城郭探訪

yamaziro

田部山古墳群砦(仮称田部山砦) 近江国(木ノ本・川合)

2018年04月25日 | 

画像に含まれている可能性があるもの:1人https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/1042186799277228

お城のデータ

所在地:長浜市(旧伊香郡)木之本町川合 map:https://yahoo.jp/MF1cE4
現 状:山林(古墳)
区 分:砦(陣城)
築城期:織豊期
築城者:朝倉氏?

標 高:155m  比高差:25m 

遺 構:古墳・曲輪・低土塁・土塁・犬走り・帯廓・堀切(竪堀)
目標地:国道303号城山トンネル
駐車場:国道303号城山トンネル駐車場
訪城日:2018.4.21(城郭フォーラム)

お城の概要

木之本町川合の国道303号城山トンネルの上に位置する。

登り口は、城山トンネルの東側の電飾道路表示板を北に入る。

東西約100m×南北約70m程のL型に7つ古墳があり、砦要塞されている。

お城の歴史

近年、城郭研究家長谷川氏が発見され。この日初めて現地説明会を実施された。踏査図で、現地説明をされた。

歴史的、資料はない。

 元亀争乱時に朝倉軍の陣城か??、或いは、賤ヶ岳合戦時の羽柴秀吉軍の本陣(木ノ本地蔵院)の後詰め砦か???。

写真の説明はありません。 下剋上の織豊期にロマンは膨らむ!!!

 

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然円墳で発見された石臼破片

画像に含まれている可能性があるもの:橋、屋外城山トンネルの上の杉の木の辺り主郭。

 

参考資料:城郭フォーラム(長谷川博美氏の踏査図)

本日の訪問ありがとうございす!!


枝折(しおり)砦(土肥城)と林蔵坊  近江国(米原 枝折)

2017年12月12日 | 

 

お城のデータ

所在地:米原市(旧坂田郡米原町)枝折町 map:http://yahoo.jp/dpAd_x

別 名:土肥城

現 状:山林

区 分:砦

築城期:室町期

築城者:土肥氏

遺 構:堀切・土塁・曲郭

標 高:190m   比高差:50m

目標地:正福寺・林蔵坊

駐車場:集落の手前のグランドに

訪城日:2015.4.12・2017.12.10

お城の概要 

鉄塔で壊された砦

正福寺林蔵坊は南側の山裾に位置する。正福寺東側から城道に入り、尾根に出て左手へ尾根筋を10分程登ると城(砦)跡に至る。城(砦)跡の立地が集落の背後であることから、在地領主の詰城(砦)か?。

林蔵坊は、綺麗に手入れされた庭を通り、城道を下りてきた。

正福寺横から城道を登る

中腹の削平地(西へ正福寺・林蔵坊の上まで)

歴 史

 枝折城は、小字造座の一小山にあり、城主が土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

土肥六郎左衛門実勝とされ、源頼朝の家臣土肥次郎実遠の末葉で、足利尊氏の世に近江・美濃の野武士を平定して功があり。

  箕浦庄の地頭として下向した御家人とされ、番場・多和田・醒井に分住し、箕浦庄の三土肥と称した。

 『土肥八人衆・土肥八軒衆』は、醒井(醒飼)氏・野瀬氏・江籐氏・野勢氏・池田氏・ニ国氏・籾居氏・堀氏の八軒を云う。

  このうち「醒井殿と称する系統が枝折に住しており、とある」であったとされる。

『淡海国木間攫』には、「坂田郡 枝折村 往古土肥次郎居城セシ事有ト云、其譜代ノ臣池田氏・江龍氏・能勢氏ノ姓名ノコレリト聞、」と記す。

鉄塔に向け頂部、土肥城へ

林蔵坊へ←下りる

林蔵坊正福寺の背後に。

カーブミラーを右へ八幡神社から遠望・・・正福寺・鉄塔八幡神社地蔵堂駐車位置(グランド)

2017.12.10再訪

枝折城より、枝折砦・林蔵坊へ

https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962526550576587

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、屋外画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:立ってる(複数の人)、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然山麓館か跡か?

林蔵坊:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962704073892168

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/962526920576550

画像に含まれている可能性があるもの:草、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外画像に含まれている可能性があるもの:家、木、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:1人、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:3人、立ってる(複数の人)、屋外

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、『淡海国木間攫』

         本日も訪問、ありがとうございました!!


大依山砦 後半岩崎山 近江国(長浜・浅井)

2017年11月13日 | 

写真の説明はありません。写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市大依町  map:https://yahoo.jp/Iuebri

区 分:陣城(砦)

現状:山林・古墳群

築城期:織豊期

築城者:朝倉軍・浅井軍

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・横矢・・・

標 高:365m(朝倉軍本陣)  比高差:215m

標 高:238m(長政軍本陣) 比高差:88m

目標地:浅井歴史民族資料館・浅井文化スポーツ公園

駐車場:秋葉神社の鳥居横の駐車場

訪城日:2017.11.11

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然

 

写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967863263376249

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967864723376103

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967865560042686

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967866923375883

 

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967867943375781

お城の概要

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2kmの距離、大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初に陣取ったのが朝倉の8,000人で、そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していた。当時の武将達が4日間もこの山中に潜んでいたのか、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。浅井・朝倉軍は、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にある、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中。

お城の歴史

 

姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に近江浅井郡姉川河原(長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

群(浅井軍の陣営)へ

ある平坦地(浅井軍先端地)。山腹の正面に横山が、大依山砦の南端。

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、木、草、空、植物、屋外、自然川の古戦場が良く見える。画像に含まれている可能性があるもの:木、空、草、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:雲、空、植物、屋外秋葉神社の鳥居前

以下図面は、長谷川博美氏の踏査図写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ画像に含まれている可能性があるもの:スケッチ写真の説明はありません。写真の説明はありません。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)、山、屋外、自然

参考資料:城歩会の大依山砦見学会の資料・Wikipedia「姉川の戦い」

本日の訪問ありがとうございす!!


大依山砦 前半 近江国(長浜・浅井大依)

2017年11月13日 | 

写真の説明はありません。

お城のデータ

所在地:長浜市大依町  map:https://yahoo.jp/Iuebri

区 分:陣城(砦)

現状:山林・古墳群

築城期:織豊期

築城者:朝倉軍・浅井軍

遺 構:曲輪・土塁・堀切・竪堀・横矢・・・

標 高:365m(朝倉軍本陣)  比高差:215m

標 高:238m(長政軍本陣) 比高差:88m

目標地:浅井歴史民族資料館・浅井文化スポーツ公園

駐車場:秋葉神社の鳥居横の駐車場

訪城日:2017.11.11

画像に含まれている可能性があるもの:ビーチ


写真集:https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967863263376249

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967864723376103

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967865560042686

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967866923375883

    https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/967867943375781

お城の概要

浅井・朝倉軍は、織田軍に襲われ孤立している横山城まで2kmの距離、大依山に陣を置き、合戦直前の4日間(元亀元年(1570年)6月24日~6月27日)をこの山中で過ごしている。『信長公記』に明確に記載されているのだ。

最初に陣取ったのが朝倉の8,000人で、そこに浅井の5,000人が加わり、合計13,000人もの大軍がこの山に4日間も帯陣していた。当時の武将達が4日間もこの山中に潜んでいたのか、浅井氏の支城である横山城があった横山丘陵である。浅井・朝倉軍は、大依山が横山城をしっかりと見渡すことができる絶好の場所にある、敢えてここに陣を置いたのだということがよくわかった。地図を見て驚いたのだが、合戦が行われた「野村」の地は、大依山と横山丘陵とを結んだ直線上のちょうど真ん中。

お城の歴史

姉川の戦いは、戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に近江浅井郡姉川河原(長浜市野村町付近)で行われた合戦である。「姉川の戦い」という呼称は元々は徳川氏の呼び方であり、布陣した土地名から織田・浅井両氏の間では「野村合戦」、朝倉氏では「三田村合戦」。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

画像に含まれている可能性があるもの:1人以上長谷川博美氏講師より「朝倉軍道」の説明! 

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

この日は、長浜市八島町から「朝倉軍の軍道」を登る。画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、草、屋外、自然大堀切画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然土塁画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然


杉原砦 美濃国(揖斐川町)

2017年11月02日 | 

杉原砦 

所在地:揖斐郡揖斐川町鶴見(旧藤橋村)

お城の現状

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藤橋城・西美濃プラネタリウムは、岐阜県揖斐郡揖斐川町鶴見(旧藤橋村)にある町営のプラネタリウム

お城の歴史 

現【藤橋城〈町立プラネタリウム〉付近には、かつて南北朝時代に「杉原砦」といわれるがあったとされる。

南北朝時代、この地は美濃国から越前国近江国に抜ける戦略上重要な地であり、南朝側の新田義貞が、北朝側の土岐氏に対抗し砦を建設されたとされている。

廃砦時期は不明。南朝勢力側の砦があったのは事実ではあるが、資料によっては築城時期が1400年頃となっているが、

1400年頃は新田義貞はもう生存しておらず、南北朝時代も終わっている為、矛盾がある。

なお、この地の住人に杉原家盛(杉原六郎左衛門家盛)があり、後の豊臣秀吉の正室ねねはこの家の出身。LoadingLoading

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


仰木城(伊庭氏砦)近江国(大津市)

2017年10月24日 | 

画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

お城のデータ

所座地:大津市仰木5丁目 map:https://yahoo.jp/942wdW

現 状:寺院坊

区 分:砦

築城期:室町期?

築城者:伊庭氏

城 主:高山五郎兵衛尉・伊庭兵部丞(伊庭信氏)・伊庭丹後守(伊庭高資)

遺 構:平削地・宝塔

目標地:光照寺

駐車場:光照寺駐車場

訪城日:2017.5.18画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、空、屋外、自然


お城の概要

伊庭氏、後に六角氏家臣・高山五郎兵衛尉の居城。
築城時期は不明だが、城主に「伊庭兵部丞(伊庭信氏)」「伊庭丹後守(伊庭高資)」らの名が確認できる。

正確な位置は不明だが、旧仰木村東部の字「伊庭町」(現在の仰木5丁目付近)にあったとされる。

お城の歴史

1548年、高山五郎兵衛尉と種村大蔵大夫(種村道成)の家臣の間で諍いがあり、観音寺城下で死者41名を出す喧嘩が発生。
一戦に及ぼうとした両者は居城を移され、高山は志賀郡内の伊庭氏の砦の守備を任された。
元亀年間、明智光秀に攻められて落城。写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、花、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、テーブル、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:屋外画像に含まれている可能性があるもの:靴、木、空、植物、屋外画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、空、花、草、テーブル、屋外、自然

 https://www.facebook.com/osamu.tanaka.5074/posts/927520870743822

 参考資料:滋賀県の城・滋賀県中世城郭分布調査

本日の訪問ありがとうございす!!


穴太野添の遺構 近江国(大津)

2017年04月21日 | 

作図:長谷川博美氏(滋賀県中世城郭分布調査9 滋賀郡の城:踏査図)

この林の中が、穴太野添の遺構

滋賀県中世城郭分布調査より

お城のデータ

所在地:滋賀県大津市穴太三丁目 map:http://yahoo.jp/eYXAK4

立 地:山地

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期か?

築城者:?

遺 構:土橋・曲輪・

標 高:160m  比高差:50m(旧北国街道より)

目標地:穴太野添古墳

駐車場:穴太野添古墳駐車場

訪城日:2017.4.20

お城の概要

穴太から京へ「旧白鳥越えの峠道」があった。

当時は、古墳以外の墓地は無く、「旧白鳥越えの峠道」からは200m位の距離がある。

穴太野添古墳の駐車場の北東の山林の中、踏査図(滋賀県中世城郭分布調査)の遺構が残存する。

古墳や地形を利用してした、砦のようである。

昭和44年(1969)に県道敷設は、遺構を残存するように設置されている。

駐車場の背後は、穴太野添古墳群はその中の一つの古墳群で、180基以上の古墳で構成されています。この数は、周辺の古墳群の中でも随一の数を誇っています。

古墳群は、現在、墓地とその周辺の山林の中に残っていて、こんもりとした墳丘や開口・露出している石室をそこかしこに見ることができます。古墳群の一部は、昭和44年(1969)に県道敷設に伴い滋賀県教育委員会によって7基が、昭和61・62年に墓地の拡張整備に伴い大津市教育委員会によって17基が、それぞれ調査されています。その調査成果から、おおむね6世紀前半から7世紀初めにかけて築造されたことがわかっています。なお大津市教育委員会によって調査された古墳の一部は、現地で保存・整備されていて、見学することができます。

お城の歴史

元亀元年の「志賀の陣」の関連の砦を考えられるが、詳細不明は不明。

志賀の陣:坂本の戦い(Wikipedia)

近江の琵琶湖西岸方面における織田方の重要拠点は坂本のやや南にある宇佐山城であり、ここは森可成ら1000人余りが守っていた。可成は浅井・朝倉勢接近の報を聞き、500の兵を率いて宇佐山城のやや北、坂本口に出陣して周辺の街道を封鎖して志賀や穴太に伏兵を配し9月16日には浅井・朝倉軍と小競りを行って幾人かの首を獲る勝利を収めた。

その後に信長の弟信治、近江国衆青地茂綱など2000の兵が救援として駆けつけ坂本の守勢に加わっている。

しかし、19日になると顕如の要請を受けた坂本里坊、延暦寺の僧兵達も攻め手に加わり、西の僧兵と北の浅井・朝倉軍ら総勢3万の兵から挟み撃ちを受けた森可成、織田信治、青地茂綱ら3将は奮戦するも衆寡敵せずいずれも討死してしまった。主将を失った宇佐山城も連合軍の攻撃を受けるが寡兵ながら士気は高く可成の家臣各務元正、肥田直勝などが中心となって抗戦し落城は免れた。

 10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。・・・・云々
 

穴太野添古墳駐車場獣道を10m程入り石の手前を東に土橋を抜ける

砦の頂部頂部の凹み(狼煙穴か?)

野添古墳の駐車場

参考資料:Wikipedia:志賀の陣・『信長公記』・『滋賀県中世城郭分布調査9』・滋賀県文化財保護協会:渡来人の奥津城その3-穴太野添古墳群

本日の訪問ありがとうございす


穴太城 近江国(坂本)

2017年04月21日 | 

塹壕堀・・・白鳥超えの街道を上から、狙い打ちか!

お城のデータ

所在地:大津市坂本本町 map:http://yahoo.jp/jNTQLk

現 状:山林

区 分:砦

築城期:織豊期

築城者:織田信長軍

陣 主:明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政

遺 構:掻揚土塁(銃座か?)・平削地(曲輪)、空堀・竪堀・

標 高:225m   比高差110m(旧街道より)

目標地:湖美が丘自治会館

駐車場:湖美が丘自治会館

訪城日:2017.4.20

お城の概要

 穴太駅から急斜道を登ると、雛壇状の「湖美が丘地区」の住宅開発がされいる、「湖美が丘自治会館」を目指す。

「湖美が丘自治会館」の西側の丘陵が、幸い間伐直後で遺構がはっきりと確認できる。

砦頂部は自治会より40m程だが、北側は「四ツ谷川」・南側(宅地)は空堀と土塁。

穴太町「湖の美が丘地区」の北側、旧白鳥越えの峠道沿いにあったとされる。
『滋賀県中世城郭分布調査』具体的な場所は特定されていないが、「湖美が丘自治会館」の背後から西へ、山に入ると複数の平削地が確認できる。

 

お城の歴史

比叡山延暦寺攻めのために織田氏が構築した砦のひとつ。 1571年、延暦寺攻めの指揮を任された明智光秀が辛崎・穴太・田中に城砦を構築。 穴太には明智光秀をはじめ、簗田広正・河尻秀隆・佐々成政らが入城した。

 信長公記 巻三 元亀元年

 10、志賀の陣  志賀御陣の事

 9月24日、信長公は上京本能寺を立ち、逢坂を越えて越前衆の攻撃に向かった。しかし下坂本に布陣していた越前勢は、信長公の旗印を見るやたちまち敗軍の体を見せて比叡山へ逃げ上がってしまった。山へ上がった越前勢は、蜂が峰・青山・局笠山(壷笠山)に陣を取った。
 このとき信長公は延暦寺の僧十人ばかりを呼び寄せ、「信長に味方するならば、分国中の山門領を元通りに還付する」と金打して約束し、かさねて「出家の道理により片方への贔屓なりがたし、と申すならば、せめて敵味方とも見除せよ」といって説得し、その旨を稲葉一鉄に申し付けて朱印状にしたためさせた。その上で信長公は、「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告した。しかし山門の僧衆はこの勧告を聞き入れず、情勢を見て浅井・朝倉に味方し、魚・鳥・女人を山に上げて悪逆をほしいままにした。

 信長公は下坂本に陣を取り、25日になって叡山を囲んだ。
織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入り、穴太にも砦が築かれて簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら十六将が入れ置かれた。
 田中には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣し、唐崎の砦にも佐治八郎・津田太郎左衛門が入った。そして信長公自身は志賀の宇佐山城に陣を取った。
 叡山西麓の将軍地蔵山の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵二千余りが布陣した。また八瀬・大原口には山本対馬守と高野蓮養坊が足がかりの陣地を築き、地理に詳しい両人はここから夜中山上に忍び入っては谷々へ放火してまわり、寺側を大いに悩ませた。

 10月20日、信長公は朝倉勢へ菅谷長頼を使者に遣わし、「いらざる時を費やすをやめ、一戦をもって勝敗を決さん。日時を定めて出で候え」と申し述べさせた。しかし朝倉勢からの返答はなかった。そののち朝倉勢は交戦を中止して講和を申し入れてきたが、信長公は是が非にも決戦して鬱憤を散らすべしとして、これを蹴った。

 信長公が叡山に釘付けとなっている間、・・・云々。

湖美が丘自治会館

参考資料:遺跡ウォーカー、さきろぐ、『信長公記 巻三(元亀元年)9月25日条』『城郭分布調査1』

本日の訪問ありがとうございす!!

 


焼尾砦    近江国(湖北)

2016年06月13日 | 

【城攻め追体験】怒りに燃える信長、小谷城攻略シーンを追う

第3回 6月11日(土)【ハードなコース】
「小谷城背面攻撃」小谷城背面攻撃から朝倉軍への追撃までをたどる。
○焼尾砦から大嶽城攻撃をメインに
 9:30 小谷城戦国歴史資料館
10:00~10:30 小谷上田山町 和泉神社
10:30~12:00 焼尾砦跡~

   参加しましたが、体調悪く、ここで退散しました!残念! 

     大嶽城跡
13:00 月所丸跡、越前忍び道
14:00 中島城跡、丁野山城跡
15:30 小谷城戦国歴史資料館

 

お城のデータ

所在地 :長浜市(旧:東浅井郡湖北町)小谷上山田町 map:http://yahoo.jp/WKySDR

現 状:山林

区 分:陣城

築城期: 織豊期 天正元年(1573)

築城者:浅井氏

守 將:浅見対馬守

遺  構 : 削平地、堀切

標 高:253m  比高差:120m

目標地:和泉神社

駐車場:和泉神社の駐車場

訪城日 :2016.6.11

お城の概要

上山田の集落から山田川の神明橋を渡り、すぐ左に神明宮跡の石碑の裏手に、大嶽城への案内板と山道がある。
 急坂を登って一旦平坦になり、さらに登ると下山田の集落が望める平坦地がある(標高253m)、ここが焼尾丸。土塁も何もなく、かなりスペース的には狭い。

焼尾砦は小谷山山頂にある大嶽城から見て北西の尾根上にある砦。旧湖北町上山田から小谷山頂につづく細長い尾根の平坦地(標高253m)に 土塁など遺構はないが、小谷城址保勝会蔵の「小谷城絵図」では、焼尾砦は上山田の上部に描かれいる。

お城の歴史

信長公記 信長公記 11、決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。

そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。

12、追撃  大筒・丁野攻破らるるの事

  信長公に通じた浅見対馬は、8月12日みずからが守る大嶽下の焼尾へ信長公の人数を引き入れた

その夜はことのほか風雨が激しかったが、信長公は虎御前山の本陣に嫡男信忠殿を残し、みずから馬廻を率いて大雨の中をずぶ濡れになりながら大嶽へ攻め上がった。大嶽には斎藤・小林・西方院らの越前衆五百ばかりが番手として籠っていたが、信長公直々の攻撃の前にたまらず降伏した。 

 降伏した越前兵は、すべて討ち果たされて当然のところであった。しかし夜の闇に加えて折からの風雨が敵方の視界をさえぎり、当の朝倉義景がこの大嶽陥落を気付いていないおそれがあった。そこで信長公は降兵たちの命を助けて朝倉本陣へ向かわせ、彼らに大嶽が落去してもはや戦勢を支えがたくなった事実を知らせさせた。このとき信長公は、このまま一挙に朝倉義景の陣所を抜く考えを固めていた。

  信長公は大嶽に塚本小大膳・不破光治・同直光・丸毛長照・同兼利らを置くと、すぐさま丁野山の攻撃にかかった。ここには越前平泉寺の玉泉坊が籠っていたが、これもまたたく間に降伏して退散した。・・・・云々

天正元年(1573)8月の織田信長による小谷城攻めに際し、江北の守りの要である山本山城の守将浅井氏重臣の阿閉貞征が寝返り、信長は8月10日に小谷城北の山田山(下山田城)に布陣することができた。

 このため、北方防備の必要に迫られた小谷城は焼尾砦を構え、浅見対馬守を入れ置いたと考えられている。
小谷山山頂・大嶽城の北方を守備する浅見対馬守は、信長に内応し8月12日に織田軍を焼尾砦に引き入れ、織田軍はこれを足掛かりに大嶽城を攻め落とした。

  • 江北の守護・京極氏は、戦国時代も中頃になると内訌により衰退し、家臣間の覇権争いが起こり大永3年(1523)には浅井氏・三田村氏・今井氏・堀氏らが浅見氏を盟主として結束、京極高清の家宰上坂信光を上平寺城に攻め、京極高清と上坂信光を尾張へと追放し、高清の嫡男・高広(高延)を擁して京極家当主と仰ぎ、浅見貞則の居城・尾上城に迎えた。 ところが、京極高広を奉じた浅見貞則の専横に対し、翌年、浅井亮政は貞則と争って高広を奪い小谷城に迎えると共に、先きに尾張へと追放した京極高清も小谷城へ迎え入れた。 以後、浅井氏が台頭するが長政の代まで浅見氏は浅井氏に従属することはなかったと云われ、こうした経緯が浅見氏の裏切りに繋がったと考えられている
  • 天正元年(1573年)、浅井氏側の浅見対馬守は焼尾丸を守っていた。
  • 同年8月8日、山本山城主阿閉貞征が羽柴秀吉の調略で織田側に寝返ったことで、小谷山包囲網が可能となった。
  • 同日、信長は岐阜城を出発し、同月10日、越前から小谷山へのルートを封鎖し、援軍に南下してきた朝倉義景の2万の軍勢を小谷城への入城を阻止し、木之本や余呉に足止めした。この中、焼尾丸を守る浅見対馬守が降伏した。
  • 8月12日、畿内に襲来した嵐を好機として、信長は浅見対馬守の手引きで大嶽を攻撃、落城させた。翌13日、形勢不利と見て撤退する朝倉氏を強襲し、刀根坂の戦いで壊滅的な打撃を与え、嫡男信忠の手勢を押さえに残して、越前に攻め込み朝倉氏を滅亡させた。
  • 8月26日、信長は虎御前山に帰陣し、翌27日、羽柴秀吉の軍勢が清水谷の急傾斜から、小谷城京極丸を急襲し陥落させ、浅井久政が守る小丸を落城させ、久政は自害、翌日には本丸も落ち、浅井長政は本丸の袖曲輪の赤尾屋敷で自刀し、浅井氏は滅亡した。 (「wikipedia」 小谷城などから)
  • しかしながら、この浅井氏滅亡の日には異論がある。太田浩司氏によると、浅井長政から片桐且元の父である孫右衛門尉へ8月29日付けで籠城の礼の手紙が残っていること、浅井久政が同月27日に西野弥治郎あてに出した文書も残り、結局8月29日に久政が、9月1日に長政が自刀ということになるという。(「浅井長政と姉川合戦」太田浩司著)ということで、焼尾砦の降伏は、山本山城のそれとともに小谷城陥落の一つの引き金となった。

            

焼尾砦(未訪の砦)に到着!

    


50m程登り、体調が悪い!(気温30℃で、熱射病か?ガイドさんの了解を得て一人で下山)

一人で下山 下山田集落

焼尾砦(案内板は無いは、檜にピンクpp紐が3本位巻かれた平坦地)

         

            

参考資料:信長公記

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北野スミ櫓城(砦)   近江国(浅井)

2016年06月06日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/7xUB40

現 状:寺院・神社

区 分:山城(砦)

築城期:永正(1504~1521)~天文(1532~1555)年間

築城者:浅井氏

遺 構:堀切・A・B・Ⅽ・Ⅾ・E・F・H

標 高:C部258m 比高差:100m

目標地:北野町墓地

駐車場:北野町墓地の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

 浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。その尾根には、北野砦が切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。北砦は小谷山大嶽(おおづく)方面の258mを頂部に、小谷城の東側を守備する。

 獣害ヘンス内へ、墓地の手前に「立志坂」を登ると鞍部に巾5m・深さ3mの堀切(切り通し)がある。堀切から「立志坂」を北に取ると尾根上にA・古墳に手を加えたH・B、頂部域にはC・Ⅾ・Eの遺構も古墳の改良利用し、浅い堀切ある。Cの枝尾根先にFと遺構が残存するが、頂部遺構以外は、雑木で遺構の確認無理(6月だからか?)

 この立地から、小谷城の東の平野部(田根地区)には、田根城・瓜生館・北野館・竜安寺城・木屋城・大依山城等が点在する。小谷城の外廓を形成している。

C・D・F遺構は小字”火屋脇”と称し、火屋は狼煙・松明の通信手段に。

Eは通称”スミヤグラ”と呼ばれ、周見櫓(物見櫓)として築城。

お城の歴史

詳細不詳だが、

『浅井三代記』によると、小谷城は「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ」

大依山砦と小谷城との、南側の北野砦と共に繋ぎ砦であったようだ。

 天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、「お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所丸からであったろう」というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

     遺構A 堀切(切り通し)    遺構H

 小谷山      頂部手前   hC砦頂部標高258m小堀切     

戻ります。

遺構Fへ           小谷山        堀切=切通し(池野村から北野村)「こじき坂」・・・説明板には、「浅井の侍女たちはは三姉妹の身分をかくす為、池野町(村)の民家で古い野良着に着替させて北野町(村)に降りた、もの山道を「こじき坂」と呼ばれている。

 「五先賢の館から、すぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。

 祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝え。 

 DSCN5337DSCN5336 城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城して城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。落城にまつわる悲話。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」

北野砦へ  は次回

   北野集落の北の山麓に墓地ある、ここに駐車して、堀切=切り通しから南の北野砦・北の北野スミ櫓城(砦)へ 

 北野スミ櫓城(砦)・・・遠景

北野砦遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

 本日の訪問ありがとうございす!!


 黒部砦   近江国(浅井)

2016年06月05日 | 

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)黒部町/竜安寺町    map:http://yahoo.jp/tWfUHu

現 状:山林

区 分:砦

築城期:

築城者:

遺 構:郭・堀・土橋・堀切・竪堀 

標 高:165m 比高差:40m
目標地:黒部児童公園に駐車・明正池前に路上駐車

訪城日:2016.6.4

お城の概要

Ⅽ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられる(特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。この遺構は西側の竜安寺集落には、「竜安寺城」が知られている
・Fについては、竪掘(堀切)土橋を伴なったもので、低削平地が存在するが、先端には「見張り台のような小郭二つ」とその背後に堀切と土橋が存在し、詰め城のを兼ねていたか。更に登ると郭を三つ配し、堀切を持つ遺構があるⅭ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられるが、黒部館の共用していたとも考えられる。

お城の歴史

築城期、築城者は詳細不明、土豪の城郭遺構。 
『佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 龍安寺    」姓名は不明ながらも、土豪の居住が記されいる。

 地元の古老”谷氏”に話では、浅井氏家臣の関谷八郎左衛門が姉川の合戦後に隠れ住、難を逃れ、後に帰農したが、この関谷氏氏屋敷がAの遺構という、この関谷氏末裔が、以前は集落五戸内の四戸が「谷姓」で「関」を外して「谷」姓で居住していたようだが、今は一戸(H氏のみ)で、谷家は無い。

黒部集落の西の山城へ

  
 登り口        集落(黒部館)の西側の尾根上
   堀切?竪堀?          
  
e Fは、背後の尾根から堀切・竪堀(土橋はあるが)で遮断。 
C・Ⅾ・E遺構へ
八幡神社への参道

八幡神社遺構    

明正池の東側から尾根城(詰め城)へ     

尾根城遺構                    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡の城)

本日の訪問ありがとうございす!!


新野砦 近江国(日野)

2016年05月26日 | 

新野砦

お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町石原  map:http://yahoo.jp/vhBbiD
現 状:山林(丘陵)
区 分:砦
築城期:鎌倉期
築城者:蒲生氏郷
遺 構:土塁・廓・敷割・切岸(東側)
標 高:160m   比高差:10m
目標地:石原集落の墓地
駐車場:墓地の駐車場を利用
訪城日:2016.5.23
お城の概要
 蒲生氏郷が築いたもので、前面に城川が流れる。礎石はすべて正崇寺に運ばれたとされる。
蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。が、小谷城から、わずか600m程北の丘陵に築かれ、今も、土塁・廓・敷割りもはっきり確認出来る。
お城の歴史 

「江州佐々木南北諸士帳」に、小谷住 蒲生末 小谷次郎三郎の名が見える。蒲生氏の支流小谷氏の居城で、「蒲生旧趾考」には蒲生氏は、初め小谷山城にいたと記している。 南北朝時代、蒲生氏が南朝に味方したとき、高師泰に攻められて落城している。

また、正崇寺(日野町大窪)は、蓮如上人のご旧跡で、上人が比叡山から追われることになった時、金ヶ森・道西坊の案内で日野の里に隠れ住まわれました。「正崇寺」の寺号も蓮如上人からいただき、上人直筆の額が残されています。数々のご宝物も。

近江日野は、蒲生氏の日野城城下町・近江商人ゆかりの地。

 

           獣害ヘンスにつかまり、川を背に回り込む。
獣害ヘンスの東側遺構へ 
                          
駐車位置(墓地駐車場)からの遠景
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・4 、遺跡ウォーカー、『江州佐々木南北諸氏帳』、『蒲生旧址考』
  本日の訪問ありがとうございす!!

高屋砦       近江国(山東)

2016年05月16日 | 

 

 

お城のデータ

所在地:米原市(旧:坂田郡山東町)柏原町    map:http://yahoo.jp/9bnqHf

現 状:山林

区 分:砦

築城期:鎌倉期

築城者:高屋氏

遺 構:二重堀切・廓・堀底道・土塁

標 高:570m   比高差:200m(林道)
目標地:梓河内から林道稗谷線登り、八講師城を過ぎると土砂崩れため『通行止め』ですが、の柵の横下り、高屋砦への登り口を、に曲がるn字ヘヤピンカーブと右側に登り口

駐車場:登り口下の林道に路上駐車

訪城日:2016.3.27・2016.5.4

お城の概要

高屋城と高屋砦は林道で分断された。元は、高屋城から砦まで、二重堀が続いていたか?
 高屋城砦へは、梓河内から林道稗谷線を登り、八講師城を過ぎると土砂崩れため『通行止め』ですが、の柵の横下り、高屋砦への登り口を、に曲がると右側新しい林道が切られている。新林道を徒歩で下ると、高屋城に至る 

 高屋城は柏原側の下尾根の谷部に延びる二重堀、これが山の斜面。

林道と尾根の間に二重堀を尾根に、未完成の平坦地になっています。ほとんど岩の無い斜面が続く、下部は土塁や横矢・空堀(城底道?桝形虎口構造)は、

高屋砦は、尾根の間の谷部に延びる二重堀、これが山の斜面に延々続いています。登ってきた尾根側と二重堀を挟んで反対側の尾根に城址碑があり、登ってきた尾根が落ち込んだところが不完全ですが平坦地になっています。ほとんど岩の無い斜面でありながら、

土砂崩れの林道

お城の歴史

伊吹町春照の善楽寺の寺誌には、「貞治元年(1362)4月道誉の弟五郎左衛門貞満、氏を高谷、又は高屋と称して、居を春捻に定む、今の春照なり。地領2000貫なり、6世の孫、子無きを以て、高嶋郡田中氏部の宗隆を養子とす。依りて文明3年(1471)氏を改め田中三佐衛門宗隆と称す」とある。
詳細不明の城で、京極氏の一族の高屋氏の居城とも伝わり、柏原や中世東海道(中山道)は監視出来そうだか?。北に800m程下った所に、出廓ある。

滋賀県中世城郭分布調査で高屋城の位置は、事前に把握してたので、
  
八講師城(八講師砦) を過ぎると
 
 高屋砦部の登り口 

                            写真の下シミは手袋が写っているようです。                                 
 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(旧坂田郡の城)
  本日の訪問ありがとうございす!!

来栖城 近江国(多賀)

2016年05月07日 | 

来栖城山麓館

 
お城のデータ
所在地:犬上郡多賀町栗栖  map:http://yahoo.jp/jjNaxw
現 状:山林
区 分:丘陵城
築城期:室町期
築城者:久徳左近兵衛・栗沢治右衛門・堀平左衛門の誰か?
遺 構:郭、基壇・石垣
標 高:170m   比高差:20m
目標地:調宮神社
駐車場:調宮神社の鳥居前に駐車
訪城日:2016.5.5
 
お城の概要
栗栖城(砦)は県道17号線沿いの栗栖集落内をながれる芹川を調宮神社へ渡り、桃原方面への五僧超えの山道へのに入る、集落の南側丘陵に位置する。
城域は東西100m×南北50m 高低差20mの雛壇状の平削地が5~6段あり、低土塁はあるが防御制は無い。五僧超えの関所的な役割を担っていたか?
西側の調宮神社の背後の山頂部に「栗栖城」が存在する。
 
お城の歴史
『淡海国木間攫』には、「犬上郡 来栖村 往古此所ニ久徳兵庫ト士居住スト云記ニ出ル、久徳左近兵衛ガ一族ナルベシ、古城跡今ニアリ」、又栗沢治右衛門、堀平左衛門等居住セリ云、是又古城跡今ニ有シト云、」と記す。
 
 
栗栖城(山上の見張り台
見張り台か?
・・登り口が分からず未訪だが。
 
久徳城跡の前を通り来栖へ
来栖集落の芹川を渡る
 
調宮神社
調宮神社の背後の山頂に来栖城が残存する。
調宮神社の境内の
獣害ヘンスから、来栖城(頂上)へ・・・登り道が分からない?
 
 
 
 
踏み跡を進むと【栗栖城山麓館へ】
山麓舘       石垣                

 調宮神社から【栗栖城山麓館】

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、『日本城郭大系』11。淡海国木間攫 
  本日の訪問ありがとうございす!!

須川山砦  近江国(山東)

2016年05月04日 | 

お城のデータ

所在地 : 米原市(旧・坂田郡山東町)須川 map:http://yahoo.jp/vcQgpq

現 状:山林

区 分: 砦

築城期:織豊期

築城者:遠藤喜右衛門

標 高:350m 比高差:175m(神社から)

遺 構:土塁、空堀、竪堀、虎口、

訪城日 :2016.5.4

目標地:須川の伊井冊神社

駐車場:伊井冊神社に駐車

お城の概要

 須川山砦の規模は、南北約70m、東西約50mとこんぱくと小規模であるが、遺構の残存状況は良く見応えがある。
遺構は、織豊期後期の縄張りで、単郭、主郭が東西約15~8m、南北約25mの台形状、周囲は分厚い土塁に囲う。

虎口は西面北隅と南面西隅の二ヶ所、内桝形虎口で曲郭内に入る、虎口の土塁は、喰い違いとし、脇の土塁は広く櫓台とし、横矢が利くようにしている。

 砦の東西面は急斜面で、南北面が尾根筋で緩斜面となるので、北端部では東面に二条、西面に三条の竪堀を穿ち、その内に分厚い土塁、横堀を構え、さらに主郭北面に櫓台を設け横堀に横矢を利かせている。

 横堀の中央付近から南へ櫓台の西面を通ると、主郭の西面北隅虎口へと通じている。横堀の西端からは、西面腰郭へと通じている。南面は、緩斜面の割に明瞭な防御施設が見当たらない。 須川山砦跡である(「滋賀県中世城郭分布調査報告書」より)。

 須川山砦は長比砦眼下の須川山の山頂にあり、尾根伝いで長比砦とは約300メートルの距離、須川山砦は須川城の詰城であり、遠藤喜右衛門が築いたと見られている。  

     須川山砦『作図:長谷川博美 滋賀県中世城郭分布調査報告書』より。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸士帳』には、坂田郡須川住 浅井随兵 遠藤主膳・遠藤加右衛門とある。

 

 遠藤氏は、近江小谷城主浅井氏の重臣で須川一帯を領し、小谷にも居館を構えていた。 戦国時代の元亀元年、城主遠藤直経は姉川の合戦で岩手城主竹中重治の弟重矩に討たれた。信長の心胆を寒からしめた豪勇・遠藤喜右衛門直経の居城。

 須川山砦は、近江と美濃の国境近く東山道や北国脇往還を扼する位置にある。

織田信長の江北侵攻に備え、浅井氏が敷いた国境防御ラインである南方の長比城、北方の刈安尾城の間、長比城の尾根伝い北西300mに築かれた。この配置から長比城と共に国境守備の砦として機能したもの。

       

神社に駐車、 道の先にある獣除けフェンスの扉を入り、やや左方向に砂防堰堤のある大きな谷筋を少し奥に入ると右手に小さな谷が合流して来る。その2本目の谷筋に入り、南方向に尾根に向かって登る。尾根筋に到達すれば(幅広の分厚い白いテープが多数取り付けられている。が、帰りは見えない?)、今度は東(左手)に尾根筋登るがこれがかなり急斜で100m位登ると頂部に出る。

頂部が物見櫓か? 左手50m程進むと虎口で砦に到着である。

                          

須川山砦に到着 

                                


伊井神社の南の官生寺院跡

 

 

須川山城~須川山砦(遠景)県道551号沿いの石碑(遠藤直経のゆかりの地)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(旧坂田郡城)

本日の訪問ありがとうございす!!