランの施設がありますので、そこを目
安にしてください。下り線からは陸橋を渡って見に行くことができますし、サービスエリアには外からも入れます
ので、名神高速道路を使わなくても見学は可能です。徒歩で見学の方は、近江鉄道多賀線の多賀大社前駅から絵馬
通りに出て右に(左は多賀大社)取り、高速道路高架下まで行き、高架を潜らずに左折し高速道路沿いの道を歩く
と下り線サービスエリア内に外部から入る入り口があります。(仲川)

城郭伝言板
  全国で実施される城郭関連の催し物についてお知らせします。
  ※ここに掲載した情報は、各機関のホームページやポスター・チラシから転載したものです。詳細についてはそ
  れぞれの機関にお問い合わせください。
  ※淡海の城友の会ではここに紹介した催し物への参加申込のあっせんや取り次ぎは一切行っておりません。
  各催し物の申込先を御確認のうえ、直接お申し込みください。

○大阪歴史博物館特別展「天下の城下町 大坂と江戸」
 会期:平成25年2月2日(土)~3月25日(月)
 会場:大阪歴史博物館 〒540-0008 大阪市中央区大手前4-1-32
     TEL06-6946-5728 FAX06-6946-2662
 プレ講演会
    ①「出土瓦にみる豊臣期大坂の大名屋敷」
   講師:豆谷浩之氏(大阪歴史博物館学芸員)
   日時:平成25年1月12日(土) 13:30~15:00
  ②「新発見の絵図が語る17世紀の大坂」
   講師:大澤研一氏(大阪歴史博物館学芸員)
   日時:平成25年1月13日(日) 13:30~15:00
  ※以下は①②共通
   会場:大阪歴史博物館四階講堂
   定員:250名(当日先着順)
      参加費:200円
  講演会「大坂と江戸」
  日時:平成25年3月10日(日) 13:30~15:00
  講師:脇田修氏(大阪歴史博物館館長)
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
    参加費:300円(ただし、特別展の観覧券もしくは半券提示の方は無料)
 シンポジウム「近世の二大城下町 大坂と江戸 その姿と都市景観をさぐる」
  日時:平成25年2月24日(日) 10:15~16:45
  会場:大阪歴史博物館四階講堂
  定員:250名(当日先着順)
  参加費:無料
  参考URL http://www.eventscramble.jp/e/tenka/

○滋賀県立安土城考古博物館連続講座「シリーズ 近江の城を探る」
  日付・テーマ・講師:
   ①1月12日(土)「彦根城を探る」 谷口徹氏(彦根市教育委員会)
  ②1月26日(土)「坂本城を探る」 吉水眞彦氏(大津市歴史博物館)
  ③2月9日(土)「八幡山城を探る」 中村吉孝氏(近江八幡市総合政策部)
  ④2月23日(土)「日野の城を探る」 振角卓哉氏(日野町教育委員会)
  ⑤3月9日(土)「佐和山城を探る」 小島孝修氏(公益財団法人滋賀県文化財保護境界)
  ⑥3月23日(土)「長浜の城を探る」 牛谷好伸氏(長浜市教育委員会)
 会場:滋賀県立安土城考古博物館2階セミナールーム
 時間:13:30~
  定員:140名(事前申込不要)
 参加費:300円(資料代)
  問い合わせ 滋賀県立安土城考古博物館
             〒531-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
              TEL0748-46-2424 FAX0748-46-6140 E-mail gakugei@azuchi-museum.or.jp

城郭だより ~景清道をたずねて
  さる11月17日(土)、探訪「景清道をたずねて」を開催しました。あいにくの雨模様でしたが、24名の参
加がありました。JR安土駅をスタートし、浄厳院から観音寺城下石寺を経て五個荘金堂まで、およそ10kmにわたり、
ところどころ残存する道を歩きながら景清道のルートをたどりました。
 景清道とは、平家の家人伊藤景清が平家再興を祈願するため、尾張から京へのぼるときに通った道といわれてい
ます。また、景清が眼病平癒を祈願するために通ったともいわれており、いずれも景清にちなんでこのような名前
が付いたと伝えられています。現在では野洲市から近江八幡市・旧安土町(近江八幡市)を経て、旧五個荘町(東
近江市)にかけて道の痕跡をたどることができます。特に安土から五個荘の間は比較的道が連続して残っており、
景清道のルートや景観を実感することができます。道は平地を通る部分もありますが、山中を通る部分も少なくあ
りません。源平合戦に敗れた平家方の景清が通ったとされることから、幅の広い立派な道ではなく、山中を抜ける
間道のような道であったとしても不思議はありません。そのあたりは、安土町石寺の観音正寺参道から分かれ、教
林坊の裏へ続く道によく残っています。景清道の由来については、景清との関わり以外に京へといたる間道、「か
げのきょうみち」から転訛したという説もあり、いずれにせよ、中山道や朝鮮人街道のような整備された街道では
なかったと考えられます。                                  (松下)

事務局からのお願い
  城郭伝言板に掲載する情報について会員の皆様からの提供をお待ちしています。展覧会・講演会・現地説明会な
どご存じのことがありましたら、事務局までお知らせ願います。

編集後記
  まずは事務局の怠慢によって会報の発行が大幅に遅れたことをお詫び申し上げます。年が明けてからは、いよい
よ連続講座「近江の城郭」が再開されます。皆さまふるってご参加ください。なお、参加には事前申込が必要です。
詳細については、この会報1頁をご覧ください。

「淡海の城」友の会事務局
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当気付
〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp URL:http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/


○●◎◇◆□■△▲▽▼※○●◎◇◆□■△▲▽▼※

「淡海の城」友の会事務局

滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
   城郭調査事務所気付

〒521-1311
滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678
TEL 0748-46-6144
FAX 0748-46-6145
URL http://www.geocities.jp/nobunaga9999castle/
E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp


淡海の城(おうみのしろ)  第31号   平成24年(2012)12月28日発行

2012年12月27日 | 城郭・イベント情報

淡海の城(おうみのしろ)  第31号   平成24年(2012)12月28日発行

速報 淡海の城  六角征伐と近江の戦国時代~連続講座第3回にむけて
  文正2年(応仁元年・1467)1月、畠山義就と畠山政長による上御霊神社の戦いに端を発した内乱は、諸国の守護
を巻き込んで拡大し、やがて全国的な大乱へと発展します。この後10年に亘って続く応仁・文明の乱の始まりです。
この大乱によって室町将軍の求心力は一気に低下し、諸国の領主勢力が自立する戦国時代へと突入します。近江に
おいても守護六角高頼が力を付け、国内の公家・寺社領を押領するなど、勢力拡大を図ります。
 こうした状況に対し、幕府はたびたび押領した領地の返還を命じますが、六角高頼はこれに従わず、ついに長享
元年(1487)、室町幕府第9代将軍足利義尚は六角高頼を征伐するため自ら近江に進軍します。いったんは居城を逐
われた六角高頼でしたが、甲賀の国人衆と組んでゲリラ戦を展開し、義尚が陣中に没したこともあってこの親征を
はねのけました(第一次六角征伐・鈎の陣)。その後延徳3年(1491)、第10代将軍足利義材が近江に進軍しますが、
この時も幕府軍は六角氏を討伐できず、明応2年(1493)の細川政元のクーデターで義材が将軍の座を逐われ、親征
は失敗に終わりました。
 この六角征伐は、六角氏が戦国期の守護権力として自立していく画期となった事件の一つです。この後、守護代
伊庭氏を排除(伊庭氏の乱)することで六角氏の権力は確立されることになります。いわば、六角征伐は近江の戦
国時代の幕開けを告げる事件ということができます。今回の講座では、六角征伐と伊庭氏の乱を経て成立した近江
の戦国時代について考えてみようと思います。                                                    (松下)

○連続講座「近江の城郭」第3回 鈎の陣~鈎陣所跡 開催のお知らせ
  応仁元年(1467)にはじまる応仁の乱により、中央権力としての室町幕府は衰退し、地方勢力が台頭する戦国時代
が幕を開けます。近江においても守護六角氏が権力を振るうようになり、幕府に対し反抗的な態度を取るようにな
ります。これに対し、将軍権力の回復をめざす室町幕府第9代将軍足利義尚は、長享元年(1487)、六角氏を討伐す
るため近江に出陣し、鈎(栗東市上鈎)に布陣しました。しかし、六角氏のゲリラ戦法に苦しめられて戦線は膠着
し、義尚が延徳元年(1489)に陣中で没したため、六角氏を討伐することはできませんでした。将軍親征をはねのけ
たことで、これ以後六角氏は戦国期の守護権力として自立していくこととなります。
  この時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付
近に比定されています。また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。
 現地には今も土塁や堀の痕跡が残されています。今回の講座では、文化財専門職員の案内で鈎陣所跡を訪ね、現
地に残る遺構をたどります。皆さまふるってご参加ください。

1.日時 平成25年1月26日(土) 13:30~16:30  ※13:00受付開始
      JR草津線手原駅集合・解散    全行程約5km(平地・舗装道)
            ※草津駅13:25発-手原駅13:29着 貴生川駅12:53発-手原駅13:12着 をご利用ください。
2.場所 栗東市商工会館3階研修室E(講義)/鈎陣所跡(現地見学)
     栗東市手原3-1-25/栗東市上鈎
3.主催 滋賀県教育委員会
4.協力 栗東市教育委員会
5.内容 講義「応仁の乱と将軍の近江親征」 講師:松下浩(滋賀県文化財保護課)
     鈎陣所跡現地見学 解説:栗東市文化体育振興課専門職員
6.定員 100名(事前申込制)
7.参加費 300円(保険料等実費分)
8.参加申込方法
(1)FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯推奨)をお書きの上、下記までお申し込み
   ください。
(2)申込締切 平成25年1月24日(木)午後5時
9.持ち物 健康保険証、水筒、タオル、ウォーキングに適した靴・服装
10.その他
(1)講座資料(A4 8頁程度)を無料で配布します。
(2)単独回のみの参加も可能です。
(3)受講された方には修了証を発行します。
(4)悪天候等による中止の場合は25日(金)午後5時までに参加者に連絡します。
(5)集合場所付近には駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください。

11.参加申込・問い合わせ
 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査担当
  〒521-1311 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦6678 城郭調査事務所
  TEL0748-46-6144 FAX0748-46-6145 E-mail ma16@pref.shiga.lg.jp

今後の予定
【第4回】近江一向一揆の拠点~金森・三宅
    日時:平成25年2月23日(土) 11:00~16:30 JR守山駅集合・解散
  場所:守山駅前コミュニティホール(講義)/守山市金森町・三宅町(現地)
    講義:近江の真宗と寺内町金森 上垣幸徳(滋賀県文化財保護課)
    現地解説:守山市教育委員会専門職員
【第5回】湖賊の自治都市~堅田
  日時:平成25年3月23日(土) 13:00~16:30 JR堅田駅集合・解散
  場所:堅田市民センター(講義)/大津市本堅田(現地)
    講義:諸浦の親郷・堅田 仲川靖(滋賀県文化財保護課)
    現地解説:大津市歴史博物館専門職員