城郭探訪

yamaziro

中村城 近江国(大津・葛川中村町)

2017年04月30日 | 平城

画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

お城のデータ

所在地:大津市葛川中村町108-1 map:https://yahoo.jp/3o_IYY

現 状:学校・神社

区 分:平城

築城期:

築城者:集落民

遺 構:石垣

標 高:335m 比高差:0m

目標地:葛川小・中学校

駐車場:葛川小・中学校

訪城日:2017.4.16

写真の説明はありません。

お城の概要

葛川小・中学校(葛川中村町108-1)の北側あたり、安曇川の左岸にありました。

集落の南の守り城と考えられ、今も史跡がわずかに残っています。

葛川は、大津市北部に位置しており、安曇川の峡谷沿いのいくつかの集落から形成される自然豊かな地域。
平安時代から続く修行の場として知られ、古民家の建ち並ぶ歴史と情緒あふれる美しきこの葛川の地。

お城の歴史

詳細不明だが、鯖街道添いの、集落の防衛のための集落の城(細川城と同じく)か?

844~ 平安時代 温井(貫井)地域に惟喬親王を祖とする木地師の集団が住み着く
859      坊村に葛川寺(明王院)が相応和尚により創建される

1334 南北朝  坊村の葛川寺はこの頃より息障明王院を正式寺号とする
1662 江戸時代 5月、高島町を震源地としたM7.6の大地震が発生し、榎村(現梅ノ木)町居村                     坊村に惨憺たる大被害をもたらした(貝原益軒、湖国巡の記より)
1873 明治 6月 木戸口の地蔵院に弘文学校、梅ノ木に梅巷学校、細川に蓬莱学校ができる
1873    8月 弘文学校が葛川学校になる
1889   22  当時、細川、貫井、梅ノ木、町居、坊村、中村、木戸口、坂下の八村に分かれて                    いたのが八村が合併して葛川村になる画像に含まれている可能性があるもの:空、山、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:夜、木、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、空、植物、家、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、屋外
写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/948997715262804

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・大津のかんきょうの宝箱

本日の訪問ありがとうございす!!


倉橋部城 近江国(近江八幡)

2017年04月15日 | 平城

倉橋部城

主郭部の石垣

お城のデータ
所在地:近江八幡市倉橋部町/東近江市上羽田町 map:ttp://yahoo.jp/kATND9
現 状:山林(山麓/山頂・林)
区 分:平山城
築城期:室町期
築城者:倉橋部氏
遺 構:曲輪・土塁・竪堀・石垣
標 高:154m  比高差40m
目標地:安吉神社
駐車場:倉橋部集会所:前路上駐車
訪城日:2016.7.25・2017.3.10・2017.4.4
お城の概要
近江八幡市倉橋部集落の「愛楽寺」の狐狸の裏山が遺跡ウォーカーの比定地であるが?。
安吉神社の背後が詰め城か?
山麓館は「愛楽寺」と考えられるが、あくまで想像で確証はない。
お城の歴史
『佐々木南北諸氏帳』には、「蒲生郡 倉橋部住 佐々木隋兵 倉橋部 右京進の名が見える。
『江源武鑑現代語訳』には

九月大

二日 右衛門督が勢州から夜毎加勢を呼び寄せて箕作城へ入れていると吉田出雲守が観音寺城へ注進する。屋形は浅井下野守祐政に、承禎父子の軍勢は八千程である、いくらでも勢州から加勢を呼び寄せてから攻めよ、そうすれば勢州退治が容易になるであろうと仰せになる。浅井は、この計画は必ずうまくいくと思われると申して、わざと箕作への加勢をゆっくりと入れさせる。

十九日 京極、朽木、浅井が観音寺城に出仕して屋形に申し上げるには、箕作の軍勢が一万二千になり、その上和田山の建部源八兵衛、吉田出雲守等も寝返り義弼に味方した、さらに勢州国司が鈴鹿越えで近日当国に入ると伝え聞いており、これ以上戦を引き延ばせば却って逆襲を招くことになり難しい状況となるであろうとのことである。屋形は、今こそ合戦の時である、それぞれの攻口を定めると仰せになる。

一 箕作表へは京極長門守高吉五千騎、浅井下野守祐政、備前守長政父子四千五百騎の合わせて九千五百騎である。箕作東口へは平井加賀守、進藤山城守、後藤喜三郎の三人で八千騎である。

一 和田山南坂へは澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守の五人で六千騎である。西坂口へは京極兵部大夫、蒲生右兵衛大夫両名で七千騎である。

一 勢州国司の軍勢への抑えとして君ヶ畠口へ山崎源太左衛門秀家、永田刑部少輔、山岡美作守の三人で五千騎である。

一 同様に国司の抑えとして鈴鹿口へ多賀新左衛門尉、和田和泉守、目加多摂津守の三人で四千三百騎である。

二十日 卯の下刻からそれぞれの軍が合図を定めてまず和田山に攻め懸ける。城中からは六千騎の軍勢が防戦する。卯の下刻から午の刻までの戦いで敵八百七十騎を討ち取り、味方は三百二十騎が討死する。午の下刻になって吉田道覚が城を出て、命を助けてもらえるならば城を明渡すと屋形へ申し入れる。屋形は、諸卒には罪はない、建部、吉田が切腹すれば兵卒は助けようと仰せになる。これを受けて建部、吉田は出家し味方の陣に降伏して再び屋形に申し上げる。屋形は、既に出家をしたのであれば助命しようと仰せになり和田山の城を受け取られる。建部、吉田の二人は屋形の菩提所である東光寺に入寺する。同日、箕作城に二方面から攻め懸ける。承禎父子は大手、搦手へ打って出て自ら采配を取り下知をする。下方三夢という者が堀で討死しそうなのを見て右衛門督が一騎で駆け下りてこれを助けたところ、味方の軍から右衛門督を討ち取ろうと浅井の家人で坂田十内という者が駆け寄り横槍を入れる。義弼は引き返して十内を馬上から掴み、箕作城の二の丸から数町の堀へ投げ入れる。このようにして敵味方が大手、搦手で同時に入り乱れて戦い、承禎軍は二千三百、味方は八百二十騎が討死する。武将は一人も討たれず午の刻から酉の刻まで戦う。承禎から軍使が立てられ開城する旨を申し入れるが、屋形は承諾されず承禎父子を討ち取るように諸将へ仰せ付けられる。これに対して京極高吉、朽木宮内少輔の両名が屋形に諫言し、一家を滅ぼしてしまうことはよくない、その上開城すると申し入れているのを承認せずその者を誅殺しようとするのは良将が強く嫌うところであると申し上げる。屋形は、どのようにでも其の方等の思うように任せると仰せになり、京極、朽木両名は箕作城を受け取って承禎父子を日野谷かいかけという所へ移す。この時の落書には次のように詠まれる。

をしかりしそのみつくりを後藤にかへて今はかうびんかいかけの城

元来承禎父子はこのような目にあう筈はなかったのであるが、六年前に後藤但馬守を殺害してからは屋形との仲が悪くなりついにはすべてを失うこととなった。実に屋形が幼少の頃から近江国の政務を預かり管領職まで手に入れたが、息子右衛門督が欲心を抱き屋形を滅ぼして国を奪おうと数年間企んだところついに天命に背きこのようなことになった。屋形も承禎父子には数年に亘り不義等が多くあったが、亡父が後見につけてからは偏に承禎公に慈父の如く礼を尽くされたので国人も尊敬し後見の義賢と申したものである。義賢は去る永禄六年に後藤を謀殺したため家を失ったのである。

二十一日 将軍並に織田上総介信長が総勢二万八千で本日卯の上刻に濃州立正寺を発ったと池田庄三郎が早飛脚を仕立てて屋形に申し上げる。午の下刻に観音寺城へ早飛脚が到着する。屋形は池田に対して、その旧功を思う所ひととおりでないと仰せになる。同日、将軍が江州柏原上菩提院に着陣されたと報告がある。信長は田中城に参陣したということである。

二十二日 将軍が桑実寺へ着陣されたと報告がある。信長は馬場に参陣したということである。酉の刻に屋形は観音寺城を発ち将軍の御迎のために桑実寺へ移られる。将軍は対面し、まず承禎父子のことを仰せになる。承禎父子が国の害となるのを知り一族といえども天下草創のためを思い追い払ったと聞き大いに心を動かされたということである。

二十三日 卯の刻に屋形が桑実寺を発ち観音寺城へ帰城される。未の刻に将軍が観音寺城に到着される。信長は武佐に着陣する。屋形は信長と評議をされ、一両日まずは人馬を休息させることになる。

二十七日 本日は吉日であるので将軍家が観音寺城から上洛される。天下草創の上洛であるため行列等を決められたところ先陣は信長、二陣は屋形、三番目に将軍家が出立することに決まる。そこで屋形が仰せになるには、吾は信長より若年でありさらに信長に対して既に慈父の礼を取っている、それだけでなく当家が代々天下草創に際して功を顕していることは世間で語られるところである、このため先陣を仕りたいとのことである。信長は、吾を慈父の如く思い礼を正されるのは非常に恥ずかしいことである、特に古例を引かれたように確かに佐々木家が天下草創に功を顕す例は古今に多い、と申す。そこで前陣屋形、二陣信長と定め本日酉の刻に観音寺城を出発される。

一 先陣屋形の軍勢五万六千騎  この備は十三備(実は江州の軍勢は三万五千騎であるという。軍勢を多く見せる計略である。)

  • 先手七手組(これは江州で代々先手を司る家である。)  目賀田摂津守、馬渕伊予守、伊庭河内守、三井出羽守、三上伊予守、落合出雲守、池田大和守   以上七人の軍勢五千騎
  • 二番備  浅井下野守、同備前守、高嶋越中守、朽木宮内大輔  この軍勢四千三百騎
  • 三番備  永原大炊頭、同筑前守、平井加賀守、楢崎内蔵介、鯰江又八  この軍勢三千四百騎7四番備  京極長門守、同治部太夫、黒田日向守、坂田兵庫頭、水原河内守  この軍勢四千三百騎
  • 五番備  蒲生右兵衛太夫、後藤喜三郎、和田和泉守、種村三河守 この軍勢二千八百騎
  • 六番備  澤田武蔵守、種村大蔵大輔、永田刑部少輔、山崎源太左衛門尉、青駿河守、朽木宮内大夫 この軍勢三千七百騎
  • 七番備  小川孫一郎、久徳左近兵衛尉、野村越中守、鏡兵部少輔 この軍勢二千五百騎
  • 八番備  平井丹後守、倉橋部右京進、赤田信濃守、宮川三河守、田中石見守、大野木土佐守、三田村左衛門佐、加藤佐渡守  この軍勢三千二百騎
  • 九番備 ・・・・・
  •  
  • 十三番・・・・・木村筑後守、山内讃岐守   この軍勢三千八百騎  

一 二陣織田家の軍勢六万六千騎  以上十七備(実は四万二千騎である。江州と同じ計略である。)

  • 一番備 佐久間右衛門尉、同大学助、同刑部少輔、同左京進 この軍勢五千七百騎
  • 二番備 飯尾近江守、同隠岐守、織田玄蕃允 この軍勢三千二百騎
  • 三番備 水野帯刀左衛門尉、同大膳亮、簗田出羽守、佐々隼人正 この軍勢二千五百騎
  • 四番備 林佐渡守、池田庄三郎、毛利新介、梶川平左衛門尉、織田源兵衛尉 この軍勢三千騎
  • 五番備 柴田権六郎、前田又左衛門尉、徳川三河守 この軍勢四千二百騎
  • 六番備 木下藤吉郎、同雅楽頭、毛利河内守、織田造酒丞  この軍勢三千五百騎
  • 七番備 不破河内守、同彦三、織田上野介、坂井右近将監、中嶋豊後守  この軍勢二千八百騎
  • 八番備 明知十兵衛尉、山田三左衛門尉、蜂屋兵庫頭  この軍勢四千五百騎
  • 九番備 山口飛騨守、遠山河内守、岩室長門守、織田左馬允 この軍勢三千二百騎
  • 十番備 丹羽五郎左衛門尉、津田掃部頭、福冨平左衛門尉 この軍勢三千四百騎
  • 十一番備 佐々内蔵助、河尻與兵衛尉、野々村三十郎、澤田越後守、津田源八郎 この軍勢二千三百騎
  • 十二番備 織田家  旗本の軍勢一万騎
  • 十三番備 織田十郎左衛門尉、同美作守、同市令助、同左助、同孫五郎 この軍勢二千騎
  • 十四番備 森三左衛門尉、稲葉又左衛門尉、村井民部少輔 この軍勢二千百騎
  • 十五番備 氏家常陸守、稲葉伊予守、伊賀伊賀守(名字を後に改めて安藤という)この軍勢二千四百騎
  • 十六番備 村井民部少輔、同丹後守、嶋田所之助、奥平十内、加藤三右衛門尉、甲斐越前守、犬山越中守、名塚采女正、乾加賀守 この軍勢四千二百騎
  • 十七番備 織田孫兵衛尉、同主水正、丸毛伊豆守、山口半左衛門尉、岡部又右衛門尉、堀池主膳正、前田一学、小畠左馬允、丹羽想内兵衛尉、瀧野源八、寺田善右衛門尉、篠川兵庫頭、団平八、永井新太郎、森兵部左衛門尉  この軍勢三千四百騎

第三陣に将軍家近習の軍勢二千騎が続き、細川兵部大輔藤孝、上野中務大輔清信が五百騎にて二列に並び将軍を先導する。

本日未の下刻に将軍が三井寺観音院に着陣される。屋形の軍勢は大津、松本、馬場、茨川に陣を置き、先陣は山科の里々に陣取る。信長の軍勢は多野、勢多、石山、草津、坪井、目川に陣を置き、明日二十八日に京都に入るということである。戌の刻に江州七手組が粟田口へ押し寄せて陣を取ったところ三好笑岩の軍勢は攻めかかってくることもなく、それどころか味方の軍勢が強大であると聞いて三好一族等は近国の城へ引き篭もったと粟田口に陣取る七手組が申し上げる。三好一族の立て篭もる城を一々書状にて申し上げる。・・・・云々 

安吉神社の廃後・・詰め城であろう。
      物見櫓跡か?(瓶割山城
 http://shimohaneda.jpn.org/?p=72主郭部の石垣ハイキングコースで分断された主郭部竪堀        
     
  倉橋部集落がら
東近江市

上羽田地区から遠景

2017.4.4

駐車位置から長福寺城駐車位置かt観音寺城遠望


2016.7.25訪城時(倉橋部)
  
 
近江八幡の城について

 近江の国は、古より人々や物資の往来が盛んで様々なものが行き交いました。近江の国を舞台にした戦いが数多くあることを示すものとして「近江を制するものは天下を制する」という言葉も残されています。
戦に欠かす事の出来ない「城」は、滋賀県内に1300を越える数に及びます。この数は、都道府県別では全国で4番目の多さで、分布密度で見れば全国で最も高くなります。
 近江八幡市が属する東近江地域は鎌倉時代より活躍した近江守護の佐々木氏やその家臣が築いた城が多く、その築城技術の高さは一見の価値があります。今回はその中から代表的なお城を紹介いたします。

織田 信長   豊臣 秀次
▲織田 信長 ▲豊臣 秀次


近江八幡の城マップ


近江八幡市内の主な城跡
1八幡山城宮内町 12久郷屋敷西宿町 23馬渕城 馬渕町
2浅小井城浅小井町 13橋部城 倉橋部町 24牧村城牧町
3宇津呂館 中村町 14小森城中小森町 25円山城円山町
4岡山城(水茎館)牧町 15金剛寺城(金田館)金剛寺町 26安土城 下豊浦
5沖島尾山城沖島町 16田中江城 田中江町 27観音寺城(佐々木城)石寺、宮津
6沖島頭山城沖島町 17谷氏館(友定城) 友定町 28香庄館香庄
7沖島坊谷城沖島町 18長光寺城(待瓶割城)長光寺町 29金剛寺城 慈恩寺
8長田城長田町 19西宿城 西宿町 30常楽寺城(木村城)常楽寺
9小田城(高畠氏館)小田町 20野村城野村町 31平井館下豊浦
10北津田城北津田町 21船木城 船木町  
11北之庄城北之庄 22本郷城(久里城) 金剛寺町  

参考資料:滋賀県中世城郭分布、史跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』『江源武鑑現代語訳』、近江八幡の城、蒲生郡志

本日の訪問ありがとうございす!!


落合城 近江国(日野)

2017年04月03日 | 平城


お城のデータ

所在地:蒲生郡日野町松尾1丁目79 map: http://yahoo.jp/nJJxYN

区 分:居城

現 状:寺院

築城期:

築城者:落合氏

遺 構:宝塔

目標地:日野町立幼稚園・日野小学校グランドの西側・スーパー隣

駐車場:長福寺

訪城日:2017.4.2

お城の概要

日野町の旧街道の外れ(現官庁・学校域)、無住の長福寺が残存する。毘沙門堂・印塔(墓?)、地蔵尊が残る。

 『滋賀県中世城郭分布調査』その他城郭一覧には、「291落合城 蒲生郡日野町落合」と記す

『日野町志』には、落合城「落合因幡守城跡在長福寺とあるが、詳細不明」と記す。現在、蒲生郡日野町に落合集落が存在しない?

遺跡ウォーカーには、「滋賀県蒲生郡日野町落合 落合城」には、滋賀県城郭分布調査1、城。<立地>不明。<現況>不明。

お城の歴史

『浅井三代記』 磯山の城責落す事 http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg422.html

翌日十七日未明より浦手へ向ひし堀能登守、新庄駿河守、野村伯耆守、同肥後守此四人の人々磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久か城へ押よせ鬨を憧と作ける。城中よりも、二百五拾騎にて打て出て、明神山の上にてしばしか程はさゝへしか。味方六百余騎面もふらず切てかゝればこゝは防ぎがたき所なりとて、城へ引取り門をちやうとうち城を丈夫にかためたり。

 観音城には佐和山表へ敵働き出るとて、定頼卿諸卒引具し出張し給ふ。相つゞく人々には、進藤山城守、後藤但馬守、伊庭美濃守、目賀多伊豆守、蒲生筑後守、三上伊予守、平井加賀守、落合因幡守、永原安芸守、奈良崎源五左衛門尉彼を宗徒の大将として、都合其勢九千三百余騎の着到にて、十七日辰の一天に観音城を立て佐和山表へ進発すばや、前勢は清水村平田辺までみち/\たり。それより二手にわけ、一手は上道佐和山海道へ打むかふ。一手は海手へをしまはす。上道の士大将には進藤山城守なり。相つゝく人々には伊庭、目賀多、三上、蒲生、永原四千余騎にてかけむふ。 

長澤(ながさわ)神社 御由緒 滋賀県野洲市比江765

御由緒
社蔵の「長澤神社表録」によれば、大宝三年の創建と伝え、近江国司紀朝臣友安が朝廷に奉聞、官符を賜わって宮殿を造営、神田、封戸が附与され、正一位勲三等長澤三処太神の勅額が掲げられたという。境内の長澤池は、菖蒲の名所として名高く、高倉院の御宇安元二年五月ごろ、藤原俊成は、「長沢の 池のあやめを 尋ねてそ 千代のためしに ひくべかりける」と詠み、鎌倉将軍源頼朝は文治三年に禁制を立て、この池の「杜若」の無断伐採を禁じた。神田・封戸を当社に寄進した。
社殿は、文永年中に兵火にかかって焼失、のち建武年中に再建されたが、応仁の大乱のとき、落合因幡守の陣所となり、再び社殿・諸樓が焼失。
日野小学校グランド隣のスーパー
参考資料:『日野町志』『江州佐々木南北諸士帳』『浅井三代記』『滋賀県城郭分布調査1』『遺跡ウォーカー』『日本城郭大系11』。

大森城跡(大森館・大森氏居館) 近江国(蒲生)

2017年03月22日 | 平城

お城のデータ

所在地:滋賀県東近江市蒲生大森町 map:http://yahoo.jp/AjIxms

別 名:大森氏居館

区 分:平城・居館

立 地:平地

現 状:寺地・境内地

築城期:室町期

築城者:大森数馬

遺 構:消失

目標地:蒲生大森町集会場・願王寺

駐車場:蒲生大森町集会場・願王寺

訪城日:2017.3.17

お城の概要

『蒲生町史(平成7年)』の742頁には

大森氏

現在、蒲生大森町集落の願王寺の場所を「数馬屋敷」と呼んでおり、大森数馬の館であろう。

現在はは土塁や堀は残っていないが1980年頃には、本堂の裏には土塁に一部思われる堤があった(白井政行氏談)。

願王寺の住職に話では、「もともと寺の周りは全部川であったともいい、堀の名残ともみられる。(安田義幸氏談)。

日野川西岸の小字岩吹には、「数馬」と呼ばれる所があり、そこが大森氏関係の場所と判断され、墓があったといわれる。

お城の歴史

『蒲生町史(平成7年)』の710頁には

大森の地名は旧八日市大森町にもあるが、諸書に登場する大森氏は蒲生町の大森の出身と考えられてる。

安井氏と同様、永禄十一年の日野城籠城に人数に「家の子郎等」の一人として見えているのが初見。

『近江蒲生郡史』巻八の「古蹟名勝志」の項では、大森数馬なる人物について、もともと佐々木六角の家臣であり、同氏滅亡の後蒲生家に仕えたとある。

天正10年本能寺の変後の日野城籠城にも、葛巻隼人らとともに、大森左京進のなが見える。

さらに、蒲生氏が会津に移ってからの分限帳にも、大森左京(六百石)。大森彦四郎(三百石)など見える

六角氏・蒲生氏の家臣であった大森氏の館跡であった。

参考資料:滋賀県城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡の城)、蒲生町史、近江蒲生郡志・遺跡ウォーカー

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「近江の城郭」 大津城・城下町跡/膳所城跡・城下町跡

2017年03月11日 | 平城

.現地探訪「大津から膳所へ」

大津城跡・城下町跡

・膳所城跡・城下町跡

(1)日時:平成29年(2017年)3月4日(土曜日)12時30分~16時30分

(2)場所:大津城跡・城下町跡・膳所城跡・城下町跡(滋賀県大津市)

  • 集合場所:JR大津駅北口(琵琶湖側)
  • 解散場所:篠津神社 ※京阪中ノ庄駅まで徒歩10分

(3)主催:滋賀県教育委員会

(4)協力:大津市教育委員会

(5)探訪行程

  • JR大津駅→大津城跡→旧東海道→膳所城跡→篠津神社
  • 全行程約8km

(6)案内講師:大津市教育委員会文化財保護課専門職員

(7)定員:100名(事前申込制 先着順)

(8)参加費:無料

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「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」  第3回 長浜城跡・城下町跡

2017年02月12日 | 平城

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」 第3回 長浜城跡・城下町跡

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」
第3回長浜城跡・城下町跡

長浜は、羽柴秀吉が初めて城持ち大名となった場所です。湖岸に築かれた城は、石垣の上に天守がそびえ、建物には瓦が葺かれるなど、織田信長・豊臣秀吉によって確立された織豊系城郭の特色を備えています。長浜城は単に羽柴秀吉の居城であったというだけではなく、信長時代に近江に築かれた坂本城(大津市)や安土城(近江八幡市・東近江市)、大溝城(高島市)とともに、織田信長による近江支配を担った拠点城郭の一つでもありました。また秀吉は、築城と同時に城下町の建設も行い、琵琶湖とつながり、整然とした町割を持つ城下町をつくりあげました。この秀吉のつくった城下町が今の長浜の町の起源です。その後、豊臣時代には家臣の山内一豊が城主となり、豊臣政権による近江支配の拠点城郭の一つとなりました。

このように現在の長浜の基礎は秀吉によってつくられ、今も各所にその痕跡が残ります。今回の講座では、長浜城跡と城下町について、現地に残る痕跡を長浜城歴史博物館学芸員の案内で御覧いただきます。

第3回「長浜城跡と城下町」

  • 長浜は、羽柴秀吉が初めて城持ち大名となった場所です。豊臣時代には家臣の山内一豊が城主となり、近江支配の拠点城郭の一つとなりました。

「戦国の近江」魅力発信事業・連続講座「近江の城郭」 第3回 長浜城跡・城下町跡

【日時】平成29年1月22日(日)12:30〜15:30 ※12:00受付開始

【集合】長浜市曳山博物館(長浜市元浜町14-8)※JR長浜駅から徒歩7分

【解散】長浜市長浜城歴史博物館(長浜市公園町10-10)※JR長浜駅まで徒歩7分

【会場と内容】
■講義:長浜市曳山博物館(長浜市元浜町14-8)
「信長・秀吉の近江支配」松下浩(滋賀県教育委員会文化財保護課)
■現地見学:長浜城跡・長浜城下町跡
(講師)長浜市長浜城歴史博物館学芸員

【行程】全行程約4km
長浜市曳山博物館(講義)→長浜城下町跡→長浜城跡→長浜市長浜城歴史博物館

【定員】60名(事前申込制・先着順)

【参加費】無料
※ただし、長浜市曳山博物館・長浜城歴史博物館の展示をご覧になる場合は別途入館料が必要です。

【持ち物】健康保険証、水筒、手袋、タオル、ウォーキングに適した服装・靴

【参加申込方法】
1.FAX・電話・メールに住所・氏名(ふりがな)・連絡先(携帯電話推奨)をお書きの上、下記までお申し込みください。
2.申込締切:平成29年1月19日(木)17時
◆滋賀県教育委員会事務局文化財保護課城郭調査係
 TEL:0748-46-6144
 FAX:0748-46-6145
 E-mail:ma16@pref.shiga.lg.jp

【その他】
1.講座資料(A4版8頁程度)を無料で配布します。
2.単独回のみの参加も可能です。
3.受講された方には修了証を発行します。
4.当日の気象条件等の変化により、コース・終了時間等を変更する場合があります。
5.悪天候等による中止の場合は1月20日(金)17時までに参加者に連絡します。
6.集合場所には駐車場がありません。公共交通機関を利用してご参加ください。

【今後の予定】
1.第4回 彦根城跡:彦根市
 平成29年2月5日(日)
2.第5回 関ヶ原合戦と近江
 平成29年3月4日(土):大津城跡・膳所城跡現地探訪
 平成29年3月5日(日):シンポジウム「関ヶ原合戦と近江」於:ピアザホール(大津市におの浜1-1-20)
※詳細は、開催の約1ヶ月前に県政eしんぶん(http://www.pref.shiga.lg.jp/hodo/e-shinbun/index.html)等で発表します。

◆主催:滋賀県教育委員会
◇協力:長浜市長浜城歴史博物館
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■近江歴史探訪案内メール配信サービス
■滋賀県教育委員会文化財保護課
■TEL:077-528-4674


笠川城 近江国(栗東)

2016年12月06日 | 平城

お城のデータ

所在地:栗東市笠川  map:http://yahoo.jp/H4EBr6

現 状:宅地

区 分:平城

築城期:

築城者:笠川氏

城 主:笠川氏

遺 構:新興住宅で破却か?不明

標 高:95m

目標地:八幡神社

駐車場:笠川自治会館or路上駐車

訪城日:2016.12.3

お城の概要

『滋賀県城郭分布調査3』、「集落北西端の薮が微高地となっており、川沿いに土塁状の遺構も存在するが城館の土塁とは判断できない。ここで殿様が、御旅所の八幡神社へ来る大宝神社の祭りを見物したという伝承がある。

なお『近江栗太郡志』は、村の北端の「今田となる」地を「殿屋敷」と称するとしている。」 

お城の歴史

笠川氏代々の居城。(かさがわ)と読む。古代この地に蟠踞した豪族の笠氏による。
築城時期など、詳細は一切不明。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3(野洲・栗太郡の城)・栗太郡志・遺跡ウォーカー

本日の訪問ありがとうございす!!


堅田城  近江国(大津)

2016年11月12日 | 平城

堅田城

 

お城のデータ
所在地:大津市本堅田町   map:http://yahoo.jp/p-xNG
現 状:宅地
区 分:平城
築城期:
築城者:
遺 構:水路(堀痕か?)
目標地:伊豆神社
駐車場:参拝者駐車場
訪城日:2016.11.6
お城の概要

遺構は現存しないが、「西ノ切」「宮ノ切」などの地名と直線的に張り巡らされた水路が残る

琵琶湖の水運に絶大な特権を持った自治都市・堅田の本拠。
堅田大宮・伊豆神社を拠点に、殿原衆と全人衆の合議制による運営がなされていたとか。

戦国期には織田信長に降伏。朝倉軍の攻撃を受け、織田方大将の坂井政尚が戦死するほどの激戦となる。
江戸時代には堅田藩が置かれ、大津代官従属の元で自治運営時代の経済的特権を追認されている。

お城の歴史 

『江州佐々木南北諸氏帳』には、「片田城主(堅田城主) 佐々木隋兵 片田兵部少輔秀氏・同 佐々木末隋兵 山田民部丞忠宗・同 佐々木末元備州 沢田兵庫宗永」の3城主名を記す

『当代記』には、

 元亀4年2月20日条

「二月廿日、信長人数被立、則山岡光浄院道阿弥事令味方則参陣、堅田の城は被責落、三百被討補」と記す。

志賀の陣

元亀元年(1570)9月16日~12月17日 織田信長と浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺の戦い】Wikipedia

堅田の戦い

 25日になって堅田の猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に内通したので、信長は、坂井正直・安藤右衛門佐・桑原平兵衛ら1千の兵を堅田の砦に侵入させ、防備を固めることで西近江の物流の差し押さえを狙った。しかし朝倉軍も素早く坂井の堅田入りを察知し、翌26日には朝倉景境・前波景当や一向宗門徒らが比叡山より下って堅田に攻め寄せた。坂井の軍は堅田を囲まれ孤立したが奮戦し、前波景当を返り討ちにするなどしたが、結局は数に押し込まれ織田軍は壊滅し坂井政尚らは戦死。猪飼らは堅田を捨てて船で琵琶湖渡って逃走し、この試みは失敗に終わっている。

浅井三代記 第十六

朝倉浅井堅田寺内を取返す事 附坂井右近討死の事

 斯而堅田の地下人一統して信長卿の勢を引入、浅井朝倉が役人共悉く討取旨、浅井朝倉両将の許へ注進有しかば、味方の諸勢いろをうしなひ、あはて騒ぐ事おびたゞし。浅井朝倉家老共を近付被レ申けるは、東近江越前への通路を敵堅田にてとりきらば、誠に鳥ならではかけりがたし、兎やせん角やあらんと評議したまふに、朝倉義景被レ申けるは、とかく信長の本陣へ切入、一戦をとぐるか、又は朽木越を可レ落かと被レ申ければ、備前守長政の曰、敵陣へ切入といふ共、敵籠城したる数万の勢なればやはか利有べしとも不レ覚、又ぬけ道へまはるとも敵よも落さし追討にうたれ、末代迄の悪名をとゞめむより、明日は未明に堅田へ人数四五十計出し、無二無三に一刻に責つぶし、坂井右近が首を刎んに何の子細候べきと被レ申ければ、義景の家老朝倉式部大輔、山崎長門守進出て、長政の仰誠にゆゝしく御座候。明日の御先は某等両人可レ仕と申により、評議一統してあけゝれば、十一月廿四日に義景方には朝倉式部大夫、山崎長門守を侍大将として三千餘騎、浅井方には赤尾美作守、浅井玄蕃亮、侍大将として二千餘騎、都合其勢五千餘騎なり。浅井勢は朝倉勢の後陣也。斯而三千の勢を三手に作り堅田へ押寄る。坂井右近は是を見て一千餘騎の勢を五百余騎は引かへす。残る五百の勢にて堅田の町面へ討て出る。越前勢五百計弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を射かけ打かくれば、右近も弓鉄炮を敵を以あいしらふ。越前勢敵を小勢成と勝にのり、はや鑓を入、面もふらず突懸る。右近は本より巧者也。しばしさゝへ敵の色を見てかゝれ/\と下知すれば、右近が五百余騎一度に撞と突かゝる。越前勢引色に見えたりけるが、山崎は是を見て、きたなし味方の者共よ、我一軍してみせんとて五百計おめきさけむですゝめば、右近此いきほひに突立られ、一町計引退く跡をしたがふて突かゝる。右近能時分を引請、取て返し、火花を散して戦へば、右近がかくし勢五百計撞と喚て真黒にて成、面もふらず突かゝる。越前勢足をしどろにみだし、既に崩れんとせし處に、式部大輔は其を引なと云まゝに、馬煙を立てかけ込ば、浅井が勢も備へて待て何にかせんとて、相かゝりに突かゝる。てき味方入違へ、互に命も不レ惜たゝかへば、右近は寺内へ引入むとする處を、味方堀きは迄ひしと付、寺内を付入にせんとせしを右近取て返し、敵を四方へ追払ひ、其透に寺内へ懸入ば、朝倉浅井が兵ども寺内をおつ取巻より、はや堀へひた/\と飛込/\、我先にと乗込ば、右近も大剛の兵なれば、走り廻て下知すれ共、敵は多勢味方は小勢叶はずして、遂に討死したりける。浦野源八父子、坂井十介、馬場居初もはしたなく働、右近は小勢叶はずして遂に討死す。味方にも前波藤左衛門尉、堀平右衛門尉、中村木工之丞きらびやかに相働討死す。是は朝倉が兵也。浅井方には浅井甚七、赤尾甚介、田那部平内、八木又八郎ゆゝしき働して討死す。總じて其時の責口にては、敵味方にて寺内の堀は平地と成、かくて義景長政寺内を取かへすといひ、坂井右近討取事浅からざりし次第なりとて、喜の事は限なし。則堅田を拵て朝倉よりは堀江七郎平、浅井よりは月ガ瀬若狭守を入をかる。去程に信長卿は坂井右近討死の次第をきゝたまひ、われらが命にかはるといひ、数度の忠功報しがたしとて鎧の袖をぬらし給ふぞ忝なき。

 
『本福寺由来記』・・・千葉乗隆著「蓮如上人ものがたり」より
 城には一人もたまらず、うみなるゆかに、置きつるもの取り入て、その日、沖の島をさして、舟をおしだし、よき順風なれば、帆をあげて落ち行、やがて島へぞとつきたる。
 五日にわたる防戦のすえ、堅田は四方から焼きたてられ、湖上に待機させていた舟に分乗し、沖の島へ撤退した。
 いったん沖の島へ退いた堅田衆は、坂本衆に権益回復の決死の戦いをいどんだ。

   

伊豆神社
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・遺跡ウォーカー・『近江国輿地志略』・『浅井三代記』・『当代記』『本福寺由来記』・ Wikipedia・『江州佐々木南北諸氏帳』
本日の訪問ありがとうございす!!



小番城 近江国(堅田)

2016年11月09日 | 平城

小番城跡/小番城城遺跡

お城のデータ 
所在地:大津市本堅田町2丁目   map:http://yahoo.jp/4CKDa7
現 状:宅地
区 分:平城
築城期:室町期
築城者:
遺 構:石垣
駐車場:路上駐車
目標地:
訪城日:2016.11.6
お城の概要
現在の小番城地区一帯が城域とされる。
琵琶湖と堅田内湖に囲まれた天然の要害の面影を今も残す。
nobusan(中世の自治都市・堅田) より
古絵図の中の本堅田は、水路が張り巡らされ、まるで水の上に浮かんでいるようです。
老ヶ川橋のそばには、「小番城自治会」の広報板があります。
「小番城」は(こばんぎ)と読み、室町時代の城跡(小番城城遺跡)があった地区です。 現在は城跡は残っていない。
お城の歴史

中世の自治都市・堅田にあったとされる水城。 堅田衆の本拠・堅田城と今堅田城の間に位置することから、堅田衆に関連した城と思われる。

nobusan(中世の自治都市・堅田) より老ヶ川

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査9・さきろぐ・nobusan(中世の自治都市・堅田)
本日の訪問ありがとうございす!!


今堅田城 近江国(大津)

2016年11月09日 | 平城

お城のデータ

所在地:大津市今堅田1丁目/今堅田町   map:http://yahoo.jp/VthOps
区 分:平城(水城)
現 状:宅地・平地
築城期:室町期(1340年頃)
築城者:堀口貞満の子・貞祐
遺 構: 
駐車場:路上駐車
訪城日:2016.11.6
お城の概要

 今堅田城の創建者は「堀口掃部介貞祐」、形式は「水城」です。城の歴史は「今堅田城は、大津市の北部に位置する今堅田の湖岸沿いにあった。湖に少し突き出ているような形をとり、しかも三方を湖水に囲まれた要害の地であるが、城の遺構は明確ではない。現在出来島(でけじま)として存在している。ここに城を築いたといわれる堀口掃部介貞祐は、清和源氏の新田氏の一族で、父の貞満は新田義貞にしたがって武勇をたてた人物である。『太平記』によれば、貞祐は堅田に居住し、足利義詮の北国落ちの時、後陣にいた京極導誉の長子秀綱を討ち取ったという。その堀口氏はそののち今堅田に住み泉福寺歴代の住持職をつとめている。その後、浅井・朝倉軍が織田信長に相対するために、今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが、明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけ落城した。このときの戦況をポルトガル宣教師ルイス・フロイスは、「坂本より二レグワ(二里)の堅田(今堅田)の城を攻めたり、同城は一向一宗徒に属し・・・・・・」と述べている。」とあります。なお、大津市今堅田町は現在大津市今堅田になっています。

大津市今堅田1丁目の城域に建つ「線福寺」。
 

線福寺前の散策map

出島 燈台           
 明治8年に航行安全を願って建立されて「今堅田浜」の突端に建つ高さ約8mの高床式木造で、付近は湖上関があったと伝わります。琵琶湖が括れて対岸が迫る、座礁や難破事故が絶えなかった難所でした。
 昭和36年・第二室戸台風により倒壊寸前状態となり、地元の保存運動により昭和48年(1973)に復旧された。4本の柱と中心に立つ支柱の計5本の柱で支え、支柱の頭部に火袋を取付け、光源は大正7年までランプ、以後は電灯です。一度途絶えましたが、地元有志の手で平成元年から点灯を再開しました。(大津市有形民俗文化財) 

お城の歴史

 今堅田城は新田義貞に従い、武功を挙げた堀口貞満の子・貞祐が築城しました。具体的な築城年は明らかではないが、1340年代と思われます。

『佐々木南北諸氏帳』には、「片田今城 佐々木末隋兵 磯部太郎景季・同 佐々木隋兵 居初三郎宗清・同 居初又三郎・同 佐々木隋兵 馬場丹後盛頼資・同 佐々木隋兵 馬場孫次郎・同 佐々木隋兵 猪飼源五左衛門・同 佐々木隋兵 馬場勘助・同 佐々木隋兵 山田遠江守信孝・同 佐々木隋兵 山田重兵衛・同 佐々木隋兵元備州 野村備中守長文・同 佐々木末元犬上士 沢田喜太郎忠宗・同 佐々木元犬上士 沢田刑部少輔・同 佐々木隋兵元坂田士 大野木加賀守秀資・同 佐々木隋兵元浅井士 中島権内 同 佐々木隋兵元坂田士 新庄民部左衛門」等の名を記す。 

 1572年(元亀3年)信長は足利義昭に十七条の意見書を送りつけます。その内容については激しく義昭を叱責するものでした。今までは表面的には友好関係を保っていた二人でしたが、ここで対立は決定的となります。

 しかし、この時期信長は浅井・朝倉・武田・松永などの包囲網に苦しんでおり、窮地に陥った信長は義昭と講和を結ぼうとします。村井貞勝・島田秀満・日乗などを遣わしますが、信長を滅ぼせるチャンスを掴んだ義昭はこの要求を突っぱね、近江の石山に砦を作り兵を入れ、また今堅田の砦にも兵を入れます。1573年(元亀4年)2月20日、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆らに攻撃を命じます。2月24日まず山岡景友の守る石山砦を攻撃します。石山砦はまだ完成しておらず、26日には落城します。そして29日今堅田城に攻撃を仕掛けます。今堅田城は甲賀衆・磯谷新右衛門が守っていましたが、光秀は囲い舟で湖上から攻撃し丹羽長秀と蜂屋頼隆は地上から攻め29日中に落城します。

堀口氏の居城。 1340年代、堀口貞祐による築城。

戦国期には将軍・足利義昭に与した甲賀衆が入城し、織田信長と交戦。織田方の柴田勝家・明智光秀に攻められ、落城した。

信長公記 巻六 元亀四年

2、異見十七ヶ条  公方様御謀叛

公方様が内々に信長公へ対し謀叛を企てていることは、この頃すでに明白となっていた。そのことは先年信長公が公方様の非分の行いを諌めるべく建言した十七ヶ条の異見書を、公方様が不承諾とした一事により明らかとなった。

 その十七ヶ条とは以下の通りであった。

(略)・・・以上の旨を異見したところ、金言耳に逆らったのであった。遠州表で武田信玄と対峙し、江州表では浅井下野守久政・長政父子および越前朝倉氏の大軍と取り合い、虎御前山の塞も守備半ばで方々手塞がりの状態となっている信長公の様子を、下々の者が御耳に入れたためでもあったろうか。
 信長公は年来の忠節がむなしく潰えて都鄙の嘲弄を浴びることを無念に思い、日乗上人・島田秀満・村井貞勝の三使を公方様のもとへ遣わした。そして要求のごとくに人質・誓紙を差し出して等閑なきようにする旨、種々様々に申し述べたが、ついに和談はならなかった。

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた。近江堅田の山岡光浄院景友・磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである。かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた。これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた。

3、火の手上がる  石山・今堅田攻められ候事

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった。砦には山岡光浄院が伊賀・甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した。砦は即刻破却された。
 今堅田の攻略は29日朝から開始された。東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀・蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた。そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた。これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した。柴田・蜂屋・丹羽の三将は岐阜へ帰陣した。

 この挙兵によって公方様は、信長公への敵対の色を天下に示した。それをみた京童は、「かぞいろとやしない立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつを」(かぞいろ(父母)と思って養い立てた甲斐もなく、花(花の御所=将軍)を雨が打つ)と落書して洛中に立てまわった。

 3月25日、信長公は入洛のため岐阜を発った。そこへ29日になって細川藤孝・荒木信濃守村重の両名が、信長公への忠節の証として逢坂まで軍勢を迎えに出てきた。信長公は上機嫌でこれを迎え、同日東山の智恩院に着陣した。旗下の諸勢は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・鳥羽・竹田など(現京都市左京区・東山区・伏見区。京都東郊~南郊)にそれぞれ宿営した。信長公はここで荒木村重に郷義弘の刀を与え、細川藤孝にも名物の脇差を与えた。

 4月3日、信長公は堂塔寺庵を除く洛外の地に火を放ち、公方様へ和平をせまった。信長公は事ここに至っても公方様の提示する条件通りに和談を結ぶ旨を述べて交渉したが、ついに許容されることはなかった。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・遺跡ウォーカー・『信長公記』『江州佐々木南北諸氏帳』

本日の訪問ありがとうございす!!


矢橋城 近江国(草津)

2016年09月21日 | 平城

 比定地西端に建つ称名寺。

お城のデータ 

所在地:草津市矢橋町      map:http://yahoo.jp/9CfJnn

現 状:集落

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:矢橋氏

城 主:永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名

遺 構:堀痕

目標地:矢橋シルバーセンター・

駐車場:矢橋シルバーセンター駐車場・路上駐車

訪城日:2014.10.21・2016.4.21

お城の概要

 矢橋城は、浜街道の西側の、2本の水路に挟まれたあたりに存在したとされています。矢橋は琵琶湖の重要な湖港であると同時に、対岸の大津へ船で向かうのが東海道の近道であるため、交通上の要衝でした。近江八景の1つ「矢橋帰帆」とは、このルートで賑わう船の列を指したものです。

 矢橋城の範囲は、浜街道から良覚寺および正高寺のあたりまでとみられていますが、集落内で屈曲する堀跡と思しき水路以外には遺構らしきものは見受けられません。


 矢橋城址の脇を流れる水路。堀跡か。


歴 史

 矢橋氏の居城とされる。矢橋氏の出自については不明であるが、『日本城郭大系』によれば、永禄十一年(1568)に矢橋和泉守安忠の名がみられるとされる。

『大系』では矢橋城を南北朝期の築城と推測しているが、理由は明らかでない。

・高井章博氏からコメント、ありがとうございます。

矢橋氏(日野町出身の高井と申します)

  矢橋氏は、後に、徳川幕府の御書院番頭を務める五百石取りの旗本となり、江戸麹町二番町に屋敷を構え、明治維新まで続きました。なお、分家の当主・矢橋良嗣氏(医師)とは、中学・高校の同期生でした。

 




           

 

 

矢橋小船入り航路絵図

大津歴史博物館蔵

  江戸時代に東海道の間道として利用された矢橋の渡しについて、天明5年(1785)、幕府の道中御用掛の求めに応じて大津と矢橋の船年寄が差し出した絵図。筆者は澤松翠。大津町から半島状に突き出ているのが島の関で、その東に位置する小舟入と、対岸の矢橋の間に渡し船が通っていた。東海道が大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。

江戸時代初期の安楽庵策伝『醒睡笑』は平安時代の連歌師・宗長の歌を引用し、「急がば回れ」の諺の発祥であると紹介している。

【武士(もののふ)の やばせの舟は早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋】

東から京都へ上るには矢橋(やばせ)の港から大津への航路が最も早いとされていたが、反面、比叡おろしの強風により船出・船着きが遅れることも少なくなかった。 瀬田まで南下すれば風の影響を受けずに唐橋を渡ることができ、日程の乱れることもないとして、これを「急がば廻れ」と詠んだものであるという。

松尾芭蕉も旅の途上にてこの橋を詠んでいる。【五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋 橋桁の忍は 月の名残り哉】大きく迂回して瀬田唐橋を渡るのに対し、矢橋渡しが近道であったことを巧みに描いている。

急がば回れ」の語源:「危険な近道をするよりも、遠回りでも安全確実な道を歩いた方が結局は目的地に早く着ける。遠回りに思えても安全な手段を取った方が得策である」という意味をあらわす有名なことわざですが、実は、その語源は草津にあります。

当時、旅人が京へ向かうには、草津の矢橋(やばせ)から琵琶湖を横断する水路の方が、瀬田の唐橋を通る陸路より近くて早いのですが、比叡山から吹き下ろされる突風(比叡おろし)により、危険な航路だったため、このような歌がうたわれました。

【武士(もののふ)  矢橋の船は早くとも 急がば回れ 瀬田の長橋】

藤村も【菜の葉や みな出はらひし 矢走舟】

 

矢橋常夜灯http://yahoo.jp/aEfTiR 

2016.4.21

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、ウィキペディア(Wikipedia)

            本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


冨波城(富波城) 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 平城

冨波

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡野洲町)冨波 

比定地は不明

別 称:富波城

区 分:平城

現 状:

築城期:

築城者:

遺 構:

目標地:

駐車場:路上駐車

訪城日2016.9.14

旧祇王村にあったとされる平城。冨波集落にあったとされるが、場所は 詳細は不明だが、

 関白・近衛政家の日記に名前が登場することから室町時代中期に存在したものと考えられる。(さきろぐ)

近江・佐々木氏

 鎌倉中期以後庶子家がつぎつぎに独立し、京極家が関東とのつながりを深める中で、六角氏は近江国内の支配体制の整備に着手した。その結果、秀義流の馬淵氏、佐々貴氏から分かれた三上・平井・真野・木村・伊庭・楢崎氏、他姓出身と考えられる目賀田氏や高井氏らを家臣団に編成した。彼らの大半は蒲生・神崎・愛知川に集中しており、近江国北部には存在していない。
 中でも馬淵氏は、六角泰綱のころから守護代の地位にあった。その本拠地は蒲生郡馬淵荘(近江八幡市)で、佐々木庶子家の中では六角氏の居館小脇(八日市市)に近いことが、馬淵氏の早い段階での家臣化、守護代化につながったのであろう。当時の守護は在京しているのが通例であったので、国元で守護の職務を代行する守護代の存在を必要としたのであり、泰綱以後一部の例外を除いて、代々馬淵氏が守護代に補佐されている。六角氏は守護代の下に、郡単位で守護の遺志を執行する「郡守護使」と呼ばれる代官を設置して領国経営にあたった。任国におけるこのような支配体制の整備は、同時代の他の守護には認められない動きである。六角氏が独自の領国経営を模索した背景のひとつとして、泰綱の時代に家督相続をめぐる相論をきっかけとして近江国内の所領の多くが幕府に没収されたことが挙げられよう。勢力交代の危機感の現われが六角氏に任国の支配体制の整備を急がせた要因と考えたい。
 一方、京極氏は泰綱の弟氏信から始まる。母は泰綱と同じく北条泰時の妹で、三庶子家の中でもっとも優勢を誇ったのはこのためである。その名称は在京御家人をして京都に構えた屋敷が高辻京極にあったことに由来する。おそらく父信綱が泰綱に六角東洞院、氏信に高辻京極の邸宅を分け与えたのであろう。坂田郡柏原荘(山東町)に本拠を置いたが、京極氏の主たる活動の舞台は近江国ではなかった。泰綱と信綱に分配されたのは京都における邸宅だけではなかった。父の担った職務に関しても、両者は分かち持つことになるのである。
 泰綱が信綱の近江守護職を継いだのに対し、氏信は父同様、幕府から評定衆に選ばれるとともに、伯父広綱以来の検非違使に任命された。氏信の子孫も続いて続いて評定衆や検非違使に補任されており、京極氏の活動の場は京都や鎌倉にあったのである。鎌倉は、西国主出身の御家人という秀義以来の佐々木氏の血筋をかって、公武関係の調制を京極氏に期待したものと思われる。しかもそれを京極氏に割り当てることで、近江国における佐々木氏の勢力を分断する意図が働いたに違いない。このような幕府側の意図が、室町期の六角・京極の並存という状態を生み出したのである。

 

謎の平坦地=遺構か?

後法興院記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後法興院記(ごほうこういんき)は、室町時代後期から戦国時代初期にかけて関白太政大臣を務めた公卿近衛政家日記

概要

現在、陽明文庫には寛正7年(1466年)の年始から永正2年6月4日1505年7月5日、政家死去の半月前)までの自筆原本30巻(ただし、文明元年(1469年)から10年間分は欠失)が残されている。また、宮内庁書陵部静嘉堂文庫京都大学などに写本も残されている。

応仁の乱山城国一揆明応の政変などの動乱期の政治情勢、家領の経営・維持に関する記事、当時の公家社会の伝統行事や風俗に関する記事など、その内容は多岐にわたっているため、当時の状況を知る上で貴重な史料となっている。

 戦国期の近江 六角討伐

戦国期の近江における勢力は、六角氏が江南八郡を京極氏が江北三郡を占め、十五世紀後半、対立の続く六角氏と京極氏が再び相対する事態がおとずれた。応仁元年(一四六七)、将軍家と管領家との権力争いに端を発し、細川勝元と山名宗全に二分して京都において激突した。いわゆる応仁・文明の乱である。この折、細川勝元以下、京極持清・赤松政則・武田信賢などの東軍方に、山名宗全以下、近江国守護六角高頼、畠山義就・斯波義廉・土岐為頼などが西軍となって相対した。
 応仁の乱始まった時、六角の当主は亀寿丸(高頼)で、まだ幼少であったために一族の山内政綱が補佐してこの乱にのぞんだ。もちろん近江もこの戦乱にまき込まれたことはいうまでもない。
 家臣の子息(伊庭満隆の子)を殺害したために家督をおわれた六角政堯と江北の京極勝秀は東軍に属して、応仁元年(一四六七)六角の本城観音寺城を攻めた。六角勢は翌二年守山城で大敗し、観音寺城も落城した。
 六角氏内部でも家督相続を続けていた高頼の叔父政堯・持清が観音寺城・近江八幡長光寺城・守山などで戦ったほか、野洲の三上で数十回にわたって陣をはった。蒲生・野洲郡をめぐる戦いでは、守護高頼が伊賀に逃げ、足利義視を擁した政堯が一時的に江南の守護となったが、細川勝元の叔父としてその中枢にあった京極持清の権威が増し、応仁三年(一四六九)、江北三郡に江南九郡を加えた近江一国の守護職となり、政堯は持清の代行者に落ちた。
 六角高頼は、この間も蒲生・愛知・神崎郡内で京極持清と戦い、文明二年(一四七〇)持清の死によって高頼は再び湖南を制した。しかし守護職は持清の子孫童子丸(勝秀)に譲られ、更に幼少の孫童子丸に危機を感じた幕府は、政堯に守護職を補佐させた。ここで再び高頼と政堯が蒲生・野洲郡内(三上など)で戦い、政堯の死によって高頼の江南支配は確立した。しかし、幕府は高頼の荘園横領に立腹する山門勢力の支援を受けて、京極政高に守護を任じ高頼討伐を行った。しかし、西軍の斯波・土岐の支援を受けた高頼の支配は変わらず、文明七年(一四七五)幕府と和議が成立し、実に十一年に及んだ争乱は幕府に屈することのなかった高頼の守護再任で一応収拾をみた。
  しかし、荘園押領を続ける高頼に業を煮やした将軍義尚(義煕)は、長亨元年(一四八七)近江六角征伐を決し、将軍自ら坂本から栗太郡鈎に陣した。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査3、遺跡ウォーカー、『後法興殷記』、さきろぐ

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虫生城 近江国(野洲)

2016年09月17日 | 平城

所在地:野洲市虫生154  map:https://yahoo.jp/hufaDp

区 分:平城

現 状:神社(虫生神社)宅地・集落

築城期:室町期

築城者:虫生丹後守

目標地:虫生神社

駐車場:虫生神社・虫生自治会館に駐車

訪城日:21016.9.14

お城の概要

虫生氏代々の居城。
虫生集落を治める豪族に「虫生丹後守」の名が確認できる。虫生神社を含む住宅地一帯が城域とされる。
付近に「源兵衛但馬守の屋敷」とする伝承地が残り、同地からは近世のものとされる壺などが出土した。
虫生神社の北西には平虎口を備えた土塁と思われる土盛りがL字状に残る。(さきろぐ 虫生城より)

お城の歴史

連署 社 奉書 第三巻 沙 前丹後守 (松田長秀) 竪紙 弥 六 …

www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/regular/img/ninnaji_3_6.pdf

『仁和寺旧蔵古文書』 第三巻 / 六 通目 室町幕府奉行人連署奉書( 竪紙 石山寺領近江国虫生 社 沙 ) 事、任当知行之旨、被全 領知 ...

虫生神社の御由緒
その起源は詳らかではないが、かつてこの地域の服部郷があり、このうちの錦織部の人々がここに居住して、虫生社を勧請したと伝えられる。嘉元四年(一三〇六)に記された「昭慶門院御領目録」(吉野神宮蔵)に「「勧喜光院、近江国石山寺、虫生社、三条局」とあり、のち、
地元の豪族虫生丹後守の被護下にあり、永正年中には「正一位虫生大明神」と奉称されてきた。
徳川の治政下では、天領として、小堀遠江守、芦裏観音寺の代官支配を受けたが、明治に入って村社に加列、この時境内、諸設備の充実が計られ、神饌幣帛料供進指定となる。
 
 
参考資料:虫生神社の由緒、『仁和寺旧蔵古文書』、さきろぐ
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野田城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

野田城

お城のデータ
所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)野田 map:http://yahoo.jp/tLH0KF
区 分:平城
現 状:宅地・集落
築城期:
築城者:
遺 構:
目標地:八幡神社・正法寺
駐車場:自治会館前(八幡神社隣)
訪城日:2016.9.14
お城の概要

旧兵主村の野田集落にあったとされる平城、詳細不明。

集落内の正法寺付近が城域と考えられるが、宅地造成により遺構は?。

お城の歴史
正法寺

 

八幡神社
自治会館前に駐車
考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、さきろぐ
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吉川城 近江国(中主)

2016年09月16日 | 平城

お城のデータ

所在地:野洲市(旧野洲郡中主町)吉川  map:https://yahoo.jp/SVNcc1

区 分:平城

現 状:宅地・集落

築城期:室町期

築城者:進藤山城守貞治・進藤賢盛

遺 構:堀痕・微高地

目標地:安楽寺

駐車場:安楽寺の前

訪城日:2016.9.14

お城の概要

吉川東出集落の西端に堀に囲まれた一画あり、城館の可能性あり。

 進藤神社周辺は、吉川東出遺跡とよばれ、中世の城館跡と考えられている。また、字「進藤屋敷」と呼ばれるところが進藤神社の西側にあり、こちらを吉川城址とする向きもある。遺跡ウォーカーでは常照寺付近を、『中世城館調査報告書集成』では安楽寺付近を城址に比定している。
南西すぐのところに進藤氏の「小浜城(守山市小浜)」があり、「吉川城は小浜城の出城」か?。

常照寺と光輪寺の間に進藤神社があり、吉川城の比定地は不明。 

進藤神社と常照寺の間に水路がL字型に走っており、これを堀跡か?、光輪寺のあたりが城の南東隅になる。

六角氏の重臣・進藤氏の居城のひとつ。小浜城の出城として築城されたと考えられる。

集落の西側に「進藤屋敷」の旧地名が残り、進藤神社を中心に光輪寺から常照寺・安楽寺に至る集落一帯が城域。

お城の歴史

佐々木六角氏の重臣 進藤氏は木浜・小浜の要津を領した、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていた。

参考資料:遺構概要城郭分布調査1・3、遺跡ウォーカー、さきろぐ

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