城郭探訪

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山上藩(やまかみ)近江国(永源寺) 藩庁は山上陣屋。

2013年12月28日 | 陣屋

山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。

山上藩・陣庁=紅葉橋西詰

山上は近江と伊勢国を結ぶ『八風街道』の要衝地帯であった。豊臣氏時代には杉原家次や浅野長政、織田信高らが領していた。

徳川氏の時代に入ると元和5年(1619年)10月21日に譜代の家臣である高崎藩主安藤重信の領地となった。元禄8年(1695年)5月1日、安藤重博が老中に栄進したため備中松山藩に移封され、ここに山上は天領となった。

元禄11年(1698年)3月7日、若年寄であった稲垣重定が常陸国から移封されたため、山上藩が立藩した。所領石高は1万3000石であった。重定の時代に奉行制度などの藩政が確立したが、第3代藩主・稲垣定享の時代には江戸の大火で上下両屋敷が焼失して出費が相次いだため、定享は質素倹約や新田開発を主とした藩政改革を断行したが、効果が見込めず、また定享自身が若死にしたため、失敗に終わった。その後は天明の大飢饉による寒冷で凶作・飢饉が相次いで藩財政は窮乏していった。また、歴代藩主の多くが若年寄や大坂加番、大番頭や奏者番などの要職を歴任したことも、かえって藩財政の出費を著しいものとする遠因となった。

幕末期、第8代藩主の稲垣太清は大番頭や大坂定番、海軍奉行などの要職を歴任して佐幕派の立場を貫いた。

幕末の領地

 近江国

    • 野洲郡のうち - 5村(うち1村を大津県に編入)
    • 甲賀郡のうち - 9村
    • 蒲生郡のうち - 4村
    • 神崎郡のうち - 8村
    • 坂田郡のうち - 1村
    • 浅井郡のうち - 1村(朝日山藩に編入)

 

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


里根山城 近江国(彦根)

2013年12月24日 | 戦国山城

里根山城

所在地:彦根市里根町 マップ:http://yahoo.jp/94WPIn

区 分:山城

 信長公記:里根山には水野信元が布陣した

遺 構:不明

現 状:山林・ゴルフ場(彦根カントリー)

天寧寺の裏山あたりが城跡

 

 歴 史

信長の佐和山城攻囲網

里根山城は佐和山城の南に位置する山城だったようだが、その歴史についてはよくわからない。

 元亀元年(1570)に織田信長は浅井長政の重臣磯野員昌が籠る佐和山城を攻囲しているが、そのときに織田勢は佐和山城を四方から囲むように陣城を構えている。

 北の山に市橋長利、西の彦根山に河尻秀隆、東の百々屋敷に丹羽長秀、そして南の山には水野信元が布陣した。このうち信元の本陣となった南の山が里根山城。南の山を平田山城とする考察もあるようだが、他の陣城と比較してやや距離が離れているので信元の本陣は里根山城と考える

 

 元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井の重臣・磯野員昌が佐和山城に籠城した際に、信長が佐和山城に対して築いた四つの付城のひとつで、東の付城とされる。

  ---------以下、信長公記の抜粋--------
夫れより佐和山の城、磯野丹波守楯籠り、相拘え候へき。直ちに信長公、七月朔日、佐和山へ御馬を寄せられ、取り詰め、鹿垣結はせられ、東百々屋敷御取手仰せつけらる。丹羽五郎左衛門置かれ、北の山に市橋九郎右衛門、南の山(里根山)に水野下野、西彦根山に河尻与兵衛、四方より取り詰めさせ、諸口の通行をとめ、同七月六日、御馬廻ばかり召し列れられ、御上洛。
  ------------------------------------

現 状
 彦根駅の東に彦根カントリークラブがあるが、里根山城はこの丘陵上にあったようだ。所在地でいうと里根町なので、ゴルフ場の南西にある天寧寺の裏山あたりが城跡。滋賀県は城館の調査をかなり熱心に行っているが、里根山城の遺構はないようだ。

≪参考≫
日本城郭大系/新人物往来社
佐和山城/彦根市教育委員会

 

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探訪【近江水の宝】大宮人船待ちの里をゆく-唐崎神社-

2013年12月24日 | 探訪「近江水の宝」

「唐崎の夜雨(からさきのやう)」は近江八景のひとつです。笠のように、大きく枝を広げた「唐崎の松」、夜間この松に降りそそぐ雨の情景が主題となっています。「唐崎の松」は唐崎神社のご神木であり、明治初期の由緒書によると、現在の松(昭和4年・1929年植樹)の先代は高さ27 m、幹廻り11 m、枝東西72 m、南北86 mという巨木であった
ことがわかります。

唐崎は、ふるく大津宮(667年~671年)のシンボルともいうべき景勝の地であり、柿本人麻呂は「楽浪(さざなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(万葉集)」と歌い、815年(弘仁6年)嵯峨天皇は当地で船遊びに興じています。平安時代には七瀬之祓(ひちせのはらい)の一所に定められ、朝廷の夏越の祓をはじめ、国家の大事にあたっての祓がおこなわれました。現在も毎年7月28日・29日におこなわれる唐崎神社の「みたらし祭」は、この唐崎祓所の伝統を受け継ぐとされています。

今回の探訪では、唐崎学区文化協会のみなさんや県の文化財専門職員が同行案内し、唐崎神社を中心に唐崎一帯を詳しく訪ねます。

チラシ(PDF:643KB)

JR唐崎駅→唐崎神社→白髭神社道標→メリノールガーデン→穴太廃寺→穴太地蔵・足利義晴供養塔→高穴穂神社→宝光寺→盛安寺→穴太野添古墳群→伝仲哀天皇産湯の泉→(京阪穴太駅)→JR唐崎駅


○近江戦国探訪「八幡山城下町と朝鮮人街道」  近江国(近江八幡)

2013年12月22日 | 探訪「大地の遺産」

○近江戦国探訪「八幡山城下町と朝鮮人街道」

八幡山城は羽柴秀吉の甥で後に養子となった羽柴秀次の居城です。安土城にかわる近江の拠点城郭として、豊臣時代の到来を象徴する城です。また、八幡堀の南に築かれた城下町は、八幡山廃城後も栄え続け、近江商人の一つである八幡商人発祥の地として知られています。

朝鮮人街道は、織田信長が整備した下街道を前身とする街道で、江戸時代、朝鮮から江戸の将軍に派遣された使節(朝鮮通信使)が通ったことからこの名が付きました。秀次は、八幡山城下町を建設した際、町の南を通る朝鮮人街道を城下町を通るように付け替えました。八幡山城下町(江戸時代には八幡町)は、八幡堀と朝鮮人街道という水陸の主要な交通路を取り込んだことによって大きく発展したのです。

今回の探訪では、旧八幡山城下町を通る朝鮮人街道沿いの史跡を訪ねます。

全体ルート図はこちら

1.日時 平成25年(2013年)12月21日(土) 13時10分~16時30分
      A班13:10~16:00 B班13:40~16:30
     あきんどの里公園(近江八幡市小幡町)集合 
      ※JR近江八幡駅で近江バス長命寺行きに乗り小幡町資料館前バス停下車すぐ
      ※近江バス近江八幡駅発車時刻→小幡町資料館前到着時刻 近江鉄道バス時刻表
        12:40→12:45 13:00→13:05 13:25→13:30
      ※自家用車でお越しの場合、市営小幡観光駐車場(あきんどの里公園すぐ)
       もしくは市営多賀観光駐車場(あきんどの里公園まで徒歩約20 分)をご利用ください。
       いずれも有料(普通車1 日500 円)。駐車場についてはこちら
      ※あきんどの里(近江八幡市多賀町)とは異なります。お間違えの無いようご注意ください。

     近江八幡市立資料館前(近江八幡市新町3丁目)解散
      ※近江鉄道バス小幡町資料館前・新町バス停すぐ

2.行程
あきんどの里公園→朝鮮人街道(背割水路)→池田町洋風住宅街(ヴォーリズ建築群)→本願寺八幡別院→西元町(朝鮮人街道西の見付)旧中川煉瓦製造所縄縫工場→八幡山城伝羽柴秀次館跡→八幡堀新町浜→日牟礼八幡宮→永原町の町並→鍵之手町(朝鮮人街道東の見付)→八幡山城下町遺跡出土竹管展示見学(八幡コミュニティセンター)→新町の町並→近江八幡市立資料館前
全行程約5km(市街地平坦道)
※建物の見学は外観のみです。

 

  本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


植城 近江国(水口) 

2013年12月22日 | 平城

 

植公民館前に駐車可

 

所在地:滋賀県甲賀市水口町植字城ノ内 マップ:http://yahoo.jp/kP5zyq

別 名:つぼね屋敷

遺 構:曲輪、土塁、空堀

区 分:平城

築城者:山中氏の一族丹波守為俊が築城したとも

築城期:

放上日:2013.2.20

 植城は、吉川神社・唯称寺から植地区の集落全域が城域とした城で、発掘調査の結果によれば『一辺約255mと約350mの長方形で、山中氏の居館よりも遙かに大規模な城であった。』

 植城は、12もの方形の曲輪が集まって一つの城を構成している複郭式(群郭式)の縄張りで、その曲輪それぞれを土塁と堀が囲繞していた。

 現在は、空堀は集落内の道路となっていて、お局屋敷(吉川神社境内西側)に土塁が残り、また、吉川神社本殿背後から唯称寺境内の竹藪一帯には空堀と土塁の遺構が良く残っていた。 ただ、唯称寺南側の方形の曲輪は駐車場となって北と東側の土塁は消滅していた。

 植城は、築城年代や築城者など定かでない。 資料に拠れば、柏木三方中惣を組織した山中氏の一族丹波守為俊が築城したとも、また天文年間に山中大和守の生母が居住し、里人が「つぼね屋敷」と称されているとあり、山中氏と関連が深い城と云える。   植城遠望

本日も訪問、ありがとうございました。


北脇城 近江国(水口)

2013年12月22日 | 丘陵城

『滋賀県中世城郭分布調査 2』1984.3 「北脇城」

北脇城縄張り

現状

・山上郭(物見櫓?狼煙台)跡は、水口第2テクノパークとなり工場(TOTO、大和工商リースなどの企業)の敷地

 (山上からの街道の見張りの大役を、担っていたのでは?)

・本郭部は竹藪で、遺構は残っているが整備されていないため明確に確認出来ない、用水路が東西に走り一部土塁・郭の識別は出来る。

お城のデータ

所在地:甲賀市水口町北脇 map:http://yahoo.jp/YgHn_w

現 状:竹林

築城期:

築城者:

城 主:

区 分:平城

遺 構:土塁・堀

城 域:100m×200m~300m

訪城日:2013.12.20

お城の概要 

北脇地区の北側に広い範囲に竹藪がある。この竹藪の中に北脇城の遺構が残る。

 国道1号線の里北脇の信号の北側の集落の途切れる辺りから竹藪に入る。用水路に沿って歩くと遺構にたどり着ける。

 遺構は用水路で分断されており、北側はTOTO、大和工商リースなどの企業の敷地となってフェンスが張られている。フェンスより20mほど北側には、堀幅2~3m、深さ2~3mほどの堀が東西に一直線に延びている。
 更に東に歩くと、空堀・塁・方形の曲輪が次々に確認できる。城域はとにかく広大で、東西200~300mはありそうである。
 城と云うよりも屋敷跡といったいうべきか。

こうした遺構は、近江は多くコアな城郭遺構をして、大切に整備保存を願いたい。

歴 史

北脇城は、築城年代や築城者など詳細不明。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、 甲賀の城  

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柏木神社遺構 近江国(甲賀・水口)

2013年12月21日 | 遺蹟

 

柏木神社境内と北東側に空堀と土塁の遺構がある。

歴史

 山中氏はもと鈴鹿峠に近い山中村の地頭で、鈴鹿山越え警護役も務めるご家人であった。

後にその一家が、神宮領柏木御廚内のこの地に移り、戦国期には有力な国人に成長、甲賀郡中惣の中核をなしたが、天正13年(1585)豊臣秀吉によって改易された。

 遺跡は江戸時代甲賀古士の由緒によって許された屋敷跡と伝えられるが、戦国期に山中氏が築いた居館の一部とも考えられる。  

                                                           水口町教育委員会 (現地案内板より)

 

旧東海道の水口宿の西・・・美福久酒造本社の北側に一の鳥居!

由緒

当神社創は、白鳳元年(673)に、日吉宮と称して大己貴命をお祀りしていた。

建久年間(1190)源頼朝が、鎌倉の鶴が岡八幡宮の御分霊を合祀して多くの神田を寄付した。以後社名を若宮八幡宮と称し、柏木荘十六か村の鎮守のお社として栄えた。
天正8年(1580)織田信長の軍勢が当地を攻めた時、桜門は安土の宗玄寺に移築され、宝物・古文書等は焼失した。

寛永9年(1633)に水口城が築かれた際に、城主が当社を守護神として崇め、以後、歴代城主の祈願所になった。
承応4年(1655)に水口城代の山口但馬守は本殿・桜門を修復し、石灯籠・手水鉢を寄進した。
明治4年、社名を柏木神社と改めた。昭和20年、県社に昇格する。この社は五穀豊穣・病気平癒・除厄・交通安全などの祈願が多い。

柏木神社

祭神 大己貴命(大国主命)
配祭神 誉田別命(応神天皇)・川島皇子
祭典日 例祭 4月20日
八幡祭 9月14日・15日
本殿 木造・桧皮葺・流れ造り・三間社

【延喜式神名帳】石部鹿塩上神社 近江国 甲賀郡鎮座

   【現社名】柏木神社
   【住所】滋賀県甲賀市水口町北脇189  マップ:http://yahoo.jp/hQoXKE
   【祭神】大己貴命 (配祀)誉田別命
   【例祭】4月20日 例大祭
   【由緒】白鳳元年(673)創建
   【関係氏族】 源頼朝、織田信長、水口城代の山口但馬守   

   【祭祀】江戸時代は「若宮八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所・門・手水舎・庫

   【境内社】日枝神社

本日も訪問、ありがとうございました。

 




鈎陣所(鈎陣屋・真宝館・永正寺館)  近江国(栗東)

2013年12月16日 | 陣屋

お城のデータ

所在地:栗東市下鈎町  map:http://yahoo.jp/Z_5iS4

別 称:鈎陣屋・真宝館・永正寺館

区分:陣所

現状:寺院

築城期:室町期

築城者:足利義尚

遺 構:土塁・堀跡・現地説明板

目標地:永正寺

駐車場:永正寺に駐車

訪城日:2013.1.28

 

お城の概要

室町幕府第九代将軍足利義尚が構えた陣所。 六角氏を追って鈎の山徒真宝坊の居館だった真宝館に陣を敷いた。現在の永正寺の地にあった。

 この「鈎の陣」の石碑は、永正寺ではなく上鈎池西側の公園にあります。

 鈎陣所跡には、現在永正寺が建っています。寺の周囲には土塁と堀跡が残っており、広さからみて主郭であると思われます。鈎陣所は、複数の曲輪をもった、およそ120間四方のほとんど城郭といってよい規模を有していたとされています。
ただ、これら土塁の痕跡と小さな説明版。京都の外で将軍が没した重要な史跡である。

お城の歴史

長享元年(1487)、将軍足利義尚は、領地の横領を繰り返し幕府への反抗姿勢をとり続けていた六角高頼を討伐するため、近江に親征し鈎に陣を構えた(鈎の陣)。これに対し高頼は、居城観音寺城を放棄し甲賀へ逃れた。高頼は、甲賀山中でゲリラ戦を展開し、義尚軍は高頼勢を攻めきれず膠着状態となった。
義尚はそのまま鈎に長期間とどまることになり、鈎陣所はさながら仮の御所として機能した。京より公家が訪れ、陣中で歌会なども催されたが、同時に義尚は酒色に耽るようになった。そして、鈎着陣から約1年半後の長享三年(1489)三月に、鈎陣中で25歳の若さで病没した。なお鈎在陣中の同二年(1488)、義尚は名を義煕と改めている。

現地には今も土塁の痕跡が残されています。

一時義尚が陣を置いた場所については、史料には「真宝館」と書かれており、現在の永正寺(栗東市上鈎)付近に比定されています。

また周囲には「寺内」の地名が残り、真宗寺内町との関連も指摘されています。

 

  

現地には今も堀の痕跡が残されている。

長享・延徳の乱とは、室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1491)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗田郡 鈎(まがり)(現:栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。

  1467年から10年続いた「応仁・文明の乱」の争乱の最中、諸国では国人や地侍といった層が室町幕府の近習・奉公衆や公家・寺社の荘園を押領し、近江国でも守護の六角高頼みずからが荘園を押領することによって勢力を拡大していた。正確には、六角氏は近江国内の国人・地侍に荘園を押領させることによって彼等を六角家臣団として取り込もうとしたのである。応仁の乱がどうやらおさまると、幕府はそれらの押領地の奪回をはかることになる。近江に領地を持つ奉公衆(幕府の直轄軍)は46人いたが、その中には六角に領地をとられたせいで餓死する者もいたという。

 長享元(1487)年9月12日、第9代将軍足利義尚が自ら六角討伐の軍勢を率いて京を出陣した。兵力は391騎8000人、赤地金襴に桐唐草の模様の直垂、重藤の弓、吉光の太刀……と、美々しく着飾った義尚を一目見ようと見物人が群れ集まった。幕府軍は一旦は琵琶湖の西岸の坂本に入って諸大名の軍勢の合流を待つ。参陣する大名は細川・斯波・畠山・山名・一色・冨樫・京極・武田といった面々である。まず細川勢が琵琶湖を渡って山田・志那(草津市西部)に上陸、別軍が琵琶湖の南の瀬田を経由して六角の本拠湖東を目指す。六角方は去る9月11日には南近江の各地にて布陣を終えていた。幕府軍は24日には八幡山・金剛寺を攻めるが六角方は退却、野洲河原で合戦が起こったが大したものではなく、六角高頼も本拠の観音寺城を出て甲賀郡に退却した。高頼本人は赦免の道を探っていたが、せっかく押領した土地を手放すつもりのない家臣団は交戦の構えを崩さなかった。

 将軍義尚は10月4日に坂本から琵琶湖を渡って栗太郡の鈎(まがり)の安養寺に陣を構えた。ここは甲賀郡の入り口近くである。諸大名の軍勢も現在の栗東・草津・守山その他の地域に分散して布陣する。この戦役を「鈎の陣」と呼ぶ。義尚が父の義政に歌をおくる。「坂本の浜路を出て浪安く養ふ寺にありと答へよ」。義政の返歌は「やかてはや国収りて民安く養ふ寺を立ちぞ帰らん」。

 まず浦上則宗の軍勢が甲賀郡に侵入するが六角高頼はやはり正面切った抵抗をせずに姿をくらました。義尚は27日には手狭な安養寺から少し北東にある上鈎の真宝館に移動した。12月2日夜、六角に加担する甲賀衆が義尚の陣所に夜襲をかけた。いわゆる「甲賀忍者」が有名になるのはこの時からである。「鈎の陣」に参加した甲賀武士は53家、特に活躍したのが21家あったというが定かでない。この前後に幕府方大名の陣地で火事が続発し、それらも甲賀忍者の仕業であるという。具体的には閏11月に伊勢貞誠の陣で、12月に織田広近の陣で、翌年5月浦上則宗の陣で出火している。

 六角高頼の行方を掴めない幕府軍は持久戦の態勢に入ったが、将軍義尚はかなり立派なつくりの陣所「大樹御所」に籠り、京からかわるがわるやってくる公家や僧侶と和歌や連歌や蹴鞠や学問に耽る生活を送るようになる。長享2(1488)年の8月に義尚が内大臣の位をもらった時には大勢の公家が参賀にやってきた。ちなみに義尚の父の義政はこのころ東山山荘の庭づくりに夢中である。

 しかし政治的には義尚は六角が押領していた寺社や公家の荘園を側近に与えて反発を招き、長引く滞陣のため幕府軍全体の志気も衰えた。結城兄弟や二階堂政行といった側近は義尚を遊興に耽らせることによって実権を握り、周囲に滞陣する大名の部将の中には六角側に内通する者もいた。実は幕府第一の実力者である細川政元その人が六角と密かに連絡をとっており、これは将軍義尚の権勢があまり拡大しないようにするための策略であった。そして、将軍の陣所から1里か2里のところに六角方の軍勢がいたにもかかわらず、側近に騙された義尚はそのことを全く知らない有り様であった。

 長享2(1488)年秋、義尚は病に倒れた(少し前に「義煕」に改名)。しばらく前に側近の二階堂政行を通じて陰陽博士から「六十人の刀鍛冶に六十本の刀を打たせれば敵を誅滅出来る」との話を聞き、陣中にて打たせていた六十本の刀が完成した翌日であったという。母の日野富子が看病に駆けつけ、一旦回復したので(富子は)京に戻ったが、翌年3月16日に重態に陥り、26日にわずか25歳の若さで陣没した。最後は水と酒しか受け付けなかったという。甲賀忍者に刺殺されたとの俗説もある。

 諸大名の軍勢も近江から退却した。六角高頼は押領した荘園を返還することで幕府と和睦しようとしたが、家臣の反対によって果たせず、延徳3(1491)年には再び幕府軍の討伐を受けることとなる。今回も将軍みずからの出陣であるが、第10代将軍義材本人はあまり近江の奥には入らず京にほど近い園城寺(三井寺)に本陣を置き、今回は六角の将を謀殺したり戦闘で300人ほど討取る等の戦果を挙げた。またしても甲賀郡に逃れた六角高頼を捕えることは出来なかったものの、それなりの成果をあげたと判断した義材は京に凱旋するが、明応2(1493)年には細川政元のクーデターにあって失脚した。それまで潜伏していた六角高頼が勢いを取り戻す。幕府は再々度の討伐軍を派遣するも撃退され、その後二度と近江に侵入することが出来なくなったのである。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア

本日も訪問、ありがとうございました。


【冬本番、城本番、すわ佐和山冬の陣】 近江国(彦根)

2013年12月16日 | 戦国山城

 磯野丹波守と佐和山城現地見学会
日 時 20131215(日)
場 所 彦根市古沢町龍澤寺様前駐車場 午前10時~

 法華丸、太鼓丸、本丸、西之丸、鐘之丸二之丸、三之丸、美濃殿丸、大手門

講師 城郭研究家    長谷川博美

携帯080-5307-3651 Eメールwwmy29831@maia.eonet.ne.jp

【冬本番、城本番、すわ佐和山冬の陣】 

見学の特徴、近年最高の見学コンデイション、講師も長谷川氏本人が登場。

     佐和山城千畳敷、鐘之丸の桝形筋違虎口や腰郭が切り開かれて見事に見える。  

  「佐和山城天守の行方」の長谷川氏本人が本丸天守台附櫓基壇を詳細解説。

城道「城内経路」しらみ坂「佐和山城登城路」ー佐和山搦め手掘―法華丸―太鼓丸―千畳敷―本丸―西之丸ー人質郭―二ノ丸―三之丸―美濃殿丸―大手門口を見学

  丹波守は『信長公記』に浅井時代既に信長に従軍し犬上衆を率いて伊勢路に向った。一流武闘派武将、元亀元年、信長本陣の強襲、磯野員昌「姉川十段崩し」は有名な伝説とされるが、浅井時代既に信長に従い伊勢路に出陣した事実は一級文献『信長公記』に記録されている。貴方は本当に磯野山城本丸を真剣に見学しましたか?その見学会が佐和山城本丸見学の序章予備知識修得であつた事を貴方は事前に察知しました

 

大手門(土塁と内堀)

 

浅井三代記

磯野丹波守佐和山城を開退事

斯而丹羽五郎左衛門尉、内縁を以信長卿の仰の通を城中へ申入けれ共、丹波守も先同心せざりける。され共、此事度々におよべば、員正が口も少やはらかにぞ成にける。かゝりける處に、信長卿、元亀二年二月中旬に、其勢二万余騎を引率し、佐和山面へ発向し、佐和山の城を幾重ともなく取巻たまひ責させたまふ。磯野元来剛の者なれば、敵近付ば切払ひ、勇気をはげましければ、たやすく可レ落とも見ざりける。丹波守員正たび/\小谷へ後巻をこひけれど、終に其沙汰あらざれば、防ぐ兵も勇気いよいよおとろえければ、丹波はよき時分と心得て、員正が方へ申遣しけるは、今度信長卿へ忠節したまはゞ、ゆく末迄も可レ然候はん。同心あれと申越、員正心に思ふやう、兎角當城を開渡、小谷へつほみ、味方の雌雄を可2見届1とおもひ、丹羽に返事申けるは、此方よりもたしか成。人質を指上べし。信長卿よりも慥なる人質たまはるにおいては、當城をあけ渡すべしと申越ければ、丹羽大によろこび、信長卿へ此旨申上れば、信長卿不レ斜おぼしめし、さあらば人質を可レ遣とて織田おきくを被レ遣ければ、員正は男子壹人も持ざれば、女子一人を指上、佐和山をあけ渡し、小谷をさして来りけるが、長政内々磯野二心有よし聞たまひ、磯野が人質老母を張付にかけ、丁野山にさらし置、小谷の内へ入ざれば、己が知行處西近江高島郡へ引退きける。此時取置たる人質おきく殿すぐに養子に信長卿より申請たりける。後織田七兵衛殿と申せしは、此人質なり。斯而木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門両人として江北中大名小名によらず、町人郷人によらず、まいないをし引出物などをいたし、侍には信長より本領安堵の御教書を取つかはしければ、国中の者共なびかぬものはなかりける。

 爰に米原太尾の城には中島宗左衛門尉楯籠りしが、磯野佐和山をあけのけば、己も太尾を開退き、小谷をさしてひきこもる佐和山より一里計西、浅妻といふ所に、新庄駿河守二百五十餘騎にて楯籠りしが、小谷へ注進申けるは、佐和山城磯野は信長卿へ開渡しければ、當城無勢にてかゝはりがたし。加勢を可レ被レ下と申越、其儘降人と成、信長卿の人数を引入る。斯而信長卿は近江へ至り、其間七八日の間二三不所の城、手に入れば當春の首途よしとて、佐和山の城には丹羽五郎左衛門に近辺五万貫の所領を相そへ、同廿六日に岐阜に帰城したまひける。其後沙汰して申けるは、今度は磯野を味方に可引入、ために発向したまひぬると聞えける。惣じて時日をうつす其間に、浅井が人持悉くみかたに引入べきとの手立とぞ聞えし。

 

本日も訪問、ありがとうございました。


木村城 近江国(野洲)

2013年12月15日 | 平城

 

所在地:野洲市北村 マップ:http://yahoo.jp/1JK5zM

別 名:北村城

初城主:木村重興

区 分 :平城

遺 構 :堀、土塁、門

訪城日:2013.12.14

駐 車:八幡神社の参道に!

北村城の表門

門前の堀

門前の堀

お城の概要

北村城は野洲市北村地区の住宅地が切れ、農耕地が広がる境目に位置しており、現在でも末裔当主、木村氏夫婦がお住まいである。

 屋敷は鬱蒼とした林が目印となって、遠目からでも通常の住居とは違うことがわかる。

 外堀は埋められて消失しているが、内堀は現存しており館の四方を固めている。また、屋敷内には土塁が良好な状態で残されている。

 木村宅の表門は造られて約450年経過するが、当時のままの状態で残されている。

500年近く経過した今なお、代々の屋敷が継承されており、脈々たる近江源氏の歴史を実感した。


 邸内の稲荷社付近から邸内奥の竹藪の中には見事に土塁が残り、また周囲には堀も残っていた。 木村邸の長屋門は、築450年の建物とか。

 当主に拠れば、昔は城の廻りには家臣の屋敷が建ち、更にその外側には堀が廻らされていた。

北村城の築城年代は定かではないが、六角氏の家臣木村氏代々の居城。六角氏滅亡後この地に居を構えた。


 滋賀県内で、北村城のように現在も住居として中世城館が残っているのは、小山館(木之本町)、井上館(竜王町)、桜生城(野洲市小篠原)などがあるが、いつまでも現状のまま残してほしいものである。

歴 史

 戦国時代の野洲は、永原氏と木村氏が勢力を誇っていた。

佐々木盛綱の三男 木村三郎俊綱を初代とする木村氏十三代 重興でる。

伊予守重春までは、蒲生郡豊浦(安土)に居館を構えていたが、重興の代になり豊浦から、江部庄北村に居館を移した。

重興は、甲賀・中山左衛門佐の娘を母として生まれ、佐々木義賢(丞禎)の重臣平居定武・三雲成持・三上恒安や楢崎・池田・新村氏らと交流が深く、嫡子 木村筑後守重在は佐々木義治に仕え、義治と浅井氏の和睦に労をとった。また息女カメは永原重隆の妻で、その子は外祖父と同名の永原越前守重興である。木村重興の二男重久・四男成清は六角義治に従い、九里(蒲生)。野洲川表で戦死。

三男影秀は鉄曳と号し、浄土・日蓮両宗の法論が安土行われた時の判者、南禅寺の長老鉄曳影秀である。

木村氏の所領は湖西志賀郡、湖北米原・磯・湖東・湖南の各地に散在していた。

参考資料:野洲町史

本日も訪問、ありがとうございました。


市三宅城 近江国(野洲)

2013年12月15日 | 平城

お城のデータ

所在地:野洲市市三宅 (旧:野洲郡野洲町市三宅) map:http://yahoo.jp/4pOI6V

区 分:平城

現況:畑地・宅地・雑木林

遺構等:堀・土塁

築城期:戦国期

築城者:永原氏

城 主:永原出雲守孝房

目標地:安楽寺、市三宅集会所

訪城日:2013.12.14

お城の概要

市三宅の集落の中心に残る館跡。城跡を取り囲むように住宅が建っていて、城跡へは公民館前の路地道程度の道を通り、個人宅の庭先を通って入ります。一部北側に土塁(竹林)が残ります。

歴 史

永原氏の支城で、永原出雲守孝房が居城したと伝えられます。織田氏の侵攻で落城したと伝えられます。

 

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城 

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


賤ヶ岳城 近江国(木之本)

2013年12月13日 | 戦国山城

 仮称西山砦~尾根道を賤ヶ岳城へ

歴 史

『信長公記』の「刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事」の条

・・・・この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。・・・云々賤ヶ岳トンネルの真上!

遠望(虎御前砦、大嶽城・小谷城・・・

 

賤ヶ岳城域~

お城の概要

 山頂部に三つの郭があり、中央の郭が主郭で、西側は分厚い土塁を設けて、西郭を区画している。
西郭は、四方に土塁が廻る郭で、土塁も分厚く、裾の切岸も明瞭である。主郭と直接に連絡する虎口はなく、側面の帯郭に出て、主郭に連絡していたと考えられる。
主郭の東にも郭があったが、現状は主郭とほぼ地続きになっている。その地続きの中央付近に堀切端部と竪堀が残っており、主郭と東郭は堀切で隔てられていたと思われる。
東郭の東端には、高低差のある外枡形状虎口、虎口の脇に竪堀が数条伸ばされ、通路から斜面や犬走りへ回り込むことを防いでいる。
山頂から三方に伸びる尾根には堀切が設けられ、特に北西尾根の堀切は明瞭である。北東尾根と南西尾根の堀切は、通路を見下ろせる位置にあり、塹壕の機能が強かったと考えられている。
この賤ヶ岳は、観光地だけあって眺望が素晴らしい。しかし、よく観察すると城郭遺構も相当残っており、二度美味しい城跡だ。

主郭土塁

お城のデータ

別  名:賤ヶ岳砦

所在地 : 伊香郡木之本町大音、川並、余呉町川並 マップ:http://yahoo.jp/sOGku4

築城年 : 天正11年(1583)

形  式 : 山城

標 高:421.9m 比高差:285m

遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口、土橋、犬走り

訪城日 :2013.12.7

歴 史

近世初頭の湖北は、浅井氏の支配するところとなります。浅井家の領国は江北6郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛知)。

 戦国の世は、水を治めた領主が国を治めるといわれ、浅井氏は13本の川を治めたことになります。前述した「餅ノ井落し」の由来も、その一端を示すものです。

 浅井氏は鎌倉時代からこの地で力を持っていたらしいのですが、守護職であった京極氏の執権という地位から、京極家を倒して戦国大名としてのし上りました。京都と北陸・東国を結ぶ要衝の地を支配したことで、浅井氏は戦国勢力の主導権を握ることになります。

 『諸国廃城考』に【賤ヶ岳の城には、元亀元年(1570)に、東野左馬之助・西野壱岐守・千田采女・西山旦左衛門楯籠もる】とある。                         賤ヶ岳城は、浅井氏の持ち城であった。元亀元年(1570)に、東野左馬助・千田采女正・西山旦左衛門・西野太郎左衛門の浅井傘下の四将が在番。当初は4ヶ所の郭が存在した。

賤ヶ岳の古戦場

天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際に、羽柴秀吉軍の但馬竹田城主の桑山修理重晴が砦を築き、羽田長門守正親、浅野弥兵衛らとともに守備した。
羽柴軍陣城にあって田上山砦とともに中心的な役割を持っていた砦である。
柴田勝家軍の佐久間盛政による4月20日の中入り攻撃により、同じ尾根筋にあった大岩山砦の中川清秀が討ち死にし、岩崎山砦の高山右近が木之本の本陣に退却し、両砦は柴田軍に占拠された。
賤ヶ岳砦の桑山重晴も退こうとしたが、丹羽長秀の救援を得て盛政軍と対峙を続け、その日の夜半驚異的な早さで岐阜出陣から戻った羽柴軍主力が、翌朝から盛政軍を追撃し柴田軍を壊滅させた。

 七本槍で名高い賤ヶ岳の合戦(1583年)。秀吉と柴田勝家による、信長亡き後の後継者を決める戦いであり、関ケ原とも並び称せられる天下分け目の合戦でした。両軍の兵力は柴田4万・羽柴6万ともいわれ、死傷者は数知れず、余呉湖周辺の田畑は血で染まったとあります。

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の「川並村中伝書」の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

余呉湖犬走り

主郭下の犬走り。

土橋

飯ノ浦・塩津切通しへ

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の「川並村中伝書」の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

塩津浜

ロープウエイが冬眠中、いろは坂のようなハイキングコ―スを下山~

山上駅の横・・・下城口

雨で濡れ、枯葉・落ち葉、急勾配・・・獣道のような、滑落しないように!

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。


仮称西山砦 近江国(木之本)

2013年12月12日 | 

 新発見

新城発見!

 

所在地 : 伊香郡木之本町北布施 マップ:http://yahoo.jp/VuITFZ

築城年 : 不詳

形  式 : 山城

遺  構 : 土塁・堀切・堅堀・段築・曲輪1・2

訪城日 : 2013.12.7

仮称、西山砦(古墳と城郭の両面から今後の課題)北布施に位置し、布施氏山城(詰め城か?)

 ①主郭(平坦郭・円墳部)・・・段築・型掘り1条東側

 ②堀切・土橋

 ③副郭(方形平坦曲)

 

北布施集落の櫓門

布施氏は近江国伊香郡布施(滋賀県長浜市)をルーツとし、応神天皇の子の若野毛二俣王の子孫。

 布施二郎左衛門尉義里ハ地頭山合戦ニ米原坂ニテ討死ス子息小次郎・・・・浅井三代記

北布施集落伊香具神社

本日も訪問、ありがとうございました。


赤尾氏館  近江国(木之本)

2013年12月11日 | 館跡

お城のデータ 

所在地 : 伊香郡木之本町赤尾 マップ:http://yahoo.jp/2q4EkR

築城年 : 不詳

形  式 : 平城(居舘)・・・現状;個人宅

遺  構 : 土塁、横堀、池

訪城日 : 2013.12.7

土塁

 

赤尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 

赤尾氏(あかおし、あかおうじ)

家紋は四つ柏。本姓は源氏を称する(『赤尾家譜』より)。しかし、近江国伊香郡発祥の伊香氏、並びに正親町三条家(嵯峨家)の支族(姓氏類別大観)の系統にも名が見えその出自は定かではない。

古くより近江国伊香郡赤尾(現滋賀県長浜市木之本町赤尾)を本貫地とし、土豪・国人領主として赤尾の地を治めた。

近江国湖北四家(赤尾氏、雨森氏、磯野氏、井口氏)の一つとされ、戦国時代にあらわれた赤尾清綱はもっとも知られている。また、北近江の戦国大名浅井氏にあって、清綱は海北綱親、雨森清貞とあわせて海赤雨の三将と呼ばれた。

京極氏家臣時代

赤尾氏は代々近江国の守護大名京極氏譜代の家臣で、『江北記』には京極氏の「根本当方被官之事」として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野八郎・河瀬九郎・二階堂ら12氏のうちの一つとして記されている。 また後に家臣になったものとして「一乱初刻御被官参人衆」が文明二年(1470年)であることから、少なくともそれ以前より京極氏に仕えたものと考えられる。 京極氏の源流である佐々木氏(近江源氏)が、平安時代中期より近江にある事を考えると、かなり古くから京極氏に仕えたものと考える事が出来る。

浅井氏家臣時代

戦国大名浅井氏の台頭により京極氏が衰退すると、同じく京極氏根本被官であった浅井氏に従う。 『寛政重修諸家譜』には浅井亮政の生母に赤尾教政女(むすめ)とあり、『姓氏類別大観』では赤尾教政は 浅井亮政の兄とされている。 尚 『赤尾家譜』によると浅井氏庶流である浅井賢政の長子、教政(二男に亮政)が母方の赤尾新次郎の後を継いだと記されている。 戦国大名浅井氏内での赤尾氏の重要性を考えると、浅井氏と赤尾氏は何らかの血縁があったものかと思われる。

赤尾清綱は初め孫三郎、後に美作守と称す。諱を清綱とする。戦国大名浅井氏初代浅井亮政の頃から浅井家に仕  え、浅井家の宿老として浅井氏三代に仕えた。小谷城内の防衛の要所、本丸横下に赤尾屋敷と呼ばれる袖曲輪をもちそこに在番していた。通常、家臣は城下に屋敷を持ちそこを居館とするものだが、城内に自身名の付いた曲輪を任せられていた事をからも、浅井氏に於いて赤尾氏の重要性が窺われる。

信長公記(第六巻阿閉謀叛の事)では小谷城落城で、『浅井備前(長政)・赤生(赤尾)美作生害させ』の記述があり最後まで命運を共にしたことが窺える。 尚 清綱の子供らの命は、清綱のそれまでの働きと忠義に免じて織田信長直々に助命したといわれている。

浅井氏の滅亡により赤尾氏も本貫地の赤尾を追われ、新たな主家の地に移り住むようになる。

赤尾山城

堀跡(現在:用水路)

本日も訪問、ありがとうございました。


赤尾城・丸山城 近江国(木之本) 2013.12.07

2013年12月10日 | 平山城

 赤尾城

西徳寺(真宗大谷派)は、磯野氏の一族の者が文明5年、蓮如に帰依したことから始まるが、宝永6年に現在の地(龍泉寺跡)に移った。

旧地籍図では、現在の西徳寺の西南にある竹藪描かれ、一方、字堀内の西南に三方を竹藪で囲まれた宅地が表現されており、江戸時代を通じて地侍の屋敷であった伝えられている

字堀ノ内、西徳寺の門前

字「堀ノ内」・(滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡)220p)・・典型的な中世城館地名

赤尾城伝承地?・・・中世城館の構えに地勢は適さず、後方の山には、亥止め・馬止めの猪垣(土塁・石積・木棚)が残るが・・・江戸時代の猪穴・猪垣を設置(江戸時代中期・宝永年間から盛んに)・・・食用大型獣(猪・鹿)・農作物の食害防止。(講師の解説)

堀(現状:用水路)

所在地 : 伊香郡木之本町赤尾 マップ:http://yahoo.jp/2q4EkR

築城年 : 不詳

形  式 : 平山城

遺  構 : 土塁、横堀、池

訪城日 : 2013.12.7

 赤尾の丸山・・・赤尾館の見張り砦?

地名【丸山】・・・古墳・城郭に多い地名。

赤尾丸山砦は、典型的な円錐台形(プリン型)、後方に本格的な深い堀切や土橋が確認できる。

西徳寺

赤尾城小字丸山城や山麓居館は真宗教団の城郭や宗教施設の可能性。

赤尾小字丸山に関して、伊香郡誌の言う赤尾城近隣に、伝承が残っている。「赤尾城の西隣の念仏道場(西徳寺の前進)の磯野信受は後改名して「教善」当時五六歳とあり、赤尾に在住し本願寺顕如に呼応して、情報収集に当ったとされる。今後、真宗道場と「門徒の城」の研究分野の進捗の可能性が期待されるが問題も残る;

 寺伝、伝承縁起に注意すべき事は?また長谷川講師の調査見学の地域や意図がありますが真宗教団の伝承記録には門徒の殉教を強調としたものもあり注意が必要、南津田道場と南津田城の長谷川の発見、田畑多賀町会議員様支援による真宗佐目道場背後の山砦発見、多賀仏後道場の山砦発見、多賀後谷道場近辺の大城の発見、そして今回の赤尾道場の「丸山城」も真宗系道場の山砦の可能性もあろうか?、やはり驚くべき事は、多賀後谷に長浜榎木湖北十ヶ寺浄願寺の疎開を物語る「浄願寺淵」の地名がある事や、その南の山中に多賀「丸山城」が存在し既に見学している事に驚嘆せずにはおられない、そして更に驚くべき事は9世、実如上人が逗留された多賀後谷にも小字丸山があり、赤尾と同じ「猪垣」が存在する事である。これ等は偶然の一致ではすまされない、未知の歴史「真宗史が潜在」する事を物語っていると言えよう。湖北十ヶ寺の有力真宗寺院「称名寺」が天正10年秀吉の母と妻を案内避難保護して秀吉に見事、水谷から浅井郡尊勝寺の「称名寺」に還住を認められ木下姓が下賜されている、我々は秀吉の母と妻が暫し逗留したとされる、小津原にある治山城を既に見学している。この様な見学計画は田畑、長谷川党で、真宗の裏の歴史を検索し学ぶ為に、歳月と時間を掛け見学地を選定している事に充分留意願いたい「物見遊山」で無く用意周到な関連学習会を計画している事をお含み頂きたい。南津田道場の後身は今も南津田にのこる、これ等も南津田の皆さんと見学学習している。

 

切岸

堀切

土橋

木之本赤尾の丸山砦、(紅葉の下に)堀切・土橋~~更に登ると円墳が堀切・土橋も、中世の一時砦に使われたカ?

本日も訪問、ありがとうございました。